一
﹁親分、お早やうございます。今日も暑くなりさうですね﹂ 御おな馴じ染みの八五郎、神妙に格子を開けて、見透しの六疊に所在なさの煙草にしてゐる錢形平次に聲を掛けました。 ﹁大層丁寧な口をきくぢやないか。さう改まつて物を申されると、借金取りが來たやうで氣味がよくねえ。矢つ張り八五郎は格子を蹴飛ばして大變をけし込むか、庭木戸の上へ長んがい顎あごを載つけなくちや、恰好が付かないね﹂ 平次も充分相手が欲しさうでした。お盆が過ぎると、御用の方もすつかり暇ひまで、八五郎が毎日持つて來てくれる情報も、巾着切や掻ツ拂ひがお職では、平次が出動する張合もなかつたのです。 ﹁今日はお使者ですよ。大玄關から入らなくちや恰かつ好かうがつかないでせう﹂ ﹁成程御上使樣のお入りと來たか、そいつは氣が付かなかつた、――待ちなよ、胡あぐ坐らをほぐして、肌くらゐは入れなくちや、そこで――御上使樣には先アづと來るか、鳴物が欲しいなア、八﹂ 錢形平次と八五郎は、何時でもかう言つた調子で話を進めるのでした。それはひどくビジネス・ライクではありませんが、洒しや落れの潤じゆ滑んく油わつゆが入ると、掛合のテムポが早くなつて、案外要領よく運ぶのです。 ﹁それ程でもねえが、頼んだ相手が惡いから、親分は素直に聽いちや下さるまいと思つてね、ツイ格子を開けるんだつて、小笠原流になるぢやありませんか﹂ 八五郎は首筋をポリポリと掻いてをります、餘程切り出し兼ねたのでせう。 ﹁大層氣が弱いんだね、遠慮はいらないから、眞つ直ぐにブチまけなよ。どうせ御大身が召し抱へて下さる氣きづ遣けえはねえ﹂ ﹁藥やげ研んぼ堀りの石崎丹後樣なんですがね――それ、ね。親分はあんまり良い顏はしないでせう﹂ ﹁八五郎ぢやねえが、俺も生れつき二りや本ん差こと田たに螺しあ和へは嫌ひさ、ことに石崎樣と來ちや苦手だね﹂ かつての堺さかひ奉行、俸祿千五百、役高を加へて三千石の殿樣でしたが、面白くないことがあつて御役御免になり、そのまゝ江戸に引揚げで、無役の閑散な日を送つて居ります。 ﹁ケチで高慢で、口やかましくて、西兩國の唐たう辛がら子しと言はれた殿樣だが、困つたことに叔母が世話になつてゐる大家の親爺が、石崎家の用人と眤じつ懇こんだとやらで、錢形の親分を連れてきてくれと、たつての頼みだ﹂ ﹁何があつたんだ﹂ ﹁紛失物ですよ。身にも家にも代へられない寶だが、世間へ知れると殿樣のお名前にも拘かゝはる、そつと取戻してくれたら、褒美の金は百兩﹂ ﹁馬鹿野郎ツ﹂ 平次はツイ怒鳴りたくなりました。夕立雲のやうな憤怒が、ムカムカと込み上げたのです。 ﹁小判で百兩ですよ、親分﹂ ﹁小判だつて青錢だつて、百兩に變りはねえが、俺はそんな仕事は嫌ひだよ﹂ ﹁でも﹂ 八五郎は押し返しました。百兩といふ金があれば、半歳溜めた家賃を拂つて、女房のお靜に氣のきいた袷あはせを着せて、好きな國こく府ぶの飛切りを、尻から煙が出るほどふかしても請うけ合ひ九十七八兩は殘る勘定だつたのです。惡いことを大眼に見て袖の下かなんかを取るのと違つて、チヨイと物を搜さがしてやつて、百兩の褒美を貰ふのは、良心に恥ぢるほどの仕事ではないやうに、八五郎の太い神經では感じたのです。 ﹁搜し物をしてやつて金を儲ける氣なら、兩國の橋の袂たもとに出て、八はつ卦け屋やを始めるよ。馬鹿々々しい﹂ ﹁でも百兩ですよ、親分。相手は有り餘る金だ。御家の重寶讓ゆづ葉りはの御鏡か何んかを、鼠の巣から見付けてやつて百兩﹂ 八五郎は躍やく起きと喰ひ下がるのです。日頃眼に餘る平次とお靜夫婦の苦勞が、この搜し物一つ解決しただけで、何んの造作もなく解消しさうで、このまゝに諦め兼ねるのも無理のないことでした。 ﹁角の酒屋の女隱居が、三毛猫が行方不しれ明ずになつたから、搜してくれと涙ながら頼んで來たよ。こつちはお禮が二分だが、それさへ斷わつたくらゐだ。百兩の搜し物を引受けて濟むと思ふか、八﹂ 平次も少し穩やかになりました。八五郎がさう言つてくれる心持がよくわかるからです。 ﹁成程ね、二分の仕事を蹴飛ばして、百兩の仕事は引受けられねえといふんで、――腹は立つが、あつしは嬉しいね、親分﹂ ﹁何を高慢な事を言やがるんだ﹂ ﹁それぢや、唯の仕事ならやつてくれますかえ親分。こいつは鐚びた一文出す氣づけえはねえが、その代り滅法綺麗な新造が、かう手を合せて拜むんだ、――どうぞ助けると思つて――﹂ ﹁止せやい、變な品しなを作つたつて、手前ぢや綺麗な新造に見えるわけはねえ﹂ 平次はからかひながらも、この無むは報うし酬うの方に興味を持つてゐる樣子です。 ﹁親分も御存じでせう。兩國稻いな荷りの側に、この間から小屋を掛けてゐる玉川權之助一座といふのを﹂ ﹁話には聽いたよ。大層上じや手うずな輕かる業わざを見せるさうぢやないか﹂ ﹁玉川權之助は大したものぢやありませんがね、一座の花形で、娘太夫の燕つば女めといふのが大變で――﹂ ﹁フム﹂ ﹁年の頃は十八九でせうか、恐ろしく小柄で身體が輕くて、お人形のやうに可愛らしいから、十三四の小娘のやうですが、話をさせると子供ぢやありません﹂ ﹁それがどうした﹂ ﹁あんな身輕な藝は見たことも聽いたこともありませんよ。