一
﹁江戸中の評判なんですがね、親分﹂ ﹁何が評判なんだ﹂ ガラツ八の八五郎が、何にか變なことを聞込んで來たらしいのを、錢形の平次は浮うき世よざ草う紙しの繪を眺め乍ら、無關心な態度で訊き返しました。 ﹁兩國の女をん角なず力まふと錢形の親分﹂ ﹁馬鹿野郎、俺を遊ぶ心つも算りか﹂ 平次は威勢の良いのを浴びせて、コロリと横になります。斯かうすると軒に這はせた、貧弱な朝顏がよく見えるのでした。 ﹁へツへツ、怒つちやいけませんよ。ところでね、親分﹂ ﹁何んだい、うるさい野郎だな、少し晝寢でもさしてくれ。――女角力を毎日覗いてゐるやうな目出度い人間とは附き合ひ度くねエ。木戸錢だつてまともに拂つちや居ないだらう﹂ ﹁冗談ぢやありませんよ。女角力を見たのはたつた三遍べんだけですよ﹂ ﹁三遍見りや澤山だ﹂ ﹁四遍も見ると、嚔くさめが出る﹂ ﹁呆れた野郎だ。そんなものへ俺を引き合ひに出すのか﹂ ﹁そんな心つも算りぢやありません。ね、親分、女角力はちよいと話のキツカケをつけただけで、今日は親分の學がくの方を借りに來たんですがね﹂ ﹁ガク?﹂ ﹁學問ですよ、親分﹂ ﹁大層なものを借りに來やがつたな。さうと知つたら、昨きの日ふあたり二三百文ほど仕入れて置くんだつたよ﹂ 平次は仰あを向むけに寢たまゝ、面白さうに笑つて居ります。 ﹁ね、親分、ひらめといふ字を知つてゐますか﹂ ﹁ひらめやかれいに附き合ひはないよ。鰻うなぎといふ字と、鯨くぢらといふ字なら看かん板ばんで見て知つてるが、それでも間に合せるわけには行かねエのか﹂ ﹁ひらめですよ、親分。――日ひび比う魚をと三字でひらめと讀むか讀まないかてんで、大變な騷ぎですよ﹂ ﹁フーン﹂ 平次は一向氣の乘らない樣子です。 ﹁町内の手習師匠に訊くと、ひらめを四角な字で書くと比目魚となる。魚うを扁へんに平でひらめだが、日比魚と書いてひらめとは讀まない――と斯うなんで﹂ ﹁それで解つてるぢやないか、俺の學なんか引合ひに出すことがあるものか。魚扁に平はひらめさ、魚扁に丸くて長いのはどぜうで、魚扁に骨張つてゐるのははうぼう、物事は皆んな理詰めだ﹂ ﹁ところで遺ゆゐ言ごんには日比魚と書いてあるんで。これは聖堂へ持つて行つたつて讀めないから不思議ぢやありませんか。これが讀めると、何萬兩といふ金になるんだが――﹂ ﹁大層な事を言ふぢやないか。日比魚が何千兩になるという話をもつと詳くはしく話して見るが宜い﹂ 平次も到頭坐り直しました。ガラツ八の話術は近頃は一段と冴さえて、兎角不精になり勝な平次を事件の眞ん中に誘さそひ込むコツを心得て居るのです。二
木場の旦那衆で、上州屋莊さう左ざゑ衞も門んが死んだのは、もう半歳も前のことですが、その蓄ちく財ざい――どう内輪に見ても、三萬兩や五萬兩はあるだらうと思はれたのが、不思議なことに、何處を探しても小判一枚出て來なかつたのです。 裕福な上州屋のことですから、御得意に大名方も三軒五軒、手持ちの材木もうんとあり、遺ゐぞ族くが困るの、店がどうのといふ事はなかつたのですが、兎も角、うんとあるだらうと思はれた現金がほんの當座の帳面尻を合せるだけ、二つの錢箱に少々ばかり入つてゐたのでは、身寄一統とう、奉公人も世間の人も承知しません。 半年の間、番頭の有八が采さい配はいをふるつて、文字通り床を剥がし、壁まで落して搜しましたが、小粒一つ出てこない有樣です。こんなことで伜の莊太郎――今は上州屋の跡取りが、行儀見習といふ名目で、上州屋へ入つて待機してゐる武家出の許いひ嫁なづけお道と祝言も出來ず、店の支配人をしてゐる伯父の常吉、その娘のお信、莊太郎の弟の勇次郎まで、妙に斯かう對立的な氣持で、不安のうちに半歳を過して了ひました。 