一
﹁親分、あれを聞きなすつたかい﹂ ﹁あれ? 上野の時の鐘かねなら毎日聞いて居るが――﹂ 錢形平次は指を折りました。丁度辰いつ刻ゝを打つたばかり、お早う――とも言はず飛込んだ、乾分のガラツ八の顏は、それにしては少しあわてゝ居ります。 ﹁そんなものぢやねえ、兩國の小屋――近頃評判の地獄極樂の活いき人にん形ぎやうの看板になつて居る普ふげ賢んぼ菩さつ薩さ樣まが、時々泣いて居るつて話ぢやありませんか﹂ 一流の早耳、八五郎は又何か面白さうな話を聞込んで來た樣子です。 ﹁地獄極樂の人形は凡ぼん作さくだが、招きの普賢菩薩が大した名作だつてね﹂ ﹁作人は本所緑町の佛師又六、大した腕のある男ぢやねえが、あの普賢菩薩だけは、後光が射すやうな出來だ。その上木戸番のお倉てえのが滅めつ法ぽふいゝ女で、小屋は割れつ返るやうな入いりですぜ﹂ ﹁お倉と普賢菩薩を拜んで、極樂も地獄も素通りだらう。そんな野郎は浮ばれねえとよ﹂ ﹁全くその通りさ、親分、――その普賢菩薩が、時々涙を流して居るから不思議ぢやありませんか、岡つ引冥めう利り、一遍は見て置かなくちや――﹂ ﹁手てめ前えはもう五六遍見て居るんだらう。懷の十手なんか突つ張らかして、ロハで小屋を荒して歩いちや風が惡いよ﹂ ﹁冗談でせう、親分﹂ ガラツ八をからかひ乍らも、錢形の平次は支度に取かゝりました。兩國の活人形が泣いて居ると言ふのは、どうせ勸くわ進んじ元んもとのサクラに言はせる細工で、ネタを洗へば人形の眼玉へ水でも塗るんだらう――位に思つたのですが、それにしても、少し細工が過ぎて、なんとなく見遁し難いやうな氣がしたのです。 ﹁出かけようか、八﹂ ﹁へエ――、本當に行つて見る氣ですか、親分﹂ ﹁岡つ引冥利、お倉と普ふげ賢んぼ菩さ薩つは拜んで置けと――たつた今手前が言つたぢやないか﹂ ﹁お倉だけは餘計ですよ、――ところで親分、行つて見るのはいゝが、朝でなくちや泣いて居ませんよ﹂ ﹁寢ねお起きの機嫌の惡いお倉だ﹂ ﹁お倉ぢやねえ、泣くのは佛樣で﹂ ﹁あ、さう〳〵﹂ 平次はまだからかひ面ですが、氣の合つた親分乾分は、斯う言つた調子で話し乍ら、お互の微妙な心持を、殘すところなく傳へる術すべを知つて居るのでした。 ﹁明日の朝にしちや何うでせう、親分﹂ ガラツ八。 ﹁早い方がいゝぜ、明日行つて見たら普賢菩薩が笑つて居たなんてえのは困るだらう。さうなると、岡つ引より武者修行を差向けた方がいゝ﹂ ﹁口が惡いな親分、尤も此處から向う兩國までは一と走りだから、涙の乾く前に着くかも解らない﹂ 二人は無駄を言ひ乍ら、朝の街を飛ぶやうに、兩國橋を渡つて、地獄極樂の見世物の前に立つた時は、もう氣の早い客が、五六人寄せかけて居りました。 ﹁いらつしやい、御當所名題の地獄極樂活人形、作人の儀は、江戸の名人雲うん龍りう齋さい又六、――八熱八寒地獄、十六別所、小地獄、併せて百三十六地獄から、西方極樂淨土まで一と目に拜まれる。一流活人形は此方で御座い﹂ 木戸番はお倉といふ新造、鹽しほ辛から聲ごゑの大年増と違つて、こいつは水の垂れるやうな美しさを發散し乍ら、素晴しい桃色の次ア高ル音トでお客を呼ぶのでした。 襟の掛つた少し地味な銘仙、繻しゆ子すの帶、三十近い身柄ですが、美しさや聲の韻にほひから﹇#﹁韻にほひから﹂はママ﹈言ふと、精々十九か二十歳でせう。白粉ツ氣無しの疣いぼ尻じり卷まき、投げやりな樣子も、一種の魅力で、兩國中の客を此處へ吸ひ寄せたのは、何としても普賢菩薩のせゐばかりではないやうです。 ﹁八、大層な木戸番だな﹂ と錢形の平次も少し感に堪へます。 ﹁ね、親分﹂ 八五郎のガラツ八は、呑込顏に顎をしやくると、平次の後から狹い木戸を通りました。二
﹁成程、これは凡作だ﹂ 平次も驚きました。地獄極樂の活人形は話に聞いた通りの凡作で、凄味も有難味もありません。 ﹁閻えん魔ま大王がくしやみをしさうですぜ﹂ ガラツ八は袖を引きます。 ﹁馬鹿野郎、そんな罰ばちの當つたことを言つちやならねえ﹂ ﹁菩ぼさ薩つが方たの張り店と來た日にや親分――﹂ ﹁默らないかよ、八﹂ 二人は漸く評判の普賢菩薩の前にたどり着いて居りました。 ﹁これは大したものだ、まるで作が違ふ﹂ 白はく象ざうに乘つた、等身大の菩薩像は、見世物小屋の表の方、囃はや方しかたの陣取つた中二階の下あたりに据ゑてあります。 少し彩色は濃厚過ぎますが、實に非凡の出來榮え、右手に金剛杖を持ち、左手に金鈴を執つた慈悲の御姿、美妙と言はうか、端麗と言はうか、あまりの見事さに平次も暫らくは言葉もありません。 ﹁親分、あの佛樣の眼を見てやつて下さいよ、少し濡れて居るでせう﹂ とガラツ八。 ﹁眼ばかりぢやねえ、寶冠の瓔やう珞らくから、襟も肩もぐつしよりだ。頭の上から涙を流すのは、佛樣にしても可をか怪しくはないか、八﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁冠かんむりも頬も襟も汚れて居るのは、勸くわ進んじ元んもとの細工にしちや念入り過ぎるぜ、それに、夜が明けてからもう二た刻も經つて居るのに、涙の乾かねえのも不思議ぢやないか﹂ 平次は稼業柄で、妙なところへ氣が付きます。 ﹁――﹂ ﹁八、手前涙の味を知つてるかい﹂ ﹁近頃はトンと泣かねえが、子供の時お袋に叱られて泣いて居ると、口へ涙が流れ込んだことがありますよ。汗あせみたいな鹽つ辛い味だと思つたが――﹂ ガラツ八もかう言ふより外はありませんでした。普賢菩薩の涙を見上げて居る平次の態度が、洒しや落れや冗談とは全く縁のない生眞面目なものだつたのです。 ﹁手前も佛樣の涙を舐なめた事はあるめえ、ちよいとやつて見な﹂ ﹁あつしが?﹂ ﹁人間の涙は鹽つ辛いが、勸進元の細工なら味があるわけはねえ、本當に佛像の涙なら甘かん露ろの味がするかも解らないぢやないか﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁幸ひ朝のうちで小屋の中はガラ開きだ。今のうちにちよいと舐めて見な﹂ ﹁親分、それや本當ですかい﹂ ガラツ八も驚きました。日頃言ひ付けに反いたことのない親分の言葉ですから、大概の事なら聞くつもりですが佛樣と言つても、見世物小屋の活人形の眼に溜つた、得體の知れない水を舐めて見ろと言はれたのには驚いたのです。 ﹁嫌かい﹂ ﹁嫌ぢやありませんが――ね﹂ ﹁岡場所のドラ猫見たいな妓をんなの頬ぺたを舐めるんぢやねえ、これでも佛樣だ。誰が笑ふものか、安心してやつて見な﹂ ﹁安心して居ますよ、――驚いたな、どうも﹂ ﹁嫌なら止すがいゝ、俺がやる﹂ 錢形平次ともあらう者が、本當に中二階へ登りさうな樣子になるのです。 ﹁じよ、冗談ぢやねえ、錢形の親分がそんな事をした日にや、江戸中の物笑ひだ。あつしがやりますよ、やりますとも﹂ 親分思ひの八五郎は、斯うなるともう惡びれませんでした。普ふげ賢んぼ菩さ薩つの涙を舐めて見ろと言ふ平次の言葉には、何か重大な底のあることは、もう疑ふ餘地もなかつたのです。 八五郎は默つて梯はし子ごを登ると囃はや子しか方たの中二階へバアと顏を出しました。 ﹁お前さん、其處へ登つちや困るぢやないか﹂ 後ろから引下ろしさうになる男は、八五郎が懷からちよいと、十手を覗かせるとそのまゝ默つて引込んで了ひました。 疎まばらになつて居る客は、元より八五郎の飛んでもない冒險の意味などを知る筈もなく、木戸番のお倉は、委細構はず、素晴しい次ア高ル音トを響かせて、兩國中の客を、鐵片を吸ふ磁じし石やくのやうに、此處へ集めて居ります。 中二階に登つて及び腰になると、丁度佛像の身體に手が屆きます。 ﹁――﹂ 佛像の涙を藥指に付けて、ほんの少しばかり舐なめた八五郎の顏を、平次は世にも面白さうに見上げました。 ﹁どうだ、八、鹽つ辛いだらう﹂ 降りて來たガラツ八を迎へるやうに、平次はかう言ふのでした。 ﹁どうしてそれが?﹂ ﹁白く鹽が溜つて居るぢやないか、あれが鹽つ辛くなきア、何うかして居るよ﹂三
それから三日目。 ﹁親分、大變ツ﹂ それとはなしに、東西兩國を見張らせて居たガラツ八が、鐵砲玉のやうに平次のところへ飛込んで來ました。 ﹁何うした、八、普賢菩薩が笑ひ出したか﹂ ﹁そんな事なら驚かねえが、今度は殺しだ﹂ ﹁何?﹂ 平次はピンと彈はじき上げられたやうに坐り直しました。 ﹁兩國には相違ねえが、あの小屋からずつと離れた龜澤町の路地に若い男が、殺されて居るが、困つたことには見知り人てがねえ﹂ ﹁行つて見よう、死骸はまだ其儘だらうな﹂ ﹁檢けん屍しが濟むまでは、指も差させねえやうに、町役人に頼んで來ましたよ﹂ ﹁そいつはいゝ鹽梅だ﹂ 平次とガラツ八は其儘兩國へ――。 人混みを掻き分けて入ると、龜澤町のとある路地に、紅い鹿かの子こ絞しぼりの扱しご帶きで首を絞められた若い男が虚こく空うを掴んで死んで居るのでした。 唐たう棧ざんの素袷、足袋跣はだ足しのまゝ、雪駄を片つぽだけ其處に放り出して、少し天眼に齒を喰ひしばつた死顏の不氣味さ、男が好いだけに凄味がきいて、赤い扱帶に、蒼い顏の反映も、なんとなくゾツとさせるものがあります。 ﹁おや、錢形の﹂ ﹁三みの輪わの親分でしたか﹂ 嫌な者に逢つたとは思ひましたが、平次はさすがに、繩張にこだはる男ではありません。 ﹁此邊は石原の親分の繩張だが、錢形のは利助兄あに哥いに頼まれて居なさるてえぢやないか﹂ ﹁飛んでもない﹂ 平次は少し尻込みしました。やくざや遊び人と違つて、岡つ引御用聞に繩張などがあるわけはなかつたのです。 ﹁それぢや俺が出しや張つても、文句はあるまいね﹂ ﹁それはもう、三輪の親分、お互にお上の御用を承はる身體だから、一刻も早く犯人を擧げさへすれやいゝわけで﹂ ﹁下ほ手し人はもう擧つたよ﹂ ﹁?﹂ 三輪の萬七のニヤリとする顏を見ると、ガラツ八はそつぽを向いてぺツと唾つばを吐きました。 ﹁この上、錢形のが來たところで、氣の毒だが仕事はあるめえよ﹂ 萬七は言ひたい放題の事を言ふと、背を向けて人混みの中へ顎あごをしやくりました。 ﹁親分、參めえりませうか﹂ 乾分の者が二人、物々しくも繩を打つて引いて來たのは地獄極樂人形の小屋に居る美しい木戸番、あの兩國中へ桃色の次ア高ル音トを撒まき散らして居る、お倉だつたのです。 ﹁錢形の親分さん、お助け――﹂ お倉は摺れ違ひ樣、平次の耳に囁きました。細ほつそりした身體が、後ろ手に縛られると一倍萎しをれて、消えも入りさうなのが、何とも言へない痛々しさです。 ﹁――﹂ 平次は默つてそれを見送りました。が、三輪の萬七とお倉の姿が見えなくなると、 ﹁八、手を貸せ、少し調べて見よう﹂ 死骸の傍に立ち寄ると、物馴れた樣子でそれを抱き起しました。 ﹁親分、大變な怪我ぢやありませんか﹂ とガラツ八。 ﹁それだよ、見ろ、八、身體中傷だらけぢやないか﹂ 死骸の帶を緩めて、雙もろ肌はだ脱がせると、背から尻へかけて、一面の青あを痣あざ、それに相應して着物の破れなどのあるのを確かめると、 ﹁袋叩きにされたんだね、女一人の仕事にしちや、少し念が入り過ぎたよ﹂ 平次はそんな事を言ひながら、髷まげ節ぶしの中から、足の下まで、恐ろしく丁寧に調べて居ります。 ﹁雪駄の片つ方がありや、下手人の見當は直ぐ付きますね、親分﹂ とガラツ八。 ﹁馬鹿だね、其雪駄の片つ方はお倉の家にあつたのさ、扱しご帶きがお倉のだといふ丈ぢや、三輪の萬七ともあらう者が、女を縛るわけはねえ﹂ ﹁成程ね、お倉の家――てえのは、いづれ此邊でせうね﹂ ﹁細工の器用なところを見ると、直ぐ其處つてことはあるまいが、いづれ十軒とは離れちや居まい、訊いて見な﹂ 平次が言ふ迄もありません。好奇心でハチ切れさうになつてゐるお立會の衆は、路地を入つて三軒目がそれで、母親と二人で住んで居るお倉が、あれほどの縹緻を持ち乍ら、茶屋女にも町藝妓にもならず、進んで兩國の見世物小屋へ、此處から通つて居るのだと教へてくれました。 ﹁身みな扮りから、身體の樣子、鑿のみ胝ぞこの具合を見ると、居職の――それも多分彫ほり物もの師しと言ふところだらう――見知人がある筈だ、其邊で當つて見な﹂ ﹁へエ――﹂ 八五郎は一とわたりお立會の衆を眺めましたが、馴れた眼で見當を付けると、何となく落着き兼ねた中老人を捕へて、 ﹁お前さんは知つて居なさるだらう、關かゝり合ひなんかにはしない、殺された男の身許だけでも教へてくれ﹂ 單刀直入に訊いて見ました。 ﹁本當に關り合ひになりませんか﹂ ﹁それはもう﹂ 此頃の人が、どんなに事件に關り合ひになるのを恐れたか、今の人には想像も付かない心理があつたのです。 ﹁佛ぶつ師しの勘兵衞さんですよ﹂ ﹁エツ﹂ ﹁二代目一刀齋勘兵衞、――若いが名人と言はれた人です﹂ ﹁それや大變だ﹂ 錢形の平次が乘り出した時は、中老人は早くも人混みの中に姿を隱してしまつたのでした。四
平次はすつかり緊きん張ちやうして、檢屍の役人が來る迄の、たつた四半刻ばかりを、恐ろしく能率的に使ひました。 ﹁親分、あのお倉と言ふのは、勘兵衞の元の女房だつたさうですよ﹂ 早耳のガラツ八は、一寸姿を隱した間に、これだけの事を聞き込んで來ました。 ﹁何處でそんな事を聞き出したんだ﹂ ﹁地獄極樂の活人形を彫つた作人雲うん龍りう齋さい又六の弟子は皆な知つてまさア﹂ ﹁それを承知で、又六はあの小屋に使つて居たのか、――勘兵衞と又六は商賣敵で、恐ろしく仲が惡かつた筈だが﹂ ﹁又六はそんな事を知つて居たか知らなかつたか、兎に角弟子達がよく知つて居て、師匠の又六が小屋へ出るたんびに、お倉へ優しい聲をかけるのを、蔭で笑つて居ましたよ﹂ ﹁さうか﹂ ﹁さう解れば、勘兵衞を殺したのは、矢張りお倉ぢやありませんか﹂ とガラツ八。 ﹁勘兵衞がお倉を殺すなら解つて居るが、お倉が勘兵衞を殺すのは何ういふ譯だ﹂ ﹁世間ぢや、お倉が勘兵衞を捨てて飛出したつて言ふが、その實、勘兵衞がお倉を追出したのかも解りませんぜ﹂ ﹁そんな事は何うでもいゝが、――女が一人で若い男を袋ふく叩ろたゝきに出來るかい﹂ ﹁袋叩きにしたのは他の者で、ヒヨロヒヨロになつて此處へ來たところをお倉が殺したとしたら?﹂ ﹁そんな事があるものか、雪せつ駄たが片つぽお倉の家にあると言ふのに、勘兵衞の足袋は兩方とも底が綺麗だぜ﹂ ﹁あツ﹂ ﹁そんな事を言つて居ると、三輪の親分に笑はれるばかりだ――﹂ ﹁それぢや親分﹂ ﹁勘兵衞を殺したのは大の男さ、――それより、地獄極樂の小屋へ行つて、見付けたいものがある、――丁度お役人が見えたやうだ、此處はお任せして引揚げようか﹂ ﹁――﹂ 平次の明察の底の深さを知つて居るガラツ八は、其儘默つて後ろに從ひました。其處から五六丁、小屋は尾をの上へち町やうの角、川沿の空地に區劃を施ほどこした、半永久的の粗末な建物だつたのです。 二人が小屋へ入つた時は、まだ木戸を明けたばかり、お倉に比べると一向魅みり力よくのない大年増が、型の如く鹽しほ辛から聲ごえを振り絞つて居りますが、何うした事か、更に客の入る樣子はありません。 ﹁御免よ﹂ ﹁へエ、いらつしやい﹂ ﹁客ぢやねえ﹂ ﹁おや、錢形の親分さん、御見それ申しました、どうぞ此方へ﹂ ﹁又六師匠は此方へ來なさるかえ﹂ ﹁毎日參めえりますが、大概夕方で﹂ ﹁收あが入りの勘定だらうね、まア繁昌で結構だ﹂ ﹁へエ――、何ういたしまして﹂ 又六の弟子で、小屋の取締りを兼ねて居る、中年者の巳みの之き吉ちはヒヨコヒヨコと卑ひく屈つらしく小腰を屈めました。 ﹁お倉が縛られたつてね﹂ 平次はその顏を眞つ直ぐに見詰め乍ら、ズバリと言つて退けました。 ﹁へエ、元の亭主を殺したんださうで﹂ ﹁大層早耳ぢやないか、俺も今それを聞込んだばかりなんだが﹂ ﹁――﹂ ﹁まア、いゝや、ちよいと小屋の中を見せて貰はうか﹂ ﹁へエ――﹂ ズイと入ると、中は空つぽも同然、地獄の活人形に朝の陽が射し込んで、何となく不氣味なうちにも、拙せつ劣れつな﹇#﹁拙せつ劣れつな﹂は底本では﹁抽せつ劣れつ﹂﹈細工が釀し出す、滑稽な趣おもむきがあります。 平次はそんなものには眼もくれず、眞つ直ぐに普ふげ賢んぼ菩さ薩つに近づきました。傍へ寄つて觸つて見ると、白象は蝋らふ細ざい工くに綿を着せたもので、恰好は出來て居りますが、上に乘つた普賢菩薩の、優れた尊像とは似ても付かぬ誤ご魔ま化かし物です。 ﹁ガラツ八、其踏ふみ臺だいを持つて來てくれ﹂ ﹁へエ――﹂ 象の下に踏臺を据ゑさせると、平次は其上に乘つた菩薩を少し上げ、臺座の下から覗きました。 ﹁この銘めいは一度書いたのを削けづつて又書き入れたやうだね﹂ ﹁一向存じません﹂ 巳之吉は酢つぱい顏をして居ります。 ﹁八、其邊に手てを桶けがあるだらう、搜して見な﹂ ガラツ八を中二階へやつて、平次は下から聲を掛けました。 ﹁搜す迄もありませんや、此處にありますぜ﹂ とガラツ八。 ﹁その中に水が入つて居るだらう、ちよいと舐なめて見てくれ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁ほんの少し鹽つ辛いだらうと思ふが﹂ 平次は妙な事を言ひ出しました。 ﹁あツ、これは矢つ張り佛樣の涙ですかい﹂ ﹁さうだよ﹂ ﹁恐ろしく涙を出したんだね﹂五
﹁これは錢形の親分、御苦勞樣で﹂ 小こぶ肥とりの中年男が、丁寧に平次へ挨拶しました。 ﹁お前さんは?﹂ ﹁雲龍齋――え、その又六で御座いますが﹂ ﹁あ、雲龍齋師匠でしたか、飛んだ災難で﹂ ﹁有難う御座います、――この小屋も半分はお倉のお蔭で繁昌して居たやうなもので、當分代りを搜すまでは、人氣を取戻せさうもありません﹂ ﹁なアに、普ふげ賢んぼ菩さ薩つの評判が大したものだから、そんな心配もありますまいよ﹂ ﹁有難う御座います﹂ ﹁その人氣を獨り占じめにして居る菩薩樣が少し汚れたやうですね――あれは矢張りサクラを使つて泣かせるんでせう――﹂ ﹁親分、御冗談を﹂ 又六は少し照れ臭い顏をしました。が、この顏には、何んな感情も紛まぎれさせる、不ふだ斷んの微笑が、さゞ波のやうに動いて居るのです。 ﹁ところで師匠、お倉は勘兵衞の元の女房だといふ話ですが、お前さんそれを承知で雇やとひなすつたかい﹂ と平次、さり氣ないうちにも、次第に問題の核かく心しんに觸れて行きます。 ﹁少しも存じませんよ、ツイ今しがたそれを聞かされて、びつくりして居たやうなわけで、へツ、へツ﹂ ﹁お前さんは、大層お倉に親切だつたつて言ふ噂だが――﹂ ﹁親分、からかひなすつちやいけません。