一
﹁親分、元飯田町の騷ぎを御存じですかえ﹂ ﹁何んだい、元飯田町に何があつたんだ﹂ ガラツ八の八五郎がヌツと入ると、見通しの縁側に踞しやがんで、朝の煙草にして居る平次は、氣の無い顏を振り向けるのでした。 江戸中に諜てふ報はうの網を張つて居る順風耳の八五郎は、毎日下つ引が持つて來る夥おびたゞしい事件の中から、モノになりさうなのを一應調べて親分の錢形平次に報告するのです。 ﹁なアに、つまらねえ物盜りなんだが、怪我人があるから、俎まな橋いたばしの大吉親分がやつきとなつて調べてゐますよ﹂ ガラツ八がつまらねえと片付ける事件に、飛んだ大物のあることを平次は時々經驗して居ります。 ﹁大吉親分がやつきとなるやうぢや馬鹿にはなるまいよ。誰が怪我をして、何を奪とられたんだ﹂ ﹁元飯田町の加島屋――親分も御存じでせう﹂ ﹁後家のお嘉代といふのが荒物屋をやつて、内々は高利の金まで廻してゐるといふ名題の因いん業ごふ屋だらう﹂ ﹁その加島屋へ宵泥棒が入つたんで﹂ ﹁フーム﹂ ﹁手代の與之松は使ひに出た留守、伜の文次郎は町内の風呂、娘のお桃はお勝手でお仕舞の最中、後家のお嘉代がたつた一人で金の勘定を濟ませ、用よう箪だん笥すへ入れたところを、後ろから忍び寄つた曲者に脇腹を刺さされ、あつと振り返るところを、手てし燭よくを叩き落されて、用箪笥の財さい布ふを盜まれたんださうで﹂ ﹁財布にいくら入つてゐたんだ﹂ ﹁三百兩といふ大金ですよ﹂ ﹁それからどうした﹂ ﹁物音に驚いてお勝手から娘のお桃が飛んで來ると、母親は血だらけになつて眼を廻してゐる。曲者は狹せまい庭を一と飛びに、生いけ垣がきを越して逃げ出したんださうで――。昨夜は隨分暑かつたが、それにしても縁側を開けたまゝで金の勘定をしてゐたのは、少し用心が惡過ぎましたね﹂ ﹁八五郎なら叔母さんから貰つたお中元の小錢でも、用心深く便所の中へ持込んで勘定する﹂ ﹁冗談でせう﹂ ﹁ところで加島屋の後ご家けの傷は?﹂ 相變らず冗談を交かう換くわんし乍ら、平次には事件の外貌を八方から探らうとする興味が動いた樣子です。 ﹁ひどい傷だが、氣丈な女で、手當をさせ乍ら、いろ〳〵指圖をしてゐますよ。外科の話ぢや、唯突いた傷なら急所を除よけてゐるから大したことは無いが、存分に抉ゑぐつた傷だから、請合ひ兼ねるといふことで﹂ ﹁僞者の姿を見なかつたのかな﹂ ﹁チラと見たやうな氣がするが確かなことは判らないといひますよ﹂ ﹁それつきりぢや仕樣が無い。兎も角、暫くの間見張つてゐるが宜い。俎まな橋いたばしの大吉親分が手柄にするのは構はないが、女一人斬つて三百兩といふ大金を奪つたのは放つて置けない﹂ ﹁何を見張るんで? 親分﹂ ﹁三百兩の金を易々と盜つた手際は、充分狙つた仕事だ。加島屋の家の者と、出入の者、それから近所の衆に氣をつけるが宜い。もう少し念入りにするには、伜のなんとか言つたな――﹂ ﹁文次郎ですよ。先妻の子で、お嘉代には繼しい仲だが、一寸好い男で――尤もつとも近頃は隣の九郎助といふ者の娘お菊と仲が良いさうで﹂ ﹁その文次郎の出入りを調べて見るが宜い。繼母との仲が良いか惡いか、金の要ることは無いか、騷ぎのあつた時刻に、本當に風呂に行つてゐたかどうか、繼まゝしい仲でも、親を手に掛ける筈はあるまいが、文次郎の仲間や友達に惡いのはないか、其處までたぐるんだ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁序ついでに娘のお桃のことも、伜と仲の好い隣の娘のことも一と通りは調べるんだな。それから手代の與之松は本當に使に出てゐたかどうか、そいつは大事だ。――もう一つその三百兩の金は、何處から入つた金か、それも聽いて置くに越したことは無い﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁後あと前さきの樣子を見ると、流しや出來心で入つた泥棒ではあるまい。判つたか、八﹂ ﹁へエ――、判つたやうな判らねえやうな、まア行つて見ますよ、親分﹂ そんな心細い事を言ひ乍ら、ガラツ八はもう一度元飯田町へ飛んで行きました。二
