一
﹁親分、親分が一番憎いのは何んとか言ひましたネ﹂ ガラツ八の八五郎、入つて來るといきなりお先煙草の烟きせ管るを引寄せて、斯んな途とて徹つもないことを言ふのです。 初秋の陽ひあ足しは疊の目を這ひ上がつて、朝乍ながら汗ばむやうな端居に、平次は番茶の香氣をいつくしみ乍ら、突拍子もない八五郎の挨拶を受けたのでした。 ﹁俺が憎いと思ふのは――年中お先煙草を狙ふ奴と、鼻はな糞くそを掘つて八方へ飛ばす奴と、埃ほこりだらけな足で人の家へ入る奴と――それから﹂ ﹁もう澤山。わかりましたよ、親分﹂ ﹁遠慮するなよ、もう少し並べさしてくれ。こんな折でもなきや俺とお前の中でも思ひきつたことは言へねえ﹂ ﹁驚いたね﹂ ﹁毎々驚くのは俺の方だよ。庭へ唾つばを吐くのも憎いし、髷まげの刷毛先を、無暗に左へ曲げるんだつて、可愛らしい好みぢやないぜ﹂ 平次は八五郎の面喰つた顏を眺めながら、ニヤリニヤリと讀み上げるのです。 ﹁そんな事で勘辨しておくんなさい。あつしの棚おろしはいづれ暇ひまで〳〵仕樣のない時のこととして――﹂ ﹁今日は暇で〳〵仕樣がないんだよ。でも、俺が數へるのを、一々と自分のことと氣が付くところを見ると、八五郎も滿更ぢやねエ﹂ ﹁冗談ぢやありませんよ、――まるで小言を食ひに來たやうなものだ。ね、親分。親分の大嫌ひな子さらひがありましたよ。親の歎なげきを考へると、子さらひほど罪の深けえものはないと、親分は言つたでせう﹂ ﹁その子さらひが何處にあつたんだ﹂ 平次も漸ようやく眞劍になりました。トボケたことを言ひながらも、八五郎の鼻の良さがなかつたら、不精者の平次はあぶれてばかり居ることでせう。 ﹁それも可愛らしいのが二人、一ぺんに見えなくなつたんで。神隱しにしちや慾張り過ぎるから――﹂ ﹁お前のいふことは一々變だよ、――何處の子が居なくなつたんだ。それを先に言はなきや﹂ ﹁成程ね、そいつが一番大事だつたんだ。親分も御存じでせう、湯島の生きぐ藥すり屋やで上かず總さ屋や宗左衞門の孫、お千代といふ八つの娘と、新吉といふ六つの男の子が二人。母おも屋やから藏へ通ふ廊下で、煙のやうに消えてなくなつたんだが﹂ ﹁それは何時のことだ﹂ ﹁昨日のことですよ、ちよいと行つて見て下さい。金や物を盜られたのと違つて、親達の歎きは大變だ。見ちや居られませんよ﹂ 平次は到頭口説き落されました。 ﹁よし、それほど言ふなら行つてやらう。二人一緒に行方不しれ知ずになるのは、餘つ程深いわけのあることだらう﹂ 錢形平次は手早く支度をして、八五郎と一緒に晝近い街へ出ました。 紅もみ葉ぢにはまだ早く、江戸の空は澄みきつて、本郷臺の秋は言ひやうもなく快適です。 上總屋宗左衞門といふのは、山の手きつての大きい生藥屋で、世間並の草根木皮の外に、蘭方の家かで傳んや藥くなども賣り、幾代に亙わたつて榮えて居ります。 店みせ暖のれ簾んを潜つた八五郎と、それに續く平次の顏を見ると、店に居た番頭の彌七は、あわてて奧へ飛び込みました。主人の宗左衞門に注進をしたのです。この男は四十がらみの脂あぶらの乘つた恰かつ幅ぷくで、少しは自分でも溜めて居さうな如才のない人柄です。 ﹁これは〳〵、錢形の親分。飛んだ無理なお願ひで﹂ いそ〳〵と出迎へた宗左衞門は、六十前後の大おほ店だなの主人らしい、愛嬌の良い老人でした。後でわかつたことですが、八五郎に無理を言つて、錢形平次を誘ひ出させたのは、この老主人の粘ねばり強い根性と、物柔かな驅け引きだつたのです。 ﹁子供さん達が見えなくなつた後あと前さきのことを、詳くはしく聽き度いが――﹂ 藥臭い店を拔けて、奧と言つても店續きの薄暗い六疊に案内された平次は、其處に居並ぶ四人の顏を見比べ乍ら斯う訊ねました。 