一
﹁八、何處の歸りだ。朝つぱらから、大層遠走りした樣子ぢやないか﹂ 錢形の平次は斯んな調子でガラツ八の八五郎を迎へました。 ﹁わかりますかえ親分、向柳原の叔母の家から來たのぢやないつてことが﹂ 八五郎の鼻はキナ臭く蠢うごめきます。 ﹁まだ巳よ刻つ前だよ、良い兄さんが髷まげ節ぶしに埃ほこりを附けて歩く時刻ぢやないよ。それに氣組が大變ぢやないか。叔母さんとこの味みそ噌し汁るや煮にま豆めぢや、そんな彈はづみ﹇#﹁彈はづみ﹂は底本では﹁彈づはみ﹂﹈がつくわけはねえ﹂ ﹁まるで廣小路に陣を布いてゐる八卦け屋やだね﹂ ﹁それとも千住か板橋から馬でも曳ひいて來たのか﹂ ﹁冗談ぢやありませんよ、親分。二年前に死んだ人間が人を殺したんだ。小石川の陸ろく尺しやく町から一足飛びに飛んで來ましたぜ﹂ ﹁二年前に死んだ人間が人を殺した?﹂ ﹁その上まだ〳〵四五人は殺してやるといふんだから大變で――﹂ ﹁誰がそんな事を言ふんだ?﹂ ﹁二年前に殺された人間ですよ﹂ ﹁さア解らねえ、まア落着いて話せ﹂ ﹁落着いて聽いて下さいよ親分、こいつは前ぜん代だい未みも聞んだ﹂ ガラツ八の持つて來た話は、あまりにも桁けた外はづれでした。二年前に死んだ人間が、豫告して人を殺すといふことは、絶對にあり得べからざることですが、ガラツ八は自分の眼で、現にそのあり得べからざる事件を見て來たといふのです。 ﹁小石川陸ろく尺しやく町︵安藤坂下――今の水道町︶の成なる瀬せ屋や總右衞門といふのを親分は覺えてゐるでせうね﹂ ﹁陸尺町の成瀬屋總右衞門――二三年前に御府内を騷がせた大泥棒蝙かう蝠もり冠くわ兵んべ衞ゑを生捕つて、お上から御褒美を頂いた家だね﹂ 平次はよく知つて居りました。その頃義賊と稱しようした泥棒で、その實、百兩盜つて、十兩か五兩を貧しい者に惠み、あとの大部分は自分の懷ろに入れた蝙蝠冠兵衞は、自分の良心を欺あざむいて、無智な世間の人氣を博することと、如何なる締りも、なんの苦もなく開けて忍び込む天才的な術を心得てゐる點で、有名だつた男です。 その蝙かう蝠もり冠くわ兵んべ衞ゑほどの強したゝか者も、傳通院前の成瀬屋に忍び込んだ時は、取返しのつかぬ失策をしてしまひました。 小石川切つての大地主で、巨萬の富を積んでゐる成瀬屋は、蝙蝠冠兵衞に狙はれると知つて、屋敷の内外に鳴子を張り渡した上、幾つも〳〵罠わなを仕掛けて、苦もなく忍び込んだ巨盜冠兵衞を生捕りにし、番頭で用心棒を兼ねた傳六といふ男が、散々冠兵衞をなぶりものにした揚句、半死半生のまゝ役人に引渡したのでした。 蝙かう蝠もり冠くわ兵んべ衞ゑは間もなく鈴ヶ森で獄門になりました。生前の善根らしきもののお蔭で、助命の歎願などもありましたが、素よりそんなものは取上げられる筈もなく、一代の巨盜もそれつ切り江戸つ子の關心から拭ひ去られてしまつたのです。 ﹁――その成瀬屋總右衞門の家へ、二年前に御おし處お刑きになつた蝙蝠冠兵衞が祟たゝるんだから變ぢやありませんか﹂ ﹁待つてくれ、そいつは捕物ぢやなくて怪談だぜ、八﹂ 平次は恐ろしく酢つぱい顏をしました。 ﹁その怪談が大變なんで、一と月も前から成瀬屋の一家を鏖みな殺ごろしにするといふ蝙蝠冠兵衞の手紙が三本も來てゐるぢやありませんか﹂ ﹁よくある術てだ﹂ ﹁ところが、到頭やりましたよ、親分﹂ ﹁――﹂ ﹁成瀬屋の用心棒――腕自慢の力自慢で、その上恐ろしく氣の強い番頭の傳六が、見事に芋いも刺ざしになりましたよ﹂ ﹁殺されたといふのか﹂ ﹁寢てゐる心の臟をたつた一と突きだ。グウとも言はずにやられたらしいんで﹂ ﹁お前見て來たのか﹂ ﹁恐ろしい手際だ。行つて見ませんか親分﹂ 八五郎が舌を振るつて驚いてゐるのです。 ﹁よし行つて見よう。幽いう靈れいを縛るのも洒しや落れて居るだらう。案内してくれ﹂ ﹁有難い、親分が動き出しや百人力だ。ところで此の儘ぢやあつしの方が動けませんよ﹂ ﹁どうしたんだ﹂ ﹁まだ朝飯にあり付かないんで、――あわてて飛出したが、空すきつ腹に小石川は遠過ぎましたよ﹂ ﹁馬鹿だなア﹂ 八五郎の爲に遲い朝飯の用意をする女房のお靜の後ろ姿を見乍ら平次は苦笑しました。二
陸ろく尺しやく町の成瀬屋へ行つたのは、もう晝近い頃、檢屍萬端濟んでしまつて、お葬とむらひの支度に忙しい有樣でした。 店の人達の白い眼の中に、土地の﹇#﹁土地の﹂は底本では﹁士地の﹂﹈御用聞金富の留吉だけは、ホツとした顏で迎へてくれます。 ﹁錢形の親分が來てくれさへすれば、亡靈も退散するだらう。こいつはどうも、あつしの手に了をへさうもない﹂ 若い留吉は、よく己おのれを知つて居ります。 ﹁どうしたんだ、金富町の兄哥らしくもない。昔から下手人に足のなかつた例しはないよ﹂ 平次ははなつからこれを生きて居る人間の仕業と見拔いてゐる樣子です。 ﹁だが、こいつは人間業ぢやないぜ。戸締りは傳馬町の大たい牢らうのやうに嚴重だ、開いて居るのはお勝手の引窓がたつた一つ。そんなところから出入りするのは、烟けむりと風だけだ﹂ ﹁まア、見せて貰はう﹂ 成瀬屋といふのは、山の手きつての大地主で、此の邊一帶、旗本御家人の屋敷でなければ、成瀬屋の持地と言つても大した間違ひのないほどでした。 主人の總右額門は五十七八の典型的な大旦那、鬢びんの霜ほど世を經た、なんとなく拔目のないうちにも、人を外らさぬ愛嬌と、自然に備はる品位のある中老人です。 ﹁これは〳〵錢形の親分、飛んだお騷がせをいたします。――大泥棒を縛つて、御上の御手傳ひをして、その泥棒に崇たゝられたとあつちや、私も人樣へ顏が合はされません。何分宜しく御願ひ申します﹂ かう言つた態度で平次と八五郎に接してくれました。 成瀬屋の構へは、噂に聽いたよりも宏大で、近頃は庭に張り繞めぐらした鳴子や罠わなは取拂ひましたが、戸締りの嚴重さと、奉公人の腕つ節の強さは、留吉が傳馬町の大牢と形容したのが、全く適切過ぎて滑こつ稽けいな位でした。 番頭の傳六が殺されてゐたのは、店の次の間、大錢箱の前で、晝は恐ろしく薄暗いところですが、奧と店とお勝手との要衝で、支配人が頑張るには、一番都合の良い場所です。 通路は三方にある外に、此の部屋から梯子で店二階へ登れるやうになり、二階の手てす摺りから見下す形になります。尤もつとも二階と言つても物置同樣で、誰も寢起きはして居りません。二三年前までは、奉公人の寢部屋だつたのですが、傳六は夜半に便所に起きる奉公人達をうるさがつて、裏の離はな室れに引越させ、その代り日用の雜器を詰め込ませて置いたのです。 ﹁此處でかう寢て居るところをやられたんだが、――蒸むし暑い晩で、胸まで拔け出して寢て居たにしても、寢卷の上から、槍やりの折れで一と突きに、布團へ通るほどやつたんだから恐ろしい力だ﹂ 留吉は説明してくれました。六疊はまだ掃さう除ぢが濟まなかつたものか、斑はん々〳〵たる血潮で、昨夜の慘ざん劇げきがよく解ります。人間の通路を避けて、梯子段の下寄りに寢た傳六を、たつた一と突きで、聲も立てさせずにやつたのは、餘つ程の力と手際がなければなりません。 平次は其の部屋を中心に、店へ、奧へ、お勝手へと探たん索さくの手を伸ばして行きました。 お勝手は田舍の臺所ほどの廣さで、締りは恐ろしく嚴重ですが、引窓が引き忘れたやうに開いて居ります。牢屋のやうな締め切られた家で、此處だけ開いて居たのは、﹃此處から入りました﹄と言ふ證據のやうで、少し變でないこともありません。 外へ廻つて見ると、此の間の嵐あらしの後で、屋根の漏もれを見た時の梯子が、その儘お勝手の横に掛けてあります。これも﹃此處から入りました﹄の證據の一つです。 多勢の奉公人は、皆んな離室に寢る中で、殺された傳六と、下女のお大だけは母おも屋やに寢るさうで、お勝手の締りはそのお大の役目でした。 ﹁昨夜引き窓を閉め忘れたんぢやないか﹂ 平次は矢張りかう訊きく外はなかつたのです。 ﹁飛んでもない、親分さん。私は二度も戸締りを見てから休みましたよ﹂ 三十がらみの働きものらしいお大は、躍起となつて辯解します。 傳六の死骸は、殺された部屋の次の間に、傷口に繃ほう帶たいだけ卷いて移してありました。平次はいつもの愼つゝしみ深い熊度で――その癖恐ろしく念入りに調べましたが、顏の表情など至つて穩かで、なんの苦くも悶んの跡も留めず、傷は左の乳の下を一と突きだけ、いかにも鮮あざやかな手際です。 凶器は恐ろしく變つて居りました。それは三尺ほどの柄えを殘した、笹さゝ穗ほの手槍の折れ。 ﹁フ――ム、こいつは恐ろしい道具だ﹂ 平次はその斑はん々〳〵たる手槍の折れを眺めて居ります。 ﹁そいつは二階の長なげ押しにあつたんだ。まだいろ〳〵な道具があるのに、それを選り出したのは變ぢやないか﹂ 留吉も凶器の特異性には氣が付いた樣子です。 ﹁二階を見ようぢやないか﹂ 平次は先に立つて、店二階へ登りました。ガラクタと言つても大家で、膳ぜん椀わんも布團も立派に使へるものばかり。土藏へ行くのが面倒で、日用の雜器を此處へ入れて置くのでせう。その中に一つ、古い刀かた箪なだ笥んすがあつて、中には長いの短いの、いろ〳〵の得物を取揃へてありますが、曲者がそんなものには眼もくれず、長なげ押しに埃ほこりを被つたまゝ掛け捨ててあつた槍の折れを持出したのでせう。 外に滿足な槍が三筋、弓が二た張、矢が二三十本、これ等はすべて、昔の豪族が、家の子郎黨の手で自分の家を護つた時の遺ゐふ風うらしく、何時でも取出せるやうに用意してあつたのでせう。尤も槍は悉く鞘をかぶせ、弓は二た張とも弦つるを外してあります。 二階を見て居るところへ、主人の弟で豊次郎といふ中年者が入つて來ました。腰の低い四十五六の男で、平次が望むまゝに、いろ〳〵のことを説明もし、戸締りの具合なども見せてくれました。二階の戸締りも嚴重以上で、豊次郎に言はせると、掃除の時開けるだけ、それに恐ろしく巖乘な格子があつて、外から入ることなどは思ひも寄りません。三
