一
﹁親分は長い間に隨分多勢の惡者を手掛けたわけですが、その中で何んとしても勘辨ならねエといつた奴があるでせうね﹂ ガラツ八の八五郎は妙なことを訊ねました。 晩秋のある日、神田の裏長屋の上にも、赤あか蜻とん蛉ぼがスイスイと飛んで、凉しい風が、素すあ袷はせの襟から袖から、何んとも言へない爽さう快くわいさを吹き入れます。 ﹁それはある﹂ 平次は煙管を指の先で廻し乍ら、あれか、これかと考へて居る樣子でした。 ﹁滅多に人を縛らない親分が、憎くて〳〵たまらなかつたといふ相手は一體どんな野郎です﹂ ﹁主殺し、親不孝、――そんなのは惡いに相違ないが、――本當に憎くてたまらないのは子さらひだよ﹂ ﹁へエ――?﹂ ﹁梅うめ若わか丸まるの昔から、人さらひの種は盡きないが、子供をさらはれた親の歎きを思ふと、俺は斯う息づまるやうな氣がするよ、――世の中にあれほど殺せつ生しやうな惡事はないな﹂ ﹁そんなものですかねエ﹂ 八五郎は長んがい顎あごを撫なでて感心して居りました。 ﹁ところで八﹂ ﹁へエー﹂ ﹁近頃俺は、誘かど拐はかされた子供を搜してくれと頼まれてゐるんだ﹂ ﹁搜してやりや宜いぢやありませんか﹂ ﹁相手がよくないよ﹂ ﹁へエー﹂ ﹁二千二百石取の御大身、お旗本の歴々だ。町方の者をゴミ見たいに扱ふから、俺は旗本や御家人は大嫌ひなんだが、跡取の男の子がさらはれたとなると、氣の毒でもあるな﹂ ﹁氣の毒がる位なら、行つて搜し出してやりませう。金にする氣でさらつたのならまだ何うにかなるが、取とり還かへす手段がなきや、可哀想ぢやありませんか﹂ 八五郎はやつきとなりました。わがガラツ八は稀まれに見る女人崇拜者であると共に、かなりセンチメンタルな人道主義者でもあつたのです。 ﹁可哀想には可哀想だが、そのお屋敷には凄いお妾めかけが一人飼つてあるから、御家騷動が絡からんでゐさうなんだ。土臺木つ葉旗本などが御大層に――家名を絶やさない爲、――云うん々ぬんと勝手な理由をつけて、碌でもない子を幾いく腹はらも産うませるなんざ僭上の沙汰だよ。俺は暇で〳〵仕樣がないんだが、そんな揉もめ事には首を突つ込み度くないよ﹂ ﹁成程ね﹂ 平次の潔癖の前に、八五郎は一應承服しました。が、 ﹁――でも、さらはれた子供と、その母親が可哀想ぢやありませんか。末うら成なり冬とう瓜がん見たいな餓が鬼きでも、生みの母親に取つちや掛け替へはない筈で――、暇で〳〵仕樣がない身體なら、ちよいと覗いてやるのも功くど徳くぢやありませんか﹂ と、ガラツ八らしくこね返します。 ﹁ウーム、その通りかも知れないね。女の考へは女に訊くに越したことはない、何うだお靜行つたものかな﹂ 錢形平次は裏庭で張物をしてゐるらしい、白い姉さん冠りに聲を掛けました。 ﹁八さんの言ふのは尤もつともですよ。行つて上げたら宜いぢやありませんか﹂ まだ充分に若くも美しくもある戀女房のお靜は、子供を持つた經驗はありませんが、それでも女らしく、斯かう思ひやりのある言葉を傳へるのでした。 ﹁何處です、先は﹂ 八五郎は少し乘出します。 ﹁飯田町――餅もちの木坂の堀江頼たの母も樣、二千二百石取の旗本だ。此處には奧方のお鈴さんと、お妾のお若といふのがゐる。堀江頼母といふ人は、働き者で良い男だが、中年まで奧方に子供がなかつた。