四人といふのは、主人の宗左衞門の後添でお源といふ四十七八の内儀――まだ女の美しさが身振りにも聲こわ音ねにも殘る中婆さん、大柄でガラガラして、商賣人あがりらしい匂ひが何處かに殘るのを筆頭に、若旦那と呼ばれて居る伜の宗太郎――三十二三の良い男ですが、青白く弱氣らしくて、大きい聲では物も言へないと、最後にその嫁で、お信といふ二十八九の年増、――眉まゆの跡の青々とした、細面で上品で、年の割に何處かに滴したゝるやうな可愛らしさの殘る女と――これが上かず總さ屋やの家族の全部で、平次と八五郎を取卷いて、心配さうな顏を寄せた四人でした。 ﹁昨日の夕方近く――申なゝ刻つは半ん︵五時︶過ぎだつたと思ひます、私は土藏の中で客と話をして居りましたが﹂ ﹁藏の中で――?﹂ 主人の話に、平次はフト聞耳を立てました。土く藏らの中の客といふのは、如何にも變に聽えます。 ﹁へエ、少しわけがございまして、五六人の客を土藏の中に案内して居りました。二人の孫は私の後から來る筈になつて居りましたが、何時まで待つても參りません。手を拍つて呼びますと、店に居た筈の伜の宗太郎が、何うかしたんですか――とけゞんな顏をして參りました﹂ ﹁――﹂ 主人の話はひどく變つて居りますが、その腰を折らないやうに、平次は默つて先を促しました。 ﹁女共は――家内も嫁も奉公人達も、皆んなお勝手で、お客樣へ出す料理の支度をして居りました。二人の孫が何處へ行つたか、一人も知つて居るものはありません。それから大騷動になつて、家中は申す迄もなく、庭から往來まで搜させましたが、影も形もないので――﹂ 主人宗左衞門の話はそれで終りました。湯島門前町の眞ん中、夕景近いと言つても、まだ充分に明るいうちに二人の子供が煙の如く消えてなくなつたといふのは、全く想像もつかないことです。二
﹁藏の方で父親の聲がして、せつかちに手を叩くのが聽えましたので、何心なく覗いて見ましたが――廊下には誰も居りませんでした﹂ 若旦那の宗太郎は父親の言葉に註ちうを入れました。 ﹁子供達の身なりは?﹂ ﹁二人共去年の七五三のお祝の通り、――お千代は振袖で、新吉は袴はかまを穿はかせて居りました﹂ さう應こたへたのは、母親のお源です。若旦那の宗太郎とは繼まゝしい仲ですが、精力的で押が強さうで、上總屋の奧で勢力を揮ふるつて居ることには疑ひもありません。 ﹁それは大層なことだな﹂ ﹁お客樣の前へ出しますので﹂ ﹁その客といふのは?﹂ 平次は間髮を容れずに問ひます。 ﹁――﹂ 内儀のお源は答へ兼ねた樣子で、夫の宗左衞門と顏を見合せましたが、 ﹁千駄木の山崎屋政五郎樣、鍛か冶ぢ町の鍵屋勇之助樣、さう言つた方々四五人でございました﹂ 主人は思ひ定めた樣子で言ふのです。 ﹁子供が見えなくなつた後で、金を出せとか何んとか、難題を言つて來たものはないのかな、――手紙などを投り込むのは、よくあることだが﹂ 平次は一應これを、金が目的の誘かど拐はかしと見たのも無理のないことでした。上總屋はそれほど、この界隈では裕福の聞えが高かつたのです。 ﹁そんな事でもあれば手掛りになるのですが――﹂ 主人宗左衞門は、金で濟むことならと言つた樣子でした。 ﹁日頃怨うらみでも持つて居るものは――?﹂ これは愚おろかしき問ひでした。家の者に氣が付くほど怨んで居る者があれば、子供を二人さらつてわからずに居る筈もありません。 嫁のお信は、後で武家の出とわかりました。この騷ぎの中にも、さすがに度を喪うしなふほどではなく、愼しみ深くうな垂れて、人の意見に忍從して居る姿です。 だが、泣きも悲しみも、どうもしないのに、激しい感情の往來に、身も細るやうに見えたのは、恐ろしい不安と恐怖に、さいなみ續けられて居るためでせう。 ﹁母親のお前さんが、一番後で二人の子供の姿を見たのは?﹂ 平次の斯う言つた問ひに對して、 ﹁二人を廊下まで送つて行つて、私はお勝手へ戻りました。