一
﹁親分、變な野郎が來ましたぜ﹂ ガラツ八の八五郎、横つ飛びに路地を突つきつて、庭口から洗せん濯たく物をかきわけながら、バアと縁側へ顏を出しました。神田明神下の錢形平次の住居、秋の朝陽が長々と這ひ上がつて、簡素な調度を照らして居ります。 ﹁何處へ何が來たんだ。相變らず騷々しいなお前は﹂ 平次はとぐろをほぐして、面白さうなこの注進を迎へました。 ﹁二りや本ん差こが二人、肥つたのと、痩やせたのが、角の酒屋で訊いて居ましたよ――高名なる錢形平次殿の御屋敷は、この邊ではないか――とね、お屋敷は嬉しいぢやありませんか﹂ ペロリと舌を出して、所いは謂ゆる平次殿のお屋敷中を一と眼に見渡す八五郎です。 お靜の手が屆くので、何處から何處まで嘗なめたやうに綺麗ですが、座布團二枚、長火鉢が一つ、鐵てつ瓶びんと茶道具と、そして、そして――、それつきりと言つた、簡素そのものの小市民生活です。 ﹁お城と言はないのが見付けものさ、――いづれお家いへの重寶友とも切きり丸まるかなんか紛失して、易えき者しやの代りに俺のところへ來ると言つた寸法だらうよ﹂ そんな話をして居るところへ、 ﹁頼まう﹂ などと、權柄らしい聲が聞えて來ました。 さて、女房のお靜に取次がせて、たつた一間きりの六疊に通されたのは、八五郎が前觸れをした通り、肥つた中老人と、痩せた若い武家の二人。 ﹁拙者は指ヶ谷町に住居いたす、御ごれ簾んち中ゆう樣御用人島五六郎樣用人川前市助と申すもの、主人名代として罷まかり越しました﹂ ﹁拙者は富坂町に住んでゐる千ちも本と金之丞と申す者﹂ それは痩せた若い方でした。二人は名乘りをあげて、眞四角にお辭儀をするのです。岡つ引風情に斯かう丁寧な挨拶をするのは、いづれ退のつ引ぴきならぬ頼みがあつてのことでせう。 錢形平次は膝つ小僧を揃へて、相手の出やうを待つ外はありません。 ﹁外ではないが、平次殿。折入つての願ひがあつて、我々兩名わざ〳〵參つたが、何んと聽いてはくれまいか﹂ 川前市助が先に口をきりました。よく肥つて、脂ぎつて、鼻が大おほ胡あぐ坐らをかいてゐる五十二三の眞つ黒な男ですが、調子が卑ひげ下ま慢んで、妙に拔け目がなささうで、申分なく用人摺れがして居さうです。 尤もつとも主人の島五六郎は、大奧の利け者で、祿高三百石、役高五百石、合せて八百石に過ぎませんが、權勢は遙かに數千石取の大身を凌りよ駕うがし、用人風情の川前市助までが、同行の御家人、少々人間が甘さうではあるが、五十石取の千本金之丞を頤あごで使ひまくりさうにするのでした。 ﹁――﹂ 平次は默つて控へました。用件も言はずに強引に引受けさせようと言つた、この味噌摺用人の權柄らしさが氣に入らなかつたのです。 ﹁實は、他聞を憚はゞかるのだが――﹂ 川前市助、部屋の隅に引つ込んでゐる八五郎の長んがい顏を、横眼でジロジロと嘗なめ廻し乍ら、きり出し兼ねる樣子です。 ﹁その野郎なら御心配なく、――節ふし穴あな見たいなものを二つ持つて居ますが、何を聽いたつて、人に漏らす氣遣ひはございません﹂ ﹁容易ならぬ大事だが﹂ ﹁それぢや何んにも仰しやらずに、お歸りを願ふ外はございません。お勝手には女房が居りますし、少し大きい聲を出せば、向う三軒兩隣りへ聞えるやうな、淺間な住居でございます﹂ ﹁それに入口には酒屋の白し犬ろが聽耳を立てて寢そべつて居りますよ﹂ 八五郎はまた餘計な口を出したのです。自分を邪魔扱ひにされたのが小癪にさはつたのでせう。 ﹁默つて居ろ。その調子だから、人樣はお前の顏を見ると要心するぢやないか﹂ ﹁へエ﹂ ﹁こんな野郎でございます。