一
本郷菊坂の六軒長屋――袋路地の一番奧の左側に住んでゐる、烏から婆すばゝアのお六が、その日の朝、無慘な死骸になつて發見されたのです。 見付けたのは、人もあらうに、隣に住んでゐる大だい工くの金五郎の娘お美乃。親孝行で綺麗で、掃はき溜だめに鶴の降りたやうな清純な感じのするのが、幾日か滯とゞこほつた日濟しの金――と言つても、緡さしに差した鳥目を二本、袂たもとで隱してそつと裏口から覗くと、開けつ放したまゝの見通しの次の間に、人相のよくない烏婆アが、手拭で縊り殺されて、凄じくも引つくり返つて居たのです。 ﹁あツ、大變、――誰か、來て下さい﹂ お美乃は思はず悲鳴をあげました。確しつかり者と言つても、取つてたつた十八の娘が、不意に鼻の先へ眼を剥いた白しら髮がツ首を突き付けられたのですから、驚いたのも無理はありません。 ﹁何んだえ、お美乃さんぢやないか﹂ 眞つ先に應こたへてくれたのは、一間半ばかりの路地を距へだてて筋向うに住んでゐる、鑄いか掛け屋やの岩吉でした。五十二三の世をも人をも諦めたやうな獨り者で、これから鑄掛道具を引つ擔いで出かけようと言ふところへ、この悲鳴を聽かされたのです。 ﹁鑄掛屋の小父さん、た、大變ですよ﹂ ﹁何處だい、お美乃さん﹂ お六婆アの家の表は、まだ嚴重に締つてゐるので、岩吉はお美乃の聲が何處から聽えて來たか、一寸迷つた樣子です。 ﹁お六小母さんが――﹂ ﹁婆さんがどうしたといふんだ﹂ 岩吉は枳から殼たち垣がきと建物の間を狹く拔けて、お六婆アの家の裏口へ廻つて仰天しました。 ﹁小父さん、どうしませう﹂ ﹁何うも斯うもあるものか、長屋中へ觸れてくれ。それから、醫者にさう言ふんだ﹂ 岩吉はさう言ひ乍ら、裏口の柱につかまつて、ガタガタ顫へて居ります。中へ入つて死骸の始末をすることも、死骸の側を通り拔けて、表戸を開けてやることなども、この中ちゆ老うら人うじんは出來さうもありません。 そのうちに、壁隣りに居るお美乃の父親――大工の金五郎も飛んで來ました。二日醉ひらしい景氣の惡い顏ですが、これはさすがに威勢の良い男で、 ﹁早く介抱してやるが宜い。締められた位で往生するやうな婆アぢやあるめエ﹂ いきなり死骸を抱き起しましたが、石つころのやうに冷たくなつて、最早命の餘よじ燼んも殘つてゐさうもありません。 ﹁こいつはいけねエ﹂ 金五郎は死骸を置いて表戸を開けると、其處には、岩吉の隣りに住んでゐる日ひよ雇うと取りの與八と女房のお石が、叱られた駄々ツ兒のやうな、脅おびえきつた顏を並べて立つて居るのでした。 最後に金五郎の隣り――與八夫婦の向うに住んでゐる按あん摩ま佐の市の母親も出て來ました。眼の見えない佐の市を除のぞけば、これで長屋總出になつたわけですが、脅えた顏を揃へて、わけの解らぬことを囁き合ふだけで、何の足しにもなりません。 ﹁何が始まつたんだ。大變な騷ぎぢやないか﹂ 木戸の外から聲を掛けて、若い男が入つて來ました。六軒長屋の直ぐ外――表通りに住む雪之助といふ二十七八の男で、本石町の丸木屋の次男坊に生れ乍ら、商賣は嫌ひの風流事が好きで、こんなところに別宅を建てて貰ひ、耳の遠い年寄を一人使つて、意氣事と雜ざつ俳ぱいとにその日を暮す、雪ゆき江えといふ筆ひつ名めいに相應しい結構な若旦那でした。 ﹁若旦那、大變なことになりましたよ﹂ 與八は齒の根も合はぬ姿でした。 ﹁またお前のところの夫婦喧嘩かい﹂ 事もなげに笑ふ雪之助。 ﹁そんな事ぢやありませんよ。お六婆さんが殺されて死んで居るんで﹂ ﹁へエ、あの婆さんでも殺されると死ぬのかい﹂ 雪之助はまだ巫ふ山ざ戯け氣分です。 ﹁見て下さいよ。凄い人相ですぜ、若旦那。三さん途づの河かはの婆アだつて、あの顏が行くと驚きますぜ﹂ 大工の金五郎はこんな時にも江戸つ兒らしい剽へう輕きんさを失ひませんでした。 ﹁あれ、父さん、そんな事を﹂ お美乃はさう言ふ父親の口へ蓋ふたでもし度い樣子です。 ﹁成程、そいつは凄からう。――ところで、屆けるところへ屆けたのかい﹂ ﹁面喰つて居るから、何んにもやりませんよ﹂ と金五郎。 ﹁それでは後がうるさい。何を措をいても町役人と、眞まさ砂ごち町やうの親分に知らせなきやなるまい。お前一と走り頼むぜ﹂ ﹁へエ――﹂ 日頃若旦那の雪之助に物を言ひ付けられてゐる與八は、こんな時一番先に駈け出すやうに慣ならされて居たのです。二
