一
飯田町の地主、朝田屋勘兵衞が死んで間もなく、その豪勢な家が、自火を出して一ぺんに燒けてしまつたことがあります。火事は幸ひ一軒で濟みましたが、主人勘兵衞が死んだ後、思ひの外の大きい借金があつたりして、暮を越し兼ねての細さい工くではないかなどと、變な噂が立つたりしたものです。 ﹁へツ、へツ、親分、變なことがありましたよ﹂ ガラツ八の八五郎相好を崩くづして飛込んで來たのは、松が取れたばかりの、薄寒く暮れた宵の口でした。 ﹁何をニヤニヤしてゐるんだ。少し顏の紐ひもを締しめて歩けよ、松は取れてゐるぜ﹂ 口小言をいひ乍らも、錢形平次は嬉しさうでした。天氣はよし、御用はなし、退屈しきつてゐるところへ、この少々タガのゆるい子分がやつて來て、漫談放語するのは、決して惡い心持ではなかつたのです。 ﹁だつて、親分、場所は九段の牛うしヶ淵ふちですよ。ピカピカするやうな娘が一人、しよんぼり立つてゐるから、思はず聲を掛けたと思つて下さい――あぶないぜ、お孃さん、そんなところに立つて水なんか眺めてゐると、河かつ童ぱに見込まれないものでもあるめえ、惡いことは言はないから、さつさと家へ歸るが宜い――とね﹂ ﹁牛ヶ淵に河童が居るかえ﹂ ﹁物の譬たとへですよ﹂ ﹁顎あごの長い浮氣な河童ぢやあるまいな﹂ ﹁へツ、冗談でせう﹂ ﹁で、その河童ぢやない――娘は、何んと言つた﹂ ﹁あつしの顏を見て居りましたが、いきなり、あら八五郎親分、丁度宜いところでお目にかゝりました。私はもう怖こはくつて怖くつて、何うしませうと――噛り付きやしませんがね、まア、斯かう噛りつきたいやうな恰好をしたと思つて下さい﹂ ﹁間拔けだなア、あの邊に惡い狐が居るやうな話は聞かないけれど――﹂ ﹁狐ぢやありません。ピカピカするやうな人間の新しん造ぞですよ﹂ ﹁ヒネた人間で拵こさへた新造だらう、白粉厚塗りの女をん實なさ盛ねもりだ、人別を調べると還くわ暦んれきに近い代物さ、柳原から河岸を變へたことは知らなかつたが――﹂ ﹁いやになるなア、夜よた鷹かや惣そう嫁かぢやありませんよ。親分も御存じの、中坂の朝田屋の娘お縫、此間の火事の時、お調べに立ち會つたんで、あつしの顏を覺えてゐたのですね﹂ ﹁男が好いととくだね﹂ 錢形平次と八五郎は、相變らず斯んな調子で話を運んで行くのでした。 ﹁良い娘ですね、新粉細工に息を通はせたやうな――﹂ ﹁膝ひざなんか乘出さずに――その娘が何が怖いといふのか、筋を通して見な﹂ ﹁何が怖いといふ、はつきりした據よりどころがあれば、お隣の三河屋の源次郎さんに相談して、除よけるとか取拂ふとか、工夫も手段もあるだらうが、目にも見えず、耳にも聞えず、口でも言へないモヤモヤしたものが、此間から朝田屋の一家に祟たゝつてゐるやうで、ゐても起つてもゐられないから番町の叔母さんに相談しようか、錢形の親分にお願ひしようかと、フラフラと出て來たんださうで――﹂ ﹁暗くなつてからかい、若い娘が――﹂ ﹁まだ、日が暮れたばかりで、そんなに暗くなつたわけぢやありませんが、兎も角若い娘の獨り歩きする時じこ刻くぢやないから、叱るやうにして家へ送り屆けて來ましたよ﹂ ﹁それは良かつた。が、朝田屋は燒け出された筈だが、何處に住んでゐるんだ﹂ ﹁左前になつたと言つても、昔からの地所持の家持ですから、町内の貸家を一軒あけさして、母親と小さい弟と、それに下男の猪ゐの之き吉ちといふ小こぼ佛とけ峠たうげで生け捕つた熊の子のやうな男と四人一緒に住んでゐますよ﹂ ﹁外に近い身寄はないのか﹂ ﹁厄介な兄が一人あるさうですよ、朝田屋の亡くなつた先妻の連れ子で、朝田屋と血の繋つながりはないから、一年越し音信不通で、この秋朝田屋の主人勘兵衞が死んだ時も、顏を出さないといふことで﹂ ﹁何處に居るんだ﹂ ﹁どうせ傳馬町の無むし宿ゆく牢らうか、佐渡ヶ島だらうなんて近所でも噂は散々でさ。