愛の詩集

室生犀星




みまかりたまひし父上におくる


いまは天にいまさむ うつくしき微笑いま

われに映りて、我が眉みそらに昂る……。







 私の室に一冊のよごれたバイブルがある。椅子につかふ厚織更紗で表紙をつけて背に羊の皮をはつて NEW TESTAMENT. とかいて私はそれを永い間持つてゐる。十余年間も有つてゐる。それは私の室の美しい夥しい本の中でも一番古くよごれてゐる。私は暗黒時代にはこのバイブル一冊しか机の上にもつてゐなかつた。寒さや飢ゑや病気やと戦ひながら、私の詩が一つとして世に現はれないころに、私はこのバイブルをふところに苦しんだり歩いたりしてゐた。いまその本をとつてみれば長い讃歎と吐息と自分に対する勝利の思ひ出とに、震ひ上つて激越した喜びをかんじるのであつた。私はこれからのちもこのバイブルを永く持つて、物悲しく併し楽しげな日暮など声高く朗読したりすることであらう。ある日には優しい友等とともに自分の過去を悲しげに語り明すことだらう。どれだけ夥しく此聖書を接吻することだらう。





わがなやみの日

みかほを蔽ひたまふなかれ

われは糧をくらふごとく灰をくらひ

わが飲みものに涙をまじへたり
詩篇百二
[#改ページ]

をさなき思ひ出



おれはよく山へ登つた

山にはいろんな花がさいてゐた

気の遠くなるやうな深い谷があつた

そこでよくねころんだ

そのゆめのあとが

ふいと今のおれの胸に残つてゐて

緑緑あをあをともえてゐた



松並木は果もなかつた

僕はいつもとぼとぼと歩いて行つた

そのやうに海は遠かつた

僕はいつも泣きながら歩いた

歩いても歩いても遠かつた

僕は海の詩をかいて都へ送つた

あれからもう十年は経つて了つた





熱い日光を浴びてゐる一匹の蠅。此蠅ですら宇宙のうたげ参与あづかる一人で、自分のゐるべきところをちやんと心得てゐる。
フイドオル・ドストイエフスキイ
[#改ページ]

孝子実伝


ちちのみの父を負ふもの

ひとのみの肉と骨とを負ふもの

きみはゆくゆく涙をながし

そのあつき氷を踏み

夜明けむとするふるさとに

あらゆるものを血まみれにする

萩原朔太郎



 千九百十七年九月二十三日のまだ夜の明けぬうちに私はその最愛の父を失うた。父は真言宗の一僧都としてのその神の如き生涯の中、私を愛し私の詩作をはげました。父の世にあるうち此詩集をひと目見せたいといふ切な願望は、もはや明らかに失はれてゐた。父のそばに机を置いて詩をかいたことを思へば私は童顔白皙な額にその微笑を思ひ出すのだ。だれしも肉親をもつものの必然な運命とは思ひながら、私はいまさらに私の失うた愛は甚だ大きいものであることを知つた。これを父上におくる。


爾曹なにを願ふや鞭を以て我なんぢに至ることを願ふ乎。また愛と柔和の心を以て至ることを願ふ乎。
























 
 

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  Herakleitos 
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 耀
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千九百十七年十一月十六日
君と畑一つ隔てて
北原白秋




 
 
 
 
 
 
 
 
千九百十七年十一月二十日
東京郊外田端にて
室生犀星





使





































































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西











 












 
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姿



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湿

















調











 








「私が神様を離れてどうして生きてゐられませう。」早口に力を入れて彼女は囁いた。急に輝きを帯びた目をちらと彼に投げて。そしてラスコオリニコフの手を堅くしめつけた。
ドストエフスキイ




 
















































 




 


























姿



 














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調



 

 
 













調








  
 




西














 



















姿

























 
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美しいものはいつでも孤独の中にある。群集は美を会得しません。彼は自分を導く宗教を持たないからです。ロダンの言葉。クラデル女史。






 




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姿










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使








 





































 


















姿
























 






西

























 



 

 









湿






 











※(「火+(麈−鹿)」、第3水準1-87-40)









