一
﹁親分、間拔けな武家が來ましたよ﹂ 縁側から八五郎の長なんがい顎が、路地の外を指さすのです。 梅二月も半ば過ぎ、よく晴れた暖かい日の晝近い時分でした。 ﹁何んといふ口をきくんだ。路地の外へ筒拔けぢやないか、萬一その御武家の耳へ入つたら無事ぢや濟むめえ。無禮討にされても、文句の持つて行きどころはないぜ﹂ ﹁だからあつしは武家が嫌ひさ。何んか氣に入らないことがあると、人ひと切きり庖ばう丁ちやうを捻くり廻して、――無禮者ツ、手は見せぬぞ――と來やがる。人參や牛ごば蒡うぢやあるめえし、人間がさうポンポン切られてたまるか、てんで﹂ 八五郎はツイ自分の鼻を拳げん固こで撫で上げて、日頃の武家嫌ひを一席辯ずるのです。 ﹁わかつたよ。誰もお前を武家に取立てるとも何んとも言はないから安心しろ――ところでその武家が一向姿を見せないぢやないか。どうしたんだ﹂ ﹁もう來る時分ですよ。昌しや平うへ橋いばしの袂で、――この邊に高名なる錢形平次殿の御住居があると承はつて參つたが、どの邊でござらう――と眞四角に挨拶されて、危ふく吹き出すところでしたよ。高名なる錢形平次殿は嬉しいぢやありませんか﹂ ﹁馬鹿野郎、丁寧にモノを言はれて何が可を笑かしいんだ﹂ ﹁道は大通りを教へましたがね、あつしは拔け裏傳ひに來たから、曲りくねつてもう二三度道を訊いてゐるうちに請うけ合あひ晝頃になる﹂ ﹁呆あきれた野郎だ――おや、さう言へばお客樣ぢやないか。お靜が取次に出たやうだ。お前はその顎を引つ込めろ。見付かると面白くねエ﹂ 八五郎は顏を引つ込めました。それと入れ違ひに、平次の女房のお靜に案内されて來たのは、五十年輩の恐ろしく尤もらしい武家でした。 ﹁平次殿でござるか、拙者はお弓町の宇うさ佐み美な直ほ記き樣用人正木吾平と申すものでござるが、以後御見知り置きを――﹂ などと開き直ります。いかにも着實さうで、羊やう羹かん色いろの紋附と共に、何んの疑念も不平もなく、忠義一途に世に古ふりた姿です。 ﹁これは〳〵、御挨拶で恐れ入ります。で私へ御用と仰つしやるのは?﹂ 平次は聊いさゝかたじろぎました。こんな人種は平次に取つても何よりの苦手です。 ﹁他でもない、宇佐美家の浮ふち沈んに拘かゝはる一大事。折入つてお願ひを申上げたいといふのは﹂ 正木吾平は語り進みました。 宇佐美直記といふのは三千五百石の大身で、旗本とは言ひながら安あん祥しやう以來の家柄、大公儀から格別の御會釋があり、當主は無役ではあるが、小大名ほどの暮しをしてをります。 所領は下しも總ふさ、そこには小さいながら陣屋があり、東照權現――と神樣扱ひにされてゐる徳川家康から賜たまはつた所領永代安堵の御墨附は、何物にも換へ難い家寶になつてゐるのですが、その御墨附が昨ゆう夜べ盜賊のために盜み去られたといふのです。 ﹁その上御孃樣のお信樣が、庭の向うから射た本矢に頬を縫はれて、大變な怪我をなさいました。殿には以つての外の御腹立ちで、曲者引つ捕へて成敗すると仰せられますが、その曲者の見當もつかず、こと〴〵く閉口いたします。その上このまゝに差し置いて、自然公儀のお耳にも入ることになれば、宇佐美家への御とがめは免まぬれ﹇#﹁免まぬれ﹂はママ﹈ません。如何でござらう、平次殿﹂ 正木吾平は、膝の手を滑らして、平次に頼み込むのでした。 ﹁それは御心配なことでございませう。が、御存じの通りあつしは町方の御用を承はる者で、御武家方――わけても御大家の内輪のことに立入るわけに參りません﹂ ﹁いや、それもこと〴〵く承知で、八丁堀與力筆頭笹野新三郎樣の添そへ状じやうを持參いたしてござるよ。手前主人宇佐美直記樣は、笹野樣とはごく御ごじ眤つこ懇んでな﹂ 正木吾平は懷中から一通の手紙を取り出して、平次の膝元へ押しやるのです。 ﹁親分、動きが取れませんね――引受けませうよ。宇佐美樣の御孃樣は、本郷一番と言はれた大したきりやうだ。その頬を本矢で射るやうな野郎は、フン捉づかまへて釜かま茹ゆでかなんかにしなきや、腹の虫が納まりませんよ﹂ 八五郎は障子を細目に開けて、縁側から餘計な口を出すのです。 ﹁默つてゐろ、馬鹿野郎﹂ ﹁――﹂ 八五郎は龜の子のやうに頭を引つ込めました。が、かうして平次は思ひも寄らぬ事件――武家の内輪の、暴ばう虐ぎやくと純情と、無智と情じや痴うちの世界に、不本意の足を踏み込むことになつたのでした。二
お弓町の宇佐美直記の屋敷は、さして廣くはありませんが、なか〳〵に數す寄きを凝らした構へで、宇佐美家の裕福らしさを端的に物語つてをりました。 内玄關から案内するのを、斷つて辭退した平次は、お勝手口から廻つて、先づ下女のお早、お小間使のお光、愛妾のお秋、若黨の金太郎などに會つたのは、飛んだ拾ひものだつたかも知れません。お早といふのは摺すれつ枯らしらしい四十女で、人を人臭いと思はぬところがあり、こんなのが案外、精一杯出入り商人などをいたぶつて役得を稼いでるのかも知れないと言つた、妙に拔け目のないところがあります。お小間使のお光は十八、唯可愛らしいといふだけの娘。妾のお秋は三十前後、充分に肉感的で、コケテイツシユであるにしても、どちらかと言へば醜みにくい方で、これが三千五百石のお部屋樣と聞くと少し可笑しいくらゐです。 若黨の金太郎は小氣味の良い男振りでした。色の淺黒い骨組の逞たくましい、どこか野の匂ひのする男で、言葉の關東訛なまりにも、何にか知ら小氣味のよさがあります。 こんなことで少し手間取つた平次は、用人の正木吾平にせき立てられて、奧の一と間――主人宇佐美直記の待ち構へてゐる一室に通されました。 ﹁平次か、待つてゐたぞ。よく參つたな﹂ 三千五百石の殿樣が、乘り出して手を取らぬばかりです。五十近い年配。運動不足と贅澤で、蒼白く肥つてをりますが、若い時分はさぞ美男でもあつたでせう。物言ひが少し吃どもつて、額に靜脈のうねるのは、並々ならぬ癇かん癖ぺきの證據でもあります。 ﹁飛んだことでございました。さぞ御心配なことで﹂ 平次は敷居際に、卑ひ下げし過ぎない程度に挨拶しました。 ﹁娘の頬の傷は兎も角、御墨附が紛ふん失しつしては、大公儀への申譯が相立たない。表沙汰になれば、輕くて閉門、減地。重くて切腹を仰せ付けられまいものでもあるまい﹂ ﹁――﹂ 平次は顏を擧げました。娘の頬の傷より、お墨附が大事だといふ、親の心が呑込めなかつたのです。 それは兎も角、宇佐美直記は、昨夜の一埒らつをかなり巧たくみな話術で、平次に説明してくれました。大方それは用人の正木吾平に聽いた復習に過ぎないのですが、平次は主人直記の語氣から、何にか新しい暗示でも掴めまいものでもあるまいと言つた心持で、いとも神妙にそれを聽いてをります。 宇佐美家の建築は、その頃の旗本屋敷の型通りで、かなり贅を盡したと言つても、天井が低く、廊下は狹く、決して宏莊なものではありませんが、お茶人だつた先代の設計で、庭造りはまことに見事なものでした。 その庭に散りかゝつた老梅が二三本。昨ゆう夜べは折からの月夜、ツイ障子を開けて月下に薫くんずる夜の匂ひを樂しんでゐるところへ、娘のお信が、お茶を汲んで入つて來たのが、酉むつ刻は半ん︵七時︶――まだほんの宵のうちでした。 ハツと物に驚いて宇佐美直記は顏を反そむけました。それはまさに電光石火の間に、恐ろしい危險を感じた本能の仕しわ業ざとも言ふべきでせう。 ﹁庭の方から、一本の矢が飛んで來たのぢや。私は幸ひ顏を反けたために、僅かのところで喉のど笛ぶえに突つ立つのを免まぬかれたが、部屋の中の薄暗がりで、茶を入れてゐた娘の頬を削けづつて、その矢は向うの唐紙に突き立つたのだ――これぢや﹂ 直記は傍そばに置いてあつた紙包の中から、一本の征そ矢やを出して見せました。 