随筆 宮本武蔵

吉川英治







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昭和十四年・仲春
於草思堂
英治生
[#改丁]
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宮本武蔵

 
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――此表このへう、十四五日うち、世上物狂ものぐるひも、酒酔之しゆすゐのさめたるごとくに(後略)
 と見えたりしている。その後には「筑前ちくぜん覚悟を以てしづめ申す可」という文字なども見える。いかに戦士自身も緊張していたか、日本中の大動乱と前途の暗黒を意識していたかがわかる。
 けれど事実は、後世になってみると、それから関ヶ原のえきまでが、すでに戦国日本の奔波は絶頂をこえていたのであった。人心は暗かったが、大地は平和を芽ざしかけていた。
 それが、武蔵の生れた頃から青年期への時代であった。



 
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 西
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 便()



 以上、武蔵の生きていた時代を、その年齢に応じて、四期に分けてみるならば、
天正十二年から、慶長五年の関ヶ原の役までを――(彼の少年期に)
慶長五年から、元和元年の大坂陣までを――(彼の青年期に)
大坂落城の元和元年から、五十一歳小倉の小笠原家に逗留までの間を――(彼の壮年期に)
 
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 ()()()※(二の字点、1-2-22)()()西()()()()()
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我れ事に於て後悔せず
 と、書いているのは、彼がいかにかつては悔い、また、悔いては日々悔いを重ねて来たかを、ことばの裏に語っているし、また、
れんぼの道、思ひよる心なし
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「宮本武蔵、撃剣ヲ善クス。世ニイフ所ノ二刀流ノ祖ナリ。平安ノ東寺観智院ニソノ画有リ、山水人物、法ヲ海北カイホウ氏ニ習フ。気豪力沈」
 と、みえ、また「近世逸人画史」には、

 そのほか、本朝画纂だの、古今書画便覧だの、古画備考だのという画史の記載も、ほとんど、こんな程度のものである。
 ただ、これらの画史伝のうちにも、往々、その頃の怪しげな流布本の武蔵伝をそのまま踏襲して、武蔵を、肥後熊本の加藤主計頭かずえのかみの臣としたり、吉岡太郎左衛門の二男といったり、巌流島を仇討としていたり、記載のまちまちなのは実におかしい。これを見ても、武蔵伝というものは、江戸中期以前から、まったく、真実が伝えられていなかったという想像がつく。
 彼の経歴ばかりでなく、その画評や画歴についても、臆測のみで、一つも史的な確実さのあるものは見あたらない。「ソノ画風、長谷川派(等伯トウハク)ニ出ヅ」とあったり「海北友松ニ師事ス」と見えたり、「梁楷リヤウカイナラフ」とするのもあって、古来、そして今日までも、これにはまだ定説というものがないのである。
 ただここで、特に、一言を要するものは、「増訂古画備考」の著者が、
(――武蔵トハ、武蔵範高ノリタカトイフ者デ、剣客宮本武蔵ハ、絵ヲ描イテ居ナイ。所ガ、稀※(二の字点、1-2-22)、武蔵トイフ同称ノ為、誤ツテ、範高ノ絵ガ、剣客武蔵ノ筆ト誤伝サレテ来タモノデアラウ)
 
 
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 ()※(「田+宛」、第3水準1-88-43)
 
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直指人心
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われに師なし
 と、いっている。その通りなのかも知れない。五輪書の序文の一節、
兵法の理にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事に於てわれに師なし
 の流儀で、他の余技、書道も茶も放鷹ほうよう蹴鞠しゅうきくも彫刻も、やったものと思われる。だから彼の画はどこまで、彼の知性を単に紙墨へ点じてみたまでの即興であり余技であって、美術批評的な見方や詮索はすまじきものとも考えられるが、一応、彼の半面を伝えるためにも、彼の画についてまだ多くを聞かない人々のために、自分も寸説を述べてみることにする。