親方の玉川權之助が、頭の上に兩手を突き上げると、そのてのひらの上で、蝶てふ々〳〵のやうに踊るんです。――唐もろ土こしの何んとか言ふ殿樣か大名の后きさきに、飛ひえ燕んといふ美しい女があつたんですつてね。それが矢つ張り掌てのひらの上で踊つたといふが――これはあつしの智慧ぢやありませんよ、權八といふ名前ばかり意氣な道化の口上言ひがしやべるんだが﹂ 漢の成帝の后きさき趙せう飛ひえ燕んの傳説を、道化の口上から一つ覺えに、八五郎は傳へるのでした。 ﹁それがお前を口く説どいたといふのか﹂ ﹁あつしを口説いたのなら、默つてニヤニヤしてゐますよ。ところがその燕つば女めの目的が親分なんだから――ちよいと姐さんは、耳を塞ふさいでゐて下さいよ﹂ お勝手で晝の支度をしてゐるらしいお靜に、かう障子越しに聲を掛ける八五郎です。 ﹁耳を塞いでゐますから、豆腐屋さんが來たら、呼んで下さいよ﹂ お靜も近頃は、これくらゐの應酬は心得てをります。 ﹁その燕つば女めが、突き詰めた顏をして、あつしを道具の蔭へ誘さそひ込んで――錢形の親分さんにお願ひして下さい。私は怖い、どうかしたら殺されるかも知れません――てなことを言ふんです﹂ ﹁何が怖いんだ﹂ ﹁それを聽かうとすると、道化の權八が、舞臺に穴があくからと、大變な見幕で搜しに來ましたよ﹂ ﹁――﹂ ﹁ちよいと行つて見ませんか。柄は小さいが、身體が引ひき緊しまつて、子供々々した愛嬌があつて、何んとも言へない良い娘ですよ﹂ ﹁馬鹿、そんな女の言ふことをきいて、ノコノコ行かれるものか、殺される殺されると言つた人間に、あんまり殺された例ためしはないぜ﹂ ﹁でもこいつは褒美も何んにもありませんよ。ちよいと覗いて見たつて、親分の顏にも名前にも拘かゝはるわけはありません﹂ ﹁その愛嬌が褒美ぢやないか。お前には丁度手頃な仕事だ、精々見張つてゐるがいゝ。今に怖い兄さんが、匕あひ首くちか何んかを振り廻して、文句を付けに來ても俺は知らないから﹂ ﹁そんな嫌なんぢやありませんよ﹂ 八五郎はもう一度誘つて見ましたが、平次はこれも聽いてくれさうもありません。百兩も二分も、美女の愛嬌も平次に腰をきらせる魅力ではなかつたのです。二
それから二三日經つたある朝。 ﹁サア、大變。親分、今度はお膝元だ。嫌も應もねえ﹂ 飛び込んで來て、手を取らぬばかりに八五郎はわめき立てるのです。 ﹁どうしたんだ。どこの雌めす猫ねこが子を産んだのだ﹂ ﹁そんな氣樂な話ぢやありまやんよ。富澤町の和いづ泉み屋やへ、泥棒が入つて人を一人殺したんだ﹂ ﹁何んだと﹂ ﹁同じ町内の喜代次親方があつしの家へ飛んで來ましたが、親分にも早いとこ見て置いて貰ひてえと思つてね﹂ ﹁よし、一緒に行かう﹂ 手早く支度をして飛び出すと、 ﹁親分、御苦勞樣で﹂ 路地に待つてゐたのは、よく肥つた、小作りの中年者でした。 ﹁お前さんは?﹂ ﹁富澤町の喜代次でございます。出入りのお店の大事で、飛んで參りましたが、へエ﹂ 植木屋――と後でわかりましたが、色白で愛あい嬌けうがあつて、でつぷり肥つた恰幅などどう見ても物馴れた商人です。 ﹁泥棒がどうして入つて、何を盜つて、誰を殺したんだ﹂ ﹁どこから入つたか、少しもわからないさうで。奪られたのは、命にも金にも換かへられない、大事の品だと申してをりました﹂ 喜代次はなか〳〵話上手ですが、素しろ人うとの聞き噛りで、平次には大した參考になりさうもありません。 富澤町の和泉屋といふのは、路地を入つたしもた屋ですが、金貸しで繁昌してゐる家だけに構へも立派、板塀に高々と忍び返しを打つて、容易に近づけさうもない家造りです。 主八の宗助は五十六七の粗そ野やな男で、生れながら町人ではないらしく、手足の荒れ、肩幅の廣さ、どこから見ても勞働者あがりで、言葉にはひどい上かみ方がた訛なまりがあります。 ﹁泥棒がどこから入つたか、どこから出たか、少しもわかりません。庭先で大變な騷ぎが始まつたので、私が手燭をつけて、雨戸をあけて外へ出ると――﹂ ﹁話中だが、その時雨戸は確たしかに締つてゐたことだらうな﹂ 平次は言葉を挾みました。宗助の説明は一人呑込みで、相手の心持などを考へてもゐない樣子です。 ﹁確かに締つてをりました。私は戸締りのやかましい方で、夜休む時一應家中の戸締りを見廻ります、――私が出たのは、奧の六疊の前の縁側ですが、雨戸は上下の棧さんもおり、その上心張棒までしつかり掛つてをりました﹂ ﹁で?﹂ ﹁庭の中に倒れてゐる者があります。手燭の灯りで見ると、それは目黒の實家へ用事で歸つて、昨夜は其處へ泊つて來る筈だつた、番頭の勘七ぢやございませんか。胸のあたりを一と突きやられて、血だらけになつて息が絶えてをりました﹂ ﹁時刻は?﹂ ﹁亥よつ刻は半ん︵十一時︶過ぎ、どうかしたら子こゝ刻のつ︵十二時︶近かつたかも知れません。大きな聲を出すと女共が起きて來ました――女共と申しても、召使ひのお富とお濱でございます。小僧の徳松は眠い盛りで、こんなことでは目を覺しません。