﹁こんなわけだ、――疑へば長屋中皆んな怪しい。怪しくないのは、昨ゆう夜べ小石川の叔母のところに泊つたお美乃と、眼の見えない按あん摩まの佐の市だけさ。何處をどう突いて、どう手た繰ぐつたものか、まるつきり見當が付かない。氣の毒だが兄あに哥きの智慧を貸してくれないか、恩に着るつもりだが――﹂ 眞砂町の喜三郎は、翌る日の朝早く神田の平次を訪ねて、斯かう打ち明けて頼むのでした。 平次と同年配で、日頃平次の腕や人柄に推服して居る喜三郎は、十手捕繩の誼よしみを超えて、平次に親みを持つて居たのです。 大根畠の小町娘が、白はく痴ちの定吉に殺された事件︵﹃人形の誘惑﹄參照︶が、危く迷宮入りになりかけたとき、平次の助けで厄介な謎を解いたことのある喜三郎。もう一度平次の力を借りて、このお六殺しの不思議な事件を解決しようといふのでせう。 ﹁それ位のことなら、眞砂町の兄あに哥きの前だが、蓋も底もあるまい。俺なんか顏を出す幕ぢやないやうに思ふが――﹂ 喜三郎の素直な氣性を知つて居る平次は、一應頼まれた位のことでは、容易に御輿をあげて他人の繩張りに足を踏み入れようともしません。 ﹁ところが、三輪の萬七親分がやつて來て、いきなり大工の金五郎を縛つて行つたんだ﹂ ﹁フーム﹂ 又も憎まれ者の萬七が、平次と仲の好い喜三郎への嫌がらせに、いち早くも下手人をさらつて行つたのでせう。 ﹁それも、大工の金五郎が本當の下手人なら文句はない。俺は指をくはへて引込んでも居ようが、どんな證據があつたにしても、あの男が人などを殺す筈はない。喧嘩して相手に傷でも付けたといふなら解つて居るが、六十を越した烏婆アを殺し、臍へそ繰くりを盜んで口を拭ぬぐつて居ようなんて、そんなことの出來る金五郎でないことは、この俺が一番よく知つて居るんだ。第一親孝行で評判のお美乃が可哀想で見ちや居られねエ﹂ 若い喜三郎が、平次の力を借りようとするのは、そんな關係もあつたでせう。 ﹁三輪の親分が乘り出して、金五郎を縛つて行つたのは、いづれ動きのとれない證據があつてのことだらう﹂ と平次。 ﹁萬七親分に言はせると證據があり過ぎるんだ。――娘の留守に一杯呑んで寢たといふ金五郎が、すこしは醉つて居たにしても、壁隣りで人間が締め殺されるのを知らずに居るはづはない。それに金五郎は二年前女房に死なれた時、お六婆アから一兩の金を借り、それを返せないばかりに、利に利がつもつてひどい目に逢つてゐる。昨ゆふ夜べ娘のお美乃を小石川の叔母のところへやつたのも日濟しの拂ひが溜つて、お六に目の玉の飛び出るやうに催さい促そくを受け、思案に餘つての工面だ。娘の留守に自やけ棄ざ酒けを呷あふつた金五郎が、夜中にフラフラとお六を殺したくならないものでもあるまい――と、斯かう萬七親分は言ふんだ﹂ ﹁成程ね﹂ 平次は一應感心するのです。 ﹁それから、もう一つ惡いことに、お六婆アの家の裏口から入るには、金五郎の家の裏口を通るか路地の奧へ突き當つて、お六婆アの家と寺の枳から殼たち垣がきの狹い間を通つてグルリと廻らなきやならないが、枳殼垣の下は雪解けで、人間の足跡といふのは、今朝お美乃に呼ばれて、鑄いか掛け屋やの岩吉があわてて通つたのがあるだけ、あとは野良犬の通つた跡もないんだ﹂ ﹁表は?﹂ ﹁お六婆アはうんと留めて居るから、戸締りだけは馬鹿に丁寧だ。表の戸は今朝死骸を見付けた時、お勝手口から入つた金五郎が内から輪鍵を外して開けたに違ひないと、自分でも言つてるんだから世話アない﹂ ﹁ところで、金は盜られなかつのたのかな﹂ 平次は一番重要なことに觸れました。 ﹁お六婆アの家に一文も無いところを見ると、下手人は婆アを殺して金を盜つたんだらう。お六婆アが肌はだ身み離さず持つてゐる名題の大おほ財ざい布ふも無いし、手文庫には證文だけ。火鉢の引出しの小錢まで無くなつてゐる。