俊坊はをぢさんの手にぶら下りながら、夜の街通りをゆきました。 海岸へつゞいてゐる通りはアスフアルトの上に打ち水がしてあつて海から吹いてくる風がそのまゝ街の灯にぬれながら凉しく通つてゆきました。 散歩の人たちで街は賑はつて居りました。 常設館からは樂隊の音が流れ出て居りました。お菓子を釣る起重機が二つ、お菓子屋さんの店さきに並んでゐて、白い帽子をかむつた子供がハンドルを廻してゐました。 電灯の下に海水着だの海水帽だのがぶら下つてゐました、浮輪が、赤く、青く、黄色く、それぞれの色で、生きてゐるやうに光つてゐました。 通りをずつと行くと停車場の廣場に出ました。廣場の隅に何だか人だかりがしてゐました。 ﹁何だらうね﹂ をぢさんはさう言つて俊坊の手をぶら下げたまゝ、人だかりの方へ歩いてゆきました。 ﹁ほう﹂ さういつて、をぢさんは俊坊を抱きあげてくれました。俊坊の眼がをぢさんの眼鏡の高さになると、くるりと後を向かせてくれました。 人だかりの中に、小さなテーブルがありました。その向ふに髮の毛の長いをぢさんが、隨分大きな黒いパイプを、口にくわへて立つてゐました。 ﹁いかゞでございますか。皆樣のプロフイルを、この海岸にいらつしやつた記念に切らせて下さい﹂ さういつて、パイプのをぢさんは、テーブルの上の鋏を手に持つてシヤキシヤキと音をさせました。 ﹁これは面白い。一つやつてくれんか﹂ 人だかりの中から聲がして、浴衣をきた、太つちよのをぢさんがテーブルの前に出ました。 ﹁はい、ありがたう存じます﹂ さういふと、髮の長いをぢさんは右手に鋏を持ち、左手に黒いラシヤ紙を持つて、じツと太つちよのをぢさんの横顏をみてゐましたが、急に、黒いラシヤ紙に鋏を入れました。 ラシヤ紙はをぢさんの手の中で、くるくる廻つてゐましたが ﹁はいお待どほ樣﹂ さういつて、一寸、頭を下げて、切り取つた黒いラシヤ紙を、太つちよのをぢさんの前に出しました。それは太つちよのをぢさんの横顏を切りぬいたものでした。 ﹁やあ、よく似てるぞ。だが、俺はこんなに黒くないぞ﹂ といつて大きな口をあけて髮の長いをぢさんを見ながらハハハハと笑ひました。 人だかりのみんなも大きな聲で笑ひました。太つちよのをぢさんは、ポチリとテーブルの上にお錢を置いて、どこかへ行きました。 ﹁面白いね﹂ をぢさんはさういつて俊坊を下しました。俊坊はもう一度見たいと思ひましたが、をぢさんは、とつとつと歩いてさつきの通りを歸つて行くので俊坊も默つてくつゝいて行きました。 寢床に入つてからも俊坊は眼をつむつてゐると、髮の毛の長いをぢさんの顏が見えました。シヤキシヤキと黒いラシヤ紙を切る鋏の音が聞えて來ました。 その次の日の夜、俊坊は、ひとりで、停車場の廣場へゆきました。 灯の下では髮の長いをぢさんが、パイプを口にして立つてゐました。 しばらくすると昨日のやうな人だかりがして來ました。俊坊は、テーブルの前で、をぢさんの顏をじつと見てゐました。 ﹁一つやつて下さい﹂ 大學生のやうな人が笑ひ乍ら俊坊のそばへ出て來ました。をぢさんは鋏と黒いラシヤ紙とを持つて手を動かし始めました。ラシヤ紙はくるくると廻りました。 ﹁はい、お待たせ致しました﹂ 學生帽を冠つた横顏が出來上りました。次はその友達でした。出來上ると二人は笑ひながら、どこかへゆきました。 その次は、老をぢ人いさんでした。あごに山羊の髭のやうに白い長い髭がのびてゐました。 出來上ると ﹁ほほう、うまいもんぢやな﹂ さういつてポツリとお錢をテーブルの上に置きました。そつくりそのまゝ老人に似てゐました。 その次の夜も廣場へゆきました。 俊坊は毎晩、髮の長いをぢさんの顏を見に行きました。何だか、なつかしい氣持がしてならなかつたのです。をぢさんは一度だつてニツコリ笑つたことがないやうでしたが、俊坊は、をぢさんの眼を見てゐると、やさしい光が眼の奧から流れて出てくるやうに思はれました。 をぢさんは俊坊が毎晩來てゐるのを知つてゐるやうでもあり、氣がつかないやうでもありました。俊坊がすぐテーブルの近くにゐるのに一度も話しをしてくれなかつたのです。 夏も、だんだん過ぎて、海は波が大きく高くなつて來ました。くらげが湧いて泳げなくなりました。 東京の人たちは、次第に歸つてゆき、夜になつても街は、そんなに賑はひませんでした。 いつからだつたか、あの髮の長いをぢさんは停車場の廣場に出なくなりました。 俊坊はもう、廣場へ行かなくなりました。 何だか、淋しくて、ホロリとしました。 