辰たつ蔵ぞうの成人ぶりもお目にかけたい。二歳になる又二郎にもばば様と初の対面を遂とげさせたい。妻の梨り影えも久しくお待ち申しあげている。 孫の愛で釣るように、手紙を出すごとにこう上京をすすめていた老母が、やっと来る気になって、三月三日に広島を立ち、途中、菅かん茶ちゃ山ざんの黄葉落陽村そん舎しゃに立ちよって、十四日には便船で兵庫にあがるという叔父の春風からの通知をうけたので、山陽は、前日から大坂の後藤松蔭の宅に泊って、明る朝、摂せっ津つの御影まで迎えに出た。 ﹃ほ、これは、どうして知れたのだろう﹄ 茶店へ来ると、母を迎えに来た山陽は、却かえって、自分を迎える知ち己きや朋友の群にとり巻かれた。 篠崎小しょ竹うちくの顔も見え、岡田半はん江こう、小おの田だ百谷こくなどの画人や、伊いた丹みの剣けん菱びしの主人なども来ていた。 ﹃いつもながらお優しいお心、梅ばいさまにも、どんなにお欣びであろうか﹄ ﹃葵あおい祭りには、ぜひ小宅でおやすみを願いたいものです﹄ ﹃大坂見物の折には、茅ぼう屋おくを宿として下さい。角の芝居にも近いし﹄ ﹃柏はく葉よう亭ていでもよいし、宇治あたりでもよいじゃありませんか。一夕、御老母を中心にしてくつろぎながら、山陽先生の宮島がよい頃の遊ゆう蕩とう児じぶりや、座敷牢時代のご苦心を承るのも、今となれば、なつかしいものでしょう﹄ もう、随所で、そんな相談が交された。 山陽は、その間を、誰へも平等に快活な会話を撒まいていたが、時々、文人かたぎな諧かい謔ぎゃくに爆発する笑声が、彼を中心に賑にぎわって時を移していた。 実をいうと、彼は、きょうの案外な知己の好意にすこし迷惑を感じた。なぜというに、この前――三年程まえに初めて母の梅ばいを京都に迎えて、自分の生活の安定を見せ、かたがた洛中洛外を見物させて歩いた折に、山陽の疾しっ駆く的な名声に圧倒されて、ひがみっぽくなっている儒者の一派が、 ﹃彼は瓜かえ園んの老おう媼なまでひき出して売名の具にする﹄ と、暗にそれを偽善のように言いふらした例があるので、きょうは、誰にも告げずに来たつもりだった。 だが、彼の好きな信長の現われのように、芸州藩の一儒者の家から出て、預けられた茶山の塾の壁に﹁山凡ぼん、水みず愚ぐ、先生鈍どん﹂の出奔遺書をのこして京地へ走った一書生の頼久太郎は、今では、山陽外史頼らい襄じょうの名を、日本的に銘記してしまった西都文壇の巨匠でもあり流行児であった。そうした彼が、常に周囲から神経質な目をそそがれている山紫水明処の書斎を出れば、すぐに、これ位な消息は洩れないわけは無かった。 又こうして、すでに一家を成している学者、文人、画家などの一癖ある人間ばかりの間に立って、黙笑だけで頷いていても、彼の酒さけ窶やつれのある苦ッぽい顔や、頭の大きさに比較して細い髷まげや、こげ茶の絹の羽織や、青あお縞じまの何時も書画会につけて出る袴はかまや、何気ない風采を作っている箇々のもの迄が、みな、四十五の年齢までに彼の成し遂げて来た超人的な業蹟のかがやきを思わせぬものはない。――味噌の味噌くさいやつ、学者の学者くさいのを嫌った彼にも、その意識はあった。つとめて大家ぶるまいと心がけながら、威厳も持とうとする複雑な得意のうちに、きょうの迷惑は、やはり悪い気持ちのものではなかった。 ﹃あ、お見えなされた﹄ そこへ、兵庫の浜から梅の駕が着いた。 × 梅ばいは、連れて来た若党を、すぐに便船へ帰して、ひとりになって、わが子とわが子の知己の迎えをうけた。 もう一挺ちょうの駕籠からは、誰も降りる様子がない。それには、孫や嫁や知人へ頒わかつ土産物だけが乗っていた。 卑屈な悪口屋の儒者が、瓜園の老おう媼なと言ったように、彼女は、きわめて質素な田舎のお婆あさんでしかなかった。ただ、上に纒まとっている被ひ布ふと、駕を出て、手についていた象牙がしらの精巧な杖だけが、頼春水の未亡人らしくあった。 ﹃襄じょうか。ご苦労じゃの﹄ 山陽へは、その眼を見て、こう言っただけで、梅は、あとの総てのことばを、わが子以外の人々へ如才なく酬むくいた。 茶をのんで、やがて帰る人があった。後日を約して、あらかたの人も去った。 今夜は、大坂の八百長に宿の支度がしてあるからという、篠崎小竹の好意に甘えて、近親のもの五六名だけが駕へ移ろうと支度をしていた時である。ふたりの男を連れた、同心ていの役人が、大股に歩いて来て、 ﹃そこに居られるのは、頼先生の御母堂ではありませんか﹄ と、声をかけた。 ﹃左様です﹄ と、門人の後藤松蔭が立って、 ﹃何か御用ですか﹄ ﹃てまえは、御母堂の乗っておられた便船へ、室むろ津のつから同乗した者ですが、何ぞ御紛失物はありませぬか。御懐中のものでも﹄ 松蔭の眼が、山陽を顧みた。 ﹃母上、同乗して来たお方が、あの様に申して下さいますが、船中で変ったことでもあったのでございますか﹄ 梅は、べつだんな顔もせずに、 ﹃いいえ、何ごとも﹄ ﹃路銀などはございますか﹄ ﹃失くしておりませぬ﹄ それを聞くと、同心ていの男は、山陽の方へていねいに会釈をしながら、 ﹃いや、それならば結構でした。実は、便船のうちに、ひとり悪い者が乗りこんでおりましたから、御老体につけこんで或は、何か御災難がありはしまいかと案じられましたので、老婆心までに、ちょっとおたずね申してみたのです﹄ 山陽は、床しょ几うぎを立って、 ﹃それは、わざわざ御親切に、――して、失礼ですが御所属は?﹄ ﹃大坂の大塩平八郎配下にござります﹄ ﹃ああ洗せん心しん洞どうの﹄ ﹃計らずも山陽先生にお目にかかって、冥みょ加うが至極に思いまする。御母堂にも、ごきげんよく御滞京を祈ります﹄ ﹃わけての御好意。まだ拝眉を得ませぬが、中ちゅ斎うさい先生にも、どうぞよろしゅう﹄ ――立ち去るのを見送って、山陽は、 ﹃さすがだな。やはり大塩の下には良吏が居る。噂はうそじゃない﹄ と、呟いた。 × 夕刻、八百長の楼上にくつろいで、とにかく、母の落着きをながめた山陽は、初めて、三年ぶりの甘やかな気持に浸った。 父の春水を亡うしなってから八年になる。自分が母の愛というものを意識してから今日にいたるまで、殆ど四十余年、いまだに広島の屋敷では、孫の余一の嫁が納おさまらなかったり、家事に苦労がたえないでいるらしい。その愛と犠牲の生涯に老いた六十五歳の皮膚を見ていると、山陽はひとりでに涙が眼にたまった。 あとから聞きつけた者が、ここへも、ちらほらと刺を通じて、見舞をのべに訪れた。が彼は、この寛くつろぎを失うのと、母の疲れを惧おそれて、宿の者にふくめて、ていねいに断らせた。 そこへ、一荷の鮮魚が、贈り物として、母子の間に運ばれた。 ﹃どなたからじゃ﹄ 取次いだ宿の女中も分らない顔をして、 ﹃室津から同船した者といえば分る。お見それして、飛んだ失礼をしました。これをお慰みに上げてくれと言って、置いておいでになりました﹄ ﹃では、大塩組のお役人か﹄ ﹃いいえ、三尺帯を締めた色の小白い町人衆でございますが﹄ ﹃名は﹄ ﹃告げずに行ってしまいました﹄ 山陽は笑った。 ﹃人違いだろう。食べた後で、取り返しに来られては困る。下げてくれ﹄ ﹃でも、はっきりと、頼先生のお年より様に、と申しましたが﹄ 梅ばいは、女中の困った顔つきを救ってやるように、 ﹃よい、よい。あちらへ下げて、みんなして食べたがよい﹄ と、言った。 膳が来て、梅、山陽、小竹、松蔭、その他の者とが静かに杯を交し始めてからも、そのことで笑った。 ﹃母上には、何かお心当りがあったのでございますか﹄ ﹃無いこともないがの、つまらぬことじゃ﹄ ﹃仰言ゃって下さいませ。私は何だか、大塩配下の役人が注意してくれたことばがあるので、気味が悪うございます﹄ と、松蔭は言った。 ﹃おおかた、ごまの蠅とやら、掏す摸りとやらいう、盗とう児じじゃろう。それが、礼に来おったとみえる。可愛ゆいもののう﹄ と、梅は、そこにいる者たちを等しく子供と見るように、温和な皺しわにひきつけてこう話した。 途中、便船が飾しか磨まの港へ寄った時、いちど町へ降りて、買い物をととのえ、夕刻の出る間まぎ際わに船へ帰って来ると、その混雑の中で、誰やらふところの路銀へ手をかけたものがある。 梅は、気がついて、その手くびを握り取り、男の顔をよく見たが、いかにも憐みを乞う様子なので、便船の賃銀がないのであろうと察した。で、南なん鐐りょうを一枚恵んでやったというのである。 話はそれだけの事だった。ただ、梅の解釈では、二朱の南鐐では船賃には余りすぎたので、その礼の意味と改心のしるしに、鮮魚を持って来たのであろうというのと、また小竹や松蔭の解釈としては、それは飛んでもないことで、飾しか磨まから船中の間では目的を果し得なかったが、そのうちには、屹きっ度と最初の意志を貫徹してみせるぞという凄い盗児のよくやる挑戦的な揶から揄かいにちがいない――と、こう二様の考え方が相違した結論を出した。 山陽は、どっちとも考えなかったが、やはり母の解釈をそのまま持たせておきたい気がした。けれど又、学者気質のほかに大坂町人の特質をも多分に持って、計数もたしかなら世俗にも通じている小竹のことばをも、そう一概には笑えなかった。 × 戸を閉たててから、裏の川波の音が、よけいにしんと耳につく。 もう母は眠ったらしい。 小竹と二三の者も帰り、松蔭も別間へ退がって寝やすんでからは、厚い夜具の行儀よく二つ並べられた部屋は、梅と山陽だけの水入らずになった。 叔父の杏きょ坪うへいの噂、春風の消息、郷里の家にのこして来たままもう二十四にもなって、家事の納まらない山陽の長子の余一夫婦のこと。 