先代莊左衝門が生きてゐるうちは、深川一圓の評判になつたほどの平和な家庭ですが――少なく見積もつても三萬兩の現金は、誰の手に入るだらうか――何うかしたら、誰かもう奪つてしまつたのではあるまいか――と言つた疑ひが、家中の空氣をすつかり險惡にして、近頃はお互に隱し合つたり、睨み合つたり、何時何處で、どんな爆發的悲劇が起らないとも限らない情勢だつたのです。 ﹁何にか手掛りはないのか﹂ 一と通りの説明を聽くと、平次は斯う手た繰ぐりました。 ﹁それが、そのひらめなんで﹂ ﹁ひらめぢやない日ひび比う魚をだらう﹂ ﹁何んだか知らねえが、死んだ莊左衞門の手文庫の中に、この三字が書いて封じたのが入つて居ましたよ。上書は跡取りの伜の名前――莊太郎殿――他見無用と斷つてあつたが、莊太郎は人が良いから皆んなに見せてしまつた﹂ ﹁フーム﹂ ﹁何しろ莊左衞門といふ人は、町人のくせに學問が好きで、小唄も碁ご將しや棋うぎもやらないかはりに、四角な文字を讀んで、唐からの都どゞ々い逸つを作つた﹂ ﹁唐の都々逸てえ奴があるものか、詩だろう﹂ ﹁その詩とか五とか言ふのを高慢な友達とやり取りして喜んだといふ變り者だ。遺言だつて並大抵の仕しい入れも物のぢや氣に入らねえ﹂ ﹁外に何んにも言はなかつたのか﹂ ﹁卒中で一ぺんに片付いたんだから、長々と辯べんずる隙ひまがなかつた﹂ 八五郎の話は、途方もない話術乍ら、面白く筋を運んでくれました。 ﹁それをお前は、誰に頼まれて乘出したんだ﹂ ﹁番頭の有八ですよ、尤もつとも若主人の莊太郎も承知の上だと言ひましたがね﹂ ﹁寶搜しはイヤだが、ひらめから三萬兩手繰り出すのは面白いな﹂ ﹁やつて下さいよ、親分。うまく三萬兩見付かりやひと身しん上しやう出しても宜い――つて番頭の有八が――﹂ ﹁馬鹿野郎﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁金で人を釣つつて、三萬兩搜させようなんて、太い野郎だ﹂ ﹁あつしぢやありませんよ、そいつは有八の言ひ草だ﹂ ﹁だから斷つて來な。馬鹿々々しい﹂ 平次の癇かんにさはるのは、報ほう酬しうに物を言はせようとするタチの人種――どんな事でも金さへ出せばの氣でゐる人間でした。 ﹁驚いたなア、どうも﹂ ﹁驚くことはあるめえ。ひと身上になるぢやないか。お前が勝手にやるが宜い﹂ ﹁へツ﹂ ガラツ八は面喰らつて飛出してしまひました。身上を拵こしらへる氣のないものは、どうも附き合ひきれないとでも思つたのでせう。三
それから二日目。 八五郎は﹃大變﹄の旋せん風ぷうを起して飛び込みました。 ﹁さア、大變ツ、親分﹂ ﹁又眼の色を變へて飛び込んで來やがる。御町内では馴れつこだが、江戸中大變を觸れて歩かれた日にや皆んな膽きもを潰すぜ﹂ ﹁大丈夫、路地へ入るまでは、大變のタの字も言はねえ。――何しろ大變ですぜ、親分﹂ ﹁三萬兩の大判小判が見付かつて、お前がひと身しん上しやう拵へたとでもいふのかい﹂ ﹁冗談――そんな氣樂なんぢやありませんよ。何しろ人間が一人殺されたんで――﹂ ﹁何んだと、八﹂ ﹁だから、あの時親分が乘出しや、こんな事にならずに濟んだのに、――親分は妙に意地つ張りだから――﹂ ﹁まア、憤おこるなよ、八。誰が一體、どうして、誰に殺されたんだ﹂ 平次は八五郎の鼻息の荒さに苦笑し乍ら、事件の興味に引ひき摺ずられて行く樣子です。 ﹁それが解つて居りや、深川から此處まで飛んで來ませんよ﹂ ﹁ホイ、又叱られたか。