そんな馬鹿な事が――﹂ ﹁まアいゝやな、ハツハツハツ﹂ 平次は他たわ愛いもなく笑ひ乍ら、輕い心持で小屋を出ました。 川か岸しツぷちを相あひ生おひ町ちやうの方へ少し行くと、物蔭から不意にガラツ八が飛出します。 ﹁ありましたよ、親分、主のない小舟が一艘、小屋の後ろに繋つなぎつ放しで――﹂ 少し獅子ツ鼻が蠢めきます。 ﹁さうだらうと思つたよ、勘兵衞の家は濱町だ。橋番所があるから、明方表から小屋へは忍び込めねえ筈だ﹂ ﹁見みと透ほしだね、親分﹂ ﹁おだてちやいけねえ﹂ ﹁下手人は解りましたか﹂ ﹁大方解つたつもりだが、證據といふものが一つもねえから、捕まへることも何うすることも出來ない﹂ 平次は深々と腕を拱こまねきました。 ﹁誰です。その下手人は﹂ ﹁手てめ前えだけに言つて置くが、あの肥つちよの、ニヤニヤした野郎だよ﹂ ﹁えツ、雲龍齋又六?﹂ ﹁默つて居な、大きな聲を出すと鳥が飛ぶぞ、暫らく萬七兄あに哥きに樂しませて置け﹂六
錢形の平次はそれから必死の活動を始めました。 地獄極樂の小屋の者は、巳みの之き吉ち初め一人殘らず調べ上げた上、お倉の母親から、雲龍齋又六の動き、一刀齋勘兵衞の家まで、念には念を入れて搜さがし拔きましたが、その晩、お倉の家へ勘兵衞らしい男が訪ねて來ると、お倉は母親を原はら庭にわの叔母のところへ泊りにやつた――といふ以外には、何にも得るところもなかつたのです。 平次が一番怪しいと思つた又六は宵のうちに緑町の自分の家へ歸つて、それつ切り急ぎの仕事に取かゝり、夜中まで鑿のみを使つて居たといふのは、内弟子も近所の者も口が合つて少しの疑ひを挾はさむ餘地はありません。 調べて來れば、矢張り一番怪しいのはお倉といふことになりますが、肝腎のお倉は三日三晩の責めにも我慢を通して、知らぬ存ぜぬの一點張です。 ﹁自分の扱しご帶きで殺して、其儘にして置くのは可笑しいではないか﹂ 最後に與力の笹野新三郎にさう言はれると、三輪の萬七も此上女を責めやうはありません。 が、事件は四日目になつて、思ひもよらぬ方面へ發展して了ひました。 ﹁親分、又六が殺やられましたぜ﹂ ﹁何? そんな馬鹿な事があるものか﹂ ガラツ八の報告を聞いた時、平次は危ふく日頃の冷靜さを失ふところでした。 勘兵衞殺しの下手人と睨んで、一生戀命﹇#﹁一生戀命﹂はママ﹈證據の蒐しう集しふに浮身をやつして居る矢先、肝腎の又六が殺されて了つては、平次は全く脊しよ負ひな投げを喰はされたやうなものです。 ﹁自害ぢやあるまいね﹂ ﹁鑿のみで背うし後ろからやられる自害があるでせうか、親分﹂ ﹁――﹂ 錢形の平次ほどの者も、見事にガラツ八にしてやられました。 ﹁その鑿が、濱町の勘兵衞の仕事場から出た品ですよ、柄えには丸に勘の字の燒印が捺おしてある﹂ ﹁えツ﹂ ﹁親分、大きい聲ぢや言はれないが、世間ぢや勘兵衞の幽靈がやつたんだつて言つてますぜ﹂ ガラツ八は少し迷信家らしく脅おびえた眼を見張りました。 ﹁馬鹿な、そんな事があるものか、幽靈が人を殺す世の中になつちや、岡ツ引は上がつたりだ、行つて見よう﹂ 眞つ直ぐに向う兩國へ――。 鎖とざした木戸を開けさして、眞晝乍らなんとなく薄暗い小屋の中へ入ると、彫ほり物もの師しの雲龍齋又六は中二階の揚幕の蔭、丁度、普賢菩薩を見張るやうな位置に、仰向になつてこと切れて居るのでした。 得物は彫物師の使ふ鋭い鑿のみ、燒印はガラツ八が言ふ通り、得物が深々と入つたせゐか、大した出血ではありませんが、それでも其邊は一面の血ちし飛ぶ沫きです。 引起して明り先に死體の顏を持つて行くと、日頃さゞ波のやうに寄せて居る微笑は消えて、――何と言ふ惡相でせう。少し脹れつぽい顏には、微みぢ塵んも又六の柔和なおもかげが殘つては居りません。 ﹁おツ﹂ 平次も、ガラツ八も、思はず顏を背そむけました。獲えも物のを覘ふ吸血鬼のやうな、ギヨロリとした死骸の眼が、二度と見られないやうな物凄いものだつたのです。 小屋の者は一人殘らず、埃ほこりを叩くやうに調べ上げられました。が、宵のうちに又六は歸つたと言ふだけで、此處に踏み留つて居たのさへ知らなかつた位ですから、下手人の見當などは、まるつ切り付きません。 筋合から言へば、勘兵衞の元の女房のお倉が、一番疑はれる立場に居るわけですが、此時はまだ二三目前に許されたばかりですから、どんな大膽な女でも、見張の目を誤ご魔ま化かして家を拔け出し、大それた人を殺す隙すきがあるわけもなく、第一、たつた一と突きで息の根を止めたのは、鑿が鋭利だつたにしても、女の業わざには容易のことではありません。 