恐しく行屆いた奴だ﹂ ﹁お六婆アは本當に金を持つてゐたんだらうか﹂ ﹁三十年後家を通して、烏から婆すばアとか何んとか言はれ乍ら、溜めたんだから、三十兩や五十兩ぢやあるまいと思ふが、天井裏も床下も、糠ぬか味み噌その瓶かめの中まで見たが無いよ﹂ ﹁六軒長屋の家搜しは?﹂ ﹁手ぬかりなくやつたが、金を持つてゐるのは、按あん摩まの佐の市だけ、それも五兩か八兩だ。あとはお美乃が叔母さんから借りて來た小錢の外には、百と纒まとまつたものを持つてる家もないんだ。恐しく不景氣な長屋だぜ﹂ ﹁成程、面白さうだな。――大した役にも立つまいが、兎に角行つて見よう。八、仕度をするんだよ﹂ 平次はいよ〳〵御輿をあげました。三
菊坂の六軒長屋は、わけの解らぬ不安に閉とざされたまゝ、町役人の監視の下に、お六の葬とむらひの仕度を急いで居りました。 平次は恐しく用心深い態度で、先づ入口の木戸の前に立つて、長屋全體と近所との關係を見渡します。 ﹁右手は崖がけ――こいつは鵯ひよ越どりごゑだ。越して越せないことはあるまいが、藪やぶがひどいから犬が通つても大きな音がする。先づ夜中に忍び込む工夫はないな﹂ 平次は眼を轉じて左を見ました。 ﹁此方は旗本屋敷だよ、錢形の。忍び返しが嚴重に打つてあるから、あの塀は越せまい﹂ 喜三郎は左手を指します。 ﹁すると出入口は木戸一つだ﹂ 三尺の木戸、古くなつた隙間だらけですが、それでも繕つくろひが丁寧ですから、外からは開ける工夫がありません。 ﹁こいつは誰が閉めるんだ﹂ ﹁木戸の側に住んで居る佐の市の母親の役目になつて居るが、あの晩遲く歸つた鑄掛屋の岩吉が締めたさうだ。亥よつ刻は半ん︵十一時︶近かつたといふよ﹂ ﹁朝開けたのは﹂ と平次。 ﹁佐の市のお袋ふくろが、卯む刻つ︵六時︶前に開けた。輪鍵はちやんと内側へ掛つて居たさうだよ。戌いつ刻ゝ時分にお美乃が歸つて來て、お六の死骸を見付けたのは戌いつ刻ゝは半ん︵九時頃︶だらう﹂ 喜三郎は詳くはしく説明しました。 ﹁すると、お六を殺したのは、長屋の者に違ひないといふことになるね﹂ ﹁木戸は内から締つて居たし、外に入るところはないから――﹂ ﹁突き當りの枳から殼たち垣がきは潜るか越すか出來ないものかな﹂ ﹁潜るやうな穴はない。垣の上へ蒲團でも掛けたら、越せないこともあるまいが、向う側はお寺の境内で、霜しも解どけがひどいから、この五六日人間の入つた樣子はない﹂ ﹁あの晩は凍こほらなかつたか﹂ と平次。 ﹁二三日凍るやうな天氣はなかつた筈だ﹂ さう言はれると、いよ〳〵下手人は六軒長屋の住人でなければならなくなります。 ﹁親分、木戸を締めたまゝ、内から乘越せないでせうか﹂ ガラツ八の八五郎は口を出した。 ﹁やつて見るが宜い。請うけ合あひ乘り潰すから。柱が腐つて居るし、木戸もボロボロだ。餘程身輕な奴でも、この上に乘ると、大きな音を立てるよ。木戸の直ぐ下に寢てゐる眼の不自由な者や年寄がそれを知らずに居る筈はない﹂ 平次の言ふ通りでした。按あん摩ま佐の市の家は直ぐ木戸の側で、夜中に木戸を乘り越す者があれば、たつた一と間しかない寢部屋の窓から枕に響かない筈はなかつたのです。 ﹁兎も角、入つて見ようか﹂ 喜三郎に誘はれて、平次は先づ木戸を入つて左側の按摩佐の市の家を覗きました。 ﹁親分さん方、御苦勞樣で――﹂ 按摩の佐の市はまだ二十四五の若い男ですが、眼が見えないだけに、早くも客の話聲を察して、丁寧に挨拶しました。 ﹁佐の市さんだね。何にか氣の付いたことはないかえ﹂ 平次は水を向けます。 ﹁何んにも御座いませんが――﹂ ﹁昨ゆふ夜べあたり、何にか聽いた筈だと思ふが、お前は勘かんが良いやうだから﹂ ﹁そんなでも御座いません。眼は見えなくても、若い者は矢張り床とこへ入ると直ぐ寢付いてしまひます。それでも、親分さんがさう仰しやると、夜中に眼を覺した時、路地の中を犬や猫でないものが歩くやうな氣がしました﹂ ﹁裏口の方でなく、路地の中だね﹂ ﹁へエー、路地の中に違ひございませんが、それつきり私が眠つたのか、物音が止んだのか、覺えはございません﹂ ﹁木戸を乘越した音は?