北海道開発に消えた八百億円

中谷宇吉郎




一 札幌の発展


 北海道の首都札幌は、この二、三年来異常な建築ブームでたいへんな賑わいである。街の中心に近い地域では、到るところにビルの建設が進められ、発展途上にある米国南部の都市のような景観を呈している。
 この札幌の近年の発展については、最近ちょっと驚いたことがある。たしか『北海道建築』とかいう題名だったが、北海道、主として札幌の建物を写した写真集が刊行されている。その写真集を何気なく見ていたら、おやと思ったことがあった。それは外国の中都市の写真が一枚間違ってはいったかと思ったからである。碁盤の目に切った立派な都市に、高いビルが整然と並び、その間を縫って、街路樹の並木が、縦横に走っている。その航空写真である。
 こんな立派な中都市が、日本にあろうとは思っていなかったので、初めは外国の都市の写真が紛れ込んだかと思ったのも、無理ないことであった。ところがよく注意して見ると、それは自分が二十七年来住んできた札幌の街の写真だったのである。これが、札幌の中心部を航空写真にとって、大きく見開きに入れたものと分ったときには、思わず苦笑した。
 もっとも考えてみれば、これは自分が迂闊だったので、この数年来の札幌の建設ブームは、全国第一だったそうである。日本の国が、建国以来の好景気という中で、そのまた第一位とすれば、あっという間に、これくらいの街ができても、そう不思議ではない。
 それにしても、以前の札幌を知る者にとっては、それはまさに驚異である、二十七年前に、北大に理学部の建物ができた頃は、これが札幌で初めてのコンクリートの建物であった。駅から一町も行かないところに、踏切があって、その踏切を渡って毎日大学へ通ったのであるが、冬になると、踏切近くの道の両側に魚売りが沢山しゃがんでいた。雪の上にじかに魚を並べて、ときどき大きい平目だの鱈だのを、手鉤でひっかけてぶら下げては、客に見せていた。
 札幌唯一のコンクリートの建物という名誉は、数年間、理学部のものであった。その後今のグランド・ホテルが建ち、百貨店が二軒コンクリートになり、いわゆるビルらしいものもできたが、それはまだまだ数えるほどしかなかった。そういう状態で戦争にはいったのであるから、現在の大札幌の建設は、敗戦から立ち直ったものではなく、敗戦後新しくできたものなのである。
 戦前の札幌には、「一流」映画館が二つばかりあり、二流三流のものを加えれば、七つか八つあった。札幌人はなかなかハイカラで、よくエルマンやハイフェッツを呼んで、この「一流館」で、演奏会を開いたものである。ところが、戦後ここにもブームが起きて、この「一流館」は、二流または三流に落ち、新しい立派な映画館がつぎつぎと建ち出した。そして現在は、映画館の数は四十館に達したそうである。四、五年のうちに五倍くらいに殖えたのであるから、これも驚くべき発展である。
 発展といえば、料亭の繁昌も、素晴らしいようである。最近は少し下火になったかもしれないが、一、二年前に、驚くべき話を聞いたことがある。大銀行の支店長として赴任してきた旧友の話で、嘘ではないと思う。札幌の一流の料亭で、芸者を呼んで少し派手な宴会をすると、一人前一万円には、どうしてもつくらしいというのである。「新橋や築地と同じなのだから、呆れた話だよ」といっていた。
 ビルも、映画館も、料亭も、私には関係のないことであるから、こういう話には、最近まで、あまり興味がなかった。もちろん健全な発展とは思われないが、敗戦後の萎縮した気持から脱却するには、少し不健全でも、まあ「景気よく」やることにも、一応の意味があるのだろうくらいに、ぼんやり考えていた。
 ところが、最近、偶然にそれこそまことに驚くべき報告書に接した。それを読んでみて、実は愕然としたのであって、札幌の「大発展」を謳歌したりしていたら、とんでもないことだということがよく分った。それは、「産業計画会議」の第二次リコメンデーションのことである。

