一
﹁困つたことがあるんだがな、八﹂ よく〳〵の事でせう、錢形平次は額に煙草を吸はせて、初秋のケチな庭を眺めるでもなく、ひどく屈くつ托たくして居るのです。 ﹁なんです、大たい概がいのことなら、あつしが引受けて埒らちを明けますよ、女出入りとか、借金の云ひ譯とか、いづれそんな事ぢやありませんか﹂ 日に一度づつはやつて來るガラツ八の八五郎、今日は新ニユ聞ース種のない手持無沙汰を、庭口から長んがい頤を覗かせて歸らうとすると、珍しく平次に呼び留められて、斯う屈托を聽かされたのです。 ﹁馬鹿だなア。女出入りは柄がらにないことだし、借金の云ひ譯なら、やり付けてゐるから立板に水だ、お前のローズ物の智慧なんか借りるものか﹂ ﹁へエ、あつしの智惠はローズ物ですかね﹂ ﹁不足らしい顏をするな﹂ ﹁それにしても、今日は風當りが強すぎやしませんか。額の八の字に、吸口の痕あとを付けて、一體何がそんなに親分を困らせるんで?﹂ 八五郎はさう言ひ乍ら、彼岸過ぎの陽の這ひ寄る縁側に、ドタリと腰をおろしました。 ﹁大きい聲ぢやいへねえが、――俺は町方の御用聞だ。大名や旗本屋敷へ行くほど嫌なことはねえのさ﹂ ﹁物を頼んだ上に威張るから、武家屋敷と聽いただけでもムヅムヅしますよ。こちとらは祿も扶ふ持ちも貰つてゐるわけぢやねえ、斷わつてしまひませうよ。親分﹂ 八五郎と來ると、平次に輪をかけた武家嫌ひでした。 ﹁ところが、ポンポン斷わるわけにも行かねえことがある。八丁堀の笹野の旦那が、御おみ南なみの御奉行所から折入つて御頼みを受け、板挾みになつて居られるのだよ﹂ ﹁へエ﹂ 八丁堀の笹野の旦那、即すなはち與力筆頭の笹野新三郎は、平次に取つては第一番の知ち己きでもあり、恩人でもあつたのです。 ﹁小こび日な向たの瀬尾淡路守樣、お前も知つて居るだらう。無役だが、三千五百石の大身でケチな大名ほどに暮して居る、其處の跡取で、金之進樣といふ二十二になる若殿が、昨夜お屋敷裏門外で、自分の刀で刺殺され、その上死骸を下水に叩込まれてゐるのを、今朝になつて町内の者が見付けて騷ぎ出し、あわてて死骸は取入れたが、見た者が二三十人もあるから、人の口に戸は立てられねえ。公儀の御屆は急病死でも濟まないことはあるめえが、是が非でも下手人を搜し出して、相手の身分次第の成敗をしなきや、三千五百石の面目が立たないことになるのだよ﹂ ﹁成程ね﹂ ﹁瀬尾淡路守樣は、南の御奉行樣とは御ごぢ眤つこ懇んだ。錢形とやら平次とやらに申付けて、下手人を搜し出して下さるやうにと頼まれて見ると、首を横に振るわけには行かねえ。役目の表にはないことだがと御奉行樣の口くち移うつしに、笹野樣から折入つてのお話があつたのだよ﹂ ﹁へツ、そいつは飛んだ面白い仕事かも知れませんよ。乘込んで行つて、三千五百石の大旗本の屋臺がガタピシするのを眺めるのも洒しや落れてゐるぢやありませんか﹂ 八五郎は飛んだ人の惡いことを言ひます。 ﹁馬鹿野郎、そんな氣で行つちや、間違ひの基もとだ。お前は留守番だよ﹂ 平次は決心が付いたものか、立上がつて支度を始めました。八五郎の穿うがつた皮肉が、妙に平次の責任感を煽あふつたのでせう。 ﹁親分、そいつは情けねえ、あつしも連れて行つて下さいよ。武家の惡口なんざ、忘れても言ふこつちやありません﹂ ﹁何んだ、氣が變つたのか。お前は此處で猫の蚤のみでも取つてゐりや宜いのに﹂ ﹁からかつちやいけませんよ﹂ 八五郎はまさに敗北でした。それでも平次の後についていそ〳〵と小日向に向ひます。二