尤も奧方の里方は微祿して、ろくな後ろ楯がなかつた爲に、奧方の押しが利かないせゐもあつたらう。五年前に妾のお若といふのを容いれ、間もなく徳松といふ子が生れた、――川柳の﹃來た月を入れてはつはつ位なり﹄といふ奴だ﹂ ﹁へツ﹂ 八五郎は面白さうに額を叩きました。 ﹁ところが、意地の惡いものだ、それから間もなく奧方も懷くわ妊いにんして、翌る年同じく男の子を生んだ。それは秀太郎といつて今年四才になる﹂ ﹁――﹂ ﹁跡取は歳は一つ下でも本妻の子の秀太郎と、世間でも親類方でも疑はなかつたが、妾のお若といふのが強したゝかで、殿樣に油をかけて御ごち寵よう愛あいを一人占めにした。この女は櫓やぐ下らしたで叩込んだ古狸で、お芋の煮えたも御存じないやうな、二千二百石の殿樣を手玉に取るなんざ朝飯前だ﹂ ﹁へエ――よくある節ですね﹂ ﹁殿樣は近頃本妻のお鈴の方に疎うと々〳〵しくなつて、家の跡取も、年上といふ理由をつけて、庶しよ腹ふくの徳松にきめるつもりらしい、――が、それでも奧方が丈夫で光つてゐるし、嫡子の秀太郎が四つといふ可愛盛りで、何んにも知らずに慕つて來るのを見ると、妾の愛に溺おぼれた殿樣でも、手つ取早く決めるわけに行かない﹂ ﹁――﹂ ﹁煮え切らない心持で日をくつてゐると、丁度三日前だ、門前で遊んでゐた秀太郎が、何時の間にやら見えなくなつた。屋敷の人達は出入りの者を狩り集めて、大騷動で搜したが、三日經つても歸つて來ない。奧方のお鈴さんは半狂亂で、三度の物も食はずに悲歎にくれてゐる、――何んとかして搜し出してくれ、此儘にして置いては、素姓の知れないお妾のお若の子が、由ゆゐ緒しよ正しい堀江家の跡取に直されるかも知れない――と、用人の松山常五郎といふ人がやつて來て、たつての頼みだ﹂ ﹁そいつは行つてやらなきや男が立ちませんね、親分﹂ 八五郎は、妙に力ちか瘤らこぶを入れます。 ﹁俺は十手を預かる町方の御用聞で、男をと達こだてややくざぢやないが、兎も角行つて見るとしようか﹂ ﹁さう來なくちや錢形の親分と言はさねエ﹂ ﹁何をつまらねエ﹂ でも、平次は到頭動き出しました。二
餅の木坂の堀江家の通用門からお勝手口へ顏を出した錢形平次と八五郎は、内玄關から疊を敷いた部屋に通されて、茶よ菓子よと、思ひの外の待遇でした。 ﹁平次殿に、八五郎殿か、よく來て下された。殿にも大層なお喜びで、くれ〴〵もお禮を申すやうにとのお言葉だ﹂ 用人の松山常五郎は手を取らぬばかりの喜びやうです。四十五六の用人摺ずれのした人柄ですが、平次に言はせると、斯こんなのが案外恐ろしく頑ぐわ固んこな主人思ひだつたりすることがあります。 ﹁その後若樣の御便りは?﹂ ﹁何んにもない、困つたことぢや﹂ ﹁一應心得のために、御屋敷内の皆樣に御目にかゝり度いと思ひますが﹂ ﹁宜いとも、早速殿に申上げよう﹂ それから暫らく待たされて、若い綺麗なお小間使が、 ﹁どうぞ此方へ――﹂ と案内してくれました。この頃の旗本屋敷らしく、天井は低く、窓は小さく、廊下もさして廣くはなく、何んとなく薄暗い感じですが、それでも木口も立派で、よく磨みがき拔かれてあり、夥おびたゞしい部屋々々の調度も、一粒選りの良い品で、内福らしさが邸内一パイに漲つた感じです。 奧の一と間、左右から唐紙を開けると、脇息に寄つて、三十七八の立派な武家が、ニコやかに二人を迎へました。 ﹁平次、八五郎と申したな、いや、御苦勞であつた。伜が誘かど拐はかされては、家内の恥辱になることぢや、それに奧おくの悲歎が見て居られない、何分頼むぞ﹂ 二千二百石取りの殿樣にしては如何にも如才ない調子でした。 ﹁精一杯、お搜しいたします。就ついては、御屋敷の内外を、自由に調べさして頂き度うございますが――﹂ ﹁あゝ、宜いとも、何分宜しく頼むぞ﹂ 口をきいたのはたつたそれだけですが、平次は滿足した樣子で引下がりました。 續いて奧方の部屋、これは縁側から廻つて聲を掛けると、 ﹁まア、よく來てくれました。どんなにお前方の來るのを待つたことか――﹂ さう言つて端居に出て來たのは、三十五六の、少し淋しいが、美しいといふよりは、清せい潔けつな感じのする、品の良い奧方でした。 ﹁お氣の毒で御座います。出來るだけのことは致しますが、少しばかり、お話を願ひ度いと存じますが――﹂ ﹁宜いとも、何んなと遠慮なく﹂ ﹁若樣は時々お一人で御門の外へ出られるのでせうか﹂ ﹁何んと申しても子供のことですから、召めし使つかひにはよく見張るやうに申付けてありますが、時々一人で外へ出て、近所の子供衆と遊んで居ります。ことに隣りの荒物屋の子と親したしいやうで――﹂ ﹁人見知りをなさらない方で?﹂ ﹁えゝ、誰にでもよくなつきます﹂ ﹁不斷御屋敷では誰と一番よく遊んでゐらつしやいました﹂ ﹁小間使の吉きちや、若黨の三次と仲がよかつたやうで﹂ ﹁お屋敷の外の方では?﹂ ﹁荒物屋の子ぐらゐのものでせうね、外には心當りがありません﹂ 話はそれだけでした。良い加減に切上げると、 ﹁どうぞお願ひ申します、あの子が歸らなかつたら、私――﹂ あとは袂たもとに顏を埋めて、障子の内に入つてしまひました。 次はお妾めかけのお若の部屋、それは奧方の部屋よりも明るく大きく、庶しよ腹ふくの子の徳松が、玩ぐわ具んぐを部屋一パイに散らばして遊んで居ります。 ﹁御苦勞ねエ、飛んだ人騷がせをして﹂ さう言ふお若は、二十七八のそれは派手な女でした。少し肥り肉じしで、色の白い、媚こびを含んだ、妙に素氣ない物言ひも、思はせ振りなところがあつて、男を焦立たせずには措かないと言つた質の女です。 側で精一杯玩具を散らばして遊んでゐる兒は、大柄でお人形のやうな造作をした顏ですが、何んとなく愚ぐど鈍んさうでもあります。 此女から何を訊いても恐らく正確な答へを得ることがむづかしいと思つたか、平次はそれつ切り引下がりました。 あとは用人の松山常五郎をのぞけば、一季半季の奉公人ばかりです。そのうちの一人、先刻案内してくれた綺麗な小間使は、お吉と言つて十九、房州から行儀見習に上がつて居るさうで、 ﹁私は何んにも存じません。でも奧樣がお可哀想です、若樣に若しものことがあつたら、生きては居らつしやらないでせう。――若樣は何方かと言へば疳かんの強い方で、滅多な人にはなつきませんでした。お屋敷の中でもお相手の出來るのは、私と若黨の三次さん位のもので、外には荒物屋の子が時々遊びに來ましたし、御親類方では、奧樣の御妹樣――お淺樣にはよくなついてゐらつしやいました﹂ ﹁そのお淺さんとやらは何處に居るのだ﹂ ﹁市ヶ谷でございます。