もう藏の入口は其處に見えて居りますし、お勝手の方はお膳の支度で忙しかつたものですから﹂ 愼み深く言つて、首を垂れます。 ﹁子供達が一番よく馴れて居たのは?﹂ ﹁八つと六つですから、人見知りもいたしましたが、よく知つて居る方なら、どなたのところへも參りました﹂ 激しい苦惱を、自分の胸一つに疊んだ、いぢらしくも健けな氣げな姿――嫁のお信には、さう言つた冒をかし難い美しさがあつたのです。 錢形平次は立ち上がつて、お勝手から奉公人達の部屋を見せてもらひ、二人の子供が姿を消したといふ、土藏へ續く廊下へ足を踏み入れました。 家中いたるところに數々の草根木皮が吊つるしてあるので、外から入つた者には、家の中全部が大きな藥袋のやうな感じですが、わけてもこの廊下は、袋に入らないの、根を束たばねたの、莖くきを縛つたの、天井一パイに草根木皮を掛け連ねて、一間に三間の板敷が、さながら藥のトンネルと言つた趣おもむきです。 南側は腰高窓、天氣さへよければ、藥の乾燥のために此處は大概開けて置く樣子ですが、此處から飛び出すにしては、少し窓が高過ぎて、八つの女の子と六つの男の子では無理です。若しまた大おと人なが外から手傳つたとしたならば、居間や店から見通しになる惧おそれがあり、二人の子供をさらつた所で、人眼に觸れずには逃げ出す工夫はありません。北側には三尺の切戸が一つ。 ﹁これは閉つて居たのだな﹂ 平次は輪鍵を外して開けて見ました。 ﹁昨日子供達が見えなくなつた時、確かに其處は内から閉つて居りました。私が大急ぎで開けて、裏口の方を見た事を覺えて居ります﹂ 主人宗左衞門は、確しかと請うけ合あふのでした。平次はそれを後ろに聽いて、外を覗いて見ると、十坪ばかりの空地の外にはお勝手から裏へ拔ける通路があり、形ばかりの四つ目垣を繞めぐらして、三尺の木戸、その外は五六軒の長屋が、折重なつたやうに並んで居ります。 ﹁子供達はあの邊へ遊びに行くことがあるのかな﹂ ﹁滅多に參りませんが﹂ 答へたのは嫁のお信でした。 藏の中へ入つて見ると、此處も藥臭く、馴れないものはクラクラとするやうな心持です。窓を開けさせると、晝近い光線がクワツと入つて、隅々まで照らします。が、不思議なことに諸道具や百ひや味くみ箪笥、そんなものの奧に六疊ほどの疊敷があつて、壁際にはさゝやかな佛ぶつ壇だんが飾つてあるのです。 覗いて見ると、至つて簡素な佛壇で、阿あみ彌だに陀よ如ら來いの小幅を掲げ、佛具も貧しく、至つて粗末なものを並べてあるだけです。 ﹁上總屋さん、お宗しゆ旨うしは?﹂ 平次は主人の宗左衞門を顧かへりみました。 ﹁門もん徒とでございます﹂ 主人の答へは靜かで落付いて居ります。 ﹁それにしては、土藏の中の佛壇はをかしいが﹂ ﹁店に近いと、氣が散りますので﹂ さう言へばそれつきりのことです。平次は或程度の見透しが付いたらしく、此處まで突つ込むと、急に歸り支度を始めるのです。 ﹁孫達はどうなりませう。錢形の親分﹂ 宗左衞門はその袖を捉とらへ度いほど思ひ惱んで居ることでせう。 ﹁外を少し調べて見なきやなるまい、――が、多分間違ひはあるまいと思ふが﹂ 平次は氣休めらしいことを言ふのです。 ﹁さうでせうか、親分﹂ 老夫婦と若夫婦の、心配さうな顏を後に殘して、平次は湯島の往來へ出てしまひました。 ﹁親分、本當に子供達は大丈夫でせうか﹂ ガラツ八の八五郎はその後を追ひ縋すがります。 ﹁正直のところは、まだわからないよ。でも、あの家にはもう調べることはない――お前は御苦勞だが一と働きしてくれないか﹂ ﹁どんなことをやりやいゝんで、親分﹂ 八五郎はスタートに並んだ選手見たいな顏をして見せます。 ﹁昨日上總屋に何があつたか、――どんな用事で人寄せをしたか、それが聽き度いよ。奉公人か近所の人に當つて見たら、見當ぐらゐはつくだらう﹂ ﹁そんなことなら、わけはありませんよ﹂ ﹁あんまり甘く見るな、なか〳〵底が深いぞ﹂ ﹁へエ?