美しく晴れた晝下がり、初秋の陽はまだ存分に暑いのを、置手拭で月さか代やきをかこつて、二人は小こび日な向たの瀬尾家に着きました。 裏門から入ると、門番の老おや爺ぢは心得て、 ﹁錢形の親分、さア、どうぞ。殿樣はことの外お待兼ねだ﹂ などと如才がありません。不斷なら木で鼻をくゝる奴だがと、八五郎は肩を聳そびやかせました。 ﹁ちよいと伺ひ度いが――御門番﹂ ﹁何んなりと﹂ 平次は門番の老爺の前に、愛想よく立ち止りました。 ﹁この御門は何なん刻どきに閉められる﹂ ﹁正戌いつ刻ゝ︵八時︶ぢや。表裏共それより後は、殿樣か御用人樣直々の御指圖がなければ開けてならないことになつて居る﹂ ﹁若殿樣の御指圖があれば?﹂ ﹁飛んでもない﹂ 門番の老爺は頑ぐわ固んこらしく首を振るのです。 恐らくそのやかましい門限も、放はう埒らつな若殿金之進の夜遊びを制裁するための定めだつたのかも知れません。 ﹁若殿が昨夜御出かけになつた刻限を御存じだらうな﹂ 平次はそれが訊き度かつたのです。 ﹁それが不思議でな、――有りやうは近頃殿樣直々のお指圖で、若殿樣を外へ御出ししない事になつて居たのぢや。昨日も一をと昨ゝ日ひも、その前の日も、若殿樣は表裏の門を一歩も外へ出られなかつたことは、我々首に賭かけて誓言しても宜い﹂ 老門番は頑固らしく首を振るのです。 その一歩も外へ出なかつた筈の若殿金之進は、何處から潜り出て、塀外で殺されたのでせう。 平次は默つて引下がる外はありませんでした。 其處から眞つ直ぐにお勝手へ行くと、其處には用人の平山平助といふのが、丁寧に出迎へて居ります。いかに丁寧なあしらひでも、三千五百石の大身の見識で、さすがに町方の御用聞を、玄關にも通し兼ねるのでせう。八五郎は少々慇いん懃ぎん無禮な用人の顏を眺めて、もう一度、肩を聳そびやかせました。 ﹁八、お前は外の樣子を念入りに見て來るが宜い。お屋敷の中は言ふ迄もなく、御近所の噂も出來るだけ掻き集めるんだ。頼むよ﹂ ﹁心得た、親分﹂ 八五郎はこの尤らしい用人に、一つ顎あごをしやくつて見せると、何處ともなく飛んでしまひました。尤もあの長んがい顎をしやくるのはガラツ八に取つては、最上の挨拶でもあつたのです。 ﹁これは〳〵錢形の親分。先づ、先づ﹂ などと言ふのを、 ﹁殿樣に御眼通りを願ふ前に、若樣の御遺骸を拜見し度いので﹂ 平次は一應の註文をつけました。 ﹁成程尤もなことで、どうぞ此方へ――﹂ 廊下を幾曲り、小大名の中屋敷ほどの豪勢な構への中を奧深く進んで、とある八疊の前に平次は案内されました。中には若い女が二人と中年の女が一人、まだ入棺も濟まぬ若殿金之進の死骸を挾んで、愚痴やら回ゑか向うやら、果しない悲歎に暮れてゐる樣子でした。 中年の女といふのは、當主瀬尾淡路守の奧方で、殺された金之進の母親時野で、四十二三のまだ色つぽさの殘る武家風らしくない女でした。微びせ賤んから引上げて、三千五百石の大身の奧方に直した昔の經いき緯さつは、一言の説明がなくともよくわかります。 二人の女の一人は養女のお豐で、これは遠縁の者。金之進の許いひ嫁なづけといふことになつて居りますが、骨と皮とで作られたやうな、非凡な不きりやうで、二十歳の若さで毛程の魅力も美しさもありません。 