一
金座、銀座、錢座、朱座と並んで、江戸幕府の大事な機構の一つに、秤はか座りざといふのがありました。天正の頃、守もり隨ずゐ兵三郎なる者甲府から江戸に入つて、關東八州の權けん衡かうを掌つかさどり、後徳川家康の御ごし朱ゆい印んを頂いて東日本三十三ヶ國の秤の管理專賣を一手に掌しや握うあくし、西日本三十三ヶ國の秤はかりの司つかさなる京都の神善四郎と並んで、互に犯すことなく六十餘州の權衡を管くわ轄んかつしました。 萬治三年京の神善四郎、江戸の守隨家と爭つて敗れ、其權利を剥はく奪だつされて後は、江戸の秤座――通四丁目の守隨彦太郎獨り榮えて、全國の秤を掌り、富貴權勢飛ぶ鳥を落す勢ひがあつたと言はれて居ります。 その守隨彦太郎の伜――實は彦太郎の甥をひで、五六年前養子に迎へた兵三郎が、何者とも知れぬ不思議な曲くせ者ものに、命を狙はれてゐるといふ騷ぎが起りました。 兵三郎はその時二十三、先づは世間並の良い男、才智男前も人樣に負ひけは取らず、少しは附き合ひも知つて居りますが、世間の噂に上るやうな馬鹿はせず、何處か拔目がなくて、人柄がよくて、親父の彦太郎自慢の息子でした。 彦太郎の娘お輝てるは取つて十六、行く〳〵は兵三郎に嫁めあ合はせる積り、本人同士もその氣で居りますが、何分まだお人形の方が面白がる幼うひ々〳〵しさを見ると、痛々しいやうな氣がして親達も祝言も強しひられず、いづれ來年にでもなつたらと、彦太郎夫婦はそれをもどかしく樂しく眺めてゐるのでした。 ﹁その養子の兵三郎が、七日の間に命を奪られるといふ騷ぎだ、本人は思ひの外落着いてゐるが、親の彦太郎の方が大變ですぜ﹂ ﹁誰がそんなに命取りの日限まで觸れて歩いたんだ﹂ ガラツ八の八五郎の、逆の上ぼせあがつた報告を輕く受けて、錢形平次は斯かう問ひ返しました。初夏のある朝、若葉の色が眼に沁しみて、かつを賣の聲が何處からか聞えるやうな日です。 ﹁手紙が來たんですよ、親分。それも一度や二度ぢやねえ、續け樣に三度﹂ ﹁そんな惡いた戯づらは今に始まつたことぢやないよ。命を取ると言つた奴が、昔から本當に命を取つた例ためしは無い。放つて置くが宜い﹂ 平次は事もなげでした。﹃殺す奴は默つて殺す﹄といふのが、長い間の經驗が教へてくれた平次の信條だつたのです。 ﹁ところが本當にやりかけたんで﹂ ﹁何を?﹂ ﹁最初の手紙が店先へ投げ込まれたのは三日前、それから一日に一度づつ恐ろしいことが起るとしたらどんなもんで﹂ ﹁恐ろしい事といふと﹂ ﹁三日前――あの晩はやけに暑かつたでせう。若旦那の兵三郎はまた恐ろしい暑がりやで、あんな晩は寢る前に裏の井戸端へ行つて、汲み立ての水で身體を拭くんです。丁度亥よ刻つ頃、堅く絞つた手拭で身體を拭いてゐると、後ろからそつと忍び寄つて、いきなり井戸の中へ若旦那を突き落した奴がある﹂ ﹁あぶないな﹂ ﹁幸ひ井戸は淺いから助かつたが、深い井戸なら一とたまりもありませんよ﹂ ﹁三日前の晩の亥よ刻つといふと月が良かつたな﹂ 平次は指などを折り乍ら神妙に聽いて居ります。 ﹁それから翌る日秤はか座りざの守もり隨ずゐの店先、若旦那が坐つて居る帳場へ、何處からともなく吹矢を飛ばした奴がある。