﹂ ﹁それなら直ぐ解りますが、そんな音は一向聽きません﹂ ﹁木戸を開けた音がしなかつたかえ﹂ ﹁大分前から金具が錆さびてゐて、開け立てに齒の浮くやうな音を立てましたが、二三日此方不思議にそんな音が聞えなくなりました﹂ 佐の市の答へはハキハキして、思ひの外の收しう穫くわくがありさうです。 ﹁有難う、大層役に立つたよ。ところで、この長屋中にお六を怨む者もあつたらうな﹂ ﹁よく思ふ者はありません。烏から金すがねを貸してひどい取立てをした上、口やかましくて、けちで、大變な人でしたよ﹂ 佐の市も大分惱ませられたらしく、齒に衣きぬを被きせません。 ﹁隨分評判が惡いな﹂ ﹁本郷中の憎まれ者でしたよ。死んだ者の惡口を言ふわけではございませんが﹂ 盲人らしい一克こくさで、佐の市は尚なほも言ひ募りさうにするのを、 ﹁お前まア、そんな遠慮のない事を言つて宜いのかえ﹂ 母親のおよのは路地から聲を掛け乍ら入つて來ました。 ﹁構ひませんよ。誰も盲めく目らの私が殺したと思ひませんよ﹂ 佐の市はどんなにお六にひどい目に逢はされてゐたか、斯うでも言はなければ、腹の蟲が納まらない樣子でした。 ﹁餘程お六とは仲が惡かつたと見えるな﹂ 平次も苦笑ひをする外はありません。 ﹁親分さん方、何時でも伜は斯かうですよ。お聽き流しを願ひます。――なアに、仲が良いも惡いもありやしません。あのお六さんといふ人は、時々高い利息のつく金でも借りて儲けさしてやらないと、機嫌の惡い人だつたんです﹂ およのは辯解らしく言ふのでした。伜の佐の市が働き者で、お六の烏金などを借りるどころの沙汰ではなかつたのです。 ﹁ところで木戸を開けたり閉めたりするのは、お前さんの役目ださうだね﹂ 平次はおよのに問ひかけました。六十を越した、一と掴つかみほどの老婆ですが、なか〳〵確しつかりものらしく言ふことはハキハキもして居ります。 ﹁へエー、役目といふわけでもありませんが、木戸の側に居るのは私とお向うの與八さん夫婦ですが、與八さんは暢のん氣き者ですから、ツイ私が締めることになります。それにうつかり締め忘れたりすると、お六さんがやかましかつたんです﹂ お六が木戸を警戒したのも、およのが木戸を締める仕事を引受けてゐるのも、持てる者の弱さだつたでせう。 ﹁その晩のことを詳くはしく話してくれ﹂ ﹁鑄掛屋の岩吉さんが、本所の友達の祝事で遲くなるから、木戸は締めずに置いてくれと言ひますから、そのまゝにして寢て仕舞ひました。尤もつとも眠つたわけぢやありません。金五郎親分が酒を買つて來たのも、岩吉さんが歸つて來て木戸を閉めたのもよく知つて居ります﹂ ﹁他ほかに誰も入つて來た樣子はなかつたらうな﹂ ﹁宵のうちのことはわかりません、お勝手で仕事をしてますから。――戌いつ刻ゝは半ん︵九時︶から先は、金五郎親分と岩吉さんの外には誰も入つて來なかつた樣です﹂ およのの言葉には疑問を挾む可き餘地もありません。 ﹁翌る朝は﹂ と平次。 ﹁私が木戸を開けました﹂ ﹁よく閉つて居たんだね﹂ ﹁へエ、棧さんもおりて居ましたし、輪鍵も掛つて居ました﹂ ﹁輪鍵には釘を差さないのか﹂ ﹁差したり、差さなかつたりですよ﹂ ﹁その時は?﹂ ﹁釘は差してなかつたやうです。さう言へば二三日前から釘が見えなくなつて、輸鍵を掛けただけですよ﹂ およのは妙な事に思ひ當つた樣子です。が、平次がどうして斯んな細かいことまで聽くのか、見當もつかなかつたのです。 ﹁お六の家へ行つて見ようか、錢形の兄哥﹂ 喜三郎は少し面倒臭さうでした。 ﹁いや、少し待つてくれ﹂ 平次は木戸へ引返すと、もう一度念入りに調べ始めました。棧の具合、板の割目、それから木戸を吊つつた蝶てふ番つがひの具合など。 ﹁おや?﹂ 平次は木戸の滑らかさが、蝶番に油を注してある爲だとわかると、鼻を持つて行つて、クンクンと嗅いだりしました。 ﹁親分、何んか匂ふんですか﹂ とガラツ八。 ﹁お前の良い鼻で、こいつを嗅いで見てくれ。唯たゞの燈ともし油ぢやあるめえ﹂ ﹁良い匂ひですね、親分﹂ ﹁その匂ひを覺えて置くんだ――あツ、人が來る、鼻を引込めろ、八﹂四