もう一人はお紋と言つて十八、これは世にも可愛らしい小間使でした。豐かな頬と、滑らかな眼と、香かぐはしい唇の曲線と、矢やが絣すりのお仕着せに包んだしなやかな四てあ肢しの線を見ただけで、平次は何やら秘密の一つの鍵がこの娘のすぐれた肉體の美しさに潜んでゐるやうな氣がしてならなかつたのです。 平次の顏を見ると、三人の女は忌いまはしい物でも避けるやうに、靜かに滑り出て、要領よく姿を隱してしまひました。 平次はそんな事は氣にも留めない樣子で、膝ゐ行ざり寄ると死體に掛けた晒さらし木綿を除とり、丁寧に拜んで、暫らくその顏を見詰めて居ります。 それは良い血統――と世間に思ひ誤あやまられてゐる、一番惡い血統を代表する顏でした。少し面長で、ノツペリした眼鼻立ち、彫きざみの深い世の所いは謂ゆる美男型に屬する顏です。 長い世代に亙わたる淫蕩な主人の好みで、下賤なお腹はら樣による遺傳――即すなはちノツペリした顏の道具と、遺傳梅毒と、そして不道徳で放縱な性格を紲せつ積せきして行つた、所謂名門なるものの子弟の、宿命的な性格の弱さと、徳性の缺陷とを、一番よく集めたテイピカルな顏が、此死骸――瀬尾金之進の顏だつたのです。 それは何代に亙る父系の懶らん惰だと不道徳と、母系の無智と淫蕩との蓄積であつたには違ひありませんが、世間並の評價から言へば、相當以上の美貌で、立派に――小日向業なり平ひら――で通る金之進でした。 その好い男の若い武家が、自分の刀で自分の首筋を突き拔けるほど、縫はれて、蟲のやうに殺されてゐるのです。 ﹁これを見付けられたのは?﹂ ﹁近所の衆多勢の騷ぐのを聽いて、御ござ宰いの喜助が、驚いて門の中へ飛び込みましたよ﹂ 平山平助はこの上もなく丁寧でした。 ﹁その喜助とやらは?﹂ ﹁中間部屋に居る筈だ。呼んで來ようかな﹂ ﹁いや、後で、皆んなにお目にかゝりませう、――若樣お身みな扮りは今朝のまゝでせうな﹂ ﹁下水の中で、ひどく汚れたので、取敢へず清らかなお召と替へたのだが――﹂ 喉笛の傷の凄まじさに似ず、羽二重の小袖に血潮の痕あともないのはその爲だつたのです。 ﹁若樣は昨夜、何處へ行かれたので?﹂ 平次の問ひは至極平凡ですが、用人平助に取つて、それは一番厄介な急所らしくもありました。 ﹁それが、その、何分お若いので﹂ 何分お若い金之進は、夜中にフラフラと遊びに出る癖などがあつたのでせう。 平次は若殿の首筋の傷をもう一度念入りに調べました。左側から眞つ直ぐに突つ込んだ刀が、見事に右の耳の下へ突き拔けたほどの傷で、これは掛け矢か何にかで叩き込まなければ、人間の手で付けられる傷ではありません。 ﹁若殿、御武藝のたしなみは?﹂ ﹁至極の手の内で御座るよ。一刀流の折紙で町人や下郎に害あやめられる方ではない﹂ その町人下郎に怨みを結んでゐるのでせう、平山平助は語るに落ちます。 それにしても、横から殆ほとんど水平に、自分の刀を自分の首へ叩込まれるのを、默つて受けて居る武藝のたしなみといふものはあるでせうか。平次はこの方程式のむづかしさに、思はず腕を組んだほどです。 若殿がその時帶びて居た兩刀は、拭ひをかけて別室に置いてありましたが、取寄せて見るといづれも相當の業わざ物もので、ことに長い方が血曇がひどく、脂あぶらが浮いたのも生々しい凄まじさです。 ﹁これは何處にありました﹂ ﹁門前の下水の縁へりに捨ててありました。