﹂ ﹁それから、昨日の客――千駄木の山崎屋政五郎と、鍛冶町の鍵屋勇之助を調べるのだ。身許から昨日の用事﹂ ﹁それつきりですか﹂ ﹁いや、まだある。上總屋の内おか儀みはなか〳〵の切れ者らしいが、息子夫婦との折合ひがどんな樣子か、孫を可愛がつて居るか、それも訊き度い﹂ ﹁へエ﹂ ﹁もう一つ、嫁のお信は武家の出といふことだ。親は何んと言つて、何處の藩中か、それとも浪人か﹂ ﹁――﹂ ﹁お前一人ぢや無理だらう。下つ引を三四人狩り出して大急ぎで調べてくれ﹂ ﹁親分は?﹂ ﹁家へ歸つて晝寢でもするよ――變な顏をするな、寢なきや良い智慧が出ない性分だ﹂ 平次は言ひ捨てて明神下へ歸つて行くのでした。三
その翌る日の朝、八五郎は彈はずみが付いたやうに飛び込んで來ました。 ﹁親分、變なことになりましたぜ﹂ ﹁何が變なんだ、――上總屋の子供達でも出て來たのか﹂ ﹁そんな事なら驚きやしませんがね、上總屋の裏の長屋に住んで居る、本郷中の餘あまされ者で、半三といふ安やくざが、三組町の藪やぶの中で、背うし後ろから刺されて死んで居ますぜ﹂ ﹁成程そいつは上總屋の一件と掛り合ひがありさうだ。行つて見よう﹂ 平次は行詰つた事件に點じた、新しい光を發見したらしく、八五郎を促うながすやうに道を急ぐのです。 ﹁ところで、昨日親分が言ひつけなすつたことは、大たい概がい調べて置きましたよ﹂ ﹁歩きながら話せ。現場へ辿たどり着くまでには、お前の調べた種も底を見せるだらう﹂ ﹁そんな手輕なものぢやありませんよ。先づ第一、千駄木の山崎屋政五郎といふのは、表向は古着屋の唯の親爺だが﹂ ﹁隱し念佛の先達だらう――善智識とか言ふさうだ。鍛冶町の鎌屋勇之助はその下の用人さ﹂ ﹁どうして親分はそれを?﹂ 八五郎は平次に先を潜くゞられて、すつかり仰天して居ります。 ﹁晝寢し乍らでもそれぐらゐのことはわかるよ。藏の中に佛壇があつて、門徒衆といふにしてはあの佛壇が粗末過ぎるぢやないか﹂ ﹁へエ?﹂ ﹁あの日上總屋の土藏の中で、隱し念佛を開帳して居たのだな。隱し念佛はお庫くら念佛といふぐらゐだ。上總屋は小さい孫二人をその日新しん發ぼ意ち︵自己催さい眠みんになる一種の得道︶にするつもりで、晴着を着せて土藏の中へ呼んだのだ。母親も附いて行かなかつたのはその爲ぢやないか﹂ ﹁へエ、驚いたね。あつしはそれを知るのに、半日一と晩足を棒にしましたぜ、――親分はどうしてそれを知つたんです﹂ ﹁種をあかせば、あれから直ぐ寺社のお係りへ行つて、結構な智慧を拜借したのさ。近頃隱し念佛が流は行やつて公儀でも持て餘しの樣子だ﹂ 平次は手輕に片付けてしまひます。 隱し念佛、又はお庫念佛、一に犬切きり支した丹んと言つたところで、今の世にその實體を知つてゐる人は幾人もないでせう。ところが江戸時代には、この祕密宗教が日本國中に蔓はびこり、元祿年間の大彈壓には、江戸だけでその信徒の數四萬と註せられ、陸中の水澤では、山崎杢左衞門外數名の者が殉教したといふことが﹃大百科辭典﹄にも載せてあります。 今のことは知りませんが、筆者は幸ひ﹃隱し念佛﹄の最も盛んであつた陸中に生れ、少年時代を北上川のほとりの農村に送つたので、隱し念佛の正體をかなりよく知つて居ります。この隱し念佛は伽がら藍ん佛教になつた淨土眞宗に對立し、同じく親しん鸞らんを祖師とする宗旨であり乍ら、非僧非俗を健前﹇#﹁健前﹂はママ﹈として、職業化した僧侶を否定し、土藏又は密室の中に信徒を集め、專もつぱら五六歳から十歳に充たぬ幼童に一種の法を施ほどこして、その魂を﹃救はれた﹄とするのです。その法は一宗の祕事で、なか〳〵むづかしいものですが、薄暗い部屋の中に、法を受ける少年少女を中に、三四人の先達が物々しい念佛を稱へ續け、やがて少女自身に﹁タスケタマヘ﹂と長く引いて低い聲で、果てしもなく連呼させるのでした。 