昔、伊いと東うで病気を養っていた頃、東京の一流料理店の主人が、遊びに来たことがある。料理店を通じての友人ではなく、同郷の男である。 私にはよく分からなかったが、何でも非常な食通で、料理の腕も一流だという噂うわさの男であった。それで女房が、伊東の材料で、何か料理を教えてもらいたいと頼んだ。 それで材料を買いに出たわけであるが、驚いたことには、この先生、道路の真ん中を悠然と歩きながら、﹁あの牛ごぼ蒡うは食える﹂とか﹁あのこんにゃくはいい﹂とか言う。指差す方を見ると、なるほど小さい八百屋の店先に、そういうものがならんでいる。 それらを買って来て、いろいろな料理をしてくれたのであるが、そのうちの牛蒡の煮につ附けには、ちょっと驚いた。土のついた牛蒡を洗って、大きく斜めにさっさと切って、鍋なべに抛ほうり込む。そして酒と醤しょ油うゆだけで煮附ける。それだけのことである。醤油など、一いっ升しょ瓶うびんからドクドクと注ぎ込むので、大分過剰にはいったらしい。 食べてみると、果はたして塩辛い。﹁どうもこれは辛いようだが﹂と聞いても、先生すましたものである。﹁いい牛蒡ですよ。なかなか美う味まい。唯ただ醤油が少しはいり過ぎたので、少し塩辛いだけだ﹂と平気な顔をしている。 その時は、ひどく強情な男だと思ったが、考えてみると、そういう理窟も成り立つ。というわけは、この逆の場合を考えてみれば、すぐわかる。 料理のうちには、甘過ぎもしない、塩ッ辛くもない、酸っぱさも丁度いい、何一つ欠点はないが、唯美味くはない、という料理だってあり得る。そしてそういう料理が、一番始末に負えない代物である。﹁美味いが、唯少し塩ッ辛いだけだ﹂という方が、まだましである。 これは何も料理だけに限った話ではない。人間にも、学業は優秀、品行は方正、身体は強健、人附合いは満点、何一つ欠点のない男で、唯面白くはない、という人もある。欠点がないだけに、非難のしようもないので大いに困るが、どうもそういう人とは、本当の友人にはなれそうもない。 もっとも、これは主として日本で通用する話かもしれない。というわけは、日本では、勤勉とか、正直とか、孝行とかいうものは、美徳の中に数えられている。しかし﹁面白い﹂ということは、美徳の中にはいっていない。 しかし外国、とくに英国などでは、ユーモアというものは、美徳と考えられている。ユーモアは、諧かい謔ぎゃくなどと訳しては、どうも趣きが出ないもので、﹁面白味﹂と訳するのが、一番いいのではないかと思われる。 ︵昭和三十年八月十五日︶