尤も長刀の方は若殿の首に刺したまゝで﹂ 平山平助はさすがに聲を落します。 ﹁腰には確かに鞘さやもなかつたのでせうな﹂ ﹁曲くせ者ものが取つたのであらう、全くの丸腰であつたが――﹂ 武士としてはそれは自慢になる死にやうではありません。 だが、平次はこの男から突つ込んだ事を訊き出すのを諦あきらめました。頑固一徹らしい五十年配の御用人が、どう間違つたところで、主人の不利益なことを言つてくれさうもなかつたのです。 ﹁平山樣、――お屋敷の中を、勝手に歩いても構はないでせうな﹂ ﹁それはもう、平次親分﹂ ﹁何處の部屋へ飛び込んで、何をやらかしても、無禮とがめをしないといふお約束をして下さいませんか﹂ ﹁さア﹂ 平山平助は二の足を踏みました。それは用人の權限外のことのやうでもあります。 ﹁いけませんか、御用人﹂ ﹁それは殿樣にお目にかゝつて直々申上げては何うぢやな﹂ ﹁それをやつて居ると、今日中には埒らちがあきませんよ﹂ 清和源氏の嫡ちや々く〳〵の見識張つたのと掛け合つては、全く日が暮れさうです。三
平次は用人の平山平助の不滿らしいのを後に殘して、當てもなく廊下を踏んで居りました。この家に瀰びま漫んする異樣な空氣を嗅ぎわけるつもりだつたのです。 ﹁錢形――とやら﹂ ﹁――﹂ 女部屋の前へ行くと、そつと側へ寄つて來て囁く者があります。聲だけは惡くないアルトですが、顏は甚はなはだぞつとしない當家の養女で、死んだ金之進の許嫁のお豐でした。 ﹁親分、――お紋に氣をつけて下さい、あの人は若樣の御寵ちよ愛うあいを受けて居りました。そして、――當屋敷には、それを怨む者があつたのです﹂ ﹁それは?﹂ 平次に反問する隙も與へず、乾から鮭しやけのやうな娘のお豊は身を飜ひるがへして自分の部屋へ入つてしまひました。 ﹁?﹂ 平次は默つてそれを見送つて居りました。果して、容易ならぬ紛ごた糾〳〵が、好色と貪どん婪らんの渦を卷いて居さうです。 有合せの庭下駄を突つかけて、泉石の數す寄きを凝こらした庭に降りて行くと、突き當りは深い植込みがあつて、それをグルリと拔けると、不ふじ淨やう門が嚴重に黒板塀べいに切つてあります。 ﹁?﹂ 平次はもう一度首を傾かたむけました。 何處の屋敷でも、不淨門などはあまり出入りするものではなく、掛金も錠も錆さび付いて居るのが普通ですが、此處の不淨門の締りは通常に滑なめらかになつて居て、庭から通ひ路までが、よく踏み堅められて居るではありませんか。 若殿の金之進は、夜な〳〵此處から外へ出たのでなければ、誰かを引入れて居たことでせう。 念のために手を掛けて見ると、海老錠は嚴重におりて居て、鍵が無ければ開けられさうもありません。 ﹁御用人、此處の鍵は?﹂ 平次はうさんな鼻をヒクつかせ乍ら、それとはなしに跟ついて來た用人の平山平助を顧かへりみました。 ﹁この間から、それが紛失して、錺かざり屋へ頼んでは居るが、お屋敷方の用事となると、うるさがつて、容易には來てくれないのぢやよ﹂ 平山平助心得たことを言つて居ります。 ﹁それは不自由なことで﹂ ﹁いや、何とか早く申付けよう﹂ ﹁併しかし、御用人樣﹂ ﹁何んぢやな﹂ ﹁私がこの海老錠の鍵を見付けて差上げませうか﹂ ﹁ほう、親分がね?﹂ 平山平助の顏には、妙に輕けい蔑べつしきつた色が浮ぶのでした。 ﹁それから、不淨門の側、一間ほど南へ寄つた塀に、こんな泥の附いて居るのを御存じでせうな﹂ ﹁いや、一向氣が付かぬが﹂ ﹁下の草を踏み荒した上、塀には引つ掻きの跡まで着いて居ります﹂ ﹁?﹂ ﹁それより先に、さう〳〵鍵を搜すのだつた﹂ 平次は不淨門を背にして、グルリと一と廻り、四あた方りを見渡しました。 ﹁平次親分、手輕に言ふが、鍵はもう一と月半も前からないのだよ﹂ ﹁一と月半?﹂ ﹁左樣、丁度月見の晩――庭の燈とう籠ろうに灯を入れた時からだと思ふが――﹂ ﹁なんだ、この燈籠ぢやないか﹂ 平次は植込みの中をわけて、一基の雪見燈籠に近づくと、腰を屈めてその火屋の中に手を入れました。 その手に搜り出された鐵の丈夫な鍵が、石燈籠の蓋ふたに觸れてチヤリンと鳴ります。 ﹁何んだ、そんなところに?﹂ 平山平助は呆あつ氣けに取られて居ります。 ﹁その月見の晩に、何にか變つたことでもなかつたでせうか﹂ ﹁御町内から江戸川縁べりの娘達を集めて盆踊りの催もよほしがあつたよ。奧方の御望みでな――、踊り子には一人百疋づつの御祝儀が出た上大した御馳走でな――﹂ この酒好きらしい用人は、一と月半前の盛宴を思ひ出して舌した嘗なめずりなどをするのです。四
見付けた鍵で不淨門を開けて、外へ出ると、 ﹁親分、いろ〳〵の事がわかりましたよ﹂ 待ち構へたやうに八五郎が飛んで來るのです。 ﹁待て〳〵、お前の話を聽く前に、見定めて置き度いことがある﹂ 平次は不淨門の外を一とわたり見て歩きました。 ﹁おや、大變な血ぢやありませんか﹂ 八五郎は草くさ叢むらの中を指さします。それは丁度内側に塀を攀よぢ登つた路のあるあたりで、此處にも氣をつけて見ると塀に幾つかの引つ掻きがある上、塀の上へ屋敷の中から伸びた櫻の小枝が無殘に折られて、それが塀外に散らばつて居り、更に氣をつけて見ると、草叢の中は、ひどく人間が踏み荒して、柔かい土の上には、深くめり込んだ足跡や、尻餅をついた跡。それを點綴するやうに、凄まじい血潮が、草の大地を染めて飛び散つて居るのでした。 ﹁若殿は此處で殺されたのだよ﹂ ﹁へエ、そんなら、何んだつて、死骸を表門前へ運んで、下水の中なんかに投り込んで置いたのでせう﹂ ﹁それはわけのある事だらう。多分多勢の人に見せて、死しに耻はぢを掻かせるつもりでやつたことだと思ふが――﹂ ﹁ひどい事をしますね﹂ 何が何んであらうと、死骸を冒ばう涜とくすることは、八五郎にも苦々しい限りです。 ﹁ところでお前の方は何うだ﹂ 平次は表の方へ廻り乍ら、話題を變へました。後ろからはもう、跟ついて來る用人平助の姿もありません。 ﹁散々の評判ですよ。若殿だか馬鹿殿だか知らないが、ありや色氣違ひの陰かげ間ま野郎ですね﹂ ﹁恐しく評判が惡いな﹂ ﹁ちよいとノツペリして居るのと、三千五百石の旗本の跡取といふのを餌にして、若い女の撫で斬りですよ。世間の女はまた何んだつて、あんなお平ひらの長なが芋いもが良いんでせう﹂ ﹁腹を立てるなよ八。そのうちに八五郎さんのやうな人でなくちや――と言つた、女杢もく阿あ彌みが飛び出さないまでもあるまい﹂ 八五郎がポンポンすると、時々平次のチヤリが入ります。二人の掛け合ひは何時でも斯うでした。 ﹁先づ許嫁のお豐といふのは、親類の娘で義理はあるが大の不きりやうだ﹂ ﹁それは俺も見た﹂ ﹁お小間使のお紋といふポチヤポチヤしたのを手籠にして、大騷動をしたといふことだが、金で話をつけてこれも何うやら納まつた。