もう三十を越した方で、御不縁になつて奧樣のお里にゐらつしやいますが、――お里方と申しても、今では弟樣御夫婦の世帶ださうで﹂ 此處で平次は、奧方と小間使の言葉の間に大きな喰ひ違ひのあることに氣が付きました。 ﹁若樣とお部屋樣︵お若︶の間は?﹂ ﹁お仲は宜しい方でございました。お二人の若樣が御一緒に遊ぶので﹂ ﹁――﹂ ﹁滅多な人にはなつかない若樣でしたが、お子樣は矢張りお子樣同士で、徳松樣と御一緒に遊び度さに、お部屋樣︵お若︶の仰しやることはよく聽いたやうでございます﹂ お吉はよく話してくれました。何となく氣きが輕るな好感の持てる娘です。 續いて逢つた若黨の三次は、三十前後の色の淺黒い小柄な男で、 ﹁あつしは何んにも知りませんよ、若樣とは大の仲好しでしたがね、これは何處の子供衆も四角几きち帳やう面めんなことを嫌ひだからで、何んの不思議もありません。え、若樣は、滅多な人とは口もきゝません﹂ そんな事を言ふ調子が、妙に掛引が強さうで、渡り者らしい強したゝかな感じです。 ﹁それから三日の間に變つたことはないのか――若樣が見えなくなつてからだ﹂ ﹁奧樣が築つく土ど八幡樣へお詣りに行つただけです――え、昨日でしたか、御おみ神く籤じを引いたら凶きようが出たとかで、ひどく萎しをれてゐらつしやいましたした﹂ ﹁お供は?﹂ ﹁お一人のやうでした﹂ 三次が濟むと、あとは下女のお仲に、飯めし炊たきのお六、どちらも在ざい郷がう者もので、若樣紛失とは關係がありさうにも見えません。が、たゞ二人の口から、若の行方不しれ知ずになつた夕刻、屋敷から外へ出たものは一人もなかつたことだけは確かめました。 ﹁八、市ヶ谷に廻つて、奧方の里方に居る妹さんに逢つて見てくれ。それから歸り築土八幡樣に廻るんだ、昨日武家の奧方が參詣した時の樣子――誰にも逢はなかつたか何うか、それを訊くんだ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁それからもう一つ、あのお妾めかけの身許を洗つてくれ。あの女は素姓のうるさい女に違ひない、――と、もう一つ、若黨の三次も唯の奉公人にしちや眼端が利き過ぎるやうだ。誰か下つ引をやつて、請人を調べさせてくれ﹂ ﹁親分は?﹂ ﹁俺か――ハツハツ、俺に用事がなくなるのが不足だといふのか。心配するな、荒物屋の伜に逢つて、最寄の玩おも具ちや屋やと駄菓子屋をしらべて家へ歸つて晝寢をし乍ら考へるよ﹂ ﹁人さらひなら、江戸から出さないやうに、四宿と船の出入りを見張らなきやなりませんね﹂ 八五郎は常識的なことを言ひます。 ﹁三日も前のことだ、江戸から連れ出すものなら、もう箱根を越して居るよ。だがな八、若樣の秀太郎とかは、あまり良い子柄ではなかつたやうだ。疳かんが強くて、人付きが惡くて、父親にまであまり可愛がられてはゐなかつた、人さらひの狙ふやうな玉ぢやない。若し又金にする氣で狙つたのなら、とうに何んとか言つて來る筈だ。こいつは間違ひもなくお家騷動さ﹂ ﹁成程ね、そんなもんですかねエ﹂ ガラツ八の定石は一ぺんにけし飛んでしまひました。三
