一
﹁親分、泥棒は物を盜るのが商賣でせう﹂ 八五郎のガラツ八はまた變なことを言ひ出しました。 ﹁商賣――はをかしいが、まア世間並の泥棒は人の物を盜るだらうな﹂ 錢形平次は、女房に給仕をさせて、遲い朝飯をやり乍ら、斯んな事を言つて居ります。 櫻には少し早いが、妙に身内の擽くすぐられるやうな、言ふに言はれぬ好い陽氣です。 ﹁ところがその世間並でねえ泥棒があつたんで――﹂ ﹁物を盜らずに何を盜つたんだ﹂ ﹁置いて行つたんで、親分﹂ ﹁物を置いて行く泥棒は無いぜ。八、忘れ物ぢやないか﹂ ﹁戸をコヂ開けて入つて、他よその家へ物を忘れて行く奴は無いでせう﹂ ﹁話がこんがらかつていけねえ、一體何處に何があつたんだ。手輕に白状しな、お茶を呑み乍ら聽いてやる﹂ ﹁白状と來たね。石を抱かせる代りに、せめて落らく雁がんを抱かせて貰ひ度い、――出がらしの番茶も呑みやうがある﹂ ﹁あんな野郎だ、お靜、狙はれた物を出してやつた方が宜いよ﹂ 平次が顎あごをしやくると、お靜は心得て落雁の箱の蓋を拂つてやりました。口數は少いが、柔か味と情愛の籠つた、相も變らぬ良い女房振です。 ﹁親分の前だが、泥棒が金きん唐から革かはの飛切上等の懷中煙草入れを忘れて行くといふ法はねえ。おまけに煙管は銀だ。あれは安くちや買へませんぜ﹂ ガラツ八はまだ頭を振つて居ります。落雁はもう四つ目。 ﹁さア、一人で感心して居ずに、ぶちまけてしまひな、――落雁が氣に入つたら、箱ごと持つて歸つても構はないから﹂ ﹁大層氣前が宜いんだね、親分﹂ ﹁馬鹿にするな﹂ 平次と八五郎は斯う言つた、隔へだての無い心持で話し合つて居ります。 ﹁親分も知つて居なさるだらう、神田相あひ生おひ町ちやうの、河内屋又兵衞――﹂ ﹁界隈で一番と言ふ家持だ、知らなくて何うするものか﹂ 外神田の三分の一も持つて居るだらうと言はれた河内屋又兵衞、萬兩分ぶげ限んの大町人を、平次が知らなくて宜いものでせうか。 ﹁大旦那の又兵衞――金はあるが伜夫婦に死に別れ、孫の喜太郎といふ十一になる男の子とたつた二人、奉公人と小判に埋まつて暮して居る﹂ ﹁それが何うした﹂ ﹁その河内屋へ昨夜泥棒が入つたんで――﹂ ﹁金は取らずに、その豪勢な懷中煙草入れを置いて行つたと言ふんだらう﹂ ﹁その通り﹂ ﹁それつ切りかえ﹂ ﹁お氣の毒だが、根つ切り葉つ切りそれつ切りで﹂ ﹁呆れた野郎だ。落雁だけ無駄になつた。お靜、箱を片付けた方が宜いよ﹂ 平次は笑つて居ります。早耳では天才的なガラツ八の八五郎を、毎朝一と廻りさせて、その情報の中から、何か﹃異常なもの﹄を嗅ぎ出さうとするのが、長い間の平次の習慣でもあつたのです。 ﹁河内屋には金が唸るほどあるでせう﹂ ﹁それはあるだらう﹂ ﹁その金には眼もくれず、――坊つちやんの喜太郎の寢部屋へ忍び込んで、金唐革の贅ぜいを盡した懷中煙草入れを、手習机の上へ置いて行つたといふのは變ぢやありませんか﹂ ﹁晝のうちに誰か忘れて行つたんぢやあるまいね﹂ ﹁塀を乘越えて、縁側の雨戸をコヂ開けて、人の家の中へ物を忘れに入る野郎はありませんよ﹂ ﹁フ――ム、少し變だな﹂ ﹁これが變で無かつた日にや、落雁を返上して三遍お辭儀をして歸り度い位のもんで――﹂ ﹁お靜、序に羊やう羹かんもあるだらう﹂ ﹁冗談ぢやないぜ、親分、そんなに甘い物を食つた日にや、溜飮を起す﹂ ﹁溜飮や血の道と縁のある顏ぢやねえ﹂ ﹁羊羹を食ひ乍ら、今度は何を白状しりや宜いんで――﹂ ﹁その煙草入れは誰のだ﹂ ﹁解らねえ﹂ ﹁それ程の品が、持主の解らないことがあるものか、――煙草が入つて居たのか﹂ ﹁粉煙草が少しばかり﹂ ﹁をかしいぜ八、當分河内屋から眼を放すな。近いうちに何か起るに違ひ無い﹂ ﹁それは心得て居ますよ﹂ ﹁それから、今度河内屋へ行く序ついでがあつたら、その煙草入れを借りて來い﹂ ﹁さう來るだらうと思つて、持つて來ましたよ。河内屋でも世間へ知らせ度くないから、そつと調べてくれといふ話で﹂ ﹁それは宜い鹽梅だ。八がそれほど氣の付く男とは知らなかつたよ﹂ ﹁へツ、その積りで附き合つて貰ひやせうか﹂ ﹁馬鹿﹂ ﹁こいつは落雁や羊羹ぢや安いや﹂ 八五郎はさう言ひ乍ら、懷中煙草入れを取出しました。少し古色を帶びた金唐革、柘ざく榴ろを彫つた金銀金具、少し逞たくましいが目方の確りした銀煙管まで、聊か野暮つ度くはあるが、その頃には申分の無い贅澤な品です。 中を開けて見ると、粉煙草が少々、薩さつ摩まや國こく府ぶでもあることか、これは刻きざみの荒い、色の黒い、少し馬まぐ糞そ臭い地煙草ではありませんか。 ﹁八、一杯買はう、こいつは面白さうだ﹂ 平次はさう言ひ乍ら、恐ろしく念入りに煙草入れを見て居ります。二