 いったい武蔵の画などというものは、特に見解を持っていた人のほかは、つい近年まで顧みられもしなかったものである。以前は、美術倶楽部の売立の中などにも、二天の画などという物が出ても、商売人は勿論、鑑賞者も、一顧もしなかった。
 それというのが、先にもいったとおり、二天という落款のある画は、あれは宮本武蔵のことではない。九州に同名の凡手の画家があったのだ。それが宮本武蔵と混同されて来たのだ。――という説が信じられていた先入主などもあったらしく、書画商などの間には、よくそういわれたものだった。
 その間違いは、先に記した「本朝画纂がさん」の記事などから起っている。
宮本武蔵範高、小倉人、有武略、善剣法、傍通絵事
 武蔵が範高などと名乗ったことはない。ついでに、彼の姓名や別号についていうならば、
幼名は 弁之助べんのすけ。また、武蔵たけぞう
姓名は 宮本氏(地名ヨリ)
    新免氏(父無二斎ノ旧主ヨリ許サレタルモノ)
落款には 二天、または二天道楽
     印章のみの場合
     武蔵筆、と書く場合
 折々に違っているが、また書などにはいかめしく、新免武蔵しんめんむさし政名まさな藤原玄信ふじわらのもとのぶ、と書いたりしているものもある。
 新免という姓は、晩年まで用いてはいたらしいが、その旧主から拝領の姓として重んじていたらしく、平常は宮本を通称としていた。そして名乗も、武蔵政名とよんだこともあり、氏も自身藤原とは書いているが、菅原氏すがわらしだという説もある。これは彼の家紋が「梅鉢」であった所から附会して後人がいったものであろう。
 いずれにしろ「本朝画纂」の範高はどうかしている。そんな間違いから一部に、二天別人説も出たのかもしれない。
 事のついでに、もう一言いえば、総じて、よく古画論評の引証としてつかわれる、江戸時代の画家評論家の筆になる画史評伝という類の書物ほど、あぶなっかしいものはない。田能村竹田たのむらちくでんの「山中人饒舌さんちゅうじんじょうぜつ」とか、渡辺崋山の著書とか、竹洞ちくとうの「金剛杵こんごうしょ」とかいうあたりのものは、さすがと思われるが、前の本朝画纂を始め、ひどい出鱈目でたらめが、いかにも多い。
「近世逸人画史」
宮本武蔵、肥前小笠原侯の臣、剣名最も高し。絵事の事はたえて人知らず。その画風長谷川家に出づ
 あたりはまだいい。肥前小笠原侯の臣はおかしいが、そうとがむべき誤りでもあるまい。
 だが、「本朝古今書画便覧」の、

 などは、あまり無茶もすぎる記事である。たいがいこの筆法で、画の筆者の輪廓りんかくさえ過っているのが殆どである。――にも関わらず、武蔵の画については、
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 とにかく何とかかんとか断じているのはおそろしい。それをまた、そのまま受取って帝室博物館編纂の「稿本日本美術略史」までが、
――武蔵画を好み、海北友松に学び、或は牧谿を模倣し、道釈人物花鳥を能くす。
 などと書いているのは、その方面にはまるで素人のわれわれが見てもいけないと思う。不親切な記載の仕方であろう。
 ではいったい、武蔵は誰に依って、画を習ったのか。
 再度、疑問が出ようが、武蔵自身が、あれほど明白に、五輪書の序文に「われに師なし」と云い、「――兵法の理をもつてすれば、諸芸諸能もみな一道にして通ぜざるなし」と書いているのだから、それを信じたらよいではないか。
 また、あの五輪書の序は、その文にも見えるとおり、
()殿
 から書き起して、
天道と、観音とを、鏡とし、十月十日の夜、寅の一点に筆をりて
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われに師なし。兵法の理をもつてすれば
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「自分の画はまだ到底、自分の剣には及ばないものだ。――なぜならば、きょう君公の御前で描けといわれた時には、どこかに、巧くえがこう、君公が見ていらっしゃるというような気があったので、まずいものとなってしまった。――しかし今、自分の兵法の心をもって、無念無想のうちいたものは、自分の意にもぴったりした物に描き上がっている。太刀をって立出る時は、われもなく敵もなく、天地をも破る見地になり得る我も、画に向ってはまだ、剣道の足もとにも及ばない」
 
 
 

 
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 ()※(二の字点、1-2-22)()

     

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一 五輪書(長巻)地、水、火、風、空の五巻
一 三十五箇条序(巻)
一 兵法三十五箇条(冊子)
一 独行道(巻)
 これらは、たいがい、藩主細川忠利のために書いたのと、自分の知己とする者のために贈ったのが、今日、伝存しているわけだが、中には、後に、門流の人が伝写した、悪意でない他筆の物も往々にしてあるので、それがよく武蔵の真蹟として混同されたりしている。
 以上の中で、熊本の野田家に伝わった「独行道」は、正保二年五月十二日という奥書があり、武蔵が死の数日前に書いたものであることが明らかなために、まま彼の独行道を以て“武蔵の遺戒”とする人もあるが、独行道は、決して、ひとのための遺戒ではなく、彼が剋己して来た若年からの、彼自身の持って来た自戒であることは、その内容と文辞を見れば、疑う余地は全くない。
 ところで、以上の兵法伝書の類を除いた、彼の墨蹟らしい物をあげてみると、
一 直指人心(四字)     大字横幅
一 戦気・寒流帯月澄如鏡   一行、竪
一 春風桃李花開時
  秋露梧桐葉落時      二行、竪
 
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是兵法之始終也これへいはふのはじめにしてをはりなり
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  〔宮本武蔵書状〕(広島市八丁堀新見吉治氏旧蔵)
尚々なほなほこの与右衛門よゑもん、御国へも可参まゐるべく候間、被成御心付おこころづけなされ候て被下くだされ候はゞ、可忝かたじけなく候、以上 其後者そのごは以書状不申上しよじやうをもつてまをしあげず背本意ほんいにそむき奉存候、拙者も今程、肥後国へ罷下まかりくだり、肥後守念比ねんごろニ申候ニ付而、逗留仕居候、於其元そのもとにおかれ御懇情ごこんじやうだん、生々世々忝奉存候、我等儀、年罷寄としまかりより、人中へ可罷出まかりでるべき様子無御座、兵法も不成罷体まかりならざるていニ御座候、哀れ今一度、御意度得存候、然者、此与右衛門ト申者、我等数年、兵法などをしへ如あるなき儀ニ御座候間、御見知り被成候て、以来、被掛御目おめかけられ候ハヾ、可忝候、猶重而かさねて可得御意候、恐惶謹言(原文のまま、句点)
  八月廿七日
宮本武蔵
玄信(花押)
 寺尾左馬様
   人々御中【原寸、縦一尺一寸八分、横一尺六寸九分】
 