どうぞ御心配なく﹂ ﹁左樣か、では申上げるが、他言は堅く無用に願ひ度い――實は小石川傳通院大だい修しゆ覆うふくのため、御大奧から千兩の寄進があり、それに添へて御簾中樣御奉納の調度品の數々、御おす墨みつ附き一通と共に、明後九月九日に御名代の御參拜と共に傳通院まで持參することに相成り、拙者主人島五六郎殿は、御役目柄千兩の金子と御奉納の品々を御預かり申上げたのだが、指さしヶ谷や町では如何にも足場が惡く、幸ひ御廣敷添番衆千本金之丞殿の御住居が、傳通院の近所にあるので、暫らく其處に御預けして、九月九日を待つことに相成つた――﹂ ﹁?﹂ 平次は默つてその先を促うながしました。 ﹁――二臺の吊つり臺だいで富坂町の千本殿御住居に持込んだのは三日前、何分身にも世にも換へ難い大事の品ではあり、一刻も目を離すわけに行かないので、主人名代として拙者が詰めかけ、千本殿共々、寸すん毫がうの油斷もなく守護いたしたが、――一昨夜いや昨日の曉方と申した方が宜い、あらうことか千兩の大金と共に御奉納品の品々、御墨附まで烟けむりの如く消え失せてしまつたのぢや﹂ ﹁千兩の金は、償つぐなふ道もあるが、御簾中樣の御鏡、郷がう義のよ弘しひろの御懷劍、後生を願つて斷たれた、一と握りの御髻もとゞり、それに御墨附などは、代りの品があるべき筈もなく、明後日御局衆の代參までに間に合はなければ、拙者主人島五六郎樣始め、拙者までも腹でも切らなければ相成るまい。千本殿は表向き御役目を承はつたわけではないが、これとても重き御とがめは免まぬかれない﹂ ﹁――﹂ ﹁昨日一日必死の探索をいたしたが、誰の仕業ともわからず、何處へ持去られたものか手てが懸かりもない、――恥を忍んでお願ひに參つたのは斯ういふわけだ﹂ ﹁――﹂ ﹁當今江戸中で名の高い平次殿、――斯かうなつては最早、貴殿の智慧に縋すがる外はない此通りだ、平次殿。拙者主從を助けると思つて乘出しては下さらぬか﹂ 用人川前市助は、その高慢な殼からをかなぐり捨ててゝ、疊の上に兩手を落すのです。千本金之丞も、それに誘はれて、膝に置いた手を、不器用らしく滑らせました。二
﹁出かけるんですか、親分﹂ 路地の外へ立去る二人の武家の後ろ姿を見送つて、ガラツ八の鼻はキナ臭く蠢うごめきます。 ﹁折角の頼みだ、兎も角行つて見ようよ﹂ ﹁へツ、あの高慢な面を見ると、小癪にさはるぢやありませんか、放つて置きませうよ。千兩箱なんか何處かの蜘く蛛もの巣に引つ掛つて居ますよ﹂ 斯んなことを言ふ八五郎です。 ﹁馬鹿、何んといふ事を言ふんだ﹂ ﹁へエ﹂ ﹁武家の内輪事に首を突つ込むのは嫌だが、放つて置くと請うけ合あひ二三人腹を切らされるよ﹂ ﹁腹なんか切りつけて居ますよ。あの手合は﹂ ﹁止さないか八。いくら權柄面が癪にさはつても、見す〳〵二人三人の人を殺すわけには行かない。お前も來るが宜い、久し振りの寶搜しだ﹂ 平次はそんな風に考へて居るのでした。 不服らしい八五郎と一緒に、富坂町の千ちも本と邸へ着いたのは最早晝過ぎ、五十石の小身ですが、御廣敷添番衆といふ、兎も角百石の役高が附いて居るので、家屋も小綺麗に寺町の林の中は、まことに別天地の感じです。 ﹁成程、この邊は惡くありませんね。水戸樣と傳通院の末寺に挾はさまれて居るから、木が大きくて薄暗いが、その代り隣りの夫婦喧嘩も滅多に聞えねえ﹂ 相變らず八五郎は太平樂でした。 遠慮してお勝手から訪れると、小女に取次がせて、 ﹁錢形の親分で? 表へ行つて下されば宜いのに――﹂ と、如才なく迎へてくれたのは、二十四五のこれは拔群の美しい内ない儀ぎでした。色白なのが青い袷あはせとよく似合つて、眉の跡が公く卿げ衆のやうに霞んで見えるのも、何んとなく氣高い感じがします。 總體にお人形のやうに整つた顏は、少し險けはしげではありますが、打ち解けた優しい言葉遣ひと共に、八五郎をタジタジとさせるには充分でした。 續いて主人の千本金之丞が出て來て、手を取らぬばかりに二人を案内しました。