四あた方りの空氣の物々しさと、單調な祈りの聲に誘はれて、法を受くる少年少女は、何時の間にやら自己催眠に陷おちいり、一種夢の如き法悦を感ずるのです。善智識と言はるゝ先達は、その時蝋らふ燭そくの灯あかりを取つて少年少女の顏を照し、まさに忘我の恍くわ惚うこ境つきやうに入つたと見れば、それで﹃救はれた﹄とし、修法を了つて、盛んな精進料理の法宴になるのでした。 隱し念佛の方では、一生に一度この法を受けなければ、人は極樂に往生することは出來ないものとし、無智な小商人や貧農達はその子弟のために、競つてこの法宴を開くのです。 江戸時代を通して度々の彈壓の下に、不思議な根強さで續き、明治年間までも地下に榮えて來たのは、この法門は極めて自由で、別にどの樣な信仰を持ち、どの宗門に歸き依いしても一向に干渉しなかつた爲で、善智識と呼ばれる大先達自身でも、平常は唯の門徒衆で、寺方のよき壇徒であつたのはまことに面白い呑氣さでした。踊る宗教唄ふ宗教――、人間の官能を興奮させたり、異常な祈りを神聖視して、人を催眠術的に陶醉させる宗教など、昔も今も、あの手この手に變りはありません。 ︵一に隱し念佛は釋しや迦かに反いた提たい婆ばだ達つ多たを祖とするといふ説もあります。記して以つて參考にして置きます︶四
﹁これだ、親分﹂ 夥おびたゞしい彌次馬を追ひ散らして、八五郎は三組町のとある町裏の藪の中に平次を誘ふのでした。 江戸の眞中に田圃のあつた時代、この邊一帶を大根畠と言つた頃の三組町には、隨分藪も草原もあり、夜分は血ちな腥まぐさい事があつても不思議のない場所でした。 ﹁死骸は前から此處にあつたのか﹂ 平次は半三の死骸の前に腰をおろしました。 ﹁あつしもそれに氣がつきましたよ、死骸を引摺つた跡があるでせう﹂ 八五郎は藪の外、道ともなく踏み堅めた土の上に、箒はうきで掃はいたやうに物を引摺つた跡の遺るのを指さしました。 ﹁血はこぼれて居ないか﹂ ﹁それも念入りに搜したが、見えませんね﹂ 八五郎はさう言ひ乍ら、もう一度蚤のみ取とり眼まなこでその邊をウロウロして居ります。 ﹁死骸を見付けたのは誰だえ﹂ ﹁犬ですよ﹂ ﹁犬?﹂ ﹁犬があんまり騷ぐので、近所の衆が二三人來て見るとこの有樣だ。幸ひ土地の下つ引に言ひ含ふくめて、上總屋を見張らせて置いたので、留吉と卯太郎と二人で驅け付け、死骸を見張つて直ぐあつしに知らせてくれました﹂ ﹁すると、死骸には誰も手をつけなかつたわけだな﹂ ﹁宜い鹽梅に親分が封切りだ﹂ ﹁それは有難い﹂ 陽が高くなるまで、誰も半三の死骸に手をつけなかつたのは、平次に取つては何よりの好都合でした。本郷臺の毒蟲と言はれた、安やくざの半三は、見たところ三十前後、道樂者によくある型の、小意氣で青白くて、ちよいと良い男でもありました。 身みな扮りもなか〳〵洒落れたもので、無駄飯を食ふ人間の淺ましい贅澤さが、死の極ごく印いんを捺おされてまでも、人の眉を顰ひそめさせます。 傷は背中の肩かひ胛がら骨ぼねの下から一と突き、血はあまり出た樣子もありませんが、傷の深さは心の臟を破つて、前へ突き貫ぬけさう。 懷ふと中ころを搜ると、奧深く入れてあつたのは、何んと女持の赤い呉ご絽ろの紙入で、中から出て來たのは、小判が五枚。その頃の經濟事情から言へばこれは容易ならぬ大金です。 ﹁この赤い紙入は半三の持物ぢやあるめえ。持つて行つて町内を一と廻りして來るが宜い。持ち主がわかつたら歸つて來い﹂ ﹁へエ﹂ 八五郎は飛んで行きましたか、ものの煙草五六服も經つと、鬼の首を取つたやうな勢ひで飛んで來ました。 ﹁わかつたか、八﹂ ﹁わかりましたよ、親分、――一體その財布の持主は誰だと思ひます﹂ ﹁上總屋の嫁のお信だらう﹂ ﹁えツ、どうして、それを﹂ ﹁お前にわかるぐらゐのことを、俺にわからないと思つて居るのか――此處は三組町だが、湯島門前町の上總屋の裏口とは背せな中か合せぢやないか。