 
 
 宿



   



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 西西
 
 
 簿
 
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被思召付尊札おぼしめされつけのそんさつ 忝次第かたじけなきしだいに御座候 随而したがつてせがれ伊織いおり儀 御成に立申趣たちまをすのおもむき大慶に奉存候 拙者儀老足可被成御推量らうそくごすゐりやうなさるべく候 貴公様 御はたもと様 御家中衆へも手先にて申置候 ことに御父子共 本丸迄 早々被成御座ござならせられ(候)趣 驚目きやうもく申候 拙者も石にあたり すねたちかね申故 御目見得にも被仕不仕つかまつられず猶重なほかさねて 可得尊意候そんいをうべくさふらふ 恐惶謹言
 辰刻たつどき
玄信
宮本武蔵
有左衛門様
     小姓衆御中

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一 蘆葉達磨図    徳川義親所蔵
一 枯木鳴鵙図    内田薫作所蔵
一 蘆雁図      細川護立所蔵
 
 



 
 

      ○
世の中はたゞ何事も水にして渡ればかはる言の葉もなし
      教内
人に習ひ我と悟りて手をつもみな教内のをしへなりけり
      教外
習ひ子は悟りもなくていたづらに明し暮すや教外ならむ

山水三千世界を万理一空に入れ 満天地をも
契るといふ心を題として

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 調
 
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   宿



 
 
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 ()宿
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  前法山 東寔敬題 ※[#丸印、U+329E、218-18]
千古難消満面埃
龍顔不悦赴邦出
梁王殿上一徘徊
十万迢々越漠来
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 宿
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 ※(二の字点、1-2-22)()
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()()()※(二の字点、1-2-22)()()
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 殿
――その装束さうぞくは、赤裸に茜染あかねぞめの下帯、小玉打の上帯を幾重にもまはしてしかとしめ、三尺八寸の朱鞘しゆざやの刀、つかは一尺八寸に巻かせ、こじりは白銀にて八寸ばかりそぎにはかせ、べつに一尺八寸の打刀うちがたなをも同じ拵にて、髪は掴み乱して荒縄にてむづとしめ、黒革くろかは脚絆きやはんをし、同行常に二十人ばかり、熊手、まさかりなどを担がせて固め、人々ゆきあふ時は、
「あれこそ聞ゆる茨組ぞ。辺りへよるな、物いふな」
ぢ恐れてのみ通しける。
 
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 ※(二の字点、1-2-22)
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きりむすぶ太刀の先こそ地獄なれ たんだふみこめ先は極楽ごくらく
 一例である。これは武蔵の作といわれているが、武蔵の作歌ではあるまい。柳生石舟斎の伝書の歌ともいわれている。
 正しく武蔵の作歌と思われる歌には、
乾坤けんこんをそのまゝ庭とみるならば われは天地の外にこそ住め
 がある。
いづこにも心とまらばみかへよ ながらへばまた本の古郷ふるさと
 は、上泉伊勢守の陰流かげりゅうの秘歌として伝わっている。
 それらの剣道の極意歌なるものは、あつめれば一集になるほど各人各家にある。自分が好きなのは、柳生十兵衛の詠んだ
なか/\に人里ちかくなりにけり あまりに山の奥をたづねて
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 ()()()()()()()()※(二の字点、1-2-22)
 
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 使
 
 
 
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 ()()()※(二の字点、1-2-22)
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 西西
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寛永三年十月、さる事ありて
 という書き出しで
君の御前を退て和ならず山に分け入りぬれば、自ら世をのがると人はいふめれど、物うき山のすまひしばいほりの風のみあれて、かけひならでは露おとなふものもなし……(中略)
 と、生活の様を叙して、序文の末章には、
――然れども又、かくの如く、われにひとしくあらん敵には、勝負いかんとも心得がたし。さるによりて思ふ事、至極をこゝに一々述、老父に捧げ奉れば老父の云。これら残らず行捨てたらんにしくはあらじとや。(中略)そのにごりなき心を自由に用ふる事いかに。時に沢庵大和尚へなげきたてまつり一則のこうあん(公案)お示しをうけ一心伝道たらずといへども、かたじけなくもおん筆をくはへられ、父がいしんてんしん(以心伝心)の秘術事理一体本分の慈味こと/\くつきたり
たづねゆく
道のあるじや
よるの杖
つくにぞいらね
月のいづれば
よつて此書を月之抄とは名づくる也
 
 
 
