夕顔の門
吉川英治
﹃はてな。……閉めて寝た筈だが﹄
と、若(わか)党(とう)の楠(くす)平(へい)は、枕から首を擡(もた)げて、耳を澄ました。
――風が出て来たらしい。
海が近いので、庭木には潮風が騒(ざわ)めいている。確かに、寝しなに閉めたとばかり思っていた庭木戸の扉(と)が、時折、ばたん――ばたん――と大きな音を立てている。
楠平は、手燭を灯(つ)けた。そして揺れる灯を庇(かば)いながら、庭へ出て行ったが、主人たちの住む南側の母屋を見て、眼を恟(すく)めた。
﹃あっ、お市(いち)様の部屋が開(あ)いている?﹄
口走りながら、楠平はそこへ寄ってみた。雨戸が二尺ほど開いているし、縁の内をそっと覗(のぞ)くと、暗くてよく分らぬが、何か取乱れている気配がする。
﹃――お嬢様、お嬢様﹄
ふた声ほど呼んでみた。
返辞はない。
楠平はすぐ、はっと或る予感の的中を思って、体が顫(おのの)いた。
明日は、家中の人、曾(そが)我(べひ)部(ょ)兵(う)庫(ご)へ嫁(とつ)ぐというので、きょうも一日、曠(は)れの荷物や、何かの支度に、忙(せわ)しく暮れたこの部屋だった。
﹃旦那様っ、旦那様っ。――お嬢様のお部屋が開いておりますが。そして、お嬢様のお声もしませぬが﹄
雨戸の外から、主人の寝所をたたいて彼が告げると、
﹃なにっ、娘が居ないと?﹄
田(たま)丸(るそ)惣(うし)七(ち)の夫婦は、刎(は)ね起きたらしく、遽(にわか)に家の内には、狼狽する気配が聞かれた。
娘のお市の行状に就(つい)ては、田丸惣七夫妻も、薄々は一抹の気懸りを抱いていたものとみえて、
﹃さては、格(かく)之(のし)進(ん)めに唆(そその)かされて、明(あし)日(た)を前に、立ち退いたものとみえる。……不! 不(ふら)埓(ちも)者(の)めが!﹄
と、狼狽の中に、惣七の怒りの声が洩(も)れたと思うと、軈(やが)て、
﹃おまえが悪いっ。女親として、知らずにおる事があるものか﹄
と、彼女の母親を、恐しい声で叱りとばした。
――わっと、泣き伏す声がした。お市の母が悔い泣くのである。
その泣き声を、惣七は又叱りながら、
﹃ば、ばかめ! 泣いていて済む場合か。遺書を見い、上方へ行くとある。わし達が寝(やす)む迄は、何の気振も見えず、この部屋の灯(ほか)影(げ)に姿が見えた彼(あい)奴(つ)だ。――差しずめ、一刻も早く、手配をするのが肝要じゃ。まず斎(さい)地(ち)どのへ報(し)らせに行け。岡村へも、野坂へも。――早く、早く﹄
――まだそう遠く迄は走っていまい。
それに夜(よな)半(か)は、浜から出る船はない筈だから、足どりも、山越えを指して行ったに違いない。
楠平は、自分の若党部屋へもどって、慌(あわただ)しく身支度をする間に、そう考えた。
﹃旦那様。ひと足先に、てまえが追いついて、お嬢様を抑えて置きますから、お後からすぐ﹄
出がけに、外から云うと、惣七は、窓から顔を見せて、
﹃楠平か、楠平か﹄
﹃はい。はい﹄
﹃よく気がついた。早く行ってくれ。――浜ではないぞ。道どりは山の方らしい﹄
﹃てまえも、そう考えます﹄
﹃わし等も、手配をして、すぐ後(あと)から行く程にな――﹄
楠平はもう外へ駈け出していた。主人のおろおろした声が耳に残って、いつまでも心が傷(いた)んだ。
中津の城下は、もう何処も寝しずまっていた。小(おが)笠(さわ)原(ら)家(け)八万石のお城にも、ポチと小さい灯が仰がれるだけだった。
道は、山国川の流れに添って行く。町から離れ、村から遠去かるに従って、登りにかかった。
宇(う)佐(さ)まで六里。小倉まで十五里半。
峠(とうげ)の追分まで来て、ほっと楠平が汗を拭っていた時である。もう戸を閉(た)てて人気もない筈の山茶屋の陰から、人影が二つ――寄り添って彼(あな)方(た)へ行くのが見えた。
﹃あっ? ……やっぱり相手は格之進﹄
楠平は、覚られないように、身を屈(かが)めて追いかけた。
もう一人の方は、紛れもない主人の娘の――お市であった。
﹃お待ちなさいっ。――お嬢様、格之進様っ﹄
不意に馳け寄って、楠平は、男(ふた)女(り)の袂をつかまえた。
男女は吃(びっ)驚(くり)して、彼の手を振払ったが、楠平は先へ廻って、道に立ち塞(ふさ)がった。
﹃何とした事です。お嬢様もお嬢様なら、格之進様も又、武士にあるまじき為され方。――さ、お帰りなさいませ﹄
﹃…………﹄
若い男女は、恟(すく)んだまま、楠平の甲(かん)だかい声に、顔いろを顫(おのの)かせていた。
﹃今のうちにお帰りなされば、誰もまだ知らぬ事、お嬢様も傷がつかず、格之進様も御無事で済みましょうが。……おふたりの仲は、楠平も以前から、薄々はお察し申しておりましたが、お嬢様には、親御様のお口から、嫁に遣(や)ろうと誓った歴(れっ)乎(き)とした良(おっ)人(と)のある身。――それを、明(あし)日(た)は御婚礼という今夜、こんな事を遊ばしては、親御様のお立場は何うなりましょうぞ﹄