朝田屋で育つたには相違ないが、生みの母親が死んでからは、手たづ綱なも轡くつわもきかず、到頭一年前に義理の父親と大喧嘩をして家出したんださうです。生きて居れば、二十七八になるだらうといふことで﹂ ﹁それつきりのことか﹂ ﹁娘のお縫を﹇#﹁お縫を﹂は底本では﹁お瀧を﹂﹈送り屆けた序ついでに、近所で當つて見て、これだけのことは掻き集めて來ましたがね﹂ 八五郎の報告は一向取留めもありませんが、 ﹁若い娘が、ゐても起つても、といふほど脅おびえてゐるのは、何にか曰いはくのあることだらう。精々氣をつけて居るが宜い﹂ ﹁へエ﹂ この平次の感は見事に當りました。朝田屋を繞めぐつて、翌る朝も待たずに不思議な事件が起つたのです。二
その晩、八五郎を引止めて、平次は一本つけさせました。どちらも大していける口ではありませんが、話が彈はずむとツイ醉が發して、女房のお靜に氣を揉もませ乍ら、晩のお馳走をすつかり冷たくしてしまつた頃、 ﹁今晩は、御免下さいまし﹂ ﹁――﹂ ﹁錢形の親分さんのお家はこちらで?﹂ 四あた方りを憚はゞかるやうな調子で、靜かに格子を叩く者があるのです。 ﹁どなたで?﹂ お靜は怖こは々〴〵入口の障子を開けると、 ﹁名前を申上げる程の者ぢやございませんが、お目にかゝつてお願ひ申上げたいことが御座います、へエ﹂ 頬ほゝ冠かむりも取らずに、格子の外で二つ三つお辭儀する卑ひく屈つらしさが、妙にお靜を焦いら立だたせます。 ﹁あの、お名前を仰しやつて下さらないと困りますが――﹂ ﹁宜つてことよ、どうせ岡つ引の家へ來なさるお客樣だ。構ふことはねえ、此處へズイとお通し申しな﹂ 平次は少し醉つて居りました。 ﹁では、どうぞ﹂ お靜は恐る〳〵道を開きましたが、格子の外の男は、頬冠りも取らず、何やら決し兼ねる樣子で愚圖々々して居るのです。 ﹁此處で結構で――ちよいと親分さんのお顏を拜借すれば、へエ﹂ ﹁大層遠慮深いぢやないか、一體どんな用事があるのだ。大玄關で掛け合ひを始められちや寒くて叶かなはない﹂ 平次は立ち上がり乍ら、ソツと八五郎に目配せして、女房のお靜と入れ換かはりました。後ろ手に障子を締めると、格子の外の男の顏も覺束なくなりますが、その代りお勝手口から滑り出す、八五郎の動作も隱されます。 ﹁相濟みません、――實は他よそ所な乍がらでも錢形の親分さんにお目に掛つて、そつと申上げたいことが御座いますので、此處まで無理をして參りましたが﹂ 外から格子を押おさへ乍ながら、逃げ腰になつて物を言ふ男、――頬冠りに隱れて、よく人相もわかりませんが、まだ年も若いらしく、身みな扮りも物言ひも、堅氣の者らしくない、一種の洗練を感じさせます――それにしても足あし拵ごしらへの嚴重さ。 ﹁急がしい身體とでもいふのかえ、多たく寡わが博ばく奕ちき兇よう状じやうか何んかだらう、――一體何を話したいといふのだ﹂ 平次は薄寒さうに懷手をしたまゝ、少し陶たう然ぜんとした調子です。 ﹁飯田町の朝田屋のことでございます﹂ ﹁何?﹂ ﹁先月亡なくなつた主人の勘兵衞――ありや壽命で死んだのでせうか――私は妙な噂を聞きましたが﹂ ﹁例たとへば?﹂ ﹁お寺でも首を捻ひねつたさうですが――入棺に立ち會つた者の話では、死骸が全身斑まだらになつてゐたと申すことでございます﹂ ﹁誰がそんな事を言つた﹂ ﹁それは申し兼ねますが﹂ ﹁依りどころのない噂を、一々お上では取上げちや居られないぜ﹂ ﹁でも、續いてあの火事でございます。