それを叩き起して、植木屋の親方のところへやるのに半刻もかゝる騷ぎで――御近所の衆ですか、へツ、御近所の衆などは、火事でも出さなきや來てくれません﹂ 稼業柄、餘つ程近所附き合ひが惡さうです。 ﹁庭先で番頭が殺されてゐたことは間違ひないとして、泥棒が入つたとはどうしてわかつたのだ﹂ ﹁御尤もでございます。私は大變なことを言ひ落しましたが、朝になつて氣がつくと、私の部屋の用よう箪だん笥すが滅茶々々に荒されて、大事な品がなくなつてゐたのでございます﹂ ﹁大事な品といふと?﹂ ﹁それは申上げられませんが、私の身しん上しやうの半分と申してもよいほどの、大した品でございます﹂ ﹁それは大きい品か?﹂ ﹁いえ、至つて小さいもので﹂ ﹁書面のやうな﹂ ﹁そんなものとも違ひます﹂ ﹁品物がわからなきや、曲者もわかるまいよ。曲者がわかつたところで、取り返す當てもあるまい﹂ ﹁そんなものでせうか、親分﹂ 宗助の顏には、恐ろしい困惑の色が浮びますが、それでも奪られた品のことは打ちあけさうもありません。 それでも念のために番頭勘七の死體を見せてもらひました。 裏の三疊に、型ばかりの床を敷いて、犬つころの死骸のやうに投り出されてゐる番頭の勘七は、四十五六の不景氣な男で、主人の説明によると、この店へ來てからまだ半年にしかならず、知合ひを辿たどつて、手傳ひに雇入れただけで、金かね箱ばこの鍵まで預けるやうな白鼠ではないやうです。 傷は出合ひがしらに胸を突かれたものの、刄物は幅の狹い匕首らしく、單ひと衣への乳の下を一とゑぐり、なか〳〵物凄い手際です。 家の者に一應逢つて見ましたが、構への割には至つて無人で、召使ひと稱する――實は主人の妾めかけのお富といふ、ジヤラジヤラした三十女。それに四十年輩の房州者といふ、少し釘の足りない下女のお濱、あとは十四になる小僧の徳松、たつたそれつきりです。 その中で筋の立つたのは妾のお富だけ、昨ゆふ夜べのことを訊いて見ると、 ﹁勘七どんは昨きの日ふの朝早く出かけました。目黒の兄の家に法事か何んかあるといふことでした。泊つて來る筈のが、不意に夜歸つて來て、心得た庭木戸なんかを開けて、庭の中へ入つたところを、不意に顏を合せた泥棒にやられたんでせう、――可哀想に氣はきかないが、正直で良い人でしたが﹂ そんな世間並のことを言つてゐるくせに御用聞の平次にまで、無用の媚こびを浴びせかけずにはゐられないと言つた、典型的な娼婦型の大年増です。 ﹁庭の木戸は外からでも開くのか﹂ ﹁家の者――それも主人と私と勘七どんくらいしか知りませんが、輪鍵がゆるんでゐて、外からトンと叩くと外はづれるやうになつてをります。やつてお目にかけませうか﹂ ﹁いや、いゝ﹂ 嚴重なやうに見せかけて、案外妙なところに手拔かりのある家を、平次は時々見てをりますが、これはまた少し念入りの手ぬかりです。 ﹁昨夜主人が起き出したのを知つてゐるだらうな﹂ ﹁知つてますとも。同じ部屋に寢てゐたんですもの﹂ 恥を知らない女は、こんなことをヌケヌケと――いくらか自慢らしく言ふのです。 ﹁下女のお濱は?﹂ ﹁あれは離れてゐますが、四十女ですから、あれだけ騷ぐと、徳松と違つてすぐ眼を覺まします﹂ これがお富から聽き出せる全部でした。 丁度驅けつけてくれた、土地の下つ引、柳原の國松ともう一人に、目黒の勘七の實家まで行つてもらひ、庭に降りて昨ゆふ夜べ勘七の刺された場所を見て、そこから一間ほど先にある庭木戸の輪鍵の具合などを見てゐると、主人の宗助は揉もみ手でなどをしながら後ろから鬼おに瓦がはらのやうな顏を出すのでした。 ﹁相濟みません、――矢張り盜られた品のことを申上げて、親分さんに力になつて頂く外はないと思ひまして、へエ﹂ ﹁俺に言ひたくねえ品なら、俺も聞きたくねえよ。その代り妙な疑ひを被きせられても、俺の知つたことぢやないよ﹂ ﹁と、飛んでもない、親分、――實は、今から三年前、私がまだ上方にをりました頃、さる人から、高い金を出して讓り受けた品でございます。九州の大々名の御部屋樣が、わけがあつて、そつと金に代へたいと申すんださうで﹂ ﹁何んだえ、それは?﹂ ﹁夜やく光わうの珠たまでございます﹂ ﹁?﹂ ﹁金こん剛がう石せきと申すんださうで、梅干の種ほどもありませうか、それは〳〵美しい光を出します。日本では大した値になりませんが、それを長崎へ持つて行つて、和おら蘭んだの商人に賣りますと、そんな小さい物が、何千兩、何萬兩もするさうで﹂ ﹁――﹂ 平次も驚いてしまひました。黄金や珊さん瑚ごや瑪めな瑙うよりも尊いものが、この世の中にあるといふ話は聽いてをりますが、梅干の種ほどの夜光の珠が、何千兩何萬兩とは、全く想像も及ばぬことです。三