――すると、それまで黙っていた深見格之進は、
﹃これ楠平。若党の分(ぶん)際(ざい)で、いらざる事に出(でし)洒(ゃ)張(ば)るな。もう御城下を出奔したからには、男(ふた)女(り)の恋は命がけ、ここは二人が、恋に勝つか死ぬかの峠だ﹄
﹃では、何うあっても﹄
﹃知れたこと!﹄
﹃……でも、お嬢様は、よもや御両親を苦境に捨てて、後は何うでもなれというお考えでは御座いますまい。口の巧い、容(かお)貌(だ)ちの美(よ)い男に限って軽薄なもの。――永い行(ゆく)末(すえ)に、御後悔をなされますなよ﹄
﹃おのれ、今の言葉は、誰を指して? ――﹄
と、格之進は不意に刀を抜いて、楠平の横顔へ斬りつけた。
楠平は、わっと両手で顔を抑えながら五、六歩ほど蹌(よろ)めいた。
そして一度は、腰をつきかけたが、血を浴びた刹(せつ)那(な)に、彼にも武士の性根が勃(ぼつ)然(ぜん)と眼を醒(さ)まして、
﹃もうこの上は!﹄
と、刀を抜合せて、烈しく斬返して来た。
格之進は、彼の鋭い切っ先を、何度もかわしながら、彼の弱るのを待って、滅多斬りに刀で撲(なぐ)った。
お市は、自分の幼い時から、背にも負われ、手にも抱かれた召使なので、さすがに面(おもて)を向けていられなかった。
﹃――もう、もう、止してください。格之進様っ。止して下さい。……あっ、誰か彼(むこ)方(う)から人が来ました。はやく此処を﹄
﹃えっ、追手が来た?﹄
彼女のことばに度を失って、格之進は血刀を提げたまま、お市の走るのに尾(つ)いて駈け出した。
だが、その翌々日、男(ふた)女(り)は、門(も)司(じ)から赤(あか)間(ま)の関へ行く便船の中で、追手の者に、捕まってしまった。
然し、連れ戻されたのは、お市だけで、男の深見格之進は、島の多い海峡の瀬戸口で、追手の隙を見て海へ飛びこんでしまった。
勿論、この事は、田丸家の内輪の者だけで、極秘にされ、お市の婚礼は、急病という態(てい)で、延期された。
若党の楠平は、重傷だった。けれど生(いの)命(ち)だけは取止めたので、彼の義兄で、身分の低い同藩の侍――尾形周蔵を呼んで、懇(こん)篤(とく)に引き渡した。
その後、半年以上も過ぎて、お市の結婚は、極めて質素に執り行われた。――かねて正当な婚約のあった同藩の曾(そが)我(べひ)部(ょ)兵(う)庫(ご)が、その日からの彼女の良人であった。
× ×
× ×
享保二年から八年までの歳月は、またたく流れた。
十九の年の過(あやま)ちも、六年前の夢となって、お市は今なお水々しい二十五の御(ごし)新(ん)造(ぞ)ぶり、良人の曾我部兵庫は、四十近い寡(かも)黙(く)な侍であった。そして明けても暮れても、静かな海(うみ)騒(ざい)と、長(のど)閑(か)な陽あたりの他(ほか)、何事もない城下町では、この一家庭も、勿論、平和に見えた。ただ夫婦の仲に、子がないだけが淋しく思われる位なものであった。
七夕も近い――夏の或る日の黄(たそ)昏(が)れだった。
お市は、ぽつねんと、雑草に委されている庭に立って、夕方の星を仰いでいた。まだ、外も、窓も、仄明るかった。
﹃お市っ。――鷹(たか)はどうした?﹄
良人の書斎から、兵庫の声が、その姿へ、鋭く投げられた。
﹃…………﹄
星を見ていたお市の眼は、そこらの木を梢から梢へ移されたが、良人の方は見もしなかった。
﹃……居りません﹄
と、冷ややかに云ったのみで。
兵庫は、書き物に疲れた眼をあげて、筆(ひっ)架(か)へあらく筆を擱(お)いた。
彼の周りは、書物に埋っていた。
伸びるままに委せてある庭の雑草のように、彼の身のまわりも、独り者のように、散らかって、塵(ちり)が積っていた。
﹃居ない? ……。それは当り前だ。そんな所に立った儘、庭木を見ていた所で、見える筈はない。外を歩いて探して来い﹄
﹃…………﹄
彼女は然し――その立っている所から動かなかった。
今し方、良人に代って、鷹小屋の中へ這入って鷹へ餌(え)をやる時、過まって、鷹を逃がしてしまったのである。
鷹の糞(ふん)だの、羽虫のにおいだのがして、その中へ這入ると、彼女はいつもむっとする。だから彼女は鷹が嫌いであり、鷹に不親切であった。
飼い馴れている鷹であるから、本来逃げる筈のものではないが、彼女の姿を見ると、鷹も怒(いか)るのであった。過(あや)失(ま)ちの因(もと)は、そこにあった。
それを良人の兵庫は、叱りはしなかったが、
︵探して来い︶
と、先(さっ)刻(き)から云っているのだった。
︵馴れた者が、口笛をふくなり、手をあげて呼べば﹇#﹁呼べば﹂は底本では﹁呼べは﹂﹈、鷹は拳(こぶし)に降りてくる。おまえも、鷹匠の妻ではないか︶
