一
﹁變な噂がありますよ、親分﹂ 子分の八五郎がまた何にか嗅かぎつけて來た樣子です。 ﹁何んだ、また五本足の猫の子の見世物ぢやあるまいな﹂ 錢形平次は相變らず白日の夢を追ふやうに、縁側に流れて行く、煙草の煙の末を眺めて居るのでした。 江戸の四月、神田の家並も若葉に綴つゞられて、何處からともなく飼かひ鶯うぐひすの聲が聞えます。 ﹁そんな間拔けな見世物ぢやありませんよ――今度のはお化けで﹂ ﹁止せやい、馬鹿々々しい。お化けと鎌かまいたちは箱根から東には居ないことになつてゐるんだ﹂ 平次は煙草の煙を拂ひでもするやうに、大きく手を振りました。 ﹁ところが、現に見た者が三人も五人もあるんだから面白いでせう﹂ ﹁あわてた奴が居るんだね﹂ ﹁色模樣の大おほ若わか衆しうなんださうで。薄色の振袖に精巧の袴はかまをはいて、長いのをかう抱くやうに暗がりからスツと出て、スツと消える――﹂ ﹁身振りなんかしたつて、お前ぢや色若衆には見えないよ。そんなのは大方芝居の色いろ子このヒネたのか、蔭かげ間まの大年増が道に迷つたんだらう﹂ 平次はまるで相手にしません。 ﹁その化物が堀へいを越したり生いけ垣がきをくゞつたり、若くて綺麗な娘のある家ばかりねらつて歩くとしたらどんなもので﹂ ガラツ八の八五郎は、そんなことをいひながら、長んがい顎あごを撫で廻すのです。 ﹁嫌な化物だな﹂ ﹁あんまり意氣な化物ぢやありませんね﹂ ﹁彌造を二つこせえて、顎で梶かぢを取りながら、町内中の良い新造をおそつて歩く八五郎の方が餘つ程意氣なんだが――﹂ ﹁へツ冗談でせう﹂ ガラツ八はこんなことで、大敗北の退散をしてしまひました。錢形平次に取つては、見る眼嗅ぐ鼻の大事な助手には違ひありませんが、時々――いや十のうち八つ九つまでこんな他愛もないネタを持つて來て、平次にからかはれて歸る方が多かつたのです。 それから幾日か經ちました。 ﹁サア、大變、だからいはないこつちやない﹂ 髷まげ節つぷしを先に立てて飛んで來たのは八五郎です。 ﹁到頭大變が舞ひ込んで來やがつた。煮賣屋のお勘かん子こが男をこしらへたつて、おれのせゐぢやないぜ、八﹂ ﹁そんな話ぢやありませんよ。この間の色若衆が、元飯田町で殺されて居るんだ﹂ ﹁何んだと?﹂ ﹁槍か何んかで突かれて、無官の太夫敢あへない最期だ。今朝近所の衆が見付けて大騷動ですよ﹂ ﹁――敢ない最期と來やがつたか、お前の話は近頃三味線に乘るぜ――ところで、尻尾は出て居なかつたのか﹂ 平次は手早く支度を整へながら、相變らず無駄をいつて居ります。 ﹁天道樣にさらされても尻尾の出ないところを見ると、間違ひもなく人間だが、その代り男のくせに白おし粉ろいをつけてゐますよ﹂ ﹁いゝたしなみだ――どりや行かうか、八﹂ 元飯田町の餅の木坂の中腹、武家屋敷と町家と、妙に入り組んだ路地の奧へ、八五郎は平次を誘ひ込んだのです。 ﹁えツ、寄るな〳〵見世物ぢやねエ﹂ そんな事を言ひながら、彌次馬を掻きわけて行く八五郎。その後からついて行く平次を見付けると、 ﹁おや、錢形の親分。いゝところへ――﹂ 町役人が驅け寄ります。 この邊は﹃人の惡いは飯田町﹄といはれて安御家人の多いところ、それが町家と道を隔へだてて、軒を並べてゐるだけに町役人に取つては、まことに扱ひ惡いところでもあつたのです。現に、人一人殺されてゐるのに、御臺所町や二こな合から半ざ坂かの辻番からは寄り付かうともせず、中坂の自身番と、餅の木坂の町役人が立ち合つて、兎に角にも檢屍を待つてゐる有樣でした。 平次は一應の挨拶をして、變死體に近づきました。形ばかりの筵むしろを剥はいで、目禮をした平次の眼はその異樣な裝束に釘付けになります。 ﹁身許は判つてゐるのか﹂ ﹁見知り人が多勢あつて、牛込御門内に住んでゐられる三百石の御旗本本多三四郎樣の御舍弟、右うめ馬のじ之よ丞う樣と申すことですが、人をやつて申上げても、覺えはないとおつしやつて引取つて下さいません﹂ ﹁フーム﹂ ﹁當家の御舍弟右馬之丞は一と月前から旅へ出て居る――とかういふお言葉で﹂ ﹁掛り合ひが面倒なのだらう。武家は薄情だな﹂ 平次はうなづきます。その當時無闇に家名を重んじた武家方では、家來や家族に不所存なものがあつて、それがうるさい問題になりさうになると、恩愛も人情もかなぐり捨てて﹃當家に左樣な者は御座らぬ﹄と簡單に責任を回くわ避いひするのが、一つの例になつてゐたのです。 ﹁困つたことで――﹂ 平次は町役人の愚ぐ痴ちを背うし後ろに聞いて、その異樣な變死體を調べ始めました。 變死の異裝な人間は、年の頃二十歳にもなるでせうか、それが大前髮も變ですが、男のくせに薄化粧をして、口紅まで含ふくんでゐるのが、初夏の朝陽に蔽おほふところなく照らし出されて、グロテスクにさへ見えるのでした。 女物を直したらしい、大振袖の紫の褪あせて居るのも淺ましい限りですが、精巧の袴はかまは血に浸つて、前半に差した短いのはそのまゝ、細身の長い刀は、鯉こひ口ぐちでもきることか、自分の身體が芋いも刺ざしになつてゐる癖に、鞘さやごと二、三間先へ投り出してあります。 ﹁好い男ぢやないか、八﹂ 平次は下らないことに感心して居ります。 ﹁業平右馬之丞といつて、名題の色いろ師しですよ。二本差のくせに﹂ 町役人はそつとさゝやくのでした。 傷は下からグサツと突き上げた胸の傷で、殆ほとんど背中へ突き貫けるほどの凄まじいもの。 ﹁恐ろしい手際だ――この近所に槍のうまい人は?﹂ 平次は四あた方りを見まはしました。 ﹁――﹂ 町役人達がそれを迎へるやうに、默つて顏を見合せます。 ﹁この邊は御武家のお屋敷の多いところで、槍の名人も數限りなくありますが――﹂ 町役人の一人は四方をはゞかるやうにいふのでした。何にか仔しさ細いのありさうな口調です。 ﹁八﹂ ﹁へエ﹂ ﹁お前がいつた、色若衆の化物はこれに違ひあるまいが、この色若衆と掛り合ひのあつた家を聽き込んで來てくれ。いづれ二軒や三軒ぢやあるまいが﹂ 平次は八五郎を顧かへりみました。町役人を相手にしては埒らちがあかないと思つたのでせう。 ﹁そんな事なら譯はありませんよ。ちよいと待つて下さい﹂ 八五郎はそのまゝ、遠卷にしてゐる彌次馬の中に吸ひ込まれて行きます。 町役人の手を借りて、なほも調べて行くと、死骸には突き傷の外に打ち傷があり、腰から肩のあたりを餘つ程ひどく打たれた樣子です。 ﹁打ち身のひどいところは、着物まで破れてゐるが――唯打たれたのではなくて、突きのめされて倒れたのかも知れないな﹂ 平次は自分にいひ聽かせるやうに、獨り言をいふのです。 一應懷ふと中ころを見ましたが、錢などは百も持つてはゐず、その代り内懷中からズルズルと引出した袱ふく紗さの中から出て來たのは、十何本といふ夥おびたゞしい手紙――その中には紅筆で心のたけを綴つたのもあり、天地紅のなまめかしいのへ、夢のやうな事を書いたのもありますが、悉くが若い女の書いた戀文といふことがわかります。 ﹁何んです、親分それは?﹂ 町役人達も顏を持つて來ました。よく禿はげたのや、無精髯ひげのや、虫食頭のや、この町役人と稱する人種は、土地や家作は澤山持つて居るにしても戀文などといふものとは縁がなささうです。 ﹁みんな戀文だ﹂ ﹁それを何んにするんで?﹂ ﹁まさか質しち草ぐさにもなりやしめえが、唯もう温めて良い心持になつてゐたんだらう﹂ ﹁へエ﹂ 戀文が温をん石じやくの代りにならうなどとは、この人達には永久にわかりさうもありません。 そこへガラツ八が飛んで來ました。 ﹁大變ですよ、その怪えて物ものは、この町内だけでも噂の立つたのが、ザツと十五、六人。名前を讀み上げませうか﹂ ﹁止せよ、殺せつ生しやうぢやないか――こんなのに因いん縁ねんをつけられた女が可哀想だ﹂ ﹁すると、下げし手ゆに人んは?﹂ ﹁追々わかるだらう――ところで死骸の懷中にこれだけの手紙があつたんだが――﹂ ﹁へエ、恐ろしい野郎ですね。ちよいと一本讀まして下さいな﹂ 八五郎は物欲しさうに手を出しました。 ﹁止さないか、お立會の衆が笑つてるぜ――女の子の手紙をもらつたことがないやうで、見つともない﹂ 平次は、手紙の束たばをさつと自分の懷中へ入れてしまひました。二
﹁これだけの騷ぎの中へ、武家屋敷からは一人も顏を出しませんね﹂ 八五郎は左手に軒を並べた武家屋敷を、違つた世界でも見るやうに眺めて居ります。 ﹁掛り合ひがうるさいんだらう。家名のためには、自分の子の死骸さへも引取らないぢやないか、ことに年頃の娘を持つ親達は、用心深く構へてゐるよ﹂ ﹁そのくせ、その娘達が、こんな怪物に引つ掛けられるのを知らずにゐるんですね﹂ ﹁待ちなよ、八。そういへば左手の屋敷から人が出て來たやうだ﹂ そんな事をいつて居る平次の後ろへ、踊るやうな恰かつ好かうで近づいて來たのは、三十前後の下男風の男でした。 ﹁厄介なことだが、親分方﹂ さういふ聲は、若々しくて爽さはやかでさへあるのですが、振り返つて聲の主を見ると驚きました。これはまさに造化の神の氣きま紛ぐれとでもいひませうか、大あばたで鼻が曲つて、唇は醜みにくく引吊つて居る上、横幅の方が廣いやうな身體で、念入りに跛びつこさへ引いて居るのです。 ﹁お前さんは?﹂ ﹁この左側のお屋敷の奉公人だよ﹂ ﹁御浪人だね﹂ ﹁秋山伊織樣と仰しやるんだ。世にある時はさる大藩の御重役であつたが﹂ ﹁さうだらうな、浪人してもこれだけの屋敷に住んでゐられるんだから﹂ 八五郎は相變らず遠慮のないところを突つ放すと、下男風な怪奇な男は、ジロリと八五郎を見やつて、頑ぐわ固んこらしく口をつぐむのです。 ﹁默つて居ろよ、八、お前は口が過ぎていけない――ところで、この死骸をお前さんは知つて居る樣子だね﹂ ﹁八丁荒しの今いま業なり平ひらだ。知らなくつてどうするものだ﹂ ﹁昨夜こゝで殺された事と思ふが、何にか變つた音でも聽かなかつたかな﹂ ﹁知らないね――だが親分、お前さんはこゝで殺されたといつたが、私はさうぢやあるまいと思ふ――﹂ ﹁?﹂ ﹁見るが宜い、その怪し氣な振袖や袴はかまは、泥だらけだ――どつかで殺して、こゝまで引つ張つて來なきや、そんなに汚れるものぢやない﹂ ﹁――﹂ ﹁それに死骸には打ち身があるといふことだが、着物が破れるほどの打ち身は、棒で毆なぐつたくらゐのことではつくものぢやない。それは石垣の上から突き落された傷ぢやないのか――現に﹂ ﹁――﹂ 下男――このグロテスクな男の頭の良さと、その達辯は驚くべきものでした。 ﹁二こな合から半ざ坂かの石垣の下に、ひどく血がこぼれて居るのを、お前さん方御存じかえ﹂ ﹁え? それは本當か﹂ 錢形平次もさすがに驚きました。この怪奇な下男の眼は、平次の眼の屆かぬところまで知り盡して居るのです。 ﹁八、來い﹂ 平次はその場を町役人に任して、下男の指さす方に驅けて行きました。 ﹁これは何うだい、八﹂ 二合半坂のとある屋敷の横手、ざつと二間くらゐある石垣の下に、往來の土と石垣のすそを染めて、少しばかり血の跡が、初夏の烈はげしい陽に照らされて、薄黒く變色して居るのでした。 ﹁こゝに何んかあつたんですね﹂ 八五郎の鼻は上等の獵犬のやうにヒクヒクとうごめきます。 ﹁血が少な過ぎはしないか﹂ 平次は考へ込んで居ります。 ﹁でも石垣にはひどい引つかきがありますよ﹂ 仰ぐと二間ばかりの石垣は上からひどい引つかきがついて、苔こけも枯草もむしれて居るのです。 ﹁血がこぼれたのでなくて、拭いたやうになつて居るのは、どういふわけだ――眞つ直ぐでなくて、ひどく曲つて居るのも氣になるぢやないか﹂ ﹁でも石垣の上の要かな石めいしは、あの通り荒されて居ますよ﹂ かなり時代のついた石垣の上を、八五郎の不器用な指がさすのです。 ﹁この屋敷をお前知つて居るのか﹂ ﹁知つてゐますよ。春かす日が邦之助樣といふんで――大きい聲ぢやいへませんがね、名題の貧乏旗本で、へツ﹂ 八五郎は首を縮ちゞめて、ペロリと舌を出すのです。大きい聲ではいへない――と斷わつて居る癖に、八五郎の聲は町内中響き渡るほどのでつかいものでした。 ﹁こらツ﹂ 石垣の上にヌツと出た大おほ禿はげ頭あたまは、素晴しい一喝かつをくれました。 ﹁――﹂ 驚いて見上げる平次とガラツ八の頭上へ、 ﹁貧乏旗本とは何んだ、無禮者奴ツ﹂ まさに頭の上の大雷鳴です。 ﹁親分、聽えましたね﹂ ﹁その方共はどこの馬の骨だ。成敗してつかはす、そこ動くなツ﹂ 幸ひ二間あまりの石垣で、そこを飛び降りる勇氣がなかつたものか、老用人は門の方へ廻つた樣子です。 ﹁八、相手になるとうるさい、向うへ行かうか﹂ ﹁貧乏旗本の味みそ噌す摺り用人と來た日にや苦手だ。暫くやり過しませうか、飯田町はこれだから嫌ひさ﹂ 八五郎も不足をいひながら、もとの餅の木坂に取つて返しました。 そこには相變らず彌次馬が一パイ、丁度見廻り同心の石崎久馬が、土地の御用聞淺吉と一緒にやつて來て、改めて檢屍が始まつたところです。 ﹁平次か、丁度宜い、お前を呼びにやらうとして居たところだよ﹂ ﹁へエ、相濟みません。少し他ほかを調べて居りました﹂ ﹁困つたことに死體の引取人がないさうだな﹂ ﹁引取らなかつたところで、世間では知らずに濟ます筈はありません。馬鹿なことで﹂ 平次はツイ武家の﹃家本位﹄の考へ方に對する日頃の反感をブチまけるのでした。 ﹁――﹂ 石崎久馬――これも武士の端くれの見廻り同心は、眼を白黒して居ります。 ﹁ところで、この傷は不思議ではないか、平次﹂ 同心石崎久馬は、色若衆の死體を調べながら、その胸に受けた、すさまじい傷を指摘しました。 ﹁下から突き上げた傷ですね――着物の裂さけ目と、胸の傷との食違ひは大變ぢやございませんか﹂ ﹁そこだよ、傷の樣子では槍らしいが、槍で人を突いて、どんな工合になれば、このやうな傷がつくだらう﹂ ﹁高いところにゐるのを、下から突き上げたんでせうね﹂ ﹁本能寺の織田右大臣樣に、安田作兵衞が槍をつけたやうな工合だね﹂ 石崎久馬はそんな氣樂なことをいつて居ります。 ﹁ところで八、お前に頼んだ調べはどうだ﹂ 平次はさつきからそれを聞くひまがなかつたのです。手つ取り早く下手人を擧げるためには、この色いろ若わか衆しうの關係したといふ女の名簿を調べる外はありません。 ﹁思ひの外ですよ、親分﹂ ﹁何が思ひの外だ﹂ ﹁江戸中の女をなで切りかと思つたら、それ程でもありませんね。白粉までつけて歩くやうな化物とねんごろになるのは、よく〳〵あわて者だけで﹂ ﹁で、何人ぐらゐあるのだ﹂ ﹁古いところを勘定すると十人ぐらゐはありますがね﹂ ﹁新しいのだけで宜いよ﹂ ﹁飯田町の小料理屋で、月の家の女房お鐵。それから神かぐ樂ら坂の茶屋女でお萬﹂ ﹁それつきりか﹂ ﹁まだ大變なのがありますよ――この左手の屋敷――浪人ながら裕福で聞えた秋山伊織樣の一人娘お百合――大きい聲ぢやいへませんが、本多右馬之丞は大した熱心だつたさうで、もつともこの秋山樣の娘といふのはきれいですよ﹂ 八五郎の聲は次第に小さくなりますが、またさつきの變てこな下男などに飛び出されてはかなはないと思つたのでせう。 ﹁これは〳〵町方の御役人衆﹂ 果して門からまた怪奇な男が出て來ました。今度は威儀を正たゞしたつもりか、犬をどしの短いのを一本差して、右手に金こん剛がう杖づゑほどの六尺棒まで持つて居ります。 ﹁――﹂ ﹁きけばそれなる顎の長い男が御當家御息女のことをかれこれいつたやうだが、御當家御息女に限つて左樣なことはないぞ。棍も葉もないことを言ひ振らすとははなはだ迷惑をいたす。役目柄とは申しながら、少しは御身分のことも考へて、立入つたせんさくは無用にされるがよい、――この段主人に代つて確と申入れる﹂ ﹁くそでもくらへツ﹂ 八五郎は半分口の中で應じました。相手は武家で、昔は身分のあつた者かは知りませんが、町方役人もさうまでは干かん渉せふされる理由がなかつたのです。 ﹁何んと!﹂ 變な男はいきり立ちました。 ﹁八、もうたくさんだ。外にもまだ調べることがあるぢやないか﹂ 平次はそれに立向はうとするガラツ八を止めます。三
﹁八、その月の家とかいふのへ行つて見ようか﹂ 平次は先に立つて歩き出しました。かう行き詰つた事件を打開するためには、いとぐちを變へて手た繰ぐる外はありません。 ﹁月の家なら直ぐそこですよ﹂ 現場は石崎久馬と土地の下つ引に任せて、八五郎は平次の案内に立ちます。 坂を降りると飯田町通りで、そこには安御家人の冷飯食ひや、中間折助を相手の小料理屋が三四軒、薄暗くなる頃は店先に引つ張りが白い首まで出して、路地の一つ〳〵に陣を布しいて居るのでした。 ﹁御免よ﹂ 八五郎がとある小料理ののれんを、まげ節でかきわけるやうに入ると、 ﹁入らつしやい――あら兄さん﹂ などと、お面めん被かぶりに塗つた小女が、一視同仁のあいきやうを振りまきます。 ﹁へツ、おれはこゝは始めてだぜ、兄さんなんて言つて貰ひ度くねえよ――ところでお神さんは居るかい﹂ 八五郎はかう言ひながら、チラとふところの十手を覗かせるこつを知つて居たのです。 ﹁まア、親分さん﹂ 小女はあわてて飛び込みましたが、代つて出て來たのは二十六、七の良い年増。 ﹁親分さん、飛んだそさうをいたしました。まア〳〵どうぞ、こちらへ﹂ などと――どうせ奧へは通さない氣でせう。うすよごれた座布團をたゝいて、長なが火ひば鉢ちの前に席を作ります。 ﹁ぢや、御免かうむるぜ、錢形の親分が少しきゝ度いことがあるとよ﹂ ﹁まア、錢形の親分さんが﹂ お鐵は少し改まりました。相當苦勞もしたらしい女ですが、こんな青あを大だい將しやうの匂ひのする、怪し氣な小料理屋のお神にして置くには、全く惜しいきりやうです。 少し神經質な青白い顏、紅いくちびるが不思議に艶あだめいて、凉しい眼が非凡な魅力でした。 ﹁餅の木坂の人殺しの話は聽いているだらうな﹂ 平次は八五郎を掻き退けて、女の前に立ちました。もとより入る意志など毛頭なく、出來ることなら簡單にらちをあけたい樣子です。 ﹁えゝ、きゝました﹂ ﹁殺されたのは本多三四郎樣の御舍弟右うめ馬のじ之よ丞うとかいふさうだが、お前も知つてゐるだらう――世間の噂では﹂ ﹁――世間では何んといふか知りませんが、此こ家ゝへもちよい〳〵お見えになりました。こんな稼業をしてをりますから、客の選り好みも言つちや居られません﹂ お鐵は妙にツンツンします。 ﹁客にして惡いとは誰も言はない﹂ ﹁――﹂ ﹁世間の噂では、お前と格別の仲だつたといふぢやないか﹂ ﹁飛んでもない、あんな色氣違ひと﹂ お鐵は激しく突つぱねました。 ﹁で、そんな事から、ずゐぶん右馬之丞を怨うらむ者がないとは言へまい。その心當りはないのか﹂ 平次の調子は靜かですが、日頃にも似ず積極的です。 ﹁そいつはおれが代つてあいさつしよう﹂ 隣りの部屋から聲を掛けて、足で唐から紙かみを開けて、スーツと入つて來たのは、三十二、三のちよいと凄味の浪人者でした。 ﹁――﹂ 默つてそれを迎へた平次。 ﹁錢形の親分らしくもねえ――お鐵は返事に困つて泣いてゐるぜ﹂ ﹁――﹂ 持つて來た煙たば草こぼ盆んを、敷居際に押しやると、自分は朱しゆ羅ら宇うの長いのを取上げて、靜かに一服吸ひ付けました。恐ろしく落着き拂つた態度です。 ﹁ね、おい、錢形の親分、――察しの通り、お鐵も昔はあの色氣違ひの右馬之丞を、大事な客と思つて、チヤホヤしたこともあるのさ。