一
﹁親分、變なことがあるんだが――﹂ ガラツ八の八五郎は、大きな鼻の穴をひろげて、日本一のキナ臭い顏を親分の前へ持つて來たのでした。 ﹁横町の瞽ご女ぜが嫁に行く話なら知つてるぜ。相手は知らないが、八五郎でないことは確かだ。今更文句を言つたつて手遲れだよ八。諦あきらめるが宜い﹂ 錢形平次は無精髯を拔き乍ら、ケロリとして斯こんなことを言ふのです。お盆過ぎのある日、御用がすつかり暇になつて、凉みに行くほどのお小遣ひもない退屈な晝下がりでした。 ﹁冗談ぢやありませんよ。横町の瞽ご女ぜはあゝ見えても金持だ。こちとらには鼻も引つかけちやくれませんよ、へツへツ﹂ ﹁嫌な笑ひやうだな。さては一と口申込んで小氣味よく彈かれたらう﹂ ﹁へツ、彈はねたのは此方で﹂ ﹁うまく言ふぜ﹂ ﹁ところで親分變な話の續きだが――﹂ ﹁さう〳〵變な話を持つて來たんだね。瞽ご女ぜの嫁入りの話でないとすると、叔母さんがお小遣ひでもくれたといふのか﹂ ﹁交まぜつ返しちやいけません。此の手紙ですよ、親分﹂ 八五郎は懷中から一通の手紙を出すと、疊の上を滑らせるやうに、平次の前へ押しやりました。 ﹁何? 手紙﹂ ﹁達筆で書いてあるから、よくは讀めねえが、大おほ凡よその見當は、二千兩といふ大金を、この春處しよ刑けいになつた大泥棒の矢の根五郎吉が、このあつしに形見にやるといふ文句だ。手紙を出した主は五郎吉の弟分で、兄よりも凄いと言はれた彦ひよ徳つとこの源太――﹂ ﹁お前へもそんな手紙が行つたのか、八﹂ 錢形平次の聲は急に緊きん張ちやうしました。 ﹁すると、親分は?﹂ ﹁知つてゐるよ。いや、知つてゐるどころの騷ぎぢやない。俺のところへもそれと同じ手紙が來てゐるんだ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁その二千兩は、お旗本の神かう津づう右きや京う樣が預つた大公儀の御用金だ。神津右京樣は二千五百の大身だが、日頃豊ゆたかな方でないから、二千兩は愚おろか差迫つては二百兩の工面もむづかしい。御預り御用金を、少しの油斷で矢の根五郎吉に盜まれ、腹を切るか、夜逃げをするか、二つに一つといふ大難場だ。――尤もつとも、矢の根五郎吉は直ぐ捉つかまつた。俺の手柄と言ひ度いが、それは神津右京樣の御總領吉彌樣の働きと言つても宜い。――吉彌樣は十四といふ御幼少だが、根が悧りは發つの方で、一と目泥棒を見てよくその癖くせを覺えてゐて下すつた。右の足が少し短かい上、聲に癖がある――不思議な錆さびのある一寸響く聲だ﹂ ﹁――﹂ ﹁矢の根五郎吉はわけもなく捉つかまつたが、傳馬町の牢同心が腕に撚よりをかけて責め拔いても、二千兩の隱し場所を白状しない。骨が碎くだけるまで強情を張り通して、到頭獄門になつたのは二た月前だ。その矢の根五郎吉が命にかけて隱し了せた二千兩の金を、弟分の彦徳の源太が、五郎吉を縛つた俺やお前にくれるといふのは可をか笑しいぢやないか﹂ ﹁さうですかね﹂ ﹁彦ひよ徳つとこの源太の手紙には何とあつたんだ﹂ ﹁――十三日の晩、小日向の龍りう興こう寺じ裏門まで行つて見ろ――と書いてあります﹂ ﹁俺のは十五日だ。