傳六の殺された部屋は、四通八達の要路で、何處からでも入れますが、武藝自慢で、恐ろしく眼ざとい傳六が、二階から槍の折れを持出して來て、胸に突立てられるのを知らずに居るとは思はれず、下手人はどうして凶きよ器うきを持出したか、どうして傳六に近づいたか、それが一番興味のある疑問です。 ﹁灯あかりは點いて居たんだね﹂ ﹁へエ――、有あり明あけの行燈が、今朝まで點いて居りました﹂ 豊次郎は平次のために、行燈の位置まで指してくれます。 母屋に寢るのは、此の外に主人總右衞門と女房のお早と伜の島三郎と、娘のお芳と、親類の娘のお町と、たつたそれだけ、この顏觸の中に、強したゝか者の傳六を殺せさうなものは一人もありません。 お早は主人とは少し年齡が違ひ過ぎる位で、四十そこ〳〵の女。板橋在の百姓の出で、正直者らしい代り、慾は深さうです。これは何を訊いても一向要領を得ません。 伜の島三郎は二十歳、少しは帳場も手傳ひますが、これは氣も弱さうで、人などを殺せさうもありません。その妹のお芳は十八の恐ろしく色つぽい豊滿な娘。兄の島三郎とは反對に、氣力も健康も溢あふれて居りますが、傳六とはなんの關係がある筈もなく、もう一人親類の娘といふお町は、日蔭の花のやうな二十二三の美しい女ですが、一年の半分は床の上に居る病弱で、現にこの一と月ばかりは、持病の癆らう咳がいが重くなつて、三度の食事も床の上に運ばせて居ります。 ﹁矢張り外から入つたんだね﹂ 留吉はさう極めて居ります。 ﹁いや、金富町の親分の前だか、あの引窓を外から開けて入れる道理はない。あつしは下手人は内の者だと思ふが――﹂ ガラツ八は柄にもない抗議を持出しました。 ﹁家の者なら、もう少し人間の入れさうな場所を拵こさへて置くぜ﹂ ﹁――﹂ 留吉の言ふのは尤もつとも至極でした。下手人が若し家の中の者だとすると、外から入れさうもない引窓などを開けて置くより、お勝手口なり縁側なりに、外から入つたやうな細さい工くをして、雨戸の一枚くらゐは開けて置くべき筈です。 ﹁それに曲者は、昨夜戸締りをする前――夜のうちにそつと潜り込んでゐる術てもあるぜ﹂ ﹁逃げる時は、あの引窓から出たといふのか﹂ ガラツ八、大きく開いたまゝの引窓を見上げました。 ﹁そんなことは御座いません。戸は明るいうちに締めてしまひますし、寢る前には私か傳六が、家中を見廻ります﹂ 主人にさう言はれるとそれ迄です。ガラツ八や留吉の世帶と違つて、金持にはまた金持らしい、神しん經けい質しつな用心のあることを、二人もよく心得て居るのでした。 ﹁引窓は閉つてゐても、外から入れないことはないよ﹂ 今まで默つて彼方此方を調べて居た平次は、斯こんなことを言ひ乍ら皆んなの前に顏を出しました。 ﹁縁の下は駄目だぜ、錢形の﹂ 先刻散々縁の下を覗のぞいて歩いた留吉は、苦笑ひをして居ります。彼の頭は蜘く蛛もの巣だらけだつたのです。 ﹁縁の下ぢやない。――引窓から入れると思ふんだ。八、其處を締めてくれ﹂ ﹁外から開けるんですか、親分﹂ ﹁手加減なんかしちやいけないぜ、確り締めてくれ﹂ 引窓の綱を絞つて、嚴重に結ぶのを見て、平次は外へ出て行きました。 