﹁驚きましたね、親分﹂ ﹁あれが本當なら大變なことだ、――もう一度家の内外を調べて見よう﹂ ﹁こちとらの眼玉をくり拔いたつて、そんな値には買つてくれませんよ。親分、ありや嘘うそぢやありませんか﹂ ﹁誰がお前の眼玉を買ふ奴があるものか、――來い、八。俺はその泥棒の入つた場所が知りたい﹂ 平次は調べ直しました。が和泉屋の戸締りは鐵の藏のやうに嚴重で、土臺下を掘つて入つた形跡がなく、格かう子し一本々々にも、少しのゆるみもありません。 ﹁八、こいつは梯はし子ごの跡ぢやないか﹂ 平次の聲は彈はずみました。お勝手の外、日蔭の柔かい土の上に、斜なゝめにめり込んだ、梯子の足特有の跡が印されてゐるではありませんか。 ﹁こゝにその梯子がありますよ﹂ ﹁こゝへ掛けて登つて見てくれ。引窓があるだらう、――俺は家の中から見る﹂ ﹁よし來た﹂ 八五郎は屋根に登りましたが、間もなくお勝手の引窓が外からでも簡單に開くことを發見しました。 ﹁親分﹂ バアと上から顏を出す八五郎。 ﹁そこから潜もぐり込めるか、八﹂ ﹁引窓の戸はこれだけしか開きませんよ、精々六寸くらゐですね。それに窓まど框わくに釘が出てゐるのは驚いたなア﹂ ﹁釘?﹂ ﹁その釘に淺あさ葱ぎの木もめ綿んく屑づが引つ掛つてゐますよ﹂ ﹁丁寧にとつて來てくれ﹂ ﹁いづれにしてもこの引窓からは大の男は入れませんよ﹂ ﹁よし〳〵、戸はそれきり動いた樣子はないよ、あとは敷居が煤すゝで一パイだ。それにこの綱ぢや直ぐ切れさうになつてゐるから、猫の子でもなきや、傳はつて降りるわけに行かないぜ﹂ 平次は八五郎に合圖をして、屋根から降りて來させると、引窓に出てゐる釘から外して來た淺葱の木綿屑を受取つて、丁寧に懷ろ紙の中に納めました。 そこへケゲンな顏を出したのは下女のお濱です。 ﹁今朝この引窓は明いてゐた筈だな﹂ ﹁開いてゐました。私は締め忘れた覺えはないが、不思議なことがあるものだと思ひましただよ﹂ ﹁窓の戸は、これより開かないのか﹂ ﹁それが一パイで、煤すゝで錆さび付いただね﹂ これでは矢張り曲者が引窓から入つたといふ假定は根本から崩れてしまひさうでした。 こんなことで外へ出ると、眼の前に、道を隔へだてて嚴いかめしい武家屋敷が立ち塞がつてをります。 ﹁あれは石崎丹後樣の屋敷だつたな﹂ 平次は顎で指さしました。 ﹁さうですよ。三四日前、大事な寶物を奪られたといふ﹂ ﹁こゝまで來たついでだ、行つて見ようか、八﹂ 平次は妙なことを言ひ出しました。 ﹁二本差と田たに螺しあ和へは嫌ひぢやありませんか﹂ 八五郎は鼻を脹らませます。 ﹁急に田螺和が喰ひたくなつたとでも思へ――兎も角、頼まれた主はお前だ。その用人とやらに會つて、訊くだけは訊いて置かう﹂ ﹁さうですか﹂ 八五郎は何が何やら、わからぬまゝに、裏門から入つてお勝手口へ掛りました。 さすがに一千五百石の旗本だけに、庭も廣く、建物も和泉屋などと違つて、また一段と豪勢を極めます。 下女に取次がせると、 ﹁これは〳〵八五郎親分か。錢形の親分も一緒で、それは有難い﹂ 用人の水谷六郎兵衞、恐ろしく如じよ才さいない調子です。五十前後の用人摺ずれのした滑めらかな人間で、平次と八五郎と顏見合せて苦笑ひしたほどの愛想振りです。 ﹁あつしは平次でございますが、何にか大切なものを紛ふん失しつなすつたさうで﹂ ﹁いや、それだよ。紛失した品物のことは、私も實はよくは知らない。萬事殿樣が呑込んでいらつしやるが、――五十兩百兩の品ならそのまゝ諦めもするが、こればかりは身にも家にも代へ難い、何んとしてでも取戻すやうにと仰つしやるのだよ﹂ ﹁品物がわからないと、手のつけやうもありませんが﹂ ﹁では、ちよいと待つてくれ。殿樣に伺つて來るから﹂ 用人水谷六郎兵衞は一たん奧へ引つ込みましたが。やがてあたふたと戻つて來て、 ﹁殿樣が直々お會ひになると仰つしやる、――こちらへ﹂ 奧の方へ案内するのです。 家はさして廣くはなく、旗本屋敷の特色的な建築で、天井が低く、窓は小さく、鬱うつ陶たうしくさへ感じさせますが、その嚴重さは目を驚かすばかり、不要の部屋々々は閉めきつたまゝ、格子のないところは、棧さんと心張りの外に、全部の雨戸に閂かんぬきまで差してゐるのです。 金を持つてゐる町人の住家より、貧乏な武士の屋敷の方が遙かに戸締りの嚴重だつたのは、萬一筋違ひの怨みや、押込みなどに入り込まれて、辱はづかしめを受けるやうなことがあれば、輕くて追放、重ければ腹切りもので、それに備へて、世間の人の想像もつかぬ、嚴重な注意を拂つたものです。 それはさて措き、離屋のやうになつた奧の一と間には、脇息にもたれて、主人石崎丹後は平次を待ちました。 ﹁平次か、いや、飛んだ無理を申して濟まぬな。遠慮はよい、近う參れ﹂ 高慢なやうな、丁寧なやうな、ぞんざいなやうな、慇いん懃ぎん無禮なやうな、典型的な生なま摺ずれの殿樣振りです。 思つたより若くて、精々四十五六、鉛なま色りいろをした皮膚は氣になりますが、細面で眼が細くて、薄い唇に、不斷の微笑を湛たゝへた先づは申分のない才人らしい殿樣です。 ﹁恐れ入ります。紛失の品と、それを狙ふ者のお心當り、無くなつた後あと前さきの事など、殿樣から直々に承はりたく存じまして――﹂ 平次は疊に手は置きましたが、卑ひく屈つにならない程度の丁寧さで、かうきり出しました。 ﹁尤もなことぢや、紛失した品と申すのは唐もろ土こしで言ふ夜光の珠、南なん蠻ばんではこれをダイヤモンドと申すさうぢや。大きさは銀いて杏ふの實ほどもあらうか、まことに見事なものぢや﹂ ﹁それは﹂ ﹁堺さかひの奉行をしてゐるとき、港に流れ着いた船の船頭から大金を以て求めたものぢや。