 
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「兵庫儀は、殊のほか、短慮者でござれば、いかような落度おちどがあろうとも、死罪三度までは、おゆるしありたい」
 と、頼んで約束したという。
 だが、任地へ赴いてから、幾年も経たず、兵庫は加藤家を去っている。そして九年間、そのまま廻国を続けて、後に名古屋の徳川家に落着き、尾張柳生の祖となっている。
 時勢が時勢だし、祖父の条件だの、清正の寛度などもあるのに、軽々に任地を去って、廻国していたなど、ただのわがままとも考えられない。すでにその頃、柳生石舟斎は子の宗矩をひいて、家康にも会い、将来の約言も得ていたから、少し穿うがちすぎるが、兵庫が肥後藩を往来したのも何か裏面的な理由がそこにあったと考えられないこともない。



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 工匠でも画家でも剣人のでも、どうも名人逸話には類型と伝説が多い。武蔵にも十三歳で有馬喜兵衛という剣豪をたおしたという話から始まって、晩年六十歳頃までの逸事は相当に残っていることはいる。そのうち、細川家へ落着いてからの逸話は、やや根拠があるが、それとて藩士の口から口へ伝わってずっと後年に記述されたものであるから、そういう事がらと履歴は認めても、果たしてどの程度まで武蔵の心事と行動がみ取れるかは難しいと思う。
 十三歳で有馬喜兵衛を殪したという話も、武芸小伝によると、喜兵衛は、当時の剣道の大家松本備前守の刀系をひいている有馬豊前守の一族の者で、その豊前守は徳川家康の命で紀州家へ移ったという人物である、そういう一族の者で、しかも天真正伝てんしんしょうでんの神道流をうけていたという有馬喜兵衛が、いくら何でも、子どもと喧嘩はすまい。
 武蔵の生れた郷里、作州吉野郡讃甘さぬも村大字宮本という村に、有馬喜兵衛なるものが矢来を組み、金箔きんぱく高札こうさつを立てて試合の者を求めたというのである。武蔵、幼名は弁之助といい、寺小屋がよいの帰途、その高札へ墨を塗ったので喜兵衛が怒った、武蔵の知るの僧侶が聞いて駈けつけ、彼に代って詫びたが喜兵衛はきかない、そこで刀をってかかると、却って十三歳の弁之助に打ち殺されたということになっている。
 これは武蔵自身が、晩年に著述した五輪書の序文にも正しく、
――われ若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三にして初めて勝負をなす、その相手新当流の有馬喜兵衛
 
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 ()()()()稿
 
 
(――吉川氏の書く所は史実及び私の家の云い伝えと甚だしく異っている)
と冒頭して、本位田家の末孫として、大兄が祖先のえんを明らかになさろうとする点は充分にわかるが、あの小説を読まれて、(本位田又八という男は、系図を見たが出ていない。〔中略〕新免家の侍帳にも見あたらない。そして、誰かが関ヶ原の戦いに出陣したかと探したが、どうも見つからない。〔中略〕し出陣したとしても、あんな軽輩としてではなかったろう――云々)
 ()※(二の字点、1-2-22)()()()()()()()()

 
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 歿
 
 とあるから、かなり成人の後、離郷したことは明らかで、なお同書の記事を史実とするならば、
 武蔵浪人ノ節、家ノ道具十手※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)みくさり、嫡孫左衛門ニ渡シ置候由、六十年以前ニ九郎兵衛時代ニ焼失――
 ともあるし、また、
 
 
 明白に父の無二斎に連れられて播州へ行ったまま消息不明になった次第などではない。また、本位田外記之助との事件が、離郷の原因でないこともこれを見れば分るのである。もし、あの事件が禍根とすれば、武蔵の離郷がもっと幼少でなければ辻褄つじつまが合わないし、また、東作誌そのものが記載を逸している筈はない。――で大兄の如く、東作誌を史的に認めるならば、同書から僕が抜いて、ここに掲出した記事も同時に認めてもらわなければならない。そうすると、貴説は論拠をなさないことになるが――



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 ※(二の字点、1-2-22)()()()
 
 ()殿()()()()
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 ()※(二の字点、1-2-22)姿

