一
その頃錢形平次は、兇賊木こが枯らしの傳次を追つて、東海道を駿府へ、名古屋へ、京へと、揉みに揉んで馳せ上つて一と月近くも留守。 明神下の家に、戀女房のお靜をたつた一人留守番さしては、鼠に引かれさうで心配でならないので、向柳原の八五郎の叔母さんに泊りに來てもらひ、その代り八五郎は、叔母さんの家にたつた一人。幸ひ寒さに向つて蛆うじも湧かず、無精でだらしがなくて、呑氣で贅澤な、男やもめ暮しをして居るのでした。 ところが何んと、錢形平次に追はれてゐる筈の木枯傳次は、平次が名古屋あたりへ行つた頃――つまり江戸を逃げ出して十日も經たないうちに、早くも立ち戻つて、平次のお膝元――神田明神下一角から、佐久間町、久右衞門町、八名川町と八五郎の御膝元なる向柳原一帶へかけて眞まことに落葉を吹きまくる木枯の如く荒し廻るのでした。 十一月の末から十二月の始めにかけて、押入られた家だけでも五軒、そのうち怪我人が一人、殺されたのが一人、盜られた金は、三百兩にも上るでせう。八五郎は最初は躍やく起きとなつて、この捕捉し難い兇賊の影法師を追ひ廻しましたが、結局八五郎如きでは手に了をへないとわかつたのと、もう一つ、三輪の萬七が平次の留守を預かるといふ口實で、お神かぐ樂らの清吉その他、夥おびたゞしい子分をつれて乘込み、 ﹁錢形の親分が留守のうち、俺が此邊まで乘出して來ることになつたんだ。八五郎兄あに哥いには濟まねえが、當分骨休みして貰ひ度い。これには少しわけのあることなんだ、笹野の旦那も御承知の上だから――﹂ 斯かう言つた無禮な申入れです。八五郎さすがにムツとしましたが、生れ付いてのノウ天氣で、半日と腹を立てて居ることが出來ず、三輪の萬七の申入れを幸せに、十手を箪笥の中へ投り込んで、この半月あまりは、毎日碁ごばかり打つて暮して居たのです。 十二月五日過ぎになつて、錢形の平次はぼんやり長い旅から歸つて來ました。平次が一と月も追つ駈けたのは木枯の傳次の影武者の一人と言はれた、つまらない三下野郎で、大阪へ行くと苦もなくつかまりましたが、親分の傳次に頼まれて、平次を江戸からおびき出すため、東海道五十三次を、僞の證據をバラ撒まき乍ら歩いたとわかつて、まさに腹も立たない仕儀だつたのです。 こいつを軍とう鷄まる籠かごに乘せて、宿々の人足に世話を燒かせ乍ら、江戸まで持つて來るのはあまりにも馬鹿〳〵しく平次は大舌打を一つ殘して、飄へう然ぜんと江戸へ歸つて來る外はありませんでした。まさに、錢形平次一世一代の大おほ縮しく尻じりです。 歸つては見たものの、江戸の方の木こが枯らし傳次騷ぎは、三輪の萬七が取り仕切つて、平次が手を出すきつかけもなく、ぼんやり旅の疲れを休めて居ると、問題の三輪の萬七、最も慇いん懃ぎん無禮な顏を持込んで來たのは、丁度三日目でした。二
﹁錢形の親分、さぞお疲れだらうな、――ところで、親分が追つ駈けた木枯の傳次は、全くの影法師で、眞物の傳次はヌクヌクと江戸に居殘り、前にもまして荒れ廻つたことは大方世間の評判でも聽いたことだらうが――﹂ 三輪の萬七は斯う言つた調子です。 ﹁いや、飛んだ縮しく尻じりさ。大阪まで物笑ひの種を撒まきに行つたやうなもので――﹂ 平次は面目次第もなく小こび鬢んなどを掻くのです。 ﹁飛んだ上方見物が出來て、拾ひものぢやないか――ところで、その木枯の傳次だ。あれから五ヶ所に押入り、一人に怪我させた上、一人殺して居る。放つちや置けないから、手一杯の網を張つて見た﹂ ﹁――﹂ ﹁幸ひ荒し廻るのは明神下から向柳原までで、坂も登らない代りに、橋も越さない。