納まらねえのは、あの味噌摺用人の伜の平山平三郎といふニキビの化物――お紋を追ひ廻して、すつかり逆のぼ上せて居たのが、お主の伜が一と足先へチヨツカイを出して、今では庵室の清せい玄げん見たいになつて居ますぜ﹂ ﹁フーム﹂ ﹁金之進はそれだけぢや我慢しねえ。先月の月見の晩、奧方――この奧方がまた何處の化猫だかわからねえが――その奧方の思ひ付で、町内の若い娘を集めて、お庭で盆踊りをやらかした﹂ ﹁それも聽いたよ﹂ ﹁その中に江戸川の煎せん餅べい屋の娘で、お百合といふ可愛らしいのが居たことまでは、親分の探索も屆かなかつたでせうね﹂ ﹁その通りだ、若い女の子の噂となると、とても八には叶はないよ﹂ ﹁馬鹿殿樣がお百合に夢中で、深草の少將をきめて居たんださうで、最初のうちはお百合も相手にしなかつたが、相手の臆おく面めんもないのに釣られた上、貧乏疲れのした町人の悲しさで、母親が先づ三千五百石に惚れ込んだ﹂ ﹁――﹂ ﹁近頃ぢや親がすゝめるやうにして、馬鹿殿樣の間拔けな合圖があると、娘を外へ出してやるんだといふから腹が立つぢやありませんか、親分﹂ ﹁俺へ喰つてかゝつても仕樣があるめえ。口く惜やしかつたらお前も三千五百石の旗本の家に生れて來ることだな﹂ ﹁チエツ、御免蒙かうむりませうよ、――あの娘こが言ひましたよ、八さんのその氣つぷに惚れた――とね﹂ ﹁間拔けだなア、そこで話の筋を早く通してくれ。合の手が多過ぎるぜ﹂ ﹁その煎餅屋の娘にはまた、凄い荒神樣が附いて居るんで、關口の鎌六と言や、まだ年は若けえが、山の手きつての良い顏だ﹂ ﹁まさか、その關口の鎌六が下手人らしいといふわけぢやあるまいな、八﹂ ﹁あれが怪しくなかつた日にや、外に怪しい者なんかありやしませんよ。毎日毎晩匕あひ首くちを懷ろに忍ばせて、相手は三千五百石だらうが百萬石だらうが、戀の怨みに隔へだてはねえ、出逢ひ次第土手つ腹へ風穴をあけるんだつて――言つて居たさうで﹂ ﹁待つてくれ、若殿の傷は匕首でも出刄庖丁でもないよ。間違ひもなく自分の刀でやられて居るんだ。それも長いのを首筋へ突き拔けるほど刺されて居るぜ。匕首ぢやあんな事が出來るものか﹂ ﹁?﹂ ﹁それによ、刀は横へ眞つ直ぐに刺してあるんだ。眼をつぶつて居るところを、掛矢か何んかで叩込む外に、あんな藝當は出來ないよ﹂ ﹁驚きましたね、どうも。關口の鎌六でなきや用人の伜の平三郎はどうです﹂ ﹁同じことだよ﹂ ﹁平三郎は近頃半病人のやうだと言ひますよ。戀に眼が昏くらんぢや、主從も絲へち瓜まもなくなるわけでせう。その上二人は顏と顏が合つても、口を利かないほど仲が惡いさうで﹂ ﹁仲が惡い?﹂ ﹁まるで敵同士ですよ﹂ ﹁若殿と仲の好いのは誰だ﹂ ﹁御ごさ宰いの喜助といふ男で、こいつは小間使のお紋の兄で昔は小間物屋だつたさうですが、足を惡くして高荷を背負つて歩けなくなり、妹のお紋の縁で瀬尾家に住込み、下男もやれば草ざう履り取りもやる、暇なときは奧の買物を頼まれて、御宰籠を背負つて下町まで買物に出かけるさうですよ﹂ ﹁お前は關口の鎌六や、用人の伜に逢つて見たか﹂ ﹁まだ鎌六には逢つちや居ません。おや、向うから來るのは喜助ぢやありませんか。お紋の兄の、跛びつ者この喜助で、相變らず何處かへ買出に行くんでせう﹂五
