一
﹁親分、良いお天氣ですね――これで金さへありや――﹂ 薫くん風ぷうに懷ろを膨ふくらませて、八五郎はフラリと入つて來ました。相變らず寢起の良ささうなのんびりした顏です。 ﹁お早う、天氣が續くと、懷ろの方も空つ尻らしいな﹂ ﹁お察しの通り、四五日はお濕しめりにもありつきませんよ。いよ〳〵料簡を入れ替へて――﹂ ﹁まさか、泥棒を働く氣になつたわけぢやあるまいな﹂ ﹁それは大丈夫で。泥棒なら縛るのが役目で、あつしの考へたのは、金貸しですよ。こいつは、義理人情さへ考へなきや、隨分儲かりさうですぜ﹂ ﹁成程良い料簡だが、お前には出來ないよ。第一、元手があるまい﹂ ﹁成程、そこまでは氣がつかなかつた﹂ ﹁その代り義理人情があり過ぎる﹂ ﹁ちげえねえ。あの妓こもさう言ひましたよ﹂ などと、二人とも良い心持なものです。 ﹁ところで、麹町九丁目の騷ぎはどうなつたんだ﹂ ﹁そのことですよ、――あの邊は番町が近いから、小つ旗本と安御ごけ家に人んの巣だ﹂ ﹁言ふことが荒つぽいな。もう少し丁寧にものを言へ﹂ ﹁旗本や御家人の粒つぶの小さいのには、工面のよくねえのが多いから、こつそり繁はん昌じやうしてゐるのは、質屋と金貸しだ。大きいのは九丁目の鍵かぎ屋や金右衞門から、小さいのは、唐たう辛がら子し屋やのケチ兵衞に至るまで﹂ ﹁何んだいそれは?﹂ ﹁本名は七兵衞だが、人間があんまりケチだから、麹町ではケチ兵衞で通つてまさあ。唐辛子屋といふから、昔は七なゝ味いろ唐たう辛がら子しでも賣つたのかと思つて訊くと、なアーに、鼻の頭が赤くて、目が惡くて、そのくせ申分なくこすつ辛いから、人呼んで唐辛子屋﹂ ﹁人呼んでと來やがつたな﹂ ﹁へツ、時々は學のあるところを見せて置かなきや、人が馬鹿にしていけません﹂ ﹁馬鹿にするものか、次を話せ﹂ 平次は八五郎の饒ぜう舌ぜつを封じて、次を促うながしました。 ﹁あの界隈は、近頃物騷でならねえといふから、土地の清水谷の常親分に渡りをつけて、行つて見ると、成程二三軒やられましたね﹂ ﹁何處と何處だ﹂ ﹁それが盜られた方も評判のよくねえのばかり。九丁目の金貸鍵屋金右衞門と、三軒長屋のケチ兵衞ぢや、泥棒を擧げる張合もありませんや﹂ ﹁お前の言ふことは變だな﹂ ﹁だつて、考へて下さいよ。首と釣つり替への判こに物を言はせて、貧乏人の首を絞めあげるやうに掻き集めた、何千兩の金のうち、五兩や十兩盜られたところで、大したことはないぢやありませんか。あつしはもういやになつて歸つて來ましたよ。取る方が泥棒でなく、取られる方がベラ棒で﹂ ﹁亂暴だな、お前の言ふことは。泥棒を勘辨して居ては、御政道の表が立たない﹂ ﹁へツ、笹野の旦那のせりふ見たいで﹂ 八五郎には斯う言つた途方もなさがあつたのです。 尤も、江戸の政道も頽たい廢はい期きになると、義賊といふ輩やからが横行しました。日本駄右衞門、雲切仁左衞門、鼠小僧、神道徳次郎、曰いはく某曰く某と、幕末の世界では、芝居と講釋の英雄にさへなつてしまひましたが、本質的には、百兩盜んで十兩惠めぐむ程度で、今日の税金よりは、餘つ程安い冥みや加うが金で、市民達のヒロイズムを滿足させたわけです。 それは兎も角、わが八五郎までが、金貸しばかり荒したといふ、義賊氣かた質ぎの泥棒に同情して、フラリと戻つて來たのでせう。 ﹁ところが、もう一度出直さなきやなるまいよ﹂ ﹁へエ﹂ ﹁十丁目の尾張樣御下屋敷にも變なことがあつたさうで、御留守居の安藤求もと馬め樣と仰しやる方が、笹野の旦那の御口添へで、先刻お見えになつたよ﹂ ﹁尾張樣で、何をやられたんで?﹂ ﹁御下屋敷だから、市ヶ谷の御上屋敷と違つて、出入りもやかましくはなく、御見張りも手薄だ。尤も六十一萬石の御威光に驚いて、滅めつ多たなことでは間違ひはないといふが﹂ ﹁へエ、呑氣なもので﹂ ﹁ところが三日前のこと、不ふじ淨やう門もんの上を乘越えて入つて、御隱居樣御居間に忍び込んだ曲者があり、手文庫を持出して、庭石で叩き割つたといふのだ。尤も中味は空つぽで、金は盜られなかつたといふことだが――﹂ ﹁ザマア見やがれ、ねえのはこちとらも大名も大した變りはありませんね﹂ ﹁馬鹿なことを。こちとらは無いとなると火鉢の抽ひき斗だしに穴のあいたのもなくなるが、お大名は勘定方のところに、萬と用意してある――兎も角、金は盜られたわけではないが、物騷でもあるから、一應お調べを願ひ度いと、斯ういふ口上だ﹂ ﹁それで親分が出かけようといふわけで﹂ ﹁氣の毒だが案内してくれ。大名や金貸しには俺だつて附き合ひ度くねえが、笹野の旦那の頼みがあるから、ちよいと覗のぞいて見よう﹂ 平次はいよ〳〵此小事件に飛込むことになりました。二
