神みこ子がみ上てん典ぜ膳ん時代
一
﹁松坂へ帰ろうか。松坂へ帰ればよい師にも巡めぐり会えように﹂ 典てん膳ぜんは時々考えこむ。彼も迷い多き青年の二十歳へかかりかけていた。 郷里伊勢の松坂は武道の府であった。世に太ふとの御所とよばれた国主の北畠具とも教のり卿は、卜ぼく伝でん直系の第一人者であった。その権勢、その流風を慕って、由来、伊勢路の往来には武芸者のすがたも多い。 神みこ子が上み家は、世々、神宮のおまもりをしている伊勢の神職荒木田家に属す神苑衛え士じの家だったが、典膳がもの心づいた頃は、松坂在ざいにひき籠こもって、母ひとり子ひとりの暮しであった。 その母に伴われて、初めて武道の師というものにまみえたのは、六ツか七なな歳つぐらいなときだった。三神流刀槍道床
と、門の柱だったか入口かに懸けてあった雄壮な文字は、よほど幼いあたまに沁しみ入ったものとみえて、眼をとじれば成人したいまでも、その筆法の一点一画まで脳裡に思い出すことができる。
十三の時、彼は生れて初めて、戦争を見た。織田信長の伊勢攻略に潮うしおして、精せい悍かんな軍馬が村にも入って来たのである。
滝川一益とか、明智光秀とか、木下藤吉郎とかいう敵将校の名なども、小さい反抗心にふかく刻きざみつけられた。わすれもしないこの年は天正四年で、実にこのときに国主北畠具とも教のりも討死して終ったのであった。
――戦いくさに出たい。
と母にせがんだことも覚えている。しかし、彼はその母と共に、伊勢湾から東国へ行く便船に乗って、荷物の間から燃える故ふる郷さとをながめていたのだった。津、松坂などの町々はもちろん伊勢は部落の方まで一円に黒くろ煙けむりをあげていた。
この房州へ移って来たのは、つまりはその戦争が動機であった。上かず総さ夷いす隅みご郷うの万まき喜より頼は春るは里見一族の武将であるが、その家けに人んのうちに小野朴ぼく翁おうという老人がある。
︵このお方が、そなたのお祖じ父いさまですよ︶
と、母にいわれながら、初めて白はく髯ぜんの人の前に坐ったとき、典膳は、何かふしぎなここちがした。
母の父親、という感じだけでなく、自分の血液が、思いがけないところから岐わかれ流れて今のわが身というものに育ちかけている相すがたを、何か眼で見たような気がしたのである。
故郷の土から離れて、母方の血の故郷へ帰ったのだ。神子上典膳は、そんなふうな生い立ちを経て、房州の一海辺に、いつか二十歳をかぞえる若者になっていた。
﹁もう一ぺん、伊勢へ﹂
この念はやまなかった。伊勢にはまだ戦争がある気がする。そして夥おびただしい武芸者の往来もあるような心地がする。
﹁……いやいや世の中は変ったろう。伊勢へ行っても、今は知る辺べもないし﹂
思い直しては、母の孝養に努めた。老いこそすれ、母はなお息そく災さいであった。けれど自分が側を去ったらいかにお淋しかろうぞ、と彼はすぐそれを思う。
﹁このまま為なす無く、田舎武士で朽くち終ってもいい。母上の余生だにおつつがなく、朝夕のお笑え顔に仕えられるものなら――﹂
彼はやさしい子といえよう。一面、理性に富んでもいた。といって青年の多感や志望が低いのでは絶対にない。時今、天正十二年は、本能寺の変後、山崎の合戦後、急転機を、次なる太閤時代に大らかな暁あかつきを告げていた。しかもこの房州上かず総さの波なみ打うち際ぎわは、北条氏の領治下に、眠っているような、現状だったのである。
二
一日に一度は浜辺に出るのが癖のようになっていた。そしてこんな空想にふける。せめてもの空想だった。もし典てん膳ぜんから空想を除いたら彼は青年ではあり得なくなる。 ﹁……帰ろうか﹂ 磯の岩から腰をあげたときである。舂うすずく夕陽を浴びて波間を漕こいでくる小舟があった。櫓ろ音を聞くだけでも、いかに腕強い上手な船頭かがわかるように思われたが、やがて岸へ漕ぎ着けて降りて来た者を見ると、船頭ではない、二人とも旅固がためした身みご拵しらえの、どこにも隙すきのないような武士だった。 典膳を見かけて、若い方の連れが、 ﹁この町に旅はた籠ごはないか﹂ と、訊く。 礼儀のない訊ね方に、典膳も簡単に、 ﹁旅籠はないが、寺はある﹂ と、教えてやると、また寺の名をたずね、ありがとうともいわずに、先へ行く老武士のあとを追って立去った。 典膳も同じ方へ歩いていたので、自然、二人の後ろ姿を観察していた。何かしら急に大股にいそいで、その老武士の面を、正面から見たいような衝動に駆かられだした。それほど一方の年老とったさむらいの後ろ姿には、いぶかしい力の魅力と重厚な線の美があった。 美といっては、或いは、誤る惧おそれがある。衣飾の美や皮膚の美ではない。着ているものは、胴服の継ぎはぎした物。穿はいているのは染色も分らなくなっている革の膝たっ行つけ袴ばかまにすぎない。長やかな腰刀だけに鞘さやの塗ぬりの剥はく落らくしているのが目にたつ。 主人か、師匠か、長上の老人すらこの装いであるから、以てその尻えに従ってゆく若いほうの旅支度ときたらそのお粗末さは想像がつこう。――しかしまた、その垢あかじみた、被服大小たりとも、見すぼらしくは見えない程、この二人の濶かっ歩ぽには、悠々とした気概があり、堂々とした構えがあった。決して人を蔑さげすむことをさせないものを常にもって、やがて町のどこかへ曲がって行った。三
四、五日すると、町にはうわさが伝わった。 どこで聞いて来たか、小野家の若わか党とうも、典膳をつかまえて、こんな世間ばなしを、おかしそうに喋しゃ舌べっていた。 ﹁御家中の、地じず摺りの青せい眼がんどのが、龍王寺に泊っている武芸者を訪ねて、問答をしたことをお聞きになりましたか﹂ ﹁龍王寺に滞在中の二人というのは、一体何者だね﹂ ﹁ひとりは伊藤一刀斎、供の者は、善ぜん鬼きとかいう弟子だそうです。――その一刀斎へ、地摺の青眼どのが、問われたことには、それがし、師匠よりかつて、地摺の青眼という秘太刀を習い、年来研けん磨まして、天下に敵無き自信を持ち得るにいたった。聞くならくあなたは一刀流の達人とか。それがしの地摺の青眼を止める御工夫があるやいなや。あるならば見せていただきたい。――と、あの人のことですから肩かた肱ひじ張はってこう問いつめたものらしいのです﹂ ﹁なるほど﹂ ﹁すると、相手の一刀斎は、言下に。――よく世間の武芸者のうちに、地じず摺りの青せい眼がんなどということを口にするのを聞くが、そんな構えは何流にもありようはない。児じ戯ぎにひとしいと、笑っていたそうです。――で、地摺の青眼どのは、本名池野内く蔵ら八という立派な名があっても、御家中では誰も名をいわず。﹃地摺の青眼どの﹄で通っているほど、日頃から大自慢なそれを、ありようもない、児戯にひとしい、などと一笑に附されたのですから、当然、息いきり立って、次には、ここにある、ここにいる自分に持っている、ないとは逃げ口上――と膝詰よせて返答を迫ったということです﹂ ﹁ははあ。では、ついに仕合になったのか﹂ ﹁ところが、一刀斎は、なるほど、あるといえばあるだろう。あるものなら、此こっ方ちにも、止めようの工夫もある。笑って云うと、地じず摺りの青せい眼がんどの、いよいよ、目はしら立てて、然らば見せよ、いざ起て、と急せきこんだそうですが、先はからから笑ってばかりいて、いずれお目にかけよう、今日はまずまずとばかりで、相手にならず、やむなく立帰って来たそうですが、その後先方から何の沙汰もして来ないのに業ごうを煮やし、彼が寺を出て、旅立つ途みちをとらえ、かねて御自慢の地摺の青眼を以て、一手に斬伏せてみせると、自分から御家中へ吹ふい聴ちょうしているそうですから、近日、その結末が見られることになりましょう﹂ こんな噂を耳にしてから数日の後。地摺の青眼と綽あだ名なのあるその池野内く蔵ら八が朝早く、 ﹁典てん膳ぜんどの。来てくれないか﹂ と、誘いに来た。 どこへ、と訊ねると、 ﹁かねてお聞及びだろうが、一刀斎の師弟が、今朝がた寺を立つという。そこで彼を途中に待ち、先頃の過言を責め、詫わびなければ、自分に量見がある。後々、世上に誤ごぶ聞んを撒まかれぬため、見届けに来てもらいたいのだが﹂ 立会人として、典膳を引き出しに来たものとわかった。 ﹁よろしい﹂ 典膳は肩を並べて門を出た。 半里ほど先の街道に待っていると、程なく先日浜辺で見かけた師弟が歩いて来た。地じず摺りの青せい眼がんは、躍り出して、すぐその前に立ちふさがり、 ﹁あるとも、ないとも、その後、返答にも及ばず、無断、当地を立退くとは、卑怯ではないか。あの問題を明らかにして行け。できなければ大地に両手をついて謝罪しろ﹂ 鐺こじりを上げて、喚わめいた。 一刀斎は、こころもち頤あごをひいた。 ﹁ああ、先日のお人か。忘れておった。……地摺の青眼とかいう構え、どれお見せ、止めようを伝授しよう﹂ ﹁慥しかとか﹂ ﹁念には及ばぬ﹂ ﹁止めてみろ﹂ 一颯さつ、風を割って、大刀を抜いたのと、一転、身をひくのと、殆ほとんどひとつの動作だった。 ﹁ム。なるほど﹂ 一刀斎はうごかない。 池野内蔵八は、自ら云うところの、地摺の青眼を構えて、するすると、粘ねばりつくように一刀斎へ迫って来たが、どうしたのか、ぎゃっというと、三足四足、前へよろめいたままどすと重い地ひびきを最後に息絶えてしまった。 一刀斎の右の袂たもとのうしろに、刀の切っ先が血しずくを静かに落していた。死骸をしばらく凝ぎょ視うししていたが、刀を拭って振向くと、 ﹁善鬼。参ろうよ﹂ と、実に、馬のわらじに躓つまずいたほどな顔色もうごかさずに行ってしまった。 ﹁…………﹂ 典膳は見恍とれていた。この朝から彼はまた青年の憂ゆう悶もんを深くした。四