幸ひ若旦那が煙草に火を點ける積りで、ヒヨイと首を下げた時だからよかつたものの、さうでもなきや眼玉を射い貫ぬかれるところでしたよ。後ろの柱へ五分も突き立つた吹矢を引つこ拔いて見ると、油で痛めた鐵のやうな古竹に、紙の羽根を卷いた六寸あまりの凄い道具でさ﹂ ﹁その吹矢は何處から飛ばしたんだ﹂ ﹁隣の空家の二階ですよ。店中の者が飛んで行つたが、曲者は待つては居ません。窓のところに、何の禁まじ呪なひか知らないが、赤い手柄ほどの布が、ヒラヒラと下がつて居たさうで﹂ ﹁それから、三度目はどんな術てでやつて來た﹂ ﹁あんまり物騷だから、若旦那を外へ出さないやうにし、用心棒の狩屋角右衞門といふヤツトウのうまい浪人者を初めとし、番頭手代多勢で見張つてゐたが、若旦那の兵三郎は氣象者で、そんな事を氣にもかけません。皆んなで止めるのも聽かず、小僧の龜吉をつれて横町の風呂へ行つたまでは宜かつたが、歸りには覆ふく面めんの曲者三人に取卷かれ、命辛から々〴〵逃げ出した﹂ ﹁怪我は無かつたのか﹂ ﹁元結を切られて、サンバラ髮になりましたが、怪我はなかつたやうで、――尤もつとも小僧の龜吉は肩口を少し斬られました。人が來なかつたらどんな事になつたか解りません﹂ ﹁守もり隨ずゐともあらうものが、内湯が無いのか﹂ ﹁恐ろしく立派なものがありますよ。でも若旦那は町風呂の廣々としたのが好きなんださうで、――それに、こいつは内ない證しよですがね、箔はく屋や町の櫻湯にはお浪といふ凄いのが居ますよ。へツ、若旦那はそのお浪に熱くなつてゐるんで、店中で知らない者はありませんよ﹂ ガラツ八はさう註ちうを入れて、自分の額をピタリと叩くのでした。 櫻湯のお浪といふ湯ゆ女なの噂は、平次も薄々は聞いて居ります。その頃江戸中に流行り始めた町風呂の湯ゆ女なには、どうかすると飛んでもない代しろ物もの――美しくも凄くもあるのがゐた時代です。二
ガラツ八の話は近頃怪奇なものでしたが、平次大して驚く樣子もありません。 ﹁若旦那を脅おどかして、その女から手を引かせようと言ふのか﹂ ﹁どうせそんなことでせう。ほかに人の怨うらみを買ふ覺えはないと若旦那はいふんです﹂ ﹁それで、何うしようといふのだ﹂ ﹁まさか錢形の親分を頼むわけにも行かないから、あつしにあと四日見張つてくれといふんで、どうでせう、親分﹂ 八五郎は長んがい頤あごを撫でたりするのでした。 ﹁行くが宜い。何にか面白いことがあるかも知れない。お前の話を聽いただけでも、腑ふに落ちないことばかりだ﹂ ﹁それぢや、親分﹂ ﹁待ちな――櫻湯のお浪とかいふのを念入りに洗つて見るが宜い﹂ ﹁へエ﹂ 八五郎は平次の激勵に氣をよくして通四丁目へ飛んで行きました。 それから五日――。 平次も忙しく日を送つて、秤はか座りざのことは忘れるとなく忘れてゐると。 ﹁親分、今日は﹂ 大變とも何とも言はず、狐につまゝれたやうな顏をして、ノソリとやつて來たのは八五郎でした。 ﹁八か、何うした。忘れ物をしたやうな顏ぢやないか、いつもの﹃大變ツ﹄を何處へ振り落したんだ﹂ 平次は少しからかひ氣味です。 ﹁へツ、いゝ面の皮で、親分の言つた通り、見事に擔かつがれましたよ﹂ ﹁守もり隨ずゐの若旦那は無事かい﹂ ﹁四日間あつしと狩かり屋やといふ浪人者と、店中の腕に覺えの手代達が十何人で見張つたが、ろくな蚤のみにもさゝれやしません﹂ ﹁手紙は三本だけか﹂ ﹁それが不思議なんで、一向業わざをしないくせに、脅おどかしの手紙だけは、毎日一本づつ五本まで來ましたよ。――尤もつとも五本切りで止しましたがね﹂ ﹁誰が持つて來たんだ﹂ ﹁初めは使ひ屋で、あとは店へ投げ込んだり、近所の子供が持つて來たり﹂ ﹁その手紙を借りて來たのか﹂ ﹁これで﹂ 八五郎は懷から出した手紙を五本、日附の順に平次の前に列べました。 ﹁男と女と二人で書いてるが、うまい字だな。男のは帳ちや面うめん馴れがして居るし、女の方は大師流を習つてゐる。――紙は小菊、筆も墨も惡くない。文句は一本々々次第に激しくなつて五本目などは噛みつくやうだぜ﹂ ﹁それが惡いた戯づらでせうか、親分﹂ ﹁わからないよ。――七日と日を限つて居て五日で止したのが一番をかしい。五日目の晩は何か變つたことが無かつたのか﹂ ﹁ありましたよ﹂ ﹁何があつたんだ﹂ ﹁お孃さんのお輝さんが夜中に見えなくなつて一と騷ぎしましたがね。間もなく寢卷のまゝ裏の土藏の前に立つてゐるのを見付けて、安心しましたよ﹂ ﹁?﹂ ﹁十六にしては子供々々した可愛らしい娘で、夜遊びに出る柄ではなし、大方夢でも見たんでせう。當人も夢心地で家を出たが、何にも覺えがないと言ふさうで﹂ ﹁無くなつた物はないのか﹂ ﹁なんにも﹂ ﹁面白いな、八﹂ ﹁へエ、――面白いんですか、――これがね﹂ 平次の眞似をしてガラツ八も高々と腕を拱こまぬきましたが、若旦那も無事、なくなつた物もないといふのでは、ガラツ八には一向面白くも何ともありません。 ﹁唯の惡いた戯ずらや脅おどかしぢやあるまい、俺も行つて見よう﹂ ﹁へエ、親分が行くんですか、脅かしの日限は一昨日で切れて、昨夜は厄やく明けで店中へ酒が出る騷ぎでしたよ﹂ ﹁その酒宴の殘り物位にはあり付けるだらう﹂ ﹁へエ﹂ 何に驚いたのか、そゝくさと出かける平次の後ろにガラツ八はキナ臭い鼻を蠢うごめかし乍ら續きます。三
通四丁目の秤はか座りざ――守もり隨ずゐ彦太郎の屋敷は、煮えくり返るやうな騷ぎでした。その頃の秤座は通四丁目の一角を占しめる大きな建物で、役人としては僅か切米十俵二人扶ぶ持ちの小身ですが、二戸前の土藏を後に背負つて、繁昌眼を驚かすばかり。 ﹁お、八五郎親分、丁度宜いところだ﹂ 店先へ飛んで出たのは、支配人の藤助でした。 ﹁どうしたんです、この騷ぎは?﹂ ﹁若旦那が――﹂ ﹁若旦那がどうかしましたか﹂ 支配人は物をも言はずに八五郎を奧へ案内しました。續く錢形の平次。 ﹁これだ、八五郎親分﹂ ﹁あツ﹂ 一と間の敷居際に八五郎は思はず立ち縮すくみました。若旦那の兵三郎は床の上に寢たまゝ、匕あひ首くちか何かで喉をゑぐられ、朱あけに染んで死んで居たのです。 死骸の枕元には主人の守隨彦太郎が打ち萎しをれて坐り、その裾には娘のお輝が、身も浮くばかりに泣き崩れて居るのでした。 ﹁あつしは神田の平次で御座いますが、此の度は飛んだことで﹂ 錢形の平次が挨拶すると、主人の彦太郎は夢から覺めたやうに頭を擧げました。 ﹁錢形の親分か、丁度宜いところだ。