﹁與八、ちよいと待つた﹂ ﹁へエ、これは眞砂町の親分さん﹂ 日ひよ雇うと取りの與八は、急に立止つて、ヒヨイとお辭儀をしました。喜三郎に聲を掛けられなかつたらそのまゝ知らん顏して行く心つも算りだつたでせう。 ﹁何處へ行くんだ﹂ ﹁ちよいと、その﹂ ﹁ちよいとその、何處だ﹂ ﹁へエー﹂ ﹁へエぢやないよ、うさんな野郎だ。來いツ﹂ 喜三郎にピタリと腕首を掴まれると、與八は一ぺんに悲鳴を擧げてしまひました。 ﹁言ひますよ、言つて了ひますよ。親分、勘辨して下さい。あつしのせゐぢやありません。三輪の親分が、誰にも言はずに、そつと持つて來れば、褒美をやると言つたんで﹂ 三十七八――無精髯ひげに顏半分を包んだやうな、洗ひざらしの半はん纒てん一枚の與八は、何も彼もベラベラとしやべつてしまひさうです。 ﹁何を持つて行くんだ。出して見ろ﹂ ﹁これですよ、親分。――金五郎親分の裏の、崖がけの藪やぶから拾つたんで﹂ 與八は腹掛の丼から、古風な縞しまの財布を一つ出して見せました。 ﹁それが何うしたんだ﹂ ﹁お六の財布ですよ。こいつを首にかけて、婆アの癖に、ヂヤラヂヤラさせて歩いたことは、本郷中で知らない者はありやしません﹂ ﹁何?﹂ 事の重大さに、喜三郎も平次も緊張しました。取上げて見ると、中は空つぽですが、ひどく眞つ黒な泥の付いたのを、無理に擦すつて取つた樣子があり〳〵と見えます。 ﹁金五郎親分の裏口の藪に引つ掛つて居たんです。――昨日一日誰にも見付けられないのが不思議なくらゐでしたよ﹂ 與八はすつかり觀念しました。 ﹁今頃そんな細工をするやうぢや、油斷がならない。――大急ぎで片付けやう﹂ 平次は喜三郎を促うながします。 ﹁財布は?﹂ 喜三郎は念を押しました。 ﹁勝手にさせるがよからう。金五郎が下手人だとしても、自分の家の裏口へ空財布を捨てるか捨てないか、萬七兄あに哥きにも判らないことはあるまい。そいつは與八の手柄にさしてやるが宜い。藪に引掛つてゐた財布に、眞黒な泥がどうして着いたか、それが判りさへすれば宜いよ﹂ 平次にさう言はれると、こんな財布にこだはるのが馬鹿々々しくなります。 與八の家は空つぽ。左側の金五郎の家を覗くと、娘のお美乃が一人、壁の方を向いて、何をするでもなく坐つて居ります。 ﹁お美乃﹂ 喜三郎が聲を掛けると、娘は僅かに此方を振向いて目禮しました。 貧まづし氣な樣子の中に、たつた一人取り殘された十八になるお美乃は哀れ深くも美しい姿です。 ﹁錢形の親分が少し訊き度いことがあるさうだ。話してくれ﹂ ﹁ハイ﹂ お美乃は上り框かまちに手を突くやうに、泣き腫はらした眼で平次と喜三郎を迎へるのでした。 ﹁親分、可哀想ぢやありませんか、何んとかしてやつて下さいよ﹂ 八五郎は平次の耳許に囁きます。 ﹁ところで、お六から借りた金のことだが、――何時借りて、どんな催さい促そくをされて、いくら拂つて、殘つてゐるのはいくらだ﹂ 平次はそんな細かい事を訊き乍ら、上り框かまちに腰をおろして了ひました。 ﹁二年前、母さんが死んだ時、一兩だけ借りました。三月目に一兩二分にして返す約束で――﹂ ﹁恐ろしく高い利息だな﹂ ﹁でも拂へないとなると、毎日々々此處へ來て、いやな事ばかり言ひました。父さんは一生懸命働いて利息だけは入れた心算ですが、それでも、二年目の今となつては、積り積つて三兩になつたから、私を奉公に出すか、でなかつたら、日ひす濟ましにして返せと言はれて、私は小石川の叔母さんのところへあの晩相談に行つたんです﹂ ボロボロとこぼれる涙を、粗末な袷の袖で拭いて、覺おぼ束つかなくもお美乃は續けるのです。 ﹁太え婆アぢやありませんか、親分﹂ 後ろの方で、ガラツ八は一人で腹を立ててゐます。 ﹁その婆アは殺されてゐるんだ。默つて居ろ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁ところで、親方は酒が好きかえ﹂ 平次は變なことを訊きました。 ﹁ハイ﹂ それで苦勞をして居るらしいお美乃は、極り惡さうに俯うつ向むくのです。 ﹁醉ふと機嫌の惡くない方かい﹂ ﹁いえ、そんな事はありません――どつちかと言ふとよく眠る方です﹂ お美乃の敢然と振り仰ぐ顏。