だが、あの柄ぢやどうせ永く續くわけはねえ。そのうちにこのおれといふのが出來て、色氣違ひ野郎は七里潔けつ灰ぱいさ。敷居もまたがせはしない――怨みのあるのは向うの方で此方ぢやないぜ﹂ ﹁――﹂ ﹁それでも責め問はれると、おれの名も出さなきやなるまい。お鐵にして見れば、それが辛いから泣いてたんだよ。かんじんのおれ樣が隣りの部屋にとぐろを卷いて、掛け合ひ事を皆んなきいて居るんだ。そんなもんぢやないか、ね、錢形の﹂ 恐ろしくくだけた浪人でした。髯ひげの跡の青々とした、せいかんな感じのする男で、こんなのが居ては、色若衆の右馬之丞などは、寄せ付けなかつたといふのも無理のないことです。 ﹁お前さんは?﹂ 平次はようやく口を開きました。この浪人者のヌケヌケとした態度や、妙にくだけた物言ひが、相當平次のカンにさはつた樣子です。 ﹁平田源五郎といふよ。この裏に住んでゐる浪人者だ﹂ ﹁右馬之丞を怨む者の心當りはないと言はれる?﹂ ﹁いや、それは大ありだ――この平田源五郎ではないが、この町内だけでもあの色氣違ひを野良犬のやうに打ち殺さうと、折をねらつてゐる者は二人や三人ではない﹂ ﹁例へば?﹂ ﹁二こな合から半ざ坂かの春かす日が邦之助だ﹂ ﹁?﹂ ﹁あの春日邦之助は、秋山伊織殿の娘、お百合殿と許婚の間柄だ――うそだと思つたら、秋山家へ行つてたづねるがよい。拙者はな――何をかくさう、世に在る頃は秋山伊織殿とは同藩のよしみで悉こと〴〵く承知して居る。もつとも向うは側用人、此方は唯のお徒か士ちと、千五百石と五十石といふ提灯と釣つり鐘がねほどの身分の違ひはあつた﹂ ﹁?﹂ ﹁が、何も彼も知つてゐることに變りはない。春日邦之助は名題の貧乏旗本だが、直參は間違ひもなく直參だ。秋山殿が世にある頃から許婚であつたが、秋山殿が永の御おい暇とまになつた上の難病で、祝言も延々になつてゐる。其處をねらつて、あの色氣違ひの右馬之丞が爪を磨といだのだよ﹂ ﹁――﹂ ﹁秋山伊織殿が中風で身動きもならぬのを宜い事にして、右馬之丞の野郎が繁々と出入りしたことは誰でも知つてゐる――﹂ 平田源五郎の毒を含んだ言葉はなほも續きます。 ﹁――春日邦之助、それを默つてゐられると思ふか。あの狐の化けたやうな色若衆が、ぬけ〳〵とした顏をして、秋山家に出入りするばかりでなく、近ごろは夜も晝もあの堀の外をウロウロしてゐるといふことだ﹂ ﹁それだけでは平田樣、春日邦之助樣を疑ふ譯には參りませんが﹂ 平次は漸ようやく口をはさみました。 この毒舌家は默つてきいてゐれば、何をいひ出すかわかりません。 ﹁それだけで、春日邦之助を下手人とは拙者もいはない――があの死骸は槍で突いたものだ。何んかの彈はずみで仰け反るところを、前から一杯に突いたものに間違ひあるまい。あれだけの手際は槍をとつては、相當の腕前がなくてはかなふまい﹂ ﹁――﹂ ﹁春かす日が邦之助は槍の名人だ――お解りか平次親分――それでもまだふに落ちないといふなら﹂ ﹁いや、もうたくさんで﹂ 平次は少し辟へき易えきしました。こんな人格などといふものを、とうの昔に破産してしまつたらしい浪人者は、人を陷おとしいれることなど何んとも思つてゐないでせう。 ﹁いや、こいつはきいて置く値打があるぜ、錢形の親分――親分は二こな合か半ら坂の春日家の貧乏屋敷を知つてゐるかな﹂ ﹁――﹂ 平次はうなづきました。 ﹁あの屋敷の石垣の下に、おびたゞしく血がこぼれて居たはずだ。その上石垣には凄まじい引つ掻きのあつたのを知つてゐるか﹂ ﹁――﹂ ﹁あの引つ掻きと血はどうしたことだ﹂ ﹁――﹂ ﹁言つて上げようか、あれは春日邦之助が本多右馬之丞をおびき寄せ、槍玉にあげて石垣から突き落したのだ。その上死骸をひきずつて秋山家の門前まで持つて行つて捨ててゐる――お百合殿を失うしなつた春日邦之助に取つては、可愛さ餘つて憎さが百倍だ。何んとかして秋山家にケチをつけようとたくらんだに違ひあるまい。どうだ錢形の、これだけ物事が見えると拙者も岡つ引の仲間入りが出來るだらう、ハツハツハツ﹂ 取つて付けたやうに、平田源五郎はカラカラと笑ふのです。 ﹁大層な智慧をうかゞひましたが、もう一つ序ついでにうかゞひ度いことがあります﹂ 平次は靜かに、下した手でに出ました。 ﹁何んだい、物事に表裏のないのが、この平田源五郎の自慢だ。何んなりときくがよい﹂ ﹁外ぢやございませんが、秋山樣の舊主はどなたでせう。それから浪人なすつたわけはどんなことで?﹂ ﹁そいつは野暮だよ。浪人者に舊主をきくのは、新規召抱への時と限つたものだ――浪人したわけはこの平田源五郎は放ほう蕩たう無ぶら頼いのためといふことだ﹂ これでは手のつけやうがありません。 ﹁秋山樣は﹂ ﹁ざん者のざん言のためとでもして置け――正直のところをいふと、殿があのお百合殿を見染めて、お側に召出さうとしたのを、秋山伊織殿がポンとけつたためだよ﹂ 平次と八五郎は、そこから神樂坂に向ひました。坂の中腹にある清水といふ茶屋の女、お萬ときくと土地では知らない者もありません。 ﹁あの、私は萬ですが﹂ 裏口へ呼出すと、色の白いぽちや〳〵したのが、妙に鼻にかゝつた作り聲で出て來ました。二十歳そこ〳〵の若い女です。 ﹁本多三四郎の御舍弟右うめ馬のじ之よ丞うといふのを知つてるだらうな﹂ 今度は八五郎がこの惱ましい相手を迎へました。 ﹁知つてますわ﹂ ﹁それが殺されたんだが、お前はどう思ふ﹂ ﹁さつきお店へ來た人からきゝましたよ。秋山樣の門前で、蛙かへるのやうにへた張つて居たんですつてねえ――だらしがないぢやありませんか﹂ ﹁で、下手人に心當りはあるか﹂ ﹁五六十人くらゐ、下手人らしいのがありさうよ﹂ ﹁誰と誰だ﹂ ﹁まづ私と、傳ちやんと、月の家のお神と、平田源五郎さんと﹂ ﹁止さないかよ、ばか〳〵しい。お萬ちやん、知らない人がきくと本當にするぢやないの﹂ 家の中からどなつたのは、朋ほう輩ばいらしい年増の聲でした。 ﹁大丈夫さ。あの色氣違ひだつて二本差しに違ひないんだもの、女子供に退治られる化物ぢやありませんよ﹂ お萬はせゝら笑つて居ります。 ﹁傳ちやんといふのは?﹂ ﹁私の好い人、ウフ﹂ ﹁傳次とかいふ遊び人だらう﹂ ﹁遊び人ぢやありませんよ。歴れつきとした職人ですよ﹂ ﹁家はどこだ﹂ ﹁近所ですけれども、行つてもむだよ。傳ちやんは二三日前から成田樣へおまゐりに行つて明日でなきや歸らないはずですもの﹂ これでは手の付けやうがありません。 ﹁その傳次は右馬之丞を怨んでゐたといふぢやないか﹂ ﹁え、え、そりやうらんでゐましたよ。でも槍で突くほどの膽きも玉つたまはないから、成田へ調伏に行つたのかも知れませんよ。右馬之丞の色氣違ひが、氣が變になつて死んだとでも言ふなら下手人は確かに傳ちやんよ。そりや、あの人と來たら、私の事で夢中なんですもの、ねエ﹂ 後ろの朋輩を顧かへりみてにつこりするのです。 錢形平次が浪人者の平田源五郎になめられたやうに、この掛合ひは明らかに八五郎の負けでした。 ﹁八、もういゝ加減にしろ。聽いちや居られないぢやないか﹂ ﹁へエ﹂ ガラツ八は不承々々にこの厄介な女をあきらめました。 そこから牛込御門を入ると、右へ少し入つたところに、問題の本多右馬之丞の兄の家、本多三四郎の屋敷がありますが、 ﹁しやくにさはるが、十手捕繩ぢやこゝへは乘り込めない――せめて龍の口へ手を廻して、あの白おし粉ろいをつけた色若衆の死體だけでも引取らせ度いものだな﹂ そんなことを言ひながら、横眼で眺めて通る外はありません。四
﹁變なことになりましたよ、親分﹂ 三日目、ガラツ八の八五郎が長ンがいあごを持つて來ました。 ﹁何が變なんだ﹂ 錢形平次は、少しばかり腐くさつてゐたのです。餅の木坂の色若衆殺しが、相當面白くなりさうに見えましたが、掛り合ひがこと〴〵く二本差で、しかも﹃御身分の方々﹄ではどうしやくにさはつても町方の御用聞では手が出ません。 ﹁牛込御門内の本多三四郎といふリヤンコが、たうとう我がを折つて、あの死骸を引取つたさうですよ――昨日のそれも朝のうちに引取つてしまへば、あの死骸を諸人の見世物にせずに濟んだのに、下くだらない見得を張つたばかりに、白粉までつけて死んだ弟の死に恥を、江戸中にさらしたやうなもので﹂ ﹁死んだ者はかはいさうだ――あんまり惡口は言はない方がいゝぜ﹂ ﹁そんなもんですかね﹂ ﹁實はな、八。あの死骸を何時まで放つて置く薄情さがしやくにさはるから、おれはちよいと笹野の旦那に申上げて、若年寄方のお耳へ入れてやつたのだよ﹂ ﹁へエ――親分がね﹂ それは平次のやりさうもないことでした。が、考へやうでは、それは平次のやりさうな事だつたのかも知れません。 ﹁龍の口から組頭にお達しがあり、組頭から本多三四郎に、有無を言はさぬ強談があつたのさ﹂ ﹁成程ね――そいつは良い功くど徳くでしたよ。ところでもう一つ變なことがあるんで﹂ ﹁何んだい、もう一つといふのは﹂ ﹁その本多三四郎は、弟の恥さらしな死骸を引取らされた腹いせに、二合半坂のお旗本、春日邦之助といふ人を訴へたさうですよ﹂ ﹁フ――ム﹂ ﹁弟の右馬之丞は春かす日が邦之助に殺されたに違ひないと﹂ ﹁そいつは厄介だな。で、どういふことになつた﹂ 平次は乘り出しました。まさに事件の新發展です。 ﹁それには活き證人がゐるんですよ﹂ ﹁誰だいそれは﹂ ﹁あのやくざ者みたいな浪人の平田源五郎ですよ﹂ ﹁へエ、そいつは驚いたな﹂ ﹁平田源五郎はあの前の晩、春日邦之助の屋敷の石垣の上から、人の突き落されたのを見たといふんださうで。そして、身を潜ひそめて樣子を見てゐると、春日邦之助が通用門から出て來て死骸を引ずつて餅の木坂の秋山家の門前に捨てた――と、かう訴うつたへたんださうですよ﹂ ﹁そんな馬鹿なことが﹂ ﹁親分もさう思ひますか﹂ ﹁思はなくてどうするものか、本多右馬之丞は矢つ張り秋山家の門前で殺されたに違ひないよ﹂ ﹁それぢや、ちよいとあつて貰ひたい人がありますが﹂ ﹁何?﹂ 八五郎は妙な事を言つて、戸口へ戻りました。そこには誰やら若い女が立つて居ります。 ﹁お孃さん、遠慮なさることはありませんよ。ズイと通つて下さい﹂ ﹁――﹂ ﹁親分もあんなに言ふんだから、大丈夫ですよ﹂ しばらく入口で躊ちう躇ちよした末、八五郎に促うながされて、大輪の白百合のやうな感じのする若い娘が、一陣の薫くん風ぷうと共に入つて來ました。 武家風の至つて質素な身振りですが、その美しさは全く拔群です。江戸の武家屋敷に育つて滅多に外へも出ない人種のうちには、かう言つた浮世離れのした娘が、我々と同じ大氣を呼吸してゐるといふことが、妙に平次を興奮させます。 初夏の明るい日光の中から、平次住居の段――といつた、薄暗い長屋の中に入つて、娘はしばらく視しり力よくを失つたのでせう。極まり惡さうに、何處へともなくていねいにお辭儀をしましたが、その擧げた顏が、フト、 ﹁入らつしやい﹂ 氣輕にたすきを取つてあいさつする、平次の女房のお靜とあつて、ホツとした樣子になります。 平次の戀女房から世話女房になりきつたお靜ですが、まだ何處かに殘る娘らしさが、この若いお客を安心させたのでせう。 ﹁親分、秋山伊織樣のお孃さんですがね、あつしが餅の木坂へ行つて、いろ〳〵きゝ込んでゐると、秋山樣御屋敷から出て來て、お前は錢形とやらの親分か――とかうきゝなさるんで――﹂ こんな顎あごの長い平次があつていゝものでせうか。 ﹁あつしは錢形の親分ぢやありませんが、錢形の親分に御用なら御案内しませう。あつしの言ふことなら、平次親分はどんな事でもきいてくれますよ――と﹂ ﹁恐ろしく安やす請うけ合あひをしたんだね﹂ ﹁お小遣をねだる時の事を考へたんで――へツ、へツ﹂ ﹁あきれた野郎だ﹂ ﹁するとお孃さんは、錢形の親分は江戸開府以來の捕物の名人で、義理人情のわかつた方だといふから、どうぞ私を連れて行つてくれ。折入つてお願したいことがある――とかうおつしやるんで﹂ 八五郎が説明するうち、娘は疊に手を突いて、消えも入り度い風情にひかへてをります。 櫻貝のやうな耳と長いまつげとそしてほのかに青い眞珠色の首筋が、この世のものとも思へぬ美しさです。 ﹁それほどの男ぢやございませんが――私にお頼みといふのは、一體どんなことでせう、お孃さん﹂ 平次は膝を乘り出しました。相手のすぐれた氣品にうたれて、一つこの娘の言ひ分をきいた上、力になれるものなら、精一ぱいのことをしてやらうと言つた氣になつたのです。 ﹁あの、春かす日が邦之助樣をお助け下さいまし。あの方は本多樣御舍弟殺しとやらの恐ろしい疑ひを受けて御謹愼中でございますが、言ひわけが立たなければ、切腹仰せつけられるかも知れぬと――用人大川仁左衞門樣が私共へまで御相談に參りました――春日樣は左樣な方では御座いません。どうぞ御助け下さいませ﹂ 娘は秋山伊織の息女お百合、まだ十八になつたばかり、許婚の春日邦之助を助けたさの、これが精一杯の努力だつたのでせう。 