この見かけの極めて單たん純じゆんな事件が、思ひも寄らぬ複雜なものにならうとは、錢形平次も思ひ及ばなかつたでせう。 ﹁サア、大變ツ、親分﹂ ガラツ八の八五郎が飛込んで來たのはそれから二日目でした。 ﹁到頭大變が來やがつた。皿小鉢を片附けるんだ、靜﹂ 一向驚く樣子もなくそれを迎へる平次。 ﹁落着いちやいけませんよ、親分。俎まな橋いたばしの大吉親分は、加島屋の伜文次郎を縛つて行きましたぜ﹂ ﹁母親が刺された刻こく限げんに、町内の風呂に居なかつたんだらう﹂ ﹁どうしてそれを? 親分﹂ ﹁そんな事だらうと思つたのさ。それから何うした﹂ ﹁文次郎も若い盛りだから、少しは借金があるやうで﹂ ﹁それで母親の虎の子を狙つたといふのか﹂ ﹁なアに借金は五兩や十兩で濟むが、日頃繼母のケチなのが氣に入らなくて、友達にもこぼし拔いてゐたといふから、つい疑はれるぢやありませんか﹂ ﹁後家のお嘉か代よはそんなに吝けちだつたのか﹂ ﹁田たに螺しのお嘉代と言はれた女ですよ。店を女手一人に切り廻してゐる外に、高利の金まで貸して、手一杯に働いて居たんださうで、四十五だといふのに、なりも振りも構はず、鬼婆アのやうになつて働いてゐますよ﹂ ﹁それで溜ためた三百兩か﹂ ﹁どんなに口く惜やしいか、それから泣いてばかり居たんださうで、鬼婆アの角も折れたんでせう﹂ ﹁傷はどうだ﹂ ﹁段々快いいやうで、外科も驚いてゐますよ﹂ ﹁手代は?﹂ ﹁與之松といふ遠縁の者で、――二十八といふ男盛りだが、少し足りない方で、使ひ走りと店番の外には役に立ちません﹂ ﹁その日は確かに外に居たんだらうな﹂ ﹁日本橋の店へ使に行つて、こいつは確かに留守でした﹂ ﹁近所に變つたことは無いか﹂ ﹁隣の九郎助といふのは町内での物持で、しもたや暮しをしてゐるが、人の物などに眼をつける人間ぢやありません。その娘のお菊といふのが文次郎と變な噂のある女で、これはちよいと踏ふめますよ﹂ ﹁女ぜげ衒んみたいなことを言ふな﹂ ﹁後家のお嘉代は九郎助と仲が惡くて、若い二人の仲をあまり喜ばないさうですよ﹂ ﹁八、誰か外そとに待つてゐるぢやないか、若い女の人のやうだが﹂ 不意に、平次は話半分にして、入口の方を覗くのでした。 ﹁加島屋のお桃さんが來てゐますよ。親分に會つて、是非お願ひがし度いつて﹂ ﹁なぜ入れないんだ。――つまらない遠慮ぢやないか﹂ ﹁へエ――、會つて下さるんですか、親分﹂ ﹁會ふも會はないもあるものか、俺にそんな見けん識しきがあるわけは無い。若い娘さんを岡ツ引の門口に立たせて置く奴があるものか﹂ ﹁へエ――﹂ 驚いて飛んで出た八五郎、格子を勢ひよく開けて、バアと外へ顏を出しましたが、其處には誰も居ません。 ﹁おや?﹂ ﹁どうした八﹂ ﹁居ませんよ、確たしかに此處に待つてゐた筈なんだが、變だなア﹂ ﹁だから餘計な細工をするんぢやないと言ふんだ﹂ 口小言を言ひ乍ら、平次も草ざう履りを突つかけて、路地の外まで出て見ましたが、若い娘の姿は愚おろか、その邊には雌めす犬いぬ一匹居なかつたのです。 ﹁どうしたんでせう、親分﹂ ﹁行つて見よう。なんか變つたことがあるのかも知れない﹂ 平次と八五郎は、支度もそこ〳〵、お桃を追ふともなく、宵闇の中を、元飯田町まで駈けました。三