﹁此處ですよ、親分﹂ ﹁へエ、こんなところに、こんな化けさうな長屋があつたのかね﹂ 平次がさう言つたのも無理のないことでした。近所は大名屋敷と旗本屋敷ばかり、その中に挾はさまつた、麹町の町家。そのまた奧に押しひしがれたやうな三軒長屋があり、騷ぎの中心地は、そんな厄介な場所だつたのです。 表通りには、鍵屋金右衞門の宏大な構かまへがあり、隣の酒屋との間に木戸があつて、木戸を押しあけて入ると、片側だけの三軒長屋。突き當りは狹い道を距てて、尾張樣の下屋敷です。 鍵屋金右衞門は十七八年の間に數萬の金を拵こさへた、鬼のやうな六十男。剛がう情じやうで我慢強くて、冷酷で無慙で、そのくせ、如じよ才さいの無い男、金貸しに生れついた樣な人間です。この金右衞門を怨うらむ者は、江戸中に何百何千人あるかわかりませんが、用心深い上に、元は武家だつた金右衞門は相當以上に武藝の心得があり、その上雇やと人ひにんの喜三郎といふ若くて達者なのが居るので、寶の山を眺め乍ら、小泥棒などでは、手も出せなかつたのです。 江戸の名ある泥棒達には、長い間、それは一つの課題でした。非道なことをして溜めた鍵屋の金を、たつた一兩でも奪とつたものがあれば、それはまさに、泥棒競爭のゴールを征服したもので、仲間への誇ほこりにもなつたことでせう。 ﹁御免よ、錢形の親分をつれて來たが﹂ 八五郎は先さき觸ぶれをしました。江戸一番の親分と言つた、誇ほこりに充ちた調子ですが、 ﹁これは〳〵、飛んだ世話になりますが、なアに、大したことでもないので﹂ などと、貧乏人に金を貸して、萬兩分限にでもならうと言ふ金右衞門に取つては、錢形平次も、貧乏な一市しせ井いじ人んでしかありません。 ﹁でも、お屆けがあれば、來ないわけにも參りませんよ。八五郎に話したことでせうが、もう一度﹂ 平次は下した手てに出ました、金で慢心して居る人間には、斯かうする外に術てはありません。 ﹁なアに、つまらねえ空巣狙ひで。店が空つぽになつたところを狙つて、錢箱をさらつて逃げたやうで。中味は小判が五枚と、小粒が少々、いやほんの雀の餌ほどで﹂ 金右衞門はカラカラと笑ふのです。皺一つない、張り切つた老人で、貧乏人を脅かし馴れてゐるせゐか、ヤクザ稼業の者のやうに、ドスのきいた聲です。 ﹁入らつしやい﹂ ﹁これが手代の喜三郎で、少し柔やは術らの心得があります﹂ 紹介されたのは、二十五六の立派な男でした。この主人に、この奉公人が揃つて居て、用心堅固では、全く盜賊の狙ふ隙すきもない筈です。 平次は一應のことを訊いただけで、鍵屋を出ました。 細くて深い路地を入ると、突き當りに頑丈な木戸。それを開けると、片側の三軒長屋が並んで居ります。 ﹁この長屋は大變ですよ、親分﹂ ﹁何が大變なんだ﹂ ﹁一軒目は學者で、都どゞ々い逸つも雜俳も心得てゐる、恐ろしく粹いきな先生。足も身體も惡いが、昔は御武家だつたさうで、大澤傳右衞門、お家を狙ふ曲者見たいな名をして居る﹂ ﹁フーム﹂ ﹁二軒目は唐辛子屋のケチ兵衞だ。表店の鍵屋同樣金貸しには違げえねえが、これは一兩と纒まとまつた金は貸さない。鍵屋で斷わられた落ちこぼれを頂いて、三百、五百から、精々三貫、五貫。二分金一枚借りると、拂ひの期限には、噛みつかれさうになる。それに眼が惡いから、夜は外へ出ない﹂ ﹁變つたのが居るな﹂ ﹁三軒目は大工の半次。これだけは眞面目な人間で、職人の癖くせに少し慾は深いが親孝行で、評判の良い男ですよ﹂ ﹁――﹂ ﹁ところで、變つて居るのは、この三軒は恐ろしく仲が惡い。大澤傳右衞門は他の二軒を虫ケラのやうに言ふし、ケチ兵衞などはお隣りのくせに、合長屋へは百も貸さない。半次はうるさいから、顏を肯そむけて通るといふ鹽あん梅べえ、これぢや仲良くなりつこはありませんね﹂ ﹁フム﹂ ﹁その中の家のケチ兵衞が、留守中に溜め込んだ金を十兩も盜られ、まるで氣違ひになつて居ますよ。貧乏人の怨みの塊かたまり見たいな金だ、盜られたら飛んだ厄やく落おとしだらうと思ふと大違ひ。外から戻つて來て、金がなくなつて居るとわかると、女房のお百と掴つかみ合ひの大喧嘩だ、ウヌが盜つたに違ひない、なにを此野郎と、打つ引つ掻く、蹴け飛とばす、噛みつく騷ぎ、――尤もケチ兵衞の留守に、女房のお百が町内の湯へ行つたのが惡かつた。兎も角、死ぬの生きるの騷ぎだつたさうですよ。無理もありませんね。ケチ兵衞に取つては、十兩は命がけの大金だ﹂ ﹁それがどう納をさまつた﹂ ﹁まだ納まりやしません。見るに見兼ねてお隣の浪人者が仲裁に入つたが、足が惡くて埒らちがあかないのに、ケチ兵衞の女房お百は手が早いから、したゝかに引つ掻かれて、大澤傳右衞門敗はい北ぼくは大笑ひでせう﹂ 八五郎の話はいかにも面白さうです。三