 
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佩刀考
   ――「武蔵正宗」と彼の佩刀


 大分以前に開かれた文部省の重要美術審査会で、新たに重要美術品に指定された物のうちに、岩倉具栄いわくらともえ氏所蔵の「武蔵正宗まさむね」という名刀が挙げられている。
 宮本武蔵が愛用した刀だというので、古来から武蔵正宗と呼ばれて来たものだそうである。勿論、相州物で、刀身二尺四寸、幅九分一厘、肉二分というから、実物は見ないが、なかなか業物わざものらしい。
 この刀の伝来の説に依ると、享保年間、徳川吉宗が将軍家の勢力をもって、諸国から銘刀をあつめさせたことがあるが、その時、鑑刀家の本阿弥ほんあみに命じて選ばせた逸品の中、第一に位する絶品が、この「武蔵正宗」であったという。
 享保銘物帳にも記載されているということであるから、さだめしこの名刀は、吉宗の手にも愛されて、幕府の御刀蔵おかたなぐらに伝わって来たものであろうが、それが岩倉家に移ったのは、維新の頃か明治になってから後か、新聞の記事で知ってふとそんなことを考えてみたりした。
 文部省で認定したことだから「武蔵正宗」の説をここで問題に取り上げるのではないが、宮本武蔵ほどな男が、日頃どんな刀を身に帯びていたろうかと考えるのは、満ざら、興味のない詮索せんさくでもないかと思うので、もう少し話してみよう。
 同じ頃、大阪の高島屋で、武蔵の遺墨展覧のあった折、たしか、刀はたった一腰ひとこししか出品されていなかったように思う。それも自分は会場で見ていないので、今出品目録を出してみると、
賜天覧武蔵所持之刀  熊本島田家蔵
 と、だけあって、作銘寸法などわからない。
 天覧を賜わった物とすれば、これも武蔵の愛刀の一つとして、相当な根拠のあるものであろうが、僕の記憶からさがし出すと、このほかにもまだ武蔵の持っている刀として伝えられているものはかなりある。
 八代聞書の記載に依ると、
武蔵ノ常ニキシ刀ハ、伯耆安綱ナリシ由、然ルニ熊本ニ来リテ後、沢村友好(大学)ノ世話ニナリタリトテソノ刀ヲ礼トシテ贈リタリ。今モ、ソノ刀沢村家ニ在リ。
武蔵、夫ヨリ後ハ、佩用トシテ、武州鍛冶和泉守兼重ヲ用ヒキ、兼重ハ臨終ノ際、長岡佐渡ノ家ヘ遺物トシテ贈ラレ、脇差ハ遺言ニマカセ、播州ヘ送リ届ケシト云フ。
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空ヲ道トシ、道ヲ空ト見ルベキナリ
 と、いっている。
 また、兵法三十五ヵ条の終りにも、彼は剣の哲理を、
万理一空
 
 
 ()姿

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兵具は格別、余の道具たしなまず
 と、わざわざ云い訳のように書き添えている。
 武蔵が刀にすぐれた名作を求めるのは、むしろ当然なたしなみといえるのに、こう断っている所など見ると、よほど刀は好きだったらしいと想像されて、何となく微笑まれる。

 こう想像して来ると、重要美術に指定された一点もまた、従来諸方から武蔵の遺品として出ている数々の刀も、それぞれ何らかの由緒ゆいしょがあって、武蔵の生涯のうちに、たとえ三年か四年の或る間だけでも、彼の手に愛された品であろうと思われる。また、刀だけは、自分で鍛ったことはないらしいが、つばとか目貫とか、小柄こづかさやとかいう小さい物は、自分でも製作したほどな武蔵であるから、なおさら、衣食や住居には至って無造作でも、い刀となると欲しくなって、遊歴中にも、随所随時に、差料を求めたり、換えたりしたにちがいないから、まだこれ以上、武蔵所持の刀と名乗る物があらわれても、少しもふしぎではない。
 けれどただ、それが一片の口碑こうひや伝来の権威だけで、もっと明白な史的文書の伴っていないことが慾をいえば少し心ぼそい気もする。



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 ※(二の字点、1-2-22)()()


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 ()※(二の字点、1-2-22)()()
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(彼が法業の功を認められて、沢庵の号を授けられたのは、それより二年後の慶長九年である)
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 と、皇室の式微しきびを嘆き、
又、大徳妙真寺長老不届也と武家より被仰あふせられ或は衣をはがれ、また被成御流候おながしになられさふらへば、口宣くせん一度に七八十枚もやぶれ候。
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 ※(二の字点、1-2-22)()()
 