加島屋の入口に差しかゝると、中から手代與之松に送られて出て來た、中年輩の武家と摺すれ違ひました。薄明りの中で、よくは判りませんが、色の白い、背の高い、身みな扮りは至つて粗末ですが、いかにも立派な男で、行き違ひざま、平次とガラツ八の顏を見て、輕く會えし釋やくを返して往來へ出て行きます。 ﹁あれは?﹂ 平次は與之松に訊ねました。 ﹁中坂の御家人藤井重之進樣で﹂ 與之松は答へます。これは二十七八の如何にも氣の拔けたやうな男です。 ﹁用事は?﹂ ﹁私には判りませんが、――へエ﹂ ﹁よし〳〵、それぢや主人に訊かう、容體はどうだ﹂ ﹁少し疲れたやうですが、大したことはございません﹂ さう言ふ與之松に案内させて、荒物屋の店の奧、曾かつて三百兩の大金を盜られた六疊に通りました。 ﹁お神さん、錢形の親分だよ﹂ 八五郎が先廻りをして言ふと、 ﹁あ、錢形の親分さん、有難う御座います。親分さんなら伜を助けて下さるでせう。お願ひでございます、親分﹂ 手てお負ひのお嘉代が、無理に身體を起さうとするのを、平次はやつと押へ乍ら、 ﹁起きるんぢやない、――其儘が宜い、その儘が。――ところで、飛んだ災難だつたな、お神さん。三百兩といふのは容易ならぬ金だ、それを盜られた上怪け我がまでされちや﹂ ﹁有難う御座います。それもこれも私の油斷からで御座います。伜に疑ひがかゝるなんて、飛んでもないことで御座います﹂ 繼母のお嘉代はひたむきに伜の文次郎の冤むじつを訴へるのです。 ﹁ところで、三百兩の大金は、不似合と言つてはをかしいが、用よう箪だん笥すなどへ手輕に入れて置く金ぢやない。何處から受取つたとか、何にする金だつたとか、それだけでも訊き度い――傷に障さはらなきや話してくれまいか﹂ ﹁大丈夫で御座います。お蔭樣で傷の方は一日々々快くなるやうで、もう少し位話しても障るやうなことは御座いません。それに、錢形の親分さんなら、是非お耳に入れて置き度いことも御座います﹂ お嘉代は熱心に平次を見上げました。 ﹁フーム、俺も訊いて置き度いことがある﹂ ﹁まづ、三百兩の金を用箪笥へ入れて置いたわけで御座います。それは、あの翌る日、その金をそつくり人樣にお渡しする約束が御座いました﹂ お嘉代は少し息が切れる樣子でしたが、それでも思ひの外元氣に續けます。 ﹁拂つてやる先?﹂ ﹁今しがた親分さん方は、店先でお武家樣にお逢ひぢやありませんか――立派なお武家樣に﹂ お嘉代は﹃立派﹄といふ言葉に力を入れました。 ﹁逢つた、中坂の藤井なんとかいふ――﹂ ﹁藤井重之進樣で御座います。三百兩の金は、あの翌る日、あの方に差上げる筈で御座いました。――私の油斷から、あの金を盜られて了つては、配つれ偶あひが死んでから十五年の間の、骨を削けづるやうな苦勞も、皆んな無駄になつてしまひました﹂ お嘉代はさう言つて、ガツクリ首を垂れるのです。ぐつしより枕をひたす涙、人知れず今までも、幾度か泣いてゐたのでせう。 ﹁それはどういふわけだ、お神さん﹂ ﹁聽いて下さい、親分さん方、これには深い仔しさ細いが御座います――。私の夫加島屋文五兵衞は、西國のさる大藩に仕つかへ、三百石を頂戴した立派な武家で御座いました。若い頃同藩重役の子と爭つて傷つけ、永の御暇となつて江戸に出ました。武藝學問人に後を取らぬ夫で御座いましたが、運惡く幾年待つても歸參叶かなはず、二君に仕へる心もなく、貧苦の中に相果てました。殘つたのは私には義理のある仲の伜文次郎と、私の腹を痛めた娘桃の二人。