俊坊はひとりで海岸へ出ました。脱衣場など、もう、こわれ始めてゐて、砂の上には新聞紙や壞れた下駄や、布きれ等が、あちこちに散らばつてゐ、海は黒い藻を運んで大きな波が砂を噛んでゐました。海岸をずつと右に行つた所にある水族館の門も閉つて、取り殘された旗がヒタヒタ風にゆらいでゐるだけでした。 俊坊は貝がらを拾ひはじめました。珍らしいのは拾つて、キヤラメルの空箱に移しました。 ﹁坊ちやん﹂ 俊坊のせなかの所でこんな聲がしました。 首だけくるりと廻して見ると停車場の廣場の、あの影繪のをぢさんでした。 いつだつて笑つたことのないをぢさんは、ニコニコしながら、いつもの大きな、まつ黒いパイプを口にして俊坊の顏を見下してゐました。 俊坊の胸のあたりがワクワクして來るやうでした。 ﹁澤山拾つた﹂ さういつて俊坊のキヤラメルの空箱をのぞき込みました。 ﹁どうれ、ほう﹂ をぢさんはステツキを脇の下に挾んで﹇#﹁挾んで﹂は底本では﹁狭んで﹂﹈腰をかゞめました。 ﹁いいの澤山あるね、をぢさんにくれない﹂ ﹁みんな、あげる﹂ さういつて、小さな手から大きなをぢさんの手へ、みんな、ぶちまけました。 ﹁東京へ持つてかへるんでせう﹂ ﹁あゝ、さう﹂ 髮の長いをぢさんはとても愉快さうでした。 ﹁ね、坊ちやん、坊ちやんだつたね。ほら、停車場の廣場に毎晩來て、をぢさんの仕事を見てゐたのは。﹂ 急に、海の水が、俊坊の下駄をはいた足の指を越えて、水は砂に昇つてゆきました。 びつくりして飛び上ると、影繪のをぢさんも立ち上りました。そしてステツキを持ちかへると、丘の方へ歩き出しました。俊坊は返事を忘れてしまつてついてゆきました。 ﹁貝がらのお禮に、何をあげようね﹂﹁今何も持つてないけど、東京へ歸つたら何でも送つてあげるよ﹂ さういつて笑ひ乍ら俊坊を見ました。 俊坊は小さい聲で ﹁プロフイル﹂ といひました。俊坊はもう一度、あの黒いラシヤ紙と鋏の音が聞きたかつたのです。そして、このをぢさんより外にはあのなつかしい景色をはつきり思ひ出させてくれるものはないのでしたから。 ﹁プロフイル﹂ とも一度少し大きな聲でいひましたが風に消されて、影繪のをぢさんの耳に屆きませんでした。 ﹁え、坊ちやん、何が好き﹂ をぢさんはパイプを口から離して云ひました。 ﹁プロフイル﹂ ﹁え。プロフイル﹂ ﹁あ、さうか。はははは、坊ちやん、もう、すつかり覺えたんだね、をぢさんは忘れつぽくてね﹂ と白い雲の浮いてゐる松原のあちらの空を見ながら、大きな口を開けて笑ひました。 ﹁そんなものより、もつといゝものがあるだらう﹂ 俊坊は、をぢさんがあまり大きな聲で笑ふので恥しくなつて默つてゐました。 ﹁え、プロフイルは今、切つてあげるよ、その外に何がいゝ﹂ さういひながら、をぢさんは誰もゐない脱衣場の中へ入つて行きました。蟹が、こそこそと逃げてゆきました。 ﹁え、何がいゝの﹂ ﹁何もいらない﹂ 俊坊は大きな聲でさういひました。 をぢさんは、トランクをパチンと開けて、黒いラシヤ紙と鋏とを出しました。 ﹁ほらね、あそこに白い帆が見えるだらう。ずつと沖の一番小さいのだよ。ね。あれを見てゐたまへ﹂ 海はいつのまにか靜かになつて、ずつと、ずつと遠くまでのびてゐました。沖の方はほんのり白くなつて空につゞいてゐました。 をぢさんの動かす鋏の音が海から吹いてくる風の音の間に、シヤキ、シヤキと鳴りました。 凝とみてゐると、白い帆は少し動いたやうでした。 帆のこちらを鴎が通つて空へ舞つてゆきました。 ﹁何て名前だい﹂ とをぢさんが、ふいに聞きました。 ﹁木田俊一﹂ と俊坊は大きく答へました。 ﹁いゝ名前だね﹂ さういつて俊坊を切りぬいたプロフイルをくるくる廻しながら、ローマ字で、名前を切り取つてくれました。 ﹁お待遠樣﹂ いつも町で云つてたやうに、さういふと、ニツコリして俊坊に影繪を渡してくれました。そしてパチンパチンとトランクを閉めると立ち上りました。 ﹁あ、汽車の時間だ、又來年の夏くるよ。大きくなつてるだらうなあ﹂ さういつて俊坊のくりくり坊主を撫でました。 ﹁さいなら、をぢさん﹂ をぢさんは俊坊と海とを交る交る見ながら砂の上を、町の方へ歩いてゆきました。 夕方なので、トランクを下げたをぢさんの影が長く砂の上をはつてゐました。 時々、をぢさんは、ふりかへつて、ステツキを高くあげてみせました。 俊坊は、をぢさんとプロフイルを交る交る見乍ら、をぢさんが、だん〳〵小さくなつて松原の松のかげにかくれるまで砂の上に立つてゐました。