――淺黒い細面の品のよさは、身みな扮りも背景も超越して、なにか冒おかし難い美しさが輝くのでした。 ﹁仕事の方は?﹂ ﹁父さんはいつも仕事を自慢ばかりして居ます﹂ 腕に覺えのある良い職人が、酒と狷けん介かいに煩わずらはされて、初老を過ぎて貧乏から脱けきれないみじめさは、平次にもよく解るやうな氣がしました。 六疊の間に据えた佛壇には、先祖の位牌と、死んだ女房の新らしい戒かい名みやうが飾られてあるらしく、貧しいうちにも、何にか折目の正しさが、人に迫るものがあるのです。 ﹁親分さん方﹂ 後ろから聲を掛けた者があります。五
﹁丸木屋の雪之助さんだよ﹂ 喜三郎は平次に引合せました。それは二十七八の若旦那型の華奢な男で、色の白さも、眼の凉しさも、唇の紅さも、――そして言葉の爽さはやかさも、申分のない男でした。 ﹁錢形の親分、お美乃さんが可哀想だ。一日も早く金五郎親分を助けてやつて下さい。あの人は氣性の激しい人には違ひないが、曲つたことや間違つたことをする人ぢやありませんよ。――こればかりは三輪の萬七親分の鑑めき定ゝ違ひでせう﹂ 靜かですが、反抗を許さない調子で、シトシトと辯解して行く雪之助の言葉を、平次は一句毎にうなづき乍ら聽きました。 ﹁大きにさうだらう。私もさう思つて居るが、困つたことに親分の爲にならない證據ばかりだ﹂ ﹁例へば?﹂ ﹁お六の財布が、今朝此家の裏口の藪の中に落ちて居たさうだ﹂ ﹁まア﹂ お美乃の方が蒼くなりました。 ﹁そいつは證據ぢやありませんよ。金五郎親方が盜つたものなら、自分の家の裏口へ空財布を捨てるものですか﹂ 雪之助は躍やく起きとなつて辯解しました。 ﹁さうかも知れない、さうでないのかも知れない﹂ 平次は自分に言ひ聽かせるやうに、斯う深々とした調子で言ふのでした。金五郎の向う側は、鑄いか掛け屋やの岩吉の家でした。行つて見ると、これはすつかり脅おびえて了つて、昨日から稼業も休み、何をするでもなく、唯ワクワクと暮してゐる樣子です。 ﹁岩吉といふんだね﹂ ﹁へエ――﹂ ガラツ八にきめ付けられて、岩吉はガタガタ顫へ出しました。岡つ引が三人、狹い門口を塞ふさぐなんて想像もしたこともない恐しい圖です。 ﹁お前も、お六には借りがあるんだらう﹂ 平次は靜かな調子ですが突つ込んだことを訊きました。 ﹁ありましたが、拂ひましたよ。へエ﹂ ﹁何時、いくら借りたんだ﹂ ﹁一兩二分、三年前に借りましたが、今年になつてから皆んな返しました。――こ、この通り、證文を返して貰ひましたよ﹂ 岩吉は大きな財布の中から、眞新しくさへ見える自分の證文を出して見せるのでした。 ﹁金は何時返したんだ﹂ ﹁二三日、いえ、一と月ほど前でした﹂ ﹁利息が高いから、うんと金高が嵩かさんだらう﹂ と平次。 ﹁へエ――﹂ ﹁その金を何處から手に入れて返したんだ﹂ ﹁友達が古い貸しを返してくれましたよ、へエ﹂ ﹁何處の何んといふ友達だ﹂ ﹁へエ﹂ ﹁言へまい﹂ ﹁へ――﹂ ﹁八、その野郎を縛つて了へ﹂ 平次の命令は激しくて唐たう突とつでした。 ﹁あツ、お許しを願ひます。――お願ひ、どうぞ、御勘辨を――﹂ 岩吉は這ひ廻りました。生活難に疲れきつて、見る影もなく萎しなびて居りますが、何處かこの鑄掛屋には、悧りか巧うなところが殘つて居ります。 ﹁さア、早く言つて了へ。言はなきや、お六殺しの下手人にされるぞツ﹂ ﹁と、飛んでもない親分さん。私はあの家の手箱の中から、私の證文を一枚拔いて來ただけですよ﹂ 岩吉は到頭白状してしまひました。 ﹁何とつまらない細工をするんだ﹂ と平次。 ﹁でも、利息を拂つても、元金は減へりません。一兩二分借りて、この三年の間に三兩以上も絞られました。――お六が死んだ今となつては、手箱から證文をそつと持つて來ても、大した罪ぢやあるまいと――﹂ ﹁馬鹿ツ﹂ ﹁へエー﹂ ﹁餘計な事をするから物事がこんがらかるぢやないか﹂ ﹁へエー﹂ ﹁その證文をもとの手箱へ返せ――と言ふところだが、今度だけは許してやる。その代り何んでも言ふのだぞ﹂ ﹁へエ、どんな、どんな、事でも申します﹂ 岩吉は平次の前に米こめ搗つきバツタのやうなお辭儀をしました。 ﹁お六と一番仲の惡かつたのは誰だ﹂ ﹁佐の市でございます﹂ ﹁その次は?﹂ ﹁金五郎親分でせうか﹂ ﹁一番仲のよかつたのは?﹂ ﹁お六は仲の良い人間を拵えると、損が行くと思つて居ましたよ﹂ ﹁その中でも啀いがみ合はないのがあるだらう﹂ ﹁若旦那――雪之助さんくらゐのものでせうよ。男がよくて物柔かですから、お六婆さんだつて、あんな解つた人と話してゐるのは、滿更惡い心持ぢやなかつたでせう﹂ ﹁お前は﹂ ﹁良いやうな惡いやうな、へツ、へツ﹂ 一向要領を得ませんが、それでも平次は必要な程度の顎は取つた樣子です。六
お六の家には、町役人と雪之助と與八の女房が詰めて、葬とむらひの仕度をして居りました。平次は此處に腰を据すえて調べるのかと思ふと、勝手口の表戸の締りだけ見て、至つて簡單にきりあげ、最後に、路地の突き當りの枳から殼たち垣がき越しに、寺の境内の樣子を眺めました。
﹁ひどい雪解けだね。二三日垣の側へ人間が歩いて來た樣子はない――おや、この境内の土は眞黒ぢやないか﹂
獨り言のやうに言つて、平次はスタスタと菊坂の通りへ出るのです。
﹁親分、歸るんですか﹂
八五郎はあわてて追ひ付きました。
﹁さうだよ、もうあの長屋には調べることはない﹂
﹁下手人は?﹂
﹁解つた心つも算りだ。――お前氣の毒だが今日一日身體を貸してくれ﹂
﹁へエ、何をやらかしや宜いんで﹂
﹁耳を借せ﹂
﹁へエー﹂
何やら言ひ付けて、八五郎を飛ばしてやると、平次は改めて喜三郎のけげんな顏を迎へました。
﹁眞砂町の兄哥、今日陽の暮れる前に、此處へ皆んな集めてくれまいか﹂
﹁皆んなといふと?﹂
﹁三輪の萬七兄哥も、縛られた金五郎も一緒だ﹂
﹁それはわけはないが﹂
﹁その前に、番所へ行つて金五郎に逢つて、お六の表の戸の締りのことを聽いて貰ひ度い。――棧がおりて居たか、輪鍵だけだつたか、輪鍵に釘が差し込んであつたか﹂
﹁そんな事ならわけはない、兄哥は?﹂
﹁俺は雪之助さんの家へ寄つて、良いお茶を一杯貰つて飮んで、眞つ直ぐに歸るよ。それぢや頼むぜ﹂
﹁合點﹂
三人は三方に別れました。それは、ポカポカ暖かい日の晝少し前のことでした。
その日の夕刻、酉む刻つ少し前、六軒長屋の路地の中に、關係者が全部集まりました。脹ふくれ返つた三輪の萬七、萎しをれきつて居る大工の金五郎、大はしやぎのガラツ八、それにつままれたやうな喜三郎、岩吉、與八夫妻、佐の市とその母親、美しいお美乃、そして長屋の外に住む雪之助が物好きに此一團に飛び込んで、進行係のやうな役目を勤めて居たのです。
﹁下手人は金五郎ぢやないと言ふのかい﹂
萬七は小意地の惡い調子で平次に突つかかりました。路地の中にも夕映えが殘つて、妙に神祕的な氣持のする刻限です。
﹁三輪の兄哥、氣の毒だが下手人は金五郎ぢやないよ。金五郎なら、翌る日わざ〳〵空財布を自分の家の裏口へ捨てて置く筈はない。――それに、金五郎が本當にお六を殺したなら、表戸位は開けて置くだらうよ。裏口だけ開けて置くと、自分が下手人だといふ證據を殘して置くやうなものだ﹂
﹁――﹂
萬七は默つて了ひました。
﹁下手人は岩吉でもない。――岩吉は臆おく病びやう過ぎるし、お六を殺した覺えがあるなら、手文庫から自分の入れた證文だけを拔いて行く筈はない﹂
平次は續けました。
﹁與八は?﹂
と喜三郎。
﹁これも正直者だ。働くのが面白い男だ。人の金に目などを付ける男ぢやない﹂
﹁佐の市は盲めく目らだ。――あとは女ばかり﹂
今度は喜三郎が言ふのです。
﹁その通りだ﹂
と平次。
﹁すると下手人は誰だ?﹂
萬七は少し威猛高になりました、
﹁外から入つて來たのさ。――長屋の衆ぢやない、長屋の衆は皆貧乏だが働き者だ﹂
﹁そんな馬鹿な事が、――お六の家の表の戸は内から締つて居るんだぜ。――その上木戸も輪鍵が掛つて居た筈だ﹂
萬七は抗議しました。
﹁下手人は宵のうちから前の空屋に忍んでゐて、時分を見計らつてお六の家へ入つたんだらう。多分金五郎が酒を買ひに出た時、――岩吉が歸る少し前だ。お六は知つてゐる顏だから用心もしなかつた。それを見込んで、不意に後ろから締め殺した上、有金を盜つて、わざと勝手口を開けて、表からそつと出た﹂