あの時のことをよく知つてゐる近所の衆は、火は三方から一度に燃え上がつたと申して居ります。三ヶ所から火の出る自火といふものはございません﹂ 頬冠りの男は、平次がいきなり飛出すのに備へて、格子を外から堅く押へ乍ら、恐ろしい一生懸命さで續けるのでした。 ﹁よし〳〵、それ程言ふなら調べ直してやらうが――朝田屋の主人勘兵衞を殺したり、朝田屋へ火を付けた者があつたとして、それは一體誰の仕しわ業ざだといふのだ﹂ ﹁其處まではわかりません。わかりさへすれば、唯は置きませんが﹂ 頬冠りの男の辭色は、一瞬しゆん激はげしくなりましたが、ハツと氣のついた樣子で、元の靜かな絶望的にさへ見える態度に變ります。 ﹁朝田屋を怨む者でもあるのか﹂ ﹁とんでもない、亡くなつた主人の勘兵衞は佛勘兵衞と言はれたほど結構人でございます﹂ ﹁その主人を殺したり、朝田屋を燒いたりして、誰が一體儲まうかるのだ﹂ ﹁朝田屋の身上を狙つて居る奴か――どうかすると、あの、お縫を――﹂ ﹁お縫がどうした﹂ ﹁へエ、あの娘は少し綺麗過ぎます﹂ ﹁あ、待ちな﹂ ﹁いえ、私の申すことは、これで皆んなでございます。どうぞ朝田屋に祟たゝつてゐる野郎を一日も早く、親分の手で縛つて下さいまし、それぢや親分さん﹂ ﹁もう一つ訊きたいことがある﹂ 平次は呼止めましたが、頬冠りの男はそれを背に聞いて、路地の闇へサツと消え込んだのです。 それが丁度子こゝ刻のつ︵十二時︶――火の番の二度目の拍ひや子うし木ぎが鳴つて通ります。三
それから四半刻あまり。 ﹁今晩は、親分さん。夜分お邪魔をして濟みませんが、少しお耳に入れて置きたいことが御座います﹂ 格子の外から聲を掛けた、第二の男があつたのです。頬冠りの男を闇の中に見送つて、障子の中に引込んだ平次は、思はず振り返つて路地の暗がりを透すかしました。 ﹁お前は誰だえ?﹂ ﹁飯田町の三河屋の源次郎と申します、へエ、決して怪しい者ぢやございません﹂ 灯先へ顏を待つて﹇#﹁待つて﹂はママ﹈來ると、色の白い、身みな扮りの小意氣な、柔和さうな若旦那型の男で、誰の目にも怪しさや不調和さは毛程も感じさせない人柄です。が、遠路でも駈けたやうにひどく息を彈はずませて何んとしたことでせう。 ﹁まア入るが宜い。用事といふのを、火鉢の側で聽かうぢやないか﹂ ﹁へエ、有難う御座います﹂ 平次に迎へ入れられると、二つ三つ立て續けにお辭儀をして、後ずさりに膝ゐ行ざりよるといつた、何んとなくたしなみの良い男でした。 火鉢を挾はさんでキチンと坐つたところを見ると、年の頃は精々二十五六でせうか、刻きざみの淺い所いは謂ゆるノツペリした美男で、物言ひの妙に粘ねばるところなど、何んとかいふ歌舞伎役者の臺せり詞ふ廻しを眞似して居るのかもわかりません。 ﹁ところで用事といふのは?﹂ 平次は少しもどかしさうでした。發火點の遲い、テムポのない話し振りが、相對して居ると、少々退屈になります。 ﹁外ぢやございません――今しがた此路地から出た、あの頬冠りの男、あれを親分さん御存じで――﹂ ﹁いや、知らないよ﹂ ﹁あれは、私のお隣りの朝田屋の伜の門太郎で御座います﹂ ﹁――﹂ ﹁一年前から行方不しれ知ずになつて居りましたが、朝田屋が中坂で燒け出されて、坂下の私の家の隣りへ越して來た頃から、チヨイチヨイ姿を見せるやうになりました﹂ ﹁それが何うしたといふのだ﹂ 平次の明察も、此男が何を言はうとして居るのか見當もつきません。 ﹁あの門太郎さんは、朝田屋の亡くなつた主人の先妻の連れ子でございます――朝田屋の後のち添ぞえの娘お縫さんとは、兄妹と言つても他人だから、二人を一緒にしてくれと、父親の生きて居る頃頼んださうで御座いますが、血の繋つながりはなくとも。