小旗本や御家人の屋敷に共通の、天井の低い、窓の小さい、間數の多い家で、狹い廊下を曲りくねつて奧へ通されると、其の行き止りの八疊に、三十二三の立派な武家と、先刻平次のところに訪ねて來た、用人の川前市助が、空からつぽの床の間を睨んで、むづかしい顏をして相對して居るのでした。 ﹁平次が參りました﹂ 千本金之丞が披露をすると、 ﹁左樣か、それは御苦勞であつた﹂ 客の武家は輕く頤あごをしやくりました。申す迄もなく御簾中樣用人島五六郎、長身白はく皙せきで、鼻の高い、唇の赤い美男子。主人千本金之丞の貧乏臭くヒヨロ長く、聊いさゝかキヨトンとしたのと比べては、大變な違ひです。 ﹁飛んだ御災難で﹂ ﹁察してくれるか、平次。千兩の金はどうにでもなるが、御簾中樣が心をこめられた御奉納の品々と、御墨附は取返しがつかない。あれが無くてはこの島五六郎腹を切つても追ひつかぬところだ﹂ 島五六郎は眉を垂たれて、立派な顏を曇らせるのです。 ﹁前後のこと、詳くはしく承り度いと存じますが――﹂ 平次の問につれて、島五六郎と、用人の川前市助は、もう一度事件の起つた前後の事情を説明してくれるのでした。 それによれば、千兩箱一つと、奉納の品々はそれ〴〵三方に載せて吊つり臺だいに納め、島五六郎自身前驅を承はり、千本金之丞は後衞として、半藏門を立ち出で、足輕十騎を從へて、富坂町の此處へ落着いたのは三日前の夕刻、警護を緩ゆるめたわけではないが、足輕はそれ〴〵引取らせて、島、千本兩士の外に、用人川前市助、若黨丑松、それに町役人の誰れ彼れも協力して、おさ〳〵守備に怠りはなかつたと言ふのです。 一をと昨ゝ日ひの晩は、内儀の心盡しで犒ねぎらひの酒が出て、島五六郎はほろ醉機嫌で宵のうちに指ヶ谷町の自宅に歸つたが、後には用人川前市助が殘つて、主人千本金之丞と共に、床の間に据ゑた品々を、夜つぴて嚴重に見張つて居たといふのでした。 が、嚴重に見張つて居たと言つても、二た晩も不眠の番が續いては、さすがに疲れないわけにはゆきません。曉方二人とも、ツイ、トロトロとなつて、 ﹁ハツと氣が附いて四あた方りを見ると、床の間の左右に据ゑた燭しよ臺くだいの百目蝋らふ燭そくが、二本共消えて居た。雨戸の隙間からは、朝の薄い光が射し込んで居る。もとより何事もある筈はないと思つたので、拙者はその儘手てう水ずに立ち、千本殿は御自分で縁側へ出て雨戸を開け、二人一緒に部屋の中へ立歸ると、床の間は空つぽになつて居たのだ﹂ ﹁隣りの部屋には?﹂ ﹁島家の若黨の丑松と、隣りの酒屋、森川屋の伜又吉が、大きな眼を見張つて居たと申して居る﹂ 川前市助は斯かう言ひきります。 ﹁お屋敷の外は?﹂ ﹁町役人が鳶とびの者を指圖して、嚴重に固めて居る。蟻ありの這ひ出る隙間もなかつた筈だ﹂ 川前市助の言葉には、自信が滿ち充ちて居ります。三
それから丸一日、井戸から床下まで調べ拔いたが、千兩箱も奉納の品々も何處からも出て來なかつたのです。 ﹁念のためにお訊きしますが、二つの燭臺の蝋燭は、燃え盡きて居ましたか、それとも吹き消されて居たでせうか﹂ 平次は妙なことに氣を配りました。 ﹁風もないのに、消えて居たやうに思ふが。喃のう、千本殿﹂ ﹁左樣﹂ 千本金之丞あわてたやうに合あひ槌づちを打つのでした。役高を併あはせて百五十石取の武家にしては、影が薄くて、卑屈で、島家の用人風情に引廻されて居る腑ふ甲が斐ひなさを、事毎に平次は見せつけられます。 ﹁失禮ですがお二人共お酒はよく召上がることでせうな﹂ ﹁いや、千本殿は見かけに寄らぬ大酒だが、私は身體に似氣なく生しや得うとくの下げ戸こで、ほんの猪ちよ口こで二三杯といふところだ、――尤も眠氣を拂ふために、夜つぴて濃い茶を呑んで居た﹂ これも川前市助の答へです。 ﹁酒には何んにも入つて居たわけではない。宵に一獻こん傾かたむけて歸つた拙者に何んの障さはりもなかつたのだから――﹂ 島五六郎は口を容れました。 