――今日は十二日か、お前は明日の晩ぢやないか、行つて見る氣か﹂ ﹁どうしたものでせう、親分﹂ ﹁俺はツイ今しがたまで、行くつもりはなかつた。世の中にはこんな手紙を書いて、岡つ引などをからかひたがる物好きな馬鹿がうんと居る。これもその一人だらうと思つてゐたが、お前にまで呼出しが來るやうぢや油斷がならねえ。――俺は行つて見ることに決めたよ、八﹂ ﹁それぢやあつしも行つて見ますよ。二千兩位の目腐れ金は欲しかアねえが、相手の仕掛けが見て置き度てえ﹂ ﹁大層な勢ひだな﹂ ﹁なアにそれ程でもありませんがね﹂ ガラツ八はすつかり面白くなつた樣子です。二
翌る日。――飛んで來たガラツ八。 ﹁大變ツ、親分﹂ ﹁サア來た。今日あたりはそいつが來るだらうと、皿小鉢を片付けて待つてゐたんだ﹂ 平次は相變らず落着き拂つて笑つて居ります。 ﹁關口の太助が殺されましたぜ﹂ ﹁何?﹂ 顏は新しいが、野心的で戰鬪的な太助――曾かつての矢の根五郎吉を擧げる時、平次に力を協あはせて働いた若い御用聞の一人が殺されたといふのは容易ならぬことです。 ﹁滅茶々々に縛つた死骸が、關口の大瀧の下で揚あがつたんだ。行つて見て下さいな。親分が行くまで、指をさゝせないやうにしてあるんだから﹂ ﹁よし、行つて見よう﹂ 平次は仕度もそこ〳〵、八五郎と一緒に飛びました。神田から關口までは近くない道ですが、八五郎はこんなことには馴れたもので、馬のやうによく驅けます。 現場へ行つたのはもう晝頃、彌次馬は一パイにたかつて居りますが、幸ひまだ檢屍前で、殺された太助の子分の石松が、町役人と一緒に筵むしろを掛けた死骸を護つて居ります。 ﹁どうした石松兄あに哥い﹂ ﹁あ、錢形の親分。――飛んだことになりました。あつしは口く惜やしくつて口惜しくつて、此の敵を討つて下さい﹂ 石松はポロポロ涙をこぼし乍ら、筵むしろをはねのけてくれます。 ﹁どれ〳〵飛んだ事だつたな﹂ 平次は死骸の横に廻つて丁寧に拜んだ上、ザツと全部の樣子を見渡し、それから恐ろしく念入りに部分々々を見みき窮はめて行くのでした。 ﹁容易のことで手てご籠めにされる親分ぢやありませんが﹂ 滅茶々々に取亂した死骸から顏を反そむけて、石松はまた涙をこぼすのです。 全く關口の太助は立派な御用聞でした。まだ三十臺の若盛りで、腕つ節も智惠も人並に優れ、少し向う見ずで輕率ではあつたにしても、惡者の罠わなに陷おちて、手籠にされるやうな男ではなかつたのです。 死骸には斬り傷も突き傷もありませんが、頭から手足へ打だぼ撲くし傷やうだらけで、それが紫色になつて居るところを見ると、息のあるうちに拵こさへた傷でせう。平次の馴れた眼からは、打撲傷がどんなに澤山あらうとも、命を奪つたのは水で、身動きもならぬやうに縛つた上、水の中へ抛はふり込まれたものに間違ひもありません。 ﹁重おもりが附いてあつたんだね﹂ ﹁その石が抱かせてありましたよ﹂ 石松は死骸の傍に轉がされた、澤たく庵あんの重おも石しほどの石を指します。 胸から首だけは繩を解いてありましたが、腰から下はまだ其の儘になつてゐたので、平次は丁寧に繩をほどき始めました。結び目は至つて緩ゆるく、俗に機はた織おり結むすびといふので、身體の傷は想像以上に滅茶々々です。肩から首筋額へかけての傷のうち、その幾つかは棒か竿で突いたやうな跡でせう。