兄妹と名のつくものを夫婦にするわけに行かないと、父親――朝田屋の主人がキツパリ斷わつたと申すことで御座います﹂ ﹁――﹂ ﹁それは門太郎が身持放はう埒らつなので、お縫さんの母親が不承知だつたと世間では申して居りますが、兎も角も、あの門太郎さんが家出をしてから、朝田屋の御主人勘兵衞さんは、わけのわからぬ中毒で急死をし、引續いて朝田屋は、放火で燒けてしまひました﹂ ﹁――﹂ ﹁その頃から頬冠りに足あし拵ごさへをした門太郎さんが、毎晩朝田屋の近所をウロウロして居ります。丸燒けになつた朝田屋さんは、お内か儀みさんのお信さんと、娘のお縫さんと、弟の信吉さんと、それに下男の猪ゐの之き吉ちといふのと四人、同じ町内の私の隣りの貸家をあけさせて入つて居りますので、お隣りの私共からは、何も彼もよく見えて、氣味が惡くてなりません。さうかと申して、斯こんなことを病中のお内儀さんや、若いお縫さんの耳に入れたら、ヂツとして居られない程心配するだらうと、私一人の胸に疊んで置きましたが、今晩といふ今晩――﹂ ﹁何にかあつたのか﹂ ﹁何んにもあつたわけぢやございませんが、門太郎さんが相變らず朝田屋さんの廻りをウロウロして、窓から覗いたり、雨戸へ手を掛けたりして居るのを見ると、私も我慢が出來なくなりました。それにあの男は刄物などを持つて居る樣子で、朝田屋の裏口をコジ開けようとした時、ピカリと月の光を受けて光つたものがあります﹂ ﹁それは何刻だ﹂ ﹁亥よ刻つ︵十時︶少し前でございます。それを見ると私は、矢も楯たてもたまらず、あの男の後を追つて――こんななりで、到頭此處まで參つてしまひました﹂ ﹁――﹂ 見ると襟卷も合羽もなく、足た袋びまでが少し汚れて、寒々とした薄着が、何んか痛々しさをさへ感じさせるのでした。 ﹁あの男が錢形の親分さんの門かど口ぐちに立つたのを見て、私は膽きもをつぶしましたが、考へて見ると、あんな惡い奴のことですから、何んか自分の都合の良いことを言つて――錢形の親分さんは、そんな口車に乘る方ではないにしても、諸方の迷惑にならないとも限りません。散々迷つた末、私も到頭親分さんにお目にかゝつて、知つて居るだけの事を申上げる氣になりました﹂ 言ひ終つて源太郎は、肩の重荷でもおろしたやうに、ホツと溜ため息いきを吐くのです。四
﹁あ、驚いたの驚かねえの﹂ 空つ風に吹き送られるやうに路地の外から怒ど鳴なり込んで來たのは、ガラツ八の八五郎でした。 ﹁何んだ、八か、もう子こゝ刻のつ︵十二時︶近いんだぜ。放圖もない聲を出すと、御近所の衆がびつくりするぢやないか﹂ ﹁大きな聲でも出さなきや、臍へそまで凍こほりさうですよ。驚いたの驚かねえの﹂ ﹁何をまた驚いて居るんだ﹂ ﹁あの野郎ですよ、此處から眞つ直ぐに飯田町の中坂下へ行くと、朝田屋の假かり宅たく――﹂ ﹁假宅といふ奴があるか﹂ ﹁あのお縫坊の家を三べん廻つて――變な素振りを見せたら、御用を喰はせようと思つて居るうちにドロドロと闇の中に消え込んでしまひましたよ。其邊中探したが、尻しつ尾ぽも見付かりやしません。お月樣が隱れると、坂下の闇はやけに暗い﹂ ﹁まア宜からう、又搜さがす工夫もあるだらう﹂ ﹁おや、お客樣ですか﹂ 八五郎は思はぬ深夜の客に眉をひそめて居ります。 ﹁とんだお邪魔をいたしました。これで私も重荷をおろして歸りますが――困つたことに、來る時は夢中で飛出しましたが、私は根が膽きもの太い方ぢやございません。申兼ねますが、提灯を一つ拜借いたしたうございますが――明日は直ぐ小僧にでも持たしてお返しいたします﹂ ﹁あ、宜いとも――お靜、お客樣に提灯を出して上げな――それより八﹂ ﹁へエ﹂ ﹁寒い思ひをした序ついでに、お客樣を中坂下まで送つて上げないか。