﹁お腰でもすこしお揉もみしましょうか﹂ と、母の側へ寄った或る夜のことである。 ﹁典膳。そなたほど腑ふがいないものはないぞよ﹂ と、案外な母のことばだった。 母はいつになくきつい容かたちをその姿に持って云う。 ﹁そなたも二十歳を一つこえたではないか。いまをどんな時勢じゃと思います。可あた惜ら、若い者が、老い先知れた老母の腰をなでさすっていることなどが、時の若者の一番よい道と心得ていなさるか。――としたら、この母は、悲しゅう思う。そなたは、母に早く死ねと望むか﹂ ﹁め、めっそうもない。……母上には、いつにないお怒り、こよいはどうかなされましたか﹂ ﹁さればよ、母はゆうべ、そなたの亡きお父上から叱られました。夢のうちに。……典膳、なぜそなたは、母のことなど捨てきらぬ。自らを大成して、後々の大きな孝養を心がけてくださらぬか。なし易やすい目前の小さな孝養に自分をなぐさめ、ふたたびはない若い日を空しく見送っているのですか。……ああ、子を愛しながらも、子に鞭むち打うつことをなさる、お父上のきびしいお力、大きな愛のお力が借りたい。そう日頃から思いつめていたせいであろ。ゆうべそなたのお父上からこの母が叱られました。……おまえがわるい、おまえがあまいぞと﹂ 母は泣いてしまった。これは母の本能ならぬ心をもって、必死に云ったからであろう。やがては子のまえにすら居たたまれず、寝間へかくれてなお泣いていた。 雨が降っていた。夜は墨のように暗い。その雨の中を、ただ一書かきのこして、神みこ子がみ上てん典ぜ膳んは家の門を出てしまった。もちろん修行の旅へである。 典膳が幼少から志している道。また日頃の憂悶も、彼の母は、よく知っていた。よくよくな決心であったにちがいない。父なれば知らず、母としてあれほどまでのことをいうには。五
やさしい子典膳は、世上へ出ると、必ずしもやさしい子ではなかった。また理性にのみとらわれて勇ゆう邁まいを欠かく若者でもなかった。
山に里に都に、何流のなにがしありと聞けば、ひたぶるに訪ねて、教えを求め、仕合を乞い、また禅門に潜ひそんでは、心胆を練ねった。技わざを研みがいては技を捨て、技に達しては技を忘れることに苦しむのだった。
しかし、禅家の門には、また禅家の安息と弊へいがある。それに馴れると、奮然、またわらじを穿はいて、勝敗の中へとび出して行く。清せい隠いんの門から市塵の中へ。
幾年も櫛くしの歯を入れたこともない頭髪、家を出たときのままといってよい服装。その垢あかと埃ほこりを負ってあるく彼の眼は、いつとなく爛らん々らんと研とがれ、その道を求める熱意の烈しさに、人呼んで、
とすら異名するに至った。
﹁――彼に勝つほどになれば﹂
典膳は、その精進に、ひとつの目標をもっていた。それは伊藤一刀斎という者である。一刀斎に当ることを以て、修行の試しき金んせ石きとし、明けても暮れても、その姿を幻想のうちにおいて、理心二つを一体に磨いていた。
家を出て四年目である。夏の頃、島田の宿の木賃に泊っていると、近くの豪農の家に、伊藤弥五郎一刀斎という剣客が弟子を連れて泊っているというはなしをふと耳にはさんだ。
典膳は、血が熱くなった。自みずから自分に問うて、
︵いまの腕で、彼に勝てるか、まだ勝てないか︶
を胸に質ただした。
︵勝てる︶
当然なように肚の底からわき上がった信念が、彼の面に微笑を刻きざんだ。
早めに、湯ゆづ漬けをかきこみ、木賃を出た。外の道はまだ夕明りの頃おい。
訪ねあてた農家の柴しば垣がきには、夕顔が白く咲いていた。さし覗のぞくと、幸いにも、その人はいま外の風呂小屋から出て来て、母おも屋やの土間へはいりかけていた。
﹁弥五郎先生っ﹂
大きく呼びかけながら近づくと、一刀斎は濡ぬれ手拭をさげたまま、まじまじと典膳のすがたをながめて、
﹁……誰だな﹂
と、ずいぶん間まを措おいてからたずねた。
﹁御記憶はないでしょう。しかし私には充分な覚えがあります。数年前、上かず総さの夷いす隅みの浜へお上りになったことがありましょう﹂
﹁ほ。……ある﹂
﹁数日を、龍王寺に御滞在。それから再びお旅立ちの朝、万まき喜より頼は春るの家中のものが、道を阻はばめて、敢て先生のお刀をわずらわしました﹂
﹁ははあ。あの地じ摺ずり青せい眼がんか。……ふッむ。さては、おぬしには、その身寄りの者とでもいうのか﹂
﹁ちがいます。縁類のよしみによって一太刀うらみ申さんなどという仇討ちの者ではありません。仔しさ細いあって、その折、私は先生のあの地摺り青眼を破ったあざやかな御神技を見ていたものに過ぎません﹂
﹁地摺り青眼? おぬしもそんな囈たわ言ごとをいうか。世に地摺り青眼などという構えはありはしない﹂
﹁お待ちください。是非の論を伺いたいのでもありません。私はただあれ以来一意懸命に、あなた程な神技の持主に打勝ってみたいことのみに潜心して来たものです。どうか、一太刀お仕合ください﹂
﹁止やめよ、止めよ﹂
一刀斎は、わからぬ子を諭さとすようにかぶりを振って云った。
﹁たいして益にもなるまい。のみならず、おぬしのような若者をしばしば片輪者にするのが嫌でのう。努めて仕合は断わっている。駄々を捏こねずに帰んなさい﹂
うしろを見せた。冷えた濡れ手拭のごとくその背は冷然と見える。
﹁待てっ。道の修行に生死なしッ。それがしを辱はずかしめるかっ﹂
典膳は跳びかかった。まさに獅しし子が咬み典膳の異名をすがたに現わしたといっていい。
抜ぬき打うちに、弥五郎の背へ。
蚊ばしらを斬った白しら刃はが、どすっと、大土間の入口の柱へ喰いこんでいた。そして典膳の獅子にも似た体は、そこから九尺も外の大地へ背を打って転まろんでいた。
﹁ちいッ﹂と、跳ね起きた手はすぐ土間口の柱から刀を抜き取って、一刀斎のすがたを、
﹁どこに﹂
と、その眼はするどく見廻している。
火のない炉ろ部屋の炉のそばで、一刀斎は笑っていた。典膳のほうを見てではない。そこに蚊やりを燻くべているこの家やの主あるじに向ってである。
﹁いや、愕おどろくにはあたらない。ああいう半狂きち人がいにはのべつ見舞われるでな、わしは馴れているのじゃ。なあに、いくら半狂きち人がいでも、家人には何もせぬ。気のどくな。愕おどろいてみな奥へ逃げこんだか。はははは﹂
六