巳之吉は眞つ先に擧げられましたが、これは萬七の氣休め見たやうなもので、何の役に立つほどの事も知つては居なかつたのです。 そのうちに、二日三日と經ちました。 ﹁親分、あの普ふげ賢んぼ菩さ薩つは又六の作ぢやないつて話がありますよ﹂ ガラツ八は妙な事を聞込んで來ました。 ﹁俺もさう思ふよ﹂ ﹁へエ、親分はそれを知つてなさるんですかい﹂ ﹁知つてるわけぢやないが、地獄極樂の活人形とは、あんまり手際が違ひ過ぎる。それに、あの佛像の臺座を見ると、銘めいを削けづつて書き變へた跡があるんだ﹂ ﹁へエ、――驚いたなア、何うも﹂ ﹁雲龍齋又六は、高慢に構へて居るが、あれは下手つ糞だよ﹂ ﹁すると、あの佛像は誰の作でせう﹂ ﹁それが解らぬ﹂ ﹁此間殺された勘兵衞ぢやありませんか。二代目一刀齋勘兵衞は、親の初代一刀齋に優まさる名人と言はれて居ますが﹂ ﹁いや、――俺には腑ふに落ちないことばかりだ﹂ ﹁親分﹂ ﹁手てめ前えは死んだ勘兵衞の身許を洗つてくれ。親の初代一刀齋勘兵衞は、五年前に禁制の切支丹の像に紛まぎらはしい物を彫ほつて、遠島になつた筈だ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁俺はお倉を縛つて泥を吐かせて見る、どうも矢張りあの女が臭い﹂ ﹁三輪の萬七親分が一度縛つて許したばつかりぢやありませんか﹂ ﹁その通りだよ﹂ ﹁勘兵衞の足袋の底は何うなんです。わざ〳〵自分の赤い扱しご帶きで殺して、死骸の雪駄を片つ方だけ自分の家へ持つて來たんですかい﹂ ガラツ八もなか〳〵深刻です。 ﹁人の口眞似をするな﹂ 苦り切つた平次。 ﹁三輪の乾分衆の見張つて居る中を拔け出して、鑿のみを男の背中へ叩つ込むほどの腕があの女にあるでせうか﹂ ﹁出來ない事ぢやないよ。母おふ親くろと共ぐ謀るでやれば、思ひの外手輕に拔け出せるし、鑿は、又六が居眠でもして居るところを狙つて背後から玄げん能のうか何かで叩き込むんだ﹂ ﹁へエ――、驚いたなア﹂七
お倉は到頭平次の手で縛られました。容易に人を縛らぬ錢形平次が、しかも、三輪の萬七が一度許したのを縛つたのですから、お倉の罪は殆ほとんど確定的のものと見ても差支なかつたでせう。 ﹁へエ――あの女が、大の男を二人も殺したのかい﹂ 江戸つ子は舌を卷きました。元の夫一刀齋勘兵衞を殺し、續いて、主人の雲龍齋又六を殺したとすれば、磔はり刑つけか火ひあ焙ぶりは免まぬがれぬところでせう。 驚いたのはガラツ八の八五郎でした。 ﹁親分、大丈夫ですか﹂ ﹁何が?﹂ 平次は近頃すつかり不機嫌です。 ﹁お倉を傳馬町へ廻して、牢問ひに掛けるさうぢやありませんか﹂ ﹁その通りだよ。どうしても白状しないんで、笹野の旦那もすつかり持て餘しなすつたよ。この上は傳馬町に送つて、牢屋同心の手でうんと責めることになつたのさ、女のしぶといのばかりは、痛め吟味より外に手がない﹂ ﹁へえ、あの女をですかい﹂ ﹁海えび老ぜ責め、算そろ盤ばん責ぜめ、車くる責まぜめとなると、女が美いいから見みも物のだらうよ﹂ ﹁――﹂ ガラツ八も默つて了ひました。人一倍涙なみ脆だもろくて、思ひやりのある平次が、ケロリとしてこんな事を言ふ心持が解らなかつたのです。 ﹁そんな事より、頼んだ事はどうだつたい﹂ ﹁それですよ親分、不思議なことがあるもので――﹂ ガラツ八は膝を乘出しました。 ﹁小屋で殺された晩も、本人の又六は緑町の自分の家で、曉あけ方がたまで鑿のみを使つて居たつて――近所の衆は言つたらう﹂ ﹁えツ、何うしてそれを親分﹂ ﹁さう來なくちや、テニヲハの合はないことがあるんだ﹂ ﹁驚いたなア、何うも﹂ 殺された本人が、自分の家で曉方まで働いて居たといふのは、一體どういふ意味でせう。 ﹁八、少しばかり繪ゑ解ときをしてやらうか﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁勘兵衞が殺された晩、又六は内弟子を自分に仕立てゝ、仕事場へ置いたんだ。その細さい工くが過ぎて自分が殺される晩も、替玉に仕事場でゴトゴトやらしたのさ。まさか、その晩、自分が殺されるとは思はなかつたらう﹂ ﹁へエ――、成なある﹂ ガラツ八は一應感心しましたが、まだ、お倉を疑ふ氣にはなれません。 が、事件は次第に緊張して、お倉牢問ひの物凄い噂が何處からともなく、物好きな江戸ツ子の耳に傳はりました。 ﹁昨日は石を抱かされたとよ、三度も目を廻して、腰から下が寒かん天てんのやうに碎かれても、口を割らないさうだ、女の剛情なのは怖こはいぜ﹂ そんな話が、口から口へと、野火のやうに擴がつて行きます。 それから二日目。 ﹁錢形の親分にお目に掛つて申上げたいことが御座います﹂ 妙におど〳〵した五十男が、平次の家へそつと訪ねて來ました。 ﹁お待ちして居ました、さア、何うぞ﹂ 平次は飛んで出ると、宵闇の中に、襤ぼ褸ろ切きれのやうに佇たゝずむ中老人を引入れました。 ﹁親分、私の申すことは、あまり變つて居るので、びつくりなさるかも知れませんが、決して嘘や僞いつはりは申しません――﹂ 薄い膝においた手が顫へて、上半身の骨張つた逞たくましさも、なんとなく不釣合な貧しい感じを與へます。 ﹁私は何も彼も知つて居るつもりですよ。勘兵衞師匠、皆な打明けて下さい﹂ ﹁えツ、私の名を御存じで?﹂ ﹁知らなくて何うしませう。お前さんは江戸の彫ほり物もの名人と言はれた、初代一刀齋勘兵衞師匠さ。五年前人に頼まれて、切支丹の像に紛まぎらはしい物を彫つたばかりに、表向き遠島になる筈のところを、お上の御慈悲で江戸お構かまへになり、それつ切り行方知れずになつた方だ﹂ ﹁えツ﹂ ﹁お前さんに出て貰ひたいばかりに、あつしはいろ〳〵無理な細工をしましたよ﹂ 驚き呆あきれる初代勘兵衞の前へ、平次は膝を乘り出しました。八
初代勘兵衞の話は、平次には耳新しいことばかりでした。
﹁私はお上の目を忍んで、三年前からこつそり江戸へ潜もぐり込み、蔭かげ乍ながら伜二代目勘兵衞の仕事を助けてやりました。私はもう表向きは遠島になつた蔭の人間で、何んな良い物を彫つたところで、世間樣へ名乘つてお目にかけることもならず、幸ひ伜が二代目一刀齋を名乘つて、拙まづい物を彫つて居りましたので、伜の銘めいで私の作を、三年越世間に出したので御座います。一つは彫物職人氣かた質ぎとでも申しませうか、私は何にも彫らずには居られなかつたので御座います﹂
﹁――﹂
多少豫期した筋ですが、平次は神妙にうなづき乍ら、次を促うながしました。
﹁伜は彫物下へ手たで御座いましたが、私の彫つた物に銘だけを入れて、――二代目は初代に優まさる名人だ――と世間樣から申されました。どうせ世に捨てられた日蔭者の私の腕が役に立つて、伜の名前が世間に出るのですから、私はこんなに嬉しいことは御座いません。この三年といふもの私は本當に生き甲斐のある仕事を致しました﹂
﹁――﹂
何といふ犧牲的な感情でせう。平次は默つて涙を拭ひました。自分の餘命と藝術を、不ふせ肖うの伜に捧げ盡して惜まなかつた、初代勘兵衞の欺ぎま瞞んは、何は兎もあれ、一應は許さなければならない種類のものだつたのです。
﹁昨年一杯かゝつて、世にも人にも祕めて造つた普ふげ賢んぼ菩さ薩つ――あれは私の一代にも二つとない出來で御座いました。粉ふん本ぽんには勿體ないが嫁のお倉を使つて、素しら木きのまゝ死んだ女房の供養に、菩ぼだ提い寺じに納める積りでしたが、フトした手違ひから、雲龍齋又六に横取りされたので御座います﹂
﹁矢張りさうか﹂
﹁又六は伜の銘めいを削けづつた上、神々しい素しら木きの佛樣へ、見世物向きに、あんな下品な彩色をして了ひました。――その上、自分の下手な地獄極樂の生いき人にん形ぎやうと並べて、兩國の小屋へ飾つたのですから、伜が腹を立てたのも無理はありません。その上、嫁のお倉は永年の貧苦に愛想を盡つかして飛出し、人もあらうに又六を頼つて、兩國の小屋の木戸番に迄なり下がりました﹂
﹁――﹂
﹁後で、――あの普賢菩薩を奪られたのは嫁のお倉の手落だつたので、それを奪ひ返したさに、それが出來なければ、せめて他よそ所な乍がら守護するつもりだつたと解り、一度でも嫁を怨うらんだのは相濟まぬことと思ひましたが、家出した當時は、打ち殺しても了ひたいほど腹を立てたもので御座います﹂
﹁――﹂
﹁それは兎も角、伜は幾度も〳〵又六にかけ合つて、普賢菩薩を取戻さうとしましたが、又六は私が内々江戸へ歸つて居ることも、伜の代作をして居ることも知つて、なか〳〵素直に言ふ事を聞きません。一度などは、伜を捕まへて――お前にこの普賢菩薩ほどの物が彫れたら、望みの通り返してやる、寶はう冠くわんだけでも、首だけでもいゝから此場で彫つて見ろ――と、檜ひの材きざいと鑿のみを突きつけたこともあるさうで御座います。さう言はれると一言もありません。伜は親の私を庇かばはなければならない上、生れ付き腕が鈍くて、臺座の蓮れん華げ一つろくなものが彫れなかつたので御座います﹂
﹁――﹂
﹁腕は鈍いが、伜は父親の私の彫つた物は大事にしてくれました。到頭我慢が出來なくなつて、小舟で濱町川岸から向う兩國に渡り、手桶に隅田川の水をくみ込んで、嫁の手引で小屋に忍び込み、せめても下品な彩さい色しきだけでも洗ひ落さうとしました。一度二度ならずそんな事をやつて見たさうですが、何時も妨げられて逃げ歸つたので御座います﹂