左右の手の爪が剥はがれてゐるのも痛々しい限りです。 ﹁何といふ事をするのだらう﹂ 平次も思はず悲憤の唇を噛みました。 繩を解いて行くに從つて、その繩と死骸の着物の間から變なものが落ちて來ました。拾ひ上げるとそれは、庭石の蔭や井戸端や石垣の間などによく生えてゐる虎ゆき耳のし草たの美しい葉と小さい白い花で、平次はそれを紙に挾んで懷中へ入れ乍ら、四方を見廻しましたが、其の邊には虎耳草など一つもありません。二
石松の話、關口の太助も變な手紙に誘さそはれて出たと判りました。いづれこの事件は、神津右うき京やうの屋敷と、盜まれた二千兩の御用金に關係してゐることでせう。眞相を見みき窮はめるためには、其處から手た繰ぐつて行かなければ――と平次は考へたのです。 小日向の神津の屋敷へ行くと、至つて快く通してくれて、用人の佐久間仲左衞門が相手をしました。まだ、五十そこ〳〵の年輩ですが、正直者らしい代り、ひどい耄ぼけやうです。 主人の神津右京は四十臺の働き盛り、長年の心願が叶かなつて最初に附いたお役目が上野東照宮の修覆係でした。一世一代の晴れ仕事と意氣込んでゐると、或夜嚴重な締りを外から開けて曲者が忍び入り、御預りの二千兩の御用金を奪ひ去つたのです。その二千兩の小判には一々極ごく印いんが打つてありますから、其の儘に通用しませんが、兎も角神津右京に取つては家にも身にも代へ難き大事件で、此の二十日迄に手に戻らなければ、本當に腹でも切つて申譯をする外はなかつたのです。 その日は主人の神津右京は、金きん策さくのため上かづ總さの知行所へ行つて留守。用人の佐久間仲左衞門、代つて平次と八五郎に應對しました。 ﹁御用金は奧の御居間の床の間に、注し連めを張つてお供へ申して置いた。盜賊の入つたのは眞夜中で御座らう。二重三重の締りを、外から何の苦もなく開け、千兩箱を二つ持出したのは人間業とも覺えない。多分これこそ、柏手を二つ三つ打つと、どんな錠ぢやうでも開くといふ、矢の根五郎吉とやらの仕業であらう。現に夜中隣室の物音にフト眼を覺した若樣が、そつと起きて縁側へ出て見られると、右足の跛ちんばな覆面の男が逃げるところであつたと申す。聲を掛けると、振り返つて無禮にも、﹃馬鹿奴ツ﹄と言つたさうだが、その聲は錆さびのある、不思議な聲を持つてゐたといふことぢや――﹂ 仲左衞門は少しくど〳〵と斯かう説明するのです。この話は今迄此の人の口から幾度繰返して聽かされたことでせう。 平次はもう一度念のためにその部屋を見せて貰つた上、戸締りの工合も調べ直しましたが、外からコジ開けた樣子もなく、唯上下の棧さんの輪鍵のあたりに、錐きりで小さい穴を開けた跡があります。平次は戸を閉め切つて内外からその穴の工合を見ましたが、たゞこれだけの穴で、三重の締りは開けるのは、殆ど不可能で、﹃泥棒は外から入つたぞ﹄と教へてゐるだけの細工とも思はれます。本當に柏手を二つ三つ打つて、苦もなく八重の締りを開く、奇蹟的な術を持つた賊ででもなければ入れる場所ではありません。 その足の惡いのと聲の錆さびで、矢の根五郎吉と見當をつけ、平次と太助が力を協あはせて苦もなく縛りましたが、この手柄の蔭に、重大な失しつ策さくが潜んでゐるやうな氣がして、我乍ら不思議な自責を感じてゐるのです。 