﹁表は締つて居たぜ﹂
萬七は我慢のならぬ聲を出しました。
﹁紐ひも一本で、外から締められるのさ。皆んな中へ入つて見るが宜い、俺は外から輪鍵をかけるから﹂
平次はお六の家の戸の輪鍵の輪に、水で濡らした長い紐ひもの端つこを絡からむと、その一端を戸の隙間から潜して表へ出し、自分は一尺ほど開けたところから外へ出て、戸を締めた上、靜かに紐を引きました。紐は平次の手にたぐられると、その末端を濡ぬらして絡んだ輪鍵が、受うけの金具の上にカタリとはまりました。と見ると、絡んだ紐は獨りでスルスルと輪がほぐれて、平次の手に納まるのです。
﹁あツ﹂
と驚き騷ぐ人々。
﹁木戸を外から締めたのもこれと同じことだ。佐の市が夜中に聽いた物音は、曲者が木戸から逃げ出す音だつたんだ。見るが宜い﹂
平次は木戸のところまで人々を誘さそふと、同じ方法で外から輪鍵を掛けて見せました。
﹁輪鍵が掛つて、釘の差してゐなかつたのは、外から細工をした證據だ。お六の家の表戸も、釘が差してゐなかつた。これは金五郎がよく知つて居る。うんと溜め込んで、用心深くなりきつて居るお六が、そんな戸締りをする筈はない﹂
﹁――﹂
皆んな暫く默つてしまひます。
﹁木戸の輪鍵の釘が近頃見えないものそのためだ。下手人は二三日前にその釘を隱して了つたのだ﹂
﹁その下手人は誰だ﹂
三輪の萬七も、さすがに兜かぶとを脱ぎました。
﹁仕事の嫌ひな奴だ。――金が欲しくてたまらない奴だ。――金五郎や岩吉は、貧乏こそして居るが仕事は自慢だ。人を殺して金を盜ることなどは、夢にも考へたことがあるまい。ところが、世の中には、ノラリ、クラリと遊んで暮して、贅澤し度いばかりに、金を欲しがつて居る人間がある﹂
﹁誰だ、そいつは、錢形の﹂
喜三郎は四あた方りを睨め廻しました。
﹁木戸の蝶てふ番つがひに油を注さして、開あけ閉たてに音の出ないやうにした奴だ。――その油は、日本橋の通三丁目で賣つてゐる、伊だ達て者の使ふ伽きや羅ら油ゆだ。八、此處に居る人間の頭を嗅いで見ろ﹂
﹁あツ﹂
あわてて逃げ出した一人は、早くも八五郎と喜三郎に引戻されました。
﹁御用ツ﹂
叩き伏せて、キリキリと縛ると、それは何んと、一番無むが害いらしく見えた、丸木屋の次男で、意氣事と雜ざつ俳ぱいに浮身をやつして居る、若旦那の雪之助ではありませんか。
盜んだ金は三百兩餘り、寺の燈とう籠ろうの中から平次が見付けました。その晩、お六の金をさらつた雪之助は自分の家へ持込むのが不用心と思つたので一と先づ枳から殼たち垣がき越しに、財布を隣の寺の境内に投げ込み、翌る日の朝行つて始末をし、金は燈籠に、財布は金五郎の家の裏に捨てたのです。
﹁驚いたね、親分。雪之助が何んだつてあんな氣になつたんでせう﹂
ガラツ八が斯んな事を訊いたのは、ズツと後のことでした。
﹁ブラブラ遊んで居るから、無暗に金が欲しかつたのさ。贅澤をするより外に能のうのない人間ほど恐しいものはないよ。――お前に雪之助の身持と、日本橋の店でも愛想を盡かしてゐることを訊出させたのは、そのためさ﹂
﹁萬七親分が乘出したのは﹂
﹁あれは雪之助の細工だ。三輪の兄哥はさう言はないが、あんまり早く手が廻り過ぎて變だと思つたよ。それから金五郎の裏口へ財布を捨てたりして、金五郎を無實の罪に追ひ込み、あとで頼たよりないお美乃をどうかしようといふ企たくらみだつたのさ。――俺が金五郎の家の裏に財布が捨ててあつたといふと、雪之助は空から財ざい布ふと言ひ直したらう。――あれは語るに落ちたのだよ﹂
﹁惡い野郎ですね﹂
﹁申分のない惡黨だよ。――ところで、眞砂町の喜三郎兄哥の祝しう言げんまでに、お前も袴はかまと羽織くらゐは拵へて置いちやどうだ﹂
﹁そこまでは屆きませんよ、親分﹂
﹁折せつ角かくお美乃が嫁入りするんだぜ、その扮なりで高砂やアでもあるめエ。――これで間に合はなきや、又何んとかするぜ﹂
平次はさう言ひ乍ら、珍しく脹ふくらんだ財布を八五郎の膝小僧の上にそつと載のせてやるのでした。