﹁や、錢形の親分、ま、ズイと﹂ 浪人大澤傳右衞門如才もありません。四十五六の壯さかんな年頃ですが、ひどい跛びつ者こで蒼白くて、二本差としてモノの役に立ちさうもありませんが、雜ざつ俳ぱいや席せき畫ぐわが得え手てで、散らしを描いたり、配り物、刷り物の圖案をしたり、代作、代筆、代選、代とつくものなら何んでも出來るので、町内の調法者になり、武家だか幇たい間こだか、わけのわからぬ生活をして居る男でした。 總そう髮はつに汚ない袷、尻が拔けて膝が拔けて、それを晴着にも寢卷にもしようといふ徹底振り、江戸といふ時代には、こんなにまで落ち果て乍ら、飢うゑも凍こゞえもせずに、店たな賃ちんを三年も溜めて、晏あん如じよとして活くらしをして行く方法があつたのです。 ﹁飛んだお邪魔をいたします﹂ ﹁何んの、親分でも裁さばいてくれなきや、私は夜もおち〳〵眠れませんよ。昨日も窓を突き破つて、徳利と擂すり粉こ木ぎが飛んで來たが、あの夫婦喧嘩と來ると、ハタの者の命が危ない。でも、どうも、大變な長屋だが、越すに越されず飛んだ難儀で――﹂ さう言ひ乍ら、大澤傳右衞門は娘を呼んで汚ない茶ちや碗わんに茶をくんで出すのです。娘は十七八、非凡の美しさですが、茶道具の汚なさも非凡です。 ﹁親分﹂ 八五郎は氣味惡さうにそれを留める間もなく、平次は取上げて啜すゝりました。 ﹁これは大したお茶ですね、大澤樣﹂ ﹁いやさう言はれると耻かしい。落果てた拙者だが、お茶だけは贅ぜいを言つて居るよ。その茶は江戸ぢや手に入らない。京の知合ひに頼んで、宇治から送らせて居る﹂ ﹁へエ、それは大したことで﹂ 平次も開いた口が塞ふさがりません。 どう見たところで、泥棒と縁がありさうもありませんが、念のため訊くと、 ﹁いや、私は何んにも知らない。二三日前の夕方であつた。七兵衞殿が留守で――眼が不自由でも、貸金の取立ては人に任せられないと見える。その後で御内儀が町内の湯へ行つた。何んでも其處へ賊が入つたらしい。幸ひ大金の隱し場所は見付けなかつたらしいが、それでも拙者などには及びもつかない十兩といふ金を奪られたのださうだ。歸つて來ると大騷動で、お蔭で私も娘も一晩一睡すゐもしなかつたよ﹂ さう言つた話が全部です。 隣りの唐たう辛がら子し屋や七兵衞は、平次が聲を掛けても返事もしませんでしたが、八五郎がガラリと開けて入ると、女房のお百と、子供が睨にらめつこでもするやうに、火のない火鉢を隔へだてて睨み合つて居るのです。 ﹁誰だい、いきなり戸なんか開けて、――おや、八五郎親分か、泥棒の見當でもつきましたかえ﹂ 斯う言つた調子です。眼が惡いと言つても、入つて行つた八五郎の人相がわかるやうでは、少しは見えるのでせう。 五十前後の大入道で、醜みにくくもあり不氣味でもあります。頭を丸めて居るのは、眼が疎うとくて一人で髮の始末が出來ないので、發ほつ心しんして入道したわけではありません。 ﹁錢形の親分が來て下すつたよ﹂ ﹁あ、錢形の親分、お見それ申しました。私の災難のことは、八五郎親分からお聽きのことと思ひますが、何んとかして泥棒を縛つて、私の金を取返して下さい。お願ひ、親分﹂ いきなり板の間に手を突いて、平次の方を拜むケチ兵衞です。 ﹁金に目めじ印るしが無いから、急のことではむづかしい。尤もお前に少しは心當りでもあるなら別だが――﹂ 平次は當らず觸さはらずに受けました。 ﹁金に目印?――ございますよ親分。私の手に入つた小判は、一々目印が付けてあります。私は此通り眼が惡いので、判はん金きんの光みつ次つぐと彫ほつた花かき押はんの下に、チヨイとたがねで傷をつけて居ります。良質の慶けい長ちやう小判ですから、すぐわかります﹂ ケチ兵衞は斯う言つた途方も無い男だつたのです。 ﹁何んといふことだ、天下の通用金にキズなんか附けやがつて﹂ 八五郎はカツとなりました。金持のすることが、一々癇かんにさはつてたまりません。 