神津右うき京やうの正室は十四になる總領の吉彌を遺のこして早く死に、今は雇人あがりの妾お江野といふのが萬事世話をして居ります。お江野には五つになる京之助といふ子がありますが、お江野と吉彌の間は、世に謂いふ繼しい仲であり乍ら何の隔へだたりもありません。 お江野は三十二三の美しい中年者。 ﹁親分、何分宜しく頼みます﹂ 言葉少なにさう言はれると、平次も何かしら、一と肌ぬぎ度い心持になるのでした。下賤で育つたにしては、妙にたけた賢い女です。 お江野の妹のお鳥といふのが、出戻りになつて、半年ほど前から神津家に引取られ、女中頭のやうに立ち働いて居りますが、これは姉の上品とは打つて變つて、滴たれさうな愛嬌と、どんな仕事にも向きさうな良い身體と、そして少しばかりお目出度い性格を持つて居るらしい年増でした。 ﹁あら錢形の親分さん。――八五郎さんも御一緒ね、お願ひ申しますよ。本當に此のお邸に萬一のことがあれば、第一私の行きどころがなくなるぢやありませんか﹂ さう言ふお鳥です。 ﹁心配するなつてことよ。お鳥さんなら引取手はうんとあるぜ、現に此處にも一人――﹂ 平次はさう言つて、後ろにぼんやり突つ立つて居る八五郎を頤あごで指すのでした。 ﹁あら、本當。嬉しいわねエ八五郎さん﹂ さう言つて、よく肥つた白い身體を、恐きよ縮うしゆくし切つてゐる八五郎へもたれかけるお鳥です。 若樣の吉彌は十四歳といふにしては、脊せいも智惠も伸び切つて、何となく逞たくましい感じのする少年でした。 ﹁平次か、御苦勞だな﹂ さう言つた如才なさ。神津一家に蔽おほひ冠さる災厄を、この名御用聞の手で取拂つて貰ひ度さで一杯だつたのでせう。 ﹁もう一度あの晩の事を伺ひますが﹂ ﹁何なりと﹂ ﹁曲者は千兩箱を持つて居りましたでせうか﹂ ﹁チラと見ただけで、よくは判らなかつたが、何にも持つてゐなかつたと思ふ。私がとがめると、﹃馬鹿奴ツ﹄と言ひ捨てて、庭に飛び降りた。聲が祭さい文もん語がたりのやうに錆びてゐたのと、足の惡いのは直ぐわかつたが、庭に飛降りた筈の曲者は、直ぐ姿を消してしまつて、多勢で搜したが、何處へ隱れたかわからなかつた。逃げるにしても、あの通り塀は高いのだが――﹂ ﹁庭を拜見いたします﹂ ﹁さア〳〵遠慮なく﹂ 庭下駄を借りて、下に降りた平次は、植込から縁の下まで覗きましたが、人間が一と晩隱れてゐるやうな物蔭があらうとも思はれません。吉彌が言つた通り、塀は一丈あまり、容易に飛越せる筈もなかつたのです。 ﹁その晩、月は?﹂ ﹁朧おぼ月ろづきであつたよ﹂ 後ろから續く吉彌は應へました。 ﹁ところで、お庭に虎ゆき耳のし草たはないでせうか﹂ ﹁虎耳草といふと?﹂ ﹁赤い莖くきに丸い毛のある葉が出て、白い小さい花の咲く――井ゐど戸ぐ草さとも言ひますが﹂ ﹁庭にはないが。あ、裏の三日月の井戸には澤山ある﹂ ﹁それは?﹂ ﹁小こび日な向た第一の名水だよ﹂ ﹁拜見出來ませうか﹂ ﹁宜いとも﹂ 案内されたのは、神津家の裏門の外。ザツと屋根をかけた立派な井戸で、ザラの人には汲ませない爲に、釣つる瓶べは外してありますが、覗くと山の手の高臺の井戸らしく、石を疊み上げて水肌から五六間、苔こけと虎耳草が一パイ生はえて居ります。 ﹁ひどく荒してありますな﹂ ﹁子供達が惡戯をするから。――それで釣つる瓶べも外はづしてある﹂ 吉彌は自分はもう大人の部に入つてゐるやうな口をきゝます。三