平次の豫言は美事に當りました。それから三日目、ガラツ八の八五郎は、髷節を先に立てゝ飛んで來たのです。 ﹁大變ツ、親分﹂ ﹁又大變かい、何處の新造に口く説どかれた﹂ ﹁そんな氣樂な話ぢやねえ、――河内屋の坊つちやんが殺やられた﹂ ﹁何?﹂ ﹁殺られたに違げえねえ、今朝塀の外に冷たくなつて居たんだ﹂ ﹁行つて見よう、八﹂ 平次は事件の重大さを嗅ぎ出した樣子で、ガラツ八と一緒に宙を飛びました。 神田相生町まではほんの一と走り、一丁四方もあらうと思はれる、河内屋の屋敷の中は、朝つぱらから大變な騷ぎです。 ﹁あ、錢形の親分、丁度宜いところへ來て下すつた。孫が大變なことに――﹂ もう六十を越して、一粒種の孫の喜太郎を杖とも柱とも頼んでゐた、老主人又兵衞の顏は﹃悲しみの塑そざ像う﹄を見るやうに凄慘でした。 刻みの深い頬は捻ぢ切れさうに歪ゆがんで、泣かじと噛んだ唇はワナワナと顫へるのに、少し脹れた老の眼からは、際限もない涙が、後から〳〵と湧いて來るのです。 ﹁飛んだ事でしたな、旦那﹂ ﹁私には殺されたものとしか思へませんが、馴れた親分の眼で見てやつて下さい﹂ 平次は靜かに點うな頭づいて、主人の導くまゝに奧へと進みました。多勢の雇人達は、恐ろしい不安に縮み上つて、障子の蔭から、縁側の隅から、それを見遣つて居ります。 ﹁これ見て下さい、親分﹂ 慟哭と嗚咽と歔すゝ欷りなきの中へ、平次と八五郎は分けて入りました。町人にしては贅澤過ぎると思ふほどの絹夜具の中に、横たはつて居るのは、河内屋の秘藏孫、喜太郎少年の痛々しい姿です。 男人形のやうな可愛らしい眼鼻立も、老主人の又兵衞には未練だつたでせう。 顏に觸つて見ると、ヒヤリとする冷たさ。 ﹁傷は一つもありませんが、親分﹂ 老人の言葉をその儘信用するわけにも行きません。が、何處にも傷らしいものゝ無いことも事實です。 ﹁昨夜何處かへ出たのでせうか、後あと前さきの事を詳しく聽かして下さい﹂ 平次は一座を見渡しました。其處には少くとも、十人は居ります。 ﹁晝頃から、湯島の叔母のところへ行きました。あんまり遲いから泊つて來るだらうと思つて、氣にもせずに居ると――今朝この姿で、塀の外に轉がつて居ましたよ﹂ 諦あきらめ切れない樣子で、老主人はそつと冷たい顏にさはりました。 ﹁私も惡かつたよ。碁ごう打ち友達が來て、一局、二局とツイ夢中になつて、甥をひが歸つたのも知らずに居たが――﹂ さう言ふのは、四十前後の立派な武家です。 ﹁貴方樣は?﹂ ﹁馬ばゝ場かな要めと申す浪人者ぢや﹂ ﹁あ、馬場猩しや々う/齋″\樣さいさまで﹂ ﹁御存じかの、いやはや﹂ 馬場要は場所柄笑ひもならず、苦り切り乍ら額を叩いて居ります。立派な御家人で、無役乍ら鳴らした武士ですが、綽あだ名なを猩々齋と言はれるほどの酒豪で、その酒の爲に浪人し、又兵衞の娘――喜太郎には叔母に當るお米を嫁め取とつて、河内屋の後見をして居る人物です。 ﹁どなたも、坊つちやんが歸つたのを氣が付かなかつたのでせうか、馬場樣﹂ ﹁それは家内が知つて居るだらう﹂ 馬場要が後を振り向くと、其處には三十二三の品の良い女が、愼ましく控へて居りました。又兵衞の娘、喜太郎には叔母のお米といふのでせう。 ﹁甥の喜太郎は明神樣の境内へ行つて遊んで居ました。近所の子供達とは顏かほ馴なじ染みで、何時もの事ですから氣にも止めずに居ると、相生町から迎ひの者が來て連れて行つたといふことで御座いました﹂ ﹁迎ひの者?﹂ 平次は聞きとがめます。 ﹁迎ひをやつた筈はありません。それが何うも變で――﹂ 又兵衞は言ふのです。喜太郎少年を殺した大きな手違ひは此處にあつたのでせう。 ﹁八、大急ぎで明神樣へ行つて、境内にゐる子供達に、昨日の夕方の事を聽いて來てくれ。どんな事をして遊んで、何なん刻どき頃迎ひの者が來たか、その風體と人相が大事だ﹂ ﹁合點﹂ 八五郎は飛出します。 ﹁ところで、何うして、こんな虐むごたらしい事をしたのでせう﹂ お米は合點の行かぬ樣子で、平次に訊ねました。傷の無い死體は、その頃の人には、全く不思議だつたのです。 ﹁頓死では無いかな、平次﹂ 馬場要は少し平次をたしなめる調子でした。 ﹁履はき物ものはありましたか、死體のあつた邊に?﹂ 平次は他の事を言ひます。 ﹁それも氣付いて一應搜しましたが、坊つちやんの履いて出た草履はありませんでしたよ、親分﹂ さう言つたのは、二十七八の氣のきいた男です。 ﹁お前さんは?﹂ ﹁花房町の佐吉で――﹂ ﹁あ、油屋さんの﹂ 平次は漸くこの男を思ひ出しました。丁ちや子うじ屋やの養女になつた、又兵衞の末の娘、お富の許いひ婚なづ者けで、河内屋にも出入りして居る好い男だつたのです。 ﹁――﹂ 佐吉は出過ぎたのを後悔する樣子で、少し顏を赧らめました。 ﹁履物が無ければ、矢張り﹂ ﹁殺されたのでせうか﹂ お富はぞつと身顫ひをしました。十九の厄、これは一座をパツと明るくするやうな娘です。 ﹁氣の毒だが矢張り人手に掛つたのでせう。出した覺えの無い迎ひが行つただけでも、唯事ではありません﹂ ﹁をかしな事があるものだな﹂ さう言ふ馬場要の顏を、一座の者はツイ見やります。喜太郎が死ねば、河内屋の大身代は、叔母のお米か、お米の妹で佐久間町の丁ちや子うじ屋や茂三郎に貰はれて居る、お富に繼がせる外は無かつたのです。 ﹁いやこれは人手に掛つたに違ひありません。一番卑怯な殺し方ですよ﹂ ﹁――﹂ ﹁下手人は後から坊つちやんの顏を半はん纒てんか襟卷で包んで、後向に背負つたものでせう﹂ ﹁後向に?﹂ ﹁背中合せに、顏を包んで背負はれると、小さい非力な者では何うすることも出來ません。坊つちやんは、下手人の背中で、聲も立てず、身動きもならずに死んでしまつたことでせう﹂ ﹁――﹂ あまりの恐しい想像に、皆なは息を呑んで聞入るばかりです。 ﹁口を開いて、眼が飛出して居りますが、首には繩の痕あとも、爪の痕もありません。身體にも何の傷も無いところを見ると――﹂ 平次もこの恐ろしい想像の飛躍に、思はず口を緘つぐみました。三
﹁錢形の親分、――二三日前妙な泥棒が入つて、煙草入れを置いて行きましたが、それとこれは關かゝ係はりは無いでせうか﹂ 主人の又兵衞は先刻から、それを言ひ出さうとして居たのです。 ﹁あるかも知れません。煙草入は八五郎に貸して下すつたのを、私も見せて貰ひましたが――あれは此處に居る人が皆な知つて居るでせうか﹂ 平次は一座の顏を見渡しました。馬ばば場かな要め夫妻、丁子屋茂三郎、養ひ娘のお富、その許婚者の佐吉、あとは婆やのお澤と番頭の才助と、主人の又兵衞と平次だけです。 ﹁家の者二三人だけは見ましたが、――あとは誰にも申しません。體裁の良いことではないし、それに言ふ暇も無かつたのです﹂ ﹁もう一度見せて貰ひませうか﹂ ﹁――﹂ 主人の又兵衞は、立上つて次の間から、泥棒の置いて行つた金きん唐から革かはの煙草入れを持つて來ました。 ﹁あ、あなた﹂ 驚いたのは馬場要の女房お米です。 ﹁これですが、親分﹂ ﹁この煙草入れを見知りの方はありませんか。二三日前、河内屋さんへ入つた泥棒が置いて行つた品ですが﹂ 平次は煙草入れを取つて、皆なの前に振りました。 ﹁ちよいと拜見﹂ ﹁――﹂ 手に取つた馬場要、無造作に調べて、 ﹁これは拙者のだが――、泥棒などが持つて來る道理は無いて﹂ 斯う言つて退けるのです。 ﹁もう少し詳しい事を伺へませんか、馬場樣。この煙草入れは何處で、手に入れなすつて、――何時人へやつたとか、無くなつたとか﹂ ﹁――﹂ ﹁何も念の爲ですが――﹂ ﹁平次﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁お前は、この馬場要が泥棒だといふのか﹂ 馬場要の顏はサツと蒼くなりました。平次の意圖が判ると、凄じい激怒が、殘つて居る武士氣質を刺戟したのです。 ﹁飛んでもない、旦那、私はたゞ、その煙草入れが、何處を何うして此家へ入つて來たか知り度かつたので御座います﹂ 平次はすつかり恐縮してしまひました。 ﹁それなら言はう、――二度と訊いてはならぬぞ﹂ ﹁へエ﹂ ﹁拙者世にある頃、組頭から頂戴した品だ。浪々の身になつてからは、贅澤な品と思つて、仕舞ひ込んで置いたが、近頃又取出して一二度粉煙草を入れて用ひて居たよ、――それが、何時頃から無くなつたか、喃お米﹂ ﹁一月ほど前で御座います﹂ お米は響ひゞきの音に應ずるやうでした。 ﹁お聽きの通りぢや、まだ疑念があるかな、平次﹂ ﹁よく判りましたが、――何處で紛失なすつたので﹂ ﹁それが判れば返して貰ふわい、――馬鹿な﹂ 馬場要は、岡つ引の頭の惡さを輕蔑するやうに、聲もなく笑ひました。 ﹁旦那がその頃出入りなすつた家は?﹂ ﹁此家と、町内の碁ごく會わい所しよ位のものだ﹂ さう言はれゝばそれ迄の事です。この上押して物を訊いたら、一本氣の猩々齋が腹を立てることでせう。錢形平次も唯一の手掛りを失つて、ハタと困じ入りました。 丁度その時でした。 ﹁親分、判つたぜ﹂ ガラツ八は鬼の首でも提ひつさげたやうな勢で飛んで來ました。 ﹁誰だ、坊つちやんの迎ひに來たのは?﹂ ﹁馬場さんの家からださうで﹂ ﹁何?﹂ ﹁誰がそんな事を言つた﹂ 平次も、馬場要も、容易ならじと聲を掛けたのです。 ﹁明神樣の境内で遊んでる子供達ですよ。あの顏かほ觸ぶれは毎日同じだ、間違ひつこありませんよ。