錢形平次は尚ほも見廻しましたが、床の間には空つぽの三方が三つ四つ並んで居るだけ、天井から床下まで調べたといふ場所に、何んにも隱されて居る筈もありません。 隣りの部屋を覗いて見ましたが、其處にも何んの變つたことがある筈もなく、念のため、その晩隣りの部屋に居たといふ島家の若わか黨たうの丑松と、隣の伜又吉といふのを呼んで、人眼の少ない縁側に相對しました。 ﹁何にか氣の附いたことはなかつたのか﹂ と訊くと、三十二三の威勢の良い若黨丑松は、 ﹁氣が附いたことがあれば、親分に手數を掛けるまでもなく、この俺が千兩箱を搜し出して、褒美にありつくところだが――﹂ と太ふて々〴〵しいことを言ふのです。 ﹁寢ないのが、二た晩續いて蕊しんが疲れましたよ﹂ 隣りの伜の又吉は、白い額を叩くのでした。二十五六でせうか、少し粗野ではあるが、精力的な好い男振りです。 ﹁戸締りに變つたところはなかつたのか﹂ ﹁あるわけはないよ。奧の八疊の縁側は主人の千ちも本とさんが開けたし、此處には俺達二人頑張つて居るから、お勝手へも表へも通れないことになつて居る﹂ 丑松は牡ぼた丹もち餅ば判んを捺おすのです。が併しかし、その鐵桶の如き奧の八疊から、千兩箱一つと外にいろいろの大事な品が無くなつたのはどうしたことでせう。 他に千本家の者といふと、お信といふ十八になる下女が一人と、先さつ刻き平次を案内してくれた、お浪といふ美しい内儀だけ、この二人は奧の間を避けて、お勝手に近い部屋に休んで居たので、何んにも知る筈はなく、お信の方は唯おど〳〵するだけ、内儀のお浪は、 ﹁私は何んにも存じません。まことに困つたことで﹂ と打ち萎しをれるだけのことです。 ﹁親分、この邊は高臺で井戸は飛んだ深いやうですね﹂ ﹁梯はし子ごをおろして提灯を下げて調べた樣子だ。どんなに深くたつて、千兩箱を一つ隱せるものぢやない﹂ さう言へばそれまでの事です。 それから、家の内外を、もう一度念入りな調べが始まりました。八五郎と丑松と又吉の三人は、縁の下へ潜もぐり、天井裏を這ひ廻り、それから、庭石を引つくり返したり、井戸へ灯あかりを下げたり、實に徹底的な家搜しをやりましたが、夕刻になるまで、遂つゐに何んの得るところもなかつたのです。 夕の膳には、美しい内儀お浪の心盡しで、一本づつ附きました。奧の方は島五六郎と主人の千本金之丞、次の間では川前市助、お勝手では錢形平次と八五郎、若黨の丑松に隣りの伜又吉、それぞれほぐれない心持で、兎も角も犒ねぎらひの杯を重ねたのでした。 ﹁なア、御主人。錢形とか平次とか言つて、當今大した評判だが、見ると聞くとは大きな違ひ、半日煤すゝ拂はらひほどの騷ぎをして、一枚の小判も見附けられないとは何んとしたことだ。あれでは日當の拂ひやうが無いでは御座らぬか。まことに笑止千萬で﹂ カラカラと笑ふのは、大分醉ひが廻つたらしい、客の島五六郎でした。それに對して主人の千本金之丞は、何やらゴトゴトと合あひ槌づちを打つて居る樣子、此處までは聽えません。 ﹁親分﹂ 八五郎は早くもそれを小耳に挾みました。 ﹁宜いよ、何んとでも言はして置け﹂ 平次は別に取合はうともしません。 ﹁喃、千ちも本と氏、町方の御用聞などといふものは先づあんなもので御座らうな。あんなことでは、御膝元の靜せい謐ひつは心もとないが、江戸の町人は人が良いから無事に濟むわけで――﹂ 島五六郎の放言は尚ほも續きます。あのお平ひらの長なが芋いものやうな、好い男の八百石取が、あんな下げ司すな雜言を吐かうとは、平次も豫想外だつたでせう。 ﹁八、俺の惡口を言ふのは構はねえが、町方一統の惡口は聽き捨てになるまいな﹂ ﹁さうですよ、親分﹂ ﹁今までは、少し甘く見て居たのだ。無くなつた品が、確かに外へ持出されないと判れば人間の手で隱したものを搜し出せない筈はあるまい﹂ ﹁何處へ行くんです親分﹂ ﹁此處にある筈で、見當らないものが、もう一つあることにはお前は氣が附かなかつたか﹂ ﹁へエ?