弟の窓・兄の窓
一
紺屋の干ほし場ばには、もう朝の薄陽が映さしている。 干かん瓢ぴょうのように懸け並べた無数の白い布ぬの、花色の布、紅あかい模様のある布などが、裏町の裏から秋の空に、高々と揺れていた。 ﹁そんな身みな装りで、近所の人目につく。――お駒、もういい、家に這は入いっておれというに﹂ 又十郎宗むね冬ふゆは、叱るように、後から尾ついて来る彼女へいったが、お駒は、 ﹁そこまで﹂ と、いつもの癖のように、妾宅の露地から小走りに――ゆうべの寝ねが髪みのまま――往来の角まで彼を送って出た。 そして又十郎が、振向きもせず急ぐ背へ、 ﹁よござんすか。待っていますよ。――あさってですよ。あさってまた﹂ と、露地の陰から、二度もいった。 ――浅ましい! 又十郎は、ぞっとするほど、その時は厭いやな気もちに襲われるのだった。あさってまた、この露地の家へ来るのかと思うだけでも、負担であった。 遁のがれるように足は急いでいる――。まだ露じめりのあるゆうべの笠を、銀いち杏ょうなりのまま、横顔へ深くすぼめて、 ︵もう通うまい。父にもすまぬ。――いや世間に対してだって︶ 独り抉えぐるほど、慚ざん愧きをむねに繰返すのであった。 世間は眼まぐるしく活動している。大だい根こん河岸の市場はわいわいと旺さかんだ。金、金、金と突ンのめるほど町人たちは首を前へ出して駈け歩いている。登城する騎馬の侍だの、駕籠の列にも意地わるくよく行き会う。 又十郎宗冬は、なるべく裏通り裏通りと選んで歩いた。八や重え洲す河が岸しの屋敷へ近づくにつれて、難しい父の顔が胸につかえてくる。登城して、もう屋敷にはいない時刻だが、 ︵留守であってくれればいいが︶ と、万一の場合を惧おそれて、そればかりが祈られる。 二十四歳にもなったが、父の恐さは、幼少と変らなかった。いや、湯ゆ女なのお駒に家を持たせて、屋敷を空あけがちになってからは、よけいにあの眼が、あの眉が、いつも自分を睨ねめまわしている気がした。あたかも司直と罪とが人にんの間のように。 獄を出て獄へ帰るかのような悶もだえに絡からまれながら、彼はやがて八重洲原まで来ていた。もうすぐそこに厳いかめしいわが家の門と白い土塀があった。 ﹁はてな? 何だろう﹂ 又十郎は、ふと足を止めた。 古編笠をかぶった浪人者が一名、埃ほこ臭りくさい蝙こう蝠もり羽ばお織りに、溝どぶ染ぞめの袷あわせを着、肩をそびやかして傲ごう然ぜんと、門前に突っ立っている。――そしてそれを囲んで、門番や家来の者たちが、 ﹁たとえお在いでであろうと、御不在であろうと、殿御自身が、風来の訪問者と、お試合になるなどという事は決してない。取次ぐまでもなく、無用な求めだ。帰らっしゃい、帰らっしゃいっ﹂ と、何か声高に、いい争っているのだった。二
﹁自分は兵法執心の者である。敢えて、勝負ばかりを事としたり、虚名を追ったり、旅銭と称する合ごう力りきなど求めて歩く類たぐいの者と、同視されたくないのでいうが――﹂ と、綾あや部べだ大い機きは、柳やぎ生ゅうの門に立った最初に、まず広言をはらって、 ﹁――音に聞ゆる将軍家流の但たじ馬まの守かみどの在宅なれば、一手、衆しゅ生じょうのために布教なさると思うて、立合っていただきたい。それがしは北陸の武辺者、綾部大機というて、縁者は佐竹家の物もの頭がし役らやく、望みのほか、お目にかかってから、物もの強じいは仕らぬ﹂ と、重ねて、門番の者へ、来意を述べたのであった。 勿論、門番は取次がない。 ﹁御登城中﹂ と、断わった。 大だい機きは、然らば待とうという。門番はその無益を諭さとして、追い返そうと努めた。こういう来訪者は、際限なくあるからである。すると大機は、門番の言葉じりを取って、 ﹁主人の意志を聞いてみぬのに、まるで主人かのような面構えして、追い返そうとは怪しからぬ、是が非でも、但馬どの自身の口から返答を聞きたい。登城とあれば、いずれ夕刻までにはこの門へお帰りがあろう。それまで門前を拝借してお待ちいたしておる﹂ 門番では手に余った。表の侍部屋へ告げて、四、五人に来てもらった。そして今が、押問答に揉めているところだったのである。 そこへ帰って来た又十郎宗冬は、よい機しおに恵まれたように、門番も家来も、その騒ぎにかかっている隙すきを、ついと横から門内へ駈けこんだ。 眼ばやく見つけた綾部大機は、 ﹁誰だ、今行ったのは﹂ と、後ろで怒鳴っていた。 立たち塞ふさがっていた門番や家来たちは、初めて振向いて、 ﹁御三男の宗冬様だ﹂ 思わずいうと、大機は、 ﹁何、今のが、三男の宗冬どのとか。――然らば宗冬どのに会おう。おてまえ方では、埒らちがあかぬ。宗冬どのに一言、言こと伝づてして引揚げてやる﹂ と、門内へ追おうとした。 ﹁無礼な。どこへ行く﹂ ﹁おのれ。どうしても、成敗を受けたいのか﹂ 前の者が、大機の胸を衝つく。また、左右から利きき腕うでをつかむ。編笠を引きちぎる。――大機はなお、 ﹁何。成敗する? ……よかろう、汝らの手で成敗できるものならいたしてみい。為やり損じたら、この檜ひの門きもんが、おてまえ達の血で赤門になるぞ﹂ と、いいつのって去る気色がなかった。三
家をあけて帰った朝は、父のみでなく、召使らに対しても、宗冬は間まがわるかった。 ――自分の部屋の障子を引くにも、音を偸ぬすんでそっと開けた。冷つめたい机の前に坐る。火鉢には火がない。机や本箱も、冷ややかに主あるじの行跡を白眼視しているかのように僻ひがまれた。 ﹁だれだっ、そこの部屋へ這入ったのは﹂ 中庭を隔てた向うの部屋で、突然、こう怒鳴った者がある。そこの窓は、長男の十兵衛三みつ厳よしの部屋だった。 ﹁は。――わたくしです﹂ ﹁わたくしとは?﹂ ﹁又十郎です﹂ ﹁又十郎ならよい﹂ それなり十兵衛の窓は沈黙した。 中庭の坪の芭ばし蕉ょうに、黄色い秋の陽が照り映はえている。秋の小さい蝶が、窓の竹をかすめた。又十郎は机に肱ひじをのせて俯向いていたがいつの間にか、お駒の事に囚われていた。―― ――あの露地から朝出る時は、もう来まいと思い、途みち々みちでも、自責し続けて来たお駒が――ここに落着くともう今でも会いたいように心がみだれてくる。 ︵そうだ。何も、そう自分の恋を、自分で虐いじめつけるには当らない。修行は修行でいそしみ、道徳は道徳として当り、恋は恋……。父にだって……ある。……四男の右うも門ん義春は現に……わしらとは腹ちがい、父の想おもい女ものの子ではないか︶ ――がらっと、芭ばし蕉ょうの向う側で、窓があいた。 ﹁又十郎、又十郎﹂ 兄の十兵衛の声である。 ﹁は。何ですか﹂ 机から顔を上げて、又十郎は、細目にあいていた窓をいっぱいに開けた。兄の十兵衛は、向うの部屋から顔を見せている。 ﹁今帰ったのか﹂ ﹁え……え、え﹂ ﹁門前で、何か喧やかましい声がするではないか。何ぞ見かけなかったか﹂ 又十郎は、ほっと胸をなでた。父のかわりに、兄から脂を搾しぼられるのかと、実は、返辞にも気が暢のびなかったのである。 で、遽にわかに、快活になって、 ﹁なあに、お気に止めるには当りません。毎度見える、貧相な武芸者です。柳生を打込めば一躍、柳生に代って、天下無双と法ほ螺らでもふこうという野心家の手てあ輩いでしょう﹂ ﹁それにしても、騒ぎが長いじゃないか﹂ ﹁頑然と、帰らないので、家来どもも持て余しているのです﹂ ﹁ふむ。……又十郎﹂ ﹁は﹂ ﹁おまえ行って、始末してやれ。ちょうどお父上は御登城中だ。父上がいてはできないが、おれがゆるす。それ程、強情に申す者なら望みにまかせて道場へ入れ、一撃に撲なぐりつけてやれ﹂ ﹁はあ﹂ ﹁はやく行け。……自信がないのか﹂ ﹁な、なに。多た寡かの知れた……﹂ ﹁幾つぐらいな男?﹂ ﹁もう四十を五つ六つ越えておりましょう﹂ ﹁なんだそんな老おい武むし者ゃか。はやくして来い。手に余ったら、わしが行ってやる﹂隻せき眼がん子し
一