その晩、平次の家へ八五郎がやつて來たのはもう大分更ふけてからでした。平次はそれ迄珍らしく女房のお靜を相手に、晩ばん酌しやくの追加などをして、待つて居た樣子です。 ﹁あ、くたびれた、――江戸中を二三遍駈け廻つたやうな心持ですよ﹂ ﹁御苦勞々々々、まア一杯やり乍ら話してくれ﹂ 子分思ひの平次は、自分で立つて盃などを出してやります。 ﹁パイ一も有難いが、それより腹へ底を入れなきや、呑んだやうな氣がしませんよ。朝つから蕎そ麥ばを二杯食つた切りで、山の手一圓から、芝まで駈け廻つたんで――﹂ ﹁呆れた野郎だ、また空からつ尻けつか﹂ ﹁お察しの通りで﹂ ﹁お上の御用で、何時何處へ飛ぶかわからない身體だ、せめて二朱しゆなり一分なり、要心金は持つて居るものだよ、それが御用聞のたしなみだ――と言つても、俺も三百も持つてゐないことはあるがね﹂ 平次はさう言つて苦笑ひするのです。 ﹁ところで、斯かうでしたよ、――奧方のお里方へ行つて見ると、妹のお淺といふのが、あつしの胸倉を掴つかまないばかりに、お願ひだから一日一刻も早く若樣を搜し出してくれ、誘かど拐はかした奴は大方わかつてゐるが、いづれ若樣を亡きものにするに違ひない――といふ騷ぎなんで、あの女は、姉の大事な子をさらつたのは、お妾の廻しものに決めてゐる樣子です﹂ ﹁それから﹂ ﹁――若樣の行方不知になつたのは、堀江の屋敷から人が來て、その晩のうちに聞いたさうです。もう一つ、奧方は昨日確かに築つく土ど八幡樣へお詣りに行つて、お神みく籤じを引いて居ますよ。あの通り目に立つ人で、多勢が見てゐます。尤もつとも御神籤所で訊くと、奧方の抽ひいたお神籤は凶でなくて吉だつたさうで、少し變ぢやありませんか﹂ ﹁フーム﹂ 平次は唸うなりました。何んか知ら妙に喰ひ違ひの多い事件です。 ﹁お妾のお若といふのは、櫓やぐ下らしたで鳴らした強したゝか者で、引拔くと尻尾が九本生はえてゐる代物ですよ。あの兄貴だと言つて餅の木坂の屋敷に出入りしてゐる林次とか言ふ男だつて、兄貴だか何んだかわかつたものぢやありません。それから若黨の三次、あれは親分のお察しの通り、仲間では評判のよくない渡り者で、三道樂に身を持崩した、大變な代物ですよ﹂ ﹁よし〳〵、それでいろ〳〵のことが判つたよ。俺の方はまるつ切り不し漁けだ――荒物屋の伜の時次郎は、はにかんで何んにも言はないし、神田から番町へかけての、玩具屋にも駄菓子屋にも何んの變りもない。仕方がないから家へ歸つて一生懸命考へたよ﹂ ﹁結構な智慧が浮びましたかえ﹂ ﹁うんにや、智慧の方も不し漁けだ。明日もう一度餅の木坂へ行つて、調べ直して見よう﹂ 平次はさう言つて、大きな欠あく伸びをするのでした。 事件は併しかし、翌る朝を待ちませんでした。 その晩平次は、 ﹁錢形の親分さん、お願ひ申します。夜更けになつて相濟みませんが、餅の木坂の荒物屋から參りました﹂ 遠えん慮りよ勝がちではあるが恐ろしく緊張した樣子の聲と、格子をたゝく音に眼を覺されてしまつたのです。 ﹁何んだえ、餅の木坂のの荒物屋で何うしたんだ﹂ 入口の狹い三疊に泊り込んでゐた八五郎が飛起きました。 ﹁伜が夕方から見えなくなりました。八方に手をわけて心當りを搜しましたが、何處にも見えません。堀江樣の坊つちやまのこともあるので、あのお屋敷の御用人に伺つてお願ひに參りました。まことに申兼ねますが、一ひと粒つぶ種だねの伜一人を助けると覺召して、お願ひでございます﹂ 傾かたむいた月明りに透すかして見ると、三十五六の實直さうな男が、格子に縋すがり付いて泣かぬばかりに訴へて居るのです。 ﹁そいつは氣の毒だが、もう夜明けに間もあるめえ。後から行つて見るから、先へ歸つて待つてくれ﹂ ﹁さう仰しやらずに親分﹂ 斯うしてゐるうちにも、五歳になる伜の時次郎が、恐ろしい速力で自分達の手の及ばぬところへ飛んで行つて了ふとでも思ひ込んでゐる樣子です。 ﹁八、そんな氣の長いことを言はずに、今直ぐ一緒に行つて見てやるが宜い、俺も後から追ひ付くから﹂ ﹁へエ――﹂ 隣の部屋から平次に聲を掛けられると一も二もありません。八五郎は寢足らぬ顏を水で洗つて、荒物屋の亭主と飛んで行きました。 飯田町へ駈け付けて見たところで、八五郎が出でし澁ぶつたのも無理はなく、夜の明けぬうちは、何處を搜して見る當てもありませんでした。 ﹁いつものやうに、薄暗くなるまで外で遊んでゐました。五つと言つても智慧も柄も六つ七つに見える方で、夕方の忙いそがしいときは、よく一人で遊んで居ります。お隣の堀江樣の坊つちやまが誘かど拐はかされたといふ話も聞きましたが、あれは身分の方のことで、手前共の汚きたない餓が鬼きをさらつたところで、百文にもなるわけはなく、安心して眼を離してゐたのが間違ひでございました。こいつは矢張り神隱しとでも申すやうなものでせうか﹂ 亭主と女房はひどい興奮と焦せう躁さうにかり立てられて、交かはる〴〵斯う語るのでした。 ﹁江戸の眞ん中で、そんな馬鹿なことがあるわけはない。いづれ人間の仕業だらうが、日頃子供を手なづけて居る者に心當りはないのかな﹂ ﹁一向心當りは御座いません。どなたにでもよくなつく子で、平ふだ常んからそればかり心配して、知らない方と、一緒に遠くへ行かないやう、うつかり物などを貰はないやうにと言ひ含ふくめて置きましたが――﹂ 女房はさう言ひ乍ら、自分の不行屆を責めてさめ〴〵と泣くのです。 其處へ平次も駈け付けましたが、さて手の下しやうもありません。四
その日の晝過ぎ、荒物屋に一通の手紙を投げ込んだ者があります。取込んでゐた時で、その風體も判らず、小僧が後で店の土間で拾つて騷ぎになりましたが、その時はもう投げ込んだ者の姿もなく、お隣の堀江家の通用門へ女の姿がチラと隱れたのを見たといふ者もありますが、あまり當てにはなりません。
手紙は小こぎ菊くを一枚、小さく疊んだもので、中には文字がたつた三行、
子どもは しばらく あづかる 心配無用 いのちに別條はない
と斯かう書いてあるのでした。相當に書ける筆て跡を隱して荒々しく書いたもので、
﹁氣をつけて見るが宜い、亂暴に書きなぐつては居るが、角々の滑らかな、假か名な書がきの癖くせと、妙に優しいところがあるだらう。これは間違ひもなく女の書いたものだ﹂
平次はさう言ふのです。
その日一日頑張つて見ましたが大した收獲もなく、平次は八五郎だけを殘して自分の家へ引揚げました。
その晩も遲くなつて歸つて來た八五郎の報告によれば、荒物屋の方は何んの變つたこともなく、堀江家の方は、姉の奧方を慰めに來たといふ妹のお淺が、日が暮れてから歸つて行きましたが、間もなく若黨の三次が、それを追ふやうに出て行き、酉むつ刻は半ん頃︵七時︶お妾のお若の兄といふ林次がやつて來て、一刻とき近くお若のところで油を賣つて歸つたといふのです。
﹁持つて來た品か、持出した品はないのか﹂
平次は妙なことを訊きました。