三河屋の源次郎さんだ。一と走りお前の足なら半刻で行つて來られるだらう。炬こた燵つをしてもう一本つけて待つて居るよ﹂ 平次はとんでもない事を言ひ出しましたが、それを又嫌といふ八五郎ではなかつたのです。 ﹁宜いとも、送つて上げよう。花道から取卷を連れて練ねり出すやうな、そんな恰好ぢや夜半過ぎの江戸の街は歩けないよ。サア、尻でも端折つて、來るが宜い﹂ 八五郎はもう提灯を持つて、もう一度格子の外へ飛出してをりました。 これは平次の感でやつたことですが、若旦那の源次郎を送つて飯田町中坂下まで行つた八五郎は、思ひも寄らぬ事件の渦中に飛込んでしまつたのです。 ﹁あ、あれはどうした事でせう﹂ 源次郎は往來の眞ん中に立止りました。指した方を見ると、お縫の家――八五郎の所いは謂ゆる朝田屋の假宅の前は、眞夜中といふのに夥おびたゞしい灯が動いて、多勢の人間が取りのぼせた姿で出たり入つたりして居ります。 ﹁どうしたんだ﹂ ﹁あ、丁度宜いところへ、八五郎親分﹂ 群衆の中から八五郎の顏を見て飛出したのは土地の御用聞、申さる松まつといふ中年男でした。 ﹁何か間違ひがあつたのか、申松親分﹂ ﹁朝田屋の後ご家け、お信さんが殺されたよ﹂ ﹁え﹂ ﹁錢形の親分へ今、使を出さうと思つて居たところだよ。八五郎親分が來てくれたのは大助かりだ﹂ ﹁何時のことだえ、それは?﹂ ﹁下男の猪之吉が、裏の井戸傍で水みづ垢ご離りを取つて居る間だといふから、亥よ刻つ半頃かな――いや、亥よ刻つ半少し過ぎかも知れない。火の番の拍子木を聞いてからだといふから﹂ ﹁――フム――﹂ 八五郎は尤もつともらしく首などを傾かしげました。 それは丁度明神下の錢形平次の家へ、朝田屋の伜門太郎がやつて來て、格子の外で平次と話をしてゐる頃でなければなりません。 ﹁その頃私は錢形の親分の家の、路地の外に立つて、門太郎さんと錢形の親分のお話を聽いて居りました﹂ 側から口を出したのは、隣の若旦那の源次郎です。 八五郎は兎も角申さる松まつに案内させて、家の中に入りました。近所の衆は遠慮して、潮の引いたやうに道を開けてくれますが、殺された母親の側には、町内の本道︵内科醫︶の坊主頭と、娘お縫の正月から持越らしい島田髷と、そして少し月さか代やきの伸びかけた、下男の猪之吉の南かぼ瓜ちや頭あたまが集つて居ります。 ﹁ま、八五郎親分﹂ お縫は顏を擧げると、涙にうるんだ眼に、夕刻牛うしヶ淵ふちで逢つた八五郎を見付けました。 ﹁これはどうしたことだ、お孃さん﹂ 八五郎もすつかり劇的な心持になつて、お縫を勞いたはり乍ら、死骸に眼を移しました。 母親のお信はまだ四十七八でせうが、長い間の病苦にやつれて、五十以上にも見えますが、その痩せた首筋に卷き付いた、細引を切り解いたにしても、苦惱に歪ゆがんだ顏や、筋張つた首筋など眼も當てられぬ痛々しさです。 ﹁私の粗そさ相うでございました。明日の節分で滿願だと思ひましたので、井戸端へ出て水みづ垢ご離りを取つて居りました。うつかり裏口を開けて出たのが惡う御座いました﹂ さう言つて、死骸にお詫でもするやうに、深々と首を垂れたのは下男の猪之吉といふのでせう、二十二三の﹇#﹁二十二三の﹂はママ﹈むくつけき男で、色黒い、背の低い、頑ぐわ強んきやうさうな南瓜顏も、なんとなく喰へさうもない人間でした。五