河内屋の坊つちやんが、昨日くしやみを幾つしたかまで知つて居ますぜ﹂ ﹁無駄は止しな﹂ ﹁夕方迎ひに來たのは、顏ろくに見なかつたが、白粉の濃い、皺枯れた聲で、首に古傷があつたさうですよ、その女が、――叔母さんが呼んで居るからすぐ﹃馬場樣へ歸りませう﹄――と言つたさうで﹂ ﹁本當か、それは﹂ ﹁嘘だと思ふなら、證人は六七人明神樣の境内に遊んで居ますぜ。呼んで來ませうか﹂ ﹁――﹂ ほんの暫らくの間、颱たい風ふうの眼がんへ入つたやうな、怒る可き沈默が續きました。 ﹁そんな馬鹿な事がある筈はない――子供の言ふ事などが證據になるものか。第一白粉の濃い下女などを使つた覺えは無いぞ﹂ 馬場要はハタとガラツ八を睨み据ゑます。 ﹁馬場樣、――八五郎と子供は後で存分に叱つて置きませう。それはまアそれとして、旦那は昨夕から今朝の夜明けまで、何處に在いなすつたか、それを聽かして頂きさへすれば、私には何の疑念も御座いません﹂ ﹁――﹂ ﹁坊つちやんを殺したのは、御武家の仕業では御座いません。それはよく判つて居りますが、旦那の昨夜の事を――﹂ ﹁默れ、平次﹂ 馬場要は無む手ずと膝を掴みました。もう一言言ひ過ぎたら、平次を拔き討ちにやつ付けたかも知れません。 ﹁馬場さん、――御腹立は尤もだが、平次は惡氣があつて言ふのでは無いやうだ。堪能するやうに話してやつたら、どうでせう﹂ 主人又兵衞はこの爭ひを見兼て口を容れました。相手は武士ですが、舅しうとに變りはありません。 ﹁旦那樣、佛樣の甥をひの前で、荒い事は御控へ下さいまし、――ね親分、昨夜の事は私から申上げませう﹂ お米もツイ見兼ねた樣子で夫要を止め乍ら、一方は平次へ妥協的な言葉を掛けるのでした。 ﹁御新造樣、有難う御座います。さう仰しやつて下されば、どんなに私が助かるかわかりません﹂ ﹁昨夜はね、親分、夕方から碁が始まつて、到頭夜明ししてしまひましたよ。月に一度はあることですが――﹂ お米は日頃の鬱憤を少しばかり漏らして居ります。 ﹁お相手は?﹂ ﹁町内の升田屋の隱居と、中屋の若主人、お二人共夜が明けてからお歸りになつたのですから、お聽きになれば解ります﹂ これほど立派な現ア場リ不バ在イ證明はあるでせうか。平次も深々と首をうな垂れて、 ﹁それはどうも――﹂ と言ふより外にありません。 ﹁私にも覺えがありますが、碁に凝こる方には、徹夜もありがちの事ですね――でもその爲に馬場の旦那が潔白と判れば、何が仕合せになるか判りません﹂ 佐吉はさう言ふのでした。これも若い癖に碁が好きで有名な男です。四
河内屋の孫殺しは、それつ切り行詰りました。喜太郎が死んで一番儲かるのは、河内屋の大身代を相續する者で、順序から言へば、又兵衞の姉娘、――馬場要の配つれ偶あひになつて居るお米ですが、これは痩せても枯れても武家の内儀で、既に他家に縁付いた上は、今更夫を捨てゝ河内屋へ歸ることもならず、さうかと言つて、夫の馬場要と一緒に、河内屋へ入込むことは、父親の又兵衞が承知しさうもありません。 馬場要は名題の大酒飮みの上、磊らい落らくで、豪傑で、おまけに煙草入れや、喜太郎の死について、一脈の疑ひを持たれたので、又兵衞がウンと言はないばかりでなく、馬場要自身も、馬場姓を捨てゝ、町人の家を相續する意志などは無い樣子だつたのです。 すると――、相續人はたつた一人、お米の妹で、丁ちや子うじ屋やに養はれて居る、お富でなければなりません。これならばまだ若くもあり、油屋の佐吉と許婚者の間柄と言つても、まだ祝言したわけでは無いのですから、河内屋へ戻れないことは無かつたのです。 河内屋の大身代は、斯うして、お富の方へ轉がりさうになつて來ました。 ﹁親分、河内屋の下手人は擧りませんか﹂ ガラツ八がさう言つて來たのは、事件があつてから十二三日も經つてからの事でした。 ﹁今度ばかりは見當も付かねえ﹂ ﹁驚いたなア、――あつしにはたつた一人心當りがあるんだが﹂ ガラツ八は少しもぢ〳〵して居ります。 ﹁誰が怪しいんだ、言つて見な﹂ ﹁油屋の佐吉ですよ﹂ ﹁フ――ム﹂ ﹁お富はすつかり上のぼ氣せて居るから、河内屋へ歸るにしても、佐吉と一緒でなきや嫌だつて言ふに決つて居ますよ。油屋は派手にはやつて居るが、内輪は火の車だ。河内屋へ乘込むとなれば、あんな世帶は猫の子にやつても惜しくはありませんぜ﹂ ガラツ八の鼻のよさ、――平次は大きくうなづきました。 ﹁それも幾度も考へた、――が、あの時は河内屋の身代はお富より姉のお米の方へ行きさうだつた﹂ ﹁だから馬場要を疑はせるやうに――﹂ ﹁それも理窟だが、佐吉は、あの晩ほんの一寸、隣の宗七の處へ行つた切り外へは出なかつた筈だ﹂ ﹁人を使つて途中まで子供を呼出し、そつと拔出して片附けたつて誰も氣が付きやしませんよ﹂ ﹁それはその通りだ、が、證據が一つも無い。油屋の奉公人は三人居るが、一人も佐吉が人を使つたのを見た者がねえ﹂ ﹁見られるやうには出やしません﹂ ﹁それは理窟だ。