第一ケチ兵衞夫婦の身なりは大變でした。金は唸うなるほど持つて居るに違ひない癖に、よれ〳〵の布ぬの子こ一點づつ、お百などは腰こし切きり半ばん纒てんに二ふた布のを引つかけて、髮の毛などは雀の巣よりも淺ましい姿です。 家の中は空つぽも同樣、鍋一つ釜一つの外に、茶碗が二つ三つ、細工場から攫さらつて來たらしい荒あら削けづりの板がお膳の代りで、障子には反ほご古が紙みが三重にも四重にも貼られて、眞晝も薄暗い生活です。 ﹁まア、宜いよ八、――ところで、心當りはないのか。日頃家のあたりでウロウロして居たものとか、何んとか﹂ ﹁心當りはありますよ。左隣りの浪人者でなきや、右隣りの叩き大工で、どつちも貧乏で、百の錢にも困つて居まさア。私共の留守を見定めて仕事をするのは、いづれ近所の者で、でもなきや、誰がこんな貧乏臭い路地へ入つてウロウロするものですか﹂ 七兵衞の告發は遠慮も會ゑし繹やくもありません。 その時でした。外から七兵衞の家の格子に飛び付いて、力任せに引叩くものがあるのです。 ﹁やい〳〵何を言やがるんだ。俺が何時泥棒をやつた。憚はゞかり乍ながら小判なんてものは馬に喰はせるほど持つて居るぜ。うぬの溜めた、汗臭い小判なんかに、小便も引つかけてやるものか﹂ ﹁あれお前、そんな事を言つて﹂ 後ろから年寄りの女が飛んで出て、その男を引き戻して居ります。 ﹁放つて置いてくれ、おつ母ア。さうでなくてさへ、こちとらを貧乏人扱ひにしやがつて、氣に入らねえケチ兵衞だ。泥棒にされちや、親の名にも拘かゝはる、土どし性やう骨ぼねを叩き折つて、キリキリ舞ひをさせなきや﹂ それは言ふ迄もなく、お隣りの大工半次の成勢の良い姿でした。 平次に眼めく配ばせされて、八五郎が飛んで出ると、 ﹁まア、兄あに哥い、わかつたよ。相手は名題のケチ兵衞だ、腹も立たうが――﹂ などと宥なだめて居ります。 七兵衞の凄まじい家を出て、半次を宥め〳〵平次も一緒に、母子二人住居の大工の家を覗いて見ました。貧乏臭くはあるが、小こざ薩つぱ張りした住居で、半次は型の如く、いなせな二十五六の良い男です。母親のお角は六十過ぎ、これは皺だらけで草くた臥びれて一向に伜に似ては居ません。 其處を出て、路地の突き當りは頑丈な塀、向うの尾張樣の抗議がうるさくて、此處には門も木戸も作れません。細い道を距へだてて、尾張樣の御下屋敷。此邊が成程、尾張樣の不ふじ淨やう門に當ることでせう。 元の路地を引返して九丁目の往來へ出ると、平次は八五郎を振り返つて斯う訊くのです。 ﹁八、何にか氣のついたことはないか﹂ ﹁ありますよ。金を溜める奴にもいろ〳〵の型があり、貧乏人にもいろ〳〵の型があるといふことが――﹂ ﹁そんなことはどうでも構はないよ。俺たちだつて、貧乏人の又違つた型さ﹂ ﹁それから、半次といふ男は、良い男ですね。威勢がよくて、男つ振りがよくて、――鍵かぎ屋やの手代の喜三郎も良い男だが――﹂ ﹁他に?﹂ ﹁浪人者の娘はお頼よりさんと言つて十八ですが、可愛らしいでせう﹂ ﹁それぢや、斯んなことに氣が付かなかつたか﹂ ﹁?﹂ ﹁鍵屋の金右衞門を始め、今日逢つたのは皆んな元は武家だといふことだよ﹂ ﹁へエ、さうでせうか、ケチ兵衞なんか、隨分不景氣な御武家で﹂ ﹁それから、尾張樣の塀は大抵ぢや越せねえが、あの長屋の塀から、尾張樣の塀へ梯はし子ごを渡すとチヨイチヨイと宙ちう乘のりをして樂に越せるよ﹂ ﹁へエ、その梯子は?﹂ ﹁鍵屋の裏に手頃のがあるよ﹂ ﹁あつ、成る程﹂ 平次は早くも、そんなことに氣が付きましたが、尾張家には被ひが害いがなかつたので、荒立てるまでもあるまいと言つた樣子で、そのまゝ戻つてしまひました。四
それから三日目には、九丁目の事件は、破局に押しあげられてしまつたのです。 清水谷の常吉のところから、子分の者が飛んで來たのは、それはもう暮近い頃でした。 ﹁親分、九丁目までお願ひ申します﹂ ﹁何んだ、何があつたんだ。ケチ兵衞の夫婦喧嘩か﹂ 八五郎が取次いで先を潜くゞると、 ﹁そんなことぢやありません。金貸しの鍵屋金右衞門がやられましたよ。手代の喜三郎も斬死で、姪めひのお縫が泣いてばかり居ります﹂ ﹁そいつは大變だ。行つて見よう﹂ 平次と八五郎が九丁目の鍵屋へ着いた時は、家の前は人だかりで眞黒、清水谷の常吉とその子分達が、それを追つ拂ふのに骨を折つて居ります。 ﹁錢形の親分、この通りだ。