それに鼠みたいに道まで決つて居る﹂ ﹁――﹂ ﹁自分の住んで居る近所を荒し拔けば、いづれ巣を變へるだらうが、その前に生捕るつもりで、此邊一帶に網を張つて見た﹂ ﹁――﹂ ﹁すると、思つた通り、三度までこの罠わなに落ちて、すんでの事に御用といふところで――癪しやくにさはることは三度共輕く逃げられた﹂ ﹁――﹂ 三輪の萬七はいかにも口惜しさうですが、斯こんな縮尻話を持込む眞意は、一體何んでせう。 ﹁ところで、その木枯の傳次が三度までも逃げ込んだ場所は何處だと思ふ、錢形の﹂ ﹁?﹂ 平次は茫ばう漠ばくとした顏を擧げました。 ﹁向柳原の、あの路地だよ、――八五郎兄あに哥いの住んで居る﹂ ﹁――﹂ ﹁御存じの通りあの路地の奧には、叔母さんの家の二階に八五郎兄哥が住んでゐる外には、足腰の達者な人間は一人も居ねえ、――尤も居ゐ留る木ぎ角左衞門といふ、恐しく頑丈な浪人者は一人住んでゐるが、これは近處の子供を集めて手習ひから子し曰のたまはくを教へて居る結構人で、その上ひどい鳥とり眼めだから凡およそ泥棒とは縁の遠い御仁體だ﹂ 三輪の萬七がわざ〳〵明神下の錢形平次の家を訪ねて來て、斯んな途方もないことを云ふ眞意は一體何んでせう。 この秋から江戸の一角を荒し廻る兇賊木こが枯らし傳次、恐しい躰力と機智と、その上許し難い殘忍性を持つたのが、三輪の萬七の言ひ分を聽けば、錢形平次の子分――少々あわて者で、正直で御粗末でこの上もない純情家ではあるにしても、聊いさゝかお味噌の足りない八五郎ではあるまいか――いや、少なくとも三輪の萬七は、八五郎に違ひないと信じきつて居る樣子でした。 ﹁ね、錢形の親分。あんまり樣子が變だから、内々八五郎兄哥の留る守すを狙つて、あの叔母の家といふのを搜さがして見ると――﹂ ﹁――﹂ 平次はゴクリと固かた唾づを呑みました。 ﹁出たの出ねえの、縁の下や、ドブ板の下から、財布や紙入が十と七つ。それが皆んなこの間から木枯傳次に盜まれた何百兩とも知れぬ金を入れた品だ﹂ ﹁――﹂ ﹁それだけ證據が揃つて居るんだ。八五郎兄哥に繩を打つて引つ立てても、文句の出る氣づかひはねえが、十手の誼よしみてえのもあるから、一應錢形の親分の耳に入れて置かうと思つて、わざ〳〵やつて來たんだが﹂ 三輪の萬七は、まさに宜い心持さうでした。此處で錢形平次の右の腕――とは言へない迄も、左手の小指くらゐには當るほどの八五郎に繩を打つて、傳馬町の大おほ牢らうに叩き込むことが出來たら、三年越の溜りう飮いんが一ぺんに下がるに違ひなかつたことでせう。 ﹁それは有難う。三輪の親分なればこそ、それほどの大事を打ち開けて、相談に來てくれたんだ、恩に着るぜ――が、三輪の﹂ ﹁――﹂ 平次は靜かに語り繼ぎます。 ﹁八五郎は間拔けで飛び上がり者には違げえねえが、まさか泥棒をするとは思はれない――いや、泥棒をするとしても、生得のドヂだから木枯小僧ほどの器用な眞似は出來ない筈だ。それに自分の盜んだ金の入れ物を、自分の家の縁えんの下に投り込んで置くといふのも、お手輕過ぎて、チト變ぢやないか﹂ ﹁――﹂ ﹁長いことぢやない、たつた七日――いや三日待つてくれ。八五郎を絞しめ上げた上、本當にあれが木枯小僧の傳次なら、人樣の手を借りるまでもない、この平次が其場で繩を打つて、三輪の親分に引渡さう﹂ 平次の出した條件は穩健そのものと言ふよりも、少し意い氣く地ぢなくさへありました。 ﹁大丈夫だらうな、錢形の﹂ ﹁武士なら、金きん打ちやうといふところだ。八五郎が木枯の傳次か傳次でねえか、確かな證據を揃へてお眼にかけよう。三日の間に眞ほん物ものの木枯の傳次を縛れなかつたら、十手捕繩を返上してこの平次が髷まげを切つて詫ようぢやないか﹂ 錢形平次もまさに袋路地に追ひ込まれた形です。 ﹁それほどに言ふなら、一應錢形の親分に任せるとしようか。念のために言つて置くが、俺は三十二人といふ下つ引を狩り出して、三度までも木枯の傳次をあの路地の中に追ひ込んで居るんだぜ。路地の入口には町木戸の番屋があつて、路地は一方口の袋路地だ。入口を塞ふさがれたが最後、鼠一匹這ひ出す隙間もねえところだ﹂ ﹁――﹂ ﹁髷などを賭けると、飛んだことになりさうだぜ。ハツ、ハツ、ハツ、ハツ﹂ 平次のうなづくのを見て、三輪の萬七とお神かぐ樂らの清吉は歸つてしまひました。三