典膳は土間の中に突っ立ってなお一刀斎のほうへ白刃を向けていた。幼少からいえば七歳の頃から。家出した時から数えればここ四年。寝食を忘れて築きあげてきた修行とその自信はいま血の音をたてて胸の底へ崩壊していた。さはいえ心外である。無念とも何とも云いようはない。或はいまの不覚はまったくの一失かも知れないと思う。負けてなろうか。この壮者があの老いぼれ如きに。いや負ける理由はない。絶対にあり得ない。 ︵自分はひとの十倍二十倍も苦しい修行をした。ひとの為なし得ない艱かん苦くをもこらえてやった︶ 燃ゆるような残念さがこう思う。そう信じないで行いきれるような生ぬるい今までの修行ではなかった。また、何のために、老後わずかな母の余生に仕える子の真情までを抑えて、こう長い年月遠く離れていたか。 ﹁…………﹂ 獅子の眦まなじりには涙がにじんでくる。ここに勝ち得ないほどなら死ぬるがましであるかもしれない。不孝の﹇#﹁不孝の﹂は底本では﹁不幸の﹂﹈罪だけでも死に値する。典膳の血相は刻々すさまじいものを加えるばかりだった。 一刀斎は、その息を聞いて、ふと、蚊かや遣りの煙から此こな方たを振向いた。 ﹁……まだ、いたのか﹂ ﹁仕合えっ。一刀斎﹂ ﹁仕合はすんでいる﹂ ﹁すんでいない。みろっ。神みこ子がみ上てん典ぜ膳んはまだかくの如く健在だ。片輪者になってはおらぬぞ﹂ ﹁なりたいのか﹂ ﹁息の音ねのとまるまでは仕合する。弥五郎一刀斎を砕くだかぬうちは、生きては還かえらぬ﹂ ﹁どうしても﹂ ﹁起てっ。起たねば、卑怯なりと、世間へ嗤わろうてやるぞ﹂ ﹁ぜひもないが……はてさて、身を弁わきまえぬほど始末のわるい者はないの。山の高さも知れぬ無智をもって山にとりつく莫ばか迦も者のがあるかっ﹂ 語尾つよく、大だい喝かつすると、その頭が天井をつくかと思うほどぬっと起ち上がった。反射的に、すぐ典膳が、身がまえを引緊めると、何事ぞ、一刀斎は横を向いて縁の方へ立出て、もう藁わら草ぞう履りへ足をのせていた。 そして斜めに、風呂小屋のほうへ歩いてゆく。――と見て典膳が、疾しっ風ぷうのように土間から跳び出すと、一刀斎は、 ﹁あわてないでよい。まだ若いおぬしを、不具者にしては愍あわれ。怪我せぬように仕合うてやる。落着いてかかれ。落着いて﹂ 風呂場の横に積んである松薪まきの一本を取って、きっと此こな方たへ向け、夕月の下涼しげに、典膳の手もとを見直していた。兄弟子善鬼
一
搏うって搏って、搏ってかかる波の精根も、巌いわおをうごかすことはできない。典膳と一刀斎との半刻ときにもわたる仕合は、まさにそんなふうだった。また、両者の実力にはそれくらいの相違があった。 刀を奪とられて、茫然、なす術すべもなく立たされてしまうこと二度。空を斬って、身ぐるみ、遠く投捨てられてしまうこと四たび。 このあいだに、典膳の刀は、ついに一刀斎の衣服のたもとを掠かすめることもできなかったのである。 ﹁もういちど。もうひと太刀っ﹂ 惨さんたる敗れに腰をつくたび、典膳は喚わめきの中から身をふるい起して、狂う炎のごとく一刀斎へおどりかかった。一刀斎は、もう拒みもせず、止めもしなかった。 ﹁よしっ、幾千遍でも﹂ 初めに構えた一本の薪まきは、つねに同じところに同じ角度で持たれていた。もちろん動く一瞬は疾しっ風ぷうを起し電光を描く。けれどそのあとはすぐ元のすがたに回かえっているのだった。 さいごに、典膳は、その薪でしたたかに肩を打たれたのである。 体の骨がばらばらに打うち砕くだかれたと思ったとき、ずしんと腰の坐骨を大地について坐っていた。 刀は遠くへ刎はねとばされている。そして一刀斎のすがたは夕月の下もとに、依然、一幹かんの松が嘯うそぶくように立っている。 ﹁…………﹂ それを仰ぎながら、典膳はもう喚く声も出なかった。いや腰すら起てない。ただ満面に凄せい愴そうな汗を光らせながら、大きく両方の肩で息をつくばかりだった。 ﹁若者。気がすんだか﹂ 一刀斎は風呂小屋の方へ歩みだした。そこの薪の棚たなへ、手の薪を返して、ふたたび典膳のまえを通りぬけ、母屋のうちへ姿をかくした。 ﹁……ああ。……もし﹂ よろよろと彼は起った。何を訴えるとも考えず、一刀斎のすがたに惹ひかれて起ったのである。――が、そのとき垣の外からひとりの男がこの家へ戻って来た。一刀斎の弟子の善ぜん鬼きである。うさん臭そうな眼をくれて善鬼も土間のうちへ隠れてしまう。典膳は落ちている自分の刀を拾うと、生きている辱はじに耐えられないように、惨たる面おもてを両手で蔽おおって、脱だっ兎とのごとくこの家の門から外へ駈け去った。二
武道家の門人として、大小を帯び、侍には装っているが、善鬼の肥ひに肉くは余りに逞たくましすぎて、その起たち居いまでも、前身の船頭癖ぐせから脱けなかった。 酒が好きなので、今夜も町へ出て、独り飲む寝酒をそっと買って来たものらしい。一刀斎の眼にふれないように、それを土間の隅すみへおいて、何喰わぬ顔して框かまちから上がりかけると、 ﹁善鬼か﹂ と、奥で師の声がいう。 ﹁はい。善鬼でございますが﹂ ﹁外にいた若い男はもう帰ったか﹂ ﹁いつの間にか、消えて失なくなりました。何事かあったので?﹂ ﹁たいしたことじゃない。風呂に入ったか、おまえは﹂ ﹁これからでございます﹂ ﹁わしは寝る。そちも風呂をいただいてすぐ寝やすめ。あすは常のように夙はやく立つぞ﹂ 一刀斎は、そういうと、夜具のうちにはいったらしい。 善鬼は風呂場へ行って、湯を浴びていた。 すると、彼がそこから出て来るのを待っていたように、垣の蔭から走りよった人影が、彼の足もとへ額ぬかずいた。 ﹁おねがいの者です。憚はばかりながら、しばらく愚ぐぞ存んをお訊きください﹂ ﹁だれだい。……何だ?﹂ ﹁それがしは、神みこ子がみ上てん典ぜ膳んという若じゃ輩くはいです﹂ ﹁あ。いまし方、そこらをうろついていた男か﹂ ﹁お嘲わらいください。実は、身のほども弁わきまえず、一刀斎どのへ、仕合を乞い、強したたかに打ちすえられて……ようやく夢のさめたるごとく、自分の至らなさを今初めて知りました﹂ ﹁よくもそうして体が片輪にもならずに済んだな﹂ ﹁いまは、恥かしさに、一刀斎どのの前へ、ふたたび出る面おもてもありません。いちどは、ここで腹切って死なんかとも思いましたが、それも世間のもの笑い。かつは、故く郷にに私の人となる日を待っているただ一人の母もあります。……とつこうつ、垣の外をさまよっているうちに、あなたのお姿を見かけ、羨ましさに耐えなくなりました﹂ ﹁なにがそんなに、俺の身分がうらやましいか﹂ ﹁良い師のおそばに仕えておいでになることが﹂ ﹁冗談をいうな。あんな気むずかしい爺じいさんはない。だが、せっかく十年もこの道にはいって、水を担かつぎ薪たきぎを割り、夜は夜で、足腰を揉むなど、ずいぶん辛抱して来たのに、奥おく印いん可かも貰わないで離れては、そのあいだの勤めは水の泡あわというものなんで、もう一年か、もう二年かと、じっと、我慢をしているところだ。武芸者の弟子なんて、おまえの考えているようなものじゃあねえ﹂ ﹁勿体ないことです。およそ人の一生にも会い難きものは、良師と良主であると申しまする。……どうか、この私を、あらためてあなたの師、伊藤弥五郎先生へおひきあわせ下さいまし。過去一切の迷夢と思い上がりを捨て、新たに、もういちど剣の初歩から学ぶ七歳の童子のむかしに帰って、一刀斎先生にお仕えいたしたいのです﹂ こう聞くと善鬼はひどく意地悪い顔つきを示した。典膳の希望のひと通りでない熱意を感じるとなおさら彼はおいそれと取次いでやる気になれなかった。 ﹁よしな。だめに極っている﹂ 膠にべもなくこう吐き出して、 ﹁さきも云ったとおり、気難しいことといったら無類な先生だ。絶対に弟子なんざ取らないお方だ。それをなぜ俺だけが許されて門弟として附いているかといえば、もう十年も前になるが、淀よどの三十石船で先生が大坂へ下って来たことがある。――その頃、かくいう俺は、枚ひら方かたの船持の息子で、自分も船頭していたのさ﹂ この男は前身をつつまない。むしろ誇ほこりとしているふうすらある。典膳にはそれが正直な人物のようにうけとれた。黙ってその顔を見あげたまま聞いていた。三