一體何がどうしてこんな事になつたのか調べてくれ、私には少しも解らない﹂ 秤座役人は苗めう字じ帶たい刀たうを許され、僅きん少せう乍ながら幕府の手當を受け、相當の見識も持つて居りますが、斯うなると町方の御用聞に縋すがる外はありません。 ﹁ところで、何か紛ふん失しつ物ものはございませんか﹂ 平次は思ひも寄らぬ事を訊くのです。 ﹁なんにもない。よしんば少しばかりの紛失物があつたにしても、それより伜を殺した下手人を擧げるのが先きぢやあるまいか、親分﹂ 主人の彦太郎の顏には、不滿らしい色が浮びます。虐むごたらしい死骸を前にして、平次の見當違ひがもどかしかつたのでせう。 ﹁下手人も擧げなきやなりませんが、それより、身にも家にも代へられないといふ大事の品が紛失しませんか﹂ ﹁大事の品?﹂ ﹁金や骨董ぢやないでせう。もつと大事な品、人間の命を幾つも釣つり替かへにするほどの品がありませんか﹂ ﹁さう言はれるとこの守隨家には、たつた一つ身にも家にも替へられぬ大事の品がある。――それは先祖の守隨兵三郎が、家康公の御招きで甲府から江戸に移り、秤座役所を預つた時、家康公から直々に頂戴した御ごし朱ゆい印んだ﹂ ﹁それだ、旦那、それがなくなるとどうなります﹂ ﹁萬一それが紛ふん失しつすれば、秤座役人の株かぶを召上げになつた上、この守隨彦太郎腹でも切らなければなるまい。――が、それは大丈夫だ。三重の締りをした奧藏の二階、唐から櫃びつに入れてそれにも二重の錠がおろしてある﹂ ﹁奧藏と唐櫃の鍵は?﹂ 落着き拂つた彦太郎に比くらべて、錢形平次の方がすつかりあわてて居ります。 ﹁これだ、肌身を離したことはない﹂ 守隨彦太郎は腰を搜さぐつて、なめし革で作つた鍵袋を出して見せるのです。 ﹁夜分は此の袋を何處へ置くのです﹂ ﹁寢間の枕元の手てば筐この中に入れるが、寢間へは誰も入つて來ない。唐紙には一々棧さんがおろしてある﹂ ﹁兎も角、その御朱印を拜見いたしませう。――無事なら宜いが﹂ 平次の顏に現はれた焦せう躁さうの色を見ると、守隨彦太郎益々落着いて、 ﹁それは大丈夫だが、念のため見せて置かう、一緒に來なさるが宜い﹂ 平次と八五郎は主人の彦太郎に從ひました。 奧藏は自慢の通り三重の戸前で、その一つ〳〵に嚴重な締りがあり、二階に据ゑた樫かしの大唐櫃から取り出した桐の手筐の中には、十重二十重に包んだ、家康公の御朱印があるのです。 守隨彦太郎の手筐を取出した手はさすがに顫へました。帛ふく紗さを解いて、最後の白絹をほぐすと、中から現はれたのは家康公御朱印と思ひきや、 ﹁あツ、これはどうだ﹂ 全くの空つぽです。 彦太郎は彈かれたやうに飛上がりました。四邊をキヨロキヨロ搜して、手筐の中、唐櫃の中を覗きましたが、御朱印が其の邊に落ちてゐる筈もなく、平次が心配したやうに、守もり隨ずゐ家に取つては此の上もなく大事な品が、何時の間にやら盜み去られてゐたことは疑ふ餘地もありません。 ﹁こんな事だらうと思ひましたよ﹂ さして驚く色もない平次。 ﹁大變ツ、平次親分、――御朱印が無くなつては、この私は腹を切つても追つ付かない。何としても搜し出して下され、頼む﹂ 日頃の尊大さをかなぐり捨てて、土藏の板敷の上に、守隨彦太郎兩手をつくのでした。四