そこは北向きで、仄ほの暗ぐらくてまた、冷たかった。柱なし何なん間げん四面という板壁板床である。わずかに武者窓から映さす光が、淡い縞しま目めの明りをそこに落している。 ﹁…………﹂ ﹁…………﹂ その光り縞のなかに、二つの木剣が、呼い吸きし合っていた。 又十郎の呼い吸きが少し昂たかい。顔は最初の血潮が褪あせて、蒼白になっていた。それに反して、綾部大だい機きの練ねれた体の構えには、まだ何ら不安な兆きざしがない。 門前では気づかなかったが、ここで見ると大機の横顔には、耳わきから顎あごにかけて、大傷の痕あとがあった。世の中はまだ殺さつ伐ばつな遺風を多分に湛たたえている。大坂陣以後、二十年とは経っていない寛永十年なのである。戦場傷なら二百石や三百石ですぐ売れ口はつく傷だ。いやその傷一つでなく、面だましいといい、総じてどこか重厚で、これは明らかに、又十郎宗冬の敵ではない。 ﹁御おん曹ぞう子し﹂ 大機は、声をかけた。 ﹁――止めようか﹂ ﹁なに﹂ ﹁せっかく、ここに立っては見たが、もうやるまでもない﹂ ﹁だまれ。どこに勝敗がついた。まだ、まだ﹂ ﹁ああ。それすら分らない坊ンち。打つも張合はないが、但たじ馬まどのが帰られるまでの暇つなぎに――お見せしようか。勝負を﹂ 又十郎は肚の底でもう一度︵な! なにを!︶といってみた。自分たち四人兄弟のうちでも、兄の十兵衛三みつ厳よしをのぞいては、次男の刑ぎょ部うぶ友とも矩のりにも、四男の右門義春にも、負けはしない。劣っている自分ではない。二
幼い頃―― まだ四よっ歳つか五つくらいな時分。故く郷にの大やま和と柳生の庄の祖おじ父ぎ君み――門流の人々はそれを、大たい祖そといって崇あがめている――石舟斎宗むね厳よしから、杖をもって、あしらわれあしらわれ、 ︵この孫の骨は悪くない︶ と、よくいわれたという自分である。 その後、十四、五歳の頃には、兄の十兵衛をさえ凌しのいで、あの片目の兄に、口惜し泣きさせた事だってある。 近頃、多少怠ってはいた。――とはいえ、無名の浪人に敗れるほど、剣を忘れてはいないつもりである。剣の家柳生家の三男だ。敗れては、十年以上も自分を研みがいて来てくれたこの板の間に対してでも相済まない。 ――と思うほど、毛穴が汗ばみ、焦いら々いらと、気が逸はやりかけたが、相手のふところは、洞窟のように、ちょっと測りきれなかった。 ︵手ごわい!︶ と、いつになく硬くなる。相手はじりじり詰めよせる。――又十郎は心のうちで、兄がこの無益な仕合を敢えて自分にさせたのは、意地悪な無言の折せっ檻かんを自分に加えているのだ――と、ひそかに僻ひがんだ。怨めしくさえ思った。 押して来る敵の圧力で、来るな、という感じがした。とたんに、かんと彼の木剣は敵の刀を受けていた。離さなかった。手は痺しびれて何の知覚もなくなっていたが、だだだと、ふた足三足、床を踏み鳴らしたまま、えおっと、喚おめいて撃ち返した。 ――不覚であった。 大機はかるく外はずし、又十郎は殆ど足の裏を相手に見せる程、前へのめって、そのまま板壁まで行くかと見えた。 ﹁坊ンち。見えたか﹂ 大機は笑った。――が、その瞬間に、差し変えた影絵の人形のように、彼の前にはべつな人物が木剣を提げて立っていた。三
﹁……や?﹂ 大機は、身を退ひいた。 又十郎とは何処も似ていない片目の男である。三十そこそこの年齢らしいが、老成ぶった顔をして――つぶれている左眼の陰影がよけいそう見せるのかも知れないが――どこか哲人じみた風のある男で、背はむしろ又十郎より低いぐらい。色は黒く、骨ぐみはずっと太い。 ﹁――当家の長男十兵衛三みつ厳よしでござる。舎弟ではちと、お手甘い御様子。というて、父但馬守は、いかなる道理をつけて参られようと、断じて、お手合せはいたさぬ。……で、それがしが代ろうと思う。御不服はないか﹂ ﹁む。三厳どのか﹂ ﹁……いざ﹂ ﹁いや!﹂ と、大機は、ふいに首を振って、 ﹁其そこ許もととは試合わん﹂ ﹁なぜ﹂ ﹁元々、御子息たちを、相手に望んで来たのではない﹂ ﹁柳生流は、治国の剣、見国の兵法を本義といたす。ゆえにお止とめ流りゅうでもある。何度いっても同じ事﹂ ﹁ではなぜ、諸国に流派をゆるし、諸藩に同流の弟子を﹂ ﹁うるさい﹂ ﹁なに﹂ ﹁そのような世話、汝らにはうけん。帰れっ﹂ ﹁喧嘩を売るか﹂ ﹁汝おのれこそ﹂ ﹁どこに﹂ ﹁その眼だ。人の生いの命ちを狙っているその眼。察するところ、汝は刺しか客くだ。父上のお命を窺うかがいに来たな﹂ ﹁――げっ﹂ 大機は、木剣を抛なげうった。脇差を抜くなり、十兵衛へ突いて来たのである。だが十兵衛の振り下ろした木剣は、大機の頭蓋骨を砕くだいて、熟うれた柘ざく榴ろのようにしてしまった。 仆れるせつな大機が、ギャッ――といった声が、しばらく屋やの棟から離れないように耳についていた。十兵衛は、突っ立ったまま、片方の目を二つ三つしばだたくように顔をしかめた。大機の脳骨から刎はね飛んだ味噌のような血の粒が、睫まつ毛げや顔にかかったからであった。 ﹁又十郎﹂ と、振向いて、十兵衛はいった。 ﹁死骸は、侍どもに取捨てさせればよい。ただその前に、この男の所持品、わけても書付などないか、其そ方ち自身も手伝うて、緻ちみ密つに調べておく要があるぞ。――何かあったら、後でわしの部屋まで持って来い﹂菩ぼだ提いれ恋ん華げ
一
仲ちゅ秋うしゅうはもう過ぎたが、夜ごと、月がよかった。ずいぶん開けて来たとは見えても、江戸城の周囲の大部分は、いまだ武蔵野の切れ切れが残っていた。夏は、りんどうや月見草、秋は、撩りょ乱うらんといっていいほど、空あき地ちの萩はぎ桔きき梗ょうは露や花を持ち競きそう。 柳生家の裏も横も、そうした広い空地だった。月の下に、虫が啼なく、鶉うずらが啼く。――夜はそこの道をよぎる人影もない。 ﹁おや。誰か往来の者でも、供えたのかな……?﹂ 四人兄弟のうちのいちばん末、四男の柳生右うも門んは、露の中に立って――そこだけ草が剥はげて、土どま饅んじ頭ゅうのように少し盛り上がっている地面へ、身を屈かがめながら呟つぶやいた。 石が一つ、置いてある。 その前に、香こう華げが供えてなければ、野原の小さな起伏の一つとしか見えないが、前にも誰か、備前の小徳利に何か供えてあるし、右門も今、香華を持ってそこへ来て跼しゃがみこんだのである。 ﹁…………﹂ 朝に夕に――という程ではないが、時折、右門はここへ来て、一片の称しょ名うみょうを念じていた。 といって、地下の仏と、右門とは、何の縁故もつながりもあるわけではない。土饅頭の下に眠っているのは、後あと月げつのちょうど今日、兄十兵衛の木剣のために、道場でただ一打ちに撃うち殺ころされた浪人の綾部大機の亡なき骸がらだった。 ――あの時。 兄の十兵衛は、部屋へもどると、あの手を洗いもせず、茶を啜すすっていたが、家来たちが、裏門から死骸を担にない出すのを見ても、右門は身ぶるいが出て、 ︵だから、片目がつぶれたりするのだ︶ と、兄の殺せっ生しょうを――残忍を平気でいる容よう子すを――忌いまわしくも憎くも思った。 ︵いやだ、ああいやだ。どうしてわしは、武芸の家などに生れたのだろう︶ 簀すの子こ巻まきにした死骸を、海口へ捨てにでも行くらしい家来たちを追いかけて、大機の亡なき骸がらを、彼が強しいて、この空地の一隅へ埋まい葬そうさせたものだった。 だが、彼のほかには、誰あって、そこへ花一枝、水一杯ささげる者はない。 右門は、自分で石を転がして来て、そこの上へ乗せた。野良犬が掘り起したりなどするからである。そして時々、石を訪れた。 ﹁…………﹂ そこに念ねん誦ずしている右門の姿を、家来達は度々見かけた。右門は、自分のしている事は、兄の罪ほろぼしであり、殺伐な一門の後ごし生ょうの為であると信じていた。 家来がそれを、ある時、十兵衛に告げると、十兵衛は、片眼の落ちた顔に、実におかしそうな皺しわを湛たたえて、 ︵そうか。それは右門には、よい手てま鞠りが見つかったな。あれはちょうど、鬱うち気きな猫みたいに、いつも眸ひとみが空うつ虚ろな男だから――︶ と、笑った。その後もひとりで思い出しては笑っていた。二
自分だけが妾腹の子という――幼少からの負ひけ目めが、自然彼をそうさせたのかもしれない。――右門の眸は、十兵衛が嗤わらうとおり、人に対して、いつも弱々しかった。
体も、丈夫ではない、腺せん病びょ質うしつの方である。
その点では、次男の刑ぎょ部うぶ友とも矩のりと、よく似ている。気性も友矩といちばん合う。だが次男友矩は、家光の寵ちょ童うどうとなって、柳営の小姓組に上がっている。年に何度という程しか屋敷へは戻って来なかった。
従身語意
――右門は今、無縁の石に向って、掌てをあわせながら、口の裡で何度も唱えていた。生れつきの仏性というのか、写経していたり、こんな瞑めい目もくの境にある間が、いちばん自分の魂が、在るところに在る心地がした。
﹁……?﹂
おや、とその瞑目を四あた辺りへ開いて、右門は不審な顔をした。
ぷーんと、酒の香がそこから匂って来るのだった。酔いどれでも近くに倒れているのかと見廻したが、そんな人影もない。
﹁……あ。これか﹂
やっと彼は、謎が解けた。石の前に誰が供えておいたか小さな備前徳利の口から霧きりのように立つ香かおりにちがいなかった。
――それにしても、誰がこれを?