鬼と言はれた鍵屋の旦那が、斯う脆もろくもやられようとは﹂ 清水谷の常吉の案内で、平次と八五郎は鍵屋の奧へ通りました。其處には主人の金右衞門が細引で首を絞められて、物もの凄すさまじい形相で死んで居り、少し離れて手代の喜三郎、これは滅めち茶や々/々\に切られて死んで居るのです。 ﹁あまり手をつけなかつたことだらうな﹂ 平次は清水谷の常吉に訊きました。これは中年輩の手固い御用聞です。 ﹁錢形の親分に見せるまで、手をつけさせまいと骨を折つたよ﹂ ﹁それは有難い。この主人の首を締めた細引が、恐ろしく長いのなどは、何にかわけがありさうだ﹂ ﹁そればかりぢやない。首を締めて殺した上に、止とゞめまで刺して居るぜ﹂ ﹁成る程な、それも死に切つてから刺した止めだ。首を刺したのに、あまり血が出て居ない、――おや、おや、止めは一と太刀で澤山なのに、三ヶ所も刺して居るのは念入りぢやないか。生き返るとでも思つたのかな﹂ 平次も小首を傾かしげます。 ﹁尤もつとも、この主人は強さうだ。金貸しでは鬼と言はれたが、竹しな刀ひだこや面めん摺ずれから見ると、隨分武藝に苦勞した人らしいな﹂ ﹁――﹂ ﹁首を締められ乍らも、部屋中暴あばれ廻つて居る。恐ろしい力だ、こんな相手を締め殺すには、上の上越す腕前のものか、三人も五人もかゝらなきや﹂ 平次はフトそんな事を考へて居るのです。 手代の喜三郎は後うし袈ろげ裟さに斬られたもので、その外、右脇腹に深々と突き創きずがあるところを見ると、後ろと右と兩方から敵を受けたものでせう。 ﹁その手代の懷ろから、斯こんなものが出たよ﹂ 清水谷の常吉が面白さうに渡したのは、女の手紙が五本、小菊に書いたなか〳〵の達たつ筆ぴつで、五本を併あはせてこよりで束たばねてあります。 中味は他愛もない色文ですが、殺し文句のないところや、ほんの用事だけ書いたところを見ると、決して玄くろ人うとのものでは無く、素人の娘が書いたとすると、小菊は少し贅ぜい澤たくです。念のために鼻へ持つて行つて嗅ぐと、プーンと白びや檀くだんの匂ひ、平次は容易ならぬものを感じます。 ﹁盜られたものは﹂ 平次がさう訊くのを待つて居たやうに、 ﹁確かなことは判らないが、空の千兩箱が二つも庭に抛はふり出してあつたよ。中味は小判の片かけらも無い﹂ ﹁あとは姪めひのお縫さんとやらに訊いて見よう﹂ 常吉は早速子分をやつて、お縫を呼びました。二十二三の少し嫁とつぎ遲おくれらしい、これは醜みにくい女です。 ﹁お縫さん、平次親分に、皆んな話してくれ、繰り返しても構はないから﹂ 常吉に促うながされて、 ﹁私はこんな事になるとも知らずに、本所の知合のところへ行つて泊りました。今朝少し早目に歸つて見ると、入口の格子と縁側の雨戸は一枚開いたまゝで、あとは戸が閉め切つてあり、驚いて中へ入つて見ると、この有樣でした﹂ これがお縫の知つて居る全部のやうでもあります。 ﹁少し突つ込んで訊き度い。隱さずに話して貰ひ度い﹂ ﹁ハイ、何んにもお隱しいたしません﹂ ﹁主人は元は武家だつたな﹂ ﹁私もよくは存じませんが、何んでも伯父の仕へたのは北の國の大藩だつたさうでございました。伯父が生きて居るうちから堅く口止めされました。名前は金谷健之助と申し、百五十石を喰はんだと申します。二十年前に浪人して、手元が豊かだつたので、金貸しを始め、少しの間に、人の驚くほどの身しん上しやうを拵こしへました﹂ ﹁手代の喜三郎は?﹂ ﹁遠縁の者でございます。私と一緒になつて、鍵屋の跡あとを繼ぐことになつて居りましたが――﹂ 醜い女は、サメザメと泣くのです。 ﹁それは氣の毒だ。――ところでもう一つ聞き度い。近頃喜三郎の樣子は變つて居なかつたかな﹂ ﹁さア﹂ ﹁この手紙――氣三郎の持つて居た女の手紙は、誰の書いたものだらう﹂ ﹁さア少しは變に思ひましたが﹂ 戀する者の敏びん感かんさで、お縫は薄々喜三郎の態度の變化には氣が附いて居たのですが、その相手は誰か、そこまでは全く氣が附かない樣子です。五