錢形平次が、中坂下の現場に來たのは、それから一刻も經つてからでした。 ﹁親分、變なことになりましたよ﹂ ﹁だからお前に源次郎を送らせたのだ。どうも變なことがあるやうな氣がしてならなかつたよ﹂ 平次は家の中に入ると、先づ直接關係のありさうもない近所の衆に引取つて貰ひ、いきなり曲者の入つたといふ、お勝手口に廻りました。 ﹁内儀さんが殺されたのは、確かに亥よつ刻は半ん︵十一時︶過ぎだらうな――それより前ではなかつたのだな﹂ 誰へともなく言ふと、 ﹁それは確かでございます。いつものやうにお内儀さんの湯たんぽを換かへて上げて、亥よつ刻は半んに一丁目から廻り始める火の番の拍子木の音を聽いて、火の始末をして、それから井戸端へ參りました﹂ ﹁お前は?﹂ ﹁召使の猪之吉でございます﹂ グロテスクな南あぼ瓜ちや頭あたまは、提灯をブラ下げたまゝ、平次の横でピヨコリとお辭儀をしました。 ﹁井戸端へ行くとき、裏口の戸は閉めなかつたのだな﹂ ﹁お勝手の障子を閉めますので、水みづ垢ご離りのときは、其處の雨戸を開けたまゝにして置きます。ガタピシして、お内儀さんが眼をさましますので――﹂ 平次はお勝手の雨戸に手を掛けて動かして見ましたが、成程ガタピシして、容易には閉められません。 ﹁此處は何どつ方ちへ向いて居る﹂ ﹁お勝手は東向になつて居ります﹂ ﹁あの家は?﹂ 平次はお勝手と相對した隣家の二階を指しました。 ﹁私の家でございます﹂ 後ろから口を出したのは、三河屋の若旦那源次郎でした。若旦那と言つても父親がないので、これが三河屋の若主人ですが、丹次郎型の優やさ男は、何時まで經つても町内の衆に若旦那と呼ばれるのを見得にして居たのです。 ﹁成程あの二階からなら、此お勝手がよく見える筈だな﹂ 平次は妙なことを感心して居ります。 ﹁親分﹂ ﹁何んだ、八﹂ ﹁申さる松まつ親分は、朝田屋の伜の門太郎を縛つて俎まな橋いたばしの番所に引揚げて行きましたよ。其處にウロウロして居たんださうで﹂ ガラツ八は物々しく平次に耳打しました。 ﹁門太郎は何を履はいて居た﹂ ﹁先刻の通りの嚴重な足あし拵ごしらへでしたよ、泥だらけの草わら鞋ぢで、此邊は霜しも解どけがひどいから﹂ ﹁あの男は下げし手ゆに人んぢやあるめえ。亥よ刻つ半から子こゝ刻のつまで俺の家の格子の外で話をして居たと申さる松まつ親分に教へて來るが宜い﹂ ﹁へエ﹂ 八五郎は飛んで行きました。 ﹁井戸は何處だえ?﹂ ﹁此方になつて居ります﹂ 猪之吉は案内してくれました。家の袖を廻つて、塀へいに圍まれた穴ぼこのやうなところに、四五軒で使ふ釣つる瓶べ井い戸どがあつたのです。 見ると井ゐげ桁たの下のあたり、流しから溢れた水が凍こほつて、水垢離でも取らなければ、と思ふほどの濡れやうです。 ﹁お前が水垢離を取るのを、誰か見て居た者があつたのか﹂ ﹁この寒さで、子こゝ刻のつ近い時分のことですから、誰も見て居る筈はございません﹂ 振り仰いだ猪之吉の顏には、妙に突き詰めた色があります。 ﹁お前は此家に何年奉公して居るんだ﹂ ﹁十八の歳から、十五年奉公して居ります﹂ ﹁給料は?﹂ ﹁年に四兩の約束でございましたが、旦那樣がお達者な頃、今から五年前に、質に入つて居る田舍の土地を受出すのに、五十兩といふ大金を拜借して居ります﹂ ﹁お前の在ざい所しよは何處だ﹂ ﹁川越でございます﹂ ﹁何時まで奉公して居るつもりだ﹂ ﹁川越の實家は弟に任せて居りますので、少しも心配はございません。お内儀さんがお丈夫になつて、お孃さんが嫁に行くまで、此處に置いて頂く氣で居ります﹂ ﹁水垢離を取つたのは?﹂ ﹁御主人の御一家が、あんまり災難續きなので、そんな事でもして、信心をしたらと思ひ立ちました。此上お内儀さんに萬一の事があつては、お孃樣が可哀想だと思ひましたが、それも無駄になつてしまひました――水垢離まで取つても信心が足りなくて神佛にも見放されたのでございませう﹂ 南かぼ瓜ちや頭をがつくり下げて、猪之吉は涙を呑むのです。