と疑いながら、右門は徳利の口を嗅かいでみた。酒の香はたった今、杉すぎ樽だるから移したように新鮮である。
﹁はてな? ……﹂
偶然、彼の眸が向いた草くさ叢むらから、がさっと、逃げるように人影が起った。背よりも高い尾花の後ろである。
﹁誰だっ﹂
恐かったのは、先よりは右門だったのである。思わずそのせいで声が癇かん高だかく走った。
﹁……は、はい﹂
意外にも、女の返事である。右門は側へ行ってみた。そして再び身みぶ慄るいに襲われた。なぜならば、やかに化けた女めぎ狐つねのように――草の根に顫おののいていた女は、野で見るには、余りに美しい。
襟えりすじの白さ、銀ぎん釵さのかすかな慄ふるえ、帯の光――月の下とはいえ眼に痛いほど沁しみ入いって来る。十九か二は十た歳ち。そして良家の子女であることはいうまでもない。
﹁何をしておられた﹂
﹁お見みの遁がし下さいませ﹂
﹁捕えようなどとする者ではない。わしは柳生家の四男右門だ﹂
﹁存じあげておりまする﹂
﹁知っている?﹂
﹁はい。いつも、泉下の仏にお優しい御ごえ回こ向うを、陰ながら有難いと伏し拝んでおりました﹂
﹁あっ。では其そな女たは……ここの土中に葬られている大機という者と……何か有うえ縁んのあいだがらだの﹂
﹁え。……あの、由ゆか縁りのある者ではございますが﹂
﹁大機は、酒が好きだったのか﹂
﹁ほかに楽しみのない人でございました。ちょうど今日が、家を出た命日。そっと生前好きな酒を手た向むけておりましたところ、あなた様のお越しにうろたえて、こんな所へ身を隠したのでございました﹂
﹁さて、よほど親しい間だの。其そな女たの父か﹂
﹁いいえ……滅めっ相そうもない﹂
﹁では叔父か﹂
﹁そればかりは、どうぞ何もお訊きくださいますな﹂
俯うつ伏ぶせていた身を起すと、女はふいに、草くさ叢むらの陰を出て、あっと眼を瞠みはっている間に、月の露と、虫の音を衝いて、八重洲河岸の濠ほり端ばたの方へ駈け去ってしまった。
三
十兵衛の部屋、又十郎の部屋、右門の部屋――こう一棟の下にいる兄弟たちの窓は、芭ばし蕉ょうの中庭を隔てて、三方から向い合っている。 だが、塀が高いので、邸のうちからは、裏の空地は見えなかった。 右門は、日が暮れると、書庫の上にある中二階の小部屋へ上がっていた。そこから原が見える。月の夜は、冷つめたいあの石が、露にぬれて土どま饅んじ頭ゅうの辺りも見える。 そして、 ﹁――今夜は﹂ と、夜ごと、人待ち顔を、そこに更ふかしていた。 女は、あれから後も二、三度、石へ詣まいりに来た。 その都度、右門はすぐ、裏門から空地へ出て行ったが、彼が土饅頭の側まで行くと、もう女の影は、どこにも見えなかった。芒すすきの陰にも、あれからは隠れていなかった。 ︵名だけでも、なぜ聞いて置かなかったか︶ 軽い悔いの下もとに、何か強い執着が首を擡もたげていた。それはあれ以来冷めない火のように、彼を絶えず焦いらだたせていた。 中庭の芭ばし蕉ょうに、黄色い灯ほか影げが流れた。がらりと、障子を明けて、濡れ縁に人影が立った。十兵衛三みつ厳よしである。障子の隙間から、兵書や禅書を散らした机が見える。 ﹁こよいもいい月だな。もう後のちの月つきか﹂ 独り呟いていた十兵衛は、向う側の窓を見て、 ﹁又十郎、又十郎﹂ と、呼んでみた。 燈あかりは灯ついているが、返辞はない。十兵衛は舌打ちならして、 ﹁蝙こう蝠もりは、また留守か。……しようのない奴﹂ 苦笑して、今度は、 ﹁右門。右門はいるか﹂ と、末弟を呼んだ。 兄の影を見たので、右門はあわてて中二階を降りていた。 ﹁はい。右門はこれにおりますが﹂ ﹁廊下か。来るには及ばん。裏の原へ出て、月見をせぬか、月見を﹂ ﹁よろしゅうございますな﹂ ﹁昼間、仲ちゅ間うげんどもが、網を打って、鶉うずらを十羽も捕ったという。芋いも田でん楽がくに、鶉でも焼かせて、一いっ献こん酌くもうではないか﹂四
酒は好きでなかったが、兄の機嫌を損じてはと、 ﹁では、支度させましょう﹂と、右門は先に、戸おも外てへ出て、若党の佐田承平と、仲ちゅ間うげんの六助とを呼び立てた。 ﹁昼間捕った鶉があるか。あったら、裏の原へ、莚むしろを敷いて、田楽焜こん炉ろに炭火をつぎ、芋いもや串くし肉にくを焼くようにしておけ﹂ ﹁誰が召上がるんで﹂ ﹁兄上だ﹂ ﹁十兵衛様ですか。かなわねえな﹂ 承平と六助は、顔を見合せて、頭をかいた。自分たちの寝酒のさかなにするつもりなのであった。 月の下に、一枚の莚が敷かれた。 十兵衛はやがてそれへ来て、弟の酌しゃくで飲み始めた。 ﹁どうだ。おまえも一ひと杯つ﹂ ﹁私は……﹂ ﹁不自由な奴。相変らず飲めんのか﹂ ﹁すぐ咽むせてしまうのです﹂ ﹁又十郎と半々になるとちょうどよいに。……又十郎といえば、あいつは二刀流だな。わしは眼も一つ、好きも一つだが﹂ ﹁お戯たわむれを﹂ ﹁お前と飲んでいると、他人と飲んでいるようだ。酒は魂と魂の接触、お互いの血が交流するところに味のあるものだが……﹂ 血潮の事をいわれると、右門は、さし俯うつ向むいて、涙ぐんだ。十兵衛には、彼の感傷にあるような細い神経はないのだが、右門には、種さま々ざまな悶もだえや僻ひがみが当然胸を塞ふさいでくるのだった。 ﹁はははは。右門、おまえは酒呑みじゃなかったな。おれの言葉は無理だったかも知れん。――だが、もう少し日常快活に暮せよ。野望を持てよ。剣道が嫌いなら嫌いでいい。何か、政治に心を燃やしてみるとか、禅をやるとか、軍学を究きわめてみるとか﹂ ﹁禅門に入ってみたいと思っております﹂ ﹁よかろう。だが、禅とは、大たい悟ごのことだ。おまえみたいな小しょ胆うた者んものでは、大悟はおろか、迷って見ることもできはせぬ。――まあ、養子の口だな。お父上も心がけておるらしい。いい養子先があったら行く事だ﹂ 十兵衛の無関心な放言は、右門が日常、針を抱くように考えつめていた事ばかりだった。それへざらざらと触るのである。月の莚むしろは彼には、針の筵だった。五
右門は江戸で生れたので、家来の話に聞いただけであるが、この長兄の片目になった原因は、七なな歳つか八やっ歳つ頃の事、柳生城の藪やぶで悪いた戯ずらをしていて、殺そぎ竹たけで目を刺したのが因もとだということであった。その時、泣いて帰って来た十兵衛に、祖父の石舟斎が、 ︵侍の子が、殺ぎ竹で目を刺されたなどは、恥とこそ思え、泣くどころの沙汰か。わしの孫にも、こんな意気地なしが出来よったか︶ 叱られて、退くと、幼い十兵衛は、やがて自分の居間で、朱あけになって昏こん倒とうしていた。家臣が驚いて抱き起してみると、殺ぎ竹で傷つけた眼を、自分の手で小こづ柄かで抉えぐり抜いていたというのである。 ――そういう気性を幼少から持っていた長兄である。右門は、一つ棟に住んでいるさえ、絶えず妙な威圧をうけた。同じ恐いにしても、父の但たじ馬まの守かみには、愛が感じられるが、この長兄はただ恐ろしいだけだった。 ﹁ああ、酔うたなあ。右門……鼓つづみを取って来ぬか。おぬし、猿さる楽がくを舞え。……何、舞えん。然らば、鼓を打て、わしが舞うてみせる﹂ ﹁兄上。こんな所へ、横におなり遊ばしては、体に毒でござります。莚むしろも夜露に、じっとり湿しめっておりまする﹂ ﹁樹下石上は、乞食と武芸者、どちらも馴れておらねばならぬ。……ああ、月天てん心しん。この月を見ていると、天下は泰平、風を孕はらむ不平の輩ともがらもないようだが……﹂ 酒を取りに行った仲ちゅ間うげんの六助が、その時、彼方で、何か大きな声を出した。 ﹁あっ。大機を埋いけた跡へ、またいつもの綺きれ麗いな女が……?﹂ ふと、耳に止めて、右門はすぐ、 ﹁えっ、女が﹂ と、莚むしろから起ちかけた。 横に寝転んでいた十兵衛は、弟の袴はかまを掴つかんで、 ﹁右門。どこへ行く﹂ ――そして彼方に佇たたずんでいる仲間へ、大声で吩いい咐つけた。 ﹁六助。つかまえて来い。この辺りには、女めぎ狐つねがよく出る。逃がすなよ﹂ 六助は、抱えていた酒壺を、草の中において、土どま饅んじ頭ゅうの方へ駈けだした。 女は、すぐ気け取どった。六助が近づかぬうちに、原を斜めに横ぎって、大名小路の方へ走り込んだ。六助も、途中から向きをかえ、何処までもと、追って行った。摘つんだ野のぎ菊く
一