間もなく、お勝手の横に掛けてあつた梯はし子ごを登つて、平次は屋根の上に立つた樣子です。引窓は外からキシみます。平次は何やら隙間に差し込んで、その隙間を少しづつ少しづつ大きくして居ります 嚴重に結ゆはへたやうでも、引窓の綱にはかなりの弛ゆるみがあり、上からコジられる毎に、隙間は少しづつ大きくなつて行きました。やがて其の隙間からスルスルと伸びて來た鳶とび口ぐちが一梃、ガラツ八が念入りに縛つた引窓の綱の――土へつ竈ゝひの上の折釘のところの――結び目に引つ掛かると、なんの苦もなく解いてしまつたのです。 引窓はサツと開いて、平次の笑つた顏が、大空を背景に頭の上に現はれました。 ﹁あツ﹂ 驚く人々の前に、引窓の綱を傳はつた平次は、なんの造作もなく輕々と飛降りて居たのです。 ﹁矢張り此處から?﹂ ﹁いや、これも一つの術てだ。――が、此處ぢやあるまいよ﹂ ﹁?﹂ 平次はこの素晴らしい發見を忘れてしまつたやうに、クルリと踵きびすを返しました。四
平次の仕事はひとわたり家の内外を見ると、次には死んだ巨盜蝙かう蝠もり冠くわ兵んべ衞ゑの脅けふ迫はく状じやうを見せて貰ふことでした。 ﹁そいつは主人が預つて居る。先さつ刻き檢屍の時、同心の内藤さんが眼を通して、後で取りに來るからと、主人に返した筈だ﹂ 留吉に言はれて、主人の部屋に通ると、 ﹁その手紙は此處に御座いますよ﹂ 主人は氣輕に立つて棚たなの上の手箱を開けました。 ﹁あツ﹂ 立ち縮すくんだも道理、手箱の中には一と掴つかみの灰だけ。確か其處へ入れた筈の、巨盜の手紙三本は、煙の如く消えてしまつたのです。 ﹁どうした﹂ 留吉も八五郎も覗きました。 ﹁無い。――確かに此處へ入れた筈だが、なくなつてしまひましたよ﹂ 分別者らしい總右衞門も、さすがに顏色を變へます。 ﹁そんな筈はあるまい﹂ ﹁でも此の通り、箱は空つぽになつて、灰がひと握り――﹂ 錢形平次はその騷ぎを後ろに聽いて、そつと廊下に出ました。店の方には奉公人や近所の衆が、多勢で騷いで居りますが、此處はひつそりと靜まり返つて、廊下にも庭にも人影はなく、少しばかりの植込を隔へだてて、恐ろしく高い塀へいが、物々しい忍び返しを見せて突つ立つて居ります。 平次は遠慮もなく次の部屋の障子をサツと開けました。 ﹁あツ﹂ 物に脅おびえたやうに、思はず立ち上がつたのは十七八の娘、見る人によつては隨分美しいとも言ふでせう。脂肪質の豊滿な肉體と、娘々したあどけなさが妙に人を引付けます。 ﹁お孃さん、ちよいと見せて下さい﹂ 平次はざつと部屋の中を見廻して、父親の部屋に通ずる堺さかひの唐紙などを動かしたりして居ります。部屋の中には鏡臺が一つ、火鉢が一つ、針箱が一つ。あとには何んにもありません。 ﹁あの――﹂ 娘は何やら物言ひた氣ですが、何に脅えたか、又口を緘とざしてしまひました。 ﹁お孃さん、なにか知つてることがあつたら言つて下さい﹂ 平次はそれへ誘さそひをかけましたが、一度緘とざされた娘の唇は、容易に開きさうもありません。 娘の部屋の隣は納戸で、納戸の先は暗い四疊半。其處に親類の娘といふお町が、長い癆らう咳がいを患わづらつて寢て居るのでした。 ﹁御免よ――﹂ スツと不遠慮に入つた平次。部屋の中の藥臭いのに、さすがに顏を反そむけました。 ﹁――﹂ 默つて見上げた病人の眼は、不思議に活いき々〳〵と光つて居ります。 二十三といふにしては少し老けて、病苦のやつれが頬を刻んで居りますが、蒼白い顏は名工の鑿のみの跡あとが匂ふやう。赤い唇も、少し殺そげた頤あごも、異樣な上品さをさへ添へるのでした。 ﹁どうだ、氣分は?﹂ ﹁有難う御座います。此の通りで、皆さんに御心配をかけて居ります﹂ 痛々しく伏せた眉、たけく霞かすむのも不思議な魅力でした。 ﹁ちよいと脈を見せてくれ。――いや右ぢやない左だ﹂ 平次は病人の枕元に踞しやがむと、柄にもなく脈などを取りました。痩せてはゐるが美しい腕です。 ﹁へエ――、親分が脈みやくを診みるんですか﹂ ヌツと顏を出したのはガラツ八でした。 ﹁默つて居ろ、醫者や易えき者しやの心得もなきや御用は勤まらないぞ﹂ ﹁へ――ツ﹂ 八五郎は引つ込みのつかない樣子で突つ立ちました。苦笑ひを殺した唇は歪ゆがみます。 ﹁ところで、お前は此處の主人と、どういふ關かゝり合ひになるんだ﹂ 平次は娘の枕元に坐り込んでしまひました。 ﹁――私は、あの、先代の成瀬屋の血ちす統ぢの者で御座います﹂ ﹁ホ――ツ﹂ 變な聲を出したのはガラツ八です。 ﹁成瀬屋の先代が身代限りをしさうになつたのを、遠縁の今の主人が入つて立て直し、私は孤みな兒しごになつてさるお屋敷に奉公して居たのを、此處に引取られて育てられました﹂ お町の調子は淡々としてなんの抑よく揚やうもありません。 ﹁皆んなはお前によくしてくれるか﹂ ﹁それはもう、三年越し患わづらつて居る私を、こんなにお世話して下さいます。なんの不自由も御座いません。勿もつ體たいないほどで﹂ お町は枕の上に顏を伏せて、何やら念じてゐる樣子です。 ﹁主人はどうだ﹂ ﹁あんな良い方は御座いません。慈悲深い、思ひやりのある方で、町内でも評判で御座います﹂ それは平次も聽いて居りました。善根を積むより外に餘念のない成瀬屋總右衞門の評判は、神田あたりまでも響いて居たのです。 ﹁子供達は?﹂ ﹁島三郎さんはお店の方が忙いそがしい樣で、――よく働きます。お芳さんは本當に良い方で﹂ ﹁お神さんはどうだ﹂ ﹁正直一途づの方で御座います﹂ これは大した褒めやうもなかつたのでせう。兎にも角にも、成瀬屋の家族に對する、お町の感謝と好意には疑ひもありません。五
巨盜の幽靈の手紙は、明かに紛ふん失しつしましたが、幸ひ總右衞門が文句を暗そらんじて居るのと、留吉が筆跡や紙をよく見て置いたので、大體のことは平次にも想像がつきます。 手紙は三本とも、外から店に投げ込まれたもので、いづれも半紙を八つに疊んで結んだもの。中はかなりの達筆で、﹃二年前生捕られて散々なぶりものにされた上、役人に引渡された怨うらみを陳のべ、此の妄まう執しふを晴らすため、成瀬屋の者を一人々々、殘らず殺してやる﹄と言つた凄じいことが、少しくどい調子で書いてあるのです。 ﹁筆ひつ跡せきは?﹂ ﹁堅い字でした。今時あんな事を書く者は滅多にありません。女子供やお店たな者ものの筆て跡ぢや御座いません﹂ 總右衞門は言ふのです。 ﹁紙は?﹂ ﹁唯たゞの半紙だ。――何處でも賣つて居る﹂ 留吉が應へます。 ﹁店へ投り込むのは、どんな時だ﹂ ﹁朝早くか、夕方――薄暗くなつてからで御座います。