とも云うのである。
だが――彼女はその命に従がえなかった。
星を見ていた……。
ここに居ない、遠くの人が思い出された。
そして現在の自分に、ほろほろと理由なく泣けて来る――
﹃まだ其処に居るかっ﹄
兵庫の声は、烈しくなった。
﹃もう年老いて、猟には使えぬ古鷹だが、年来、わしが餌(え)飼いして来た鷹だ。それに人に馴れ過ぎているので、この家を離れれば、すぐ心ない童(わらべ)たちに捕まるか、猟師に撃ち殺されてしまうだろう。――余り暗くならぬうちに、早く見つけて来い﹄
﹃……御無理です﹄
﹃なに、なぜわしの吩(いい)咐(つ)けが無理か﹄
﹃女などに、鷹を捕まえて来いなどと仰っしゃっても﹄
﹃其(そ)方(ち)が逃がしたのではないか﹄
﹃逃がしたから、その咎(とが)を責めて、困らしてやろうというお考えですか﹄
﹃誰が、妻の困るのを見て嬉ぶものがあろうぞ。そなたも鷹匠の妻でないか、もう五、六年も朝夕わしのする事は見て手心も知っている筈。――今渡した鷹笛をふいて、彼(あな)方(たこ)此(な)方(た)と、庭木の多い屋敷を歩いて居れば、きっと鷹が聞きつけて降りて来る﹄
﹃……そ、そんな、見ッともないことが﹄
﹃何が見ッともないのか﹄
﹃御自身で探していらっしゃれば、よいではございませぬか﹄
﹃十日以内には返上すると約束して、他家から拝借した﹁放(ほう)鷹(よう)故(こじ)実(つ)﹂を、こうして今、懸命に写しておるので手が離せぬ。……アア行(あか)燈(り)もまだ灯(つ)いていないの。燈(ひ)の用意はわしがするから、さがして来い、鷹を探して来い﹄
すぐ側にある行燈を引き寄せたが、掃除の届かない油皿にも塵(ちり)が溜っていて、付木の火を移すと、バチバチと火花が刎(は)ねた。
いつのまにか、お市の姿は、庭から消えていた。
鷹を探しに外へ出て行ったものとばかり思って、兵庫は又、机に屈(かが)みこんでいたが、ふと、彼女の部屋に物音がするので顔をあげてみると、お市が鏡台に向って、いつもの夕化粧をしている姿が、萩戸を透かして見えた。
﹃居るのかッ、未だ!﹄
こう呶鳴ると、彼は無意識に、机の上の物を掴んで、彼女の部屋へ抛りつけた。
それは、朱(しゅ)墨(ずみ)を卸(お)ろす丸(まる)硯(すずり)だった。萩の簀(す)戸(ど)を突き破った硯は、箪(たん)笥(す)にぶつかって、彼女の坐っている側に躍(おど)った。
﹃――今、行きかけている所です﹄
お市は、見向きもせず、櫛の手をうごかしていた。くわっとした兵庫も、彼女の声の底に、何(い)日(つ)にない冷たさと落着きぶりを感じたので、黙って、見まもっていた。
――次に、お市は箪笥を開けていた。閉めたり開けたりする抽(ひき)斗(だし)の環(かん)の音がだんだん荒っぽくなる。
着物を更(か)え、帯を締め、そして何か手廻りの物を包み初めた様子に――兵庫は、
︵又、始まったな︶
と、覚(さと)って、舌打した。
﹃……お話がございますが﹄
と、彼女は、改まって、良人の前へ来て坐った。
﹃……なんだ﹄
﹃お暇(ひま)をくださいまし﹄
﹃…………﹄
﹃貴(あな)方(た)は、妻よりも、鷹の方が可愛いいお人なんですから﹄
﹃…………﹄
﹃この部屋も、鷹の書(ほん)でいっぱい。家の中も鷹の抜毛や餌でいっぱい。何処を向いても鷹臭いほどです。――貴方がいちばん御機嫌のよい時は、餌をやりながら、鷹と独り言に話しをしている時でしょう。――鷹になさる程な優しい顔を、妻にはした事のない貴方です﹄
﹃わしは、藩の鷹匠だ、書物を見るも、鷹を飼うも、わしの天職――わしの御奉公。――当りまえな勤めではないか﹄
﹃ですから、わたくしは、此(こ)家(こ)を去って参ります。どうか、お暇を下さいまし﹄
﹃易(やす)い事だ。……おまえが来てからも、この家の行燈の灯皿には、いつも虫の死骸や塵が沈んだままだ。居ても居なくても、何の変りはない﹄
﹃よ、ようござんすね。……では﹄
﹃だが、待て﹄
﹃御未練ですか。武士のくせに﹄
﹃はははは。――イヤそう思って居てもよい。其(そな)女(た)の出て行く出て行くもこれで何度か﹄
﹃はい、今日こそは、出て参ります。此の家へ嫁いで来てから、わたしはただの一日でも、倖せだった事はないのですから﹄
﹃仕方があるまい……﹄
﹃ど、どうしてですか﹄
﹃そうして、一日一日でも、親に為した不孝の罪を償うのが、せめて其(そな)女(た)のとる道ではないか﹄
﹃…………﹄
お市は、ちょっと青ざめた唇を、きりっと噛んで、詰め寄りながら、
﹃それは一体……何の……何ういう意味ですか﹄
﹃自分の胸に問え﹄
﹃父の惣七も、私の母も、実(さ)家(と)は無事に暮しています。何が、わたくしが不孝をして、親たちを﹄
﹃やかましい﹄
﹃いいえ、いいえ﹄