善鬼が自慢ばなしに語りだしたのは、こういう過去の事だった。 ひと年とせ、弥五郎一刀斎が、舟で大坂へ下る途中、骨ほね逞たくましい船頭が、 ﹁この船には、ずいぶん武芸者も乗るので、余り腕自慢するやつは、いつも懲こらしてやっているが、まだ、俺を打った武芸者なんてひとりもいない。術の法のと、理窟はうまいが、持って生れたほんものの腕ぶしには敵かなわねえのさ﹂ と、大声に乗客へはなしかけていた。 一刀斎は、わざとそら耳を装って、横を向いていたが、船頭はまた、強しいて彼のほうへ、 ﹁ねえ、お侍さん。そこにいるお武家さん。そんなものじゃありませんか﹂ と、是非の返答を求めた。 そう云われると、一刀斎も、衆に対して、﹁道﹂の誤まられることを惧おそれた。愚者の﹇#﹁愚者の﹂は底本では﹁患者の﹂﹈矇もうをひらいてやるのも修行者の任と思った。 ﹁いや、ちがう。持って生れた腕ぶしでも、磨みがかない力は、俗にいう莫ば迦か力、くそ力とも申すもの。そういうものに慢じていると、いつかはきっと身をやぶるだろう。其方はまだ人に負けた覚えがないというが、それらの武芸者が未熟なためで、決して、剣の法や術が無益なためではない﹂ 懇ねんごろに諭さとしたつもりだが、その船頭は、いきり立って、やにわに船を岸へ着け、 ﹁おい、ばか力が勝つか、剣法が勝つか、陸おかへあがって試そうじゃねえか。大勢の客衆のなかで、おまえさんのような田いな舎かざ侍むらいに子どもあしらいにされちゃ、あしたから大きな顔して淀の船頭はしちゃいられねえ。さっ、上がれ﹂ と、櫂かいをかかえて先へ跳び上がった。 大人気ないと思ったが、ぜひなく弥五郎も陸おかへ上がった。もちろんこの試合は試合というほどな勝負にもならず、船頭は得えも物のとする櫂かいを相手にとられて、その頭を打砕かれそうになると、平ひら謝あやまりに手をついて謝った。 枚ひら方かたの船持とかいうこの船頭の親なども馳けつけて来て、共に息子の無礼を詫わびた。一見、勝負は呆ッ気なくついたように見えるものの、弥五郎も心のうちでは、この船頭の力量と剛気には感心していたので、 ﹁惜おしいものだ﹂ と、呟いてゆるした。 ︵さては俺に見所があるな︶ と思ったその船頭は、親を説いて、弥五郎の弟子にしてくれとせがんだ。その頃、弥五郎一刀斎も壮気旺さかんな時代ではあり、弟子のひとりも連れ歩きたい気もあったので、恰かっ好こうな門人と、その乞いをゆるした。これが今の弟子、善鬼なのである。 ﹁――こういうわけで、俺は弟子にはいったが、それ以来、ずいぶん諸国の行く先々で、頼まれることがあっても、断じて、弟子はもうとらないと仰っしゃっている。折角だが、おめえもその組だ。断られるに極っている。いや、そんなことを取次ぐと、第一、俺が、怒られる。帰りねえ。むだな夜露に濡ぬれていねえで﹂ 善鬼は、喋しゃ舌べるだけ喋舌ると、すたすたと、土間のうちへかくれ、隠しておいた寝酒をさげて、自分の寝ね屋やへもぐりこんでしまった。四
典膳は寝られなかった。悄しょ然うぜんと、木きち賃んへ帰ってから、ひとり薄いふとんの中で、これまでの修行と、現在の自分の力とを、反省し、また反復して、痛切に省かえりみてみた。 道とは、こうも高いものか。 修行とは、こうも深くて遠いものか。 今まで自分のしてきたことなど、あの老剣客からくらべれば、千里の道を、十里歩いて来たほどにも近づいていないのであろう。 恥かしい。 よくもあんな広言を吐けたもの。――そうだ、この思い上がりがいけない。生なま兵びょ法うほうが邪さまたげていたのだ。もいちど、七歳の初歩にかえろう。 鶏とりの声を聞くと、彼はもう木賃を出ていた。そして島田の宿しゅ端くはずれで待っていた。果たして、まだ朝霧の中を、弥五郎一刀斎と善鬼のすがたが彼方から見えた。 もう往来の人も馬もあったが、彼は、見み得えも外聞もなかった。一刀斎のまえへ馳けよって、 ﹁しばし、おとどまり下さい。昨夜の不心得者です。神子上典膳です。もはや、ゆうべのたわ言は、悉ことごとく自己の迷めい夢むとわかりました。いかなる辛苦も辞しません。何とぞ、おそばにおいて、先生のお草わら鞋じの緒おなりと結ばせてください。……おねがいいたしまする﹂ 大地へ額ひたいをすりつけて云った。 杖を立てて。 弥五郎一刀斎はその杖ごしにしげしげと典膳のすがたを覗いていた。善鬼はそっぽを向いている。――かなり沈黙のあいだが長かったので、典膳のむねは早、七歳の童子のように、そのあいだおどおどしていた。 ﹁……ふうム。……そうか。よかろう、供について来い。だが、わしはつねにあてのない旅路をさまよっている人間だよ。合点か﹂ ﹁もとより修行の道。師とお仕えすることができますならば、いずこの空なりとも﹂ ﹁……善鬼﹂ ﹁はあ……﹂ ﹁おまえの弟弟子だ。今朝からはな。……仲よくせい。また、よう導いてやれ﹂ ﹁この者の入門をおゆるしになったのですか﹂ ﹁おまえの弟弟子として恥かしくないものだろう。わしにもちと見るところがあるによって﹂ ﹁ははあ。そうですか﹂ 善鬼は正直者である。感情をつつむことすらできなかった。それほどに無智な中で育った生い立ちの粗野が、この年になってもまだそのまま、人がらの中に根づよく残っていた。五
師弟は三人となった。なるほど朝ちょ夕うせき側に仕えてみると、弥五郎一刀斎は気難しい。善鬼の蔭かげ口ぐちは嘘ではない。 朝起きるから寝るまで叱こご言とである。歩き方がいけない、坐り方が悪い。廁かわやの出這入りから眠っている間でも寸分の油断はできない。時には、大たい喝かつを浴び、横顔へ平手を喰う。 ﹁ありがたい。すべて是これ、修行でないものはない﹂ 典膳は忠実に服して、飽あくまで師の心にかなおうと努めた。 しかし、その間にも、彼として、時には師の人格に全く懐かい疑ぎしないわけでもなかった。一世の剣雄、宇うだ内い随一といっても、二とは下るまいと思われるほどな一刀斎にも、起居同床、何年も側にいてみると、性格的にまったく短所も欠点もないというような人ではない、否、むしろこういう一道の達人にありがちな欠陥も多分に持っているのである。 たとえば、金銭などには、関かまわないようでいながら、案外こまかい。道中の木賃の料や中食じきわらじの代まで、典膳がいちいち誌しるしているが、 ﹁なぜこんな無駄をする﹂ と、些ささ細いな茶代の心づけの多少にまで喧やかましくいう。 そうかと思うと、周遊中には、高名を聞いて、所の諸侯が使臣をさしむけ、 ﹁城中へ参って家中一同へ一刀流なるものを観せてくれぬか﹂ などと礼物を齎もたらして、いんぎんに迎えても、 ﹁わしは、芸者ではない。慰なぐさみに観るなら、余人を召されたがよろしい﹂ などと膠にべなくそれを突っ返し、超然、物や黄金には目をくれない。 総じて、権門にたいし、一種の白眼をもっている。狷けん介かい不ふ覊きなところがある。酒を飲めば、大気豪放、世の英雄をも痴ち児じのごとくに云い、一代の風雲児をも、野心家の曲しれ者もののごとく誹そしる。 いわゆる世に容いれられない性格が、自然、世に対してそう云わせるものらしい。元来従順な典膳には、正直、師のそういう狷けん介かいなところには、好きになれないところもあった。 けれど彼は、ひとたび師と仰いだからにはと、そういう自分の性質に合わない点までも、常に、謹んで聞き、かりそめにも、それを以て、師を軽んじるようなことはなかった。 だが、兄弟子の善鬼となると、これは典膳のように、師その人にたいして、最初からの考えがちがっていた。 ﹁おれは一刀流の印いん可かさえもらえばいいんだ。一日もはやく奥伝をもらって、一人前の武芸者として立ちたい﹂ というのが偽りのない願望であるから、師の人格というものには二義的なものしか感じていないし求めてもいないのである。で、善鬼はよく蔭口をささやいて、 ﹁典膳。おまえは余り固くなり過ぎるよ。師匠のはなしも、十年以上聞いていると、たいがい同じことを繰返しているのさ。酒の肴さかなにはなすのだ。それをいちいち畏かしこまって、貴様のように懼おそれ謹んで聴いていたひにはたまらないぞ﹂ と云ったりまた、 ﹁師匠だって、聖人君子じゃない。あんな顔していても、以前はあれで女おな子ごにかけても、なかなか隅へ措おけないところがあったものさ﹂ と、訊きもしないことまで喋しゃ舌べった。 そうして善鬼は、時折、師に対して示す不ふそ遜んを、自ら理由づけているふうでもあった。 しかし、こう三人三様な性格が、ひとつになって、諸国を周遊して少しも倦うまなかったのは、それが単なる生活の方便ではなく、師弟ともに、武者修行としての﹁道﹂ひとつへ研けん磨まを志していることに変りはないからであった。 師の一刀斎としても、なおまだ自己の剣を、 ︵これでいい︶ とはしていない。 達人の剣は、飽くまでも研みがき高められてゆく。 しかしその反面、一刀斎の肉体は、年ごとに老いても見えて来た。 善鬼は、いよいよ壮年期の逞しいさかりへかかって、その実力も、鍛えを加え、また諸国の剣客やその道どう床しょうに人中の場数をふんで、覇は気き満々たるものがあった。 いかにせん、年と齢しにはかてず老いて行く達人と、また、抛ほうっておいても、技わざも体も、伸び熟うれてゆく生命力に、いつか驕きょ慢うまんとなってゆくその弟子とを。――典膳はいつも心配そうに見較べながらついてあるいていた。彼も、弟子ではあるが、つねに荷持のお供であり、相弟子というよりは、草ぞう履り取とりか若わか党とうのごとく、その兄弟子にこき使われていた。六