それにしても殺された人間は解るだらう﹂ ﹁殺されたのは、若主人莊太郎の弟で、勇次郎という二十二になる男。少し足が惡くて、あまり外へは出ないが、智慧の方なら人の三倍も持つてゐる男だ。――殺したのは判らねえが、あれは鬼だね親分﹂ ﹁虎とらの皮かはの褌ふんどしか何んか落ちて居たのか﹂ ﹁そんな證據は殘さねえが、首を絞しめて殺した上、生き返つちや惡いと思つたか、玄げん能のうで頭を叩き割つて行つた﹂ ﹁フーム﹂ ﹁だから親分、ひと身しん上しやうになるとは言はねエ。御上への御奉公、役目の表、一つ行つて見てやつて下さい。下げし手ゆに人んが擧がつて三萬兩の金が出た上、強たつてお禮をやると言ふなら、あつしが貰つて家作を四軒建てる――﹂ ﹁四軒は變だね﹂ ﹁一軒には親分を入れて、一軒にはあつしが入つて、あとの一軒には叔母さんを入れる。家賃なんか彌みろ勒くの世までも呉れとは言はねえ﹂ ﹁それぢや三軒ぢやないか、あとの一軒は?﹂ ﹁へツ、へツ、そいつは言へねえ﹂ ﹁馬鹿だなア﹂ そんな無駄を言ひ乍らも、平次はついガラツ八におびき出されて、木場の上州屋まで行つて了ひました。 その時は土地の岡つ引が三人、喜八に宗助に吉五郎といふのが、宜い加減かき廻して居りましたが、さて何が何やら一向解らず、誰を縛つたものだらう――と言つた、御おか上み向の體裁を考へて小田原評定に時を過して居たのです。 ﹁おや、錢形の﹂ 吉五郎は一番先に、ガラツ八の案内で乘込んで來た平次を見付けて、ホツとした樣子でした。 ﹁八五郎に聽いたんだが、變なことがあつたさうだね﹂ 平次は如じよ才さいなく三人に挨拶しました。 ﹁まア見てくれ。錢形の兄哥なら見當が付くかも知れないが、何しろ大變な殺しだ﹂ 吉五郎は先に立つて、勇次郎の部屋へ案内してくれます。 母おも屋やから離れた二た間の一軒建で、もとは材木小屋の見張りに使つた奉公人の住ひでしたが、足が不自由で少し變へん屈くつで、學問にばかり凝こつて居る勇次郎は、多勢の家族と一緒に住んでゐることを嫌つて此處で若隱居のやうな、悠いう々〳〵自じて適きの生活をして居るのでした。 ﹁錢形の兄哥も聽いた筈だが、何んでも三萬兩とか五萬兩とかの、金のゆくへが判らないんだつてね﹂ 吉五郎は擽くすぐつ度い顏をして見せます。 ﹁そんな事を八が言つて居たよ﹂ ﹁その三萬兩――まあそれくらゐはあるさうだが、何しろあんまり金高が大きいので、こちとらには見當も付かないが、それだけの金が財布や箪たん笥すへ入るわけはない。――﹂ ﹁成程、財布や箪笥へは入らない――さすがに兄あに哥きはうまいところに氣が付いたね。千兩箱が一つ五貫目あるとしても三萬兩で百五十貫だ。それ程の大金が何處にあるのか判らないと言ふのは可笑しいぢやないか﹂ ﹁ところで昨ゆう夜べ判つたんだ﹂ ﹁へエ――﹂ これは平次にも初耳でした。 ﹁若主人の弟の勇次郎が、昨夜珍らしく母屋へ來て晩飯を皆んなと一緒にやり乍ら、――憚はゞかり乍ながら親父の遺した三萬兩の金は何處にあるか、判つてゐるのは俺一人だらう。尤も俺だつて最初から判つてゐるわけぢやない。いろ〳〵と工夫に工夫を積んで、半年目に漸やうやく判つたんだ。學の力だね――と言つたさうだ﹂ ﹁フーム﹂ ﹁家中の者が皆んな乘出した。――何處にある、何處にある――といふ騷ぎ、勇次郎は落着き拂つて、俺もまだ見たわけぢやないが、隱した場所だけは確たしかに見當が付いた。兄さんが俺に半分くれると言へば、明日にも教へてやる。足が不自由だから、俺には引出せない――と斯う笑ひ乍ら冗談見たいに言つたんださうだ﹂ ﹁引出せない――と言つたんだね﹂ ﹁さうだ。