その理窟が通るなら、丁子屋の主人茂三郎だつて怪しい。お富が乘出して河内屋を相續すれば、養ひ親の丁子屋もどれだけ甘い汁が吸へるか知れない﹂ ﹁兎に角、白粉の濃い、首筋に傷のある女を搜しませう﹂ ﹁それも多分は拵へ物だらう、白粉などは濃くも薄くも塗れるものだ﹂ ﹁親分、それぢや手も足も出ねえ。岡つ引は止めだ﹂ ガラツ八は酢つぱい顏をしました。 ﹁十手捕繩を返上したら、飛んだ良い智惠が浮ぶかも知れないよ、凝つては思案に能あたはずさ﹂ 平次がそんな捨鉢なことを言ふ位ですから、簡單に見えて、この事件ほど平次を手古摺らしたものはありません。 ﹁親分、もう一度引つ掛りのある家を當つて見ませうか。何の手掛りを拾ひ當てるかも知れませんぜ﹂ ﹁いろは歌が留る多たの通りだ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁犬も歩けば棒にあたる――と言ふ奴さ﹂ 平次はそんなことを言ひ乍らも、先づ丁子屋へ、八五郎と一緒に出かけました。 主人は留守、お富は河内屋に引取られる話が纒まとまつて、妙にそは〳〵して居ります。 ﹁あの晩の事を思ひ出して下さい、――御主人の茂三郎さんは何處へも出やしませんか、お孃さん﹂ 八五郎の遠慮のない問。 ﹁まア――﹂ お富は美しい眼を見張りましたが、思ひ直した樣子で、 ﹁父さんは何處へも出はしません。戌いつ刻ゝは半ん頃までお店に居て、それから休みました。奉公人が五人も居りますから、誰にも知れないやうには外へ出られません﹂ 斯うハキハキと言つて退けるのです。 ﹁へエ、どうも相濟みません。飛んだお邪魔で――﹂ 八五郎は到頭尻尾を卷いてしまひました。 ﹁ところで、お孃さん、明日はいよ〳〵河内屋へ引取られることになつたさうですが、いづれ油屋の佐吉も河内屋へ聟むこ入いりでせうな﹂ 平次は突つ込みます。 ﹁――﹂ お富は顏を反けました。 ﹁お孃さん、――これは聽かして下さい﹂ ﹁私、そんな事知りません﹂ お富は顏を隱すやうにして、奧へ逃込んでしまひました。五
﹁八、手前は表から入れ﹂ 平次は花房町の油屋へ行くと、八五郎を表から入れて、自分はいきなり裏へ廻りました。もう夕方で、店の方はなんとなく忙しさうでもあつたのです。 界隈の老しに舖せで、古めかしく大きな家ですが、油、紅、白粉から、一切の化粧品、香料など賣つた油屋も、時世に遲れ勝ちで、何となくさびれて見えるのは是非もないことでした。 ﹁お、錢形の親分さんぢやありませんか﹂ いきなり聲を掛けられて、平次の方が驚きました。若主人の佐吉は、路地の奧で、變な男と立話をして居たのです。 ﹁お、佐吉さん、ちよいと訊きたい事があるんだが――﹂ ﹁まあ、お通り下さい。店はゴタゴタして居ますが、奧は靜かですよ。――今も、お隣の宗七さんと今晩は碁ごでも打たうか――と話して居たところで﹂ 佐吉に紹介されると、五尺八寸もあらうかと思はれる變な男は、二つ折になるやうに小腰を屈めました。足が少し惡い樣子です。 ﹁それどころぢやありませんが、――佐吉さんは白粉の濃い首筋に古傷のある女に心當りはありませんかえ﹂ ﹁あれですか――無いこともありません。まア、何うぞ﹂ 心當りが無いことも無いと言はれると、平次も此儘では歸られなくなりました。佐吉に誘はれるまゝ、裏木戸を開けて狹い中庭へ――。 ﹁飛んだお邪魔で――﹂ ﹁まア、何うぞ、お茶でも入れませう﹂ 平次は何時になく氣樂に其處から入り込みました。縁側には宗七、少し脱俗した顏で、夕空を眺めて居ります。 ﹁その女は何處の者でせう﹂ ﹁親分、――これは言つて宜いか惡いかわかりませんが、一、二年前、丁子屋にそんな下女が居りましたよ、房州女で﹂ ﹁今でも居るでせうか﹂ ﹁いえ、男癖が惡いので、出してしまひました。それから、河内屋や、馬場さんへも使つて貰ひ度いとか言つて立ち廻つた相ですが、誰も相手にしやしません﹂ ﹁それは宜いことを聞かして貰ひました﹂ ﹁でも、今頃あんな女が立ち廻るのは變ぢやありませんか、親分﹂ ﹁何かわけのある事でせう。――ところで佐吉さん、お富さんは明日河内屋へ引取られるといふ話ぢやありませんか﹂ ﹁そんな話ですね﹂ 佐吉は浮かない顏色です。 ﹁お前さんは?﹂ ﹁お富は何とか言つてくれますが、私は河内屋へ乘込むのはお斷りしようかと思つて居ますよ﹂ ﹁へ――エ﹂ ﹁本當は、この家を日本橋の叔父のところに居る弟に讓つて、私はお富と一緒に丁子屋の夫婦養子になる筈でしたが、お富が河内屋へ戻るとなると、話が違ひます﹂ ﹁成程﹂ ﹁丁子屋と油屋なら、借金の有ると無いとの違ひだけで、家柄も店の格も、そんなに違やしませんが、河内屋では提灯と釣つり鐘がねです。