その後へ八五郎はフラリと入つて來たのでした。相變らず恰かつ好かうの崩れた彌造を拵へて、足で格子戸をグワラリと開けると、 ﹁今んちは、親分、良い天氣ですぜ。煙草の煙の中に坐つて、モノを考へて居るやうな日ひよ和りぢやありませんよ﹂ ﹁馬鹿野郎﹂ ﹁へツ、今日は風當りが強さうだ。又出直して來るとしませうか﹂ ﹁誰が歸れと言つたんだ、――待ちなよ、八﹂ ﹁へエ﹂ ﹁足で格子を開けて、人の家の中へ彌造を持込むやうな野郎に、器用な泥棒が出來るかどうか、考へて見るが宜い﹂ 子分思ひの錢形平次は、この涙ぐましき迄の正直者――ガラツ八の八五郎に小言を言つてるのではなく、此處まで嫌いやがらせを言ひに來た、三輪の萬七の小意地の惡さに對して、腹を立てて居るのでした。 ﹁それは何んのことです、親分﹂ ﹁先刻三輪の親分が、嫌な事を言つて來たんだよ﹂ ﹁へエ?﹂ ﹁近頃御府内を荒し廻つて居る泥棒の木枯傳次を、うまい具合に罠わなに陷おとして、三度までも向柳原の袋路地に追ひ込んだが、三度共路地の中で消えてなくなつたといふんだ﹂ ﹁へエ?﹂ ﹁その路地の住人で、足腰の達者なのは八五郎たつた一人。その八五郎の家の縁えんの下やドブ板の下から、盜まれた財布や紙入が十七も出て來たが、この野郎を縛つたものかどうか、この段伺ひ度い――と﹂ ﹁誰です、そんな事を言やがるのは﹂ ﹁三輪の萬七親分だよ、――そこで俺はさう言つてやつたのさ。八の野郎が木こが枯らしの傳次なら人手をかりずに、この平次が繩を打つて突き出しませう――とな。どうだ――ちつとは身に覺えがありさうかえ﹂ ﹁ジヨ、冗談で――﹂ ﹁覺えがあるなら、今のうちに名乘つて出てお慈悲を願つた方が宜いぜ﹂ ﹁飛んでもない、親分﹂ 錢形平次の話にも少しばかりの作が入りますが、八五郎の驚きは格別でした。 ﹁それ程の騷ぎを、お前は今まで知らずに居るわけぢやあるめえ。路地の中に木枯の傳次が逃げ込んだと知つたら、何んだつて縛らなかつたんだ﹂ ﹁それがね、――あつしはこの騷ぎには口をきいても指を出してもならねえと、笹野の旦那に構はれたんださうですよ、――そんな事は親分が江戸に歸つた時、詳くはしく話したぢやありませんか﹂ 八五郎の器量の惡さ。 ﹁それは聽いたが、笹野の旦那が、そんなわからねえことを仰しやる筈はねえと思つて聞流して居たが、今から考へると、木枯の傳次が三輪の親分に追ひ詰められて、あの路地の中に姿を隱したんで、三輪の親分がお前を怪しいと睨んでそんな細さい工くをしたに違げえねえ﹂ ﹁へツ、癪にさはるぢやありませんか、親分﹂ ﹁一體その騷ぎのあつた晩、――木枯の傳次が向柳原の路地の中に追ひ込まれた晩よ、――お前は何處で何をして居たんた﹂ ﹁三度とも碁ごを打つて居ましたよ﹂ ﹁何處で、誰と?﹂ ﹁え――と、最初は十一月二十五日の晩でした。あつしの家と言つても叔母の家ですがね、階し下たで薄寒いから火鉢を三つも入れて、あつしと飴あめ屋やの甚助と打つて居るとヨセになる頃あの騷ぎで﹂ ﹁勝負は?﹂ ﹁あつしが五六目勝ちましたよ﹂ ﹁二度目は?﹂ ﹁居留木さんの浪宅で、あつしと居留木さんと打つて居る時で﹂ ﹁勝負は?