﹁――坐れ。右門﹂ ﹁はい﹂ ﹁おれは知っている。あの大機の墓石へ、足しげく回えこ向うに来る女と、おまえは親しくしているな﹂ 十兵衛は、莚の上に坐り直していう。右門の顔は、月より青かった。 ﹁親しく、親しくなどした覚えはありません﹂ ﹁きっとか﹂ ﹁ええ。誓って――﹂ ﹁ならばよいが﹂ と、十兵衛は、声を落して、いつものような語調に返った。 ﹁女はいずれ、大機の身寄りの者だろう。――ま、それはよいがだ。あの綾部大機とは何者か、そちは心得ておるか﹂ ﹁詳しいことは存じません﹂ ﹁佐竹の家中に縁者があるの、北陸の者だのといって来たが、真っ赤な嘘だ、肥ひご後な訛まりがあるなと、わしは睨んでいた。案の定、死骸を検あらためてみると、懐ふと中ころには祖先の系図や、遺書など所持していた﹂ ﹁遺書を……ですか﹂ ﹁さればよ、死ぬ気で、柳生家の門へやって来たのだ。お父上の但馬守を主家の仇と呪のろい、是が非でも、父上に近づいて、刺さし交ちがえる覚悟で来た漢おとこよ﹂ ﹁解げせぬ事ではございませぬか……。お父上に対して、肥後浪人が主家の仇などとは﹂ ﹁所いわ謂れない事ではない。父但馬守は、過ぐる寛永七年この方、新たに設けられた幕府の職制、大目付という要職に就かれて、剣道師範役を兼ねてお勤めになっておられる﹂ ﹁存じております。家光公の御信任あつく、お父上も御辞退しかねて、当時よほどな御決心でおうけなされたとかで……﹂ ﹁嫌な役だ。誰でも逃げたい憎まれ役なのだ。……なぜといえば、大坂落城以来、徳川家に随身してきた大名のうちには、肚からの随身でないものが幾らもある。また御政治の方針からいっても、大藩の封ほう地ちは、できる限り、削けずり取るか、取とり潰つぶすか、せねばならぬ。その大きな後始末が残っている﹂ ﹁――で、大目付の役が、新たに設けられたわけですか﹂ ﹁外とざ様ま、譜ふだ代いを問わず、諸侯の内秘や藩政の非点をつかんで、これを糺きゅ問うもんに附し、移封、減地、或いは断絶などの――荒療治をやらねばならない当面の悪役が大目付じゃ。お父上でなければできぬ。御上命のあった際、父上は恐らく死を決しておひきうけ召されたに相違ない。――以来芸州の福島正まさ則のり、肥後の加藤忠広を始め、駿する河がだ大いな納ご言ん家にいたるまで、仮かし借ゃくなく剔てい抉けつし、藩地を召上げ、正則も配はい流る、忠広も流るざ罪い、大納言家も、今、御幽閉させて、上意を待たるるお身の上だ。……そのほか大小名、減地移封の目に遭った者は皆、将軍家を怨むよりは、大目付の辛しん辣らつをうらんでおるに相違ない。――綾部大機もその一名なのじゃ﹂ ﹁……あ。それで﹂ ﹁わかったか﹂ ﹁怖ろしいことでございます﹂ ﹁恐れるには足らん。しかし、もし大機が父上に近づいていたら父上とて、どうなったか分らん。いかに達人でいらっしゃっても、死を極めた奴にはかなわぬからな﹂ ﹁そうとは知らず、あわれを思うて、死骸を葬ほうむってやったりなどしましたが﹂ ﹁そこはおまえのいいところだ。白骨になれば、われらみな同魂同性。……だが、あの墓石に近づく身寄りの者とあれば、いわゆる怨みも重かさんで二重の遺恨をふくむ者と視みねばならぬ﹂ ﹁…………﹂ ﹁右門。気をつけろよ﹂ ﹁……はい﹂ 右門は慄りつ然ぜんとして、兄の諭さと誡しに、首を垂れた。 と。その時、空地の遠方から、 ﹁若様っ。十兵衛様。……捕まえました。捕まえて参りましたぞ﹂ と六助の遠い怒鳴り声が聞えて来た。二
眼の前に引きすえられた彼女を見て、十兵衛は、意外らしい顔をした。その美貌と、身ごなしの可しお憐らしさに、眼を瞠みはったのである。 もう観念したものか、いつぞやの夜とちがって、十兵衛のいろいろな詰きつ問もんに、お由ゆ利りは、悪びれずに答えた。 ﹁――決して、父親の身寄りのと、そんな縁故ではございませぬ。大機さまと私とは、あかの他人でございまする。ただ、一つ長屋に住んでいて、私の父が病死する折、お世話になった御恩があるので……柳生さまのお邸で、仕しあ合いに行って死んだと聞き、ふだんお酒が好きだった事など思い出し……お屋敷の往き帰りに、花でもあれば上げたり、時にはお酒など上げに来たまででございます﹂ 可かれ憐んな小娘の顫おののき声には、何の邪じゃ推すいも起らなかった。一徹であるだけに、十兵衛は感動しやすい。殊に、自分が酒を嗜たしなむだけに、酒好きな死者に、酒を手た向むけたという小娘らしい気もちが、ひどく欣うれしくひびいた。 ﹁家はどこか﹂ ﹁薬やげ研んぼ堀りでございます。あの薬師様の裏通りで、糸問屋の持もち長なが屋やに住んでおりまする﹂ ﹁お屋敷の往き帰りに――というたが、武家奉公か﹂ ﹁榊さか原きばら様のお奥へ、お針子に通っておりますので﹂ ﹁親は、浪人者か﹂ ﹁父親はもう……﹂ ﹁うむ、病んだといったな﹂ ﹁はい。死ぬ時、なぜか、侍の妻にはなるなと、遺ゆい言ごんにいいましたが、わたくしは町人ぎらいで、やはりどうかして、武家の家内になりたいと、叔父、叔母にかくれて、お針部屋に御用のない時は、町の道場へ通うております﹂ ﹁なぜ其そな女たの父は、侍の妻になるなといって死んだのか﹂ ﹁御主君の末路やら、自分の末路やら見て、そう考えたのでございましょう﹂ ﹁さてはやはり、没ぼっ収しゅう大名の家来だったか﹂ ﹁わたくしは幼くて、よう存じませぬが、福島様の家中の端で、百石とか取っていた侍と聞いておりまする﹂ ﹁今、身を寄せておる家は﹂ ﹁叔母の家におります。けれど叔母は、世馴れた人で、これからの世間は、何んでも金を持たねばならぬ。……などといって、わたくしに、三味線を習えの、金持の人に近づけのと。……死ぬほどそれが辛うてなりません。大機さまが生きているうちは、大機さまの家へ逃げこんで、叔母に意見をしてもらいましたが、もうそのお人もないし……﹂ 十兵衛は後悔した。よしない話を深問いして、かえって酒が醒さめてしまったからである。彼は、小娘の純情が、可いじ憐らしくてならなくなった。 ﹁奉公に出る気があるか。もし屋敷勤めでも望むなら、召使って遣わすほどに、日を改めて、訪ねてくるがよい﹂ 放して帰す前に、十兵衛はそういった。そして途中が淋しいだろうからといって、若党の承平に町の灯の明るい辻まで、送って行ってやれなどとも吩いい咐つけた。鬢びんの霜しも
一
眼には見えない。眼に見える世相は、泰平というしかない。だが何となく、人心のうちに、不安がある。松の内らしい鼓つづみの音や、神かぐ楽らぶ笛えは町を流れていたが、その音のどこかに悲調がこもっていた。
﹁年く暮れに迫って、とうとう駿河大納言様も、御切腹を迫られたそうな﹂
屠と蘇その香の中に、そんな囁ささやきが町で交わされている。暴君という世評こそあれ、現将軍とは血をわけている間がらの一門の人――その大納言家すら、幕府の確立というためには、犠に牲えにされるのかと思うと、庶民はお互いが、大名でなかった事を、むしろ密ひそかに祝福した。
もっとも、町人でも三代目という。徳川が今その三代将軍の世だ。しかも秀忠の死後、家光が将軍職を受けついでから、まだ年月は浅かった。
幕府三代、武家の覇はぎ業ょうとしたら、もうこの辺でぐらついていい所である。諸国の雄藩も、決して現状に甘んじてはいない。まして、もういちと大乱あらば――と雲をのぞんでいる長刀の武ます夫らおは、山野に数かぎりなくあるし、一藩のうちにも、沢山ある。――泰平と見える世情の裏に、ただそれらの人々が時を計って、沈黙を守っているだけに過ぎない平和なのである。
不安は、一般ばかりでなく、幕府自体が抱いていた。いや幕府自身からそれを醸かもしているくらいなのである。例えば、閣老の土井利とし勝かつは、自身、謀ぼう首しゅとなったような顔して、列藩の諸侯へ、謀むほ叛んじ状ょうを送り、その手応えで、諸侯の肚はらを打診したという――奇怪なうわささえ巷こう間かんに洩れていた。
間もなく、大名の妻子は、国元に置くべからず――という令を発して、その骨肉を江戸へ持った。
また、参さん覲きん交代の制度を厳密にした。また、安あた宅かま丸るその他の巨おおきな兵船を造らせた。また、武家法度をやかましく宣布した。また――大目付の職制を新たに設け、諸国に無数の隠密を放った。
これでは、大名たちも、神経質にならずにいられない。諸藩の動揺や自粛は、すぐ庶民に反映した。その上、福島、加藤などの大藩の没落、大納言の自滅――。
無数の浪人がそこにできた。禄ろくを離れ、主家を離れ、到る所で、
︵乱になれ、乱になれ︶
と、反幕的なものを醸かもし歩いた。
殊に、柳生家の白壁の塀には、
俗剣佞智 流
だとか、
剣ヲ穢 ス剣家
禄 ヲ糞城 ニ積ム
だとか。また、強い敵にはお止流
と呪のろったり、そのほか辛しん辣らつな悪口や呪じゅ咀そが、消しても消しても、何者かが書きちらして行った。もちろんその筆蹟や辞句から見ても、町人の悪いた戯ずらでないことは明白だった。
二