こんなに早く歸るお前が飛び込んだのは上總屋に決つて居るのさ。驚いたか、八﹂ ﹁その通りですよ。裏木戸から飛び込んで、下女のお粂に逢つて、この赤い財布を見せると、一も二もねえや、――あら、御新造が大事にして居る財布を何うしたの――といふぢやありませんか﹂ ﹁わかつた。行つて見よう八﹂ 死骸の番を下つ引に任せて、平次と八五郎は裏木戸から上總屋へ入つて行きました。 その邊にウロウロして居る下女のお粂に、嫁のお信を呼び出させた平次は、それを誘さそつて木戸のところまでやつて來ました。 ﹁あれだよ、お信さん﹂ 平次はやゝ遠く三組町の路地裏の藪やぶを指さすのです。 ﹁――﹂ お信は憑つかれたもののやうに、平次の顏を見上げました。大きい眼は不安と疑ぎ惧ぐに戰をのゝいて、可愛らしい唇は痛々しくも痙攣します。 ﹁それから、この赤い呉ご絽ろの紙入だ、滅多にある品ぢやない。この紙入が半三の死骸の懷中にあつたのだ。中には小判で五兩﹂ 平次は赤い紙入を掌の上にのせて、お信の前へ、――それでも四方を探るやうに、そつと見せるのです。 ﹁皆んな申しませう、親分さん﹂ 思ひ定めた樣子で、お信は顏を擧げました。 ﹁?﹂ ﹁その折入は、お金を五兩入れたまゝ、私が半三へやつたものに相違ございません﹂ ﹁それはどういふわけだ﹂ ﹁半三は、二人の子供を隱した場所を知つて居ります。それを教へるから、十兩持つて來いと申しました。でも私の手では、その五兩が精一杯でした﹂ ﹁木戸の外に待つて居る半三にそれをやると、五兩では少ないから――その代り﹂ 振り仰いだお信の眼は泣いて居りました。やくざ者の半三は多分、後の五兩の代りにお信の珠しゆ玉ぎよくのやうな肉體を要求した事でせう。 ﹁それから?﹂ ﹁それつきりでございます。私は半三の手を振りほどいて、一生懸命で逃げました﹂ ﹁その半三が殺されて居るのだよ、御新造﹂ 平次の聲は冷たく押へます。 ﹁でも、私は何んにも存じません。私は、私は﹂ お信の悲歎は痛々しいものでした。涙のない慟どう哭こく、――大きな嗚をえ咽つを殘して、身もだえ乍ら母おも屋やの方へ逃げて行くお信――若くて綺麗な後ろ姿を見送り乍ら、錢形平次は手の下しやうもなく呆然として居たのです。 ﹁親分、あの女が下手人ぢやありませんか﹂ 八五郎は齒はが痒ゆさうでした。 ﹁いや違ふ﹂ ﹁でも親分﹂ ﹁女の力で、あんな凄い事は出來ないよ。誰かが、あの女が手籠になる所を助けたんだ﹂ ﹁で、二人の子供は何處へ行つたんでせう﹂ ﹁八、お前良い事に氣が付いてくれた。來い、今度は間違ひはあるまい﹂ ﹁何處です、親分﹂ ﹁半三の家だよ﹂ ﹁半三の家なら、ツイ其處ぢやありませんか﹂ 上總屋の裏、押し潰されたやうな五六軒の長屋の、一番奧の一番不景氣なのが、殺された半三の長屋だつたのです。併しかし其處は全くの空つぽで、お千代新吉の二人の子供の影も見えません。五
平次は、上かず總さ屋やの嫁お信の里、元町の大里金右衞門の浪宅を訪ねました。 ﹁錢形の平次親分――よく知つて居るよ。上總屋の騷ぎも困つたものだが、私は何んにも知らんよ﹂ 主人の金右衞門は五十七八の老人で、ひどい西國訛なまりですが、如何にも穩やかな仁にん體ていでした。 ﹁二人の孫さん達は何處へ隱されたことでせう。御存じありませんか﹂ ﹁困つたことに、私は何んにも知らない﹂ 大里金右衞門はひどく困惑して居ります。 ﹁お氣の毒ですが、お孃さんのお信さんの紙入が、殺された半三の懷中にあつたので、一應下手人の疑ひがかゝつて居りますが﹂ ﹁飛んでもない、娘は人などを殺せる女ではない﹂ 父親らしい自信と頑ぐわ固んこさで、金右衞門は首を振るのです。 ﹁大里さんは何處の御藩中で、何時浪人されました﹂ ﹁それは言ひ度くないことだが、――思ひきつて言はうよ。私は西國の藩中で、切支丹の疑ひで永の御おい暇とまになり、十七年前に、娘のお信をつれて江戸へ參つたのぢや、――私は生涯を不運に送つたが、娘のお信だけは立派な女に育てたつもりぢや﹂ 大里金右衞門は妙に娘のお信に信頼をかけて居るのでした。 ﹁近頃上總屋のお孃さんからお便りがありましたか﹂ ﹁いや、何んにもないよ、――今から九年前、たつてと言はれて、氣が進まない乍ら上總屋へ嫁に行つた娘だが、一度嫁とつぐと、娘は申分のない町人の嫁になつた樣子だ。父親の私にして見れば、少しは淋しいが、それがあの娘の仕合せといふものだらう﹂ 大里金右衞門は、淋しさうでした。が、父親らしい諦めに、幾らかの誇ほこりをさへ感じてゐる樣子です。 ﹁八、こいつは思ひの外むづかしいなア﹂ 外へ出た平次は、思はず歎聲を漏もらしました。 ﹁何がむづかしいんです、親分﹂ ﹁お前にはわかるまいよ、――もう一度半三の家へ行つて見よう﹂ 平次は上總屋の裏の長屋、その中でも一番奧の半三の長屋を、もう一度覗いて見ました。 八五郎と二人、念入りに調べた揚句、平次は押入の中から豆ねぢと肉につ桂けの屑を少しばかり見付け出して、思はず歡聲を擧げたのも無理のないことです。 ﹁八、間違ひはないよ。二人の子供は、此處に隱してあつたんだ、――が、半三が殺されると、もう一度姿を隱してしまつた、――誰が一體、音も立てさせずに、二人の子供を他の場所へ移せると思ふ﹂ ﹁――﹂ ﹁近所は近いし、お長屋の衆は、鵜うの眼鷹たかの眼だ。滅多なことで、お隣の晝のお菜かずも見遁しはしない。うるさい盛りの八つの女の子と、六つの男の子を、そつと他へ移せるのは誰だと思ふ﹂ ﹁母親か、父親ぢやありませんか。親分﹂ ﹁いや、お前はあの嫁のお信の顏を見て居る筈だ。自分の子供を自分で隱した母親が、あんな顏が出來る筈はない――若主人の宗太郎も同じことだ﹂ ﹁主人の後添のお源と、嫁のお信は、仲が好いやうには見えてますが、それは嫁のお信が利巧なせゐで、腹の中ではあんまり仲の好い嫁おや姑こぢやありませんね﹂ 八五郎は穿うがつたことを言ふのです。 ﹁一應は尤もだが、――あのお源へは、孫達はなついて居ないだらう﹂ ﹁子供は正直だ、自分を可愛がらない者の言ふことなんか聽きやしません﹂ ﹁他ほかに二人の子供を目に餘る程可愛がつた者はないのか﹂ ﹁半三は、上總屋の人達に嫌がられ乍らも、二人の子供を可愛がつて居たさうですよ﹂ ﹁他には?﹂ ﹁下女のお粂くめ、番頭の彌七――こいつは一寸好い男で、若旦那の嫁のお信に氣があるかも知れませんが﹂ ﹁待て、八。お前は何處でそんな事を聽いた﹂ ﹁下女のお粂は本郷一番の金かな棒ぼう曳ひきですよ。親分ぢや、憚はゞかり乍らあの女の口を開けられねえが、あつしなら、どんな事でも話します﹂ 八五郎の馬鹿々々しさは、下女のお粂の口を、何んの手數もなく開けさせるのでせう。 ﹁其處へ氣が付かなかつたのは、我乍ら大手ぬかりだ。八、お粂を呼び出して、その彌七の隱れ家を訊き出してくれ。年は若いが、あの男はそれぐらゐの用意はある筈だ﹂ ﹁親分、待つて下さい﹂ 八五郎は間もなく番頭彌七の隱れ家――新花町の裏のさゝやかな格子作りを訊き出して來ました。其處へ飛んで行くと、上總屋の二人の孫、お千代と新吉が、羽をられた二羽の子雀のやうに、怖い下女に見張られ乍ら逃げもならずに小さくなつて居るのを見付け出したのです。六
番頭の彌七は八五郎の手で縛られましたが、子供二人を半三の家から救ひ出し、時期を待つて、自分の隱れ家に留め置いたといふだけのことで、打ち首にもならずに追放で濟まされました。やくざの半三を殺した下手人は斯うして永久に擧らず、平次はこの事件でも折角の手柄をフイにしてしまひました。