﹂ ﹁中押であつしが勝つたと思ひます﹂ ﹁三度目は﹂ ﹁飴屋の甚助の家で、――その時は居留木さんと甚助で打ちました。何しろ甚助の家は路地の口だから、騷ぎが始はじまると滅茶々々で、碁は途中でこはしてしまつた筈です﹂ ﹁外に碁を打つ者はないのか﹂ ﹁ありますよ、路地内では叔母の家の隣に住んで居る後家のお大だい婆ばあさん。これは足腰は覺おぼ束つかないが、女のくせに碁は強い方で、碁が始まると娘のお歌をつれて來て、お茶や火鉢の世話をさせ乍ら、自分も時々は石を握ります。まア、あつしに先といふところで﹂ 八五郎は妙に碁の強いことは、この捕物控の物語の中にも、幾度かくり返して出て居る筈です。四
﹁此處で相談して居ても、木枯傳次の正體がわかる筈はない。出かけて見ようか、八﹂ ﹁ぢや行つてくれますか、親分﹂ 八五郎は妙な心持でした。が、錢形平次が出動してくれさへすれば、事件は半日經たないうちに解決して、木枯の傳次はヒヨイとつまみ上げの、自分に着せられた濡ぬれ衣ぎぬ――聊いさゝか小便臭い濡衣を、手もなく乾かしてくれさうな氣がして、眞にイソイソと先に立つて案内して行きます。 ﹁お前の住んでゐる路地には、どんな人間が居るんだ。もう少し詳くはしく聽き度いな﹂ 途々平次は八五郎の口から、出來るだけの材料を引出さうとして居る樣子です。 ﹁親分も御存じの通り一番奧が叔母の家で、その二階に居るのはこのあつしで――﹂ ﹁お前は勘定しなくても宜い﹂ ﹁奧から順に言ふと、一番奧――叔母の隣がお大婆さんで、たつた一と握りほどの年寄の癖くせに、お大とはこれ如何に――と、町内の閑ひま人じんの洒落の種になつて居る﹂ ﹁無駄が多いな、お前の話は?﹂ ﹁大した奢おごりはないが、手内職一つするでもなく、樂さうに暮して居るところを見ると、少しは貯へも持つて居るでせう。聽けば以前は芝あたりの表通りに店を持つて居た、相當の商あき人んどの後家なんださうで、年頃は五十七八﹂ ﹁それは間違ひもなく木こが枯らし傳次ではないだらうな﹂ ﹁婆アの泥棒なんか年代記もので、――杖を突いて押込んで、入齒を落したとたんにつかまる﹂ ﹁又無駄だ﹂ ﹁尤もそのお大婆さんの孫娘のお歌は大した代しろ物ものですよ。年は十九だといふが、背がすらつとして愛嬌があつて、色白で、眼が大きくて、心持鼻が高くて、――その娘が通ると、路地の中へ陽が射したやうに、クワツと明るくなるんだから不思議ぢやありませんか﹂ ﹁それから?﹂ ﹁その隣は浪人者で居ゐ留る木ぎ角左衞門といふ四十男。武藝の方は知りませんが、學問は相當で、晝のうちは町内の子供を集めて、手習から子し曰のたまはくなんてのを教へて居る。尤もおそろしい鳥目で、夜は碁を打つのさへ難儀なくらゐ﹂ ﹁碁は強いのか﹂ ﹁あつしと互先ですよ、――居留木さんの隣は飴屋の甚助で、これは三十五六の男盛りだが、弱氣ではにかみ屋で、少し跛びつ足こで、遊びも道樂も知らない變人だ。碁の強いのは見つけもので、あつしが二目置かされる﹂ ﹁變な人間が揃つて居るんだな﹂ ﹁その三軒の長屋の前は、御存じの質屋の黒板塀べいで、路地の外には町木戸と自身番があつて、番太が草わら鞋ぢを作り乍ら、一日の半分は居眠りして居る﹂ ﹁よし解つた、――おや、さう言ふうちにもう向柳原ぢやないか﹂ 平次はさう言ひ乍ら、町木戸の裏の番屋の油あぶ障らし子やうじを覗きました。 ﹁爺とつさん、精が出るね﹂ ﹁おや錢形の親分﹂ 番太の吉六は、膝の上の藁わら埃ぼこりを拂つて腰を伸ばします。町の木戸番に自身番を兼ねた二間に九尺の番屋、町役人の詰めてゐない時は、越ゑち前ぜん者ものの番太郎の吉六が、駄菓子を賣つたり草鞋を作つたり、町の掃除をしたり、所いは謂ゆる﹃生きた親爺の捨て所﹄らしく無事で、平凡な日を暮して居るのでした。 ﹁ところで三輪の萬七親分が三度ばかりこの路地に泥棒を追ひ込んださうだな﹂ ﹁へエ、大變な騷ぎでございました﹂ ﹁その時の樣子を詳くはしく聽き度いが――﹂ ﹁十一月の末から三度、――確か二十五日と二十七日と、今月に入つて四日、月のない晴れた晩ばかりで、三度とも宵のうちでございました。三輪の親分が豫々木枯の傳次の巣はこの邊と睨んでゐたさうで、八方から網を絞しぼるやうに追ひ込んで來ましたが、この路地へ追ひ込むと、大地の中へ消え込むやうに、それつきり姿を隱すんださうで﹂ 番太の吉六は細こま々〴〵と説明するのでした。 ﹁それは三度共、町木戸の閉まる前だつたのか﹂ ﹁亥よ刻つそこ〳〵で、木戸を閉めようとする間際でございました﹂ ﹁その日は夕方から宵にかけて、路地を出た者はなかつたのか﹂ ﹁出た者も入つた者もありますが、一々氣も付けて居りません﹂ ﹁逃げ込んだのは、三度とも確たしかに同じ者だらうな﹂ ﹁黒裝束で恐しくはしつこいのをちらつと見ただけで、確かなことは申上げられませんが、三度とも同じ野郎だつたと思ひます﹂ ﹁黒裝束?﹂ ﹁黒の絆はん纒てんに紺の股もゝ引ひきで、頬冠りも黒かつたやうで﹂ 黒の頬冠り? それは新しい事實ですが、それ以上にこの老人からは引出せさうもありません。 ﹁八、お長屋の衆に引合せてくれ。お前が木枯の傳次でなきや、一應皆んなの顏を見なきやなるまい﹂五
路地を入ると右手は三軒長屋で、突き當りの一軒は八五郎の叔母の家。そして左手は質屋の黒板塀が、忍び返しも嚴重に、塗り立ての墨の生々しさを見せて恐しく頑ぐわ固んこに突つ立つて居るのです。 ﹁どうだえ、お前が木枯の傳次だとしたら、この黒板塀へ飛び付いて質屋の庭へ逃げ込む工夫はないか﹂ 平次はニヤニヤと斯こんな事を言ふのでした。 ﹁冗談でせう。忍び返しは鐵のやうに丈夫だし、黒板塀は塗つたばかりで、引つ掻きを拵こさへてもわかりますよ﹂ ガラツ八は木枯の傳次になり濟して、これも斯んな受け應へをして居ります。 右手の三軒長屋は庇ひさしが傾いて、雨樋どひもフラフラになつて居りますから、野良猫が飛び付いても無事では納まりさうもありません。 ﹁すると木枯の傳次は、突き當りのお前の叔母さんの家へ飛び込むより外に、逃げ路はないことになるぜ――俺が三輪の萬七親分でもこいつは八五郎を縛り度くなりさうだぜ﹂ ﹁嫌だね親分﹂ そんな事を言ひ乍ら、二人は取つつきの飴屋の甚助の家の前に立つて居りました。 ﹁居るかえ、飴屋の大將﹂ ﹁あ、八五郎親分、――今日はいけませんよ。碁ごを始めるときつとその晩、木枯の傳次がこの路地へ逃げ込むんだ、今日も三輪の萬七親分に、散々嫌がらせを言はれたところですよ﹂ さう言ふ飴屋の甚助は、三十四五のまだ若い男で、少々跛びつ足こで、蒼黒くて、碁は強いかもわかりませんが、人間は恐しく弱さうです。尤もつとも愛嬌があつて、調子がよくて、斯う話して居ると憎めないところがあり、八五郎と馬が合ふといふのも無理のないことでした。 隣は浪人の居ゐ留る木ぎ角左衞門、四十前後の恰かつ幅ぷくの良い武家で、少し怖い顏をして居りますが、それが寧むしろ人の好い證據と言つてよく、話の調子も滑なめらかで、何方かと言へば、素そぼ朴くなうちに、人を外らさないところがあります。 ﹁錢形の親分か、――いや、お隣の話を聽いたよ。八五郎親分が泥棒の汚名を被きせられたさうぢやないか、――飛んでもない話だ。あの騷ぎのあつた晩は、三晩とも我々と一緒に碁を打つて居る。不審と思ふなら、あの時の碁ご譜ふを覺えて居るから、白洲で並べて見せても差支はない。