﹃だまれ。惣七殿が御無事なのは、わしたち夫婦が、何事もなく、いや何の風波も無いように、世間へ見せているからではないか。――あの好人物な惣七殿を初め――其女の一家が、わしの胸一つで、気の毒な事になると思えばこそ、わしは彼(あ)の時、何事もいわずに婚儀をしたのだ﹄
﹃そ、そんな、偽った気持――わたくしは嫌いです﹄
﹃何を云う。誰が、偽った気持など抱きたかろう。――だが、わしはお前の両親に、頼むと、手をつかれた事があった﹄
﹃知りません。父が貴方と婚約した事すら、わたしに黙ってしたのですから﹄
﹃いや、まあ聞け。武士として、頼むと、手をつかれる程、辛い事はない。其女はいつも口癖に、わしには愛がないように申すが、それは僻(ひが)みというものだ。いちど自分の持った女――無智なら無智で不(ふび)愍(ん)と思う――まして惣七殿が泣いて手をつかえた親心もある。きょう迄わしは、一度でも、其女を憎いとはしていない。飯(めし)櫃(びつ)でも使い馴れる迄はクセのあるもの。わが妻と成しきる迄は、そのクセも抜こう、磨きもかけよう。――そう考えて努力して来たが、その大きな愛が其方にはまだ分らぬ﹄
﹃分りました。――そうです、わたくしなどは、どうせお飯(ひ)櫃(つ)ぐらいにしか、貴方には考えられていないのですから﹄
﹃今に分る。もっと長く長く、わしと生(くら)活(し)ているうちには﹄
﹃そんな辛(しん)抱(ぼう)はもう……。思うだけでも、身がふるえます﹄
﹃不幸が其女を誘惑するのだ。惣七殿の為にも、其女の為にも、わしという者は、大樹の陰ではないか。――逃げた鷹はぜひもないが、不幸になる人を見のがすわけには行かぬ﹄
﹃そんな事を云って、又わたくしの気を鈍(にぶ)らせ、真綿で首を縊(くく)るように、じりじりと、復(しか)讐(えし)なさるので御座いましょう﹄
﹃――復(しか)讐(えし)?﹄
﹃そうです! 貴方の優しいのは、芯(しん)から優しいのではない。針をかくした茨(とげいばら)。なぜ胸にあることを、男らしく云って、打(ぶ)つとも蹴るともなさらないのです﹄
﹃……はははは、もう落着け、鷹も探しに行かいでもよい。よく落着いて、もういちど考え直せ﹄
﹃いいえ、嫌です、嫌です。何と云われても、もうもう私は……﹄
良人が冷静な眼(まな)ざしを澄ましている程、彼女の眼は、涙に吊(つ)り上った。そして物狂わしく、自分の居間へ駈け戻ると、包んでおいた身のまわりの物を抱えて、玄関から外へ出て行った。
前の日、一人の仲(ちゅ)間(うげん)は、諫(いさ)早(はや)の家に急用が起って帰り、勝手元にいる老婆は、耳が遠いし、気がついても、何(い)日(つ)もの事だと思っているらしい。
兵庫は又、机に向い直して、筆を執りかけた。
――すると、彼女の跫音が、門を踏み出したか、未(ま)だかと思われるのに、
﹃あれッ﹄
と、消(けた)魂(たま)しい叫びが一声、そとから聞えた。
﹃……?﹄
兵庫は、執りかけた筆を擱(お)いて、耳を澄ましたが、ふと眉をひそめて起ち上った。
この界(かい)隈(わい)の屋敷はみな小さい。
従って、狭い小路が、幾筋も曲がっていたし、どの家も、簡素を超えて、貧しげな侍ばかり住んでいた。
今――ばたばたっと夕闇を蹌(よろ)めくように駈けて来た旅の浪人者があった。物に衝き当った蝙(こう)蝠(もり)のように、お市が、門を出て来た出会い頭(がしら)に、そこの土塀にぶつかって、ばたっと仆(たお)れたかと思うと、
﹃た、助けて下さい。――お縋(すが)り申す! ……何、何処へな、お匿(かくま)い願いたい﹄
と、彼女の裾をつかんで叫んだ。
赤土の肌の崩れている土塀には、夕顔の蔓(つる)がいちめんに這って、白い花が無数に宵(よい)の微風に息づいていた。彼女の側にも、浪人の体にもその弱々しい蔓や白い花が、千(ち)断(ぎ)れて落ちた。
﹃あっ……?﹄
と、お市が身を退(ひ)くと、若い浪人は、固くつかんでいる裾の手を、猶更かたく、
﹃お、お、お慈悲に――暫くの間、御門内に﹄
と、這って来る。
見ると、その若い浪人の背筋は、割(さ)いた魚の背みたいに真っ赤な肉がはじけていた。仄暗いので、血とも見えない液体が、黒々とそこから満身にながれて、手をついた跡にも、血しおの手型がべったり残っている。
――きゃっと、彼女が思わず悲鳴を揚げて、門の内へ逃げこんだのは、その時だった。ウーム、ウームと、外には、気(きそ)息(くえ)奄(んえ)々(ん)な傷(てお)負(い)の呻(うめ)きが、不気味に昂(たか)くなっていた。
良人には、出て行くと云って、踏み出した閾(しきい)だし、門の外には、その不気味なものが仆れているので、お市は、そこに立ち恟(すく)んでいた。
――と。手燭の明りが映(さ)して、
﹃何うした? ……﹄
と、兵庫の声が後(うしろ)でする。