典膳が、師一刀斎についた年は、弘く天下を観ると、ちょうど、羽柴秀吉の中国軍が、いまやその攻略に、酣たけなわなる頃だった。 間もなく、北方には、甲斐の武田の没落が伝えられ、その年、夏の初めには、突とつ如じょとして本能寺の変が起り、信長の死が、地殻の色をも革かえるほど、大きく世上を愕おどろかした。 ﹁驕きょ慢うまん、恐るべしじゃ。信長もついに達人でない。剣道から観るに、本能寺の一夜は、まったく信長の油断にすぎん。一失の油断は、何から生じるか。……さ。そこじゃよ﹂ 一刀斎は、例によって、世乱変転の相すがたを、あたかも道中の山水風物と同視して、冷酷に批判する。浮ふち沈ん興こう亡ぼうする英雄の道と、いま自分のあるいている道とは、まったく別箇のものとしているのである。 山崎の合戦、賤しずヶ嶽たけ、小こま牧きの役、世潮はしぶきをあげて移り変ってゆく。しかもこの師弟のあるく道とその姿とは、七年たっても八年経っても変っていなかった。 典膳が師事してからまる九年め、師弟は九州を一巡じゅんし、四国を経へ、船で駿する河がにつき、しばらくの後、江戸へはいって来た。 梅つ雨ゆの不順な気候にあてられてか、伊藤一刀斎は、旅はた籠ごで病みついてしまった。そこへ駿すん府ぷから徳川家の重臣が、彼の足そく跡せきをたずねて追って来た。 ﹁何用だろう?﹂ 善鬼はひどくその重臣の訪問に気をつかって云う。船頭の家に生れたせいか、彼は今もって、官職権門などに対して、盲拝的な庶民根性をもっている。口では何かと大きなことばかりいいながら、折があれば自分の生涯のうちにはそういう身分に伍してみたいという幼稚な望みを抱いていた。 いま江戸は、開府創市の機運にあい、どこもかしこも埋立てるやら屋敷や町家をたてるやら、また道路や橋工事などに、埃ほこりだって、殷いん賑しんをきわめていた。 秀忠の居府となすべく、その大改築にあたり、江戸城には近頃、駿府から家康も来てさしずしているという。 そういう中であった。 ﹁先生、徳川家の臣が、何のお使いに参ったのですか﹂ 善鬼はよほど気になるらしく、一刀斎に、二度もたずねた。 ﹁なんでもない﹂ 一刀斎は、薬を服のむときのような顔して、その顔を横に振る。 数日たつと、北条安あわ房のか守みがまた訪れた。安房守は、秀忠の兵学師範をしている。このときも密談で、善鬼は何も聞けなかった。 ﹁典膳、おぬしは聞いたろう。茶を運んでいたから﹂ ﹁いや、何も聞かぬ﹂ ﹁うそ云え。聞いたにちがいない。安房守は、何しに来たのだ。師匠とどんなはなしをして帰ったのか﹂ ﹁知らぬよ﹂ しかし善鬼は、典膳のことばまで、ほんとにしない顔つきであった。七
一刀斎は、ようやく、病床を離れた。一雨ごとに葉の落ちてゆく晩秋の巨木に似ている。典膳は、この土用に向って、師の健康が案じられた。 ﹁江戸の埃ほこりは、馬まぐ糞そ臭くそうてたまらん。安あ房わの海辺へでもゆこうか﹂ 師弟三名、また黙々と、旅へ出かけた。八、九年も前は、一日に山や峰を踏みあるいても十五、六里から時には二十里もあるいた一刀斎も、近頃は、一日七、八里も歩くと、 ﹁典膳。宿をとれ﹂ と、命じる。 そこにも、あらそわれない師の老齢が想われた。 下しも総うさの国へはいった。相そう馬まご郡おりの小金ヶ原に近い寺に泊った。馬の尿いばりを嗅かいで農家の蚤のみに喰われたり、下の竈かまどで焚たく煙にいぶされながら木賃の屋根裏で寝るときよりも、寺に泊って寝られる夜はもっとも恵まれた晩である。折から小金ヶ原の野末には白い月が出ていたし、一刀斎も病後初めて、 ﹁ああ、こよいは快よい気もち﹂ と、心から夜の涼味をたのしんでいた。 そのうちに、善鬼に向って、 ﹁蚊かや遣りをもっと焚たけ﹂ と、命じ、また典膳に向っては、 ﹁すこし善鬼とはなしたいことがあるから、おまえは庫く裏りなと本堂へなりと行って、すこしこの座を遠慮しておれ﹂ と、いう。 いつになく改まっている師のすがたにも見えたので、典膳は何事かとあやしみながらも、 ﹁かしこまりました﹂ と、素直にそこを去った。 そして庫裏へ行って、野僧や小坊主をあいてに話しこんだり、本堂で月をながめたり、ずいぶん時を費ついやしてから、 ︵もう、よかろうか︶ と、師の部屋を窺うかがってみると、一刀斎と善鬼とは、依然、かたく対坐したまま、まだ何事か、話し中であった。 で、彼はまた、そっと戻って、ぜひなくこんどは外へ出た。そして大きな藁わら屋根のうえに更ふけた月をぽつねんと独り仰いでいた。 するとこうした静かな夜のしじまを突然やぶって、あらあらしい大声がどこかできこえた。たしかに方丈の一室である。師の泊っている部屋あたりだ。 ﹁……や?﹂ からたちの垣がその外を囲んでいる。典膳は草ぞう履りの音をしのばせてその外へ馳け寄った。内では、月のさす廂ひさしの奥で、善鬼が、呶ど鳴なっているのである。八
﹁ばっ、ばかなことを、お云いなさいっ。いかに、師であろうが、先生であろうが、余りといえば、ひとを莫ば迦かにしたおことばだっ。いったいこの善鬼のどこがわるいんです! どこが﹂ ひどい声だ。すさまじい感情だ。もう平常の師弟の礼も逸いつ脱だつしている。典膳は、これは困った喧嘩であると眉をひそめた。 病後の一刀斎の声にも、すこし癇かん癖ぺきが加わっていた。駄々ッ子を叱る父のように、 ﹁たわけ者がッ﹂と、つよく叱しっ咤たし、 ﹁どこが悪いか、ひとに訊きかねばわからぬほど、そち自身の愚ぐど鈍んが、まだ気づかぬか。それも見えぬものに、何で、真の剣が観えよう、一刀流の極ごく意いの印可など、沙さ汰たのかぎりである、断じて、そちにはまだ許せない﹂ ﹁ゆるしてくれないものなら、仕方がないと、諦あきらめもしよう。だが、この善鬼よりずっと後に弟子入りした典膳にそれを譲るから、左様心得ろ、口惜しくば、もっと励め、とは一体なんという無慈悲無情なおことばだ。弟子を愛すのが師ではないか、その弟子を、もう十九年も仕えている弟子に、こんな酷ひどい想いをさせてもよいのですかっ﹂ ﹁やかましい。そちのいうことは、いちいち理に外はずれておる。まるで痴ちじ人んの喚わめきだ﹂ ﹁なに。痴人だと。どうせわしは痴人でござる。それ故、徳川家へも、典膳を御推挙になったのでしょうが、それでは、この善鬼、兄弟子として、世上へ面おもてが立ちません。痴者には痴者の一念がありますからそう思ってください﹂ ﹁一念とな。それはいい発ほっ心しんだ。ちかって弟弟子の典膳に劣らぬよう、もういちど勉強し直すがいい。山へでも籠って﹂ ﹁く、くそっ。ば、ばかな﹂と、善鬼は牙きばを噛み身をふるわせて云い返した。 ﹁先生っ。あなたの依え估こひいきな眼を正してあげるのです。あなたは、この善鬼が憎くて、典膳がおすきなのだ。怪けしからん片手落ちだ。善鬼は、兄弟子ですぞ。典膳ごときに劣るものではありませんぞ﹂ ﹁だから、……どうするというのか﹂ ﹁いや、それよりも、先生。……もしこの善鬼が、典膳と尋じん常じょうに立合って、一刀のもとに彼を斬きり伏ふせたら、あなたは何といたしますか。それから先に聞かせてください﹂ 月明りを横にして、膝をつめよせている善鬼の血相といったらない。すでに人の見さかいを失っているのであろう。左の手は刀にふれている。典膳は垣を破ってはいろうか、このまま、控えていようか、師の心も推おし測はかりながら迷っていた。初代次郎右衛門以後
一
寺僧の声がした。師の部屋に青い蚊か帳やが吊られ、やがて善鬼の影は縁伝いに退さがって行く。
典膳が戻ってみた頃、善鬼もすでに眠っていた。典膳も眠るしかない。
しかし兄弟子の寝返り打つのを、幾たびも知っていた程、彼も寝ねづ辛らい夜ではあった。
夜が白む。まだ朝露のふかい間に、この師弟三人は、もう昨夜の寺を出て、先の旅へと、黙々、野路を歩いていた。
今朝、寺の筧かけひの水で、起おき抜ぬけに顔を洗うときから、善鬼の面おもてには、夜来の感情がすこしも拭ぬぐわれていないのみか、むしろ、そそ毛立っているような凄せい気きをすら――典膳は、ひそかに見ていた。
ゆうべ彼が師と争ったことの内容は、典膳にもほぼ推察されていた。それだけに、彼としても、この兄弟子に、何となく気まずいものを覚えずにいられない。自然、腫はれ物にでも触さわるような無口がつづく。