これを長崎の和蘭人に持つて行つて賣ると、そんな小さいものでも、數千金になると聽いてゐる﹂ ﹁それほどの品を﹂ ﹁油斷であつたな。居間の手文庫に入れて、違ひ棚の上に載せて置いたのを、四日前の晩、盜賊が入つて、手文庫の蓋ふたをこじ開けて盜んで行つたのぢや﹂ ﹁そのお居間は?﹂ ﹁こゝだよ。この違ひ棚に置いて、予は隣りの部屋に休んでゐたのだ。翌る日の朝まで、何んにも知らなかつたのは、まことに不覺であつたが――﹂ ﹁御家來衆の中に、疑はしい者はございませんか﹂ 平次はさう訊くのが順序だつたのです。 ﹁いや、それは安心してよい。皆心を許せる者ばかりで、疑はしい者は一人もない。それにこの部屋と隣りの部屋は、母おも屋やと廊下で繋つながつて、離はな屋れのやうになつてゐる。廊下の戸はこちらから締めてあるから、家來に怪しい者があつたところで、こゝに忍び込むことなど思ひも寄らない﹂ ﹁戸締りは?﹂ ﹁申分のない嚴重さだ、――翌る朝廊下の戸を奧が開けて、女共を呼んで窓や縁側を開けさしたが、戸締りには少しの變つたところもなかつた筈だ﹂ ﹁恐れながら、さう承はりますと﹂ ﹁予か奧が怪しいといふことになるか、ハツ、ハツ、ハツ、それは大丈夫だ。予は予の物を盜む筈もなく、奧は一寸も寢部屋から出なかつた筈だ。それに手文庫の錠前を破つたのは容易ならぬ力だ﹂ さう聽けば疑ふべき節もありません。 普請の嚴重さはこの上もなく、天井にも床板にも、押入の中にも何んの變化もなく、それには天窓も引窓もないのですから、猫の子一匹入る隙間もなかつた筈です。 平次は殿樣の前を下がると、庭下駄を借りて八五郎と一緒に庭へ降りました。 ﹁驚いたね、親分。こゝでも夜光の珠だ﹂ ﹁シツ、聲が高いよ、八﹂ 八五郎はペロリと舌を出します。 廊下續きの離屋になつてゐる二た間の外から一とめぐり、もう一度夜光の珠の紛失した部屋の前へ來ると、 ﹁おや、變なのがありますぜ、親分﹂ 八五郎は、和泉屋のお勝手の外で見付けたのと同じやうな、梯はし子ごの足の跡を二つ、柔かい軒下の土の上に見付けたのです。 ﹁梯子を借りて來るがいゝ﹂ 飛んで行つた八五郎は、間もなく九つ梯子を一梃、輕々と引つ擔いで持つて來ました。 ﹁どこへ置きませう﹂ ﹁その穴へそつと置くがいゝ、――おや、おや、梯子の勾かう配ばいがひどく緩ゆるいと思つたら、屋根の上ぢやなくて、庇ひさしの下の欄らん間まのところへ掛つたぜ﹂ ﹁登つて見ませうか﹂ 八五郎は平次の返事も待たずに、スルスルと登ります。 ﹁その欄間の障子が外れるだらう﹂ ﹁外れますよ、――この通り﹂ ﹁そこから潜つて入れるだらう﹂ ﹁先刻の和泉屋の引窓と同じことですよ。欄間は精々六寸位しかありませんよ。手や足なら通るが、頭はどう工夫しても通るわけはありません﹂ ﹁鼻と耳を殺そいだらどうだ﹂ ﹁冗談ぢやない――のつぺら坊ができますよ﹂ ﹁人の潜つたやうな樣子はないか、隣の欄間と比くらべて見ろ﹂ ﹁おや〳〵隣りの欄間は埃ほこりだらけだが、こゝは舐なめたやうに綺麗になつてますよ﹂ ﹁それが面白いところだ。もういゝ、のつぺら坊になられちや困るから、もう降りて來い﹂ ﹁へエ﹂ 平次と八五郎はそれから又庭を一巡じゆんしました。嚴重を極めたのは戸締りだけで、塀はさすがに臆病らしい忍び返しも打たず、少し身輕なものなら、どこからでも越せないことはありません。 ﹁こゝだよ八﹂ 平次は裏手の方の塀の一箇所を指さしました。その通りの士が砂に踏み固められて、塀の上も他のところと違つた、苔こけや埃ほこりの剥はげた跡などがあるのです。 ﹁さう言へば變ですね﹂ ﹁ちよいと肩をかしてくれ﹂ ﹁何をするんで?﹂ ﹁呑込みの惡い奴だな。門へ廻るのが面倒だから、こゝから外の樣子が見たいのだよ﹂ ﹁へエ、かうですか﹂ 塀へ屋やも守りのやうにへばり着く八五郎の肩を踏んで、平次は塀越しに外を眺めてをりましたが、やがて靜かに降りると、ポンポンと八五郎の肩のあたりを拂ひながら言ふのです。 ﹁外には矢張り石と材木が積んであるから、足場には不自由しねえ、――それに塀の上の樣子や、土の踏み固めた具合では、曲者がこゝを通つたのは、一度や二度ぢやないやうだ。隨分長い間狙つてゐたんだらう﹂ ﹁もういゝんですか、親分﹂ ﹁馬鹿だなア、何時まで塀にへばり着いてゐるんだ、屋守の伯父さんと間違へられるよ。いや、冗談は冗談、御苦勞々々々、お蔭でよくわかつたよ﹂ ﹁もう見て置くことはありませんか﹂ ﹁ないよ、――あ、このお屋敷へ出入りしてゐる植木屋は誰だらう﹂ ﹁御用人に訊いて來ませう﹂ 飛んで行つた八五郎、やがて酢すつぱい顏をして戻つて來ました。 ﹁和泉屋に入つてゐる、あの肥つちよの喜代次ですよ﹂ ﹁さうか、よし〳〵﹂ ﹁あの植木屋が怪しいんぢやありませんか。植木屋なら梯子の使ひ方も心得てゐるし、和泉屋の裏木戸が、外から手輕に開けられることも知つてゐるわけで――﹂ 八五郎はなか〳〵良い勘を働かせます。 ﹁お前の智慧にしちや大したものだな。だがな、八。もう少し考へて見なきや﹂ 平次は何やら考へながら外へ出て行きました。四