一件落着の後、八五郎のせがむまゝに、平次に斯う説明してくれるのです。
﹁こいつはうるさい話だから、誰にも言ふな、――あの﹃隱し念佛﹄の日、二人の子供を逃がしてやつたのは、他ならぬ二人の子の母親――上總屋の嫁のお信だつたのさ﹂
﹁へエ、それは本當ですか、親分﹂
この繪解きの奇拔さには、さすがの八五郎も驚きました。
﹁間違ひはないよ、あの藥臭い廊下の北側の扉とは、内から締つて居たといふぢやないか。家の者が二人の子供を逃がしたんでなきや、テニヲハが合はないよ――お信は二人の子供をあの廊下まで送つて來て居るんだ﹂
﹁嫁のお信は何んだつてそんな事をしたんです﹂
八五郎には腑ふに落ちない事ばかりです。
﹁あの嫁の父親の大里金右衞門は、切支丹の疑ひで追放になつたと言つたらう﹂
﹁へエ﹂
﹁娘のお信も切支丹の信者だつたとしたらどうだ、――自分の大事な娘と伜が、物心もつかないのに、隱し念佛の亡者にならうとして居るんだぜ――お藏念佛の新しん發ぼ意ちになつたら最後、切支丹の方からは破門で、眞つ逆樣に地獄に墜をちると思ひ込んだことだらう。思案に餘つてお信は、廊下から二人を外へ出し、元町の祖ぢい父さ樣ま――大里金右衞門の所へ行くやうにと言ひ付けたに違ひあるまい﹂
﹁――﹂
八五郎は唸うなつて居ります。平次の繪解きはそれほど微妙なものでした。
﹁ところが、それを嗅ぎつけたのは、裏の長屋に住んで居る安やくざの半三だ。日頃顏馴なじ染みの二人の子供を、騙して自分の家へ連れ込み、脅おどかしたりすかしたり、押入の中へ閉ぢ込めて置いて、一方では母親のお信を強ゆ請すつた。子供を返してもらひ度かつたら、小判で十兩の金を持つて來いと吹つかけたが、お信は五兩しか持つて居なかつた。それを見ると、赤い紙入ごと五兩の小判を受取つた上、お信の身體まで自分のものにしようといふ、太ふてえ料簡を起した。いきなりお信を引寄せて抱きしめたところへ、もう一人の男が、樣子が變だと思つて、お信の後をつけて來た事だらう﹂
﹁誰です、それは?﹂
﹁誰でも宜いよ、――半三はいきなりお信を手ごめにしようとしたが、お信は自業自得でうつかり聲も立てられない。もう一人の男は見るに見兼ねて、用意のために持つて來た脇わき差ざしで、半三の後ろから、ひと思ひに突いた﹂
﹁誰です、それは?﹂
八五郎はもう一度くり返しました。
﹁誰でも宜いよ。驚いてお信は家の中へ逃げ込み、もう一人の男は、半三の死骸を引摺つて、三組町の藪やぶの中まで運んで行つた。上總屋の裏木戸のところに置いてはさすがに變だと思つたらう﹂
﹁――﹂
﹁番頭の彌七は物置から、その一伍ぶ一しじ什ふを見て居た事だらう。若い二人が氣の廻らないのを幸ひ、半三の長屋に飛び込んで、二人の子供を誘ひ出し、騙したり脅かしたり、自分の家へつれ込んで、これを人質にする事を考へた。いづれは金にするか、でなければ、美しいお信に因いん縁ねんをつけるつもりだつたに違ひない﹂
﹁惡い野郎ですね。そんな事なら、打首か遠島にしても宜かつたわけで﹂
﹁お仕置は輕る過ぎるぐらゐが宜いよ﹂
﹁大里金右衞門と、娘のお信は、切支丹とわかつたのですね。放つて置いて構ひませんか親分﹂
﹁知るものか、――俺は宗門改めの役人ぢやないよ。お前も餘計な口をきいて、磔はり刑つけ柱ばしらを二三本おつ立てるやうな殺せつ生しやうなことをしちやならねえ﹂
﹁そんなものですかねエ﹂
﹁おとがめがあつたら、少しも氣が付きませんでした、――とでも言つて置け﹂
﹁呆れたね。ところで半三を突き殺したのは誰です、親分﹂
﹁俺は知らねえよ、お信に訊いて見ろ﹂
﹁?﹂
﹁命がけでお信を可愛がつて居る人間には違ひあるめえよ。お信は手てご籠めにされかけて、聲も出せずに居たんだ﹂
﹁さうですかねエ﹂
八五郎にはこの謎なぞは永久に解けさうもありません。