うきなからあはれことしの花もみつ これもはちすのいけるかひかな
 とんだ。生き永らえと、さらに麗しい友情につながる喜びが、沢庵の老いの胸を暖くするのである。
 三斎の屋敷の花苑はなぞのには、四季折々の百花が嬋娟せんけんと乱れ咲いた。花好きな沢庵――彼は殊に、清冽な梅花を愛した――は、花信を得るごとにこの老友を訪れて、共に苦茗くめいすすり、尽きざる閑談に時を忘れた。
こころをば花あるやどにとめられて 身こそはかへれ紫の庵
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 歿
胸襟雪月、心裡清泉、好事風流、出其群其萃、有徳気象、仰弥高鑽弥堅
 と、最大級にその高風を讃えている。また、その肖像に、
公与余講交異
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近日江戸へ不被下候而不叶候故迷惑仕候
 と述べ、また、同人宛の別の書面に、
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 といって、権門にびる徒輩の滔々とうとうとして横行する澆季ぎょうきを歎じているが、一箪いったん一瓢いっぴょうの飲に満ち足りる沢庵にとって、公界は或いは苦界と見えたかも知れない。
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 一日の短きを惜しみつつ、風流の話、治民の話、武道の話など、それからそれへと語り暮したのであろう。中にも、話題の中心は、やはり道についてであった。忠利は真摯しんしな求道者として沢庵の高示を仰ぎ、沢庵もまた、忠利を教え導くにあらゆる努力をしまなかった。
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 諄々じゅんじゅんたる沢庵のさまを見るべく、孜々ししたる忠利のさま見るべし、である。
 二人はまた能楽に一日の歓を尽すこともあった。
()()()()()殿()()()()()()()()()()()()()()
 忠利の「松風まつかぜ」の出来栄えを賞歎した手翰しゅかんであるが、師弟和楽の状が、紙面に躍如やくじょと溢れている。
 忠利は寛永十四年頃から、ようやく薬餌やくじに親しむことが多くなった。この年の十一月には、鎌倉に転居して病を養っている。
 本草医学に明るい沢庵は、薬や養生法の注意を与えたり、力づけたりした。
(この方面の沢庵の著作としては「医説」「骨董録こっとうろく」「旅枕」それぞれ一巻がある)
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(忠利の長子六丸は、寛永十二年七月、従四位下侍従に任ぜられ、家光の一字を与えられて、光尚と称した)
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 と浩歎こうたんした。また、後嗣こうし光尚に宛てた書面にも、
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慶安二年丑己七月朔日    菅原三厳すがわらみつよし
むさし野に
折りべい花は
えらあれど
露ほくて
折られない
=笑はしきたとへ物語りながら、ひそかに心にかなひはべり此書を武蔵野と号
 と、誌して、当時の江戸で唄われていたらしい俗歌から題名を取ったわけを誌している。内容は、柳生流三学から説いて、自己の見解と、剣禅の境地を、口語体交じりに書いているのであるが、大祖父の石舟斎のことを、おじいがこういった、また父の但馬守のことばを、チチがいうには、などと書いているところが、もう晩年に書いた物であるが、父祖に対する心持が現れていておもしろい。
 結論の終りの章には、
=父母懐胎の時、チヤツト一滴ノツユヲウケテヨリ、ハヤ身モ心モ生ズルモノヨ、タトヘバ袖ノ上ニツユガアレバ月ノウツリ、草ノウヘニモツユガアレバ月ノウツル如クヨ
 と書いたり、また、
=月白風清、コンポンニ至ツテハ、ナンニモナイトイフ処ガ面白ヨ、ナンノ道理モナキナリ
 で、結んでいる。
 それから十兵衛の自作の歌に――「なか/\に人ざと近くなりにけりあまりに山の奥をたづねて」という一首がある。
 古来剣道の名人上手といわれる人々には皆、その人の詠んだという極意の歌というのが、いくらもあるが、私は、十兵衛のその歌と、武蔵が自分の肖像画のうえに自題した歌――「理もわけも尽して後は月明を知らぬむかしの無一物なり」が、最も意味が深いし、歌としても優れているようで好きである。
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遺跡紀行



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京都一乗寺下り松
   ――武蔵と吉岡決戦の跡


 京都ほど分りよい町はおへんになあ、と京都の人はよう云わはるけれど、なんど行っても、僕には京都ほど勝手の知れない土地はない。もっともまた、いつ行っても、宿は都ホテルか中村屋か、でなければ堂本印象氏どうもといんしょうしのまん前にある近糸という家にきまっているようなものだし、会う人々も歩く場所も、べつに決めているわけではないが、おのずからいつも範囲を出ないのである。結局京都が分りにくいという方がわるいので、僕がまだ京都をまるで知らないのであるかもしれない。
 それを愍然びんぜんに思ってくれたのか、曾根そねの星ヶ岡茶寮のN君が、一日、自家用車でやって来て、きょうは京都をお見せしてあげましょうという。
 N君は、東京の星ヶ岡茶寮の主人公でもあるし知己になったのもそこなので、もちろん東京人と思っていた所が、わたくしはこれでも生ッ粋の京都人ですよと誇ってわらう。まさか今さら祇園ぎおんや銀閣寺へひっ張り廻しはしませんから安心していらっしゃいともいうのだ。こちらも信頼しないわけでは万々ない。だが生憎あいにく、その日自分はぜひ行きたいべつな目的を持っていたのである。今新聞に書きかけている宮本武蔵の遺跡の一つを尋ねてみようという肚なのだ。その宿題を持ってからでも、京都へは三、四度も出かけていたが、いつもいつも前に云ったとおり、蝸牛かたつむりたらいふちを歩いているような旅行ばかりして帰ってしまうので、実はこんどこそひそかに誓っていたことでもあるし、かたがた紙上で日々すすんでいる小説の宮本武蔵が、もうやがて近いうちに、その遺跡をテーマで踏みにかかる日も迫っていたので、そこを書く要意のためにも、これは遊びでなく仕事である、何はいても今日は行ってみようと思い立っていた矢さきでもあった。