﹁どこへ行くんです、親分。道が違やしません﹂ 廣小路へ出ると、橋の方へ向つて行く平次の後ろから、八五郎は聲を掛けました。 ﹁序ついでに雀とか燕つばめとかいふ娘を見て行かうぢやないか。嫌でなきや附き合へ﹂ ﹁そいつは親分にしちや上出來ですね――第一道化の權八が喜びますよ。燕つば女めが近頃人に附け狙はれてるやうで、氣が氣ぢやないから、錢形の親分に來て貰へないだらうか。と、あつしの顏を見るたびに言ふんですがね﹂ そんなことを言ひながら、半永久的に建てた玉川權之助の輕かる業わざ小屋へ、平次と八五郎は入つて行きました。 小屋は小さくて粗末なものですが、近頃江戸中の人氣を集めて、中は一パイの入りです。番組は丁度娘達の玉乘りの眞つ最中、下座の賑やかな囃はや子しにつれて、十四五を頭に五六人の娘達が、舞臺一パイに、玉を乘り廻して、見物の子供客の、嵐あらしのやうな歡聲を浴びてをります。 それが濟むと、怪奇な道化役が出て來ました。何方かと言へばヒヨロ長いクネクネとした男、顏はまさに繪に描いた彦ひよ徳つとこそのまゝ――素顏はそんな變な男ぢやありませんが――と八五郎の辯解がなかつたら、鼻の下に青せい黛たいを塗つて、豆絞りの手拭を冠つたこの男の顏を、平次は生れつきの面相と思つたかも知れません。 いや平次ばかりでなく、小屋一パイの見物はどつと笑ひ崩れました。道化の權八はその哄こう笑せうの大波を享樂するやうに、ニヤリと笑つて、 ﹁とざい、東西――﹂ と拍子木を叩くのです。口こう上じやうの筋はなか〳〵纒まとまつたもので、漢かんの成せい帝ていに寵愛を受けた美女飛燕のことなどを例に引いて、さて、燕女の身輕さの非凡なことを一とくさり、最後にその藝當の番組の數々を紹介して、 ﹁先づは太夫を、舞臺正面まで控ひかへさせます﹂ チヨンチヨンと舞臺を斜めに引つ込むのです。それを合圖に右から出て來たのは、一座の太夫玉川權之助、三十前後のこれは小作りではあるが、鐵で鍛きたへたやうな男でした。淺あさ葱ぎの帷かた子びらに裃かみしも、威儀を正して控へた態度は、なか〳〵美男と言つてよく、こんな小屋に立たせて、藝當などをさせて置くのは惜しいくらゐです。 左から出たのは一座の花形玉川燕つば女めでした。その姿が揚幕から現はれると。客席はもう一度ワーツと歡聲をあげます。紫色の振袖に、擬まがひ物にしても蜀しよ紅くかうの肩かた衣ぎぬ、――いやそんなことはどうでもよいのですが、客の夢中になつて拍手を送るのは、その男をと髷こまげに結つたやゝ小さい顏――御所人形に息を通はせたやうな非凡の美しさでした。 霞かすむ眉、柔かい鼻筋、細つそりしてはゐるが頬から頤あごへかけての線の美しさは、まさに神品といふ外はありません。 正面に立つてにつこりすると、笹さゝ紅べにを含んだ唇から、ほのかに白い前齒が漏れて、頬のあたりに柔かな笑くぼが淀よどみます。柄は至つて小さい方、十九と言はれてをりますが、一寸見は十四五としか思へず、その成熟した顏の美しさや、聲の魅力的な響きを勘定に入れなかつたら、本當に小娘でも通ることでせう。 玉川權之助は、身支度を整へて、いろ〳〵の身輕な藝當を見せ、續いて燕女は、鮮あざやかな足藝をひとくさり濟ませて、さて最後にその日の大番組﹃飛燕の舞﹄になるのでした。 賑やかな囃はや子しにつれて燕つば女めの輕い身體は前に差し伸べた權之助の手へ、大きい蝶のやうにヒラリと飛び乘るのでした。續いて肩を踏んで、權之助が頭上高く揚げた兩手の上に、燃えるやうな肩衣を着けた燕つば女めの、小柄な姿がフンハリと立つたのです。 賑やかな囃子につれて、燕女の手には銀ぎん扇せんがさつと開かれ、手振り面白く舞ひ始めました。舞臺一パイに動く權之助の身體の移動と共に、頭上高々と擧げた掌てのひらの上に舞ふ燕女の翩へん飜ぽんたる姿は、まさにこれ地上のものではありません。 小屋一パイの歡聲が、波のやうに湧き起ると、燕女はそれに應へて掌の上ににつこりします。 ﹁どうです、親分。大したものぢやありませんか﹂ ガラツ八の八五郎は、八つ手の葉つぱのやうな掌てを叩きながら、自分のことのやうに、自慢らしく平次を顧かへりみるのでした。 ﹁よし〳〵、お前の言ふ通りだ。が、あの身輕さで、あの小さい身體なら、引窓だつて、自由に潜れるぢやないか﹂ ﹁何んです、親分﹂ 八五郎は駭然としました。平次の言葉はまさに青天の霹へき靂れきです。五