平次はそれから家を一と廻り丁寧に調べ始めました。よく見ると戸締りは恐ろしく嚴げん重ぢゆうですが、縁側の雨戸が一枚、外からコジ開けた樣子で、敷しき居ゐの痛んだところがあります。 ﹁親分、曲者は此處から入つたに違ひありませんよ。鑿のみでコジ開けた跡がありますから﹂ ﹁待て〳〵、早合點をしちやいけない。その敷居の損じた跡に、少しではあるが、血が附いてるだらう﹂ ﹁へエ、さう言へば、血のやうでもありますね﹂ ﹁コジ開けて入つた後の敷居の傷に血がつくだらうか。曲者は其處から入つたかも知れないが、出たのは入口の方だぜ﹂ ﹁?﹂ ﹁わからないのか、それは、主人と手代を殺した後でつけた傷だよ﹂ ﹁へエ﹂ ﹁夜の細工だから、自分の手か、鑿のみかに附いた血が、そんなところに證據を殘さうとは思はなかつたらう﹂ ﹁すると?﹂ ﹁宵のうちに入つて、夜よな中かに仕事をしたか、でなければ、家の中に引入れた者があつた筈だ﹂ ﹁家の中の者といふと、主人の外には手代の喜三郎だけぢやありませんか。二人共殺されて居るんだから、こいつは變ですね﹂ ﹁俺が考へても變だよ﹂ 平次は尚なほも家の中を搜しましたが、やがて、奧の一と間の床下に、嚴重な蒸せい籠ろうを組んで、其處に千兩箱が三つあることを發見しました。庭で打ち割つた二つは、多分、押入か戸棚に入れてあつた爲に、直ぐ曲者に見附かつたのでせう。 ﹁錢形の親分、變なことを聽き込んだぜ﹂ 清水谷の常吉は顏色を變へてやつて來ました。 ﹁何んだえ、清水谷の﹂ ﹁曲者は昨夜盜つた二千兩をバラ撒まいて歩いて居るといふことだ﹂ ﹁えツ﹂ ﹁鍵屋金右衞門に絞しぼられて困つた貧乏人へ、夜の明けぬうちに、五兩、十兩、中には三十兩五十兩とバラ撒まいたさうだ﹂ ﹁?﹂ ﹁その金は不思議に鍵屋に絞られた利息だといふから變ぢやないか﹂ ﹁手代の喜三郎も死んでゐるから、帳面を見てやつたことだらうよ﹂ ﹁一と晩のうちに撒き切れなかつたと見えて、撒いた殘りの千兩は、帳面を添へて成なる瀬せ横町の自身番に抛はふり込んであつたさうだ﹂ ﹁皮肉な野郎だな﹂ 平次も一度は、馬鹿にされたやうな氣で腹を立てましたが、相手の仕事に深い仔細がありさうで、暫らく考へ込んで居ります。 ﹁ところで、これからどうしたものだらう、錢形の﹂ 事件が斯う複雜になつて來ると清水谷の常吉では手のつけやうもありません。 ﹁家中の物を調べるのだ。武家あがりとわかれば、書いたものか、紋のついたものがあるだらう。鍵屋金兵衞の紋は抱だき茗めう荷がだが、違つた紋があれば、そいつは何にかわけがあるに違ひない﹂ 紋などといふものは、町人には大した意味もありませんが、武家に取つては此上もなく、神聖な表へう章しやうです。 ﹁いろんな物に、抱き茗荷が附いて居るが、他には、羽二重の紋服と、蒔まき繪ゑの手てあ焙ぶりに向ひ鶴の紋が附いて居ますよ﹂ 八五郎は漸やうやく手掛りを見附けました。 ﹁紋もん盡づくしを見ろ。武ぶか鑑んでも宜い、向ひ鶴の紋所は?﹂ ﹁そいつは南部樣だ、奧州盛岡で十萬石︵後に二十萬石︶あつしは南部坂の御屋敷へ出入りしたことがあるから、間違ひはない﹂ 清水谷の常吉は言ふのです。 ﹁その南部樣の家中に抱き茗荷の紋をつける人――二十年前に浪人した者はないか。それを調べるのだ﹂ ﹁金谷健之助と言つたやうだが﹂ ﹁そんなことは當てになるものか、それも變名だらう、――清水谷の親分が、南部坂の御屋敷を知つて居るなら一と走り頼むぜ﹂ ﹁宜いいとも﹂ ﹁俺はもう少し此處で調べ度い。なか〳〵厄介なことらしい﹂ 平次は腰を据ゑました。六
﹁親分、變な話を聽きましたよ﹂ ﹁何が變なんだ﹂ 近所を一と廻り、世上の噂を掻き集めて來た八五郎は、妙に酸すつぱい顏をするのです。 ﹁殺された手代の喜三郎は、近頃女が出來て居たんですつて﹂ ﹁女? 相手は?﹂ ﹁それが大變で、――親分も御存じでせう﹂ ﹁わかつたよ。――三軒長屋の浪人者の娘――お頼よりさんとか言ふのだらう﹂ ﹁その通りですが、どうしてそれを?﹂ ﹁若い男と若い女は、近いのを引つ張り合ふよ、磁じし石やく見たいなものさ。喜三郎は良い男で、ツイ裏に住んでゐる、大澤傳右衞門の娘のお頼は滅法良い娘だ﹂ ﹁親分にしちやわかりが良い。――ところがあつしの近くには、若くて綺麗な娘はねえ﹂ ﹁煮にう賣り屋やのお勘かん子こぢや間に合はねえか﹂ ﹁あれぢや磁じし石やくの針が逃げる﹂ ﹁相變らず無駄が多いなア、――ところでもう一つ證據があつたよ﹂ ﹁何んです、それは?﹂ ﹁喜三郎の持つてゐた女の手紙は、皆んな小菊に書いてあつたな﹂ ﹁へエ﹂ ﹁小菊なんかは、こちとらの鼻紙になるものぢやねえ﹂ ﹁みす紙なら、あの妓こが呉れる﹂ ﹁毆るよ、馬鹿。――この邊で小菊の懷紙でもザラに使つて居るのは、お茶人の大澤傳右衞門だ。