﹁丁度上げ汐しほ時どきに出かけるから、佛像を洗ひかけた水には、何時でも鹽氣があつた﹂
﹁親分は、そんな事まで御存じだつたのですか﹂
﹁大たい概がい察さつして居た積りだ、――それが到頭歸つて來なかつた。お前さんの彫物を洗ひに行つた二代目勘兵衞さんは、又六の弟子共に袋叩きにされて死んで了つたのだよ﹂
﹁親分、私は口惜しう御座います﹂
初代勘兵衞は肩を顫はせて、疊の上に雙もろ手てを突きました。小こび鬢んの處が搖れて、涙がハラハラと膝に散りました。
﹁殺す氣もなかつたらうが、打ちどころが惡かつたのだ。前からお倉にちよつかいを出して居た又六は、お倉に彈はじかれて、ムシヤクシヤして居る矢先だつたので、樂屋にあつたお倉の扱しご帶きを死體の首に卷いた上、死體をお倉の家の前へ捨て、丁寧に雪駄を片方お倉の家へ投げ込んで置いた﹂
﹁その通りで御座います、親分、それだけ解つて居るのに、何うして又六を縛つては下さらなかつたのでせう﹂
﹁證據がなかつたのだ、――又六は腹の底からの惡黨だ﹂
﹁親分、何も彼もみんな申上げます、――何時まで經つてもお上で伜の敵を討つて下さる樣子もないので、到頭たまり兼ねて小屋に忍び込み、又六を鑿のみで突刺したのは、此私で御座います。伜の敵討、斯うでもしなければ、私の腹の蟲が納まりませんでした。どうぞ、お願ひ、牢問ひにかけられて居るお倉を助けてやつて下さい、あの女は決して惡い女ぢや御座いません﹂
初代勘兵衞は到頭言ふ可きことを言つて了ひました。
﹁お倉は無事だよ、師匠、今逢はせて上げよう、――お靜、お靜﹂
平次は隣の室へやへ聲をかけると、すつかり目を泣き脹はらしたお倉は、平次の女房のお靜に手を引かれて轉げるやうに出て來ました。
﹁お、お倉ぢやないか、拷がう問もんされて居るといふのは――﹂
﹁父とつさん﹂
お倉は物も言へませんでした。初代勘兵衞の膝下へ、たゞひた泣きに泣いて居るばかりです。
﹁親分、さア、私に繩を打つて下さい。又六を殺したのは、確かにこの私に相違ありません﹂
初代勘兵衞は涙を納めると、屹と平次を振り仰ぎました。
﹁縛られて何うするつもりだえ、師匠﹂
﹁伜が死んだ上は、生きて行く望もありません。私は表向き遠島になつた日蔭者、私の名では起上り小坊主一つ彫れません。それに折角賣り込んだ伜の名――二代目一刀齋は初代に優まさる名人――といふ名も惜をしんでやりたう御座います。此儘私を磔はり刑つけなり獄門なりにして下さい。親分、私は生きて居るうちは、何か彫らずには居られない因いん果ぐわな人間なのです﹂
思ひ入つた初代勘兵衞の態度を見ると、お倉もおろ〳〵するばかりで、今更止めやうもありません。
﹁お處しお刑きに上がる前に、所名前が知れるが、――さうすると、初代勘兵衞が江戸に居た事になる。構はないだらうか、師匠﹂
﹁えツ﹂
﹁二代目一刀齋勘兵衞の彫ほり物ものは、皆な初代勘兵衞が代作してやつたといふ事が判つたら、死んだお前さんの伜の名はまる潰れだぜ﹂
﹁親分﹂
﹁惡い事は言はない、師匠、お倉をつれて、何處か江戸の岡つ引の手が屆かないところへ行つて貰ひませうか。親の敵討が許されるものなら、伜の敵討だつて許されないといふ理窟はあるまい﹂
﹁――﹂
﹁世間へはかう言ひ觸らさう、――二代目勘兵衞は又六が殺した、又六は、又六は――あの普賢菩薩の尊像を二代目勘兵衞から奪つて、下品な色などをつけて見世物にした罰ばちで、形の見えぬ鬼神に殺された、――死んだ二代目勘兵衞の鑿で刺されたのは、因いん果ぐわといふものだらう――と﹂
﹁親分﹂
﹁サア、此處に居ると何彼と面倒だ。一刻も早く私の目に見えないところへ姿を隱して貰はうか﹂
平次は立ち上がると、半紙に捻ひねつた小判を一二枚、お倉の手にそつと握らせて、次の間へサツと引上げます。
﹁親分恐れ入つたよ﹂
其處にはガラツ八の八五郎が、お靜と二人、唐紙に凭もたれるやうに泣いて居るのでした。
﹁親分、この御恩は一生忘れません、それぢや、隨分御機嫌よう﹂
初代勘兵衞はお倉を伴れて、春の日の往來へそつと滑り出ました。
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切代﹇#﹁切代﹂はママ﹈一刀齋勘兵衞も、嫁のお倉も、それつ切り江戸に姿を見せませんが、時々思ひも寄らぬ土地から、一刀たう彫ぼりの素晴しい人形が、神田の平次のところへ送られて來ることがありました。諸國名物一刀彫の中には、この初代一刀齋勘兵衞が元祖だつたのが幾つかあつた筈です。