兩國の見世物小屋は、東西ともに暮六つまで。玉川權之助の一座も客を送り出して木戸を閉めて、舞臺化粧を洗ひ落してゐるとろへ、平次と八五郎が入つてゆきました。 薄暗くなりかけた樂屋裏。 ﹁これは錢形の親分さん﹂ 權之助は商賣柄平次の顏を知つてゐたらしく、あわてて逞たくましい肌に單衣を投げかけます。 ﹁そのまゝでいゝよ、――ちよいと訊きたいことがあつて來ただけなんだ﹂ ﹁へエ、へエ、何んなりと﹂ ﹁外ぢやないが、お前達の生れはどこなんだ。皆んな故郷が違つてゐることだらうと思ふが﹂ ﹁へエ、諸國の集まり者でございますよ。私は武州川越で、權八は三河の國の才造くづれ、燕つば女めは泉州堺さかひだと聽いてをりますが﹂ さう言ふ權之助の素顏は、引緊つて精せい悍かんでなか〳〵の好い男です。 ﹁泉州堺といふと、ツイそこにお屋敷を持つていらつしやる石崎丹後樣は。長い間堺さかひ奉行をしてゐたやうだが――﹂ ﹁石崎の殿樣は、私の父親が御ごぢ眤つこ懇んに願つてをりました﹂ 側から應じたのは燕女でした。何んの邪念も掛引もない聲です。そして薄暗がりに平次を見上げた素顏は舞臺顏よりも清潔で可愛らしくて、そのまゝ引寄せて頬摺りしてやりたい衝動に驅られる顏です。 粗末な浴衣に、赤い帶、身みな扮りは至つて平凡な唯の娘ですが、この娘の肉體の持つ魅力は容易のものではありません。 ﹁するとお前は――﹂ ﹁父親は堺の町名主を勤めてをりました。今田屋茂左衞門と申しまして、――兩親に亡くなられて、江戸の叔母を頼つて參りましたが、それも行方不しれ知ずになり、途方に暮れてゐるところを、親方の先代に拾はれて、藝を仕込んでもらひました。もう六年も前のことです﹂ 燕女はこれだけのことを、スラスラと言つたわけではありません。平次の巧たくみな問ひ落しで、語り澁るのを、どうにか誘ひ出して、これだけのことを纒まとめたのです。 ﹁それぢや、富澤町の和泉屋も知つてゐるだらう﹂ ﹁あの人は船頭でした。石崎樣の輓ひきで江戸へ出て、あんなに繁昌してをります﹂ 燕女から引出したのは、これで全部でした。やがて暗くなつて行く樂屋を見捨てて小屋の外へ出ると、そこに待つてゐたのは道化の權八の、これも白粉を落し、鼻の下の青せい黛たいを洗つた、淺黒い生きま眞じ目めな顏です。 ﹁錢形の親分さん、御苦勞樣で﹂ ﹁飛んだ邪魔をしたね﹂ ﹁あの、ちよいとお耳を――﹂ ﹁何んだえ、八五郎なんか邪魔にすることがあるものか、そこで言ふがよい﹂ ﹁外ぢやございませんが――﹂ ﹁どうしたんだ、權八﹂ ﹁へエ、イエ、これは私の思ひ違ひでございました。飛んだことを申上げて濟みません。お許しを願ひます﹂ ﹁待て〳〵﹂ 八五郎が追つかける隙ひまもありません。權八は身を飜かへすと宵闇の中に影を隱してしまつたのです。 ﹁八、あれを見るがよい﹂ ﹁へエ?﹂ 平次の指さした方、輕業小屋の樂屋口には僅かに殘る雀色の夕あかりの中に、ほの白い顏が凝ぢつとこちらを見てゐるではありませんか。 ﹁燕つば女めですね﹂ 八五郎もわかつたやうな顏をしてうなづいて見せました。 その夜目黒から歸つて來た下つ引は、和泉屋の番頭町勘七は、目黒の實家の法事に歸つたに間違ひはなく、泊つて行けといふのを振りきつて、用事があるからと夕方から兩國の店へ歸つて行つたとわかりました。勘七に拘かゝはる疑念はこれですつかり解消したわけです。 ﹁ね、親分。勘七を殺したり、夜やく光わうの珠たまを二つまで盜んだ曲者は誰でせう﹂ ﹁まだわからないよ﹂ 八五郎の問ひに、平次は氣乘りのしない顏で答へました。 ﹁燕女でせうか﹂ ﹁どうもさうらしくないから不思議だ﹂ ﹁外に怪しいのはないぢやありませんか﹂ ﹁あり過ぎて困るよ﹂ ﹁へエ?﹂ 平次の答へはあまりにも豫想外です。 ﹁例へば、和泉屋の主人の宗助だつて、やらうと思へばできないことはない。何にかわけがあつて、石崎丹後樣の夜光の珠を盜んで、自分のと換かへたかつたかも知れない。それを見付けられたので番頭を殺した――といふことも考へられる﹂ ﹁匕あひ首くちはどこに隱したでせう﹂ ﹁それがわかれば宗助を縛るよ﹂ ﹁それつきりですか﹂ ﹁植木屋の喜代次だつて怪しくないことはない。和泉屋と石崎樣と兩方に出入りしてゐるし、まだ雨戸の開いてゐる宵に忍び込んで、朝下女が雨戸を開けた後で、そつと飛び出し、庭でうろうろしてゐたつて、出入りの植木屋なら、誰も變には思はないだらう﹂ ﹁それぢや植木屋を﹂ ﹁あわてるな八、植木屋では夜光の珠に縁がありさうもない、――外に石崎家の用人の水谷とか言ふ人だつて、やらうと思へばできないことはない﹂ ﹁?﹂ ﹁何んだつて梯子を持ち出したり、引窓を開けたり、欄らん間まの障子を開けたり、餘計な細工をしたんだ。矢つ張り﹂ ﹁燕女が怪しいんでせう、あんな綺麗な顏をしてゐる癖に﹂ ﹁あの娘は、あんまり明けつ放しで疑ひやうはない、――これから玉川權之助一座の宿へ行つて見ようと思ふが、お前つき合つて見るか﹂ ﹁行きますとも﹂ 二人は又飛び出しました。もう戌いつ刻ゝ︵八時︶を過ぎたでせう、柳原にはまだ辻斬も夜よた鷹かも出ませんが、江戸の夜は次第に靜かになりました。六