さっきも今も、兵庫の声には、少しも変りは無かったが、お市は、未練に思われるのが口惜しかったので、
﹃ええ今……今行くところです﹄
と、云った。
兵庫は、薄く苦笑したが、門の外の呻き声に、
﹃やっ? ……誰じゃ﹄
と、傷(てお)負(い)の影へ、手燭をかざした。
もう意識を失いかけて、昏(こん)倒(とう)していた傷(てお)負(い)の若い浪人は、兵庫のことばと、手燭の明りに、又びくびくと全身の肉を痙(ふ)攣(る)わせて、
﹃武士のお情に! ……お、お匿(かくま)い下さいませ﹄
と、絶叫する程な力で、微(かす)かな声をしぼりながら、兵庫の足もとを、血しおの手で拝んだ。
兵庫は、夕顔の花より血の気のない――その浪人の顔を見て、愕然としたが、
﹃斬(きり)合(あい)か﹄
と、一言(こと)、訊ねた。
﹃そ、そうです。相手は……相手は五、六人もの人数﹄
﹃ひとりか、おん身は﹄
﹃…………﹄
頷くと、其儘、がくりとしかけたので、兵庫は急いで手を伸ばした。そして、傷負の体を、引っ抱えるなり、庭の奥へ、駈けこんで行った。
お市は、その隙に、もう二度と兵庫とは顔を合せない覚悟で――ついと門の外へ踏み出しかけたが、途端に、ばらばらと駈けて来た跫音と共に、
﹃あっ、この家だっ﹄
﹃血しおがこぼれている!﹄
と、口々に喚いて、門の前に立ち塞がった侍たちの白(しら)刃(は)を見て、今度は、より以上、恟(ぎょ)ッと竦(すく)んでしまった。
﹃――それっ﹄
と、五人の中のひとりが云った。その男の白刃には、ありありと血しおが塗(まみ)れていた。
他(ほか)の者も、総て抜(ぬき)刀(み)を引っ提(さ)げているのだ。どの顔も皆、眦(まなじり)をつりあげ、革(かわ)襷(だすき)をかけ、股(もも)立(だち)を括(くく)って、尋常な血相ではなかった。
その儘、彼等はどやどやと、門の中へ押し込んで来ようとした。すると、飛鳥のように、庭の奥から引っ返して来た兵庫が、
﹃待てっ、何処へ行くか﹄
と、門の口いっぱいに、両手を拡げて、立ち塞がった。
﹃やっ?﹄――と、その姿に初めて、
﹃ここは、曾我部どののお住(すま)居(い)だったか﹄
と、気着いたように、一同は、土塀の夕顔を見まわした。
﹃されば親代々、お扶(ふ)持(ち)を賜(たま)わって、ここに住居しておる曾我部兵庫。小さくとも、貧しくとも、侍の家は一城(じょ)廓(うかく)です。誰のゆるしを受けてこの門内へ、踏み込もうと召されるか﹄
﹃ただ今、この内へ、傷負の浪人が逃げ込んだ筈――討たでは措かれぬ憎ッくい曲(しれ)者(もの)、お渡しください﹄
頬に古い大傷のある男が喚くと、それに続いて、他の侍たちも、
﹃年来尾(つ)け狙っていたところ、漸く、時節が参って、この中津の御城下へ立ち入ったことを知り、唯今、笠(かさ)懸(か)け松の辻で見つけ、一太刀浴びせて、取り逃がした者でござる﹄
﹃どうか、その曲者を、突き出していただきたい﹄
﹃吾々の手に、お渡しください﹄
﹃それがお手数とあれば、われわれが勝手に引っ捕えます故、暫(ざん)時(じ)、お住居の中を捜(さが)す事、御用捨にあずかりたい﹄
と、口々に云う声も、殺気立っていた。
兵庫は、依然として、手を拡げた儘、
﹃いや。その儀は成らぬ。お断りする﹄
と、云った。
断乎とした言葉でそう答えた。
兵庫の一蹴(しゅう)に会うと、さなきだに気負い立っている五名は、
﹃なに! なぜ成らぬか﹄
と、詰め寄った。
﹃何とあろうが、いちど侍の廂(ひさし)の下に、助けてやると、抱え入れたからには、それを渡しては、武士の信義に外れる﹄
﹃異なことを申される。あの曲者と、抑(そも)、何の縁故があって、そのような庇(かば)い立てを召さるか﹄
﹃縁も、由(ゆか)縁(り)もない路傍の人間なればこそ、猶更のこと。各の手に、委ねるわけにはゆかぬ﹄
﹃分らぬ!﹄
と、頬に大傷のある男は、味方の者たちを顧みて、絶叫した。
﹃この曾我部兵庫どのが――あんな事を仰せられる。わし等と共に、あの曲者を、一太刀恨んでもいい人なのに!﹄
﹃きっと、われわれが何者か、この門内へ逃げた浪人が誰か、まだ何も御存知ないのだろう。格之進も変っているし、おぬしの顔も、その大傷で変っているからな﹄
﹃そうだ。名乗れ名乗れ。――そして、仔細をよく話してみろ﹄
顔に大傷のある男を中心に、五名の侍は、がやがや云っていたが、軈(やが)て、
﹃あいや兵庫どの。これにおる男は、顔の大傷のため、お見違いなされたか知らぬが、以前、田丸様に若党奉公しておった楠平と申すもの。それがしは叔父の太左衛門でござる﹄
﹃てまえは、楠平の義兄の尾形周平というもの﹄
﹃拙者は、従兄弟の中根倉八﹄
﹃友人の沢井又兵衛﹄
と、順に名乗りかけてから、