但たじ馬まの守かみ宗むね矩のりは、毎夜、疲れて帰った。 もう彼も六十余歳である。――でなくても今の難局に、大目付を四年も勤めれば、心労だけでも、疲れるほうが当然であった。 松の内は松の内で――それが過ぎるとまた政務で、明るいうちに邸へ帰ったことはない。 ﹁お帰りなさいませ﹂ ﹁お帰り遊ばしませ﹂ 出迎える家けに人ん達の間を通って行くにも、頷うなずくだけで、自然口が重くなる。――黙って、奥の――息子達の部屋よりもう一棟奥の、居間に坐る。 ﹁寒い……。風か邪ぜ気味かな﹂ 呟いて、一ひと頻しきり咳せき込こむ。 その前に、一いち碗わんの柚ゆず湯ゆをすすめて、若い小間使が、彼の背うしろへ廻った。 やさしい手が、背せなを撫でているうちに、咳が鎮しずまった。 但馬守は、柚湯を取り上げながら、ふと、見馴れぬその小間使に、 ﹁誰じゃ、其そな女たは﹂ ﹁はい。由利と申しまする﹂ ﹁新参か﹂ ﹁去年の十月末、御奉公に上がり、二ふた月つきの下しも勤づとめをいたしまして、このお正月から、奥の御用をさせて戴いております﹂ ﹁幾歳だな﹂ ﹁十九になりました﹂ 但馬守はそれなり沈黙していたが、用人の笹ささ尾おき喜な内いが、 ﹁若殿たち、書院にお揃いでございます﹂ と、告げると、そうかと頷いて、更こう衣い部屋にかくれ、老女の世話で、衣服を着きかえると、やがて奥書院へ歩いて行った。 十兵衛と右門のふたりが、並んで坐っていた。 ﹁又十郎はいかがいたした﹂ 但馬守は、着座するとすぐ、不機嫌にそれを十兵衛に詰な問じった。十兵衛は、嘯うそぶいて、 ﹁何処へ出ましたやら﹂ と、答えを外そらし、 ﹁御休養の暇もなく、父上にも、御疲労にございましょう﹂ ﹁天下のお為と思えば、この老骨の死花。疲れは厭いとわぬ﹂ ﹁ですが、大目付などと申すお役目は、自体、お父上の人柄にはないものでしょう。それに柳生家は、剣の家です。醜みにくい葛かっ藤とうや術策や政争の中に、可あた惜ら、老後の晩節を台なしに遊ばしてしまわぬよう――十兵衛はそれを祈りまする﹂ ﹁分っておる。だが、一身を顧みておられぬ場合だ﹂ ﹁お父上が当らなければ、誰かが出て、難局に当りましょう。優すぐれた剣人は、一世にそう何人も出るものではないが、なあに、大目付ぐらいやる政道家は、箕みで掃くほど代りがあります。よい加減に、御退役なされてはどうですか﹂ ﹁それができるくらいなら﹂ ﹁なぜできませぬか。お父上こそは、祖父石せき舟しゅ斎うさ宗いむ厳ねよしから、新しん陰かげの極秘と柳生の正統を、並び授けられて大成なされた――唯一無二の現今の剣宗ではござりませぬか。将軍家に仕える道も、それを以てなされば、それ以上の御奉公はない筈と存じますが﹂ ﹁いや、そちのいうのは、小乗の剣だ。柳生流はそうでない。わしが十三歳の頃、父の石舟斎宗厳に手を曳かれ、初めて陣中で家康公に拝はい謁えつした時、父の石舟斎は家康公の問に答え――柳生流は大乗の剣をもって本旨とするとお答えなされた﹂ ﹁大乗小乗も臨機でございましょう。諸流百派、剣は皆一道と心得ますが﹂ ﹁が、柳生流の極意は、無刀だということを、そちももう悟さとっておろうが。――無刀とは、泰平の体。泰平の策は、治国にある。されば、わが家の兵法は見国の機を悟り、治国の太刀たるところにある。将軍家へもそう御指南申しあげて来た。家康公が、秀忠公の師にと、わが家をお取立てになられたわけも、柳生流のそこに御信任をかけられたからだ。――今、三代家光公の治世となり、天下再び大乱の兆きざしある時、平常、治国の平常を説き、お上の師範たるわしが、この難局を、よそ事に見ておられようか。――もしわしに今のお役目が勤まらぬ程なら、柳生流の極ごく意いは死物となるのだ﹂ 久しぶりに十兵衛は、父の血色に壮者のような紅あか味みを見た。しかし云い終るとすぐ、鬢びん髪ぱつの霜しもをそそげ立てて烈しく咳せき入いった。その姿を見るとまた、消え際の灯の一いっ燦さんのような、悲壮なものに十兵衛は胸打たれた。三
……そのまま、しばらく黙り合っていた。 やがて、父の咳しわ声ぶきのおさまった容子に、十兵衛は語をかえて、 ﹁時に、何か御用ではございませぬか。右門と私に﹂ と、ここへ呼ばれた父の用向きを促した。 ﹁うむ、やはり余の儀ではない。御奉公に就いての事だが――﹂と、但馬守は、口に当てていた懐紙を袂たもとに落しながら、 ﹁又十郎がおらぬが、又十郎は其そ方ちから後で伝えてくれい。最前からも申した通り、わが家の流は治国安民を道とする兵法じゃ。この父に協力して、そち達にも、御奉公を手伝うてもらいたいのじゃ﹂ ﹁手伝えと仰っしゃいますと﹂ ﹁又十郎も其そ方ちも、わしの手足となって、わしが行けという地方へ数年武者修行に出て欲しいのだ﹂ ﹁つまり……隠密的な命を帯びてですな﹂ ﹁まあ、そうじゃ﹂ ﹁行く先は﹂ ﹁九州一円――わけても肥前、大村、天草、島原の辺り﹂ ﹁火の手の揚がりようによっては薩さつ摩まも危ないものでございますな﹂ ﹁其そ方ちも感じておったか。諸州の浪人や豊臣の残党どもなどが、邪宗門に口を藉かりて、土豪土民をあつめておる様子。――長崎奉行あたりの報告では、些ささ細いに申しおるが、宗門と武力が結びつくとなれば、これは捨ておけぬ大事となる。どうだ、行ってくれるか﹂ ﹁十兵衛には、異存ございませぬが、又十郎は、何と申しますやら﹂ ﹁否いなとは云わさぬ。そちからも屹きっ度と申せ。又十郎の身状、平常黙っておるが、知らぬ父ではないのだぞ﹂ ﹁母上が御在世ならばと思うのでござります﹂ ﹁ばかな。又十郎とて、子供ではなし﹂ ﹁いやかえって、他国へ修行に出れば、彼にはよい転機と相成りましょう。……しかし、参るとなれば、五年七年の遊歴は覚悟いたさねばなりませぬが、その間、お父上の身辺には﹂ ﹁右門がおる。右門を残しておこう。病弱でもあるし……﹂ 十兵衛は横にいる弟を見た。父の眼も彼に注がれていた。右門は先さっ刻きから一ひと言ことも云わず、ただ俯向いて畏かしこまっていた。 父は、四人の兄弟中で、誰よりもこの右門が不ふび憫んでならないらしかった。そして最も好きでもあった。十兵衛のように、又十郎のように、右門は逆らったり心配させたりした事がないからである。紅こう梅ばいを繞めぐって
一
又十郎がうんと云わないので、父の但馬守へする返答は遅れていた。けれど、十兵衛自身は廻国に出る決心をしていたし、又十郎の我儘も、今度は通させないつもりで肚に畳んでいた。 中庭の坪には、芭ばし蕉ょうの葉は落ちたが紅梅が咲いていた。 その中庭へ向いている三つの窓の、それぞれの部屋に、今日はめずらしく、兄弟三人とも、机に倚よっていた。 廂ひさ越しごしに、春の雲が麗うるわしい。 又十郎の部屋の窓は、半分ほど開いている。向う側の十兵衛の部屋の窓は、いっぱい開けひろげてあった。 独ひとり閉しめ籠こんでいるのは、四男の右門の部屋だけである。 ︵――怒っているにちがいない。おとといも、行かずにしまったから︶ 又十郎は、頬杖ついて、お駒と向い合って痴ち話わでもしているように、お駒の表情や云い草までを、空想していた。 ︵いっそ、怒らして、仲なか違たがいして切れようか。そして兄が云うように五、六年眼をつぶって、廻国修行に出る︶ そう考えたが、彼には到底、剣で生涯を立てる気にはなれなかった。柳生家は兄が継ぐ。当然自分は、分家して、他藩の指南番か何かに抱えられて、その大名の国元へ赴ふに任んして行く―― ︵一生が見えている事あつまらねえ!︶ 又十郎の呟きは、どうしてもそこに落ちるのだった。かなり自由な家庭だし一万石という家の三男に生れ、都会的な遊びや風潮には、兄弟中でもいちばん染まっている彼である。粋いきで伝でん法ぽうな市しせ井いの風俗を好んで、父や兄にいくら喧やかましく云われても、袴はかまが嫌いで、着流しで出るといった風な彼だった。 もっとも、今流は行やっている隆りゅ達うた節つぶしにも。――君と寝ようか、五千石取ろか……というあの唄が、武士の中にさかんに謡うたわれている時代だから、又十郎と似た考えでいる者は、彼のほかにも巷ちまたにはいくらもあるかも知れなかった。 ﹁おや? ……兄貴が何かやっているぞ﹂ 庭木を隔てて見える向う側の十兵衛の部屋へ、又十郎はふと眼を向けた。そして苦笑を湛たたえながら、机にのせていた肱ひじを、窓まど縁ぶちへ移して、頬杖をかいながら眺め入っていた。二
十兵衛は、いきなりお由利の手をつかんで、そして離さなかった。 茶を運んで来て、彼女が退がろうとした弾はずみにであった。 ﹁あれ……そんな事を遊ばしてはいけません。……滾こぼれます、お茶が﹂ ﹁なぜ逃げる﹂ ﹁逃げはいたしませんけれど﹂ ﹁ならば、おとなしく、もっと寄って坐れ。話があるのだ﹂ ﹁……でも。……でも﹂ ﹁誰に知れても関かまわぬ。わしは、恋はするが、不義はせぬ。何も人目を憚はばかることはない。十兵衛はそちが好きだ﹂ ﹁ま。……そんな﹂ ﹁顫ふるえておるな。わしがこんな片目の醜ぶお男とこゆえ、恐いのか﹂ ﹁いいえ。……そんなわけではございませぬが﹂ ﹁然らば、返辞を聞かせい。いつぞや、十兵衛が遣つかわした恋歌、解けたか﹂ ﹁…………﹂ ﹁そちは、この十兵衛が、好きか嫌いか。好きならば好き――嫌いならば嫌いと申せ﹂ ﹁……おゆるし下さいませ。手が痺しびれて痛うござります﹂ ﹁離してやる。……だが、正直な返答をせぬうちは、ここは出さぬぞ。まだ、急な事ではないが、十兵衛はやがて諸国遍へん歴れきに出て、短くとも、ここ五、六年は帰らぬ身じゃ。そちさえ嫌でなければ、百もも年とせの誓いをして立ちたい。また、厭いやなものならば――ぜひもないが﹂ 障子はいっぱい開あいているし、十兵衛の声は大きいのである。紅梅だの連れん翹ぎょうだの、庭木はそこを遮さえぎっているが、又十郎の部屋からは、手に取るような一ひと間まだった。 ﹁……浮世絵だなあ、まるで。……兄貴にも、あんな欣うれしいとこがあったのか﹂ 又十郎は、にやにやしていた。 ――だが。 そう二つの部屋をつないでいる横の長い棟の――先さっ刻きから寂しんと閉めきっている窓障子の一室には、四男の右門が咳しわ声ぶきもしていなかった。三