何くれとなく、彼が寝もの語りに訊いているうちに、梅ばいはかすかな寝息をかいて、返事をしなくなった。 ﹃がっかりなすったのであろう﹄ 山陽は、そう思いながら、ふと、母の床のわきに、枕刀のように置いてある杖に目をとめた。 珍しい杖を持っておいでになる。――御みか影げの茶店ですぐ目についたが、よほど大事とみえて、寝間にまでそばへ寄せていらっしゃる。 彼は、幼児の稚気を親が笑う時のように、老母の気もちを罪なくほほ笑んで、その笑いの影を顔に持ったまま幸福な眠りに落ちて行った。 あくる朝は、食事を摂とっているうちから、もう来訪者の殺到である。きょうは、山陽も、誰にでも会って、機嫌のいい時に出る調子高い声で人に応じて対談した。梅もそれぞれの客に女性らしい久きゅ濶うかつをのべた。母子は怱そう忙ぼうな半日を、同じ室でまったく対外的に暮して、その間に、荷を出したり、松蔭に雑務を依頼したりして、やっと、午後の三十石船に移った。 淀よどを上のぼって、船で、京都まで来る間に、山陽は初めて、こんどの母の上京が、老後の有ゆう閑かん的旅行ばかりでなく、何か自分に言いたげな一つの問題を持っているらしいことを感じた。それが自分への叱しっ責せきであった事は温かい慈愛の相そうの中に秋しゅ霜うそうのようなきびしい素振りを時々見せたのでも考えられた。春水が亡い後は、子に対して盲愛に近い母性の慈いつくしみと、そうではならぬという厳格な愛の形とが、手紙の文字にも闘っている老母を見た。その悩みの相を、山陽は今、淀川をゆるく上る船の中で、杖を抱いて黙している梅の上にありありと眺めた。 山陽はひそかに惧おそれる。 四十五の年齢になっても、まだ母の悩みを自己の悩みとすることのできない幼稚な自分を知った。 何が老母の怒りを刺しげ戟きしたのだろうか。 山陽の名に反感をもつ腐ふじ儒ゅし者ゃの悪宣伝が、国元へまでうるさく流る布ふされている噂はある。然し、全慈愛の母の相すがたに対して、そんな口実をとって自分の心までごまかす気にはなれない。何がと自問する迄もなく、母の眼から見れば、明白な頼らい襄のぼるという人間には、事実いけない点がたくさんあるに違いない。怒られる原因が幾つもあるにちがいない。 その顔いろを和やわらげるために、京都へ着くまでの間、船の中の山陽は、たえず梅のきげんをとって河かわ内ちの風光を指したり、乗合い客の子供に寄せて孫の話をしたり、即興の詩を賦ふして母の評を求めたりして、間断なく心をつかっていた。 そして、東三本木の家へ着いた。加茂川の崖に倚よって、庭の木の間から東山の隠いん見けんされる水西荘、一おと昨と年しの冬至、二百三十金で買った、山陽が自慢の家だった。 梅はもう、ふたりの孫と、嫁の梨りえ影じ女ょにとりまかれて、土産物をならべるやら、辰蔵を膝に抱きとるやら、他愛のないしゅうとご様であった。山陽は、家に帰るとすぐに、書斎にはいって、そこの静かに無事なのを見ると、自分の坐り所に坐ったような安易を感じた。 × ﹃わしは果報すぎるようじゃ。なんぼでも、冥みょ利うりがつきましょうぞ﹄ 梅は、よくそう言った。 三本木のわが子の家に着いてから、すぐその翌日、家族づれの嵐山の花見を皮切りにして、夏から秋への半年の間は、殆ど、毎日のように、諸処の見物と招待に暮れた。 柏葉亭の宴は、ことに楽しかった。自分がもてなされることよりも、近畿洛中の名ある人々から尊敬にとり巻かれている山陽を見るのが欣しかった。 ﹃襄よ、襄よ﹄ 来るにも帰るにも、彼女は彼をそう呼んだ。 それと、国元からたずさえて来た象牙がしらの杖も、常に、梅のいるところには必ず従ついていた。人々は、春水の遺品であろうと言い合った。 角かどの芝居見物の日には、梨影女も供をした。五ツになる辰蔵は、ばば様の膝で、父の山陽がひいきにしている梅ばい玉ぎょ座くざ頭かしらの忠臣蔵に目をまるくして大人しくしていた。 その芝居小屋で、追い込みの中から梅の方へ、軽ッぽくお辞儀をした男があるので、その日も一緒に来ていた後藤松蔭が、 ﹃今のは誰でございますか﹄ と、ふしぎそうに梅へ訊ねると、 ﹃あれじゃよ、いつぞやの盗児はの﹄ ﹃え。……八百長へ鮮魚を贈って来た、あのごまの蠅でございますのか﹄ ﹃ごまの蠅?﹄ 梨影女も、熟生の竹井も、うしろを振り顧って、うす暗い土間を物色した。無数な人間の首の中に、色の小白いにこにこした男の顔が感覚的に眼に映った。 ﹃見るのじゃない、見るのじゃない﹄ 梅は、舞台の方へ向いたまま首を振った。そんな事もあったりして、四月になると、京は葵あおい祭り、やがて節句、長喜庵の水くい鶏なきき、丸山の寮の招き、祇園の稚子行列。