十人もの人間が聽いて居たんだから間違ひはない。弟の自慢を聽いて、一番喜んだのは兄の莊太郎だ。――それは有難い。お前には一生困らないだけの事をしてやり度いと思つて居たから、三萬兩の半分なんてケチな事を言はなくても宜い。俺が繼いだ上州屋の暖のれ簾んと身上は三萬や五萬ぢやないから、お父さんの隱して置いた金が見付かつたら、それをお前に皆んなやらう――と言ひ出したんださうだ﹂ ﹁フーム、馬鹿か豪傑か、佛樣だね﹂ ﹁唯のお人好しさ﹂ そんな事を言つてゐるうちに、先に立つた八五郎は、中から勇次郎の部屋を開けて、縁側に立つた平次に、慘さん憺たんたる有樣を一と目に見えるやうにしてやりました。四
離はな屋れは戸締りが無かつたので、案内知つた者なら誰でも自由に入れたのです。 平次は部屋の四方から、家の構造をひと通り見て、地理的な關係を胸に疊んでから、膝ゐ行ざるやうに中に入つて、慘憺たる死骸を、恐しく丁寧に見ました。先づ死骸の側に投り出してある玄能を見、首に卷付けた恐しく頑丈な綱を見、それから死骸の髮の生はえ際ぎは、眼瞼の裏、鼻びこ腔う、唇、喉などとひと通り見終つて、何にかしら腑ふに落ちないものがあるやうに首を捻ひねります。 ﹁八、其處の戸棚と押入を見てくれ。酒の道具か、徳利のやうなものはないか﹂ ﹁何んにもありませんよ﹂ と八五郎。 ﹁お勝手がなくて、食物は母屋から運んで居たんださうだよ。母屋へ行つて晩飯をやつたのは、金の見付かつた祝心と、皆んなをびつくりさせる心つも算りだつたんだらう﹂ 吉五郎は註ちうを入れました。 ﹁晩飯の後で、母屋から此處へ食物か呑物を運んで來なかつたか、――誰か用事か何にかで來たものはないか、――昨ゆう夜べ飯の後で外へ出た者は誰と誰で、出なかつた者は誰と誰か、詳くはしく調べて來てくれ﹂ 平次は八五郎に細こま々〴〵と言ひ付けて、それから今朝死骸を見付けたといふ、番頭の有八を呼びました。 ﹁親分さん、御苦勞樣で――私は有八でございます﹂ 狐のやうな感じのする男です。 ﹁いつか八五郎に――三萬兩の金を搜し出してくれたら、ひと身しん上しやうやると言つたのは、お前さんだね﹂ ﹁いえ、そんなわけぢやございませんが――﹂ 有八は恐しくヘドモドして居ります。三十七八の、材木屋の番頭だけに、小力のありさうな立派な身體です。 ﹁昨夜飯の後で外へ出なかつたのか﹂ ﹁何處へも出ません。店先で手代の與三と若吉を相手に下へぼ手しや將う棋ぎを六番も指しました﹂ ﹁寢たのは?﹂ ﹁亥よ刻つ過ぎで御座いました﹂ ﹁お前は幾番指して、幾番勝つたんだ﹂ ﹁與三と二番指して二番とも負けました﹂ ﹁與三と若吉は?﹂ ﹁二番づつ指し分けになつたやうで﹂ そんな事を聽いたところで何んの足しにもなりません。 母屋へ行つて支配人の常吉に逢つて見ると、これも恰幅の好い五十男で、ひどく甥をひの勇次郎の死んだのが打撃だつたらしく、大きな身體で打うち萎しをれて居るのは氣の毒でした。 ﹁實はね親分、從い兄と妹こ同士だけれども、私の娘のお信と一緒にして、末長く見て貰ふ筈でしたよ。足は惡かつたが、智慧の逞たくまましい、良い男で――﹂ そんな事を言ふのです。昨夜は店から一歩も外へ出ず、奧で甥の莊太郎と話しふかして、そのまゝ寢て了つたといふ言葉に嘘があらうとも思はれません。 若主人の莊太郎は、典型的な若旦那の生長したので、人の良いといふ外には何んの取柄があらうとも思はれません。 ﹁可哀想なことをしました。