﹁…………﹂ 右門は指の細い手を左右の顳こめに当てて、朱机に俯うつ向むいていた。朱い漆うるしの上に、涙が落ちていた。 窓の外から聞えて来る兄の声を、聞くまいとして先さっ刻きから書を繙ひもといたり、香こう盆ぼんを拭いて香炉に火を点じてみたりしていたが、十兵衛の声が耳に聞えている時よりも、聞えていない間の方が、堪たまらない不安と焦しょ躁うそうに駆られてしまう。 きょうばかりではない。 長あ兄にがお由利に対して、想いを示すことは、余りに露骨だった。どうかすると、この自分がいる前でも、びっくりするような事を突然云う。 ︵お由利は自分の気もちを知っていよう︶ 右門はそう思って、彼女が、努めて長あ兄にの側に寄るまいとし、長兄を嫌っている風さえあるのを、やや心の慰めとしていた。 けれど右門には、長あ兄にの心が分ってみると、その長兄と恋を争う気にはとてもなれなかった。そういう恋の敵あい手てがないにしたところで、彼には、彼女へ、面と対むかって、 ︵恋――︶ という一語さえ言葉の中に用いることができないくらいだった。 ――今になって考えてみると、右門は自分の愚がわかる。お由利が屋敷に抱えられて来た当時、無性な欣びにその半月ほどは、まるで子供が欲しい小鳥でも買ってもらったように、彼女と同じ軒のき下したにある身を、独り密ひそかに祝福していたものだった。 長あ兄にがお由利にやった恋歌も読んでいる。お由利がそれを丸めて捨てたのをちらと見て、後から拾い取って見たのである。――狗いぬのような、と彼は自分の浅ましい行為にも泣いた。 思えば、自分が生れてから初めての幸福は、彼女が屋敷へ来てからの十五日間に尽きていたかも知れない。それが生涯のただ一つの記憶として残るだけの事であろう。 ﹁……あっ?﹂ 長あ兄にの部屋の方で、何かやや大きな声と、物音がした。右門は思わず、閉まっている窓の障子へ縋すがって、そこを開けようとしたが、 ﹁……いや?﹂ と、それすら勇気を欠いて、独り苦しんでいる彼であった。 ばたばたと、誰か廊下を小走りに来る。お由利か? ――と右門は青白くなって耳をすました。すると、襖ふすまの外で、 ﹁又十郎様、右門様。御次男の刑ぎょ部うぶ友とも矩のり様が、お越しにござりまする﹂ 爺やの声である。爺やとは老用人の笹ささ尾お喜内で、兄弟たちには、少しも恐いところのない好人物なのである。 ﹁お。……御城内の兄上が見えたとか﹂ 右門はすぐ立った。――が、指で瞼まぶたの腫はれを抑え、衣えも紋んを直してから迎えに出て行った。彼には、兄弟中で誰よりも親しめて、そして一番気のあう刑部友矩であった。四
﹁爺じい、いつも達者だのう﹂ 若党や小僧や、大勢の召使が式台に出迎えたが、頭ずの高い刑部友矩は、目もくれなかった。 ただ用人の喜内老人だけには、そう言葉をかけた。幼少の頃の友矩には、癲てん癇かんのような持病があって、この老人には、そんな世話をやかせた事だの、寝小便の癖までを、知り抜かれているからである。 だが、今は家光将軍の寵ちょ童うどうであり、小姓組では羽は振ぶりがよいし、服装は綺き羅らで、容姿は端たん麗れいな彼だった。奥女中のように柳営にばかりいて、絶えず将軍家の身近くいるところから、大名たちにも頭ず構えの高い癖がついているので、稀たま、宿下がりかお使いで城外へ出ると、やたらに人間どもが賤いやしく見えてならなかった。 ﹁お、兄上、おめずらしゅう﹂ と、後おくれて出た右門が、廊下の途中で迎えると、 ﹁ウム、皆もおるか﹂ と、友とも矩のりはそのまま客書院へ通って、ずっと上座へ坐った。 ﹁きょうは、御内意によって、他へお使いのついでに寄ったのじゃ。来月、浜書院で上様のお船遊びが催される。その折、兄弟どもも皆、誘えという御ごじ詫ょうじゃ。――但馬守に伝えても遠慮するであろうゆえ、そちから申せと、わけても有難い仰せなのだ。――又十郎はおるか﹂ ﹁おります﹂ ﹁兄上十兵衛どのは﹂ ﹁おられます﹂ ﹁右の由を伝える程に、これへ呼んで貰いたいな﹂ 家庭に帰って来ても、友矩は柳営の官僚くさいのが抜けなかった。右門には、そんな臭くさ味みは気にならない。唯い々いとして呼びに行った。又十郎はすぐそこへやって来たが、長あ兄にの十兵衛は、 ﹁用事があるならわしの部屋へ来い﹂ という返辞であった。 ﹁それは当然だ。怒らせさえしなければ、気のいい兄貴。ちょっと挨拶して来た方がよいでしょう﹂ 又十郎は側から勧すすめた。友矩は、上様の内意だとか、何とか、理窟を云っていたが、結局、帰りがけに十兵衛の部屋へ出向いて、しかつめらしく、前と同じ意味のことを繰返して告げた。 十兵衛もまた、友矩に応じて、角張りながら、 ﹁御内意、辱かたじけのうござる。だが、多分それがしは欠席申すやもしれぬ。その折には、君前よしなにお取り繕つくろいねがいたい﹂ 友矩は、狼ろう狽ばいして、 ﹁いやそれは困るな。父上に仰せられず、わざわざてまえに立寄って、告げておけという将軍家のお心づかいに対しても。……ま、そんな事を云わずに、どうか当日は、打揃ってお越し下さい。兄上が来なければ、弟たちも、参り難いではございませぬか﹂ 初めて自分から砕けて、今度は宥なだめるように云った。十兵衛は、恩にでも着せるような彼の口くち吻ぶりが気に入らなかったが、友矩が態度を改めると、機嫌を直して、 ﹁いや、行かない事はない。行けたら行く﹂ と、云った。春しゅ風んぷう烈れっ霜そう
一
汐しお留どめ川がわの地先に新造船の安あた宅かま丸るが、花嫁のように幔まん幕まくや幟のぼりに飾られて繋つないである。 家光は、春の海を四望にして、宴を張った。 寔まことに泰平の盛事である。やがて群臣の小舟をつらねて、浜御殿へ休憩に上がり、数す寄き屋やで茶をのむ。茶事が終ってまた、広芝の浜座敷に寛くつろいだ。 旗本の子弟がたくさん陪ばい席せきに招かれて来ていた。親どもは、こういう機しおにわが子を将軍の謁えつに進めておくことは、一生の栄達の緒いとぐちになると考え、武技の上覧を、側衆まで伺い出た。 ﹁一興だ。見よう﹂ と、上意である。 家光は、広芝に床しょ几うぎを置かせて、数番の試合を見た。そして果てはやや飽き気味な面持ちだったが、 ﹁但たじ馬ま。――今日は其そ方ちの子息ともも見えておる筈じゃが。どれにいる﹂ 扈こじ従ゅうの中にいる但馬守に訊ねた。 すると、その父が答えぬまえに、 ﹁あれに控えておるのが、舎弟の又十郎にござります﹂ と、小姓組の刑部友とも矩のりが、家光の眸を導いた。家光は大勢の若者の中から、鶏けい群ぐんの一いっ鶴かくをすぐ見出したらしく、 ﹁又十郎に起たせい。誰ぞ、腕に覚えの者は、又十郎に対むかえ﹂ と、云った。 又十郎は、上意をうけて、支度して出た。そして選ばれた敵あい手てを四人まで打ち伏せた。 ﹁さすがは柳生どのの三男﹂ と、動ど揺よめきの中に囁ささやきが流れた。家光も、興につつまれて、初めて満足そうな気色に見えた。そしてなおも、 ﹁誰か、又十郎を破るほどの者はないか﹂ と、見まわした。 側近にいる刑部友矩は、家光の歓心を買って、自分の面目のように、 ﹁舎弟を破るものは、恐らく今日のお供中にはおりますまい。けれど、長あ兄に十兵衛の技わざに較くらべれば、まだまだ又十郎などは、乳にゅ臭うし児ゅうじといってよいくらい、段ちがいにござります﹂ と、云った。 家光は、友矩のことばに、興を唆そそられて、十兵衛を呼べ、とすぐに云い出した。だが、陪観者の中には十兵衛の姿が見えなかった。近習たちは、 ﹁たしか見えた筈だが﹂ と、彼の姿を急に探し廻った。 広芝から少し下がった浜辺で、十兵衛は、上覧試合もよそに、弁当を開けて、独りで酒をのんでいた。 ﹁お召です﹂ ﹁十兵衛どの、お召でござるぞ﹂ 姿を見て、駈けて来た近習たちが、こう急せき立てると、十兵衛はもうだいぶ酔のまわった顔を振向けて、 ﹁何の御用か﹂ と、腰を上げようともしなかった。二
﹁御舎弟又十郎殿と、試し合あえという上意でござる。すぐお支度あって、あれへお越しください﹂ 近習のことばを聞くと、十兵衛は首を振って、浜辺の草へ、ごろりと横になってしまった。 ﹁どうなされた? ……将軍家がお待ちでござる。十兵衛どの、すぐという仰せですぞ﹂ 十兵衛は答えずに、眠った振りを装よそおっていたが、執こく揺り起されて、 ﹁御前へ悪しからず、お断りねがいたい。かねて祖父石舟斎からも師し父ふ但馬守からも、柳生流は治国の兵法と教えられておりまする。十兵衛が太刀も、遊ゆさ山んのお座興に供するわけには相成りませぬ。又十郎ごときはせいぜいお慰みには手頃な芸を持っておりますゆえ、彼を稽古台に、余人へ勝負を仰せつけねがいたい﹂ 云い終るとまた、横になって、微びす酔いの懶ものうげな眼を、春風に嬲なぶらせて閉じてしまった。 ﹁…………﹂ 近習たちは、呆然として、佇たたずんでいた。その態ていは、将軍たちの方から見えた。わけて家光は床几に掛けているので、よく見えるらしく、此こな方たへ面おもてを向けていた。 近習はやむなく、駈け戻ってありのまま、十兵衛の返辞を、家光に復命した。 側衆、諸侯、旗本たちの周りの者は色を失った。これは切腹にも当る不敬だと思ったからである。家光は、苦杯を嘗なめたように唇くちを歪ゆがめ、不快な色に漲みなぎった底から、今にも何か、峻しゅ烈んれつな言葉が吐き出されそうに見えた。 ﹁不届きなっ。――私が参って、召連れて参ります!﹂ 昂たかぶった声して、小姓組の中から刑部友矩が起ちかけた。すると、 ﹁刑部待て。かえって、御無礼に当ろうぞ。