二 『北海道の開発はどうあるべきか』


 産業計画会議というのは、松永安左エ門氏を委員長とする委員会であって、開発、土木、運輸、産業などの各方面にわたり、日本第一級の専門家をすぐって、委員としている会議である。
 この会議は、今後の日本の産業は如何にあるべきかという問題を、科学的かつ総合的に研究して、勧告書(リコメンデーション)を出すことを、主な目的としている。科学的というのは、もちろん人文科学を含めての話である。非常に大きい問題を目指しているので、いわば現在の四つの島からの生産で、やがては一億にも達しようとする日本民族が、どうして生きて行くかという難問の解決に、糸口を与えようというのである。
 やり方は、日本の生産に関するいろいろな問題を、個別に採り上げて、その内容を詳細に吟味し、全委員の智能を集めて、それに対する勧告書を発表するという形をとっている。既に昨年第一次勧告書として、『経済政策に対する勧告』を出しているが、今回その第二次勧告書として『北海道の開発はどうあるべきか』が発表された。そしてそれがまことに驚くべき文献なのである。その全文は最近の『ダイヤモンド』誌に採録されているが、これは経済関係者の間だけに読まるべきものではなく、広く全国民の注目をひくべき文書と思われる。また、題目は北海道の開発となっているが、これは北海道だけの問題ではない。日本におけるいわゆる総合開発が、戦後あれほど騒がれたにもかかわらず、遅々として進まないことの原因がどこにあるかを衝いている文献ともいえるものである。それでこの勧告書の内容を少し紹介することにする。もちろんこの勧告書は、かなり広範にわたって配布されているものであろう。しかし文書の性質上、官報のような感じを与えやすいので、それをもっと読み易い形にすることも、意味のあることと思われる。
 この勧告書は大ざっぱにいって、二つの部分にわけられる。前半は、北海道開発の第一次五カ年計画の決算であり、後半は、今後の第二次計画に対する勧告である。その第一部が、驚くべき決算書なのであって、第一次五カ年計画は、完全な失敗に終ったという結論が出されている。完全な失敗というのは、最初の目標から見ての話であって、何もしなかったとか、造ったものがこわれたとかいう意味ではない。それで以下の文章は、実際にこの開発事業に従事し、北海道の不利な立地条件のもとで、辛苦をなめてきた技術者や労務者のことをいうのではない。そういう人たちの労苦は、北海道の事情を少しでも知れば、十分に推察のできることである。それにもかかわらず、第一次五カ年計画が、完全な失敗に終ったところに、日本の政治のあり方があるので、その点が問題なのである。
 第一に知るべきことは、第一次五カ年計画は、今年の三月で終了した点である。既に終っているのであって、着手中なのではない。この五カ年計画は、昭和二十七年度から開始され、去る三十一年度で完了したのである。この五年間に、どれだけの金が北海道の開発に注ぎ込まれたかというと、それは、中央政府から実際に支出された金額だけで、八百億円に達している。国の予算としては、これだけの金が公共事業費という項目で支出され、北海道開発庁と北海道庁とを通じて、とにかく北海道に注ぎ込まれたのである。八百億円というのは、国家予算から直接に出た金であって、外に地方予算および電源開発法による電源開発会社の投資など、もとをただせば税金から出た金が、その外にたくさんあって、総額からいえば、一千億を遥かに突破した「税金」が、北海道の開発に使われたわけである。
 しかしここでは、中央政府から直接に出た八百億円だけについて、話を進めて行くことにする。