跛足と言つても大した事ではありませんが、二十七八のまだ若い男で、こんな仕事をさせて置くのは勿體ないやうな小意氣な男でした。 ﹁喜助﹂ ﹁へエ、へエ、御苦勞樣で﹂ 萬まん筋すぢの野暮な袷あはせを高々と端折つて、淺あさ葱ぎの股引に素すわ草ら鞋ぢを穿はいた喜助は、存分に不景氣な身みな扮りのくせに、ちよいと好い男振りでもありました。背中に背負つた御宰籠――これは大家の奧女中達が、一から十までの買物、誂あつらへ物、菓子から反物から、草双紙から、如何はしい物までも持込ませる道具だつたのです。 ﹁お前は何時から此處に奉公してゐるんだ﹂ ﹁丁度一年になります﹂ ﹁若殿とは大そう仲が良かつたやうだな﹂ ﹁飛んでもない、そんな事を申しては勿體ないことで――いろ〳〵お目を掛けて頂きました。へエ﹂ ﹁妹のお紋さんは、何時から奉公して居るんだ﹂ ﹁これは二年半になります、――生れは傳通院前で、へエ。もとは相當に暮した呉服屋ですが、兩親が亡くなつて今では歸る家も御座いません﹂ ﹁その店の名は何んと言つた﹂ ﹁上かず總さ屋やでございます﹂ ﹁ところで、これから何處へ行くのだ﹂ ﹁いろ〳〵買物を申付けられました。音羽まで參りますが﹂ ﹁奧へは俺が申上げよう、――暫らく外へ出ないやうにしてくれ﹂ ﹁へエ、私もその方が勝手で、では御宰籠を御門番へ預けて參ります﹂ 喜助は背負つて居た御宰籠を下ろすと、門番に頼んで、その小屋の隅の方に片寄せました。 それを見定めると、平次と八五郎は江戸川へ降りて煎せん餅べい屋を訪ねました。川岸縁に建つた危なつかしい店で、煎餅と駄菓子の外に、夏は心とこ天ろてんも並べ、目自街道の馬子衆や、雜司ヶ谷詣りの善女人を相手に、細々と暮して居る樣子でした。が、店の不景氣さに似ず、娘お百合の可愛らしさは非凡でした。瀬尾家のお小間使のお紋よりは一つ二つ年が上らしく、貧苦に鍛錬されて、飛んだお世辭者ですが、平次と八五郎がお上の御用を承うけたまはる者と聽いてさすがに受け應への口が重くなります。 ﹁瀬尾樣の若樣は、毎晩のやうに入らつしやいます、――口笛を吹いて合圖をなすつて、私は外へ出ると、この下に繋つないである船の中で、お逢ひしました﹂ これだけの事を言はせるのに平次はどんなに骨を折つた事でせう。時々八五郎が助太刀してくれなかつたら、平次は何んにも訊かずに引揚げたかもわかりません。 ﹁若樣は一人で來られるのか﹂ ﹁いえ、毎晩お供があつた樣子です。私には顏も見せませんでしたが、關口の鎌六さんがうるさいので、岸の上から見張つて居る樣子でした﹂ ﹁それはどんな男だ﹂ ﹁少し足の惡い――﹂ 平次と八五郎は顏を見合せました。言ふ迄もなくそれは、瀬尾家の御宰の喜助でなければなりません。 ﹁親分、矢つ張り鎌六ぢやありませんか。行つてしよつ引いて來ませうか﹂ 八五郎が驅け出しさうにするのを平次は押へました。 ﹁鎌六が金之進の刀を奪ひ取つて、首筋に突き拔けるほど刺すうち、瀬尾の若殿はぢつとして居るだらうか﹂ ﹁さう言へばさうですが――﹂ ﹁それよりお前は一と走り傳通院前へ行つてくれ﹂ ﹁へエ﹂ ﹁三年前まで繁昌した上總屋の跡がどうなつたか聽きたい。それから伜の喜助のこと、娘のお紋のことなど﹂ ﹁わけはありません、ほんの半刻で行つて來ますよ﹂ ﹁では頼むよ、俺は門番の小屋の中で待つて居る。あゝそれから、お葬とむらひの支度は明日といふことにして、今日一日裏門と不淨門から人を出さないやうに頼んでくれ﹂ ﹁へエ﹂ 平次が門番の老爺と火鉢を挾んで坐り込むのを見ると、八五郎は早くも飛んで行きました。六