飛んだ馬鹿なことがあるもので﹂ と言つた調子です。 三軒目の後家のお大だいは、五十七八のこれは一とつまみほどの老女でした。 ﹁錢形の親分さんで、御苦勞樣でございます。八五郎親分にはこの間から飛んだお世話になつて居ります。女二人世帶で、淋しがつて居りますので、孫のお歌なんかは八五郎親分、八五郎親分と、そりやもう夜も日も――﹂ ﹁あれ、お婆さん、止して下さいよ。そんな極りの惡いことを﹂ 後ろからそつと袖を引くのは、十九といふにしては、柄がらが大きいせゐか、少し老ふけては居りますが、八五郎の所いは謂ゆるクワツと其邊中明るくなるやうな良い娘です。 平次は尚も立ち入つていろ〳〵訊いて見ましたが、この三軒に住む四人の男女は、いかにも無害なお長屋の住人達で、少しの怪しい節もなく、 ﹁成程、こいつは八五郎が一番怪しいといふことになりさうだぜ﹂ ﹁冗談ぢやありませんよ、親分﹂ ﹁木こが枯らしの傳次がこの路地の中に飛び込んだとすると、最初の晩は浪人の家、二度目と三度目は、お前の家へ飛び込むより外に逃げ路はないぜ﹂ ﹁二度目と三度目は、あつしは家を空あけたに違ひありませんが、歸つたとき戸締りに變りはなかつたし、家の裏は隣町の米屋の倉で、鼠だつてもぐれませんよ﹂ ﹁すると、益々お前が怪しくなる﹂ ﹁嫌になるなア、親分﹂ これは全く解きやうのない謎でした。六
平次は最後に殘された探索の網を辿たどつて、木枯の傳次が路地へ追ひ込まれた三晩の足取り、つまり、三軒の荒し先を調べる氣になりました。 十一月二十五日に押込んだのは、佐久間町四丁目の油屋山崎屋與兵衞で、 ﹁へエ、――戌いつ刻ゝは半ん︵九時︶少し過ぎでございました。黒木綿で頬冠りをした大男が、匕あひ首くちを持つて店口から飛び込み、默つて脅おどかしましたので、有合せの賣うり溜だめ二三兩をかき集めてやると、いきなり私の頬をこの通り匕首で叩きます﹂ 主人の與兵衞は漸ようやく繃帶を取つたばかりの、生々しい傷きず痕あとを殘した、左の頬を見せ乍ら續けるのでした。 ﹁――仕方がないから二階に居る女房を呼んで、仕入れの爲に用意した、五十兩の小判を、財布ごと持つて來さしてやつてしまひました。いや、その口く惜やしいことと申しては――﹂ 主人はまだその五十兩を忘れ兼ねた樣子です。 賊の木枯傳次は始終緊張した態度で、用心深く四あた方りを見廻して居たこと、一言も口をきかなかつたこと、そして、柄の大きい、恐きよ怖うふ心のせゐか――雲を突くばかりの大男に見えたといふのが特色です。 二度目の十一月二十八日、押入つたのは、八やな名が川は町の兩替屋萬屋伊三郎の店で、この時は亥よ刻つ︵十時︶少し前。店を締めやうといふ間隙に押込んで、騷ぎ出した主人の伊三郎を、一と突きに突き殺し、番頭と小僧を脅おどかして、百兩あまりの金を持つて行つたといふことでした。 ﹁小柄でオドオドした男でございました。スーツと入つて來たと思ふと、騷ぐ主人を一と突きにして、默つて金を受取つて、あつと言ふ間に飛び出してしまひました。木こが枯らしとはよくつけた綽あだ名なで、本當に煙草三服ほども手間は取りません。一言も口をきかず、黒い手拭で頬冠りをして顏も見せなかつたのでございます﹂ これは萬屋の番頭の言葉でした。 越えて十二月四日に押入つた、久右衞門町藏地の家主半兵衞の家では、 ﹁小柄といふ方ではなく、どつちかと言へば華きや奢しやな男でした。默つて匕あひ首くちをつきつけるので、こわ〴〵ながら十兩ばかり入つて居る財布を出すと、それをさらつて飛び出してしまひました。黒い頬冠りはして居りましたが、何人となく好い男らしくて――﹂ 半兵衞の女房は斯こんな事を言ふのです。 ﹁どうだ八、解つたか﹂ ﹁いえ、一向﹂ 三軒廻つた後で、平次は一寸八五郎をテストして居ります。 ﹁俺には大分わかつて來たが、――仕上げをし度いことがある。明日、いや、明あさ後つ日ての方が宜い、――明後日の晩、お前の家で碁ごを始めてくれないか﹂ ﹁そりや、やつて見ませう﹂ ﹁三軒長屋の衆を皆んな集めるわけは、今度俺の用事で明神下へ引越さなきやならないことになつたに就ついて、一と晩お別れの碁會がやり度い。何がなくとも一杯――﹂ ﹁?﹂ ﹁變な顏をするなよ、お前の空からつ尻けつは見通しだ。ほれ、これが酒代、これが肴さか代なだい﹂ ﹁へエ、濟みません﹂ 平次は八五郎の手に小粒を二つ三つ握らせて、その日はそれで別れました。 家へ歸つて來ると、其處に待つて居たのは、苦蟲を噛みつぶした、三輪の萬七とお神樂の清吉です。 ﹁おや、三輪の親分、留守にして濟まなかつたね。何にか用事で﹂ 平次は如才なく二人を迎へ入れました。 ﹁錢形の親分、約束の三日は明後日だが、それ迄待つて居られない事になつたんだ﹂ ﹁はて﹂ 平次はお茶などをすゝめるお靜を、眼顏で追ひ退けて靜かに煙草を捻ひねります。 ﹁清吉の野郎が、八五郎兄あに哥いの家を搜して押入の中からこれを見付けたんだ、――三尺の眞つ黒な木綿で、よく見ると、二三本拔け毛が附いて居る。言ふ迄もなく盲めく縞らじまの手拭だよ――木枯の傳次が、眞つ黒な手拭で顏冠りをして居ることは、錢形の親分もよく知つて居るだらう﹂ 三輪の萬七は勝ち誇つた姿でした。三尺の黒木綿を、これ見よとばかりに平次の前に押展べるのです。 ﹁――﹂ 平次は默つてそれを取上げると、念入りに調べ始めました。が、やがて側に萬七と清吉が居るのも忘れた樣子で、明り先に手拭を持つて行くと、打ち返し打ち返し念入りに調べるのです。 ﹁どうだえ錢形の﹂ ﹁面白いな、――ところで、この手拭に附いて居た髮の毛は、まさか捨てはしないだらうな﹂ ﹁其處に如じよ才さいがあるものか、この通り﹂ 萬七は懷紙の大きく疊んだのを取出して平次の前に押し開きました。中から出て來たのは三筋の髮の毛。 ﹁三輪の親分、この髮の毛は三筋とも色合ひも形も違つてゐるのはどういふわけだらう、――一本はひどい縮ちゞれつ毛だし、一本は少し白しら髮がになりかけて居るし、そしてあとの一本は、絹絲のやうに細くて、恐しく素直だぜ﹂ ﹁?﹂ ﹁手拭にもまだ短いのが澤山附いて居るが、皆んなこの三通りの毛ばかりだ。言ふ迄もないことだが、八五郎の毛は赤くて太くて熊の子のやうだ。そんなのはこの手拭に見付からないやうだが――﹂ 三輪萬七は明かな負けでした。スゴスゴと歸つて行くのを呼び止めて、黒木綿の手拭を借りた平次は、なほも殘る夕陽を追つて縁側に持出し、一生懸命調べ續けて居ます。七
その晩八五郎の家――といふよりは叔母さんの家に集まつたのは、八五郎の外に、浪人の居ゐ留る木ぎ角左衞門と飴屋の甚助と、後家のお大だいと、その娘のお歌の四人。碁ごは夕景から始まつて、暗くなると共に熱を加へ、八五郎と居留木、八五郎と甚助と去り行く八五郎に花を持たせて一番づつ相手をし、八五郎は續け樣に勝つて、やがて亥よ刻つ︵十時︶近い時分になりました。
その間に客があつたり、人が來たり、居留木角左衞門と甚助は自分の番でなくて見物に廻つてゐる間に一度づつ座を外しましたが、勝負に夢中になつて居る八五郎はそんな事さへ氣がつかない樣子で、やがて二番目の手合八五郎と甚助の二子番は、八五郎の中押にならうといふ時でした。
﹁火事だツ、飴屋さんの家が火事だツ﹂
路地の外にわめく聲、ハツと立ち上がると、入口の障子にパツと映つたのは、紛まぎれもなく燃えさかる猛火です。
﹁それツ﹂