その頃の物の考へやうから言へば、御朱印の紛ふん失しつは、若旦那殺しよりは遙かに重大な事件です。平次は何か考へたことがあるらしく、﹃御朱印紛失﹄は誰にも洩もらさぬやうにと嚴重に主人の口留めをした上、素知らぬ顏で土藏から出ました。 ﹁八、お前は櫻湯のお浪を見張つてくれ。少しでも怪しい素振りがあつたら、構ふことはねえ、縛つて引立てるんだ﹂ ﹁へエ﹂ 飛んで行く八五郎を見送つて、平次と彦太郎は元の部屋へ歸ります。 ﹁曲者は矢張り外から入つたのかな﹂ 獨り言のやうに呟つぶやく平次、それを聞いて、 ﹁雨戸は鑿のみでコジあけ、庭にはあの通り足跡があり、裏門も木戸も外から開けてある。それに、刄物も見付からない﹂ 支配人の藤助は細々と説明してくれます。成程敷居には外から打ち込んだ鑿のみの跡があり、庭には濕しめつた土の上に、明あきらかに草ざう履りの足跡があるのですから、曲者が外から入つたに疑ひはありません。庭へ出て裏口へ廻ると、お勝手寄りに井戸があります。 ﹁若旦那が突き落された井戸といふのはこれですね﹂ ﹁さう﹂ 平次は巖乘な井ゐげ架たに手を掛けて覗いて見ました。此邊の井戸ですから石を疊み上げて立派には出來てゐますが、ひどく淺い樣子です。 裏木戸は外から容易に開き、裏門も思ひの外ぞんざいで、閉めた積りでも、ガタガタやれば外から苦もなく開くのでした。 外へ出て少し歩くと、鼻の先は直ぐ新場橋、濠ほりの水は汚れて、匕あひ首くちの一本や二本呑んだところで容易に搜しやうはありません。 ﹁脅おどかしの手紙は五日目まで來たといひましたね。その晩お孃さんが庭へ出てゐたのは何なん刻どき頃でした﹂ 平次は後ろから跟ついて來た主人の彦太郎に訊きました。 ﹁夜中過ぎ――丑やつ刻は半ん︵三時︶少し前かな。宵に氣分が惡いと言つて騷いだ娘のことが氣になるから、部屋を覗いて見ると、床が空つぽで本人は居ない。驚いて縁側へ出ると雨戸が一枚開いて居るではないか。庭を透すかして見ると、土藏の前のあたりに動いてゐるものがある。庭下駄を突つかける間もなく、跣はだ足しで飛出して見ると娘のお輝だ、多分夢でも見たんだらう。――尤もつともその晩、まだ宵の内に氣分が惡いと言ひ出して、自分の部屋へ私と母親を呼び付けて大騷動したがね。雪せつ隱ちんへ行くとケロリと癒なをつたと言ふから、安心して引取つたが﹂ ﹁ちよいと待つて下さい。それを順序を立てて話して頂き度いんですが、――脅かし状が來てから五日目、一番後の手紙が來た晩ですね。お孃樣が宵に氣分が惡いと仰しやつて、御自分の部屋へ、御兩親を呼びなすつた。そして、通じがつくとケロリと癒つたのですね﹂ ﹁その通りだ﹂ ﹁變な事を伺ひますが、お孃さんが手洗の間、お二人はお孃樣のお部屋でお待ちになつたのでせうね﹂ ﹁その通りだ﹂ ﹁それで前後の事がよく解りました。それから後二日の間は﹂ ﹁八五郎親分が來てくれて狩かり屋や氏と一緒に見張つてくれたせゐか、何んにも起らなかつた。至つて平穩であつたよ﹂ ﹁七日が過ぎてホツと御安心なすつた。八日目の晩といふ昨夜――心祝ひのお酒などが出て、八五郎をお歸し下すつた﹂ と平次。 ﹁その通りだ。今朝は皆んな飛んだ朝寢をしたが、とりわけ伜は何時まで待つても起きて來ない。