﹂ ﹁千兩箱といろ〳〵の有難い物を積んで來た吊臺は二臺あつた筈だ。それを何處へやつたか訊いて來い。九月九日に、そんな勿體ない品物を、お手車で傳通院へ持込む筈はないし、その邊の飛ひき脚やく屋の小汚い吊臺では間に合はない筈だ﹂ ﹁それなら解つて居る。吊臺は邪魔になるから、――と言つて外へ置くわけにも行かず、お隣りの酒屋、森川屋の離はな屋れに預けてある筈だ﹂ 若黨の丑松が口を容れます。 ﹁其處だ。八、來い﹂ 平次は立上がります。庭へ降りると、さゝやかな植込を廻つて、黒板塀に三尺の切戸があり、其處は輪鍵が掛つて居りますが、外はづして外へ出ると、鼻の先が森川屋の離はな屋れで、まだ雨戸を締めもやらぬ座敷の上に、物々しくも二つの吊臺が、油ゆた單んを掛けたまゝ並んで居るのでした。 ﹁八、皆んな呼んで來るが宜い。この吊臺の中に無かつたら――武士なら腹を切るところだが、俺はそんな痛いことが嫌ひだから、せめて髭まげでも切つてお詫をしようぢやないか﹂ ﹁大丈夫ですか、親分﹂ 八五郎は愚ぐ圖づ々々して居りました。が、飛んで行くまでもなくこの騷ぎを聞き附けたものか、島五六郎と川前市助が、主人の千本金之丞に案内させて、うさんな顏を此方へ持つて來たのです。 ﹁平次、大層威張つた口を利いた樣だが、千兩箱が見附かつたといふのか﹂ 島五六郎はよろりとして離屋の柱につかまりました。 ﹁へエ、外へ持出さなきや此處より外に隱す場所はありません。もとの吊臺へ逆ぎや戻くもどりなどは、成程曲者は智慧者ですね﹂ ﹁?﹂ ﹁この通り﹂ 平次は手前の吊臺の油單を剥ぎましたが、それは空からつぽで何んにもありません。 ﹁成程﹂ 島五六郎はフフンと鼻を鳴らしました。 ﹁もう一つ﹂ 奧の吊臺の油單が剥がれました。其處には何んと姿を隱した千兩箱が、そのまゝチヨコナンと据ゑられて、對も切らずにあるではありませんか。 ﹁あツ、有つた﹂ 島五六郎、川前市助の二人は、身分も恥はぢも忘れて飛び附きました。それを冷やかに見た平次は、 ﹁それぢや、あつしはこれでお暇を頂きます。日當には及びませんが、これだけのことを申上げて置きませう。あとの品々は、いづれこの近所に隱されて居ることでせう。明あさ後つ日てまでは一日半も暇のあることですから、ゆる〳〵お搜しになりますやうに。ハイ左樣なら﹂ ﹁親分、臺せり詞ふはそれつきりかえ、癪しやくにさはるぢやないか﹂ 酒屋の表口へ悠々と拔ける平次の後ろから、八五郎はブリブリしながら跟ついて行きます。四
翌る日の朝、あの卑ひげ下ま慢んの用人川前市助が、明神下の平次の家へ、見識と物々しさを振り落したやうな顏で飛び込んで來ました。 ﹁親分、大變なことになつた。直ぐ來て見て下さらぬか﹂ 肥つたのが小石川から驅けて來たのでせう。 ﹁どうしたのです、川前樣﹂ 平次はまだ朝飯前だつたのです。 ﹁御鏡、懷劍などは何處にも見附からない。隣りの森川屋を一と晩搜したが――﹂ ﹁森川屋には無いかも知れませんよ﹂ ﹁それぢや何處へ行つたのだ、平次殿﹂ ﹁そいつはあつしにもわかりませんよ。あの酒屋の伜――又吉とか言ひましたネ、あの若いのに訊いて御覽なさい﹂ ﹁その又吉が殺されたのだ﹂ ﹁えツ﹂ これはさすがに平次も驚きました。 ﹁今朝、匕あひ首くちらしいもので、背中を深々と刺されて、酒屋の切戸の前で死んで居たのだ﹂ ﹁成程そいつは大變だ。あの男の口を塞ふさがれちや、お鏡も懷劍も、お墨附も出て來ませんよ﹂ ﹁だから平次殿。この通り﹂ 昨日の主人の雜言を知つて居るだけに、川前市助の額ひたひは敷居を撫でるのです。 ﹁拜まれちや嫌とも言へませんが、支度がありますからちよいと待つて下さい。半はん刻ときほど後に、きつと參りますから﹂ ﹁必ず來てくれるだらうな。