﹁お淺が小さい風呂敷包を大事さうに抱へて行きましたが、あとは空から手てで、人間一人隱して持込んだ樣子はありませんよ﹂
八五郎は先をくゞつて斯んな事を言ふのです。
その翌日は、今度は堀江の屋敷から出入りの職人が宙ちうを飛んで來ました。
﹁大變、親分、直ぐ來て下さい﹂
﹁何んだ、何が大變なんだ﹂
居合せたガラツ八が、親分の眞似をして妙に落付き拂ひます。
﹁若黨の三次が殺されたんです﹂
﹁何?﹂
﹁お屋敷の塀の外で、辻斬にでもやられたんでせう、眞つ向から梨なし割わりに斬られて死んでゐました﹂
﹁そいつは大變だ﹂
ガラツ八もさすがに驚きましたが、平次はその掛合を隣の部屋で聽くと、早くも支度をして出て來ました。
﹁行つて見よう、八﹂
﹁へエ――﹂
親分と子分と、それから使の者は、物をも言はずに飯田町へ飛んだことは言ふ迄もありません。
若黨三次の死骸は、堀江家裏手の塀外にありました。
町役人が二三人と、掛り合の近所の衆と、それに堀江家の用人松山常五郎が出て見張りをして居りますが、何う處置したものか、工くふ夫うに餘つて、睨み合ひのまゝ時が經つて行く樣子でした。
﹁御免、檢屍前によく見て置き度い﹂
平次は筵むしろを取りました。その下にある死骸は、醜みにくい恰好に崩折れた若黨の三次で、小意氣な男前も斯うなつては慘さん憺たんたるものです。傷は腦天から二三寸斬下げた凄い業、恐らく聲も立てずに死んだことでせう。
﹁正面からこれだけ斬るのは親分﹂
﹁三次が油斷をする相手だ、そして凄い腕前だ、――少し血が少ないとは思はないか﹂
﹁さう言へばさうですね﹂
平次と八五郎はこんなことを應おう酬しうして居ります。
﹁昨夕三次は何處へ行つたんでせう﹂
平次は用人の松山常五郎に訊ねました。
﹁毎晩のことだから、わからないが、いづれ何處かの賭と場ばへでも潜り込んで居たことと思ふが﹂
松山常五郎の調子には、ひどく三次をこきおろすやうな響きがあります。
﹁遲く歸つた時は何處から入るんです﹂
﹁通用門の潜くゞ戸りどは何時でも開いてゐるよ﹂
﹁念のためにお屋敷の中と、三次の部屋を見せて下さいませんか﹂
﹁あ、宜いとも﹂
松山常五郎が案内して堀江の屋敷に入りました。
潜戸を入つて二三十歩行くと、新に芝地を掘り返した畑で、鍬くはの跡も生なま々〳〵しいところへ、白いものが一つ落ちて居ります。
拾ひ上げて見ると、それは子供の玩おも具ちや――ろくろ細工に彩いろ色どりをした兎、しかもその兎には、少しばかり血さへ附いて居るではありませんか。
﹁近所の子がよく御門内へ入るから喃﹂
松山常五郎はそれを見て、辯解らしく言ひます。
三次の部屋は何んの變哲もなく、持物もひどく少ないのですが、不思議なことに押入から引出した行かう李りの中からは、紙に包んだ小判が十枚ほど出て來たのです。
﹁大層工くめ面んの良い男ですね﹂
年に四兩の若黨の給料では、十兩溜めるのは容易のことではありません。
それに、
﹁三次は勝負事が好きだと言つたね﹂
﹁勝つて來た十兩かも知れませんよ﹂
﹁この紙の匂ひを嗅いで御覽、勝負事で儲まうけた金を、こんな紙に包む奴があるだらうか﹂
﹁へエー、こいつは女の匂ひですね﹂
八五郎は大きい鼻をヒクヒクさせて居ります。
紙には高價な化粧品――仙せん女によ香かうあたりでなければ眞似られない匂がしみ込んでゐるのでした。