晝近くなつて家内が見に行くと、雨戸が開いて障子は閉つて居たさうだが、開けて見ると中はあの通りだ﹂ ﹁驚きましたよ、親分﹂ 五十前後の内儀お縫ぬひは、主人彦太郎の後ろから愼つゝましく顏を出しました。 平次はもう一度部屋の樣子と兵三郎の死骸とを見直し、改めて家中の者を何處かへ集めて置くやうに頼みました。 若旦那の部屋は店からは大分離れて、表二階二た間に寢てゐる奉公人達のところから來る爲には、主人の部屋や娘お輝の部屋の前を通らなければならず、其處から人知れず脱け出すのは容よう易いのわざではありません。支配人の藤助は通ひで夜は此の屋根の下には居らず、手代の辰次は主人の眼鏡に叶つて、店の錢箱の番に、たつた一人だけ階下に寢て居ります。 藤助は五十前後の確しつかり者らしい感じのする男、その代り支配人としては此上もない働き者でせう。秤はか座りざの仕事をして三十何年、今では主人彦太郎に代つて、大抵のことを裁さばいて居ります。 手代の辰次は二十七八の良い男で、駿すん府ぷ、名古屋、大阪などの秤座出張所を渡つた上、その敏びん腕わんと正直さを見込まれ、三年前江戸に呼寄せて金藏の番までさせ、藤助の次に据すゑられた程の男です。物言ひのハキハキした目鼻立の立派な、見るから頼もし氣な青年でした。用心棒の狩屋角右衞門は四十五六の浪人者、之は武骨一片の何の巧たくみもない男です。 お輝は十六、美しく可愛らしく、幼うひ々〳〵しく、そしていぢらしい娘ですが、許いひ嫁なづけの兵三郎が殺されて、その悲歎は目も當てられません。 店の次の間に集めた三十人あまりの家族と奉公人から、目星しいのを拾ひ出して、平次は斯かう觀察して行くのでした。その後には人柄の良い内儀のお縫と、福々しい主人の彦太郎が神妙に控へます。五
﹁親分﹂ いきなり八五郎が飛んで來ました。 ﹁櫻湯のお浪はどうした﹂ 三十幾人の前で平次は斯かう訊くのです。 ﹁一と足違ひでした。風をくらつて逃げましたよ﹂ ガラツ八は唇を噛んで口く惜やしがります。 ﹁よし〳〵、穴は解つて居る、心配するな、ところで御主人﹂ 平次が後ろを振り向いて合圖をすると、それに應へるやうに、主人の彦太郎は多勢の前に膝を進めました。 ﹁さて、皆んな、聽いてくれ。曲者は昨夜奧藏に忍び込んで、あらうことか、東照宮樣御ごし朱ゆい印んを盜み出した上、伜を殺して逃げうせたよ――﹂ 恐ろしいザワめきが、一座を微そよ風かぜのやうに渡ります。 ﹁本來ならば守もり隨ずゐの家の大難だが、有難いことに、此處に居る錢形の親分の注意で、三日前奧藏の二階の唐から櫃びつに入れてあつた御朱印を取出し、その代り僞の御朱印を入れて置いたので、泥棒はその僞物を盜んで行つたよ。眞ほん物ものの御朱印はこの通り勿體ないがこの彦太郎の肌身に着けて守護してある――﹂ 守隨彦太郎は、懷ろから紙入を取出し帛ふく紗さのまゝ押し頂いて續けるのでした。 ﹁曲者はいづれ、守隨の家に仇をするため、龍たつの口くち評定所へ秤はか座りざ御朱印紛失の旨を訴へ出るだらう。――其處が此方のつけ目だ。御朱印紛失の事を知つてる者は、取りも直さず僞御朱印泥棒で、その泥棒が伜兵三郎を手にかけた下手人に相違ない。――皆んなにも心配をかけたが、遲かれ早かれこの曲者は縛られるだらう。その上、此方には曲者の素姓までも大方解つて居る。