酒屋の伜は自業自得で殺されたことだらうが、お鏡やお墨附が出て來なくては、島樣御一家の難儀だ。頼みますぞ、平次殿﹂ 念を押して立去る川前市助と入れ違ひに、八五郎は相變らず寢起きの良い顏を持つて來ました。 ﹁八、あのお鏡も懷劍もお墨附も出て來ない上、酒屋の伜が殺されたとかで、用人の川前さんが青くなつて飛んで來たよ﹂ ﹁へエ、下げし手ゆに人んは誰です﹂ ﹁お前は矢つ張り良い御用聞だ。御用人の川前さんは、酒屋の伜の死んだのはどうでも宜いが、お鏡やお墨附を搜してくれと、そればかり言つて居たよ﹂ ﹁呆れた味みそ噌す擂り用人ですね﹂ ﹁ところで、こいつは飛んだ奧行が深いよ。お前は一と足先へ行つて、島、千本兩家のいろんな事を洗つて見てくれ。半日がかりで調べたら、大たい概がいのことがわかるだらう。手が廻らなかつたら、下つ引を五六人狩り出して兩家の親類縁者、出入り商人にまで搜さぐりを入れるんだ、宜いか﹂ ﹁やつて見ませう。あの味噌擂用人なんか、何處かの縁の下に劫こふを經た、蟇がまの精か何んかに違げえねえと思ふんだが﹂ 八五郎はそんな氣樂なことを言つて彈はずんだやうに飛び出してしまひました。 それから平次は悠々と腹拵へをして、富坂町へ行つたのはもう陽が高くなつてから。用人の川前市助に案内されて、いきなり庭へ入つて行くと、境さかひの塀の切戸を開けて、一歩酒屋の庭へ行つて見ました。 ﹁この邊だ、又吉が殺されて居たのは﹂ 用人は大地を染めた血潮を指さします。 又吉の死骸は、酒屋の離屋に取納めて、一應の檢屍を待つて居りました。切戸の側とは言つても、森川屋の地内で殺されて居たに相違なく、千本家は何んの關係もないことに申合せて居たのです。そんなことが氣になるのか、用人の川前市助は、さつさと千本家の庭へ引返します。 死骸の側に居るのは、父親の藤七と雇人達、平次の顏を見ると雇人達は遠慮して藤七だけが後に殘りました。 ﹁あの切戸は閉つて居たのかな﹂ ﹁へエ、千ちも本と樣の方から閉つて、輪鍵が掛けてあつたさうでございます。――お隣りにゐらつしやる方々は、昨ゆう夜べ一と晩家搜しして曉方に引揚げて行かれましたが﹂ 藤七の口くち吻ぶりには、我慢のなりかねた憤怒が焦こげ附きます。五十五六の中老人ですが、何んとなく練達な感じのする町人でした。 ﹁昨夜又吉はその家搜しを手傳つたことだらうな﹂ ﹁いえ、飛んでもない。この間の晩伜の又吉が、頼まれてお隣りのお屋敷に見張りに參り、その時いろ〳〵の物が紛失したやうで、妙に白い眼で見られて居りました。その上無くなつた千兩箱が、私共の離屋に預つた吊つり臺だいから出て來ましたので、妙に氣まづいことになり、昨夜などは伜を始はじめ私共まで、一と晩見張られて居たやうなもので﹂ ﹁日頃お隣りの千本樣とは眤じつ懇こんにして居るのか﹂ ﹁御武家と町人で、身分の隔へだてがありますので、眤懇と申すわけには參りませんが、御内儀樣はよく出來た方で、何彼と若い伜に眼をかけて下さいます﹂ ﹁御隣りの千本金之丞樣はどんな方だ。腹藏のないところを聽き度いが﹂ 平次は折入つた調子でした。 ﹁斯かうなつては、お隱しするほどの義理も御座いません。正直に申上げると。お氣の毒なことに――﹂ 森川屋の亭主――殺された又吉の父親藤七は思はず四あた方りを見廻しました。五