私が金を見付けたら皆んなにやると言つたのが惡かつたのかも知れません﹂ そんな事に氣の付く二十五歳の若主人が、決して馬鹿や豪傑でないことは、平次も承しよ認うにんしないわけには行きません。 ﹁さうとも限りませんよ。――ところで、勇次郎さんは、餘つ程學問があつたやうですね﹂ 平次は外の事を訊ねました。 ﹁父親は逍せう遙えう軒けんと言つて、詩しも作り歌もよみましたが、私はその方は一向いけません。弟は父親の學問好きを承うけて、これも四角な字を讀んで居りました﹂ 大おほ店だなの主人らしい寛くわ達んたつさはありますが、弟の悧巧さを自慢にする人の良さ以外に、この莊太郎には大した取柄のないことがよく判ります。 續いて若吉に逢ひ、與三に逢ひ、常吉の娘のお信に逢ひました。これは又恐しいお侠きやんで、 ﹁父さんはあんな事を言ふけれど、私は勇次郎さんは大嫌ひ、歩くと唐から臼うすを踏ふむやうなんですもの。――でも殺されて了つちや可哀想ねえ。早く下げし手ゆに人んを擧げて下さいよ。物置から材木を引上げる時に使ふ五六間もある大綱を持出して絞め殺すなんて、隨分ひどいぢやありませんか﹂ 平次は何んにも訊かずに逃げ出してしまひました。 最後に逢つたのは、若主人莊太郎の許嫁で、客分あつかひで祝言の待期をしてゐるお道といふ娘でした。少し老けて二十二、色の淺黒い、眼鼻立のよく整つた、華奢な身體で、物腰しの上品さも物言ひの聰明さも、上州屋の嫁として全く申分のない娘です。 ﹁昨夜外へ出なかつたでせうな﹂ 平次の調子も、相手の品位に押されて物靜かでした。 ﹁一寸出かけました﹂ お道の言葉は豫想外です。 ﹁何處へ――﹂ ﹁勇次郎使にお茶を差上げました﹂ ﹁若旦那も御承知の上で御座います。勇次郎樣は御酒を召上らないので、時々薄うす茶ちやを欲しいと仰しやいます﹂ ﹁?﹂ ﹁昨夜も晩の御飯が濟んでお歸りの時、後でお茶が欲しいが――と遠慮しい〳〵仰しやるので、下女の初やと一緒に離はな屋れへ參つて、薄茶を一服差上げて歸りました﹂ 勇次郎に逢つた最後の人でせう。でも下女と一緒に行つて一緒に歸つたといふ娘――この靜かさと聰明さには、何んの疑問を挾む餘地もありません。 下女のお初を呼んで訊くと、正にお道の言つた通り、勇次郎の望みで、莊太郎の許しを受けて離屋へ行き、薄茶を立てて、四半刻ほど經つたといふだけの事でした。五
﹁親分、晩飯の後で母おも屋やから出たのは、あのお道といふ娘一人ですよ﹂ 八五郎の報告は平次の調べとピタリと一致しました。 ﹁それで宜いよ﹂ と平次。 ﹁尤もつとも皆んな寢ねし鎭づまつてから、脱出さうと思へば、誰でも自由に脱出せますがね﹂ ﹁それも解つてる﹂ 木場から引揚げて、平次と八五郎は永代橋を渡るのでした。 ﹁それぢや下手人も解つたんですか、親分﹂ ﹁解つた心つも算りだが、證據が一つもない﹂ ﹁誰です、親分﹂ ﹁お前が考へたこともない人間だ。――その癖恐しい人間だよ﹂ ﹁へエー﹂ ﹁ところで、莊太郎とお道がなぜ祝言せずに居るか、本當のわけをお前知つてるかい﹂ ﹁寶搜しのゴタゴタで――﹂ ﹁そんな事もあるだらうが、本當のところは、あの祝言の邪じや魔まをしてゐる人間があるんだ﹂ ﹁へエ、そんな野郎が居るんですか﹂ ﹁野郎ぢやない女だ、――お信が莊太郎の嫁になりたかつたんだよ﹂ ﹁へエー、あの轉婆娘がね﹂ ﹁それに親の常吉もその氣だつたかも知れない。勇次郎と一緒にしたかつたと言つたのは嘘だ﹂ ﹁成程ね﹂ ﹁それから殺された勇次郎も、兄貴とお道の祝言には水を差してゐた。兄貴は人が好過ぎるが、お道は人間が悧りこ巧う過ぎる。どうも二人は一緒にしても仕合せになりさうもない――と言ふんださうだ。