消えも入りさうになりながら、その恥かしさと恐ろしさを征服して漸ようやくかう言ひきると、あとはサメザメと泣くのです。 ﹁成程、よくわかりました。私の力で及ぶことなら、隨分骨を折つて見ませう――が、御存じの通り私は町方の御用聞で、御武家方の内輪のこととなると、手を出せないどころでなく、口も利けないやうな有樣で、力こぶを入れたところで、どれほどの事が出來るかわかりません﹂ ﹁――﹂ ﹁そこを何んとかしようといふのですから、これは並たいていではございません。でも確かな證據さへそろへば、筋道をたどつて言ひ分は通らないはずはないとおもひます。――ついては私からおきゝすることを、どんな事でも仰つしやつて下さるでせうな﹂ ﹁え、それはもう﹂ お百合は顏をあげました。涙にぬれた頬が匂つて、黒く大きいひとみが非凡の魅力です。 ﹁第一に御父上伊織樣には御病中と聞きましたが、御家のこと萬端は、どなたがなさいます﹂ ﹁父は中風で身動きもなりません。母は早く亡くなりましたので、内のことは私が萬事をいたして居りますが、外のことは下男の丙へい吉きちがいたして居ります﹂ ﹁あの、背の低い、大きな聲の?﹂ ﹁左樣で御座います﹂ 怪奇な下男丙吉の姿を思ひ浮べたか、お百合のくちびるは少しほころびました。 ﹁春日樣との御許婚は、何時から?﹂ ﹁三年前からでございました。――私はまだ十五の頃﹂ お百合はさすがに處をと女めらしく顏を伏せます。 ﹁それが御父上主家御退轉以來御病氣で、祝言も延々になつて居るときゝましたが――﹂ ﹁左樣でございます﹂ ﹁本多右馬之丞樣とは前からの御近付きで――﹂ ﹁いえ、この一年程前から、和歌の先生の御宅で折々御目にかゝりましたが、近頃は父の見舞やら、和歌の添てん削さくやらに事よせて、たび〳〵私共へも御越しになりました﹂ お百合はひどく迷惑さうです。 ﹁おい八、そこで口を開いてながめてゐる奴があるか。誰もきく者はないか、路地へ出て見張つてゐろ﹂ 平次はいきなり部屋の隅つこで好奇の眼を光らせて居る八五郎をきめつけました。 ﹁へツ、まさか此處まで入つて密談を立ちぎきする奴もないでせう﹂ 八五郎は動かうともしません。 ﹁盜みぎきぢやない。口を開いて大びらにきいてる奴だつて、良い心掛けぢやないよ﹂ ﹁違げえねえ﹂ 八五郎はあわてて飛び出しました。自分が居てはお百合の口が容よう易いにほぐれないと氣が付いたのです。 が、格子を開けて外へ出て驚きました。八五郎の姿を見て、あわてて路地を飛び出した怪奇なる後ろ姿があつたのです。横幅の方が大きいやうな一寸法師で、ひどい跛びつ者こ――秋山家の下男の丙吉でなくて誰であるものでせう。 ﹁大層な娘でせう、親分。こちとらの付き合つてゐる仲間にや、あんなピカピカするのはありませんね﹂ お百合が歸ると入れ替つて、路地の八五郎が引揚げて來ました。 ﹁それよりお前は路地で何を見た﹂ ﹁あの變てこな下男ですよ。お孃さんの後をつけて來たんですね﹂ ﹁心配して來たんだらう﹂ ﹁ところで、あの娘が私へ丁寧に禮を言つて行きましたが、春日邦之助を助けてやるとでも請うけ合あつたんですか﹂ ﹁請合つたわけぢやないが、本多右馬之丞を殺したのは、春日邦之助ではないと言つてやつたよ――父親は寢たつきりで、奉公人の外に頼る者がないとは可哀想ぢやないか﹂ ﹁そこを見込んで、あの色氣違ひがつけ廻したんですね﹂ ﹁若い娘の口からでは、言へない事ばかりらしいが、隨分うるさく追ひ廻したらしい。二本差のくせに、いろ〳〵の用事にかこつけて出入りした上、日ひぶ文みまでつけたさうだ。日本一の色男の氣でゐるから助からない。そのくせ死骸の懷中から出たあの娘の戀文といふのはにせ物で、右馬之丞が自分で書いて人に見せびらかしたものらしいよ﹂ ﹁そんな氣でゐるから、田でん樂がく刺ざしになつたんでせうよ――ところで、下手人の心當りはどうです﹂ ﹁まだ判らないよ――もう一度飯田町へ行つて見ようか、八﹂ 平次と八五郎は、もう一度飯田町へ行つて見る氣になりました。 あれからもう、三日たつて居りますが、現場をうろ〳〵したら、何か新らしい證據が手に入らないものでもあるまいと思つたのです、 第一番に行つたのは、二こな合か半ら坂の春日邦之助の屋敷でした。旗本は旗本に違ひありませんがこの邊に住んでゐるのは、軒並恐ろしい貧乏で、お勝手へ廻ると、まことにさんたんたる浮世小路です。 ﹁御免下さい﹂ ﹁誰ぢや﹂ ヌツと顏を出したのは、思ひきやあのやかましさうな老用人の大川仁左衞門ではありませんか。 ﹁少々ものをうかゞひますが――﹂ ﹁お前は?﹂ ﹁町方の御用を承うけたまはる平次と申すもので﹂ 錢形平次は眼鏡越しにジロリとにらまれて、丁寧に小腰をかゞめました。 ﹁あゝ錢形の親分か、良いところへ來てくれた。實はな、秋山樣の御孃樣からもお前のことはききましたよ﹂ うつて變つての丁寧な扱あつかひです。 ﹁恐れ入ります﹂ ﹁さア、こちらへ、どうぞ。つれの方は? 何、八五郎殿。子分衆ぢやな、よいとも。さア〳〵どうぞ﹂ 恐ろしくていねいに通したのが御用人自身の部屋らしい、お勝手に近い八疊。 ﹁この通り無人でな、ろくな茶も上げられない。よく來てくれた。これよお松、お茶だ﹂ ﹁いやもう、お構ひ下さらぬやうに――ところで御用人﹂ 平次は大川仁左衞門の手をたゝくのをとめて、膝をすゝめました。 ﹁本多三四郎殿は名門の御一族で御高も三千石、御一門には大目付もあれば若年寄もある。その本多三四郎殿が、無理に御舍弟右馬之丞樣の、恥さらしな死骸を引取らせられたのをうらみ、それを御當家の指金と思ひ込んで、公儀へ訴そし訟ように及んだのぢや――右馬之丞殿を殺したのは當家の主人春日邦之助に相違ない――とな﹂ ﹁――﹂ ﹁證據は澤山ある、二こな合か半ら坂當家屋敷下の血の跡と、石垣の引き掻き、その外生證人として平田源五郎なるものが名乘つて來てゐる。左樣な馬鹿氣たことはないのだが、證據が揃つては最早言い解く道はない﹂ ﹁それはお氣の毒樣ですが――﹂ ﹁だが、このまゝ御仕置きを受けては、御先祖樣へも御不孝――何んとか言ひ解く術すべもあらうかと、押して御目付に訴訟申上げたところ、それでは再應の御取調べを致さうといふこととなり、本日未ひつ刻じのこく︵二時︶頃、御目付椎しひ名な近江守樣直々に御檢分のことと相成つた。