あのような乱酔者を御前へ曳いては――﹂ と、あわてて押し止めた者がある。兄弟たちの父、但馬守であった。 平ひら蜘ぐ蛛もになって、但馬守は、家光の床しょ几うぎの横に、手をつかえていた。家光はじろと、眼をやって、 ﹁但馬。あの片目は、酔うておるのか﹂ と、苦々しく云った。 ﹁はい。ちと酒を飲たべ過ごすと、前後の弁わきまえなく、心にもない大言を吐き、手におえぬ乱酔者にござります。ぶしつけな申し条、きっと、父として後刻、懲こらしめまするゆえ、平ひらにお宥ゆるし置き下さりますよう﹂ 家光は、許すとも許さぬともいわず、しばらく黙然としていたが、但馬守の老おいの白しら髪がを見ると、不ふび愍んを感じたのであろう、 ﹁目触りじゃ。誰ぞ、あの片目を、見えぬ所へ追い立てい﹂ と云って、床几を向きかえ、 ﹁そうだ、試合を続けい。十兵衛に代って、又十郎に立ち対むかう者はないか﹂ 但馬守は、ほっとしたように、顔を上げた。同時に、静かに立って、 ﹁酔いどれの十兵衛に代り、てまえが又十郎の相手いたしまする。久しく木剣も取りませぬゆえ、試合の程、心ここ許ろもとない心地もいたしますなれど、不興の償つぐないともならば――﹂ 人々は、彼の落着いた身支度と、枯こた淡んな人がらに固かた唾ずをのんで見惚れた。また、子を庇かばう親心と、君に仕える身の辛さを思いやって、惻そく隠いんの情に打たれた。 ﹁又十郎、よいか﹂ と、但馬守は、木剣を把とって、広芝の中ほどに出ていた。三
試合である以上、父おや子この間でも、微みじ塵んの仮かし借ゃくもあろうわけはない。 平常の父は恐い。だが、木剣を持てば、又十郎の心境も自おのずから違う。 ︵おれは若い︶ 遺いか憾んながら、父の老骨に、一撃を加えることになるだろう。当然、彼はそう自負している。 ︵もう親父も老いたな。こんど手合せしたら、おまえの方が、三本に二本は取るだろう︶ 兄の十兵衛が、いつか云った事がある。それからでも、数年間は経っている。その上、父は木剣を取る日は殆どなく、大目付という役に忙殺されて来た。日常、頭のつかい方も、剣人ではなくなって官僚になっている。痛ましいが、勝負になるまい。 ﹁…………﹂ 又十郎は若い柔軟な四し肢しをすっくと伸ばした。父の木剣も正眼である。相構えになって父を見る。 木剣は見えて、父の姿は見えない心地がした。霞かすみという体たいを取ったなと悟る。一呼吸、二呼吸、父の息がひびいてくる。悲しいかな御老体だ。又十郎は打ち込もうとした。とたんに、それを知ったように、父の体が波間の月みたいに揺ゆらっ――と上がった。 ――来る! と感じたせつな、ぱんと又十郎の木剣が鳴った。動作は意識でなく霊だった。どう闘ったか覚えないのである。だがその瞬間、又十郎は木剣を地へ叩き落されていた。さっと、手を伸ばして拾いかけた時、もう一撃、肩を打たれて、 ﹁参りました!﹂ 思わず云って、地へ坐っていた。 残念でならなかった。又十郎は肩で喘あえぎながら、敗れた木剣を把とって、 ﹁短かった。この木剣が、もう三寸程も長かったら、お父上には負けないものを﹂ と、未練そうに呟いた。 その負け惜しみの口悔しそうな態ていが、真実味を漂ただよわせて、見ている家光や周まわりの者にはおもしろかった。人々の面おもてにかるい苦笑がながれた。 するとふいに、但馬守が、 ﹁だまれっ﹂と、辺りの耳を奪うような大だい喝かつで叱った。面に、朱をそそいで立腹したのである。 ﹁今の一言は、柳生の家いえ系すじの者にはない事だ。未練な愚ぐ痴ち。無知な嘆声。聞き苦しいたわ言である。そのような心根ゆえに、この老人の太刀にすら一ひと堪たまりもなく打ち据えられるのじゃ。今日という今日、わしも初めて知った。平常人々から、但馬どのは子に甘い、子に眼がないと嗤わらわれていたことの真実を﹂ ――怒り顫おののいていうのである。はっと又十郎は地へ手をついてしまった。生れて初めて見た父の形相に彼も慄ふるえた。 恐い父としていた平常の父の姿は、実は甘えているからの恐さであった。今の父の面には微塵もそんな弛ゆるみはない。寸分の情も隙も見せない。 ﹁おのれ如き性根の者が、柳生家の子よ、柳生流のつかい手よと、世に思われては、わが家の流りゅうを誤るのみか、流祖の御恥辱と申さねばならぬ。それもこれも、上様より戴く高禄に安んじ、子に愚かなるこの父の許にいて、修行の精進を心に失うておる証拠でのうて何であろう。今日限り、そのような人間は、子でない父でない。勘当申しつけた。――上様のおん前にて、屹度、義絶申し渡したぞ。口惜しくば、その性根のたたき直るまで、修行いたして参れ。――ええ、見るも忌いまわしい奴﹂ 云いながら、但馬守の手にある木剣は、丁ちょ々うちょうと、又十郎の五体を何度も打ち続けていた。 ﹁酷ひどい……余りな一徹﹂ 将軍家は眉をひそめて、側にいる友とも矩のりへ止めろと命じた。友矩が出てゆくと、他の人々もむらがり寄って、なお怒り歇やまない但馬守と、声もなく地に俯うっ伏ぷしている又十郎の間とを、ようやく分け隔て連れて行った。毒
一
四男の右門は、今日の浜はま御おな成りのお招きを、病気といって行かなかった。兄達のいない留守の間のほうが、前々から、むしろ遥かに楽しかった。 だが、楽しい半日も、もう暮れかかっていた。きっと、話しに来るだろうと待っていたお由利は、顔も見せないのである。茶を吩いい咐つけると、他ほかの小間使や小僧ばかり顔を出した。 ﹁どうしたのか?﹂ 彼はとうとう部屋を出た。それとなく邸の間まごとを覗いたが、彼女はどこに働いているのか分らなかった。召使に糺ただせばすぐ知れるものを、そんな勇気は出せないのである。 ――何気なく、父の居間を覗いた。そこへ行くには、錠じょ口うぐちがあって、父の留守中は、用人でも入れないのに、誰か、微かな物音と、人の気配が中でする。 ﹁……あっ?﹂ 仄ほの暗ぐらい杉戸の縁から、彼は眼を瞠みはると、部屋の中にいた人影も、ぎょっとしたように振向いた。――白い顔、すずやかで大きな眸ひとみ。由ゆ利りなのである。 ﹁由利じゃないか。……こんな所に、何をして?﹂ 右門がいううちにお由利の顔は、一瞬の驚きから、常の微笑みに返っていた。 ﹁……お掃除をしておりましたの﹂ ﹁掃除を﹂ ﹁はい。殿様から、今朝お立ちがけに、お机のまわりを、きれいにしておけと、吩いい咐つけられておりましたので……お硯すずりを洗ったり、お机の塵ちりを払ったりして﹂ ﹁ああそうか。誰も手をつけさせない御書斎だが、そなただけは、格別、お父上も信用していらっしゃるものとみえる。……もう済んだのか﹂ ﹁ええ、もうすぐに片づきまする﹂ ﹁何じゃ、白い粉が、畳にも、そちの膝にもこぼれているが﹂ ﹁殿様のお咳せきの薬を、御ごほ書んを取りのける弾はずみに、つい滾こぼしてしもうて﹂ ﹁あ、持薬のおくすりか。……由利、ちと話があるが、ここで聞いてくれるか﹂ ﹁いけません。朋輩たちが、この頃は、とかくわたしを、嫉ねたみの目で視ております。晩に……﹂ ﹁晩に……﹂ ﹁え。そっと、空地の塚の所で﹂ ﹁あの石のところでか。……じゃあ、八や刻つが鳴ったら行っているぞ﹂ 右門は、約束すると、一刻もそこにいては悪いように、あわてて錠じょ口うぐちの外へ出て行った。 畳の目のあいだに沈んだ白い粉を注意ぶかく拭き取ってから、お由利は、懐ふと中ころへ忍ばせた幾通かの書類を抱いて、その後から、静かに出て来て、錠口の後をピチと閉めた。二
十兵衛も帰らない。又十郎も戻って来ない。ただ一人、暗然と但馬守だけが帰邸した。それももう網あみ雪ぼん洞ぼりに廊下の暗い頃であった。 浜はま御おな成りの出先で、憂うべき事件のあったことは、留守居の家臣たちはもう知っていた。だが、但馬守の悄しょ然うぜんとした姿を仰ぐと、誰も胸がつまって、一語も云えなかったのである。 用人の笹ささ尾お喜内老人が、やがて但馬守の室へやへ這入って、しばらく、密ひそやかに話しこんでいた。喜内の嗚おえ咽つが洩れた。老人は涙の顔を、懐紙につつんで退がって来た。 ﹁案じ召さるな。どうなろうと、御父子の血は濃い。深い思し召のあることじゃ﹂ 侍部屋へ来て、喜内老人はいった。そして何を問われても、後は黙りこんでいた。 八や刻つの木が鳴った。 邸内の灯りが減へってゆく――待ちかねていたように、右門は戸そ外とへ忍び出した。兄達が帰らない原因は薄々耳にした。けれど、このままとは思われなかった。またすぐ帰るものと信じていた。土どま饅んじ頭ゅうのまわりには、若草が萌もえて、もう古い塚みたいになっていた。 ﹁どうしたろう?﹂ 右門は、石のまわりを、繞めぐり歩いた。そしてふと、地下の白骨を思い泛うかべた。綾部大機の死骸が、ぞっと記憶の底から呼び出された。 ﹁ああもうじきに……半歳になる﹂三