森川屋藤七の話といふのは、隣りの千本金之丞といふ人は、見かけは一とかどの武家ですが、今の内儀のお浪を嫁に貰つた頃から、妙に氣拔けがしたやうで、氣の毒なことに近所の衆も眞人間としては附き合はず、日毎に痴ちほ呆うじ人んらしくなつて行くといふのです。 ﹁尤も御内儀はあの通りのきりやうで、その上世に珍らしい智慧者でございます。お里は微びろ祿くでして、今は見る蔭もない暮しをして居るといふことですが、昔はなか〳〵に富み榮え、島五六郎樣と許いひ嫁なづけの間柄だつたとも噂されて居ります﹂ ﹁何、あの、島五六郎殿と、許嫁?﹂ これは錢形平次にも初耳でした。 ﹁その後島五六郎樣の方は、二千石の大身三宅彈正樣の御息女お幾樣と縁談が纒まとまり、お浪樣の方は破談に遊ばした、とやらで、一時は大變な取沙汰でございました。島樣はあの通りの美男、三宅樣御息女が見染めたとやら見染められたとやら、さぞ持參金澤山の不縹緻な嫁が來るだらうと申して居りましたところ、その三宅夜御息女お幾樣と仰しやる方は、お浪樣にも優るほどの御きりやうで、世間の取沙汰もそれつきりになつてしまひました﹂ ﹁――﹂ ﹁それから間もなく、お浪樣はお隣りの千ちも本と樣に縁附かれましたが、その頃の千本樣は小祿とは申し乍ら、御役附でもあり、人品骨柄、學問も武藝も申分ない方で、立身出世は見みも物のであらうと申して居りましたところ、何時の間にやらお心持が變になり、今ではもう誰知らぬ者もない――お氣の毒なことで――﹂ 酒屋の亭主藤七は氣の毒さうには言つて居りますが、伜又吉の非業の死を、隣りの千本家のせゐにして居るらしく、なか〳〵に含がん蓄ちくの深いことを言ふのです。 ﹁その島五六郎樣は、繁しげ々〳〵とお隣りに來られるのか﹂ ﹁それはもう、繁々とお出でございます。お心持は少々變でも、昔からの御馴染で﹂ ﹁有難う、それだけ聞けば大層助かる﹂ 平次は主人の話を打ちきつて、又吉の死骸の方に向きました。頭を垂れて一禮して、その傷口を調べると。細身の匕あひ首くちが左ひだ肩りか胛ひが骨らぼねの下から心の臟を一と突きにしたもので、刄が正しく水平になつて居るのが特色です。六
﹁親分、大たい概がいわかつたつもりですがネ﹂
八五郎が汗を拭き〳〵森川屋へ戻つて來ました。
﹁御苦勞々々々。俺も大概わかつたが、――千本樣御内儀が、もとは島五六郎樣の許嫁であつたといふ話だらう﹂
﹁その通りで、何處で親分は?﹂
﹁二人の調べが合へばそれで宜いのさ。ところで、俺はもう何も彼もわかつたやうな氣がするよ。千本樣の屋敷へ行つて、皆んな種明しをするとしようか﹂
﹁へエ? 親分はもう解つたんですかえ。あつしには少しもわからねえが﹂
二人は千本の屋敷へ行つて、改めてお勝手口から案内を乞ひました。
取次ぎに出た下女の小女を掻かきわけるやうにして、内儀のお浪は、咲きこぼれるやうな美しい顏を出しました。この上品で淋しくさへある内儀に、こんな素晴らしい媚びた態いのあることは、錢形平次にも豫想外でした。
奧へ通されると、相變らず島五六郎と川前市助が、くたびれきつたやうな主人の千本金之丞を間に挾んで、何やらさいなみ續けて居る樣子です。
﹁平次か、千兩箱が見付かつても、お鏡やお墨附が紛ふん失しつしては何んにもならぬぞ﹂
平次の顏を見るともう島五六郎の聲が尖とがります。
﹁御代參は明日でございましたな﹂
﹁左樣、大奧の御代參は、明九日正巳の刻︵十時︶には來られる﹂
﹁では、まだ間に合ひます﹂
﹁何?﹂
﹁物を探たん索さくするには、潮時がございます。誰が、何んの目的で隱したか、それが解らなくては、搜しやうはございません﹂
﹁それがまだ解らないと申すのだな﹂
島五六郎の聲は次第に激しくなります。
﹁ところが、漸ようやく相わかりました﹂
﹁誰が何んの意趣で隱したのだ。先づそれを聽かう﹂
美男島五六郎は、自分の聲に激發されたやうに、一刀を引寄せてグイと膝を前すゝめます。
﹁それよりは隱された品々の所あり在かを申し上げませう﹂
﹁――﹂
﹁あれでございます﹂
錢形平次はいきなり縁側へ出ると、裏の板塀の外に天を摩まして繁る五六本の杉の樹の梢こずゑを指しました。
﹁何處だ﹂
﹁家の中や庭を搜してもなかつた筈でございます。あの杉の梢こずゑに、紙たこ鳶い絲とで釣り上げてある包みが一つ、葉と葉の間から、僅かに見えて居ります﹂