誰か氣が付いて拾ひましたが、投り込んだ者の姿は見たものも御座いません﹂ ﹁御主人の弟――豊次郎さんとか言つたね、あれは本當の弟ぢやあるまいね﹂ ﹁義理の弟で御座いますよ。私の先妻の弟で﹂ ﹁子供さん達は﹂ ﹁皆んな本當の子で御座います。今の家内の生んだのばかりで、――伜はよく店を手傳つてくれますが、娘は唯もう我儘を言ふばかりで﹂ その我儘が可愛くてたまらない樣子です。 ﹁誰かに怨まれて居る覺えはないだらうか、金のこと、縁談のこと、公く事じ、揉もめ事ごとなど――﹂ ﹁なんにも御座いません。金も少しは融ゆう通づうして居りますし、土地も家も人樣に貸して居りますが、無理な取立てはいたしません。縁談もまだ決つた口がないので、心配して居ります﹂ ﹁あのお町――といふ娘は?﹂ ﹁この成なる瀬せ屋やの先代の娘で御座います。成瀬屋が沒ぼつ落らくしたとき、少しの縁故をたどつて、さる大名屋敷に奉公に出て居りましたが、五年前私が引取りました。先代への義理で御座います。精一杯の養生はさせて居りますが、何分あの通りの病氣で、その上遠慮深い性たちで、思ふやうになりません。町内の本道︵内科醫︶は病氣は大した事はない、氣の持ちやうでは丈夫な身體になれると申しますが、本人は氣が挫くじけて、寢たり起きたりでは、弱る一方で御座います﹂ 總右衞門の言葉には少しの暗い影もありません。 平次も八五郎も留吉も、突つ放されたやうな心持で、庭先に顏をあつめました。此處からは小石川牛込一帶の低地を眺めて、なか〳〵の景色ですが、そんなものは素より眼にも入らず、巨盜蝙かう蝠もり冠くわ兵んべ衞ゑの亡靈だけが、三人の胸の中に、次第に現實味を帶おびて生長して行くのです。 ﹁親分、あの娘が變ぢやありませんか﹂ ﹁誰だ﹂ ﹁お町とかいふ、病人の――﹂ ﹁――﹂ ﹁親分は脈なんか見たでせう、掌てのひらに灰が附いてやしませんか﹂ ﹁大笑ひさ、あの娘の掌に灰が附いて居さへすれば、物事は一ぺんに片付くよ。ところがそんなものはないよ、嘗なめたやうに綺麗だ。右と左と念入りに見たんだから間違ひはない﹂ 平次は醫者の眞似などをした間の惡さに、一人で苦笑ひをして居ります。 ﹁お芳の方は﹂ ﹁これも綺麗だ――が、綺麗過ぎたよ、洗つたばかりなんだ﹂ ﹁洗つたばかり? あの娘の部屋を搜さがしませうか、三本の手紙は何處かに隱してあるに違ひない﹂ ﹁止せ〳〵。手を洗ふ隙がありや、三本の手紙くらゐは何處へでも隱せる。若い娘に手荒なことをするでもあるまい。それよりお前は念入りにあの娘を見張つて居るが宜い。きつと何か變つたことがある﹂ ﹁此處に泊り込んでですか、親分﹂ ﹁俺から主人へさう言つてやらう。脅おびえ切つて居るから、喜んで泊めるだらうよ﹂ それは平次の豫想通りでした。蝙かう蝠もり冠くわ兵んべ衞ゑの脅けふ迫はくはまだ果たされたわけでなく、此の上の用心にガラツ八が泊つてくれるのは、成瀬屋に取つては此の上もない心丈夫なことだつたのです。六
﹁親分、なんにも變つたことはありませんよ﹂
ぼんやり八五郎が歸つて來たのは、それから五日も經つた後でした。
﹁ところが此方には變つたことがあるよ﹂
﹁何です、親分﹂
﹁蝙蝠冠兵衞の伜が捕まつたよ﹂
﹁へエ――﹂