そして夏には、淀の網打ちにも屡しば誘われ、四条や糺ただすの夕涼み、或は、宇治の集りと、彼女を飽かせまいとする行楽と行事は果しがなかった。 その間には、誰が京都へ来た会とか、誰が江戸へ帰る送別とか、個人個人の催しやら、よろこび事にも折あるたびに招かれて、六月半には、もう広島へ帰る帰ると云い暮していたが、盆をすぎ、十五夜もこえて、九月になった。 × 山陽の生活は、こうして居る間に、まったく、母とはべつになって、彼は彼で、詩社の交友とか、知己の留別とかに、いやでも外出がちになり、帰りはきまって大たい酔すいして戻った。そして、家にあれば必ず、四畳半の山紫水明処に籠こもって、揮きご毫うか、苦吟か、でなければ、二十余年間の心血を傾けてきた厖ぼう大だいな日本外史の草稿の中に埋もれて、その校筆に夜を徹てっした。 外で飲む快酔と書斎のうちの徹夜と、山陽の生活はこの二つを出なかった。母屋で寝ている梅ばいには彼の喘あえぎが自分の喘ぎのように分った。 ――また、或る晩は、山陽の居間で金をかぞえる音が聞えた。そんな時、梅は、ほろほろとひとりで泣いていた。わが子の気もちが余りにも分りすぎる彼女には、夜ひそかに、山陽が金をかぞえる音を聞くと、わが子も早や死期を知るかと思いやった。亡夫の春水が死ぬ三四年前から遺族のことのみを案じていた気もちを、その儘山陽の夜半の姿に見る気がされた。 ほそぼそと、廂ひさしに雨のうつ、秋の晩で、 ﹃母上、ちと、お体でも揉もみましょうか﹄ 書斎を出た山陽は、腰が痛むといって、早めに寝た母のそばへ寄った。 梅は、遠慮なくうなずいたが、 ﹃そなたも疲れて居ように﹄ ﹃いえ、私の疲労は、一酌しゃくで散じまする。秋の雨は、老のおからだには、殊にご不快でございましょうから﹄ ﹃わしもそろそろ広島へ帰ろうと思う。夢のように、半年を過しました﹄ ﹃京都の冬は底冷えがいたしますから、冬はやはり広島の屋敷でお暮しがよいと存じます。然し、永い御滞留で、後の淋しさはひとしおでしょう﹄ 話しながら、山陽の手は、骨ばった母のからだに哀れっぽい宥いたわりをもって、肩から腰の辺りをそろそろと揉んでいた。 梅は、快げに眼をふさいでいるので、寝入ったのかとさえ思えたが、ふと、 ﹃襄じょう﹄ と、呼んだ。 ﹃はい﹄ ﹃そなたに揉んで貰うことも、久しい前のことのう﹄ ﹃殆ど二十何年ぶり。広島の屋敷におりました頃は、稀まれには、お伽とぎもいたしましたが﹄ ﹃それも、あの頃のは、そなたがわしから遊興の金をせびる手であった。そうしては、屋敷を出ると、悪友どもと一緒になって、何とやら狂句をいうて、わしの甘いのを笑い合うたそうじゃの﹄ ﹃ははは。そうそうあの句は……おふくろは勿体ないが騙だましよい、と申す柳やな樽ぎだるでした。手島の伜せがれが聞きかじって居ったのです﹄ ﹃おふくろは勿体ないが騙しよい。……成程のう、そういう穿うがった学問は漢学にはないのう﹄ ﹃父上の解しない半面でございます﹄ ﹃わしも知らぬ﹄ と、梅は暫く口をつぐんでいたが、 ﹃けれど、子供はやはり、お父上のように、鬼になって育てねばいけぬ﹄ ﹃然し、私の今日あるのは、父上の峻しゅ厳んげんな御教育のほかに、どこまでも甘い、どこまでも許してくださる、母の慈愛がございました﹄ ﹃とすると、わしは今、その二つを持たねばなりませぬな﹄ ﹃世の中に、自分を叱ってくれる者のないこと、こんな、淋しいものはありませぬ。父上が世を去られた途端に感じたことでございますが、人間は、たえず自分で自分を鞭打つことはいたしますが、自分の力では、醒さめぬことがござります。そんな時に、あの怖しい父上の力が、打って、打ちすえてくれたらと、あの厳格なむずかしいお顔が慕わしく思われるのでございます﹄ ﹃…………﹄ ﹃わけて、只今の私は、大事な時期に立っております。二十余年来、生命をかけて、墨と朱にまみれて参った外史の修正は、もう一両年のうちには、完稿として、世の中に送り出せる迄になりましたが、山陽は、それ位のことでは、死にきれませぬ。日本楽府、政記、そのほか、修史の業は何年あってもやりきれません。漢学革命もまだです、詩もまだです、書もまだです、山陽はすべてにまだの人間です。これから物になるか成らぬかの分れ目にいる人間です。だのに、ともすると喘あえぎ出して参りました。名声に酔い、惑わく溺できにひきこまれ、その疲れを慰いやそうとします。そうしているまに近頃は悪いと知りながら肉体を壊こわして参ります。母上、私を、昔の久太郎頃のように、お叱りくださいましお叱りくださいまし﹄ ﹃襄、襄よ……﹄ 梅は、枕に顔をつけて、泣いた。 ﹃そなたに済まぬことじゃ。わしは、やはり女親じゃった。わしには、強い、男親の力はもてぬ﹄ ﹃母上、お気にかけて下さいますな﹄ ﹃いえのう……初めて言うが、この老母こそ、広島を立つ時から、そなたを叱るつもりで上の洛ぼったのじゃ。