﹁何處だ、何處だ﹂
﹁杉の幹に絲の端が下がつて居るので氣が附きました。長い梯はし子ごがあつたら、わけもなく取れませう﹂
平次の聲の終らぬうちに、島五六郎と川前市助は飛び出しました。若黨の丑松に梯子を持つて來させて、大騷動でその包みを梢からおろすと、押し戴いて中を調べた島六郎は中味に間違ひがないと見ると、主人の千本金之丞夫婦に挨拶もせずに、待機した家來共を從へて、サツと潮の引くやうに傳通院に向ひました。二度目の間違ひの起らぬうちに、それをお寺に屆けて置かうといふのでせう。
﹁えらい事になりましたね、親分﹂
﹁全くえらい事さ。ところで今度は又吉を殺した下手人だ﹂
平次がもとの縁側へ戻つた時でした。
﹁大變ツ、御内儀樣が――﹂
小女のお信が眞つ蒼になつて飛んで來たのです。
﹁どうしたのでせう親分﹂
それに跟ついて行かうとする八五郎を、
﹁待て〳〵八。武家の内ない證しよ事ごとは、こちとらの關かゝはる事ではない。歸らう﹂
引つ立てるやうに平次は引揚げるのです。
× × ×
﹁どうしたといふのでせう、親分。あつしには少しも解らねえが﹂
歸る途々、八五郎はいつもの通り繪解きをせがむのです。
﹁よく解つて居るぢやないか、あの美しい内儀が自じが害いしたのだよ。可哀想に﹂
﹁何んだつてそんな事を﹂
八五郎は口く惜やしさうでした。
﹁あの酒屋の伜の又吉を殺したのは、あの美しい内儀さ、――千兩箱といろ〳〵のお寶を隱したところを見附けて、日頃お内儀に心を寄せて居た又吉が、不心得にも武家の内儀を強がう引いんに口く説どいたのだよ。最初俺は又吉を殺したのは主人の千本といふ人かと思つたが、抱き附いて來たところを、存分にさせて置いて、背後へ手を廻して匕首で肩かひ胛がら骨ぼねの下を突いたのは女だ﹂
﹁成る程ね﹂
八五郎は自分の手でその恰好をして見るのでした。
﹁女に抱きつかれたら氣を付けることだぜ、八﹂
﹁へエツ、何んだつて又あの内儀が、金や鏡を隱したんでせう﹂
﹁島五六郎が憎かつたのさ。自分を捨てて三宅何んとかの息女――それも滅法綺麗で持參金のある嫁を貰つた、島五六郎を自じめ滅つさせたかつたのだ、――その爲に千本の家まで潰れるかも知れないことを考へても居なかつた、――昔から妬と婦ふ程恐ろしいものはないといふよ﹂
﹁するとあの床の間から盜み出したのはお内儀で?﹂
﹁いや、曉方、川前市助といふ用人が小用に立つた時、主人の千本金之丞といふ人が、雨戸を開けたと言つたらう、――あの部屋から千兩箱やいろ〳〵の物を取り出せる隙ひまは、あの時の外はない。そして主人の外に取出せる者はなかつた筈だ――その前に蝋らふ燭そくを消して置いたのも多分主人だらう、そして川前市助の眼の覺めるのを待つたのだ﹂
﹁馬鹿ぢやありませんね、あの主人は﹂
﹁いや馬鹿だ、――美しい内儀の言ふ通りになつたのだ。内儀は島五六郎が昔のヨリを戻さうとして、變な素振りのあるのを、わざと主人に見せつけ、少し氣の變になつて居る主人を焚たきつけてあの仕事を手傳はせたのだ。庭で主人の手から千兩箱や外の品々を受取つたのは内儀だ。千兩箱は切戸を開けて隣りの酒屋の離はな屋れにある吊つり臺だいに隱し、外の品々は手早く油紙に包んで、晝のうちから仕掛けてあつた裏の杉の梢こずゑへ、紙たこ鳶い絲とで吊り上げた、――それを隣りの伜又吉に氣取られ、翌る晩又吉は日頃心をかけて居る内儀を口説いたのだらう﹂
﹁恐ろしい事ですね、親分﹂
﹁全く恐ろしいことだよ。妙なものを有難がつたり、人の命を何んとも思はなかつたり﹂
﹁だから武家は嫌いやさ﹂
﹁有難いことにこちとらは千兩箱を預けられる心配もないと來て居る﹂
二人はでも淋しさうでした。輕口を叩き乍らも、千本金之丞の内儀――あのピカピカするやうな美女が、自分の罪の償つぐなひに自害したことが氣になつてならなかつたのです。