﹁はて?﹂ 但馬守は、持薬の咳せきの粉ぐすりを口に含んだが、そのまま、嚥のみ下さずに、じっと顔を上げたなり、舌先に溶ける薬の味をさぐっていた。 ﹁……どう遊ばしましたか﹂ 側に、手をつかえていた老女が、不審顔して、彼の容子を見上げながら訊ねた。 但馬守は、片手に、水の茶碗を持ったまま、突然立って、 ﹁外を開けい﹂ と、廊下へ立った。 そして口にふくんでいた薬を、水と共に、がぼっ――と闇へ吐き出した。 ﹁たか女﹂ と、老女の名を呼んだ。 ﹁はい﹂ ﹁この薬、いずれから持って来た﹂ ﹁いつもの、お手てば筥この薬やく嚢のうから一錠取って参りました﹂ ﹁書斎の本箱の上のか﹂ ﹁左様でござりまする﹂ ﹁手てし燭ょくをつけてくれい﹂ 但馬守は、そこから二間ほど先の一室へ這入って行った。――そして一見、何の変りもなく見える部屋の隅々までを見廻していたがふと膝を折って、指の先で軽く畳を弾はじいてみた。 畳の目から、微かな、白い粉が浮いて出た。彼は、思うところと符節の合ったようにうなずいた。 二つ目の本箱を開けた。細かい棚に、絵図や書類が整理されてある。大目付に就役以来の物ばかりが入れてあるので、あるべきはずの書類の何通かが失くなっていた事も、一目ですぐ気がついた。 ﹁喜内を呼べ。――躁さわがずに、静かに﹂ 老女は、でも、色を変えて走らずにいられなかった。喜内はすぐ飛んで来た。 ﹁殿。――何事が起りましたのでございましょうか﹂ ﹁大した事ではない。はやくそちにいうておけばよかったが、公務のみ一念に、家の些さ事じはと、顧みもせず、打捨てておいたのがわしの落度。――由利という新参の小間使、もうおるまいが﹂ ﹁いえ。おると思いますが﹂ ﹁いや、おるまい。――じゃが念の為、何か他ほかに異変はないか。邸の内、一応、静かに検あらためてみい﹂四
橋はし袂だもとの堤どて芽めや柳なぎの糸が、ゆるい流れに届くほど垂れている。 柳の上に、月があった。水の瀬には、月影が落ちていた。春だが冴さえた晩である。それだけに、物の陰は闇が濃かった。 恋と死神に憑つかれたように、右門はここまでふらふらと来てしまった。﹁白しら魚おばし﹂と橋はし杭ぐいの文字を見た時、はっとした。 ﹁由利、どこで……どこで死ぬのか﹂ ﹁おやしきの追手が、気がかりでございます。もし捕まったら、あなた様もわたくしも……﹂ ﹁恥だ。生きているよりも――﹂ ﹁大川までは、逃げきれませぬ。いっそここで﹂ ﹁深いだろうか﹂ ふたりは、水を覗のぞいた。お由利はだまって、帯の間から、ふた包みの薬を出して、右門へその一つを分けた。 ﹁……毒?﹂ 右門の手はふるえた。お由利はにっと笑って、もう包を開いていた。そして、あっと思ううちに、嚥のみくだしていた。 ﹁さ。……右門様、御一緒に﹂ 思慮にただしてみる遑いとまもなく、右門もあわてて毒を嚥のんだ。ふたりは抱き合って、橋袂だもとの崖のふちに立った。 ﹁あっ、待て﹂ ﹁右門ではないかっ﹂ 誰なのか、後ろから迅い跫音なのだった。その声に、かえって、右門は突きのめされたように、ざぶん――と河かわ面もの月影を砕いて自分を投げ入れてしまった。 刹せつ那な――お由利は、片手を柳の枝につかまって、岸の上に身を残していた。そして飛ひま沫つと一緒に、ばたばたと逃げ走った。 旅たび拵ごしらえの武士が二人、一足おくれに駈けつけて来た。十兵衛と又十郎の兄弟であった。 ﹁右門は、わしが救い上げる。又十郎、お由利を追え、お由利を﹂ 十兵衛は、橋の下流に繋つないであった小舟へ跳んだ。救い上げはしたものの、右門は水を嚥のんでいた。しかし、かえってそれが僥ぎょ倖うこうであった。舟べりで兄の十兵衛に背を叩かれて、右門は、夥おびただしい水と共に、毒もきれいに吐いてしまった。天命一つ一つ
一
﹁兄上、捕まえて来ました﹂ 岸の上で、又十郎がいう。お由利はその手に捕われていた。 ﹁橋の欄てすりへ縛くくっておけ﹂ 濡れ鼠の右門を抱えて、十兵衛は小舟から上がって来た。――右門はまだ生きている自分を見出したよりも、水にも濡れていないお由利の姿を見て、世にあるまじき不思議のように、あっと、顫おののいてさけんだ。 ﹁舎おと弟と。これ右門……。恥入る事はない。おまえは、四人の中では純情なのだ。同時に、人が好よすぎるから、かねがね危ないと思ったゆえ、この十兵衛がその美しい魔ものをそちの手から奪い、わざと自分の側へ側へと寄せつけておいたのに。……とうとう死の淵へ引きずり込まれたな。危ないところだった。もう一足遅かったら﹂ と、又十郎を顧みて、 ﹁どうじゃ。わしの意見は、嘘ではなかったろう。お駒はこれの姉なのだ﹂ ﹁分りました。迷夢がさめてみれば、お駒の日頃にも、思い当るふしばかりでございます﹂ 又十郎も、慚ざん愧きに堪えぬように俯向いて実あ兄にの前にひざまずいた。二
――今日、浜御殿の広場で、父に打ちょ擲うちゃくされた上、勘当とまで、極端な叱りをうけた又十郎は、お駒の家で、自じぼ暴う自じ棄きな酒をあおっていた。 そこへ、すぐ後から十兵衛が追って来た。 ︵馬鹿――︶と、実あ兄には罵ののしった。︵きょうの御打擲は、慈父の太刀だ。あの大愛の木剣がわからないのか︶ と、涙をながしていった。 そして、側に酌しゃくをしていた湯ゆ女な上がりのお駒へ向い、 ︵おまえは、又十郎を擒とり人こにしたが、同時に、又十郎を情い人ろにもしたので殺しかねたのであろう。妹のお由利は、おまえに較べれば、まだずんとしっかり者だが、柳生の家へ仇しようなどというのは身の程を知らな過ぎる。無用な敵対は思い止とどまって、姉きょ妹うだい尼にでもなって亡き家来の回えこ向うでもしてやったがよい︶ と、鋭い眼の裡にも、優しみをこめて、懇々と諭さとした。 又十郎は、兄のことばが、初めは解せなかったが、だんだんと説き明かされて、悪夢のさめたように覚った。 お駒とお由利は、由ゆい緒しょある大家の息むす女めだった。ここ数年間に、取とり潰つぶされた犠牲大名のうちの一家、加藤忠広の家老加藤淡路守の遺わす子れがたみで――先に死んだ綾部大機は、忠義無類なその家来であった。 姉きょ妹うだいと大機は、主家の没落後、江戸へ流れて来て、大目付柳生家を、ふかく怨みに思っているところから、その報復を、永いあいだ心がけていたものだった。 そしてお駒は、湯ゆ女な奉公しているうちに、又十郎から柳生家の内状をそれとなく探り、大機――お由利――と順々に手てだ段てをかえて、但馬守の生いの命ちから、十兵衛、又十郎、右門、とすべての者の血脈を断って怨みを雪そそごうと企くわだてたものである。 ︵わしは、ほぼ察していた。だが、この姉きょ妹うだいや大機のうしろには、もっと無数の天下の敵が潜んでおる。その糸の繋つながりを見るまではと知らぬ顔してながめていたのだ。おそらくお父上もはやお悟りと思う。――又十郎、もう湯女修行は切上げて、ここらで父上の大愛に、お酬いせねばなるまいが。いやそちばかりの事ではない。わしも自分の父が石とならぬ間に――︶又十郎が心から悔いて、家兄の前に慚ざん愧きの手をつかえ、修行を誓っているあいだに、いつの間にか、座から姿を消したお駒は、裏の水屋の板の間で、以前の由緒も偲しのばれる懐剣で、見事に、自害して果てていた。 ――兄ふた弟りは、そこからすぐ旅支度して、八重洲河岸の邸の外まで立ち廻った。塀の外からよそながら父但馬守に別れをつげたのである。去ろうとすると、喜内が追いかけて来て、たった今、云しか々じかの騒ぎと――右門とお由利の姿が見えない事を告げた。 ︵しまった。さては︶ 後を追って、探し歩いた兄達の懸命が届いて、たった一歩のところで、右門の生いの命ちは拾われたのであった。三
月は、水に澄んでいた。柳の糸や、流れは風邪に騒いでも、月はいつか澄んでいた。 ﹁右門、はやく帰れ。……身を大事にせい。お父上を守ってくれる者、そちだけを、頼みにして行くぞ﹂ 十兵衛も云った。又十郎も繰返した。 ﹁五年で帰るか、十年で戻るか、行く手も知れぬ世の中の峰をさして、わしらは修行に赴ゆく。父上への孝道は、これ一筋と、思い極めて赴ゆくのだ。頼むぞ、後は﹂ ﹁はい……。おさらばです﹂ 右門は、別れかけたが、ふと、 ﹁兄上、この女﹂ と、橋の欄らんに縛られているお由利を、彼はまだ痛々しげに、眼から捨てきれない容子で訊いた。 ﹁触さわるな。棘とげのある花だ。そうしておけ﹂ 十兵衛が云うと、お由利は、きっと眸ひとみをつよめて、その顔を見返した。彼女の嚥のんだのは、毒ではなかったのかと右門はやっとその時覚った。 ﹁若様、若様たち﹂ 喜内老人であろう、二階笠の紋じるしの提ちょ灯うちんを振って、河かわ堤どてから、橋を越えて去りゆく兄弟へ、涙声をふりしぼった。四
天草の乱、島原の変は、その翌々年、天下を一時、暗あん澹たんと脅おびやかした。兵火は歇やんだが、十兵衛は四年、又十郎も約九年間は帰らなかったという。右門は、その後、父但馬守の位いは牌いを捧げて、国元の大やま和と柳生の庄へ引ひき籠こもった。芳徳寺の第一世烈れつ堂どう和おし尚ょうは彼である。また、春秋十数年の後――但馬守の跡をついで将軍師範であった十兵衛三みつ厳よしは、ある年、郷里の柳生にあって、野外に放ほう鷹よう中、忽こつ然ぜんと、急病で死んだ。
慶安三年の三月。寿じゅ、わずか四十四。ある者は、草間がくれの鉄砲で撃たれたといい、ある者は、毒水にあたって死んだといい、異説まちまちであるが、もしこの頃まで、お由利が生存していたとすれば、またそこに、べつな想像をしてみる余地もある。
江戸柳生三代の人は、いうまでもなく又十郎――飛ひだ騨のか守み宗冬である。決して、若くして資性英武ではなかったが、晩成一道を究きわめて、長寿長く、渾こん然ぜんと大成を遂げた。