湿

 


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 湿





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 調
 
 
 

 
 
 
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 鹿
 
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 調調
 西
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
千九百十七年十一月九日
郷里にて

萩原朔太郎



朝日みなぎれ


朝日みなぎれ




吾等苦しみあがきし日の償ひに

新婦はなよめをもてるものは新郎はなむこなり。新郎はなむこの友立ちて其声をきかばこれによりてよろこび多し。我いまそのよろこびに満つるを得たり。ヨハネ伝第三章二十九



 私はいく晩となく長いあいだ室に座つてゐた。そして集めた詩を一つ一つ音読して高い昂奮と眼に光を注ぎ込まれたやうな偉大とを感得した。永い間苦しんだことがありありと浮んで来て、胸やあたまの中に広がることを感じた。「苦しみあがいた日の償ひ」にするため、「本を出しておかなければ死んでも死にきれない」為めに私はたうとう十四年かかつてこの素朴な本をつくることを私の過去から酬ひられてゐた。美しい夕雲のとりどりな地平の彼方に、いろいろな生活が横つてゐるといふ幸福な想念をさへ私は明らかに感じてゐる。私にも新婦はやつて来るだらう。そして私がまだ孤独の清さを有つてゐると言つてくれるだらう。


ET ILS ※(アキュートアクセント付きE)TAIENT CONTINUELLEMENT
DANS LE TEMPLE, LOUANT ET
B※(アキュートアクセント付きE)NISSANT DIEU.

53. [#ローマ数字24、222-12] SELON. SAINT LUC.


[#改ページ]
 ネルリの肖像について恩地は十枚ばかり書いてくれて、自分でネルリの顔をかいてゐると今更にドストエフスキイの大きさに驚くと言つて来た。その中のいちばん気に入つたのを本集に出した。ほんとにいい顔だ。これをぢいつと見てゐるとペテルブルグの騒音がきこえるやうだ。この本をよむ人人とともに、この精神の美しさにあふれた可哀相なこの子を愛してやりたい。この心持は飯事のやうな愛ではない。この子のことをかいた本をよむ人はきつと正しい恋と愛とを得るにちがひない。孤独な人は美しい良い女性にめぐり会ふだらう。女性はまた良き永久の男性を得るにちがひない。この子を接吻してやりたい。みんなして接吻してやりたい。(十二月八日校了の夜)





エレナと曰へる少女ネルリのこと ドストイエフスキイ




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  ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)()姿
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底本:「抒情小曲集・愛の詩集」講談社文芸文庫、講談社
   1995(平成7)年11月10日第1刷発行
底本の親本:「愛の詩集」感情詩社
   1918(大正7)年1月
※冒頭の序にあたる部分の構成は下記のようになっています。「( )」の部分は底本では明確な見出しとしては扱われていませんので、見出し注記をしていません。
(扉銘)(「みまかりたまひし……」)
(扉銘)(「いまは天にいまさむ……」)
(「私の室に一冊の……」)
(扉銘)(「詩篇百二」)
(序詩)をさなき思ひ出
(扉銘)(「フイドオル・ドストイエフスキイ」)
孝子実伝 萩原朔太郎
(「千九百十七年九月……」)
(扉銘)(「哥林多前書四ノ二十一」)
序詩
愛の詩集のはじめに 北原白秋
自序
愛の詩集例言
※末尾の跋にあたる部分の構成は下記のようになっています。「( )」の部分は底本では明確な見出しとしては扱われていませんので、見出し注記をしていません。
「幸福を求めて」の終りに
愛の詩集の終りに
(扉銘)(「朝日みなぎれ」)
(扉銘)(「ヨハネ伝第三章二十九」)
(「私はいく晩となく……」)
(扉銘)(「53. [#ローマ数字24、222-12] SELON. SAINT LUC.」)
(「ネルリの肖像について……」)
エレナと曰へる少女ネルリのこと
入力:田村和義
校正:岡村和彦
2014年5月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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JIS X 0213



JIS X 0213-


ローマ数字24    222-12、222-12


●図書カード