――夫は生前、加島家の沒ぼつ落らくを歎き、どの樣にしても伜文次郎を武士に仕立て、家名を擧げることを心掛けて居りましたが、伜は柔にう弱じやくな生れで、武家奉公などは思ひも寄りません﹂ ﹁――﹂ 手負乍ら、お嘉代の烈れつ々〳〵たる氣きは魄くが、その打ち濕しめつた言葉のうちにも、聽く者の肺はい腑ふを抉ゑぐります。 ﹁伜を武家にする手段は、此上たつた一つ、御家人の株を買ふ外は御座いません。が五十俵三十俵の御家人の株でも、御存じの通り三百兩は要ります。――それから十五年の長い間、私は喰ふものも喰はず、年頃の娘に着せるものも着せず、必死となつて金を溜めました。荒物を賣つた儲まうけでは、纒まとまつた大金を手に入れることなど思ひも寄りません。恥かしいことですが、高い利息の金まで廻して、必死と溜めた金が二百九十二兩、それに明日になつたら、私の母から讓られた形見の櫛くし笄こうがひ、亡夫の腰の物のうち、不用の品を賣拂つて八兩の金を纒まとめ、豫かねて約束の中坂の藤井樣にお屆けする筈で、黄八丈の財さい布ふに入れたまゝ、この部屋の用箪笥にしまつたところを盜られたので御座います﹂ ﹁――﹂ ﹁藤井重之進樣は、身にも命にも代へられない大事で、三百兩の金が入用だと申します。あの翌る日は、――今日から二日前に、あの三百兩をお屆けして、伜の文次郎を名儀だけの養子に屆出、藤井家の御家人の株を私が讓り受ける約束で御座いました。――三百兩の金が無くなつては、それも果は敢かない望で御座います。先刻藤井樣が直々御見えになつて、金は二日前に入用であつた、散々待つたが屆けてくれなかつたので、他から融ゆう通づうして用事は濟んだ。株賣買のことはこれで打切るやうにとのお言葉で御座いました﹂ 藤井重之進が此處へ來たわけが、それで漸やうやく判りました。斯かう語り終つたお嘉代は、亡夫の望を果し得なかつた腑ふ甲が斐ひなさと、十五年間の爪に灯ともすやうな苦心を思ひ起して、たゞさめ〴〵と泣くのです。 ﹁それは氣の毒だ。――が、まア氣を大きく持つが宜い。人の運が何處にあるかもわからず、御家人の株を買つたから仕合せになると限つたわけでもあるまい﹂ 平次はさう言つた生温い慰めの言葉をくり返す外はありません。四
﹁親分變なことになつたぢやありませんか﹂ ガラツ八は涙を横なぐりに拭いて、平次の後を追ひます。縁側から狹せまい庭へ降りて、生いけ垣がきを一ひと巡めぐり、平次はいつもの流儀で、洩もれるところ無く四方の情勢を調べるのでした。 ﹁唯の荒物屋のお神さんと思つたのが間違ひさ、大した母親だよ。あの心持を聽いたら、大たい概がいの道樂息子も眼が覺めるだらう。お前は歸りに番所へ廻つて、文次郎にあの話をしてやるが宜い。文次郎はまだ知らずに居るんだらう、唯の吝けちなお袋位に思つてゐる樣子だ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁それから、中坂の藤井重之進といふ御家人も序ついでに調べて置かうぢやないか、下つ引を二三人狩り出して、暮し向から金の出所、近頃の樣子など、こいつはわけもなく判るだらう﹂ ﹁へエ――、それぢや行つて來ますよ、親分﹂ ﹁待て〳〵八、變なものが落ちてるぢやないか、おや﹂ 平次は庭の隅すみから何やら拾ひ上げました。 ﹁財布ぢやありませんか、親分﹂ ﹁黄八丈の財布だ。中味はしつかり入つてゐる。この中に三百兩入つてゐると話が面白くなるぜ、八﹂ 平次は財布を持つて、部屋へ引返しました。行燈の下には手負のお嘉代が、雇やと婆ひばあさんに看み護とられて、ウトウトして居る樣子です。 ﹁お神さん、盜られた財布はこれですかえ﹂ 八五郎は聲を張りあげます。 ﹁おや?﹂ お嘉代は半身を起しかけて、傷の痛みにそのまゝ床の中に埋もれました。苦痛と好奇と驚きや愕うがくと、いろ〳〵の感情がその眼の中に動きます。 ﹁それですよ。盜られた財布はそれに相違ありません。何處から出て來ました、親分﹂ ﹁庭の隅に落ちてゐたんで、――中には小判で確かに三百兩﹂ 平次は馴なれない手付きで、一枚々々小判を數へて居ります。山吹色が行燈の灯に反映して、時ならぬ華やかな空氣を釀かもしますが、事情は息づまるほど緊張して、ガラツ八とお嘉代の眼は、その數を讀む手に吸ひつきます。 ﹁三百枚――確かに三百兩﹂ 平次は最後の一枚をチーンと鳴らします。 ﹁そんな筈はありません。中に小判は二百九十二兩、八枚足りない分は、翌る日髮の道具と腰の物を賣つて三百兩になる筈で御座いました﹂ お嘉代の調子は上うは摺ずりました。 ﹁考へ違ひぢやないかお神さん、小判は確かに三百兩あるんだが﹂ ﹁いえ、二百九十二兩で御座いました。間違へやう筈はありません﹂ ﹁さア判らねえ﹂ 平次は高々と胸を組みました。その眞似をするともなくガラツ八も、 ﹁すると、その八兩は何處から紛まぎれ込んだ、親分﹂ ﹁俺に訊いたつて判るものか﹂ ﹁財布は確かに盜まれた品なんだね、お神さん﹂ と八五郎。 ﹁それに間違ひございません、私が縫ぬつた財布ですから﹂ ﹁もう一度外へ出て見よう、八﹂ 平次は八五郎を誘さそつてもう一度庭に降り立ちました。手代の與之松と雇婆さんに立ち合つて貰つて、財布の落ちて居た場所を見せましたが、夕刻まで其處になんにも無かつたことは確かで、派手な黄八丈の財布が、狹せまい庭にあるのを、白日の下に氣が付かずに居る筈もありません。 して見ると、財布の持込まれたのは暗くなつてからで、あの事件があつてから、木戸はよく閉めて置くやうですから、外から投げ込んだものと見るのが當然です。 ﹁盜る方には用心はあるが、金を投り込む方には用心は無い。こいつは大分わけがありさうだよ、八﹂ 平次は八五郎を眼で誘さそつて、いきなり隣の九郎助の家へ――。 ﹁御免よ﹂ 遠慮なく表の格子を開けます。 ﹁へエへエどなた樣で﹂ 格子を開けて招じ入れたのは、五十二三の實體な男でした。 ﹁俺は神田の平次だ﹂ ﹁へエ、錢形の親分さんで﹂ ﹁この財布を知つて居るだらうな﹂ ﹁――﹂ 九郎助の顏色はサツと變りました。五
﹁親分さん、お疑ひは御ごも尤つともですが、私はなんにも存じません﹂ 九郎助は灯から顏を反けるやうに、たゞおろ〳〵と辯解するのです。見る影もない中老人で、半面に青あを痣あざのある、言葉の上方訛なまりも妙に物柔かに聞えます。 ﹁いや、隣のお神さんを刺したのはお前とは言はない。――あの晩まで木戸を閉めずに居たやうだから、生いけ垣がきを越せば、曲者は外からでも入つて來られる。――が今晩は違ふ。木戸は嚴重に閉めてあつたし、直ぐ生垣の向うの部屋に居る俺達に聞かせないやうに、その財布を投り込むには、此家の庭から竹たけ桿ざをの先かなんかに引つ掛けて、そつと送り込む外は無い、どうだ――﹂ 平次は九郎助の顫へる頸くびを見乍ら續けました。 ﹁――それに、あの財布を盜んだ奴が投り込んだのなら、金高が二百九十二兩になつて居る筈だ。八兩多くなつて丁度三百兩入つてゐるのはどういふわけだ﹂ ﹁――親分さん、それは――﹂ ﹁まだ言ふのか九郎助。――お前は何處かで見た事のある顏だ――。その青あを痣あざは、刺いれ青ずみぢやないか。鬢びんの毛がもう少し濃くて、痣あざが無くて、五つ六つ若くすると、――あつ、手首の入れ墨﹂ 平次に圖星を指されて、逃げ腰になる九郎助を、八五郎は後から追つ冠せるやうに押へました。 ﹁恐れ入りました、親分﹂ ﹁お前は鼬いたちの七ぢやないか﹂ 一時海道筋から江戸へかけて、惡名を謳うたはれた窃せつ盜たうの名人、それは鼬と異名を放つた七助の成れの果てだつたのです。 ﹁恐れ入りました。錢形の親分さんと聽いて、あつしもう觀念して居りました。――でも七年前に惡事の足を洗つて――それからは人樣の物塵ちり一つ取りません。御慈悲でございます、――お見逃しを願ひます﹂ 涙と共に疊に額を揉もみ込む七助の九郎助。 ﹁人の物塵一つ盜らなくたつて、人の庭に三百兩も投り込むのは穩かぢやないぜ。どうしたといふのだ、七﹂ ﹁親分、――親馬鹿で御座います、笑つて下さい﹂ 惡黨らしくもなく、平へい凡ぼんに老いさらばへて鼬いたちの七助は涙と共に語るのでした。 それによれば、隣の伜文次郎と、自分の娘お菊との仲を薄々氣が付き乍ら、七助の九郎助は若い二人の心持を汲んで、とがめる氣にもならず、出來ることなら無事に添そはして喜ぶ顏が見たい心持で一杯だつたのです。 文次郎とお菊は、素より繼母の深い心も知らず、唯もうお嘉代の世にも稀まれなる吝りん嗇しよくに愛想を盡かし、日頃心ひそかに怨んで、暫く江戸から姿を隱さうと、相談してゐるのでした。一つは繼母のお嘉代が文次郎を武士にするために、素姓の怪しい九郎助の娘などと嫁めあ合はせる氣は毛頭無かつたことも、若い二人を苦しめる原因の一つだつたのです。 お菊の父親七助も、お嘉代の吝りん嗇しよくを憎む心に燃え、内々は若い二人の相談相手にまでなつて居た有樣で、三日前お嘉代が刺さされ、三百兩の大金が盜まれたと聞いた時、ハツと思ひ當つたのも無理のないことでした。 間もなく俎まな橋いたばしの文吉が文次郎を縛つたと聽いて、なんとかして文次郎を救ひ出し、娘の喜ぶ顏が見度いと思ひ込んだのです。 その時フト自分の家の庭の植込の中から、黄八丈の空財布を見付けました。多分お嘉代を刺した曲者が、盜んだ財布の中味を拔いて、生垣の中に空財布だけを突つ込んで行つたのを、犬でも銜くはへて來たのでせう。 無くなつた金は大掴みに三百兩と聽いた七助は、その金が御家人の株を買ふ金であつたとも知らず、曾かつて自分のぎ溜めた錢で、今は僅かに殘る貯への中から、丁度三百兩を取出して財布に入れ平次が推察した通り竹たけ桿ざをの先に引つ掛けて隣の庭に入れたのです。 ﹁恐れ入りました親分、人の爲め惡かれと思つてやつた事ではございません。娘可愛さに飛んだことをして了ひましたが、どうかお許しを願ひます﹂ 曾かつての惡者、鼬いたちの七助の哀れ深い姿を見て、平次は苦笑するばかりです。 ﹁人の物を取るのも惡いが、無分別に人へ金をやるのも良い事では無いよ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁ところで、あの晩、隣の荒物屋に入つた曲者を、お前は見て居る筈だと思ふが﹂ 七助の口くち吻ぶりから、平次は早くも此の機微を掴んだのです。 ﹁へエ――﹂ ﹁文次郎は風呂に居なかつたさうだが、文次郎なら自分の家に忍び込むのに、生垣を飛び越して入つたり、空財布を庭へ捨てるやうなことはあるまいと思ふが﹂ ﹁それで御座います親分さん、私もどうしても文次郎さんを疑ふ心にはなれませんでしたが――﹂ 平次の助け船に七助は膝を進めました。 ﹁思ひ當ることがあるだらう。後さきのことを詳くはしく話して見るが宜い﹂ ﹁あの晩お隣の文次郎さんは、風呂へ行つたことにして、私の娘と俎まな橋いたばしの邊で逢つて居たさうで――﹂ ﹁そんな事だらう﹂ ﹁それに、私は曲者の逃げる姿をチラリと見掛けましたが、生垣を飛越した樣子が、大抵の身輕さぢや御座いません。