﹃逃げ込んだ卑怯者は、六年前、御当所を逐(ちく)電(てん)した深見格之進でござりますぞ。楠平にとっては、云わずと知れた年来の怨み重なる奴なれど、旧主の田丸家に取っても、又、其(そこ)許(もと)にとっては猶(なお)のこと、捨ておかれぬ畜生ではござりませぬか。――それを匿(かくま)う尊公の量見が分らぬ。いざ、お渡しください﹄
と、前にも増して強硬だった。
云われる迄もなく、兵庫は疾(と)くから知っていたので、その間も、何の表情もうごかさない。――そしてただ一言、
﹃いや、成らぬ。何と云われようが、武士の然(ぜん)諾(だく)、傷(てお)負(い)を渡すことは断じて相ならぬ﹄
と、同じ言葉を、重ねただけであった。
楠平の義兄、尾形周平は、さっきから眼を燃やして、兵庫の顔を睨(ね)めつけていたが、
﹃もう、こんな分らぬ人間に、物を云うな。云うだけ無駄だっ﹄
と、罵(ののし)って、
﹃駈け落ち者の片方を、女房に持って、何ともせぬ神経へ、われわれの武士道を、云って聞かせても始まるまい。――この上は、刀にかけても、渡さぬというのか否か。それだけ聞こう﹄
と、身を開いて、ぱっと刃(やいば)を構えながら云い放った。
周平が、そうしたので、他の者も、さっと身構えを変えた。当然、相手がふいに、抜打ちに来るものと計ってである。
だが兵庫は、眉も動かしてはいない。ただ微かに苦笑を唇(くち)元(もと)にながして、
﹃元より、刀にかけても!﹄
と云った。
﹃――う、うぬッ﹄
周平が振り込んだ一(ひと)薙(な)ぎは、斜めに、門の柱へ斬りこんでいた。――途端に、中へ隠れた兵庫の影の代りに、門の扉(と)が、風を孕(はら)んで、どんと閉まった。
﹃叔父御、背を貸せ﹄
と、周平は、太左衛門の背に足をかけて、直ぐ塀の内へ躍り込もうとした。
﹃まあ待て、まあ待て﹄
太左衛門は、背をかわして、彼やその他を、抱き止めながら、
﹃理(りふ)不(じ)尽(ん)に乗り越えては、兵庫めが云う通り、此(こち)方(ら)の落度になり、彼(きゃ)奴(つ)には思うつぼに篏(はま)るわい。忌々しいが胸を撫でて――。な、これ……此処は胸を撫でて﹄
と、何か囁(ささや)いた。
四名は、地(じ)だんだを踏みながら、門を睨(ね)めつけて、
﹃――かッ﹄
と、唾(つば)を吐きかけ、そして、何(いず)処(こ)ともなく立ち去った。
楠平やその友達や、尾形一家の者が立ち去って行くらしい跫音に、曾我部兵庫は、ほっとして、家の中へ這入りかけたが、ふと、暗い大地を振向いて、
﹃お市﹄
と、呼んだ。
お市は、そこに居るか居ないか分らないように門の脇に、身を沈めたまま、平たく俯(う)っ伏している。
﹃――冷えるぞ﹄
それも常の声だった。
﹃…………﹄
突然、お市は、嗚(おえ)咽(つ)しはじめた。肩は波を打って、泣きじゃくった。
﹃――泣いている間に、傷(てお)負(い)はことぎれるぞ。はやく鷹小屋へ行って手当をしてやれ﹄
云い捨てて、兵庫は家の中へかくれ、又、机の前に、黙然と坐った。
――坐ったが、然し彼もさすがに、筆は持てなかった。
地の下に、蚯(みみ)蚓(ず)が泣きぬいて、星の美しい夜となった。夜となれば暑い夏も、ずっと冷(ひえ)々(びえ)して、人間の心からも、焦(いら)々(いら)したものを拭(ぬぐ)ってゆく。
﹃……うううむ。……ううム……﹄
庭の隅の鷹小屋から、時折、苦しげな太い呻(うめ)きがながれてくる。それは、お市と兵庫の、六年間の苦しみを、一時にがき苦んでいるような呻きだった。
お市の耳へも、それは聞えてゆくに違いない。捨てて置けば、出血は止まるまいし、刻一刻と、生(いの)命(ち)が縮められてゆくことも知れきった事である。
そのうちに――がたんと、裏の方で、物音がした。
兵庫は、すぐ窓を開けて、
﹃誰だっ﹄
と、咎(とが)めた。
﹃あ……吃(びっ)驚(くり)いたしました。仲(ちゅ)間(うげん)の由(よし)松(まつ)でございます。諫(いさ)早(はや)の病人が快(よ)くなったので、唯今戻って参りました﹄
﹃オ……由松か﹄
﹃御用を欠(か)いて、相すみませんでした﹄
﹃いい所へ戻ってくれた。早速だが、金(きん)創(そ)薬(う)の有合せがあるか﹄
﹃ございます﹄
﹃それと、片(かた)口(く)注(ち)へ焼(しょ)酎(うちゅう)をなみなみ注(つ)いで、晒(さら)布(し)と一緒に、鷹小屋の前へ持って行ってやれ。――外へ置いてくればいいのだぞ、中へは這入るなよ﹄
﹃へい﹄
由松は、不審な顔をしながら、とにかく吩(いい)咐(つ)けられた品を揃(そろ)えて、裏庭の奥へ運んで行った。
そこに一棟の鷹小屋がある。
這入るなとは主人に云われたが、戸が開(あ)いているし、何やら、人の気配がするので、由松は暗い中を覗いてみた。
白い顔が、傷負の側から振向いて、あっと、軽い声を洩(も)らした。