﹁親分、一刻とはかゝらなかつたでせう﹂
八五郎が歸つたのは、それでももう秋の陽の落ちかけた頃でした。
﹁よし〳〵、歩き乍ら聽かう﹂
平次は門番小屋を出ると、庭の小砂利を踏んで八五郎と並びます。
﹁まづ第一に――﹂
﹁俺に言はせてくれよ、八﹂
﹁へエ﹂
﹁喜助の言つたのは皆んな本當だらう。上總屋は三年前に沒落して、兄の喜助は背負ひ小間物屋になり、妹のお紋は十五で小日向の瀬尾家に奉公に出た――と﹂
﹁その通りですよ、それから﹂
﹁お紋と喜助とは兄妹といふことになつて居るが、實は全く他人だらう。喜助は養子かな、それとも手代かな、良い男ではあるが、お紋と少しも似て居ない﹂
﹁へエ、天眼通ですね﹂
﹁二十七の若い者が、少しばかり足が惡いにしても、旗本屋敷へ御宰に入り込むなどといふのは、外に目めあ的てがなきや嘘だ。御宰などといふものは、年寄か何んかで、世の中の廢すたり者のすることだ﹂
﹁――﹂
﹁あれは蔭かげ乍ながらお紋を見張つて居たかつたのだな、そのお紋が馬鹿殿に手籠にされた﹂
﹁――﹂
﹁喜助へさう言つてくれ、もう何處へ行つても構はないとな。それから次第によつては、妹のお紋も一緒に行つても宜からうとな﹂
﹁へエ、そんな事を言つても構ひませんか﹂
﹁宜いとも、俺が引受けるよ﹂
平次はポンと胸などを叩いて見せるのです。
× × ×
それから間もなく、門番のところに預けてあつた御宰籠を背負つた喜助は、妹のお紋の手を取るやうに、瀬尾家の門を出て、薄暮の中に消えて行きました。
﹁あの御宰籠の中には、血だらけになつた袷あはせが入つて居るのだよ﹂
平次はそれを指さして、八五郎に囁くのです。
﹁それぢや親分﹂
飛び出さうとする八五郎。
﹁放つて置け。俺達は町方の御用聞だ﹂
﹁へエ﹂
﹁若殿の金之進は、鎌かま鼬いたちにやられたことにして置けば宜いのだ﹂
﹁矢つ張り喜助が下手人だつたんですか親分?﹂
﹁喜助は煮えくり返る腹の蟲を押へて、若殿の放埒の相手になつて居たのだよ。不淨門から出るのを手傳つたのは喜助だ。昨夜若殿がお百合と逢引して居る間にソツと此處へ歸つて來て、不淨門を内から締めてしまひ、自分は塀を越して外へ飛出し、もとの江戸川へ行つたのだ﹂
﹁へエ﹂
﹁いざ歸らうとなつて不淨門へ來たが、門は内から締めたから開かない。そこで喜助は自分の身體を踏ふみ臺だいにして金之進に塀を乘越すやうにすゝめた。兩刀は邪魔だからあとで塀の上から渡してやることにして喜助が預かり、金之進が背中に乘つて塀を越さうとした時、そつと長い刀を拔いて、パツと身體を引いた。上に乘つて居た金之進が一とたまりもなく、もんどり打つて落ちるところを、喜助は下からひと思ひに突き上げたのだ﹂
﹁――﹂
﹁掛かけ矢やで叩き込んだやうに、刀が首筋を突拔けたのはその爲だ。金之進は武藝の心得は相當にあつたらしいが、落ちる所を下から突き上げられてはひとたまりもあるものぢやない﹂
﹁成程ね、ところで喜助とお紋はどうなるでせう﹂
﹁俺の知つたことか、二人は遠い他國へ行つて一緒に暮すだらうよ、――俺はこんな殺しに掛り合ひ度くない。早く歸つて景氣づけに一本つけさせようぜ﹂
平次は氣樂さうに家路へ急ぎました。