これは奉公人が皆知つてゐる﹂ ﹁成程ね﹂ ﹁それに番頭の有八も――﹂ ﹁それぢや店中皆んなぢやありませんか﹂ ﹁でも本人同士は好きで〳〵たまらないやうだから、いづれ近いうちに祝言するだらうよ﹂ ﹁おや? 親分、何處へ行くんで?﹂ ﹁八丁堀へ行つて見るよ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁あの殺しは、俺には解らない事だらけだ。笹野の旦那にお目にかゝつてお智慧を拜借しよう。學者といふ奴は、こちとらには苦手だね﹂ 平次はそんな事を言ひながら、與力筆頭笹野新三郎の組屋敷を訪たづねました。 ﹁平次か、大分顏を見せなかつたな﹂ 新三郎は若くて寛達で錢形平次の庇ひご護し者やでした。 ﹁旦那、お智慧を拜借に參りました。今度ばかりはまるつきり見當も付きません﹂ 平次は笹野新三郎の學問と人柄には、日頃から推すゐ服ふくしきつてゐたのです。 ﹁お前に解らないことが、俺わしに解る道理はないよ。――だが、どんな事なんだ﹂ ﹁昨夜殺しのあつた上州屋は、三萬兩からの金を遺のこして、その場所を誰にも教へずに死んで了ひましたが、手文庫の中の伜に宛てた遺言状らしい手紙に、日比魚とたつた三字だけ書いてあつたさうです。これが大金の隱し場所を教へる文句に違ひありませんが、困つたことに、こちとらでは一向解りません﹂ 平次はさすがに打ちひしがれた調子です。 ﹁待つてくれ。そいつは俺にも解りさうもないが、上州屋の名は何んとか言つたな﹂ ﹁莊左衞門で御座います。四角な字を讀むのが好きで、詩しとか五とかを作つて、逍せう遙えう軒けんと名乘つたさうで――﹂ ﹁逍遙軒莊左衞門か。――成程﹂ 笹野新三郎は首を傾かたむけました。 ﹁日比魚は比目魚か何にかで?﹂ ﹁大違ひだ。――その日比魚といふのは、どうかしたら、魚扁に日比と書いた字を崩したのではあるまいかな。――魚扁に日比なら鯤こんといふ字だ﹂ ﹁へエ――そんな字がありますんで?﹂ ﹁あるよ。上州屋が逍せう遙えう軒けん莊左衞門と名乘るから氣が付くんだ。あの鯤こんといふ言葉は、支那の莊さう子しといふ本の一番始め、﹃逍遙遊第一﹄といふところに出てゐる。その文句は﹃北ほく冥めいに魚あり、その名を鯤となす。鯤の大さ幾千里なるを知らず﹄と――ある﹂ ﹁つまらねえものを引合に出したもので――﹂ 平次は口く惜やしさうでした。 ﹁その後がまた面白い﹂ ﹁へエー、もう少し讀んで下さいませんか﹂ ﹁つまり、その鯤といふ鯨くぢらのやうな魚が、鳥になつて今度は鵬ほうといふものになり、南なん冥めいといふところに飛んで行く、――南冥は天てん池ちな也りと斷わつてある、つまり天の池だな﹂ ﹁すると鯤の住んでゐる北冥といふのは何んでせう﹂ ﹁北の海だ。冥めいは溟めい也なりとある。――その北の海に鯤こんといふ魚が居るのだ﹂ ﹁すると、北の海を搜しや宜いわけですね﹂ ﹁その通りだ﹂ ﹁有難う御座います。どうも學問には叶かなひません。尤もこれだけ附け燒刃の智慧でも持つて行けば、もう惡賢こい下手人なんかには負けません﹂ 平次は獨り言をいひ乍ら、新三郎の前を退しりぞきました。六
﹁八、解つたぞ﹂
﹁親分﹂
室の外で待つてゐた八五郎は、平次の顏に動く勝利感を見て、ホツと安心したのです。此處へ來る迄の平次の顏色は全く今まで八五郎が見たこともないやうな險惡なものでした。
其處から木き場ばへ引返したのは、もう夕陽が町を染める頃。
﹁この家の北の方には何があるんです﹂
平次はいきなり支配人の常吉に斯こんな事を訊きました。