由松も吃驚して、
﹃ヤ。御新造さまでは御座いませんか﹄
と、さけんだ。
お市は、手を振って、
﹃叱っ……静かにしておくれ﹄
﹃そこに、誰(どな)方(た)か、怪我人が居らっしゃるのでございますか﹄
﹃わたしの襦(じゅ)袢(ばん)を裂いて今、手当てしているところです﹄
﹃晒布も、金創薬も、焼酎もここへ持って参りましたが﹄
﹃え? 何(ど)うして﹄
﹃旦那様のおいいつけで……﹄
﹃……あ。……そう﹄
凝(じっ)と、首をたれて、お市は俯(うつ)向きこんでいたが、もう女の特有な度胸がすっかりすわったように、言葉のふるえも消えて、
﹃ここへ持って来ておくれ﹄
﹃へ、へい……。けれど、旦那様が、中へは這入るなと仰っしゃいましたが﹄
﹃かまいません﹄
﹃では――﹄
﹃それから、夜(よな)半(か)になったら、済まないけれど、駕(かご)を二挺(ちょう)、そっと裏口の木戸へ呼んで来ておくれでないか﹄
﹃畏(かしこ)まりました﹄
﹃竹筒に水を入れて、駕へ括(くく)っておいておくれ。それから中に、油(ゆた)単(ん)や小蒲団をかさねておくようにね﹄
﹃では、その怪我人のお方を﹄
﹃別府の温(ゆ)泉まで、療(りょ)治(うじ)にお連れするんです﹄
﹃旦那さまのお耳へは﹄
﹃何もかも御存じなのだから、云うには及びません。――もうすぐにお寝みになるだろうし﹄
﹃……ほんに﹄と、由松は庭木を透かして、
﹃いつのまにか、お部屋の明りが消えております﹄
﹃じゃあ、今のうちに、はやく駕を頼んでおいておくれ。間(まぎ)際(わ)になって、無いと困りますから﹄
由松は、何処かへ、出て行った。
もう九(ここ)刻(のつ)︵十二時︶過ぎ――
海騒もない、静かな夜(よな)半(か)だった。
沖の水平線だけが、月光色の帯のように、ぎらぎら明るかった。
﹃御新造さま。……参りました﹄
﹃駕?﹄
﹃へい﹄
﹃旦那さまは﹄
﹃あれなり、ずっと、お寝みのようでございますが﹄
﹃……じゃあ、ちょっと、手をかしておくれ。……そっと、そっと抱いて上げないと﹄
﹃かなり深(ふか)傷(で)の御様子でございますな﹄
﹃でも、すっかり洗って晒(さら)布(しま)巻(き)をしましたから、だいぶお顔が快(よ)くなって来ました﹄
由松は、何気なく、傷(てお)負(い)を抱き起して、自分の肩に負いかけたが、ふとその浪人の顔を見て――
﹃あっ、この男は﹄
と、思わず口走った。
お市は、顔を反(そ)向(む)けながら、
﹃お前も、この人の顔を、見知っているのかえ﹄
﹃知……知らねえで、何としましょう。……御新造さま! お、おまえ様というお方はなあ……﹄
﹃もう、何も云っておくれでない﹄
﹃――云いますめえ、追(おっ)つかねえことだ﹄
由松は、肱(ひじ)を曲げて、顔の涙をこすりながら、傷(てお)負(い)を肩に、とぼとぼと歩きだした。
﹃……ア、由松や。表門ではなるまい。駕は裏の木戸へ来ているのでしょう﹄
﹃うんにゃ﹄――と由松は首を振って、
﹃宵から、裏の浜辺に、不(お)審(か)しな人影が、張番みてえに立っているので、わざと、表へ廻しておきましただが﹄
﹃えっ、外に誰か、立っているって?﹄
﹃仕方がござりますめえ。この塀の中にいれば、誰にも、指一つ触らせる旦那様ではねえのに……おまえ様が好んで出て行かっしゃる地獄の道だに﹄
﹃……いいよ! ……もうわたしは、覚悟をしているのだから﹄
門の前には、駕が二つ、忍びやかに待っていた。それも由松の気くばりとみえて、提(ちょ)燈(うちん)には、黒い布(ぬの)が巻いてあった。
傷負は、そっと、一挺の内へ寝かされた。由松は、鼻をすすって、地を見つめていたが、
﹃さ、御新造も、はやく……﹄
と、人目を惧(おそ)れて促(うな)がした。
﹃ありがとうよ――﹄
彼女は、奉公人へ対しても、初めて、心からそんな礼を云った。そして、
﹃もういいから、中へ這入っておくれ﹄
と、云った。
由松が中へ姿をかくして、門の扉(と)を閉めても、彼女はまだ、六年住んだ家の屋根や廂(ひさし)や樹を見まわしていた。そして、駕屋の眼にも触れないように、門の土塀に這っている夕顔の蔓(つる)を、そっと千(ち)断(ぎ)って、袂へ入れた。
﹃駕屋さん――やってください。一挺は病人ですから、揺れないように﹄
駕は、傷負を劬(いたわ)りながら――でも軽い弾(はず)みをつけながら――駈け出した。
お市は、駕の中から、もういちど、草だらけなわが家の門を振り向いた。
中津の城下から南へ向って、道が町屋から離れると間もなく、嫌(いや)でも応でも、浜辺の並木へかかるしかなかった。
﹃待てーッ﹄
いきなり横合の樹(こか)陰(げ)から跳び出した人影がある。しゃ嗄(が)れ声ですぐ老人であることは分ったが、手には、槍を引っ提(さ)げ、袴(はかま)を高く括(くく)し上げて、まるで夜(やし)叉(ゃ)のような権(けん)まくだった。