河内屋の大身代を狙つたと言はれちや、私の氣持が濟まないばかりでなく、行く〳〵人樣に何とか言はれさうでなりません。――今日改めて河内屋の御主人に斷つて來たばかりのところで御座います﹂ 佐吉の萎しを氣げて居るのはそれだつたのです。 ﹁それは又氣が短い﹂ ﹁お富は可哀想ですが、河内屋の身上には未練はありません。私はこの油屋の主人で結構で――﹂ 小柄でキリヽとして、好い男の佐吉は、斯う言つて淋しく笑ふのでした。 ﹁あきらめが早過ぎはしないかな、佐吉さん﹂ 平次もさう言ふのが精一杯の慰めです。 ﹁私には碁といふ樂みがありますよ。宗七さんと、今晩は碁でも打つて忘れませう﹂ 宗七は素人初段、佐吉もそれに二三目といふ、相當強いところだつたのです。 平次は慰めの言葉を遺して店へ廻つて見ると、ガラツ八の八五郎は、雇人達二三人を相手に、面白さうに話して居るところでした。 ﹁さア、歸るぜ、八﹂ ﹁親分、待つておくんなさい、――花見のお茶番の趣しゆ向かうが出來たんだ﹂ ﹁つまらねえ道樂だ﹂ 平次は興に乘る八五郎を促して、それから湯島へ、――馬場要とお米の樣子を見ようとしたのです。 ﹁猩々齋と來た日にや苦手だぜ、親分﹂ ﹁あんなのは大概善人さ﹂ ﹁河内屋から毎月仕送らせて、朝から晩まで呑んで居るやうぢや、善人らしくありませんぜ、親分﹂ ﹁それに、あの内儀は確り者だ﹂ ﹁甥位は殺し兼ねない女だ﹂ 二人はそんな事を言ひ乍ら、馬場要の浪宅の生垣の外に立つて居りました。 ﹁八、先刻のやうに、表から行つて見な、俺は裏の方から入つて見る﹂ ﹁氣が進まないね、親分――洒しや落れの解らねえ人間が揃つて居るから、――何をやり出すか﹂ さう言ひ乍らも八五郎は、素直に表から案内を乞ひました。 が、その聲も終らぬうち、 ﹁無禮者ツ﹂ 横合から白刄が飛んで來たのです。 ﹁あツ﹂ 驚いたガラツ八、四つん這ひになつて門の外へ飛出すと、後ろから馬場要。 ﹁――生垣の中で皆な聽いたぞ、――甥位は殺し兼ねないとは何事だ、――甥は殺さぬが岡つ引なら殺して見せる、それへ直れツ﹂ ﹁あツ、御勘辨﹂ ガラツ八、この時ほど驚いたことはありません。這はふ々〳〵の體で一丁ばかり逃げ延びると、夕ゆふ靄もやの中には親分の平次、ニヤリニヤリと笑つて迎へるのです。 ﹁八、面白かつたな﹂ ﹁あ、親分、あれを見たんですか﹂ ﹁見たわけぢや無いが、生垣の中で、馬場要は植木の手入れをして居る樣子だつたから、いづれ唯では濟むまいと思つたよ﹂ ﹁知つて居て、あんな目に逢はせるのは殺せつ生しやうだぜ、親分﹂ ﹁まさか斬りもしないだらうと思つたが――考へて見ると危なかつたよ。河内屋の跡取はお富と決つて、明日は乘込むさうだから、姉のお米が貧びん乏ばふ籤くじを引いて、一生飮代にも困るとなると、馬場要の猩々齋だつて面白くないだらう﹂ ﹁それまで解つて居たんで、親分﹂ ﹁あの騷ぎのお蔭で、俺は裏口の方をよく見て來たよ。さア歸らう、これで段々目鼻が付く。白粉の濃い、首に傷のある女さへ見付かれば――﹂ 平次はさう言ひ乍ら、家路を辿るのでした。六
平次は併し、恐ろしい勘違ひをしました。その晩、惡魔は最後的な大飛躍を遂げて、世にも慘ざん虐ぎやくなことをして退けたのです。 ﹁親分﹂ 朝の光と一緒に飛込んだガラツ八。 ﹁何だ八﹂ 唯事ならぬ樣子に、平次も飛起きました。 ﹁た、大變だツ、――丁ちや子うじ屋やのお富が――﹂ ﹁しまつたツ、――殺されたか﹂ 平次ももう事の成行を讀んだ樣子です。 ﹁あつしの家は丁子屋の近所だ。小僧が來て叩き起すから、行つて見ると、お富は自分の部屋で、刺されて死んで居るぢやありませんか。血の海の中に、眞白に浮いたお富の顏の、凄いと言はうか、美しいと言はうか﹂ ガラツ八は息せき切りながら、憑つかれた人のやうに言ひ續けます。拔群な美しさに惠まれた娘の死顏に、さすが事になれた八五郎も攪亂させられたのです。 平次は顏もろくに洗はずに、佐久間町の丁子屋まで飛びました。 ﹁裏へ廻らう、八﹂ いきなりお富の部屋へ、一歩踏み込むと、血潮の中に崩折れた、白しろ牡ぼた丹んの花のやうな、世にも痛々しいお富の死體を取卷いて、主人の茂三郎始め、一同たゞウロウロするばかりです。 ﹁雨戸に手を掛けなかつたでせうな﹂ ﹁へエ――﹂ コヂ開けた樣子の無いところを見ると、多分、お富が自分で開けたのでせう。 ﹁話聲や、物音は聞えなかつたでせうか﹂ ﹁誰も何も聽きません。今朝小僧が起きて雨戸を開けようとして、驚いたやうなわけで﹂ 主人の茂三郎です。 そつと死體を起して見ると、左乳の下に刀で突いたのが致命傷で、如何にも美事な手際ですから、お富は聲も立てずに死んだことでせう。手掛りは何にもありません。 ﹁八、――此處には何にも搜すことは無い。