きっと叱ろうぞ、と心を鬼に、この杖を持っての……﹄ 身を起した。そしていつもそばに離さぬ杖を、山陽の前に置いた。 × 芸州の城下には、よく九州や広島へ旅する文人や画家が足をとめて、その土地が、山陽の郷里であるところから、自然と、彼に反感をもつ者の悪あく罵ばなども言いふらされた。 彼は拝金家だという者がある。彼の家へ行って酒が出れば、いつも肴さかなは塩しお鮭ざけときまっている。それで口には贅ぜい沢たくを言い、人の馳走ならば、徹てっ宵しょうの快飲もやる。実に見えすいているじゃないかと。 又、斯かくそしる者もあった。 日本外史、あれはまだ完稿にならないから、内容について、批評の時期ではないが、およそは知れたものだろう。彼は、あれを版行の前から上手に宣伝をし、儲もうけようという腹のほかはない。松まつ平だい楽らら翁くおうに取り入って、幕府の御用学者になろうとする野心さえある。外史ばかりでなく、彼の詩、彼の書、みんな商品だ。水西荘の玄関には、半はん切せつ幾いく価ら、屏風いくらと、貼り出してあるという話じゃないか。 又、嘲笑して、説をなす者があった。 それよりは、女弟子の江えま馬さい細こ香う女史と山陽との古い交こう誼ぎこそ問題じゃないか。 知っているか。知らない者はなかろう。 あのふたりの交情は、もう十数年前からのことで、今日に始まったことじゃないが、梨り影えという貞淑な妻女もあり、ふたりの子供までありながら、いまだに、岐阜と京都のあいだで絶えず文通し、折には、あの女詩人を気どる老嬢が、わざわざ綺き羅らをこらして公然と水西荘へ逢あいに来る。外でも、詩の会、書の会にことよせて逢い曳きをしているじゃないか。甚しい時には、人前もなく、細香女史の下手な墨竹などへ、山陽ともある者が、麗々とお惚のろ気けの画がさ讃んを書くことすらある。 気の毒なのは、お人のいい梨影女さ。山陽は、すまして口を拭いているけれど、細香女史があの美貌で、あの名門の娘で、とにかく詩画の才能を持ちながら、三十幾歳かになっても、いまだに嫁とつがないでいるのが何よりの証拠ではある。由来山陽は、部屋住み時代の放ほう蕩とう家かの通り者だもの、それ位なことはあるのが当然で、無ければ不思議といえる。 ――そんな噂、そんな悪罵。 梅ばいは、ひどく心配した。 芸げい藩はんの片田舎に、貞節な春水未亡人として暮している彼女には、都会の様子も、複雑な社会人争闘の戦法も、男同士の女よりもつよい嫉しっ視しも、反目も、分らなかった。一図な心配も無理ではない。彼女は寝ずに、京都のわが子を案じつづけた。 或る日。――彼女は思い余って、 ﹃茶山様、ご在宅でござりますか﹄ 黄葉落陽村舎、管かん茶山の塾を訪れて、一本の杖に、歌を求めた。 茶山は、梅の憂いを聞いて、 ﹃ご尤もじゃ﹄ と、同情した。 ﹃何やかと、世間でいう噂は、まことでござりましょうかの﹄ ﹃あの仁の天性とみえる﹄ 茶山は、暗に裏書きをした。 梅は、眼を曇らして、 ﹃その心を撓ためるように、ぜひ、大先輩のあなた様のお歌なり、詩なりとも、これへ﹄ と、前の杖を出した。 わけを訊くと、杖は、使用したことはないが、亡夫春水の愛あい杖じょうであるという。そして、こんどの上京には、父にかわって、襄を打って意見をするつもりだと話した。 茶山は、ちょっと当惑した。なるほど、梅から見れば、山陽はたとえ短い間でも、自分の塾に門生としていた関係があるから師の諫いさめなら胆に銘じるものと考えたのであろうが、どうして、彼と来ては父春水をさえ道学先生と侮あなどり、茶山なども愚にしていた男だ。なかなか自分の訓さとす詩ぐらいに感動する人間ではない。 こう考えたので、 ﹃いや、それならば、却かえって、御母堂のお歌によいのがある。彫るだけは、茶山がいたそう﹄ と、小刀をとって、杖の肌に文字を刻んでくれた。 それは、梅の旧作であった。 山陽がまだ久太郎といった部屋住み時代、放ほう埓らつの存分をやったあげく、藩の禁足を破って出奔した折に、母の梅が、身も痩せ、夜も眠られぬ憂ゆう苦くのうちに詠んだ歌で、それを茶山が記憶していたものである。 歌は――思うことなくて見ましやとばかりに後の今宵ぞ月に泣きぬる。 × 十月の半なかば、梅は、居れば居るほど別れがたい京都を立って、思いきるように、広島へ帰った。 杖は、その折、山陽に与えて、 ﹃ほかに何も叱ることはないが、襄よ、ただ酒を過してたもるな。ちと、そなたの体には過ぎましょうぞ﹄ と、言い残した。 × ﹃大塩中斎殿が、ぜひ、あなたにお目にかかりたい、お誘い申してくれと、てまえの懇意な近藤梶五郎殿を通じて、二度まで言い越されておりますが、如何でしょうか、一度お訪ねあっては﹄ 篠崎小竹がそう言って来た。 