それは少し虫が付いてをりますが、鷹の羽で矧はいだ見事な征矢で、錆さびたりと言ひながら、矢尻も本物、これで喉笛を射られたら、まさにひとたまりもなかつたでせう。 ﹁この矢に見覺えがおありぢやございませんか﹂ 平次はそれを丁寧に見ながら訊ねました。 ﹁ない。――稽けい古こ矢と違つて、本矢は滅多に持ち出す品ではない。一本足りなくつても直ぐ氣が付く筈だが――この矢には一向見覺えがないのだよ﹂ ﹁多分これは、どこかの社やしろの奉納額から引き剥して持つて來たものでせう。矢やが柄らに二箇所斑まだらになつてゐるところがございます﹂ 平次の指摘したのは飴色になつた篠しの竹だけに上下二ヶ所、明かに紐か何にかで、額に括くゝつた跡が、印されてあるのでした。 ﹁いかにも﹂ ﹁江戸中の社やしろを探すわけにも參りません。それからどうなさいました﹂ 平次は次を促うながしました。 ﹁屋敷中の騷ぎになつたが、丁度その時裏門から疾風の如く驅け出した者があつたといふことだ。門番の手落ちには違ひないが、外から入る者なら兎も角、門内から不意に飛び出すものは防ふせぎやうはない――多分曲者は夕刻の忙しい時分塀を越して屋敷の中に紛まぎれ込み、植込みに隱れて本矢を飛ばし、裏門から逃げ出したものであらう﹂ ﹁――﹂ ﹁娘は早速自分の部屋に移し、一應の手當てをした上、若黨の金太郎を馳せて、三丁目の外科醫周しう庵あんを呼んだ﹂ ﹁その時、お屋敷の中の人數は、揃つてゐたことでございませうな﹂ ﹁それは間違ひない。下しも總ふさへ行つた伜と納戸役の外には、一人も外出してゐた者はなかつた筈だ﹂ ﹁で?﹂ ﹁娘の傷の手當てが濟んで、この部屋へ歸つて見ると、部屋の中はひどい取亂しやうで、手箱の中に入れてあつた筈の御墨附が紛失してゐるのぢや――お墨附は不斷土藏の中の箪たん笥すに納めてあるのだが、その日仔しさ細いあつて取出し、手箱の中に入れたまゝになつてゐたのだよ﹂ 宇佐美直記は、分別臭さをかなぐり捨てて、絶望的に四あた方りを見廻すのです。 ﹁このお縁側は、その時まで開いてゐたわけで――﹂ ﹁左樣、何分の騷ぎに顛てん倒だうして、雨戸を閉めるのを忘れてゐたのだ﹂ ﹁で、お心當りは?﹂ ﹁大ありだよ、平次﹂ 宇佐美直記は膝を進めました。三
﹁これを何んと見る﹂ 平次を庭へつれ出した宇佐美直記は、裏門寄りの塀の上に、惡魔の腕のやうに伸びた、空あき地ちの松の枝を指さすのでした。 ﹁?﹂ ﹁松の枝は折れて、板いた塀べいの上にも泥が附いてゐる。曲者はあの松を傳はつて、隣り屋敷の空地から忍び込んだに相違あるまい﹂ 直記の眼はキラリと光つて、その口邊には刻薄な冷笑が浮ぶのです。 ﹁――﹂ ﹁隣りは石山一馬殿の屋敷――先代からの不和だ。近頃その二男平馬殿を、宇佐美家の聟むこに入れ、重なる怨みを水に流して、兩家の親交を結んではと申入れた者があつたが、以つての外の事と追ひ歸した。そんなことを根に持てば隨分卑ひけ怯ふなこともするであらうな、平次﹂ 奧齒に物の挾つた――どころか、これはヅケヅケと隣り屋敷の石山一馬父子を告發してをります。 平次は念入りに松の木を調べた上、裏門の門番の老おや爺ぢに會つて見ました。彌市と言つて六十近い仁體ですが、赤銅色の巨大な身體と、怒鳴り馴れた大きい聲が、相當門番的威力を持つてゐさうです。 ﹁話にならないよ、平次親分。曲者といふ奴は、外からばかり來るものと思ひ込んでゐると、昨夜の奴は屋敷の中から飛び出すぢやないか、あつと言ふ間もありやしない。潜くゞ戸りを開けてあつたのが手落ちと言へば手落ちだが、まだ宵のうちだ﹂ 門番彌市はいかにも口く惜やしさうです。 ﹁身みな扮りを見なかつたのかな、御門番﹂ ﹁いや、犬か人間のけぢめもはつきりしないくらゐだ。何んにもわかる道理はない。私は母おも屋やの騷ぎを聽いて、飛び出さうとしてゐる矢先だ。兎も角用心のために潜戸を閉めて、門の扉は酉む刻つ︵六時︶に閉めるが、潜戸は亥よ刻つ︵十時︶までは開いてゐるのだよ。兎も角その潜戸を閉めに庭へ飛び出すと、出逢ひ頭に若黨の金太郎と鉢合せしさうになつた。金太郎も何んか庭の植込みに怪しい者の姿を見付けて、こゝへ飛んで來たのださうだ﹂ ﹁――﹂ ﹁それからお孃樣を、御自分のお部屋に移うつすのを手傳つて――これは若い男に任せるわけに行かないから、お早とお光さんと、この私の三人で移した。殿樣始めお部屋樣も御用人も唯もう轉倒して、ワイワイと騷ぐだけだ﹂ 門番彌市の話は相當要領を盡します。 平次はそこから小間使のお光の案内で娘お信の病間を見舞ひました。主人直記は勝手に屋敷の中を調べるやうに、そして誰にでも、遠慮をせずに物を訊ねるやうにと、平次自身にも屋敷中の者にも言ひ渡したのです。 娘お信の部屋といふのは丁度主人直記の部屋と背中合せになつた薄寒さうな北側の六疊でした。 ﹁お、金太郎さんぢやないか。ちよいと待つた﹂ お信の部屋からスルリと出て來た、好い男の若黨を、平次は呼び留めました。 ﹁錢形の親分、何んか御用で?﹂ ﹁お孃さんに何んか用事でもあつたのか﹂ ﹁なアに、用事つて程ぢやないが、ちよいと、お見舞ひにね﹂ 若黨がお孃さんの部屋へ入るのは、武家屋敷の常識にはないことですが、見舞ひと言へば隨分筋が立たないこともありません。 ﹁昨ゆう夜べ曲者が逃げ出した時、門番の彌市さんと庭で鉢合せをしたさうだが、お前さんは曲者の姿を見なかつたのか﹂ ﹁殿樣の聲に驚いて飛び出したくらゐだから、一と足遲かつたのだらう。口惜しいが何んにも見なかつたぞ﹂ ﹁そりや惜しいことをした﹂ ﹁見付けさへすれや、逃がしやしないが――﹂ 金太郎は苦笑ひするのです。腕つ節も男つ振りも相當、何んとなく頼たの母もし氣な若黨です。 ﹁お隣りの石山樣と、お屋敷の殿樣は、大分仲が惡い樣子だね﹂ ﹁犬と猿だね﹂ 金太郎は唾つばを吐くのです。 ﹁何方が犬で、何方が猿だえ﹂ 何時の間について來たか、後ろから八五郎が顏を出しました。今まで遠慮してお勝手に控ひかへてゐたのですが、本郷一番と言はれた娘の病間へ、親分の平次が行くとわかつてそつと後をつけて來たのでせう。 ﹁馬鹿つ、何んといふ口をきくのだ﹂ 平次はあわててたしなめました。 若黨に別れて娘の部屋へ――、敷居の外から聲を掛けると、 ﹁さア、どうぞ。お孃樣は、親分に御目に掛りたいと仰しやる﹂ さう言ひながら出て來たのは、三丁目の周しう庵あん――坊主頭の外科醫でした。 ﹁飛んだことでございましたな、お孃樣﹂ 入れ換かはつて平次、座敷の中へ僅かに顏を入れます。 ﹁錢形の親分さんとやら、どうぞこちらへ﹂ お信は滿面の繃ほう帶たいの中で、僅かに美しい眼を、動かします。 前以つて言ひ含ふくめたものか、召使も遠く去つて、周庵の歸つた後は、傷ついた娘と平次だけ、八五郎もさすがに遠慮して、五六間先に見張りの役を買つてゐる樣子です。 ﹁――﹂ 平次は娘の眼まな差ざしに誘はれるやうに、默つて枕近く膝ゐ行ざり寄りました。顏半分包んではありますが、この娘の美しさはまさに拔群です。白い晒さら木しも綿めんの繃帶に包まれてほのかに上氣した桃色の皮膚の美しさ、清らかな眼も、少し乾いた唇も、馥ふく郁いくたる香氣を發散して、この世のものとも思へぬ清純さがあるのです。 ﹁錢形の親分さんとやら、これには深いわけがございます。どうぞ、どうぞ、何んにも訊かずに、そのまゝお歸り下さいませんか、――お願ひ﹂ 娘は床の中でそつと掌てを合せました。平次を見上げた眼は涙に濡れて、唇は聲のない嗚をえ咽つに、可愛らしく引釣るのです。 ﹁それでは念のために伺ひませう﹂ ﹁?﹂ ﹁お孃樣は、御當家御殿樣の、本當のお子樣ではなかつたのですね﹂ 平次の問ひは唐突でした。 ﹁でも、私は藁わらのうちから育てられました――生みの親にもまさる御恩を受けてをります﹂ ﹁本當の御兩親は?﹂ ﹁存じません。――私はたゞ、姪めひに當るとだけは、亡くなつた乳う母ばの口から聽いてをりました﹂ これは容易ならぬ打ち開け話ですが、これくらゐのことまで隱しては、平次はこの事件から手を引くとは言はなかつたでせう。 ﹁いたし方もございません。殿樣折角のお頼みですが、私は馬鹿になつたつもりでこのまゝ歸りませう﹂ ﹁――﹂ ﹁でも、お孃樣、十手冥みや利うり、どうしてこんなことになつたか、それは一應調べなきやなりません。曲者を取つて押へるか押へないかは別として﹂ ﹁お頼み申します、平次親分さん﹂ 娘はそれには應こたへず、もう一度そつと床の中に手を合せるのです。 娘らしく小綺麗に片付いた部屋の中に、思ひの外質素ながら清げな床を敷いて休んでゐる娘の、繃帶を卷いた痛々しい姿や、生一本な調子などが、平次をすつかり押し負かしたことは言ふまでもありません。 娘の病室を出ると、平次は一應家中の人に會ひ、八五郎には近所の噂を集めさせました。娘の頼みは兎も角としてわかるものをわからずに引下がつては、平次の自尊心が許さなかつたのです。四
養子の直之進は二十四五の青年で、文武兩道に秀で、部屋住みながら評判の男でした。 ﹁私がゐさへすれば、曲者を取逃がしもしなかつたらうが、生憎所領下總へ行つた留守でな。納戸役山村要人と二人、ツイ先刻歸つたばかりだよ﹂ さう言ひながら、旅裝束を脱いだばかりの、逞たくましい胸などをさするのです。 少し菊あば石たがあつて、五尺六七寸の大兵、腕自慢らしい、――そして磊らい落らくさを看板にして、つまらないことにも肩かた肘ひぢを張つて見せる男ですが、平次の馴れた眼から見れば、こんなのは案外腦なうのお味噌が少し足りないのかもわかりません。 遠縁から迎へられて、養子の披露は濟みましたが、當然娘のお信と一緒になるのかと思ふと、祝言は又話が別と見えて、一向にその沙汰もなく、うるさい世評の中に歳月が空むなしく經つてしまひました。 いろ〳〵搜りも入れて見ましたが、この男は大言壯語するだけで、物の觀察などはできる柄ではなく、平次も諦らめて歸り支度をしました。 ﹁親分。もう歸るんですか﹂ それを追つかけて、門の外へ八五郎。 ﹁歸るよ。俺が踏み留つてゐても、外科の代りは、勤まらない﹂ 平次の諦らめきつた姿は、妙に八五郎の鬪爭心を刺戟します。 ﹁だつて、いろ〳〵のことがわかつたぢやありませんか。もう一と息で娘を怪我さした野郎も、お墨附を盜んだ曲者もわかるといふのに――﹂ ﹁不足らしい顏をするなよ。それがわかつたところで、大した手柄にはなるまい。ところで、お前の方はどんなことがわかつたんだ﹂ ﹁あの殿樣の評判は滅茶々々ですよ。領地で何遍百姓一揆きが起きたか勘定しきれない程で、あの養子の直之進が下しも總うさへ行つて來たのも、それを撫なだめるためだつたさうですよ﹂ ﹁そんなことだらうな。三千五百石の殿樣でも役高がないから思ひきつた取立てでもしなきや、あの大世帶は持てめえ﹂ 平次は妙に穿うがつたことを言ふのです。 ﹁それに、あのお孃さんは、養子の直之進が大嫌ひで、どうしても祝言をうんと言はないんですつて、――へツ、あの武藝自慢の肩かた肘ひぢを張つた野郎ぢや、女の子には持てませんね﹂ ﹁八五郎とは大した違ひだ﹂ ﹁それから昨ゆう夜べ殿樣が腹を立てて、隣り屋敷へ斬り込むと言つた騷ぎは聽かなかつたでせう﹂ ﹁そんな話は初耳だよ﹂ ﹁本矢を射込んだのは、弓道自慢の石山一馬に違ひないと言ふんださうで、御墨附を盜んだのは、宇佐美の家を取潰すため――あの御墨附を汚よごして、龍たつの口の目安箱に放り込んで置けば、間違ひもなく宇佐美家は取潰し、主人の殿樣は腹を切らされるんですつてね﹂ ﹁そんなこともあるだらうな﹂ 家康を神樣扱ひにした時代、お墨附冒ばう涜とくは恐ろしいタブーだつたことはいまさら言ふまでもありません。 ﹁腕自慢の若主人は留守、隨分困つたさうですよ。娘のお信さんは手負ひながら氣を揉んで、用人の正木吾平と、若黨の金太郎に頼んで、どうにかかうにか取押へたさうですが﹂ ﹁――﹂ ﹁おや、親分、何を搜さがしてゐるんです﹂ 八五郎の話を空そら耳みゝに聽いて、平次は塀外の松の木を中心に、その邊りの藪と草くさ叢むらと、下水の中心を熱心に搜してゐるのです。 ﹁何んでも構はない。この邊にある筈のないものを搜せ﹂ ﹁へエ? これぢやありませんか、親分﹂ 下水の中を覗いてゐた八五郎は、腐つた泥の中から、六尺くらゐの眞竹の細いのを一本ズルズルと引出しました。 ﹁それだ、それだ﹂ ﹁端つこに麻あさ糸いとが附いてゐますよ﹂ ﹁兩端がその麻糸を掛けるやうに削けづつてあるだらう――そいつは弓だよ﹂ ﹁へエ?﹂ ﹁曲者はその丸竹で拵へた弓で、お孃さんの顏を射たのだ――いや、お孃さんを射るつもりはなかつた。殿樣を射るつもりが、首をそらされて、後ろにゐるお孃さんの頬を射いけ削づつたのだ﹂ ﹁へエ? こんな竹の弓でね﹂ ﹁曲者は弓が相當いけるだらう――ところで矢はどこから持ち出したのかな﹂ ﹁わかりませんね。尤も、あんな本矢は武家方にはどこにでもありますよ﹂ ﹁いや――こゝから一番近い社やしろはどこだ﹂ ﹁櫻木天神樣ですよ﹂ ﹁行つて見よう﹂ 二人は足を早めました。そこからはほんの一二丁、櫻木天神の境内に入ると、先づ一と拜みして、右手の横へ。 ﹁見ろ、あの通りだ。奉納の額に掲かゝげた二本の矢が一本になつてゐる――それも羽は鷹の羽、間違ひはあるまい﹂ 平次は社の横、手の屆くあたりに掲げた、奉納の額を指さすのです。 ﹁太てえ野郎ですね、神樣に納めた矢で人を射るなんざ﹂ ﹁それにもワケがあるだらう。お前氣の毒だが、少し旅に出てくれないか﹂ ﹁どこです。どこへでも飛んで行きますよ、唐から天てん竺ぢくでも﹂ ﹁下しも總ふさだ――宇佐美家の所領へ行つて訊いたら、みんな一ぺんにわかるだらう。丁度今百姓一揆きが起きかけて、ブスブス燻いぶつてゐるさうだ﹂ ﹁それぢや、これから直ぐ――﹂ ﹁待ちなよ。いくら下總でも握にぎり拳こぶしで行かれるわけはねえ、――と言つても俺は御存じの通りの懷ふと具ころ合ぐあひだ。ちよつと家へ來るがいゝ。お靜が何んとかするだらう﹂ 錢形平次ともあらうものが、かうなつては女房を質屋に走らせる外には術てもありません。五
八五郎が下總から歸つて來たのは、それから四日目でした。 ﹁いや、驚いたの驚かねえの﹂ 旅の埃ほこりも拂はずに、長火鉢の前ににじり上がります。 ﹁何を驚くんだ。宇佐美直記の評判が散々だといふ話だらう﹂ ﹁それくらゐのことなら、下總まで行くに及びませんよ。それどころぢやねえ﹂ ﹁何がどうしたといふのだ﹂ ﹁あの宇佐美直記といふ野郎は﹂ ﹁少し荒つぽいな﹂ ﹁無暗な運上や借入、御用金を取立てた上、時々下總へ行つて、陣屋を根城に領内から美い女を漁あさり、その上氣に入らないことがあると、百姓を牢らうに打ぶち込み、五年前には伊之松といふ百姓を、物の言ひやうが氣に喰はないと言つて手討にしてゐますよ﹂ ﹁ひどいことをするな――その伊之松には女房子がないのか﹂ ﹁女房はそれを苦にして間もなく死んでしまひ、たつた一人殘つた伜の竹松は、二十歳を越した好い男ださうですが、江戸へ出てどこかに武家奉公してゐるさうで﹂ ﹁それから﹂ ﹁そんなことですよ、――でも百姓一揆きがブスブスしてゐるから、宇佐美の養子の直之進が行つて權けん柄ぺいづくで脅かしたくらゐぢや納りやしません。