手てめ前えは湯島へ行つて、昨夜、馬場要と内儀のお米が、何處に居て何をしたか、出來るだけ詳しく聞出してくれ﹂ ﹁又引つこ拔かれますよ、親分﹂ ﹁氣の弱いことを言ふな、文句を言つたら、お富さん殺しの下手人の疑うたがひが掛つて居る、と脅かせ﹂ ﹁へエ――﹂ ガラツ八は飛んで行きました。 ﹁親分さん、――今日河内屋へ引取られるといふ時、これは又何とした事でせう、お富が可哀想でなりません。どうぞ敵を討つて下さい﹂ 茂三郎は打ちひしがれたやうになり乍らも、平次に頼み切つた樣子で斯う言ふのでした。 ﹁首に傷のある、厚化粧の下女が居たさうですが、今は何うしました﹂ 平次は飛んでもない事を訊ねます。 ﹁一年前に房州へ歸つて、嫁に行つたさうですよ、お崎といふ娘でしたが――﹂ ﹁それからもう一つ、油屋の佐吉を矢張りお富さんと一緒にする積りだつたでせうな﹂ ﹁私も、河内屋の旦那もあまり氣は進みませんが、お富がさうでもしなかつたら、承知しなかつたでせう。何と申しても若い者の事で――、尤も、二三日前佐吉が河内屋へ行つて、提灯に釣鐘だからと言つて、一應斷つたさうですが――﹂ ﹁それだけ聽けば何んとかなりませう、どれ﹂ 平次は其儘油屋へ取つて返したのです。 が、此處では平次も全く豫想外なことに出つ逢くはしました。 油屋の佐吉は曉方まで碁を打つて、明るくなつてから宗七を歸してやると、それから床の中へ入つて、今寢入花だといふのです。 ﹁驚いた商人だな、――碁がこんなに流行つちや、よし惡しだ。ところで、本當に夜つぴて碁を打つて居たらうな﹂ 平次はなに氣なく店の者に訊きました。 ﹁宵から曉方まで三番打つたさうですよ。引つ切りなしに石の音がして、それに吐はひ月ふ峯きを叩く合の手が入るんで、寢付かれなくて弱りました、――これは内證ですがネ、親分﹂ 番頭と手代は、顏見合せて笑つて居ります。お勝手に廻つて、飯炊きの女に訊くと、 ﹁よくもあんなに碁が好きな人ですね。月に一度か二度は夜つぴてやりますが、一と晩現うつ責ゝぜめですよ。カチカチと石の音がするんですもの﹂ ﹁飮みも食ひもしないのかえ﹂ ﹁お茶と、菓子位は置きますが、あまり手を付けません﹂ ﹁碁で腹が一杯になるんだね、道樂は恐ろしいよ﹂ 平次はさう言ひ乍ら、そつと歸るより外に仕樣がありませんでした。素人初段の宗七と、一と晩寢ずに碁を打つて居たとすれば、これは疑ふ方が餘つ程無理です。 序ついでに隣の宗七を覗くと、これは徹夜で昂奮したものか、座布團の上へ腹ん這ひになつて、朝の空氣を深く吸ひ乍ら、お茶を呑んで居りました。 ﹁おや、錢形の親分さん﹂ ﹁お早う、昨夜は夜つぴて打つたさうだね、佐吉は一度も席を外さなかつたかい﹂ ﹁一と晩睨めつこでしたよ。ろくに便所へも立ちません、何しろ面白い勝負で﹂ ﹁何方が勝つたんだえ﹂ ﹁最初の一番は私、次は佐吉さん、お仕舞の一番は私﹂ ﹁本當に外へは出ないだらうね﹂ ﹁休みなしにパチパチやつて、奉公人達は寢付かれない樣子でしたよ﹂ さう言はれると何の疑ひも殘りません。 ﹁何目位の勝でした﹂ ﹁最初は二目の勝、二番目は中押で負、三局目は七目の勝でした﹂ ﹁どうも有難う﹂ 平次はもう一度油屋へ引返すと、丁度、ガラツ八が湯島から歸つて、平次の後を追つて此處へ來たところでした。 ﹁親分﹂ ﹁どうだ、八﹂ ﹁居ませんよ、二人共﹂ ﹁何處へ行つたんだ﹂ ﹁坊つちやんの二七日の逮たい夜やだし、今日はお富さんが引揚げて來ると言ふんで、手傳ひ旁々、河内屋へ行つて、泊り込んださうですよ、多分飮みつぶれたことでせう﹂ ﹁行つて見よう﹂ 平次の頭は馬場要夫婦で一パイでした。喜太郎を殺し、お富を殺せば、河内屋の大身代は、厭も應もなくお米とお米の夫の馬場要に轉げ込みます。 ﹁佐吉は?﹂ ﹁寢て居るから、そつとして置け。お富が殺されたと聽かせる役目は、さすがの俺でもいやだ﹂七
河内屋へ行つて見ると、馬場要は豫想の如く虎になつて居りました。
﹁平次か、其方の子分の馬見たいな男は怪しからんぞ、――何、勘辨を願ひ度い。謝るなら謝る道がある、此處へ來て一パイ附き合へ﹂
これでは手の付けやうがありません。主人の又兵衞も、お米も、佐久間町の丁子屋の急變を聽いて飛んで行つた跡に、馬場要は一人泰然として杯を擧げて居るのでした。
﹁親分、これは何うした事でせう﹂
とガラツ八。
﹁八、何も彼も考へ直しだ。――が、俺は大變な事を忘れて居たよ、もう一度油屋へ引返さう﹂
﹁何べんでも引返しますがね﹂
﹁手前は宗七を押へて、此方へ連れて來い、突き合せる人間があるから﹂
﹁そんな事ならわけはねえ、碁は強からうが、腕つ節は弱さうだ﹂
さう言ふガラツ八と別れて平次は油屋へ。
﹁親分さん、まだ此處に居なすつたんで﹂