﹁ところで、内密に伺ひますが――﹂ ﹁何だ﹂ 吉彌は平次の物々しい顏色を讀んで、四あた方りを見廻しました。 ﹁お江野樣は、若樣にどの樣になさいます――斯こんな事をお訊ねするのは、失禮で御座いますが﹂ ﹁お江野か。――良い人だよ、大層親切にしてくれるし﹂ ﹁それからお妹のお鳥さんは?﹂ ﹁あれは面白い女だ、まるで藝人のやうで﹂ 吉彌は何やら思ひ出し笑ひをして居るのです。 ﹁御用人は?﹂ ﹁佐久間は若年寄だよ。――年はまだ若いくせに、物忘れがひどいし、老人のやうに引込み思案だから、私は若年寄と綽あだ名なをつけたよ。面白からう﹂ ﹁外に?﹂ ﹁若黨の三次、爺やの熊吉、それから婢はしためが二人﹂ ﹁有難う御座います﹂ 平次は丁寧に禮を言つて、奉公人の部屋へ下がりました。若黨の三次は二十七八の一寸良い男。――頭の空つぽな美男によくある、髷の刷はけ毛さ先きや、腹掛の皺や、煙草入の金具ばかり氣にすると言つた男。爺やの熊吉は、馬まぐ糞そた茸けが化けて、假りに人間のヒネたのになつたと言つた老人です。 門を出ると、 ﹁八、關口の子分衆と、下つ引を五六人集めて、あのお妾姉妹と、奉公人達の身許をすつかり洗つてくれ。詳くはしいほど宜い﹂ 平次は八五郎に言ひ付けました。 ﹁親分は?﹂ ﹁俺はもう一度大瀧へ行つて見る。あの邊に大八車か何かあればしめたものだが﹂ 平次のこの豫想は見事外れました。八五郎に別れて大瀧へ引返した平次、其の邊を隈なく搜しましたが、大八車は愚おろか、玩おも具ちやの風車も其處にはなかつたのです。 その日は八方に飛ばした下つ引の報告を待つて、空むなしく暮れました。八五郎はそれつ切り顏を見せず、彦ひよ徳つとこの源太に呼出される前、一應の注意をして置くべきであつたと思ひましたが、その運びもつかぬうちに、夜は次第に深くなります。 ﹁親分ツ﹂ 表の格子戸を押し倒して、八五郎が飛込んで來たのは、子こゝ刻のつ︵十二時︶近い頃でした。その刻限まで、寢もやらずに待つて居た平次は、此の時ばかりは冗談を言ふ餘裕もなく、飛出しざま、 ﹁八、歸つて來たか﹂ 手を取つて引上げぬばかり、後ではさすがに端はしたないと氣が付いたか、女房のお靜が持つて來た手てし燭よくの灯の中に苦笑して居ります。 ﹁驚いたの、驚かねえの――﹂ ﹁どうした、八。無事だつたのか﹂ ﹁無事は無事だが、驚きましたよ、親分﹂ ﹁關口の太助を殺した相手だ。油斷をすると飛んだことになる。出かける前に、お前によく言ひ含ふくめて置くんだつたよ。でも間違ひがなくて何よりだ。どんな事があつたんだ、事詳くはしく話して見ろ﹂ ﹁あの手紙の通り、正亥よ刻つ︵十時︶龍興寺の裏門に立つて居ると、――來ましたよ﹂ ﹁何が?﹂ ﹁大きな男、黒い單衣を着て、顏は隱してゐる。風呂敷でも冠かぶつて居たんでせう。――なんにも言はずに小手招ぎをするから、暫しばらく神妙に跟ついて行つたが、どうも氣になつてならねえ。