櫻湯の湯女で、お浪といふのがその仲間の一人だ。早くも姿を晦くらましたさうだが行先は大方解つてゐるから、いづれ近い内に御手當になるだらう。――さて皆のもの、いろ〳〵と心配をかけて氣の毒であつたが、今晩は伜兵三郎のために御通夜を頼みますぞ﹂ 主人彦太郎の話といふのはそれだけでしたが、三十幾人の聽き手はそれ〴〵の心持で、深い感銘に打たれた樣子です。 それが濟むと平次は、そつと物蔭に娘のお輝を呼出しました。 ﹁お孃さん、誰も聽いては居ません、そつと私にだけあの鍵のことを打ちあけて下さい﹂ 平次の言葉は唐たう突とつで意外です。 ﹁私はあの晩のことを、皆んな知つて居りますよ。お孃さんに智惠をつけて、鍵を持出させた者のあつたことを。――尤もつとも盜られた御朱印は僞物だから、心配することはありません。――そつと私にだけ話して下さい。さうすれば、兵三郎さんを殺した下手人はきつと搜し出して上げます﹂ ﹁――﹂ ﹁あの晩、氣分が惡いからと御兩親を呼寄せ、御ごふ不じや淨うへ行くと言つて、御父樣の手てば筐こから鍵の束を取出し、それを誰に渡したんです﹂ 平次の問ひには隙間もありません。お輝は、到頭、 ﹁でも、さうしないと、兵三郎さんを殺すといふんです﹂ ﹁それは誰でした﹂ ﹁知らない人。――手紙で細こま々〴〵と指圖をして來ました。そつと兵三郎さんに相談すると、仕方があるまいと言ふし﹂ ﹁で?﹂ ﹁鍵かぎ束たばを持つて出ると、顏を隱した人が庭に待つて居ました﹂ ﹁男? 女?﹂ ﹁若い男の人でした。默つて鍵の束を受取つて、奧藏を開けて中へ入つて行きました﹂ ﹁鍵の束には幾つ位の鍵がありました﹂ ﹁十位﹂ ﹁それでは藏を開けるのは手間を取つたんでせうね﹂ ﹁いえ、わけもなく開けたやうです。そして暫くすると出て來て、藏の戸を閉めて、鍵を返したんです﹂ ﹁その時、お父樣に見付けられたのでせう﹂ ﹁え﹂ ﹁もう一つ、――その顏を隱した曲者の姿をお孃さんは見覺えがありますか﹂ ﹁え、見たことのあるやうな恰好でした。でも﹂ 十六の小娘からこれ以上に何にも引出せさうもありません。六
﹁親分、判つた﹂
息せき切つて飛んで來たガラツ八。
﹁何處だ﹂
﹁眼と鼻の間――海賊橋の側に綺麗にとぐろを卷いて居るところへ、野郎がシケ込みましたよ。下つ引が三人で見張つて居るから逃しつこはねエ﹂
﹁油斷は出來ない、行かう﹂
﹁合點﹂
ガラツ八を案内に、錢形平次も飛びました。海賊橋の橋はし詰づめの氣取つたしもたや――。
﹁御用ツ﹂
﹁神妙にせいツ﹂
飛び込んで捕つたのは、湯女のお浪と、その父親らしい老人と、それに、守もり隨ずゐ彦三郎の手代辰次の三人だつたのです。
昨日からまる一日、秤はか座りざの人間の動きを見張つて居た八五郎のガラツ八は、そつと拔け出した辰次を跟つけてこの巣を突きとめ、下つ引三人に見張らせて平次に急を告げたのです。
事件は一擧にして片付きました。縛られた老人は、曾かつて守隨彦太郎とその管くわ轄んか區つくを爭つたばかりに、却かへつて自分の地位を喪うしなつた京の秤座神善四郎﹇#﹁神善四郎﹂は底本では﹁神喜四郎﹂﹈の成れの果てで、湯女のお浪はその娘、守隨の手代辰次はお浪の隱れた夫、三人心を併あはせて、西日本三十三ヶ國の秤座の權利を失つた怨うらみをはらすため、家康公の御朱印を盜んで、守隨﹇#﹁守隨﹂は底本では﹁守險﹂﹈彦太郎に一と泡吹かせようとしたのです。