この春にはいづれ一と騷動持ち上がることでせう﹂ ﹁よし〳〵、それで大おほ方かたわかつた。さぞ骨が折れたことだらう、一杯つけて骨休めをするがいい﹂ ﹁なアに、疲れもどうもしませんよ。もう一度長崎あたりまで飛んで見せませうか﹂ 八五郎はさう言つた男だつたのです。 ﹁それが本當なら、ちよいと頼みたいことがあるが――﹂ ﹁何んです、親分﹂ 八五郎本當に膝ひざを乘り出しました。 ﹁こいつは明日まで放つて置きたくないことだ――お前がもし大して疲れてゐなかつたら、一と走りお弓町まで行つてくれないか﹂ ﹁宇佐美の屋敷へネヂ込むんでせう。かうなりや毆なぐり込みでも夜討でも何んでもやりますよ﹂ ﹁そんな荒つぽい話ぢやない――あの好い男の若黨――金太郎とか言つたあれをちよいと呼んで來てくれないか﹂ ﹁やつて見ませう﹂ ﹁萬々一嫌だと言つたら――お前は大弓場で弓の稽けい古こをしてゐたさうだね。でも丸竹の弓ぢやうまく行かなかつたらう――とか何んとか言つて見るがいゝ﹂ ﹁へエ、あの野郎ですか、丸竹の弓を使つたのは?﹂ ﹁そんなことはどうでもいゝ﹂ ﹁それぢや、首へ繩をつけてもつれて來ますよ﹂ 八五郎は相變らず宙を飛びます。 八五郎と金太郎との間に、どんな掛け合ひがあつたか、金太郎と平次が、何を話したか、それはしばらく措くとして。 その晩酉むつ刻は半ん︵七時︶過ぎ、錢形平次は改めてお弓町の宇佐美直記の屋敷にやつて行きました。用人正木吾平に會つて殿樣に御目通りを願ひ出ると、 ﹁平次か、その方の來るのを待つてゐたぞ。お墨附の行ゆく方へ相解つたであらうな﹂ 殿樣は待ちきれなくて、廊下まで平次を迎へに出る有樣です。 ﹁恐れ入ります。どうやら御墨附の行方相わかりました﹂ ﹁有難い、――禮を言ふぞ。誰か知らぬが、二三日前に龍の口の目安箱に、――宇佐美家の御墨附が紛ふん失しつしたに違ひない、嚴重に御詮議があるやうに――といふ訴状を投げ込んだ者があるさうで、御係りから嚴きびしい御達しだ。明日持參して重役方に御目に掛けなければ、宇佐美家の瑕かき瑾んともなるところだ﹂ それはまことに重大でした。宇佐美直記が逆のぼ上せあがるのも無理のないことです。 ﹁それについては、少しお願ひがございます﹂ 平次は靜かにそれを押し戻します。 三千五百石の殿樣が、手でも出したいやうな恰好をしてゐるではありませんか。 ﹁褒美の金か、それは承知してゐる。五兩か、十兩か、それとももつと欲しいといふのか――遠慮なく申せ﹂ 五十兩とも百兩とも言はぬところに、この殿樣の特色があります。 ﹁金は千兩萬兩積んでも、無益でございます。この御墨附を所持の者が、お孃樣、――お信樣と引換へにお渡し申上げたいと申します﹂ ﹁何んと申す﹂ ﹁お墨附を隱したのは、殿樣にお怨みを抱く者の仕しわ業ざにございます。が﹂ ﹁それはならぬぞ、いづれ娘を傷つけた曲者と同腹であらう。左樣なものに、娘を任せてなるものか﹂ ﹁ではお墨附はお諦めなさいますやうに。明日になれば火中されるか、目めや安すば箱こに投り込むか、どちらかといふことになりませう﹂ ﹁待て〳〵、そんなことをされてたまるものか。安祥以來の名家が、そんなことで取潰されてなるものか﹂ 立上がつた平次を、宇佐美直記はあわてて呼び留めました。 ﹁お孃樣のお身體には決して間違ひはあらせません、――その上、このことは、お孃樣も内々御承知の上でございます﹂ ﹁そんな馬鹿なツ﹂ 宇佐美直記は散々腹を立てましたが、元々自分の子でないお信に對する愛着が薄かつた上に、騷ぎを聽いて驅け付けた妾めかけのお秋、養子の直之進になだめられて平次の申出でを、それでも表面は澁々ながら承知する外はなかつたのです。六