と店の者は少し變な顏をして居ります。
﹁花見のお茶番の趣向を訊かうと思つてね、支度はもう出來たのかい﹂
﹁皆な揃ひましたよ、花が咲きさへすれば、繰り出せる都合で――﹂
手代はさすがに嬉しさうでした。
﹁そいつは豪儀だ、衣いし裝やうも鬘かつらも﹂
﹁小道具一切、此處にありますよ﹂
﹁女をや形まは矢張り花見鬘か何か――﹂
﹁歌舞伎役者の使ふ前髮鬘が手に入りました﹂
﹁へエ――、大したことだな、此處にあるのかい﹂
﹁ありますよ、親分﹂
番頭達は夢中でした。が、花見の話はこれ丈で、其處へ顏を出した佐吉に妨さまたげられたのです。
﹁お早う御座います、親分さん﹂
﹁昨夜は夜つぴて碁だつたさうだね﹂
﹁へエ――惡い道樂で、面目次第も御座いません﹂
﹁勝ちなすつたかえ﹂
﹁二三で、初めは負、二局目は勝、三局目は負けました。三目でなきや矢張り無理ですね﹂
﹁何目位の勝負で﹂
﹁初めは二目の負、二局目は五目の勝、三局目は七目の負けで――﹂
﹁間違ひあるまいネ﹂
﹁えツ﹂
それは恐ろしい瞬間でした。平次の冷たい一瞥べつを喰ふと、暫く佐吉の身體は硬直したやうでしたが、次の瞬間には身を飜ひるがへして奧へ――。
﹁待て、御用だぞ﹂
バラバラと追ひすがる平次、それへ火入れを叩き付けて、佐吉の小さいが――輕捷な身體は裏口から外へ飛出します。
が、其處へ丁度、ガラツ八が、宗七を伴れてのそりとやつて來たのです。
﹁野郎ツ﹂
﹁八、其奴が下手人だ、逃すな﹂
平次は眼の灰を一生懸命擦こすつて居ります。
× × ×
下手人は油屋の佐吉、前まへ髮がみ鬘かつら、血塗の脇差や、證據は後から〳〵と擧つて來ました。
﹁親分、あつしには判らない事だらけだ。繪解をしておくんなさい﹂
ガラツ八は一件落着を待ち兼ねてせがみます。
﹁何でも無い事さ。最初お前が言つた通り佐吉を縛れば、お富を殺さずに濟んだよ。今度は、平次一代の縮しゆ尻くじりだ――が、ね八、いくら下手人と睨んでも證據の無い者を縛るわけに行かねえ﹂
﹁――﹂
﹁佐吉はお富と好い仲になると、急に河内屋の身代が欲しくなつたのさ。丁ちや子うじ屋やに元居た下女から思ひ付いて、白粉を濃く塗つて、前髮鬘を附けて、首筋へ古ふる傷きずを描いた。あの古傷が術てだ。見る人はツイその傷にばかり目を取られるから、鬘や身體の樣子の男らしい事には氣が付かない﹂
﹁成程﹂
﹁樂屋は宗七の家さ。――女に化けて、明神樣へ行つて喜太郎を誘ひ出し、四あた方りの暗くなつたのを幸ひ、背中合せにおんぶするやうな振りをして殺してしまつた﹂
﹁金きん唐から革かはの煙草入れは碁會所で手に入れて、馬場要へ罪を被かぶせる細工さ。あの晩河内屋へ忍び込んだが、何かの都合で喜太郎を殺し兼ね、證據に持込んだ煙草入れだけ、うつかり置いて來てしまつたのだらう﹂
﹁――﹂
﹁喜大郎が殺されて、河内屋の跡取はお富へ廻つて來た。これは佐吉が見通した通りだ。馬場要へ少しでも疑ひが掛ればさうなるに決つて居るんだ、――幸ひ馬場要は、その晩二人も客を呼んで、碁を打つて居たんで助かつた﹂
﹁フ――ム﹂
﹁佐吉はお富と一緒に河内屋へ乘込む積りで居たが、うつかり、自分の惡事を手柄顏にお富にほのめかしたのだらう。お富に大身代を繼がせる積りでした事だが、若い娘はそんな事を聽いたら、百年の戀もさめるに決つて居る。佐吉は惡賢い人間だが、惡黨の心持で、生れ乍らの善人の心持を測はかり損ねたのさ、――俺がお富に逢つて訊いた時、お富は何となく怯おびえて居たのだが、その爲だらう。あんなに世間の噂に上るほど好い仲になつて居たんだから極りを惡がつて逃げる筈は無い﹂
﹁へエ――﹂
﹁お富は佐吉が怖くなつて、大急ぎで河内屋へ歸らうとした。佐吉はその心持を見拔いて、河内屋の主人に聟入を斷つて、潔白なふりをしたが追つ付かない。到頭、明日はお富が自分を捨てゝ河内屋へ歸ると言ふ前の晩、殺す心持になつたのだ﹂
﹁碁を打つて居たのは?﹂
﹁それが佐吉の惡賢いところさ。馬場要が碁を打つて夜明しして居たばかりに、恐ろしい喜太郎殺しの疑ひから免まぬかれて、危い命を助かつた。――佐吉はそれを思ひ合せて、宗七を呼んで金で口留めして、一人碁を打たせ、自分だけそつと拔け出して、お富を殺して來たのだよ﹂
﹁へエ――﹂
ガラツ八の驚きは大仰でした。
﹁雇人共は宗七一人が打つて居る碁とは思はなかつたが、三局の勝負の、負け勝ちの打合せはしたが、何目の勝負かと言ふ細かい事までは口を合せなかつた。二局目を宗七は中ちう押おしと言ひ、佐吉は五目と言つたのは、その實一人碁で、その時佐吉は外へ忍び出てお富を殺したのさ﹂
﹁へエ――驚いた野郎だね、親分﹂
﹁金唐革の煙草入から一人碁――まで、恐ろしい事を考出す野郎さ。あれが本當の惡黨だ﹂
平次はつく〴〵さう言ひました。