これは前例のないことだが、春日家御先祖の御手柄に免じて格別の御沙汰と承はる﹂ 老用人は絶望的な眉を垂れるのです。再三の檢分があつたところで、生證人まであつては、主人の命を救ふ由もあるまいと思つたのでしよう。 ﹁それはさぞ御心配でございませう。私にもこれぞと申すほどの手てだ段ては御座いませんが、出來るだけの事はいたして見せます。あまり力落しをなさいませんやうに﹂ ﹁かたじけない、平次殿――主人は謹愼中で、お逢ひ出來ないが、頼みまするぞ。この通り﹂ ﹁いや飛んでもない、拜んぢや困ります﹂ 平次は一いつ國こく者ものらしい老用人が、疊に額を埋めるのを、どんなに骨を折つて止めたことでせう。 それからたつた一刻、この切詰めた時間に、平次の活動は猛烈を極めます。 先づ秋山家へ行つて、お百合を通じて、無理に主人秋山伊織に逢はせてもらひました。 伊織は病床中で、話もはか〴〵しくは出來ない有樣ですが、それでも娘お百合の努力で、これだけの事は聽き出せたのです。 平田源五郎と秋山伊織は同藩ですが、肌合が違つてゐるので、あまり交渉はなく、平田源五郎の永の暇いとまになつたのは、武士としてあるまじき不心得の事があつた爲――と秋山伊織はいひます。どんな不正か、それはこの事件に關くわ係んけいもなく、且つ人の非を擧げるやうだから、とそれはうちあけません。 秋山伊織が主家を退轉したのは全く主君某の守の色好みから起つたことで、すでに春かす日が邦之助といふ許婚のあるお百合を、側近く差出せといふ無法な命令があつたのを、秋山伊織一言の下に斷わつたために、逆ぎやくに主家を退轉するに至るまで、君臣の間は急速度に疎そか隔くして行つたといふのです。 平田源五郎はその後主家歸參を願ひ、猛運動をして居るといふうはさもありました。一度ならず二度三度も。お百合を主君のお側に差出すやうにと、秋山伊織へツケツケ忠告に來たこともありますが、それは劍もほろゝに追ひ歸したといふことでした。多分平田源五郎はお百合を主君の側に差出すのを手柄に、自分の歸參を願つてゐるのでせう。五
飯田町の月の家へ行くと、幸ひこの日は平田源五郎は居ず。
﹁あの晩、本當に平田源五郎はこの家に泊つたのか、確しかとしたことをきゝ度い﹂
平次は今更らしくこんな事をたづねたのです。
﹁え、お泊りでしたが﹂
女房のお鐵は妙に警戒的でした。
﹁餅の木坂の本多右馬之丞殺しがまだ下げし手ゆに人んがわからないのだ――平田源五郎はまさか、そつと此處を拔け出すやうな事はなかつたらうな﹂
それは罠わなでした。平次に取つては一生に一度の罠だつたのでせう。
﹁そんな事があるものですか、平田さんはいつものやうに酉むつ刻は半ん︵七時︶にいらしつてすつかり醉つて亥よ刻つ︵十時︶にはお休みになつたんですもの。翌る日の晝前までは、何處へも行きやしませんよ﹂
﹁本當か﹂
﹁え、え、うちの女達は皆んな知つて居ますよ。一人々々きいて御覽なさい﹂
平次はしめたと思ひました。それから月の家に居る限りの女共、五人のいひ分をきいて、八五郎を生證人に、餅の木坂を駈け登つたのは、もう御目付衆の檢分が來るといふ未や刻つ︵二時︶ぎりぎりです。
﹁八、驚くなよ――向うから御目付の椎しひ名な近江守樣が見えるぢやないか。かうなれば一かバチかだ﹂
﹁何をやらかすんで――﹂
﹁幸ひ笹野樣が御供をして居るやうだ。直訴とやらかすぜ﹂
﹁親分大丈夫ですか﹂
八五郎が止める隙ひまもありませんでした。春日邦之助屋敷へ乘り込んで來た御目付椎名近江守行列の眞ん前に、錢形平次眞つ直ぐに飛び出したのです。
﹁恐れながら申上げます﹂
﹁これ〳〵差さし越ごし訴うつたへは相成らぬぞ、下がれ〳〵ツ﹂
それツと取卷く足輕の六尺棒の中に、平次は臆おくれた色もなく小腰を屈めたまゝ、ツ、ツ、ツと進んだのです。
﹁怪しい者では御座いません。町方の御用を承はる平次と申す者でございます――笹野樣――危急の場合、手順を踏むことも相成り兼ねました。御取次を願ひます﹂
平次の聲は權勢にもめげず、威壓にも屈せず、りんとして椎名近江守に訴へながら、一方笹野新三郎の注意を促うながすのです。
笹野新三郎は卷羽織の裾をおろして、御目付椎名近江守の駕籠側に進むと、何やら小聲に申入れました。
暫らくは淀よどむ行列――後ろの方からは當日の生證人で付いて來た平田源五郎が、疑ぎ惧ぐの眼を走らせて居ります。
﹁平次、亂暴なことをするではないか﹂
笹野新三郎は駕籠を離れて平次の方に近づきました。
﹁笹野の旦那、お許しを願ひます。かうしなきや間に合はなかつたのでございます。春日邦之助樣に腹をきらせてから、本當の下手人を擧げたんぢや追つ付きません﹂
﹁誰が一體本當の下手人だといふのだ﹂
﹁おきゝ下さい、笹野樣﹂
平次は漸ようやく自分の思ふ壺つぼに引入れると落着き拂つて説き進みます。
﹁春日邦之助樣が、本多右馬之丞樣を殺した現場を見たと名乘つた者が、あの石垣の上から槍で突き落したと申したさうで御座いますが、石垣の上から突き落した傷なら下向きに付く筈でございます。ところが死骸の傷は下から突き上げたやうに、ひどく上向きになつて居りました﹂
﹁――﹂
平次の態度の眞劍さに引ずられたやうに、推名近江守は、草ざう履りを呼んで駕籠を立出でると、平次の指した石垣の上を仰いで居ります。
﹁それに、あの石垣の苔こけについたかきむしりの跡はどうでございませう。あれは上から人を突き落した時付いた跡ではなくて、下から熊手のやうなもので、引つかいてこしらへた跡に違ひございません。上から突き落した時付いた引つかきが、五本も六本も行儀よくそろつて、あんな具合にクネクネと曲つて付くものでせうか﹂
﹁いかにも――それから?﹂
笹野新三郎は側から合あひ槌づちを打つてくれました。
﹁往來の血も――翌る朝、見に參りましたが、ほんのおまじなひ程で、それも雜ざふ巾きんでなすつたやうになつて居りました。こゝで人が突き殺されたのなら、あんなバカなことがあるものでせうか――それに﹂
﹁――﹂
平次は椎名近江守の行列をズツと見渡しながら續けました。
﹁あの晩、それを見極めて、春日邦之助樣が通用門から出て、死骸を秋山樣の門外まで引きずつて行くのまで突き留めたといふ生證人は――實は飯田町の小料理屋月の家といふのに泊つて、宵から翌る日の朝まで、一寸も外へ出ないと、五人の女が申立てて居ります﹂
﹁うそだ、うそだ。何んといふ出でた鱈ら目めだ。コラ平次ツ﹂
行列から飛び出して平次につかみかゝらうとした平田源五郎は、