﹁北海庵といふ庵室ですよ、――兄が寄進して十五六年前に建てた堂ですが、庵主が死んで、そのまゝ立ち腐れ同樣になつてゐますが――﹂
﹁其處だ﹂
平次が飛付かうとするのを、常吉はあわて加かげ減んに止めました。
﹁其そつ方ちからは行けませんよ。厚い生いけ垣がきがあつて、北へ行くには南の方へ出て、屋敷をグルリと一と廻りするんです﹂
爭ふ可き筋合もないので、平次は常吉の導くまゝ生垣をグルリと廻つて、裏口へ出ました。
夥おびたゞしい材木を漬つけた堀の縁を通つて、北側の庵室――北海庵の前に立つた平次は、あまりにも荒れ果てた樣子に、少なからずがつかりさせられた樣子です。
﹁親分の、北ほく冥めいの魚でせう。鯉でも鮒ふなでも構はないが、此處に魚さかながありさへすりや、三萬兩と轉げ込むんだが、無住になつた寺方ぢや、鰯いわしの頭もねえ――﹂
﹁默らないか、八﹂
平次は八五郎の饒ぜう舌ぜつを封じて、凝ぢつと庵室の中を見廻しました。
﹁だつて親分、此處に魚なんか居るわけはないぢやありませんか﹂
﹁あれは何んだ﹂
平次の指は眞つ直ぐに、佛壇の前に据すゑた禿はげちよろの木もく魚ぎよを指さしてゐるのでした。
﹁なるほど木魚とはよく附けた――魚に違げえねエ﹂
八五郎は飛んで木魚を押へました。こいつが下手人ででもあるかの意氣込みですが、禿ちよろの木魚は八五郎が考へた業わざをする代しろ物ものとは思へません。
﹁木魚の中を見るんだ﹂
﹁へエー﹂
引つくり返すとカラ〳〵と鳴つて、やがて轉がり出たのは、丈夫さうな鍵です。
﹁それをどうするんで、親分﹂
﹁南なん冥めいへ行くんだ。天てん池ちともいふ。――其處に鵬ほうといふ鳥が行ぎや水うずゐを使つてゐる﹂
其時は、もう上州屋の家族が全部其處に集まつて、錢形平次の動きを好奇と、不安とで見詰めて居りました。
平次はその人達の視線に送られて、上州屋の離屋――昨夜勇次郎が殺された部屋の前まで行くと、さゝやかな池のほとりに据ゑた、不似合に大きな青銅の水すゐ盤ばんに氣が付きました。その形は多少怪異なものですが、水盤の眞ん中に立つたのは、正しく鳳ほう凰わうの飛躍的な姿です。
平次はその鳳凰の飾りを拔くと、その下にある鍵穴に、木魚から取出した大鍵を入れました。見當さへ付けば謎を解くのは大道を行くやうなものです。
カチリと音がして、平次の手に從つて巨大な水盤は動きます。その跡にポカリと口を開いたのは何と人間が二人位樂々と通れるほどの大きな穴、しかも夕陽に照らされて、階はし子ごだ段んまでがありありと見えてゐるではありませんか。
﹁御主人はこの中へ降りて見て下さい。中には三萬兩の小判がある筈だ。穴あな倉ぐらは丁度池の下になつて居るでせう﹂
﹁――﹂
莊太郎はさすがに脅おびえて尻ごみしました。
﹁もう危ないことは少しもありません。あつしが一緒に行つて上げませう﹂
提灯を借りて先に立ちました。
續いて若主人の莊太郎。
やゝ暫く降りると、三疊ほどの小さい部屋になつて、四壁にぎつしりと千兩箱が積んであります。その數はざつと三十七八。
﹁これを皆んな弟にやる心つも算りだつたのに﹂
莊太郎は暗然としました。
﹁御主人、あなたは佛樣のやうな方だ。その心掛が、あなたを救つたんですよ、それ――﹂
平次が指さした壁の上、丁度二人の歸り途を塞ふさぐやうに、どつと一條の巨大な水柱が奔ほん出しゆつして來たのです。
﹁あツ﹂
驚く莊太郎を、平次は輕く押へました。
﹁もう大丈夫、それ水が止まつたでせう。八五郎が惡者を捉つかまへたのです﹂
﹁歸りませう。親分﹂
﹁もう歸る途も﹇#﹁もう歸る途も﹂は底本では﹁もる歸る途も﹂﹈開いた筈です﹂