首尾よく御朱印は盜みましたが、事情を知つてゐる若旦那兵三郎の口を塞ふさぐために、辰次に殺させたことから足がつき、﹃盜まれた御朱印が僞物﹄と平次の智惠で彦太郎が披露した詭きけ計いに引つかゝり、辰次が秤座を拔出して海賊橋の隱れ家に來たところを一網まう打だじ盡んにされてしまつたのです。
若旦那を殺した晩、家の中に居た辰次が、わざと外に出て、雨戸を外して入つた手際は鮮あざやかでしたが、鮮か過ぎて却つて平次に疑はれたとは氣が付かなかつたでせう。
× × ×
﹁さアわからねえ、何が何んだか少しもわからねえ、若旦那の兵三郎は一體どんな役目を勤めたんです﹂
一件落着してからガラツ八は平次に解説をせがみました。
﹁若旦那の兵三郎は、噂の通りお浪に夢中だつたのさ。守隨の家をどうしようといふのではない。せめて守隨家に思ひ知らせ、神しん家けが立ち行くやうにし度いから、御朱印を盜み出してくれと頼まれたが、親父の彦太郎は用心堅固でそれが出來なかつた。そこで用心棒の狩屋角右衞門や店中の者の氣を土藏から引離し御朱印を盜み出す機會を作るために、いろ〳〵脅おどかしの手紙を書かせ、その上自分であんな細さい工くをした﹂
﹁へエ――﹂
﹁井戸へ落ちたといふのも嘘だ。あんな月の良い晩に、若盛りの男がおめ〳〵人に突落される筈もなく、それにあの井戸はあまり淺過ぎた。惡いた戯づらならわかるが、人を殺すために突き落す場所ぢやない﹂
﹁成る程﹂
﹁吹矢も同じことだ。吹矢を射た空あき家やの窓に赤い布が下がつてゐたのはをかしいぢやないか、あれは多分、吹矢を射るぞと合圖に使つたのだらう。赤い布で合圖をして、兵三郎が顏を下げたところへ射た﹂
﹁へエ――﹂
﹁覆面の曲者が三人、日本橋の宵に出たといふのも妙ぢやないか。それほどの相手に取詰められ乍ら、かすり傷一つ負はないのも不思議だ﹂
平次に斯かう説明されると、兵三郎も同腹だつたことは疑ひもありません。
﹁手數のかゝつた細工ですね、親分﹂
﹁それでも御朱印を盜み出せなかつた、どうしても鍵が手に入らないのだ。そこで兵三郎のことといふと夢中になる娘のお輝を騙だました。――お輝は一寸見は幼うひ々しく、いかにも子供らしいが、もう立派な娘だ。兵三郎の死骸に取とり縋すがつての歎きを見て俺はこの娘の一と役に氣が付いたよ。そこへ五日目の晩の事――娘が氣分を惡くしたり手洗へ行つたり、夜中に庭へ出たといふ話を聞いて、父親の手てば筐こから鍵を盜んだのがあの娘に違ひないと氣が付いたよ﹂
﹁――﹂
﹁兵三郎を殺したのは、兵三郎を存分に操あやつつた﹇#﹁操あやつつた﹂はママ﹈お浪か、お浪の仲間だ。が、下手人は家の中の者と判つても、それから先はどうしても判らない。仕方がないから餘計な手數をして、下手人が氣を揉もんで仲間のところへ行くのを待つたのさ。後で辰次がお浪の亭主だつたと解つて、なんだ馬鹿々々しいと思つたよ﹂
﹁成る程ね﹂
話を聽いて見ると何の變へん哲てつもありません。
﹁お輝は可哀想だが、仕方があるまい――﹂
平次はたゞそれだけが氣になる樣子です。