﹃お市! これへ出ろっ。他(ひ)人(と)手(で)を待つまでもない、肉親の父惣七が成敗してやる。――出ろっ、出ろっ。その後で、不義者の相手も刺(とど)止(め)を刺してくるるから﹄
惣七の後ろには、宵の五名も、その儘のすがたで、ずらりと立ち並(なら)んでいた。
もう霜になったの毛を顫(ふる)わせて、惣七は、
﹃ようも家名を汚(けが)し、良人の顔に泥をぬりおったの。――うぬ、出てうせねば!﹄
槍を繰り引いて、垂れ籠めている駕の内へ、ずばっと突き入れようとした時、並木の陰から、閃(ひら)っと迅い人影が、彼の側へ跳んで槍の手元をつかんだ。
﹃御(ごろ)老(うだ)台(い)。あなた迄が、何をなさる﹄
﹃あっ――お身は兵庫どの﹄
﹃あなたに、こんな事をさせる程なら、拙者も永い忍(にん)苦(く)はしませぬ。こうした事の生れる初めに、あなたも父として何も落度はなかったか、拙者も良人として足らぬ所はなかったか。それも考えてみなければなりますまい﹄
﹃ない、わしに落度はない。町人なら知らぬ事、武士の娘に――又武士の間に、そんな斟(しん)酌(しゃく)はないことじゃ﹄
﹃武士。――仰せられたその武士へ、では何で、お市を嫁がせる前にあなたは、頼む! と拙者に手をついたか﹄
﹃……む?﹄
﹃武士には、一諾(だく)を重んじるという事がござりますぞ。事情を打明けて、この娘、頼むと仰せられたあの涙を、なぜ今お持ちなさらぬのか。よろしいお娶(もら)い申そうと、その時云った然(ぜん)諾(だく)を、拙者はまだ、胸から捨ててはおりませぬ﹄
﹃…………﹄
﹃いや一諾の、信義のと、肩(かた)肱(ひじ)張(は)った理(りく)窟(つ)ばかりではない。瑕(きず)のある玉も、身に帯び馴れれば捨て難(かね)る。ましてや何(いず)れに動くもただ感情に動く女、無智なれば無智なほど不(ふび)愍(ん)にも存じて――今日までは何とかして、あなたに与えた然諾を、裏切るまいと努めて来たのに﹄
﹃もう、仰せられな。――勿体ない、勿体ない。そう云われては、この惣七、何(ど)う詫(わ)びてよいやら、途方にくれる﹄
﹃お詫びは、今も申した通り、兵庫からせねばなりませぬ。折角の一諾も、お引き請け効(が)いもなくて﹄
﹃な、なんの。――お身から詫び言など﹄
﹃この上は、お慈悲です。二人の然諾も、恨みも解いて、この駕を、行きたい道へやって下さい。――それが縁あって一時良人と侍(かしず)かれたそれがしが、お市への唯一つの餞(せん)別(べつ)﹄
﹃いや、わしの一量見にはゆかぬ。あれに居らるる五人の衆の心も訊(き)かねば﹄
惣七は、親心に、もう槍の向け場を失っていた。
兵庫は慇(いん)懃(ぎん)に、五名の影に向って、
﹃この通りお願いしまする﹄
と、云った。
そして又、
﹃その中に、楠平どのは居るか﹄
と、訊ねた。
﹃はい、これに居りまする﹄
と、楠平は一足前へ出て云った。
﹃おぬしが受けただけの傷は、いやもっと心にまで深く、格之進に与えたではないか。その上、刺(とど)止(め)まで刺すのは武士の情ではない。――のみならず、それでは、旧主の惣七どのを、是が非でも、わが娘(こ)を成敗せねばならぬ破(は)目(め)に立たせてしまう﹄
﹃……分りました。貴方のお言葉で、小さい意地や男の体面のほかに真(まこと)の武士道とは、大きな而(しか)も優しい愛のあるものだと分りました。――もう何事もわすれます。どうぞその駕、お通しくださいませ﹄
﹃かたじけない﹄
兵庫は、それを惣七に伝えるつもりで、駕のそばへ戻って来たが、ふと見ると、お市の乗っている底から、血しおのながれが、無数に地を走っていた。
﹃しまった!﹄
兵庫は、駈け寄るなり、駕のたれを刎(は)ね上げたが、もう間にあわなかった。吾(わが)儘(まま)で、容易に意志を曲げない女だけに――自(みずか)ら喉を突いた短い刃(やいば)も、襟へ抜けるほど深く貫いていた。
そして膝には、夕顔の蔓(つる)に、まだ萎(しお)れていない二、三輪の白い花が乗っていた。
﹃……兵庫どの。娘はやはり武士の娘に違いはなかったのじゃ。わしが悪かったかも知れぬ。いや悪かった、悪かった。……ゆるして下され﹄
大地へ手をつかえた惣七は、怺(こら)える嗚咽を、脆(もろ)くも老(おい)の肩骨にふるわせて、いつ迄、顔を上げ得なかった。
﹃――それ﹄
と、眼くばせ交すと、楠平を初め五名の者は、すぐもう一つの駕を取巻いて、中を覗(のぞ)いたが、その格之進は自刃もしていなかった。
――すでに、ここ迄来る途中で、彼の生(いの)命(ち)は終っていたからである。
︵昭和十三年六月︶
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