どう考へてもこの野郎は知つてる人間だ﹂ ﹁――﹂ ﹁相手は人をなめた野郎で、先に立つて氣取つた恰好で歩いてやがる。畜生奴ツと思ふと、俺はもう飛付いて居ましたよ﹂ ﹁馬鹿だなア﹂ ﹁覆面を引ひつ剥ぱぐと、その下から現はれた顏は、――親分の前だが、驚いたの驚かないの――﹂ ﹁誰だ、そいつは?﹂ ﹁彦ひよ徳つとこですよ。――彦徳の面めんを冠かぶつて居るんだ﹂ ﹁フーム﹂ ﹁それから取つ組合ひが始まつたが、恐ろしく強い野郎で、その上匕あひ首くちを持つてやがる。切尖を除けるはずみに、鼠坂を逆さか落おとしだ﹂ ﹁お前が落ちたのか﹂ ﹁正にあつしで。相手は坂の上で笑つて居ましたよ﹂ 八五郎は散々の體を隱すところもなく話して、あちこちの擦すり剥きや打うち撲みを擦さすつて居るのです。四
關口の太助の子分と、平次の子分達に調べさした神津家のいろ〳〵の事が、次第に手許に集まつて來ました。 それによると、神津右京は召使のお江野を妾めかけに直して、同役や上役から兎角の非難を受けましたが、人間はまことによく出來た人で、それだけにまた出世も遲く、家柄や石高に似ず、長い間無役で貧乏に暮して居ります。 お江野は下げせ賤んに育つた女ですが、心掛は兎も角不思議に賢かしこい性たちで、二千五百石取の奧樣に直しても少しも可笑しくはない女です。繼まゝ子この吉彌にもよく、内外の噂はそんなに惡くありません。 妹のお鳥は、もと見世物小屋にも居たことがあり、一度は亭主も持つたさうですが、喧嘩別れをして姉のところへ轉げ込んだ程で愛嬌もあり人附きは滅法良い方ですが、何かしら評判のよくないところがありました。下品で、身勝手で、浮氣つぽくて、物事に裏表のある關係でせう。 吉彌は十四にしては出來過ぎた方。弟の京之助は五つで何にもわからず、若黨の三次は房州の者で、おしやれで、金づかひの荒い渡り者。爺やの熊吉は秩ちゝ父ぶの奧から出て來た、山男のやうな親爺です。 これだけ判ると、何の變哲もない調べの中から、平次は何やら呑込んだ節があるらしく、一人でうなづいて事件の發展を待つて居りました。 事件の發展――それは思ひも寄らぬ形で、その翌る日は江戸中を驚かして居りました。 ﹁親分﹂ 飛込んで來たガラツ八。 ﹁又大騷ぎが始まつたらう、今度は何だ﹂ ﹁神津の若樣が行方不明だ﹂ ﹁何?﹂ 平次も思はず起ち上がります。 ﹁昨夜宵のうちに脱出したつ切り、今朝になつても歸つて來ねえ﹂ ﹁二千兩に釣られたんぢやないか﹂ ﹁あつしも直ぐさう思ひましたよ。あの彦ひよ徳つとこの源太の野郎が、可哀さうに十三や十四の若樣を誘さそひ出したんぢやあるまいかと、大瀧も鼠坂も見ましたが、影も形もねえ﹂ ﹁フーム﹂ 平次も唸うなるばかり。 ﹁氣の毒なのは神津の殿樣と、お江野とかいふお妾だ。邸の中は言ふに及ばず、小こび日な向た中血眼になつて搜し廻つたが、何處へ行つたか見當もつかねえ。――何とかしてやつて下さいよ、親分﹂ ﹁俺にも判らないよ、待て〳〵。――少し考へて見る﹂ 平次は高々と腕を拱こまぬくばかりです。 その晩正亥よつ刻は半ん︵十一時︶平次は彦徳の源太の手紙で指定された通り、小日向の龍興寺裏門前に立つて居りました。 ほんの煙草の二三服ほど待つと、眼の前の月明りの中に、ヌツと立つた者があります。