 問題は、小説でそこを書く前に、武蔵が吉岡家の者と最後の死闘をやった場所の地理を、くわしく頭に入れておきたいということにある。武蔵が最初に吉岡清十郎と試合した場所は、洛北蓮台寺野らくほくれんだいじのと明白にわかっているが、二度目に、弟の伝七郎を仆した場所は事実となると明瞭でない。それから三度目が最後の決戦であって、吉岡家は門下の百数十名を総出動して、独りの武蔵を、必殺的な陣形のうちへ誘っておいて、かえって彼のために惨たる敗れをとったことになっているのだが――これは小説として書くにしても、試合というよりはむしろ戦争である。おたがいに策も秘し、地の理も考え、弓矢などの飛道具も備え、その他あらゆる兵法の知識を加味した争闘であるから、私はこれを、従来どおりな単なる試合の型に書いてしまいたくない。
 そこでどうしても、地理を知っておくというような予備知識も、重大な要意の一つになってくる。それにまた、うまく遺跡を探し当てれば、思いがけない他の発見もあるかもしれないなどという興味も手つだう。
 で、私の尋ねあててみたいというその遺跡の地は一体どこかというと、二天記や小倉碑文などにも、わずか一行にも足らない文字であるが、一致している所をみると、かなり信頼してよい史証だと思う。だが、それも実地を踏んでみなければまだ断言しきれないような気持も幾分かあったが、とにかくその二天記や小倉碑文の記事をほんととすれば、
京洛東北ノ地、一乗寺藪ノ郷下リ
松ニ会シテ闘フ
 

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本阿弥光悦ノ宅趾
実相院町東南部ニアリ
 と明記してあっても、別の項でその実相院町なるものを考究すると――五辻通り小川西入おがわにしいる所より堀河東入るまで――などとあって、おまけにその下にまた丁寧に――及び――と付け足してあって、
及ビ、水落寺みずおちでらト堀川ノ
間五辻上ル所狼ノ辻ト
字ス。――又白峰宮ノ
東横ヲ本阿弥ノ辻子ト
字ス
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修学院村、一乗寺ノ別名ナリ。昔ハ枝垂ノ老松アリテ、後世植継ギテ地名トナル。太平記ニハ、藪ノ里鷺ノ森下リ松トツラネテ書タリ。
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我れ神仏を尊んで神仏をたのまず
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文亀三 癸亥 十月二十一日
武専院一如仁義居士   平田将監
永正三 丙寅年 七月十五日
智専院貞実妙照大師   平田将監妻 新免氏娘政子
天正八 庚辰年 四月二十八日
真源院一如道仁居士   平田武仁少輔正家(年五十歳)
光徳院覚月樹心大姉   平田武仁妻(四十八歳)
  (天正十二年申三月四日)
 他に新免備中守貞弘しんめんびっちゅうのかみさだひろという人だの、その妻女の法号なども書いてあったがここでは略しておくことにする。備中守貞弘というのはおそらく無二斎の主筋しゅすじにあたる竹山城の新免氏一族の末であろうと考えられる。そして以上の系累書でもわかる通り、宮本家の先祖平田将監が、主君新免氏の娘政子を妻にめとっているので、新免家と宮本家とは主従であると同時に姻戚いんせきの間がらでもあったわけで、過去帳の同列に記載されてあったのも、そんな関係から、ほとんど一族として寺では扱っていたものであろう。
 後年、武蔵の自筆の手簡や文書などには、宮本姓を書いたり、新免姓を名乗ったりして、両方を用いていたらしいが、新免武蔵も宮本武蔵も勿論同一人で、従来はその理由をただ、父の無二斎の代に功があって、主人の姓を許されたのであるというだけにしか止まっていなかったが、これでみると、血縁的にも新免氏を称する理由が明白に証拠だてられている。



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わしが心と巌流島は
ほかに木はない松ばかり
 とうたわれていたそうだが、土地の古老や郷土史家が朝日支社の「宮本武蔵座談会」で話している筆記を見ると、松ばかりというのは、下関や小倉から見た遠望の観念なのであろう。その席上で古老の云っている一節をここに借録しゃくろくしてみるなら、
――左様。……今は形も変り樹も少なくなっていますが、以前はもっと目につく島でありました。私が知ってからでも、松と山桃それに笹が沢山えていまして、松は相当に数があり、大きいのは一抱えぐらいのやつが両方の高見にずっと茂っていました。島のまん中は平地で、砂浜になって干潮の時は遠浅とおあさの洲に続きます。漁に出て休む時は、潮のかげんでそこに舟をよせたものです。それに古い井戸が一つありましたよ。……云々
 なお、詳しい調べに依ると、実生みしょうの小松やら、合歓ねむ、女竹、草にはすすきいちごふきの類などが雑生していたというから――慶長十七年の春四月の頃だったという、武蔵と巌流との試合が行われた当時の島の風趣は、ほぼ推測することができよう。

 巌流島という名称は、もちろん慶長以後、武蔵と巌流の試合が喧伝けんでんされてから後のもので、その以前は、船島ふなしまとよばれていたし、その船島という名も、附近の俚俗りぞくの呼び慣わしで、一般の地理的な眼にはほとんど入らなかった一小島に過ぎなかったにちがいない。
 有芳録ゆうほうろくなどには「岩柳島」として明らかに出ているが、古い記載にはほとんど見当らない。母島の彦島がこの辺の史蹟としては記録上にも代表しているかたちである。
寿()()()()()()



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佐々木巌流之碑
明治四十三年十月三十一日
舟島開作工事之際建之
 