その娘のお頼よりが、馬鹿に爪つま外はづれが良いと思つて居ると、もう、相手を拵へてやがる﹂ ﹁手廻しの良いことで﹂ 平次と八五郎の掛け合ひは、場面が緊きん張ちやうすればするほど、斯かう言つた具合でした。 ﹁ところで八、お前に頼みがあるが﹂ ﹁へエ﹂ ﹁三軒長者の者を、皆んな念入りに調べ度いが。清水谷の子分衆も居ることだらう、一人々々、念入りに調べてくれ﹂ ﹁へエ﹂ ﹁ケチ兵衞の眼と大澤傳右衞門の足はそんなに惡いのか。大工の半次の身持はどんな具合か、わけても女の關かゝり合ひはないか﹂ ﹁そんな事ならわけはありませんよ。煙草でもすつて待つて居て下さい﹂ 氣の輕い八五郎はサツと飛出してしまひました。 間もなく清水谷の常吉は麻布の南部屋敷から戻つて來ました。 ﹁金谷健之助などとは嘘うそ八はつ百ぴやくだ。南部樣の御藩中で、二十年前に浪人した、抱だき茗めう荷がの紋所は、大竹孫右衞門とわかつたよ﹂ ﹁浪人したわけは?﹂ ﹁その大竹孫右衞門は惡い野郎で、散々惡いことをした揚句、御金藏に大穴をあけ、番ばん頭がしらの宇佐美左内に腹を切らせて退轉し、江戸の町の中に隱れて、大金儲けをしてゐるわけだ﹂ ﹁それが鍵屋の金右衞門に間違ひはあるまいね﹂ ﹁武藝も相當、押しの強い男で、抱き茗荷の紋所、間違ひはないよ。その大竹孫右衞門を殺したのは、手落ちのために腹を切らされた、宇佐美左内の一族に相違あるまいといふことで、宇佐美左内は二十年前に腹を切つたが、名聞が立たない上に、その子の某は學者で柔にう弱じやくで、敵討も果し合ひも出來ず一族は皆んな退轉してしまつたが、殿樣もことの外惜んで居られると言ふことだ﹂ ﹁有難い。それで大方わかつたよ﹂ 平次はもう何も彼もわかつた樣子です。 間もなく八五郎が戻つて來て、平次の調べに、最後の信念を與へたものでした。 ﹁親分、妙なことがあるものですね﹂ ﹁何が妙だ﹂ ﹁大工の半次は良い男だが、親方の評判はあまり結構ぢやありませんよ﹂ ﹁どういふわけだ﹂ ﹁仕事は出來るし、人間も確りして居るが、慾が深いさうで﹂ ﹁はてね――仲間に貢みついだのかな﹂ ﹁玉に疵きずだつて、親方は言つて居ましたよ。それから、近頃は許いひ婚なづけに嫌はれて腐つてゐるとも言ひましたが、それは誰でせう﹂ ﹁さア――お頼よりかな﹂ 平次は考へてしまひました。事件を、斯うも心理的に取扱ふのは、平次に好ましいことではないのですが、この九丁目の事件には、物と物との照合も、眼に見える證據だけでは片附けられないものが澤山ありさうです。 ﹁もう一つ﹂ 八五郎は、一寸考へた末、斯んなことを言ひました。 ﹁何んだ、思ひきつて、皆んな言つてしまひな﹂ ﹁大したことぢやありませんがね。先さつ刻き、浪人大澤傳右衞門の、あの綺麗な娘――お頼さんが、そつと鍵屋へやつて來て、手代喜三郎の死しが骸いを拜んで、逃げるやうに歸りましたよ。若い娘には出來ないことぢやありませんか﹂ ﹁その時、あの佛樣の前に置いた、色文の束たばでも持つて歸つたのか﹂ ﹁いえ、それどころか、色文の束を、喜三郎の死骸の胸の上へ、そつと載せて行つたやうで、――若い娘こといふものは、思ひの外大だい膽たん不ふて敵きなものですね﹂ ﹁お前は、羅らし生やう門もん河岸ばかり漁あさつて歩くから、素人衆の娘の良さを知らないのだよ。が、兎も角油斷がならない。俺はあの浪人者の大澤傳右衞門さんのところへ行つて見る﹂ 平次は三軒長屋のとつつきの一軒、浪人大澤傳右衞門の家へやつて行きました。七
﹁御免下さい﹂
﹁おや、錢形の親分﹂
﹁今日は嫌なことを申しに參りましたが﹂
平次は貧しい浪らう宅たくに通つて、玄關も居間も兼ねた、とつつきの六疊に通りました。
﹁それは〳〵﹂
浪人大澤傳右衞門は、拔からぬ顏でそれを迎へました。
﹁私は何も彼も、皆んなわかつたつもりですが、腹藏なくお話を願へませんか﹂
﹁宜いとも、望むところだ﹂
﹁ところでお孃樣は?﹂
﹁自分の部屋――と言つても、たつた二た間の家だが、その四疊半へ引つ込んだ樣子だ﹂
﹁そいつはいけません﹂
平次はいきなり立ち上がると、間あひの唐紙、古くて貼はり紙がみだらけのを、サツと開けました。
﹁あツ﹂
それは、寸すん刻こくを爭ふ危ない場面だつたのです。浪人大澤傳右衞門の娘、八五郎に言はせると、あの可愛らしくて、賢こさうな十八娘のお頼が、覺かく悟ごの身仕舞見事に、兩の膝を扱しご帶きで結んで、片手に數ずじ珠ゆを掛けたまゝ、母の形見といふ懷くわ劍いけんで、玉のやうな白い喉笛を掻き切らうとして居るではありませんか。