﹁幸吉と言つて、こいつは親に似ぬ堅い男だ。淺草で小こあ商きなひをしてゐるのを手た繰ぐつて、二日前に金富町の留吉兄あに哥いが擧げて來たよ﹂
﹁それで、矢つ張り成瀬屋の引窓から忍込んだのはその野郎で――﹂
﹁それが分らないのさ。留吉兄哥はさう決めて居るやうだ。が、幸吉はあの晩女房と一緒に家に居たといふんだ。女房と一緒ぢや信用が出來ないと留吉兄哥は言ふが、どうも嘘らしくないところもある。――それに、外から曲者が入つたとすれば、二階の長なげ押しからわざ〳〵槍の折れなんか取出したわけが分らなくなる﹂
平次はすつかり考へ込んでしまひました。その時――。
﹁お手紙ですよ﹂
二人の沈ちん思しを破つて、平次の女房のお靜は顏を出します。襷たすきを外して、手紙を取つて、輕く八五郎に目禮し乍ら、何時までも若くて美しいお靜の濡ぬれた手には、結び文が一つ。
﹁何處で、それを﹂
﹁井戸端へ小僧さんが持つて來ましたよ。十四五の、それは可愛らしい﹂
﹁八﹂
﹁よし﹂
八五郎は飛んで出ましたが、其の邊にはもう小僧の姿の見える筈もなく、野良犬を蹴け飛とばして、張板を二三枚倒して、八五郎はぼんやり戻つて來ました。
﹁見えませんよ、親分﹂
﹁まア宜い、どうせお前に捕まるやうなどぢぢやあるまい﹂
﹁どぢの中だから、あつしのやうなどぢにも捕まるだらうと思ひましたよ﹂
﹁洒しや落れを言ふな、馬鹿々々しい﹂
平次は手紙を開きました。何の特色もない半紙に、右肩の上がつた四角な字で、
伜幸吉には何の罪も無之、飽 までも成瀬屋を怨 むは此冠兵衞に候。その證據として近々一家を鏖 に仕る可く隨分要心堅固に被遊可 く候 頓首
蝙蝠冠兵衞 亡靈
錢形平次殿
斯んな人を嘗なめたことが書いてあるのです。
﹁八、こいつは大變だ﹂
平次は顏色を變へました。
﹁脅おどかしぢやありませんか、親分﹂
﹁いや、――脅かしなら宜いが、――幸吉を助けるつもりで、何をやり出すか分らない﹂
﹁?﹂
﹁幸吉は擧げられてゐる。――成瀬屋に仇あだをするのが幸吉でないといふ證據は、幸吉が居ない時、なんか凄いことをやるに限るだらう﹂
﹁へエ――﹂
ガラツ八も次第に呑み込みます。
﹁ところが、下げし手ゆに人んの素姓が今のところまるつ切り分らない。幸吉でないとすると――﹂
﹁矢つ張り冠兵衞の幽靈?﹂
﹁馬鹿な事を。幽靈が人を殺せる道理はない﹂
﹁でも、あの槍の折れを胸に打ち込んだのは大變な力ですぜ﹂
﹁大變な力だ。人間業わざではむづかしい。が、矢つ張り二本足のある人間の仕業だ﹂
﹁そいつを搜し出すには、どうしたものでせう﹂
﹁成瀬屋の家の者を皆んな洗へ。主人夫婦を怨む者はないか、奉公人の身持、伜と娘の縁談、あのお町といふ娘のゐた大名屋敷、先代の成瀬屋の沒ぼつ落らくした時の樣子、殺された番頭傳六の身持、身寄――﹂
﹁それから﹂
﹁そんな事で宜い。下つ引を存分に狩り出して。一日か二日の間に、手の屆くだけ調べ拔いてくれ。どんな事が持上がるかも知れない﹂
平次は殘る隈くまなく手を廻して、さて一人になつて靜かに考へました。かう相手の素姓が分らないと、幾通りも可能の假定を築きづき上げて、下手人の姿を描き出す外はありません。
いや、平次は不可能な事をさへも假定して、傳六を殺し得る相手を考へ出さうとして居るのです。