傷のまだ癒なほりきらないお信は、若黨の金太郎に背し負よはされました。
﹁では、信﹂
﹁父上樣、御大事に﹂
金太郎の逞たくましい背に顏を埋めて、お信はさすがに泣いてをりました。
﹁お墨附は御門外にてお渡し申します。御用人正木樣などお出で下されば﹂
眞つ先にお信をおんぶした金太郎。錢形平次はそれに續き、最後は用人の正木吾平以つての外の顏で從ひます。
それは塗り込めたやうな眞つ暗な夜でした。門を出るとそこに待つてゐたのは、人もあらうにガラツ八の八五郎。
﹁へツ、お孃樣、無事に鬼の棲すみ家かを出ましたね、――お墨附はこれだよ、御用人。今度は盜られないやうに頼みますぜ﹂
もつたいなくもこのタブー附の怪えて物もの――家康公のお墨附を安やす女ぢよ郎らうの戀文のやうに、ヒラヒラと宙に見せびらかすのでした。
この交換が無事に濟むと、一行は兎も角も明神下の平次の家まで引揚げました。そこには平次の女房のお靜が床を敷いたり湯を沸したり、お祝ひの一本をつけたりして心そゞろに待つてゐるのでした。
× × ×
お信の頬の傷が癒なほつて、若黨金太郎とさゝやかな世帶を持たせてやつた後で、
﹁サア、あつしにはちつともわからねえ。宇佐美のお家騷動は一體どうしたことなんです﹂
八五郎は折を見て平次に繪解をせがみました。
﹁何んでもないぢやないか、――宇佐美の殿樣に手討になつて死んだ百姓伊之松の伜竹松といふのが、あの若黨の金太郎さ﹂
﹁へエー﹂
﹁金太郎は宇佐美直記に怨みを返すつもりでつけ狙ねらつたが、相手は腕ができてゐるから隙すきといふものがない。そのうちお孃さんは、宇佐美の本當の娘でないとわかり、妾のお秋に苛いじめられてゐるのを見て、可哀想が嵩じて二人は好い仲になつたのだらう﹂
﹁へエ、うまくやつてやがる﹂
﹁仲がよくなると、打ち明けなくてもいゝことまでも話すだらう。そのうちにお信さんは、金太郎の目もく論ろ見みを察し、それを止めようとしたが、金太郎にしてはいまさら思ひ留るわけにも行かなかつた。その間にお隣りの石山の伜が聟むこにならうとしたり、直之進が宇佐美家へ養子に入つたりしたが、お信の心持は變らなかつた﹂
﹁――﹂
﹁たうとうあの晩、金太郎は丸竹の弓を拵こさへ、天神樣の奉納の矢を持つて來て、庭から宇佐美直記を射たのだ、――神社から奉納の矢をはづして來たのは、天てん罰ばつを下すといふ心持だつたと思ふ﹂
﹁矢は直記の喉を外れて、娘お信の顏を傷けた。咄とつ嗟さの間に金太郎はそこまでは氣がつかなかつたが、兎も角も塀の外へ丸竹の弓を投げ、自分は裏門から飛び出して、その弓を下水に突つ込むと、松の木の枝を傳はつてもう一度庭に戻つた。――その時、門番の彌市と鉢合せをしたことだらう﹂
﹁成程ね﹂
﹁娘の身體を裏の部屋へ移して大騷動をしてゐる間に、金太郎は主人直記の無事な姿を見て、腹立紛まぎれにその部屋の手箱からお墨附を取出して隱した﹂
﹁へエ、行屆きますね﹂
﹁金太郎は宇佐美家を取潰して怨みを晴さうとしたが――宇佐美家は放つて置いても潰れる。下しも總ふさの領地の百姓一揆きはこのまゝぢや濟むまいから、それよりその有難いお墨附を種に、お孃さんを救ひ出してはどうだと、――これは俺が智慧をつけた﹂
﹁へエ、親分も人が惡い﹂
﹁三千五百石のガタピシした家を取潰すよりは、好きな同士を一緒にしてやる方が洒しや落れてゐると思つたよ。お信さんにしても、そんなことで宇佐美家が助かれば、親孝行の足しになる。どうだ八﹂
﹁なる程ね――道理であの二人ははたから見ると、胸が惡くなるほど睦むつまじく暮してゐますよ――隨分不自由はしてゐるやうだが﹂
﹁あんなうちは、貧乏もまた樂しみさ﹂
錢形平次はカラカラと笑ふのでした。