甚助も角左衞門も飛び出しました。八五郎も勝つた盤ばん面めんを見乍ら、殘惜しさうに立ち上がります。が、外へ飛び出して見ると、大火には違ひありませんが、街の惡童共が、路地の入口に麥むぎ藁わらをつんで、それに火を附けたものらしく、燃え上がる焔ほのほは一時飴屋の甚助の軒先に迫りましたが、番太の吉六が、番手桶の水を持つて來てザツと掛けると、何んの他愛もなくバサリと消えて、あとはつままれたやうなもとの闇になります。
﹁何んの事だ﹂
舌打をして歸らうとする矢先、
﹁御用ツ﹂
﹁神妙にせい。木枯の傳次、御用だぞツ﹂
路地の内外からどつと湧いた御用の聲。
﹁や、己おのれツ﹂
闇の中に激はげしい爭ひは續きましたが、やがて自身番に待機した御用の提灯が一ぺんに飛んで出ると、錢形平次を捕とり頭がしらに、五六人の組子の手に犇ひし々〳〵と縛り上げられて居るのは、何んと、浪人の居留木角左衞門と飴屋の甚助とそして女後家のお大だいの三人ではありませんか。
﹁親分、これは何んです﹂
八五郎はまだ黒の碁ごい石しを握つたまゝ、路地の中へフラリと顏を出しました。
﹁木こが枯らしの傳次だよ﹂
﹁この三人のうち誰が傳次です﹂
﹁三人共木枯の傳次さ﹂
﹁へエ?﹂
﹁もう一人、若くて綺麗な木枯の傳次は早くも風をくらつて逃げてしまつたよ﹂
﹁あのお歌?﹂
﹁さうだよ、でも――八五郎親分に罪はない、あの人は正直過ぎるから、仲間の皆んなに道具にされました――と手紙を書いて俺の家へ投り込んだのは、どうもあの娘らしいよ﹂
﹁何い時つのことです、それは﹂
﹁今日さ、夕方だつたよ、――今晩の碁會が怪しいと早くも氣が付いたのだらう。どうかすると木枯の傳次といふのは、あの娘のことかも知れないな﹂
平次の言葉は見事に當りました。取調べの進むにつれて、木枯の傳次といふのはお歌のことで、あれは三十近い大年増でしたが、綺麗なので十九とも二十とも言ひ、數人の男とお大といふ惡あく婆ばを指圖して、長い間江戸中を荒して居たのです。尤も人を害あやめたり、非道なことをするのはその手下、わけても飴屋に化けた甚助の惡業で、お歌はそれをどんなに嫌がつたことでせう。一味は悉こと〴〵く處刑されましたが、お歌の木枯傳次は、それつきり姿を隱して二度とこの世に顏を見せなかつたのも不思議です。
× × ×
﹁どうして惡者共は碁の席から拔け出したり、そつと歸つたりしたのでせう﹂
事件落着後、八五郎の問ひに對して、平次はいつもの繪解きをしてやりました。
﹁お前が夢中になつて居る時、そつと拔け出したのさ。だから第一夜お前と甚助の手合せして居る時、居ゐ留る木ぎ角左衞門が拔け出して油屋に押入り、二度目はお前と居留木角左衞門と勝負を爭つてゐる時、甚助が拔け出して、萬屋伊三郎を殺して居る――近所ばかりを荒したのはその爲だよ﹂
﹁へエ﹂
﹁三度目には、甚助と角左衞門の手合せの時、お歌が拔け出したのだ、――そんな具合に三人がお前といふものを道具に使つて、交る〴〵拔け出して惡事を働いて居たのだ﹂
﹁どうしてそれがわかつたんです﹂
﹁三晩の曲くせ者ものが、身體も恰かつ好かうもやり口も三樣で決して一人ぢやない。それに黒手拭の毛でもわかつたし、もう一つは、火事だと怒ど鳴ならせて皆んな飛び出すのを、俺は路地に隱れて見て居たんだ。甚助は跛びつ足こなんか引かないし、角左衞門は鳥眼なんかぢやないよ。道の眞ん中に置いた材木を、ポンと飛び越して行つたくらゐだもの﹂
﹁へエ、呆あきれたもんですね﹂
﹁呆れるのはお前だよ、岡つ引が泥棒の道具になるのは譽ほまれぢやないぜ。道樂も程々にするが宜い――ホイ、又柄にもなくお説教になつたか﹂
平次はさう言つて蟠わだかまりもなく笑ふのでした。