梅を広島へ送ってから、年が暮れ、それから間もない正月の事なのである。 大塩と山陽との会見は、いつか機のなるものとして、その前からも度々同人間の宿題にされていたことである。山陽も会っていいとは考えていた。いや、むしろ近づきたい気もちさえあった。然し、彼の勢力へ諂へつらうのはいやだと思った。大坂与力という官僚色、洗心洞塾の門下の数、王おう陽よう明めい学派の泰たい斗とという名声。それらが、何時もちょっと山陽の頭を高くさせた。 その日は、小竹がしきりと言うので、 ﹃では、参ってもいい﹄ と、返辞をした。 程なく、書面で、会合の日を報らせて来た。先へ快諾の旨を話すと、中斎は非常なよろこびで、当日を待つというのであった。 それに、もう一つ、用件が添えてある。 誰に聞いたのか――恐らく洗心洞の門生でもよそから聞いて来たのであろうと小竹は書いている。頼先生の手許にいつぞや御母堂から贈られた杖があるそうである。近ごろ床しいお話、ことに春水先生の遺品ということでもあれば、ぜひ当日御持参下さって、見せて賜わるわけにはゆくまいか、と中斎が希望である。 お易いことである、と承知した。 山陽は、すぐに、返書を出しておいた。 二月の初旬である。 どこやら春めいたものが、水にも、陽ざしにも、大地のものにも芽ぐみ始めた日ひよ和りのいい朝だった。 約束のとおり、彼は、梅の杖をもって、淀の三十石船へ乗った。春さきなので、わり合に混んで、どこの船着きでも、七八人ずつ乗り降りする客があった。 大坂の天満に着いて、岸へ上がろうとした時、山陽は、初めて気がついた。 杖がないのである。客をみんな上げて、敷物のむしろ迄払ってみても、杖は見当らなかった。 約束の時間があるので、彼は、ともかく洗心洞へ急いだ。 大塩家では、ただ一人の客に、玄関を清掃して待っていたらしく、 ﹃ようこそ﹄ と、中斎自身が出迎えて、書院へつれた。 子息の格之進が来てあいさつをする。門下の誰彼が見える。やがて、酒しゅ肴こうが出て、うち解けた雑談になった。 山陽の見た中斎は、非常に第一印象がよかった。案外、官僚臭のないところが気に入った。話のうちには、近いうちに官僚をやめたいような口くち吻ぶりがうかがわれる。 ﹃時に、きょうは初対面から、違約のおわびをせねばならぬ事が出しゅ来ったいしたのですが――﹄ 機を見て、山陽の方から、杖の話を持ち出した。そして、象牙がしらに金環が嵌はまっているので、船中で盗まれたのかも知れぬと言った。 ﹃惜しい、それは惜しい﹄ 中斎はしきりに言って、 ﹃お話を承れば、まことに涙ぐましい御母堂のお心づかい。その慈愛の杖を失われては、折角お招きいたしても、話が浮きませぬ。すぐ取り寄せますから、それの参る迄、もう一献こん﹄ と、盃をすすめた。 そして、ひとりの同心を呼んで、何やら耳打ちをして退がらせた。 ﹃さ、もう少し如何ですか。酒は、先生がお好みの剣けん菱びしを選んでおきましたが﹄ ﹃それは口に適かなっておりますが、いかんせん近頃は、あまり過さぬことにして居りますので﹄ ﹃御ごけ謙んそ遜んでしょう。大酒家の定評は、貴作の詩のように、隠れもなく称うたわれておりますのに﹄ と、そばから格之進もすすめる。 ﹃いや、遠慮はいたしませぬ﹄ 中斎は、品よくことばを移して、話題は、それからそれへ亙わたった。 然し、陽明学と修史の事だけには、双方から触れなかった。 そして、時を忘れていると、ちょうど明りが灯ともる頃。 ﹃遅くなりました。御紛失の杖は、これでございましょうか﹄ と、最前の同心が、ふすま際ぎわに屈んだ。 ﹃お、御苦労だった。頼先生、あれでございましょうな﹄ 山陽は、心のうちで、大塩の勢力に驚嘆した。わずか二ふた刻ときを過ぎぬまに、盗難に遭った杖は、居ながら自分の前に戻って来たのである。 駕を断って、大塩家の門から五六町ほど歩いて来ると、うす暗い屋敷塀の蔭から、 ﹃三本木の旦那、三本木の先生﹄ と、旦那と先生を交まぜて呼びとめる男があった。 山陽が、立ちどまって待つと、 ﹃先程は、とんだ御心配をおかけいたしました﹄ と、色の小白い、ちょっと笑えく靨ぼのある男が、頬ほお冠かむりをとって、三尺帯の尻を下ろした。 ﹃先程というが、一向覚えがないな。誰だ、おまえは﹄ ﹃きょう三十石船で、お隣りに坐っておりました、ごまの蠅でございます﹄ ﹃ふウむ……それじゃ杖を盗んだのは、おまえか﹄ ﹃へい、手前なんで﹄ と、にっこと笑う。 ﹃では、ことによると、ずうと以前に、わしの母が広島から便船で参る途中、あとを尾つけて来たのも、お前ではないのか﹄ ﹃それから、八百長へ生のいい鯛たいと鱸すずきをお届けいたしましたが、召し上っておくんなすったでしょうか﹄ ﹃あれも貴様か﹄ ﹃あっしです﹄ ﹃何でそんな悪わる戯さをしたのか﹄ ﹃仲間の意地です。