師の弥五郎一刀斎もきょうばかりは少し常と容よう子すがちがう。察するに、胸の中で、夜来の問題を、いかに解決すべきか。師として、また人間として、さらに、奉ずる剣道の上から観て――善鬼と典膳と、ふたりの弟子の将来に、並ならぬ苦くも悶んを抱いているらしく思われる。
陽は高くなる。草も乾く。きょうも烈しい土用照でりだった。下総半国もつづいているかと思われる小金ヶ原の果はてなき野道を、こう三人は、草いきれのような胸を抱いて歩いた。
昼顔や切れぬ草鞋 の板となる
誰やらの句も偲しのばれて、足の裏すら熱かった。――一刀斎はふと杖を止め、一いち朶だの白雲を仰いでいたが、このときもう彼の考えは定きまっていたものの如く、善鬼と典膳を顧みて、
﹁ふたりとも待て。……ちと、はなしがある﹂
と、笠の緒おを解いた。
焦やくが如き炎天の下もと、碧へき落らくの十方、キチキチ、キチキチと、青い虫の飛び交うほか、旅人の影一つない真昼だった。
二
一刀斎は、道の傍かたわらに、大きな石を見出し、汗を拭って、それへ腰かけた。 弟子の二人は、二十歩ほど彼方に、命じられたまま、佇たたずんでいる。 まず、先に、 ﹁善鬼。これへ参れ﹂と、呼んだ。 善鬼は、大股に歩いて来ると、彼の前に突っ立った。一刀斎は、その非礼に顰ひん蹙しゅくしたが、今はその非礼を咎とがめる気にもならないように、 ﹁夜前の希望をかなえてつかわす。望みどおりここで典膳と立合うがよい。おぬしが勝たば、ここに携たずさえておる瓶かめ割わりの刀、伝書、相あい添そえてそちに譲ろう。このふた品を持って、北条安あ房わどのを訪れ、幕府への御推挙を仰ぐとも、また一刀流を称して他に一家を構えようとも志こころざしどおりにいたせ﹂ と、云い渡し、重ねて、 ﹁よろしいか﹂と、念を押した。 善鬼は、そう聞いてから、急にひざまずいた。自分の意志が容いれられたし、師のことばに、親切も感じられたからである。そして典膳との勝負については、何の顧こり慮ょなく、勝つものと、極めているらしかった。 ﹁ありがとうぞんじまする。お見届け下さい﹂ 明答して、元の所へ、引き退がった。 次にまた、一刀斎は、 ﹁典膳。これへ来い﹂と、さしまねいた。 典膳は、師の脚下に坐って、両手をついた。 彼方から善鬼がじっと見ている。――一刀斎は善鬼へ云い渡したことばを、彼へもそのまま繰返したに過ぎない。ただし、彼に対しては、その唐とう突とつを気の毒がるように、べつにこれだけのことは云い足した。 ﹁好むことではない、何分にも、善鬼の我意はわしにも、撓ためきれん。よんどころなく希望を容れたわけだ。――故に、其その方ほうとしては、兄弟子たりとも、毛頭、斟しん酌しゃくに及ばぬ。修行の年月は、彼よりも浅いが、死力を尽して立合え。怖らく、技わざに於ては、そちは到とう底てい、善鬼の敵ではあるまい。及ばぬこと遠いとわしは視る。しかし剣道の真は、技や作り構えでないことぐらい、万々、そちも開かい悟ごしておる筈。よも見苦しい負けは取るまい。確しかと肚をすえて致せよ﹂ ﹁おいいつけとありますれば。……畏かしこまりました﹂ 典膳も、起って、元の位置まで戻った。 一刀斎は、腰かけている石から離れず、彼自身また、石に化したかのように、じっと、二人の弟子を見くらべていた。三
﹁聞いたか。典膳﹂ と、善鬼は、革かわ襷だすきを綾あやなしながら、愍あわれむように典膳へいう。 ﹁承りました。兄弟子ながら、白しら刃はとあれば、御仮借はいたしかねる。御免を﹂ ﹁よしよし。せめて、善鬼の髪の毛一すじなりと、斬って死ぬ気でかかれ。――典膳、はやく支度しろ﹂ ﹁よろしいのです﹂ ﹁なにっ﹂ ﹁支度には及びません。いつでも﹂ ﹁よいと云ッたな﹂ 右の肘ひじ頭がしらが、善鬼の顔半分をかくした。柄つかを握ったのである。身を斜めにして。 風を呼ぶかのように、善鬼が、うむッと、宙の気を嚥のんだ。そして鞘さや口から刀身が走り出すことまだ半なかばのうちに、典膳から、 ﹁いざっッ﹂ と、凄すさまじい気を吹いて、はや一太刀先へ揮ふりこんだので、善鬼は、ばッと、踵かかとを退ひき、さらにまた、相手の鋭えい鋒ほうを避けて、二度まであとへ飛び退さがってから、初めて、ぎらっと、鞘さやの内から焦やけている大きな刀を引抜いた。 ――相あい青せい眼がんというのか、彼も中段、典膳も中段に構えた。そしてふたりの剣尖から剣尖までのあいだは、十歩も離れていた。 いずれからにじり寄るともなく、その十歩が、七歩となり、五歩となり、三歩となり、はや相触れ合うばかりに見えたとき、石の上から突然腰をあげて、一刀斎が大喝した。 ﹁典膳、勝ったりっ。そのまま、瓶かめを割る気で、真二つにしてしまえっ﹂ ことばのうちに、典膳は、ふところを開けて、大上段にふりかぶっていた。この際、善鬼としては、つけ入る虚きょがあったはずだが、一刀斎の声に驚いて、感情を掻きみだされ、機を失っていたせつな、殆ど、無むぞ造う作さといってよい程、自らの噴血の中に、二言ともいわず、幹から竹たけ割わりに斬り伏せられていた。 ﹁…………﹂ むしろ茫然たる姿は、ただ一刀に彼を斬った神みこ子が上み典膳の姿だった。 切ッ先下がりに、精いっぱい、相手を両断したままの姿を――その刀、その構え、その足までを、少しも崩すことなく、いつまでもじっと、そのままに、思考していた。 自分にないとしていた力が自分から出たのである。それは、はからずも画えがけた神品の名画に似ている。どうして画けたか、よく自分に意識づけて一つの悟ごに入ゅうとしておかないことには、平常に回かえって、ふたたびこの神品が画けるか否か、自分のものでも、自信することができないだろう。 典膳は正しく、自己の剣に、陶とう酔すいしたのだと云ってよい。涙がにじみ出てならなかった。今日以後、一箇の剣人たることを、天地からゆるされたかのような心地である。 ﹁……止とどめを刺せ﹂ うしろから、一刀斎に云われるまで、典膳の四肢しは、土から生えたようになっていた。しかし、敢あえなき兄弟子のすがたを見ると、止めまでは刺し得なかった。善鬼はなお手足をぴくぴくさせているのだ。どうしても忍び難い。 ﹁わしに貸せ﹂ と、一刀斎は、典膳の刀を取った。典膳は鞘ぐるみ、師の手にあずけた。一刀斎は、断だん末まつの善鬼をしげしげとながめて、 ﹁不ふび愍んなれど、かくなり果つるように、所しょ詮せんは、生れついておる男じゃった。助かるべくもない深ふか傷で、せめてこう致してやるが師の慈悲よ﹂ と、刀の切っ先をもって、一抉えぐり与え、さて、典膳に向っては、 ﹁忘るるなよ、典膳。いかなる上手になろうとも、善鬼の如く慢じては、その終り、かならずかくの如きものじゃ。思えばわしも一代に大きな過失を一つした。それは、習まなぶべからざる質の者に、わが剣法を習ばせたことじゃ。豈あに、善鬼の罪とのみいえようや。――善鬼よ、ゆるせ﹂ 一刀斎は、左の手で、白しら髪がまじりの髻もとどりの根をつかんだ。そして右手の刃で、ぷつと断きり、善鬼の胸のうえに投げた。 そしてその刀は、自分の腰に収め、自分の腰にさしていた刀を取って、典膳に与えた。これは、どういう由ゆか縁りから起った銘か、瓶かめ割わりの刀とよばれ、稀きた代いな名刀と知っているので、死せる善鬼もかねがね、師匠が死んだら俺の物と、独り極めにしていたほどの刀だった。 それと、伝書とを、併せて、典膳に贈り、 ﹁さらば今日が、師弟のわかれと相成った。そちは江戸へ戻って、北条殿を訪れよ。委いさ細い何事も、安あ房わどのがお心得ある。……何。わしか。入道一刀斎の行く先は、いくらでもある。何の、巷ちまたの世間に限ろうぞ。案ずるな。おさらば、おさらば﹂ 追えども追わせず、袂たもとをふり払って、一刀斎は、野のづ面らの空の白雲のように、いずこともなく独り去ってしまった。 以来、この人についての消息はない。世間にも伝わらず、典膳の耳にすら聞くことがなかった。四