これが喰はせ者でないとしたら、世の中には斯こんな途方もない純情家があるものかと、錢形平次でさへ不思議に思つた程です。 ﹁ところで、そのお孃さんに縁談の口でもあつたのか﹂ ﹁いろ〳〵御座いましたが、長し短かしで、まだ決つて居りません﹂ ﹁其處に居る三河屋の若旦那とは話がなかつたのか﹂ ﹁あつたやうで御座います。火事に逢つてお隣に住むやうになつてから、何彼と三河屋さんのお世話になつて居りますが、何分――﹂ 猪之吉はプツリと言葉を切りました。 ﹁義理の兄の門太郎がお縫さんと一緒になりたいと言つて居たさうぢやないか﹂ ﹁あれは良い方でございます。假かりにも親御樣と名のつくものを、何うしようと言つた、大それた事をする人では御座いません﹂ 奉公人の猪之吉は、恐らくこれ以上の事は言はなかつたでせう。 平次は諦あきらめた樣子で家の中へ入つて行きました。六
﹁門太郎の繩を解いてやりましたよ。すると申さる松まつは、此男でなきや、下男の猪之吉に違ひない、猪之吉を縛つても、文句はあるまいな――と馬鹿念を押して居りましたよ﹂
八五郎の報告を聽き乍ら、平次はお勝手から、殺された内儀の部屋へ、念入りに床ゆか板いた、疊と見て行きます。
﹁足跡も泥も落ちてないだらう。八﹂
﹁へエ﹂
﹁門太郎があの足拵へで中へ入らなかつた證あかしだ――猪之吉の水垢離の間に、草鞋を脱ぬいで入る隙はなかつた筈だ﹂
﹁成程ね﹂
内儀の死體は、床の中に寒々と横たへられたまゝ、枕元には娘のお縫が、今更潮のやうに寄せる悲歎に溺れて、たゞさめ〴〵と泣いて居るのです。
薄暗い灯の下には、先さつ刻き平次に追拂はれたまゝで、一人の他人も居ません。お隣りの若旦那源次郎も、さすがに遠慮して此處までは來なかつたのです。
﹁お孃さん、少し訊きたいが﹂
お縫の涙のやゝ納まるのを待つて、平次は靜かに質たづねました。
﹁ハイ﹂
しやくり上げ乍らもお縫は、一生懸命の樣子で顏を擧げます。
濡ぬれた芙ふよ蓉う――といつたそれは痛々しくも可愛らしい顏です。
﹁妙なことを訊くやうだが、これは大眞面目な話だ。佛樣の前で、はつきり返事をして貰ひたい、お前の返事一つで下手人がわかるのだ﹂
﹁――﹂
お縫は漸やうやく涙の乾かはいた眼を擧げて、自分の前にピタリと坐つた平次の、穩やかな顏を仰ぎました。
﹁第一番に、お前の父親の死骸に、全身の斑ぶちがあつたといふ噂を聽いたが、あれは本當のことか﹂
﹁そんな事はございません――それは誰かの拵こさへごとで、近所の方へ振れ廻つたのでございます。父は卒中で亡くなりました。町内のお醫者もよく知つて居ります﹂
﹁それから、朝田屋の火事は放火だといふ噂もあるが――﹂
﹁それは何んとも申上げ兼ねます。猪之吉は三方から火の手が揚つたと申しますし、私も裏表から一時に火の廻つたのを見て居ります﹂
﹁此處へ引越したのは、誰が言ひ出したことだ﹂
﹁お隣りの三河屋さんの源次郎さんが、一手に引受けてお世話して下さいました﹂
﹁朝田屋の身しん上しやうはよくないと聞いたが、借金などはどうなつて居る﹂
﹁源次郎さんがお金を出して、一手に御自分の手に證文を買ひ取つて下すつたといふことで御座います﹂
お縫は悲歎のうちにも、ハキハキと話を運んで行きます。
﹁ところで――今のところお前の義理の兄の門太郎の外に、外から入つて母親を殺すやうなものはないと思ふが――﹂
﹁いえ、いえ、あの人ぢやございません。兄さんは少しは身持が惡かつたにしても、それは私のせゐで――あの人は決して惡い人ではございません――お母さんを殺すなんて、とんでもない﹂
お縫は躍やく起きとなつて抗議するのです。