旦那がたから聞けば、つまらない話でしょうが、その中で生きるあっし共にとってみれば、捨てられない意地でしてね﹄ ﹃面白いな﹄ 山陽は興につられて―― ﹃それを話すために、わしを待っていたのか﹄ ﹃ご冗談でしょう、そこまでの道楽気はありませんや。実あ、先生に一札書いて貰いたいものがあるんで﹄ ﹃詩か﹄ ﹃そんな物は、ごまの蠅にゃ、用のねえしろ物です。あっしが書いて貰いたいというなあ、その杖を確かに盗まれたという証文なんで。どうでしょう、書いてくれますか。書いてくれなけりゃ、又どこかでその杖を盗んで持って行きますぜ﹄ 山陽は、ごまの蠅の顔を沁しみ々じみと見ていたが、どうにも憎めない男だと思った。 それに、言うことが面白い。 ﹃よろしい、書いてやろう。理わ由けを話せ。何しろ、この杖をお前に盗まれちゃ困るからな﹄ 彼も、磊らい落らくにくだけて言った。 ﹃こうなんでさ、ざっとした所が﹄ と、ごまの蠅が話し出すのである。 × 室むろの津の港に、五六人のごまの蠅が、干ほし鰯かのように砂地で転がっていた。そして、品のよい老女が通るのを見つけて、賭かけをした。 ﹃あの杖が盗とれるか﹄ と、ひとりが言い出したのに始まって、 ﹃盗れる﹄ ﹃盗れない﹄ と、争いになった。 盗れないと主張したのは、ごまの蠅では半はん生せい以上眼を研といできた男だった。その男の観察で、なぜ盗れないという見極めがつくかという説明を聞くと、あの杖には、おそろしく老女の気がはいっている。それに、象牙や金環の巻いてある点なども、ただの杖とはみえない。 おそらく老女の生いの命ち以上に大事にしている物らしいから盗れない、と断言するのだという。 ﹃ばかを言ってやがら、きっと盗ってみせる﹄ そう言って、突っ張ったのが、色の小白い讃さぬ岐きの四郎次というごまの蠅で、 ﹃行って来る﹄ と、すぐに老女の後を尾けた。それが梅だったのである。 四郎次は失敗した。いきなり杖に手をかけてはと思って、船ふな着つきの混雑の中で、梅のふところへ手をやると見せ、実は杖を奪おうとしたのだった。 所が、その手を捕まえられた途端に、南なん鐐りょう銀一枚、手のひらに握らされて、軽く、放たれてしまった。 呆あっ気けにとられている四郎次を、やがて仲間の者が囲んで、 ﹃どうしたい、杖は﹄ と、嘲あざ笑わらった。 眼の高いのを充分に誇り得た前の男は、 ﹃今の腕じゃ、四郎次には、一年かかったって、あの杖は盗れッこはねえ。どうして、婆あさんの方が遙かに役者が上うわ手てだ﹄ と、恥かしめた。 ﹃きっとだな﹄ ﹃持って来い、首をやらあ﹄ ﹃よし、洗っておけよ﹄ 四郎次は、それから、もう纜ともづなを解きかけた便船へ飛びこんだ。だが、梅の杖は、どうしても盗れなかった。 考えてみると、彼は、その梅から、理由のない二朱の南鐐をめぐまれていた。 こう意地の仕事になってみると、そんな金を貰っているのは不快な気がしたので、大坂へ着いた日、八百長に落着くのを見届けてから、魚の贈り物にして、返してしまった。 以来、彼は、梅の行くところには、蠅という名の如く尾いていたが、どうしてもその杖を盗る隙がなかった。 四郎次の意地は、だんだんに躍気となった。そのうちに、梅は広島へ行ってしまった。 杖は、三本木の家に残して行ったという事は明白だが、そこへ忍んでいったのでは、仲間の者に大きな口がきけない。 やはりごまの蠅の手際をもって奪とりたいと、機を待っていると、それを携たずさえて、今日の山陽の外出を見かけた。で、早速仕事をしたのである。案外、楽々と本望を達した。 然し、それを手に入れて、大坂の町を二刻と歩かないうちに、辻々の自身番から、忽ち怖い眼が自分に光り出した。 で、或る想像がついたので、すぐ杖を捨てて、それを持ってはいった大塩家の外に立ち、山陽が帰るのを待って居たのである。――と、ごまの蠅の四郎次は溜りゅ飲ういんを下げて笑っている。 ﹃ふふむ。愉快だな、お前たちの世の中は。陽明学の世話もやけないし、やっかみ屋の道家先生の蔭口もない。ありのままだ。もしおまえ達が戦国に生れていたら、或は、わしの筆にのる人間だったかも知れない﹄ ﹃とにかく、書いておくんなさい、あれを﹄ ﹃それを持って、仲間に示すというのか﹄ ﹃何しろ、半年以上もかかりましたから、威張るわけにゃ行きませんが、顔が立ちます﹄ ﹃よろしい、書いてやる。ここでは筆墨がない﹄ ﹃旦那、いや先生、失礼でございますが、この方はいけませんか﹄ と、四郎次は、指で輪をこしらえて、飲む真似をしながら、 ﹃どうでしょう、ちょいとそこらで。今夜あ、思いを達したんで、欣しくてしようがありませんから、あっしがお奢おごりいたしますが﹄ 山陽は、吹き出したくなった。 ﹃来い、来い。わしが運れて行ってやる﹄ そして、新町へ行ってしまった。 × 濃のう粧しょうした女たちの顔や姿が、部分部分に分れてぐるぐる廻る。あつい白粉、紅、まゆずみ、だらり帯、舞扇、太鼓の皮。 錦にし出きでの皿にも、あくどい色の食物が、あたりの空気にふさわしく盛ってあった。朱塗の燭台には、ひとつひとつ淫みだらな灯があがっている。 しんしんと三味線の革が頭に痛い。酒、酒、酒、酒。 そんな光彩とそんな音律が、山陽の頭のなかに、ぼうっと、紅色の埃ほこりか、油のういた溝みぞの泡つぶのように、消えたり、舞ったりしていた。――だが事実は、彼ひとりで、そういう物ぶっ象しょうが物の怪けのように消えてしいんと大広間に、友禅の夜具をかけられて、死骸のように寝ていたのである。 肩先の寒さに、眼をさました。 そして、宿しゅ酔くすいの苦しい意識を辿たどって、ぼんやりと考えてみると、ゆうべ、ごまの蠅の四郎次をつれてこの家へあがると、隣り座敷に混こん沌とん詩社の若い詩人たちが来合せて、遂に一座になったことを記憶している。誰と誰だったか、今朝になってみるとちと恥かしい。 どうしたろうか。 その顔は一つも見えない。四郎次もいない。 慚ざん愧きの朝は、山陽を胃や頭の不快をもって責めるばかりでなく、大塩との会見まで考えさせた。 今まで持して来たものを、何できのうは態度を曲げて、自分から彼の門へと足を運んだろうか。 もし、外史の完稿後、その出版と同時に、彼の批評や勢力下の援助をも吸収しようという考えを持たなかったならば、自分は、昨日の訪問をしなかったに違いない。 同時に、大塩父子が、自分を迎えた態度も、決して、白紙の好意ではなかった。 何かある。後になって考えれば、杖の事なども、一種の示じ威いだ。官僚臭だ。 山陽は自分の愚おろかさが、骨身にこたえて来た。 安閑としているには耐えられない弾力で、夜具を刎はねた。 夜が明けかけている。 源氏ぶすまの切きり嵌はめの障子が、蒟こん蒻にゃく色にほの白くなっていた。 彼は、つかむように、水差をとって、茶碗に二はいほど、がぶがぶと飲んだ。 ﹃あ、お目ざめでございますか﹄ 隣りの部屋から、四郎次が、すっぽんのように首を出した。――あ、と眼を瞠みはって、 ﹃おまえは、まだ居たのか﹄ ﹃ひと言、お礼をいってお別れしたいと存じまして﹄ ﹃礼を﹄ ﹃へい、あれを書いて戴いただいたり、たいへんな御散財をかけたりして﹄ ﹃そんな辞儀には及ばない﹄ ﹃あっしあ、今朝みたいなこんな嬉しいこたあ今だに覚えません。先生がお偉い人だということも、ここに来て皆さんのお話しぶりを聞いて吃びっ驚くりしたようなわけなんで。――しかも、そのお方の証あかしを持って、仲間の奴らを見返してやるんだから、胸が透すくようでございます。夜が明けたら、新しい草わら鞋じを突っかけて、室の津へつばさを揚げて飛んで参ります。どうか御きげんよろしゅう﹄ ﹃うむ、お前はそれで、とにかく一つの仕事をしたわけだな﹄ そう呟いた山陽の心には、厖ぼう大だいな稿本の八九分どおりまで校正の朱筆に染まって、あともう僅かな所も倦うみ疲れかけている日本外史の業が、陣痛のように、焦じり々じりと悩んでいた。 四郎次は、にっこりとして、 ﹃それや先生、こちとらの身に取れば、立派な仕事でございますとも。金にならねえが、仲間の奴らにゃ、これからずんと押しの利く、一代の語り草でございますからね﹄ ﹃もう辞儀はいい。早く行け﹄ ﹃じゃ、ごめんなすって﹄ 寝床から立つと、四郎次の足には、新しい草鞋がついていた。 ﹃待て、待て、四郎次﹄ ﹃なんですか、先生﹄ ﹃そこに、杖があったな﹄ ﹃たしかに有りますぜ。安心しておくんなさい﹄ ﹃いや、疑ったのではない。その杖を持って、わしの五体を打ちすえて貰いたいのだ﹄ ﹃えっ、撲ってくれというんですか﹄ ﹃そうだ、骨にこたえるほど打ってくれ﹄ ﹃ご冗談でしょう、先生﹄ ﹃頼むのだ、打ってくれ。その杖をもって、打ってくれるものは、お前よりほかにはない。妻にはその力がない。友も打ってはくれまい。山陽の悪あっ口こうを言い廻る人間も打ってはくれない。――母も打つことはして下さらなかった。打て、四郎次﹄ ﹃いいんですか、ほんとに﹄ ﹃おお。強く﹄ ﹃打ちますぜ﹄ 四郎次は、杖をふりかぶって、膝を正した山陽の肩を打ちすえた。 なおと、求めるような彼の瞑めい目もくに、四郎次の手は、思わず三つ四つ五つと、つづけざまに杖を下した。 突然立ち上って、奪うように杖を自分の手に収めた山陽は、四郎次より先にその家を出て、大坂へ来れば必ず立ち寄る小竹の家にも顔を見せず、淀の一番船のうちに活々と朝の大気を吸っていた。 ︵昭和五年︶