﹁待つたお孃さん﹂
﹁娘ツ﹂
左右から、父の大澤傳右衞門と錢形平次はそれを留めるのが精一杯です。
﹁お孃さんを、本當に思つて居るのは、半次兄哥ですよ。早まつてはいけません﹂
平次はその懷劍をもぎ取つて、斯う續けるのです。
﹁喜三郎は二千兩の金に眼がくれて、鍵屋の主人を裏切りました。それをバラ撒まいたのは、外ぢやない、半次兄哥ぢやありませんか﹂
﹁――﹂
﹁お孃さん間違つちやいけません。喜三郎は、二千兩の金に眼が昏くらんで、裏切をしましたが、半次兄哥は、最初から最おし後まひまで、お孃さんのことばかり考へて居ました﹂
﹁――﹂
お頼よりはもう、父の膝に泣き伏して居りました。死ぬ氣などは、とうになくなつてしまつた樣子です。
﹁ところで、大澤さん、皆んなを呼んで下さい。私は話し度いことも訊き度いこともある﹂
﹁いや﹂
大澤傳右衞門は首を振り乍ら續けました。
﹁皆んな逃げましたよ、錢形の親分。殘つて居るのは、足の惡い私と、死ぬ氣になつた娘だけだ。――三軒長屋の狂きや言うげんも大竹孫右衞門を討うてばお仕舞ひだ﹂
﹁――﹂
﹁これで何も彼もお仕舞になつた。さア、錢形の親分、惡いことがあつたら、此私を縛つて下さい﹂
さう言つて、自分の手を後ろに廻すのです。
﹁私はもう、縛る氣などはなくなりましたよ、大澤さん。お孃さんもつまらねえことを考へずに百までも生きて下さい。半次兄あに哥いは良い男ですよ﹂
平次はさう言つて、八五郎と共に、此處を引揚げることになつたのです。
× × ×
﹁親分、あつしには、まるで見當がつきませんよ、どうしたことなんです﹂
八五郎は到頭繪ゑ解ときをせがみました。事件が餘り複雜で八五郎には見當もつきません。
﹁南部の御藩中で、二十年前、御金藏番の宇うさ佐み美さ左な内いは、職務の落度で腹を切り、用人大竹孫右衞門は、藩中の大金を盜んで江戸へ身を隱し、高利の金を貸して鍵屋金右衞門となつた。腹を切つた宇佐美左門の一族ぞくは、非は此方にもあつて敵討も果し合ひもならず、さうかと言つて、此態も捨て兼ねて、長い間散々搜し拔いた末、麹町九丁目の鍵屋金右衞門が、大竹孫右衞門の變名と知り、いろ〳〵と骨を折つて、裏の三軒長屋を全部借り受け、敵同士の樣な顏で、長い間時を待つてゐた﹂
﹁?﹂
﹁浪人大澤傳右衞門父おや娘こも、唐たう辛がら子し屋やのケチ兵衞夫婦も、大工の半次母子も、宇佐美左内の一族だつた。その三軒が、仲が惡さうに見せて、實は敵かたき討うつ時じ期きを待つた﹂
﹁氣の長いことで﹂
﹁そのうち鍵屋の手代の喜三郎を仲間に引入れた。これは金が欲しさに主人に裏切りしたが、最初は宇う佐さ美み一族のすゝめで、心ならずも、大澤傳右衞門の娘お頼よりが、進んで喜三郎と親しくなつて仲間に引入れたものらしい﹂
﹁へエ﹂
﹁喜三郎は惡い男だ。主人を一人では殺せないと知つて多勢の仲間になつたが、一方では主人の手てぶ文ん庫こを盜んだり、尾州のお下屋敷に忍び込んだり、ケチ兵衞の金まで盜んだ﹂
﹁――﹂
﹁金右衞門を殺した時も、細引が長過ぎると思つたが、あれは多勢で締めたからだ。怨うらみが深いから、止めは三人で刺した。それから喜三郎は主人の金を持出したが、宇佐美家の一族はそんなものを盜る氣はない。その上、大工の半次は喜三郎が癪しやくにさはつてたまらないから、いきなり後うし袈ろげ裟さに斬つたことだらう。側に居たケチ兵衞は、脇わき腹ばらを刺した﹂
﹁なる程ね﹂
﹁そして鍵屋の帳面を引合せて、足の達者な半次は、二千兩の金をバラ撒まいて歩いたことだらう﹂
﹁――﹂
﹁折を見て、三軒長屋の者は皆んな逃げ出してしまつた。大澤父娘だけ跡あと始しま末つに殘つたといふわけだ。が、お頼は、喜三郎が死んでしまつたので、娘心で、生きてる張合もなくなつたことだらう。喜三郎は惡い男だが、男つ振りはよかつたし、一族の道具に使はれたと言つても、お頼は一本氣過ぎた﹂
﹁可哀想に﹂
﹁娘を道具なんかに使つて、こればかりはイヤな事だつたよ。でも、半次は良い男だから、お頼も氣を取直して、半次と一緒になる氣だらうよ。――さうなつてくれると、有難いな﹂
﹁ケチ兵衞夫婦の喧嘩はどうなりませう﹂
﹁あれは皆んな狂言だよ。ケチ兵衞はケチな男ぢやない。きつと近い内此二三年の間に絞しぼつた貧乏人の金を皆んな返して歩くだらう﹂
﹁へエ、驚きましたね﹂
あの事件を發展さした複雜な心理は八五郎には讀めさうもありません。