﹁無禮者ツ、靜かにせい﹂
椎名近江守の手が擧がると、五、六人の武士に取圍まれて、無念の齒がみをするばかりです。
﹁平次、春日邦之助殿の潔けつ白ぱくはそれで相解つたが――本多右馬之丞殿を害あやめた下手人は何者だ。それが解らぬうちは――﹂
笹野新三郎は御目付椎名近江守の方を見るのです。この儘では全く引つ込みが付きません。
﹁それも大方は相わかつて居ります。かうお出で下さいますやうに﹂
平次は先に立つて道を引返すと餅の木坂の方へ行きました。
﹁大丈夫ですか、親分﹂
八五郎はそつとさゝやきます。甚はなはだ覺束ない氣がするのです。
﹁宜いつてことよ――先の先まではおれにだつてわかるものか、かうなればカンに頼つて、とことんまで行くんだ﹂
﹁へエ、驚いたね﹂
八五郎の驚くひまもなく、物々しい一行は秋山伊織の門外、いつぞや色若衆の死骸のあつた場所に立つて居りました。
﹁本多右馬之丞の死骸のあつたのは丁度この邊でございました﹂
平次は乾いた土の上へ、縁日の齒磨賣のやうに、柴しば切ぎれで小さい輪を描きながら續けます。
﹁右馬之丞樣の死體のお召物――殊に肩のあたりは泥に塗まみれて破れ、身體にもひどい傷がついて居りました。秋山家の下男丙へい吉きちと、生證人の平田源五郎は、二合半坂から死體を引ずつて來たためだと申しましたが、それは間違ひでなければ嘘で、死にきつてからついた傷が、あんなにハレたり、紫色になつたりする筈は御座いません﹂
﹁――﹂
平次は靜かに説き進みました。最早大だい盤ばん石じやくの自信に立つて貧乏ゆるぎもせぬ姿です。
﹁着物の破れ目も引ずつたために出來たものでなく、上から突き落されたはずみに出來たもので御座います。二合半坂からこゝまで引ずつて來たものなら、肩一ヶ所だけに泥や破れがあるのは受取り兼ねることで御座います――が最初死體を見た時は差し障さはりがあつて私は申しませんでした。餘計なことをいひ過ぎると、下手人は用心をして、何にか細工をするだらうと思つたからでございます﹂
﹁すると、右馬之丞樣は、どこから突き落されたと申すのだ﹂
笹野新三郎は口を容れました。
﹁この塀の上からで御座います﹂
平次はいきなり秋山家の嚴重な板いた塀べいを仰ぐのでした。
﹁?﹂
﹁證據は澤山御座います。塀には微かすかな這ひ上がつた時の足の跡があり、中から差出た櫻の小枝が折れて居ります﹂
﹁すると右馬之丞殿が塀の上へ登つたところを、後ろから槍で突いたと申すのか﹂
﹁いえ、傷は前でございます﹂
﹁?﹂
﹁かうお出で下さいまし。先刻秋山樣にはお許しを頂いておきました﹂
平次は案内顏に秋山家の門を入ると、グルリと廻つて、右馬之丞が塀を這ひ上がつた丁度裏のあたりへ來たのです。
﹁――﹂
それをはるかの方から、默つてにらんで居るのは、怪奇な下男の丙吉ですが、主人の許しを受けたといふ平次の言葉と、相手が御目付椎名近江守とわかつて居るので、癪しやくにさはりながらもとがめ立てもならぬ樣子です。
﹁御覽の通り、板塀の内側は、よく洗ひ清められて居りますが、木目の間に何やらにじんで居ります。それから足もとの草が丁寧に刈かられて、少し塀際の土を返してあるのはどうしたことで御座いませう﹂
﹁血だ﹂
洗はれた塀の木目を見て居た笹野新三郎がいきなりかういひました。
﹁左樣で御座います。たしかに血に違ひありません。本多右う馬め之丞樣は、塀を乘り越えて、こつちへ飛び降りようとしたところを、下から手槍で突き上げられ、そのまゝ仰向け樣に往來へ落ちたので御座います﹂
﹁――﹂
あまりにも豫想外な言葉に、しばらくは皆々顏を見合せるばかりでした。
﹁春日邦之助樣は槍術名譽の腕前と承うけたまはつて居ります。白粉をつけた女をん漁なあさりをするのらくら者を、そんな卑怯な手段で殺すはずはございません﹂
平次は確といひきるのです。
﹁下手人はだれだ﹂
笹野新三郎はたづねます。
﹁夜陰に塀を越して忍び込む曲者――相手の差別をする遑いとまがございませうか、内から突き落して何んの仔細がございませう﹂
平次は昂然としてかういひ放つたのです。まさに理の當然です。
﹁もうよい、詮議もこれまでぢや。笹野氏、平次とやら、御苦勞であつた﹂
椎名近江守は丁寧に挨拶して引き揚げてしまひました。それに續いて、笹野新三郎、これは町方の手に移された浪人平田源五郎を引つ立てさせます。
﹁親分こいつは餘つ程變ですね﹂
﹁何が變なんだ﹂
﹁下手人は一體だれです﹂
ガラツ八の鼻はキナ臭く動きます。
﹁引き逢はせよう。こつちへ來るが宜い﹂
平次は先に立つて、秋山家の下男部屋へまゐりました。
﹁おい。居るかい、丙吉﹂
外から聲を掛けて、靜かに戸を開けると、中からムツと血の匂ひ。
﹁あツ、しまつた﹂
この時下男の丙吉は、刄に伏してこときれて居たのです。
× × ×
﹁變な下男が矢つ張り下手人だつたんですね﹂
その歸り、ガラツ八はかう水を向けました。
﹁あの下男に取つては、お孃樣は神樣とも佛樣ともいひやうのない大事なものだつたのさ。そのうへうるさく附きまとふ化ばけ狐ぎつねのやうな色若衆が憎くてたまらなかつたんだらう。増長して塀を越して忍び込むのを見ると、我慢ができなくなつて槍で突き落したのだ﹂
﹁へエ﹂
﹁それだけなら勘辨できるが、その後が惡かつた――あのお孃さんを嫁にする春日邦之助までが憎くつてならなかつた。血を雜ざふ巾きんか何かにひたして、二こな合か半ら坂の春日邸下になすつたり、石垣を熊手か何かで引つかいて、あわよくば春日邦之助を無實の罪に陷おとしいれ、自分は何時までもきれいなお孃さんと、同じ屋根の下に住んで居たいと思つたのだらう﹂
﹁――﹂
八五郎も默つてしまひました。
﹁それを嗅ぎ出した平田源五郎は、春日邦之助を自滅させて、お百合を何とかして殿樣の人ひと身みご御く供うに上げ、それを手柄に歸參の願ひをかなへてもらはうと思つたんだらう。惡いのはあの平田といふ侍だ﹂
﹁本多三四郎とかいふ旗本だつて隨分いやな奴ぢやありませんか――大きな聲ぢや言へないが﹂
﹁それくらゐ大きい聲なら澤山だ。牛込見付の本多家まで聞えるよ﹂
﹁へツ、その氣で張り上げてゐるんで﹂
﹁馬鹿だなア﹂
漸ようやくこの――馬鹿だなア――が平次の口から出ました。緊張がほぐれて、江戸の町の夕景を眺めながら、初夏の大氣を胸一杯吸ふのは何んともいへません。
﹁女が良過ぎて、魔が差したんだね﹂
八五郎は秋山家を振り返つてツクヅクさういふのです。