三 第一次五カ年計画の決算


 過去五年間に、国費だけでも、八百億円の金が、北海道に注ぎ込まれた。国家として、目的なしに、こういう巨額の予算を支出するはずはないので、これには立派な目標があった。敗戦後植民地を失った日本にとっては、北海道の開発が第一のホープと思われた。そして事実それは間違ってはいなかった。というよりも、今日でもそのとおりであるといっていいであろう。
 敗戦後、北海道がクローズアップされたときに、まず着目されたのは、内地における過剰人口の受け入れ地としての北海道であり、今一つは食糧の増産であった。それで目標として、「人口の吸収」には百六十万人を目指し、食糧の増産は、米換算三百五十万石を計画した。すなわち五年間に内地から百六十万人の人口を受け入れ、三百五十万石の増産をすることを目的として、厖大な計画を立て、そのうち実際には、八百億円の開発費を注ぎ込んだのである。それが北海道開発第一次五カ年計画であったのである。
 ところが、その計画の五カ年が過ぎ、八百億円の金を使った今日、果たして目標の何割が達せられたかが、問題である。それはこの勧告書によれば、驚くべき結果になっている。人口はこの五年間に五十万人殖えたが、そのうちの四十三万人は、北海道内における自然増である。ところが残りの七万人のうち、自衛隊関係が六万人近くあるので、最初の目的たる「人口の吸収」は僅か一万人程度ということになる。百六十万人の計画に対して、一万人ではどうにも言訳が立たない。
 しかし人口の方はまだよい方で、食糧増産の方はむしろ減っているくらいである。この勧告書から、戦後十カ年間の北海道における主要食糧生産量の表を再録すると、次のとおりである。
    昭和2125年計 昭和2630年計
米   一、二五一万石 一、一〇一万石
小麦     八五万石    八五万石
大豆    二三二万石   二三五万石
小豆     四一万石   一〇六万石
馬鈴薯   一一四万貫   一〇八万貫
 開発計画は二十七年度から始まったので、本当は三十一年度まで入れる必要があるが、それを入れると、昨年の凶作がはいるので、第一次五カ年計画による減産が、もっとひどくなる。この表の結果は、天候によって説明できるものではない。開発計画開始前の二十一年度から二十五年度の間には、冷害の年もはいっている。
 減産の理由は、農家戸数からみればよく分るので、第一次計画の開始された昭和二十七年には、北海道の農家は二十三万七千戸あった。それが、昭和三十年には二十三万四千戸に減っている。農業入植を目的として、開発を進めたら、農家戸数が減ったのであるから、まことに妙な結果である。
 人口の吸収と食糧の増産とを兼ねさせようとして、農業入植を大いにうたったのであるが、戦後十カ年間に道外から入植したのはわずか六千戸で、そのうち定着したのは、三千八百戸にすぎない。第一次五カ年計画の前にも、いわゆる拓殖費というものがあって、毎年数十億円の金が北海道へはいっていた。そのスローガンは、六万町歩とか、十万町歩とかを開墾して、何万戸かの戦災家族を入れるというのであった。それを五カ年続けて、そのあとさらに第一次五カ年計画を遂行し、十年かかって実際に入植したのは、三千八百戸に終ったのである。
 勧告書は、この結果について、「目標自体から見れば、北海道開発の達成率は零であった、といってもいい過ぎではないのである」と結論している。
 八百億円の国費をつかって、当初の目的が全然果たされなかったということは、まことに驚くべき事実である。更に、そういう事実を目前にしながら、日本の輿論よろんが、こういう問題にほとんど無関心の状態であることもまた不思議である。遠い外国、しかも日本との経済的なつながりがそう濃くない国のことには、非常に熱心であって、自国内の異常事件には比較的冷淡であるのは、如何にも腑に落ちない。
 これが外国だったら、たいへんな騒ぎになるところであろう。私の知っているのは、米国の例だけであるが、先年ミゾリイ流域の開発計画が、所期の効果をあげなかったときに、アメリカの新聞や雑誌の騒ぎ方は、ものすごいものであった。米国にも縄張り争いがあることは日本と同様で、この計画はピック・トムソン計画と呼ばれていた。米国の陸軍の工兵隊は、正式には、技術団(コール・オブ・エンジニヤー)といい、平時にはダムの建設とか、運河の掘鑿とかいうような土木工事をやっている。けっきょくそれが塹壕を掘ったり、橋をかけたりする演習になるので、普段もただ遊ばせてはおかないのである。大きい開発計画はたいてい内務省の開発局がやるが、工兵隊もその一部を負担することがよくある。ミゾリイの場合は、両者せり合いの形になって、けっきょく工兵隊の親玉ピックと開発局方面のトムソンとの両方の名前をつけたわけである。
 こういう点も一つの原因であったらしいが、初めの四、五年間は、業績があまりあがらなかった。すると新聞が真っ先になって、じゃんじゃんと書き立てた。「われわれの税金を溝に棄てる事業」とせめられ、輿論もこれに追従したので、けっきょく組織を変更して、それからは順調に進行した。言論の自由というものは、こういうふうに使われると、非常に有効なものである。


 


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底本:「中谷宇吉郎集 第八巻」岩波書店
   2001(平成13)年5月7日第1刷発行
底本の親本:「文化の責任者」文藝春秋新社
   1959(昭和34)年8月20日刊
初出:「文藝春秋 第三十五巻第四号」文藝春秋新社
   1957(昭和32)年4月1日発行
※初出時の副題は「―われわれの税金をドブにすてた事業の全貌―」です。
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年4月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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