﹁猪之吉はどうだ。外から入つたのでないとすると、下手人は猪之吉の外にはないことになるが﹂
﹁飛んでもない、あの人は神樣か佛樣のやうな心掛の人でございます。此間から水みづ垢ご離りまで取つてお母さんの病氣が直るやうにと、願を掛けて居るのです﹂
﹁水垢離を取ると見せて、此處へ忍び込めるのは猪之吉だけではないか﹂
﹁猪之吉の水垢離のうち、私は私の部屋の窓を開けて猪之吉の姿を拜んで居ります。私は猪之吉から眼も離しません﹂
﹁それは本當か﹂
﹁――﹂
お縫は默つてうなづきました。娘らしくパツと赤くなつた樣子です。
﹁お前の部屋の窓から水垢離を取つて居るのを見て居るうち、後ろの縁側を人が通つても氣が付かないだらうな﹂
﹁――﹂
﹁八、お前此處から明神樣下の俺の家まで大急ぎで半はん刻とき︵一時間︶あれば行つて來られるか﹂
平次はいきなり妙なことを訊きました。
﹁四つん這になつてなら、それ位かゝるでせうよ。眞つ直ぐに立つて驅け出す分には、四半刻︵三十分︶ありやお釣錢が來ますよ﹂
﹁本當か﹂
﹁やつて見せませうか﹂
﹁子こゝ刻のつ︵十二時︶少し過ぎに源次郎が俺の家の格子の外に立つた時、立聞きして居たと言つた癖にひどく息が彈はずんで居たが――﹂
﹁?﹂
﹁お孃さん。もう一つ訊くが、猪之吉の水みづ垢ご離りは毎晩時じこ刻くが決つて居るのだな﹂
﹁え、夜廻りの拍子木の音を聽いてから、亥よ刻つ半少し過ぎときまつて居ります﹂
﹁八、あの野郎だ﹂
﹁何どい奴つで?﹂
次の間で耳を澄して居た源次郎が、バタバタ逃出すところを、飛付いた八五郎に無むん手ずと襟髮を掴まれました。
﹁あツ、此野郎ですかえ。いやな色男だと思つたが﹂
この厄介な放はう火くわ魔まの殺人鬼が、八五郎の鐵てつ腕わんの中に、犇ひし々と縛られたことは言ふまでもありません。
この激しいが、一瞬しゆんで片付いた爭ひが濟むと、障子の外には下男の猪之吉が、縁側の下にはお縫の義兄の門太郎が、踞うづくまつて涙にひたつて居るのが見付かりました。
﹁お縫、俺が間違ひだつたよ――猪之吉と一緒になつて、仕合せに暮すが宜い﹂
﹁あ、兄さん﹂
縁側に飛出したお縫は、さすがにしよんぼりと庭に立つて居る義兄の門太郎には飛付き兼ねました。
﹁俺が居ちや邪魔だ。もう二度とお前達の前には姿を見せないことにしよう――それにつけても、何時までも獨りでゐちやよくないぜ――お前は可愛らし過ぎる﹂
﹁兄さん﹂
お縫は柱の下に崩くづ折をれました。それをチラリと振り向いた門太郎は、思ひ直した樣子で庭木戸から外へ出て行つてしまひます。自分も危ふく源次郎と同じやうな事をする氣になつたのを、深くも怖おそれ且かつ悔くいたのでせう。
斯かうして源次郎の巧妙な詭きけ計いも、門太郎の執しつ拗あうな情熱も、醜みにくい下男のひたむきな純情に押し流されてしまつたのです。
× × ×
﹁源次郎は――門太郎が匕あひ首くちで朝田屋の裏口をコジ開けようとしたのが、月の光でキラリと見えた――と言つたが、あの時はもう八日月は九段の森に沈んでゐた筈だよ。それに息を彈ませて俺の家の格子の外へ立つたり、お縫に世話を仕過ぎたり、怪しいことばかりだ――朝田屋に放火したのもあの男だらう。――お縫を自分の傍へ引寄せる魂こん膽たんさ。それから朝田屋の困るのにつけ込んで、うんと恩をきせたが、母親が頑張つてお縫と一緒にしてくれさうもないので、豫かね々〴〵細こま々〴〵と企たくらんだ筋書き通り殺したのだらう。門太郎が俺の家へ來たのを追つかけて來て、引返して飯田町で人一人殺して來た手ぎはは恐ろしいな﹂
﹁へエ、驚いた野郎ですね﹂
飯田町からの歸り、美しい正月九日の朝陽を浴び乍ら、錢形平次は斯う八五郎に説明しました。