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愛知郡川名村新豊寺の碑
名古屋笠寺観音堂の碑
 こう二ヵ所は、共に門流の人々の建立で、一つは延享年間に、一つは寛政頃に建てたものであるから、今も現存していると思うが、ついまだ自分は訪れてみない。
 次に有名なものでは、
小倉市外延命寺山の碑
熊本市外弓削村の武蔵塚
 の二ヵ所である。碑として数えられるのは、以上四つしか自分には心当りがないが、全国に六ヵ所あるといった人は、それに武蔵が臨終に近い日まで想念の床としていたところの
熊本市外岩殿山の霊巌洞
 と、それに武蔵遊歴中の遺跡であり、現存もしている
千葉県行徳村藤原の徳願寺墓
 とを数え入れているのではなかろうかと思われる。しかしどっちにしても六ヵ所の墓が残っているというのは当らない話で、厳密にいえば、熊本の武蔵塚だけが、ほぼ墓所として確定されてある限りである。
 しかし、この一月頃、私がその実地へ立って仔細に見たところでは、武蔵塚も呼ぶが如く、塚であり碑であって、その碑面の文字にも明らかに、
新免武蔵居士之塔
 



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岡山県英田郡讃甘村宮本 平尾泰助
 
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われ君侯二代に仕へ、その恩寵おんちようかうむることすこぶるふかし。願はくば、死せむ後も、太守が江戸表参覲の節には、御行列を地下にて拝し、御武運を護らんと思ふなれ。その故にわが遺骸は街道の往還に向つて葬るべし。
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 歿()歿
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寛文十三年丑正月一日   春山禅師
 と微かに読まれた。
 何と往生日のよい和尚であろうか。生前武蔵と莫逆ばくぎゃくの友であったというこの和尚は、武蔵の死後二十七年目の正月元旦に死んだものとみえる。



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 武蔵餅という看板が目につく。甘酒だの五目飯ごもくめしなどひさいでいる腰掛こしかけ茶屋で、そこは門司もじから小倉こくらへの中間ぐらいな大道路の傍らで山というほどでもない小高い丘の登り口にある角店である。
 その前に、自動車をおいて、私たちは延命寺山へ登って行った。閑静な住宅地のあいだに、土産物屋だの茶店など入り混んでいる坂や石段を踏んで行く。
 桜の木が多い。上は小公園になっている。冬なので私たちのほかに人影もなかった。茶店もあらかたまっている。その茶店と茶店の二軒に挟まれて、がけの下の低いトタン屋根と並んで、巨大な平石が屹立きつりつしていた。何となく台石へ登って背競べをそそられるような高い碑である。それが、武蔵の死後九年目の――承応三年に養子宮本伊織が建てたという著名な武蔵碑なのである。
 台石を除いて、高さ一丈三尺余、横幅は広い部分で六尺から四尺ほどあるという。仰ぐと、碑面の上部に大字で、
天仰
意相
円満
兵法
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使
 
 使


 
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(向井老談)
――何か入っていたとは聞いていましたが、それが何であったかは詳しく記憶しておりません。甕だけは、私が些細な代金で買取り、現に私の甥の家にあります。もう一つは当所の伊東家に保存してあるかと思います。
 とも語っている。
 私を案内してくれた朝日の支社の人たちも、その話は信じているらしく、大甕を見た人の鑑賞に依ると、それは昔、水甕として使われたこの地方でいうハンド甕と称する種類の焼物だということであった。

 ここでただ怪訝いぶかられるのは、遺品だけならよいが、大甕の中に紋服で端坐していたという人間の遺骸はいったい誰か、という疑問である。
 武蔵の終焉しゅうえんの地熊本には、武蔵の遺骸を葬ったという武蔵塚がすでにある。また田向山たむけやまの碑は、歿後九年の後の物だし、掘起した人夫の話の「大たぶさに結っていた――」ということをそのままとすれば、それは晩年の武蔵その人の結髪とは元より受けとれない。
 けれど小倉の地方には、武蔵の遺骸は、歿後養子の伊織が迎え取って、田向山の菩提所に葬ったので、熊本のそれは分髪の墳墓であるというような説も一部にあることはあるのである。
 細川家と小笠原家との姻戚関係だの、また、小倉の大淵和尚と、熊本の春山和尚との師弟関係だの――なお、武蔵を養父とする宮本伊織が小倉藩の家老であったなどの密接な点を考えてゆくと、いずれにせよ武蔵の遺骸問題もなかなか、そう簡単にどことも断定はできないものがあるように思われる。



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身のあかは手桶の水にてもそそぐを得べし、
心の垢はそそぐによしなし
 という言葉のうちには、汲めども尽きぬ味がある。



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 ※(二の字点、1-2-22)()
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 退()()



 
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 ()
()()()()()()
 
 



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 綿

 



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()()()()
 
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()()()()殿
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底本:「随筆 宮本武蔵/随筆 私本太平記」吉川英治歴史時代文庫、講談社
   1990(平成2)年10月11日第1刷発行
   2003(平成15)年3月5日第9刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※〔〕内の編集部註は省きました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。







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