﹁えツ﹂
﹁二人此處で三萬何千兩の小判と一緒に水潰りになるところでしたよ﹂
平次はさう言つて、莊太郎を促うながしながら、もとの離屋の前へ歸りました。
﹁親分﹂
ガラツ八は飛付きました。
﹁下手人はどうした﹂
﹁あの女ですよ。あんまりびつくりして居るうちに、あの女が穴の入口を塞ふさいで水門を開いたんです﹂
﹁だからあれほど氣を付けるやうにと言つて置いたぢやないか、下手人はどうした﹂
平次は何も彼も見みと徹ほしてゐたのでせう。
﹁少しの手遲れでした﹂
﹁何處だ﹂
﹁離屋へ飛んで戸を閉めてしまつたんです﹂
﹁それも宜からう。が、放つて置けない。さア﹂
平次は八五郎等と力を合せて、離室の戸を打ち破りました。中へはいると、
﹁あつ﹂
血潮の海の中に、莊太郎の許いひ婚なづけお道は、懷劍で見事に自殺して居たのでした。
× × ×
歸る途々、ガラツ八の燃える好奇心に釣つられて、平次は簡單に説明してやりました。
﹁勇次郎の死骸は、殺し方があんまり念入り過ぎたので、毒どく害がいしたのを誤ご魔ま化かすためだと思つたよ。瞳どう孔こうが散つてゐるし、絞め殺したにしては上氣してゐないし、舌の色が變つて居るし、毒害は間違ひないと思つた﹂
﹁――﹂
﹁それをわざと物置から持出した大綱で絞めて、玄げん能のうで頭を割るのは細工が過ぎて本當らしくない。自分の非力を隱して、何處までも他の男がやつたやうに見せる氣さ。――俺は最初から女の毒害と思つて居たな﹂
﹁へエー﹂
﹁昨夜、晩飯の後で離室へ入つたのはお道だけだ。下女と一緒に行つて、茶を立てたのを隱さうともしなかつたのは、あの女の太ふといところさ。その時勇次郎の口くち占うらを引いて、謎の意味を大方覺つたに違ひない――お茶に入れた毒に當つた頃もう一度そつと行つて、いろ〳〵の細工をしたのは、恐ろしい膽つ玉だ﹂
﹁なんだつて女のくせに勇次郎を殺す氣になつたのでせう﹂
﹁勇次郎がお道の性根を見拔いて、兄に祝言をさせないやうに仕向けて居たんだらう。それに三萬兩の大金を勇次郎が見付けると、人の好い莊太郎は皆んなやると言つた。――お道にしては、ゆく〳〵自分の物になる金を、みす〳〵勇次郎に横取られるやうな氣だつたんだらう﹂
﹁そんなに解つてゐるなら、なぜもつと早く縛らなかつたんで――﹂
﹁證據が一つもなかつたよ。あのお道といふのは、恐しい女だ。――そこで、笹野の旦那に教へて頂いて、三萬兩の謎を解き、次第々々に金の隱し場所に近づき乍ら、お道の顏色を見て居たのさ。お道はあの晩、勇次郎から何もかも聽いてゐるに違ひない。勇次郎は學問はあつたが物を隱して置けない氣樂な氣性の男だつた。――寶の穴あな庫ぐらへ主人の莊太郎を誘さそひ入れたのは、お道に細工をさせて、動きの取れないところを捕へるためさ﹂
﹁へエー﹂
﹁それをお前がへマして、殺してしまつちや何んにもならない﹂
﹁相濟みません﹂
ガラツ八はペコリとお辭儀をしました。
﹁まア宜いやな、その方が反かへつて宜かつたかも知れない。三萬兩出て見ると、ひと身上呉れるとは誰れも言はないだらうよ。後で五兩や三兩のお禮を持つて來たつて、手を出すんぢやないよ。――お前が家作を四軒建て兼ねたのは氣の毒だが、まア〳〵諦あきらめるが宜い﹂
﹁へツ﹂
﹁家賃の苦勞をするのも、世渡りの﹇#﹁家賃の苦勞をするのも、世渡りの﹂は底本では﹁家賃の苦勞をするのも。世渡りの﹂﹈張合になつて惡くないよ﹂
平次はそんな事を言ひながら夕闇の町を神田の家へ急ぐのでした。
其處に女房が、一合工くめ面んして、首を長くして待つて居るのです。