私も若い時分は鼬いたちとか何とか言はれた人間ですが、四尺以上で幅のある生いけ垣がきを夜目にあゝ器用に飛べるものぢや御座いません﹂ 七助から聽き出したのは、大方そんな事だけ。 ﹁それだけでも大變役に立つよ。――ところで、言ふ迄もないことだが、逃げたり隱れたりするやうなことはあるまいな。鼬の七助といふ名前は事と次第では此の場限り忘れてやるが﹂ ﹁有難う御座います、親分さん﹂ 歸つて行く平次を、もう一人、隣の部屋で拜んでゐる者がありました。鼬の七助には似もやらぬ美しい娘。――それはお菊の泣き濡れた痛々しい姿です。六
﹁さア、判らねえ、親分﹂
それから二三日經つて、ガラツ八はいきなり斯こんな事を言ひ出したのです。
﹁うるさい奴だな。――お嘉か代よを刺して二百九十二兩を盜つた曲者なら分つて居るぢやないか﹂
錢形平次は事もなげに應こたへました。
﹁へエ、――誰です、そいつは?﹂
﹁人を刺して、いきなり抉ゑぐるのは、武藝の心得のある者だ。素人の盲めく目ら突づきではない。――曲者はあの晩加島屋に三百兩の金が用意してある事を知つて居る武家だ。――四尺以上で幅のある生垣を苦もなく飛越すのは、武藝の心得も相當以上だな。――それ程の武家はきつと自分の刺した加島屋の後ご家けの樣子を見に來る筈だ﹂
﹁?――﹂
﹁加島屋に三百兩の金がなくなるとホツとする人間がある。――その曲者は多分加島屋の娘のお桃に顏か身體を見られたと思つて居るんだらう。お桃を誘かど拐はかすか、殺した上でないと、加島屋へ顏を出せない﹂
﹁すると、親分﹂
﹁俺はもう、中坂の藤井重之進の内うち向むきのことを調べてゐるよ。御家人の癖くせに賭かけ事ごとに凝こつて首も廻らぬ借金だ。一時は御家人の株まで賣らうとしたが、二三日前から急に金が出來て、ポツポツ借金を返し始めた﹂
﹁なんて太てえ事をしやがる、行きませう、親分﹂
﹁相手は小身でも直參だ。町方の岡つ引ぢや手が出せねえ﹂
﹁そんなわからねえ事があるものか、親分、あの娘が可哀想ぢやありませんか﹂
ガラツ八の八五郎は、躍やく起きとなつて平次の袖を引くのです。
﹁金は戻るまい。――があの娘だけは助けてやり度い。お前手紙を持つて行つてくれるか﹂
﹁毆なぐり込みでもなんでもやりますよ、親分﹂
はやるガラツ八を撫なだめて、平次が書いた一本の手紙。それを中坂の藤井重之進の家へ屆けた晩、加島屋のお桃は無事で家へ戻りました。
手紙の内容は、加島屋の曲者の殘した證據の數々を擧げて、お桃が今晩中に歸らなければ、龍の口評定所に同じ文面で訴へ出ると書いただけですが、弱い尻を持つた藤井重之進は、お嘉代が助かつたと見て、急に妥だけ協ふて的きになり、近所の空家に隱して置いたお桃を下男に引出させて加島屋に返したのです。
× × ×
﹁相手が惡いから、此の上取つて押へ樣は無いが、惡事を働いて長い正月はあるめえ。天道樣のなさる事を見てゐることだ。――その腐くさつた御家人の株を買つて伜を二本差にしようなどとは惡い量見だぜ。諦あきらめて眞面目な家業に勵むが良いよ。盜られた金は惜しいが稼かせげばいくらでも出來る。現にお隣の九郎助が二人を一緒にして三百兩の資もと本でをやり度いと言つてるぢやないか﹂
平次はさう言つて、病床のお嘉代を慰めるのでした。文次郎も繼母の深い心に打たれて、すつかり良い息子になり、やがてお菊と祝言した事は言ふ迄もありません。﹃人の惡いは飯田町﹄と言はれた飯田町の安御家人の中には、こんな性の惡いのがうんとあつたのです。