頭の大きな黒裝束、見事な恰好。 ﹁――﹂ 默つて小手招ぎすると、平次は心得てそれに從したがひました。生いけ垣がきの間を通つたり、屋敷の塀について廻つたり。――前夜ガラツ八に飛付かれた苦い經驗のせゐか、曲者は平次からは少し離れて、無氣味な沈默を續けたまゝ、神津家裏門外の、三月月の井戸まで導みちびいて行つたのです。 ﹁二千兩の小判は此の井戸の中にあるよ――夜ぢや見えない、灯あかりで見るが宜い﹂ ピーンと金屬性の響を持つた不思議な聲です。曲者はさう言ひ乍ら、用意したらしい手燭と火打道具を井ゐげ桁たの上に置くのでした。 平次、何のこだはる色もなく、ヅカヅカと進んで、落着き拂つた態度で火ひう打ちが鎌まを鳴らし、手燭の蝋らふ燭そくに點しました。 ﹁灯があればよく見える。千兩箱が二つ、水の中にあるよ。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ﹂ 平次はその無氣味な笑ひを背に聽いて、手燭を取つて井戸に近づきました。 チラリと灯先が曲者の顏のあたりを照します。黒い覆面から漏れたのは、鉛色の濁にごつた皮ひ膚ふ、洞うつろな眼の穴――多分それは彦ひよ徳つとこの假面でせう。 次の瞬間、平次は手燭を持つたまゝ、井戸の上へ乘り出して居りました。深い〳〵井戸、石を疊み上げて、苔こけと虎ゆき耳のし草たの一杯に附いた石垣の下、眞つ黒な水の底の底に、さう言へば何やら四角なものが沈んでゐるやうでもあります。もう少しよく見定めようとした平次、身體を充分に乘り出したところを、 ﹁あーツ﹂ 無意識に乘つてゐた板を後ろからサツと引かれて、平次の身體は眞つ逆樣に井戸の中へ――、 ﹁ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ﹂ 怪鳥のやうな笑ひが、小日向の夜に木こだ靈まします。五
曲者――彦徳の源太は、豫かねて用意したらしい竹たけ竿ざをを手に取つて、井戸の上から覗きました。中の平次が這ひ上がらうとすれば、一氣に突き落すだけの事です。
が、併しかし、不思議な事に平次は這ひ上がる樣子もなく、第一、落ちた時、水音も立てなかつたのは何とした事でせう。
﹁?﹂
上から、竹竿を構へてそつと差しのぞく曲者。
﹁野郎ツ、御用だぞツ﹂
その後ろから無む手ずと組付いたのは、ガラツ八の八五郎でなくて誰であるものでせう。
﹁八、逃すなツ﹂
井戸の中から濡ぬれた樣子もない平次が這ひ上がつて來ました。
﹁何なに糞くそツ﹂
その揉もみ合ひは長くはありませんでした。曲者にどんな術があつたものか、羽はが掻いじ締めにした八五郎の腕をスルリと拔けると、巨大な鳥のやうに、サツと物蔭に消え込みます。
﹁畜生ツ﹂
飛び付く八五郎。
﹁八、もう宜い。あの頭と足を見たらう。――相手の素姓は判つてゐる﹂
平次はいきなり神津邸の裏門へ廻ると、拳こぶしを擧げて叩いたのです。
寢ぼけ顏を出した熊吉を叱り飛ばして、屋敷に飛込んだ平次と八五郎、驚き騷ぐ家人を尻眼に、寢卷のまゝ飛起きて來た主人神津右京の袖を掴みました。
﹁早く一刻こくの油斷もなりません。若樣の御命――早く、お鳥の部屋へ御案内を願ひます﹂
平次の息は彈はずみました。
﹁何を申す﹂
