遠い大昔、まだ死者が蘇ったり、化身の人が現われたり、目に見えぬ鬼モ神ノと人間との間に誓が交されたりした時代。そういう時代は、もう返って来ないであろう。しかしそういう時代への人間のあこがれは、いつの世になっても、全く消え果てるものではなかろう。そういう意味で折口信夫氏の﹃死者の書﹄は、いつまでも生命があるもののように思われる。藤原南家の郎いら女つめ中将姫の伝説を小説化したもの、というよりも長詩と言った方がよいが、あの時代の人のこころが直接に感得されるような気がして、何度読んでも夢はますます美しくなる。 理性と感性との分離もまだ出来ていなかった古代人の心理は、歴史書からはもちろん覗けない。古代を舞台にとった小説も、所詮は近代人の描いた未開人の絵である。古代人のこころは﹁説明﹂では現わせない。折口さんのこの書は、古代に関する深い学識をもった優れた詩人、という稀な人がつくった、稀な書であるように、私には感ぜられる。 初めに、滋賀津彦のよみがえりの場合と、郎女の魂タマ呼ヨバいの場面とが出て来る。この二節を読んだだけで、もう語カタ部リベの媼オウナのいた時代の当タギ麻マの里に、読者は引き入れられてしまう。 二上山の男オノ嶽カミ女メノ嶽カミの間から、当タギ麻マ路ジが、白々と広く降って来る。﹁月は、依然として照っていた。山が高いので、光りにあたるものが少なかった。山を照し、谷を輝かして、剰る光りは、また空に跳ね返って、残る隈々までも、鮮やかにうつし出﹂している。深夜である。 ﹁こう こう こう 鳥の夜声とは、はっきりかわった韻ヒビキを曳いて来る。声は、暫らく止んだ。静寂は以前に増し、冴え返って﹂来る。この時、当麻路を降って来るらしい影。﹁二ツ三ツ五ツ……八ツ九ツ。九人の姿である﹂﹁九人と言うよりは九柱の神であった。白い著物、白い鬘、手は、足は、すべて旅の装イデ束タチである。 こう こう こう。 …… こう こう。お出でなされ。藤原南家郎女の御ミタ魂マ。……﹂ 此処が偶たま々たま滋賀津彦の塚の前だったので、この魂呼いの行ぎょ者うじゃたちは、滋賀津彦のためにも、魂呼いの行をする。その声に和して、おおう……と、﹁塚穴の深い奥から、冰りきった、而も今息を吹き返したばかりの声﹂が聞えて来る。郎女は、彼岸の中日、二上山の日の入りに、西国浄土の仏の姿を見る。その幻にひかれて、姫は万法蔵院まで彷さまよい出て、結界を犯した償いに、其処にとどまる。そして化ケ尼ニに導かれて蓮糸の曼陀羅を織る。 筋はほとんど無いような小説であって、天アメ若ノワ日カヒ子コの伝説、彼岸中日の﹁野遊び﹂、日相観など、いわば古代の幻想が、説明の形をとらないで、直接感得されるような長詩である。