典膳がその姓、神子上氏を変えて、小野姓になったのは、師一刀斎とわかれ、北条安房守の斡あっ旋せんで、幕府へ禄仕するようになってから後である。 同時に、名も改めて、次郎右衛門忠明と名のり、神田もちの木坂に、邸やしき及び道場を賜わり、受禄三百石ぐらいであった。 将軍家師範の家としては、すでに柳生家があり、家格待遇も甚だ彼よりは高い。とはいえ、かりそめにも、小野次郎右衛門を、その次席に登用したことは、けだし野やに遺いけ賢んなからしむる意味で、北条安房守そのほかの幕臣にしてみれば、かなりな勇断と破格を示したものであった。 そのとき次郎右衛門の年とし歯はもまだ壮年だったから、修行中、安房の夷いす隅み郡にのこしてあった老母も、やがて彼の新邸に迎えられたであろうし、以後、いよいよ道に研けん鑚さんし、奉公にも篤あついわが子の将来を見とどけて、安らけく、終ったであろうことも想像される。 また、一説には、 次郎右衛門忠明の﹁忠﹂なる字は、二代将軍の秀忠から賜わったものであるともいわれているから、以て、彼が将軍家から寵ちょ任うにんされていたこともわかる。 おそらく、この説は、ほんとうであろう。すでに、将軍家が秀忠と名のっているのに、彼が自みずからその﹁忠﹂を勝手に用いるはずがない。たとえ将軍家の方が後から称える場合でも、臣下は遠慮と称して、文字を改めたものである。然るに、忠明は歿ぼっするまで、忠明でとおしている。五
これは忠明が、禄仕の後か、その前の神子上時代のことか、定かでないが、薩さつ摩まに一話を残している。 彼が、薩摩へ行くと、その著名を聞いて、土地の瀬戸口備びぜ前んなる剣家が、 ﹁一夕せき、お迎え申したいが﹂と、使いを以て招いた。 約束の夕べ、瀬戸口の邸やしきへのぞむと、十坪ばかりの道場に、弟子たち大勢がひかえていた。そして、忠明が奥へ通ろうとする足もとから不意にむらがり立って、総勢して斬りつけた。 ﹁かかることもあるべし﹂と、予期していたかの如く、忠明は、慌あわてず、怯ひるまず、身辺の者を、蹴けた仆おし、踏みつぶし、一刀を抜き払うや、獅子のように薙なぎ廻って、狭い道場を忽ち天井まで紅くれないにしてしまった。 死骸となって、床に伏す者八名、深ふか傷でを負い、うめき這う者四人、あとはみな逃げ散ってしまった。 ﹁御案内の人じんはいかがなされた﹂ と呼ばわりながら、忠明は、なおも奥へ入って行った。すると一室に、赤い広袖を着た人物が、惣そう髪はつの頭を下げ、大小を前へさし出して、 ﹁備前でござる。今こん夕せきの戯たわむれは、まったく門人どもの私意。平ひらにおゆるしを。平に﹂とばかり百遍も叩こう頭とうして詫び入った。 ﹁御もてなしとはこれでしたか﹂ 一笑を残して、忠明は帰った。即日、国外へ去るべく山道へかかると、はや知って、先廻りしていた数十名の者が、樹下叢そう陰いん、思い思いな所から立ち現われて、彼を阻はばんだ。もちろん手槍、太刀、薙なぎ刀なたなど、武器もさまざまであった。 そのうちに、一名の手練の立ちすぐれた男が、鍵かぎ鎗やりを揮ふるって、忠明の片袖を絡からみ奪とった。忠明は、絡まれた袂たもとの上から鎗をつかみ、手元へ躍りこんでその者を一颯に斬った。ぎゃっと、のけ反ぞったとき、その面おもてに思い出されるものがあった。おそらくは主謀者か。これを見ると余の者は、脆もろくも散って逃げ去った。 人あって、後に、忠明に問うと、 ﹁いくら一時に大勢してかかって来ても、衆も結局一人に過ぎない。衆に出会って、敵は我れの何十倍に当るなどと思うことが敗れである﹂ と、答えた。 戦闘に当っては、一人も一、衆も一なり、というその理を説いては、またこう言った。 ﹁――たとえば、敵、万人かかり来るとも、一箇のわが身辺へ近づける者は、せいぜい前後を囲んでも八人を出いずることはない。さらに、各敵が、二尺以上の太刀を、双もろ手てに揮って使うとなれば、なおその間隔は局限されるし、また、各人の我れに斬りつけて来る太刀にも、必然、迅いのと遅いのがある。こう審つまびらかに観て来ると、八人の数は、半分もうごけず、その半分から我れに触れて来る切っ先に至っては、やっと一人がせきのやまである。――故に、胆をすえて、此こち方らがその一人一人を制しさえすれば、べつだん何ということもない﹂ それから、また、 ﹁大勢の敵を悩ますには、その多数性をこちらの利に取って、彼の混乱を促うながせばいい。自分一人というものほど、統とう率そつがよくとれて、混雑しないものはないからな。――戒いましむべきは、衆に対して、いたずらに虚勢を張り、大勢の力を、求めて我れの一ヵ所へ集注させることだけだ﹂六
一刀流三祖伝に伝えて曰いう。 或る折、同職の柳生但たじ馬まの守かみが、小野どのの剣を、一見したいと求めたことがある。 ﹁畏かしこまった﹂ と日を期し、忠明のほうから柳生邸へ出向いた。この日、十兵衛三みつ厳としもおり、甥おいの柳生兵庫も待ち、ほか柳生の四高足といわれる木村助九郎、村田与三、出淵平八、庄田孫兵衛などもみな居合せて、 ﹁まず、私から﹂と、柳生十兵衛が初めに立った。 彼は、但馬守の長子で、父にまさる者という世評すらあったが、立合うと、半ばにして、 ﹁まことに、お見事です。わが家いえの水月の太刀を、祖父石舟斎のおすがたに見るままな心地がしました﹂ 木剣を下に置いて退さがってしまった。 ﹁さらば﹂ と、兵庫が立ちかけるのを、忠明は、いやと抑しとどめて、 ﹁今日、但馬どのから、お求めをうけたのは、こちらの御子息や御門下の太刀を一覧の上、忌きた憚んなき御評などもうかがいたいとの御ぎょ意いであった。さほどのことなれば、一人一人に、辞儀申すよりは、一度に拝見いたしたほうがよいと思う﹂と、云ったので、それがやや不ふそ遜んに聞えたのであろう、四高足は、色めき立って、各木剣を手にして立った。 ﹁兵庫は、控えて、傍かたわらより見学いたしておれ﹂ と、但馬守は、特に彼を避けさせた。避け得ないところの殺気をすぐ感じたからである。 けれど、結果は、あっ気なく終った。四人が汗してかかってもついに忠明に木剣の先も触れることが出来なかったのである。 奥へ招じて、懇ねんごろに歓待した。種々、忠明の評を聞いた。やがて客はすずやかに立帰って行ったが、その後で、十兵衛が、 ﹁四人でかかったときはどうだった﹂ と、訊ねると、四高足ともみな口を揃えて、 ﹁ただ、水を断きり、雲を払うような気がするのみでした。どうしても、敵の骨身に入っていなければならないと思われる太刀も、一瞬ごとに、虚きょまた虚です。その虚に憑つかれたように、こちらの頭が疲れたとき、忠明どのの太刀が、いつのまにか自分に来ているというわけですな﹂ 但馬守も側にあって、 ﹁予は、どうかして、忠明の眼ざしが、どこへついているかを、見極めようと観ていたが、ちょうど、陽かげ炎ろうを追っているようなもので、どうしても彼の眸ひとみのつけどころを、適確に、見極めることができなかった﹂ と、共に嘆じていたという。七
小野忠明と柳生但馬守とは、同じ将軍家師範の職にあったため、対立的に視られ、ほかにいろいろ別説もあるが、多くは信じるに足らない。 典膳が独り江戸に出たとき、噂を聞いて、柳生家を訪ね、その不敵を怒る但馬守に対し、燃え捨ての薪まきをもって、彼の流名と誇りとを辱はずかしめて帰ったという如き――またそれを聞いた大久保彦左衛門が、急きゅ遽うきょ登城して、将軍秀忠に、忠明を推薦したという如き――みなそれに類する巷こう説せつといえよう。 けれど、両家とも、同じ剣を以て、同じ職に仕えていたことだから、道を研みがく上において、談合上の研究的な仕合などは、あったと見ても当然である。その意味で、一刀流三祖伝の伝えている彼と柳生の高弟たちの仕合は或る程度まで信じていいことかと考えられる。 その記載に依れば。 なおその後、十兵衛三厳は、忠明の剣の玄げん妙みょうに深く感じ、父の門人村田与よぞ三うを伴ともなって、もちの木坂の彼の道場を訪れ、 ﹁先頃はまこと失礼いたした。顧みて汗顔にたえないものがあります。どうかわが家いえの流法について、長短善悪の個所を、御ごき忌た憚んなく批評し、またお訓おしえを仰ぎたい。――その代りに、柳生流について、何ぞ御質疑ありたい儀でもあれば、家の秘法とか相伝外に限るなどという狭量は申さず、どんなことでもお答え仕る所しょ存ぞんでござる﹂ と、胸を割って、親しく話し入れたという。 そこで忠明はよろこんで、自己の感想、また見解を披ひれ瀝きし、十兵衛三厳も家の流法の秘とする点まで打語って、相互ともに悟るところ多く、十兵衛の剣も、忠明の剣も、以来いよいよ精妙に入ることを得たということである。 奉公の道も一つであり、研みがく道も一つである以上、こうした相互研究を望むことは、たしかに両家の態度であったにちがいない。それを対立的に観て、噛み合すような風説をこしらえたのは、両家以外の世間であったろう。当時の一般剣術者の仲間などには、殊に、何のかのと、いろいろに取沙汰されていたにちがいない。八