神津右京、何が何やら判りませんが、平次の氣組の激しさに釣られて、お鳥の部屋へ案内する外はなかつたのです。
﹁八、よいか﹂
諜しめし合せた眼と眼。サツと唐紙を開くと、八疊の奧に一人の怪人――と見たは彦ひよ徳つとこの面をかなぐり捨てた人間が、小脇に半死半生の吉彌を抱へ、脇差をその喉笛に押し當てて、いざと言はば一と突きと構へて居るのでした。
﹁馬鹿ツ、何をする。姉も京之助も破はめ滅つだぞツ﹂
﹁えツ﹂
驚く拳へ、平次の手から投げ錢が二枚、三枚續け樣に飛びました。
ひるむところへ飛込んだ八五郎が、吉彌の身體をむしり取るのと、平次が怪人を押へるのと一緒だつたことは言ふ迄もありません。
× × ×
事件はその晩のうちに片付きました。
御用金の二千兩はお鳥の部屋の中から發見され、お鳥は彦ひよ徳つとこの源太の姿のまゝ繩に打たれました。井戸から引揚げられて、半死半生のまゝ一日一と晩お鳥の部屋の押入に隱されてゐた吉彌は、危いところで助けられたのです。
この騷ぎのうちに、妾のお江野は伜京之助をつれ出して夜逃げをし、一應神津右京を仰天させましたが、京之助は決して神津右京の本當の子ではなく、お江野は妹のお鳥と相談して二千兩の御用金を隱し、右京を窮きゆ地うちに陷おとしいれた上、吉彌を亡きものにして、京之助に家督を繼つがせる魂こん膽たんをめぐらし、着々それを實行してゐた事を平次に證明されて、今更驚き呆あきれるばかりでした。
尤もつとも、この陰いん謀ぼうを企らんだのは、右京が京之助を自分の本當の子でないと覺り、お江野を疎うとんじ始めたから起つたことで、お江野の妹のお鳥は、もと見世物小屋などを渡り歩き、力業にすぐれた上、聲こわ色いろまで巧たくみだつたので、喧嘩別れした亭主――矢の根五郎吉に變へん裝さうして、御用金二千兩を盜み出したと見せかけ、怨みのある五郎吉を刑けい死しさせたのです。
﹁矢の根五郎吉はなんにも知らなかつたわけさ。――最初關口の太助の死骸の繩の結び目に、女の癖があつた時から俺はお江野お鳥姉妹を疑ひ始めたよ。繩の下に虎ゆき耳のし草たの花があつたので、場所は三日月の井戸と判つた。――神津家の雨戸は決して外から開けたのぢやない。拍かし手はでを打つた位であの棧さんや輪わか鍵ぎはビクともするものぢやない。小こび日な向たで殺した太助の死骸を、わざ〳〵上流の大瀧へ持つて行つたのは細工過ぎたが、最初は大八車か何かで持つて行つたこととばかり思つたよ。女にあの死骸は運べまい。――ところがお鳥の前身は見世物の力ちか業らわざの太夫だ。その上聲こわ色いろの名人と知れて、何も彼もわかつたよ。覆面をして居たにしても、頭がひどく大きいのと、内輪に歩いてゐたことに氣が付かなかつたのは大笑ひさ――何? 俺が井戸へ落ちなかつたわけか。――鉤かぎ繩なはを用意して行つただけのことさ。それにしても彦ひよ徳つとこの源太が女とは氣が付かなかつたよ。先の亭主の矢の根五郎吉に捨てられたのを怨んで、わざ〳〵細工をして縛らせたくせに、五郎吉を縛つた關口の太助や、この平次が憎くてたまらないところが、あの女の不思議なところさ。女や折れた針は滅めつ多たに捨てちやならねえよ、八﹂
平次は八五郎の爲に斯かう説明してくれるのでした。