まったく政略経けい世せいの武将と観られる徳川家康すら、その若年にも中年にも、個人的修行のひとつとして、剣は学んでいた。 姉川の合戦のときだ。旗本奥平九八郎が、敵の名だたる者の首二級を獲て、実検にそなえた。家康は、九八郎の若年にしては、過ぎたる大功と、いたく賞揚して、 ﹁汝そちは平へい常ぜい、誰に剣を学んでいるか﹂と、たずねた。 そこで、九八郎が、 ﹁奥山流という刀法を少しばかり学び申した﹂ と、答えると、家康、膝を打って、 ﹁それは定めし、急きゅ加うか斎さいという者であろう。いまは汝そちの家の客臣となっておる。自分も年少のときから、彼に剣法を授けられたものであるが、近頃は戦陣の軍務に忙しく、まことにその道も怠っていたが、やがて今度帰陣のうえは、いちどぜひ急加斎を伴つれて浜松へ見えよ﹂ と、なつかしそうに云ったという。 この急加斎というのは、奥平氏の一族で、孫七郎公きみ重しげといい、剣は、上泉伊勢守の門流を汲み、神陰流の奥秘に達して、さらに三河国奥山明神に参籠して、自己の哲てつ理りを発明し、以後みずから称となえて﹁奥山流﹂といっていた人である。 家康はなおその家中にも、有馬大膳という剣客を召抱えていた。大膳は新当流を以て久しく家康に手をとって師範していたが、その嫡ちゃ流くりゅうの絶えたため、後に家康は、その孫の有馬豊ぶぜ前んに家名を継がせ、一族を紀州家に転職させている。これらの遺事は、家康も剣道を学んだという例証によく語られている場合が多い。 二代の江戸将軍家たる秀忠は、家康以上、剣けん磨まの行には熱心だった。当時ようやく、剣道の真価がみとめられ、また剣と人生、剣と武士道が、併行的に磨き上げられてきた時代である。いわゆる﹁一剣天下ヲ治ス﹂と当時に標語されたように、剣の哲理と経国の道――すなわち政治性とのかかわりなども深く考えられていた。そして将軍家自身の熱心な実践と唱道も大きな素因となって、斯しど道うの名人達人は、まさにこのときを陽春の魁さきがけとして輩出した観がある。 学ぶ者が、熱烈なので、自然、柳生家にしても小野家にしても、うかうかはしていられない。 で、その秀忠を対象として、柳生家は柳生流の信条を以て――また小野家は小野忠明その人の信念を以て、これに教授していたこと勿論であり、異流同職、おのずから二家の教え方に、大きな相違があったことは否めない。 その相違を、ひと口にいうと、柳生家は柔らかにまた鷹おう揚ように。小野家は、阿あ諛ゆをきらい、率直に烈しい稽古を特色とした。 秀忠が、或る時、側臣たちをあいてに、座談のうえ、頻しきりと、剣道上の理論をならべていると、忠明があとで、 ﹁理論に賢くなって、理論剣術の達者になられることは、もっとも禁物と申さねばなりません。とかく剣の哲理は、口さきではだめで、生死のさかいに立たないでは、何も云えるものではない。座上の兵法、畳のうえの水練など、弁口の士にとっては、ちょうどよい芸当ですが、心ある者の眼には、苦々しいものとしか見えませぬ﹂ こういう直言を憚はばからない小野忠明は、時に依って、苦言余りに直心に過ぎ、年経つほどに、将軍家からの気うけは次第に良くなかったようである。九
真しん偽ぎのほどは分らないが、生なま兵びょ法うほうの秀忠が、夜ごと、城外へ出て、黒衣覆面し、無む辜この往来人を辻斬して、ひそかに楽しむというのを聞き、忠明が、わざと彼の徘はい徊かいする濠端に夜行し、その斬って出いずるや、児じ戯ぎをあしらう如く脚下にねじ伏せ、懇々、これを懲こらして放したというような話すら遺のこっているほどである。 また、両国橋の畔たもとに、飛とび入いり剣術の小屋掛がけがあった。見物人のうちに交じっていた次郎右衛門忠明が、時折、苦笑をするのを見て、その興行者たる自称天下無双の兵法者が、 ﹁笑うからには、腕に覚えがあるからだろう。これへ出て、衆人の前で、何が故に、俺の剣術がおかしいかを、実際に証拠だてろ﹂ と、忠明へ喚わめきかかった。 忠明は、心得たりと、わざと大刀は門弟にあずけ、鉄扇ひとつ携えて、衆人環かん視しのまん中へ出て行った。 相手はもう大刀を抜いてふりかぶりながら待っている。見るからに眼も眩くらみそうな大おお業わざ刀ものである。次郎右衛門忠明は、そのまえに立って、鉄扇をさし向けると、 ﹁その恰好は何か。それが笑わずにいられるか﹂と、云ってまた笑った。 ﹁何をっ﹂ と、怒りにまかせて大刀を揮ふり落したとき、どうしたのか、天下無双の先生は、片足を高く揚げ、頭を低く地へ突くように、と、と、と、と三つ四つよろめいていた。 興行人たちが驚いて抱き起してみると、鼻から血を出して昏こん絶ぜつしていた。見物人はわんわとばかり囃はやし立てている。しかし暫しばし鳴なりもやまない喝かっ采さいから彼等がわれに返って見廻した時には、もう次郎右衛門忠明のすがたはどこにも見当らなかったとある。 いつかこれが、将軍家の耳にはいると、秀忠は、 ﹁天下の師範たるべきものの行状でない﹂ と、蟄ちっ居きょを命じられたという。前の辻斬を懲こらしたはなしにも、秀忠の不興に会って、閉門を命じられたということが附随している。いずれが真なりや無根なりや知れないが、とにかくこんな風に、柳生家への恩おん寵ちょう篤あつきにひきかえ、小野家の方は何となく重んじられていなかった風が観える。十
晩年のこと。柳生但馬守の顔を見ると、次郎右衛門忠明は、よく口くち癖ぐせのように、
﹁貴家の御子息にも、不ふし肖ょうのせがれにも、もっともっと真剣の境地を悟らしめなければ、ついには型にのみ陥ち入りましょう。死罪とする罪人の中から腕強き者を申しうけ、それに真剣を持たせて刃向わせ、斬って捨てさせることを繰返したなら、必ずよい修行になると思いますが﹂
と、談合しかけて来たが、但馬守はいつも、その度に、
﹁いかにも。なる程なる程﹂
と、共鳴して、ひどく挨拶顔はよいが、決して、実行するような気はなかったということである。
こういうふうに、剣の烈しい一面のみを以て、秋しゅ霜うそう身を持し、また将軍にもそのまま、刃びきの刀をもって、遠慮なしに稽けい古こをつけたりした小野一刀流は、自然、忌いまれ避けられ、次郎右衛門その者の人間まで、知らず知らず遠ざけられて、独り柳生流のみが、将軍お手直しの剣道として、世人にまで称美される風を作った。
けだし、柳生流の本来とするところは、流祖石舟斎が、但馬守宗むね矩のりの出府に際して、懇ねんごろに諭さとしているとおりに、
――殺人ノ剣タル勿 レ、治国ノ剣、経国ノ剣トシテ家流ノ本旨トナシ、又奉公ノ念トセヨ。
と、いうにあったので、一秀忠の剣技などは、下へ手たでも上手でも、問題とはしなかったのである。
だが、その天下一柳生流も、柳生の四代、五代となっては、見るかげもなく堕だら落くしている。かんじんな流祖の精神はいつか失って、その恩寵に馴れ、声名に驕り、生活に安んじ、不断の研きも忘れるに至ったからである。
忠明の子、二代小野二郎右衛門も、達人の聞えが高かった。まず父の名を辱はずかしめない人といえよう。長命で七十余年も生きたが、毎朝の稽古や素す振ぶりを死ぬまで怠らなかったなど、その人の並ならぬ心がけが、窺うかがわれる。ただ一度、七日ほど朝の稽古をしなかったことがあるので、門人たちが不ふし審んがって、
﹁お体でもお悪いのですか﹂
と、たずねたところ、二郎右衛門は笑って、
﹁いや、体がわるければ、なおやるよ。実は、将軍家から七日ほど過すぎに、わしの剣を御覧になりたいというお達しが参ったからじゃ﹂
と、云った。その気持が、門人達には、なお解げせないので、
﹁近く御上覧の栄に浴されるなら、なおさらその日までは、稽古をお励みあって然るべきに、お沙汰を拝したからお止めになるとは、どういうお考えなのですか﹂
かさねて質ただすと、二郎右衛門はからからと笑って、
﹁さればよ。わしが十年二十年の稽古も、事あるときの唯一日の備えでしかない。七日や八日の急稽古をして、不覚な怪け我がでもいたしたなら、却って大なる不忠ではないか。総じて、間まぎ際わと相成っては、はや稽古の日ではない。むしろ爪でも剪きったり、髪なども梳すいて、その一日を、すずやかに待つべきものだ。生涯の修練が、滞とどこおりなく失念なく、その場で現わし得るように――﹂
と、訓おしえたということである。