平次と八五郎はいきなり玉川權之助の宿を襲つたのです。 ﹁氣の毒だが、ちよいと家の中を見せて貰ふよ﹂ ﹁へエ、へエ﹂ 權之助と燕つば女めはようやく夜食が濟んだばかり、それでも愛想よく迎へ入れました。二階二た間、權之助と燕女の部屋を念入りに調べましたが、何んにもあるわけではありません。旅藝人にしては、いくらか裕福さうだと言ふだけ、行かう李り一つ、布團一と組の、まことに氣樂な簡素さです。階し下たは十二三の娘達が四五人をりますが、これは調べるまでもなく、 ﹁權八はどこに泊つてゐるんだ﹂ ﹁階し下たの四疊半ですが、――どこへ廻つたか、まだ小屋から戻りません﹂ ﹁ついでにそれも見せて貰はうか﹂ 平次と八五郎は權之助の案内で階下の四疊半へ行くと、廊下でパツタリと燕つば女めに逢ひました。摺れ違ひさま默禮して行く燕女の後ろ姿を、八五郎はどんなに好ましさうに見送つたことでせう。細つそりしてはをりますが、まことに香氣馥ふく郁いくたる乙女です。 權八の部屋にも何んにも注意を惹ひくものはなく、平次は一度外へ出ましたが、引返して宿の女主人に、何くれと三人のことを訊いてをります。 ﹁權之助と燕女は夫婦ぢやないのか﹂ ﹁飛んでもない。二人は兄妹のやうにしてゐますが、嫌らしい素振りなんか少しもありませんよ﹂ ﹁夜分外へ出ることはないのか﹂ ﹁滅多に出ません﹂ ﹁昨ゆふ夜べは?﹂ ﹁二人共早く休んだやうで﹂ ﹁權八は?﹂ ﹁あれは道樂者ですよ、宵のうちに歸つたことなんかありやしません。昨夜も遲く歸つて來たやうで――仲町を一と廻りして來たとか言つて、お酒の匂ひをさせてゐました﹂ ﹁權八と燕女の仲はどうだ﹂ ﹁あんまり仲の良い方ぢやありませんね﹂ これが宿の女主人に訊いた全部でした。二人は諦めた心持で外へ出ると、誰やら闇の中へ、ひらりと消え込んだ者がありました。八五郎は一應追つて見ましたが、それつきり姿は見えなくなりました。 ﹁燕女は一と晩外へ出なかつたさうですね﹂ 戻つて來た八五郎は、ホツとした顏で言ふのです。 ﹁こんな安やす普ぶし請んの家だもの、二階からだつて出られるぢやないか。少し身輕なものなら、軒の下から這ひ上がるのも、大して骨の折れる藝當ぢやない﹂ ﹁さうでせうか﹂ 八五郎には何が何やらわかりません。 併しかし事件はその翌る日大發展をしました。 ﹁サア、大變。親分、こんなことと知つたら、昨ゆふ夜べのうちに擧げて置くんでしたよ﹂ 八五郎が相變らず大變の旋つむ風じを起して飛び込んで來たのです。 ﹁何がどうしたんだ。まだ俺は朝飯前だぜ﹂ 平次は悠然として御輿も擧げません。 ﹁それどころぢやありませんよ、三輪の萬七親分が、燕女を縛つて行つたさうですよ﹂ ﹁何んだと﹂ ﹁三輪の萬七親分、こちとらの後から〳〵と嗅ぎ廻つて、たうとうあのお長屋に辿たどり着き燕女に繩を打つたと聽いた時は、私は地團太踏みましたよ﹂ ﹁騷ぐな、八。俺には別の考へがある﹂ ﹁どんな考へです。親分、早く何んとかして下さい﹂ ﹁待て〳〵、急ぐことはない﹂ 平次は靜かに支度をすると、玉川權之助の宿を訪ねました。 ﹁錢形の親分さん、燕つば女めは人なんか殺せる娘ぢやございません。三輪の親分の鑑めが識ね違ひと言つちや濟みませんが、あれは何んかの間違ひに決つてをります。どうか、あの娘を助けてやつて下さい。お願ひ――﹂ 逞たくましい男の權之助が手を合せぬばかりに頼むのです。 ﹁ぢや、俺の訊くことに、正直に返事をしてくれ﹂ ﹁へエ、それはもう何んでも﹂ ﹁燕女を怨んでゐる者の心當りはないか﹂ ﹁怨んでゐる者なんかある筈もありませんよ。命がけで惚れてゐる者ならあります﹂ ﹁それは誰だ﹂ ﹁道化の權八で﹂ ﹁あ、さうか。俺もあの眼は唯事ぢやないと思つたよ、――ところで、その權八は毎晩、夜遊びに出るのか﹂ ﹁滅多に家にゐたことはありません。骨ほね無なしの癖に、色氣だけは一人前で﹂ ﹁何? 骨無し?﹂ ﹁あれは繩脱けの名人ですよ。昔はそれを賣物にしてをりましたが、野郎の繩脱けぢや賣物になりませんから、止してしまひました。あの男の節々は、手も足も首も逆ぎやくに曲るんです﹂ ﹁さうか、それはいゝことを聽いた、――序ついでに權八が仕立か繕つくろひに出してゐる着物はないか、階し下たのお神さんに訊いて來てくれ﹂ ﹁へエ﹂ 八五郎は飛び降りるやうに階し下たへ行きましたが、間もなく淺あさ葱ぎの股もゝ引ひきを一つ、ブラブラ、させながら戻つて來ました。 ﹁これがありましたよ。大急ぎで裏の洗濯婆さんのところへやつて、洗つて繕つてくれと、昨日の朝お神へ渡したのを、お神は忘れてゐたんですつて﹂ 平次はそれを受取つて、鼻の先へ下げて見ると、内側が股もゝから腰へかけて、り取つたやうに裂かれてゐるではありませんか。 懷ろ紙の中に入れて置いた、和泉屋の引窓の釘に引つ掛つてゐた、木綿屑を出して、その破れに當てて見ると、色も寸法もピタリと合つて、最早寸すん毫がうの疑ひもありません。 ﹁八﹂ ﹁あの野郎ですね﹂ 平次と八五郎が飛び出さうとした時でした。 ﹁親分、お手數を掛けました。和泉屋の番頭を殺し、夜光の珠を二つ盜んだのは、この私に相違ございません。お繩を――﹂ 障子外、縁側にピタリと坐つてゐるのは、外ならぬ道化の權八の、觀念しきつた顏だつたのです。七
一件落着の後、平次は八五郎にせがまれるまゝに、夜光の珠の一埒をかう話してくれました。
﹁夜光の珠は三つあつたのだよ。一つは石崎家、一つは和泉屋、それからもう一つは玉川燕つば女めが持つてゐたよ。三つのうち一つが眞ほん物もので、あとの二つは僞物だ。眞物を隱すために、ギヤマンで二つの僞物を造つて三つ別々に隱して置いたのだよ。玄くろ人うとが見れば一と眼でわかるが、素人には僞物も眞物もわからない。だから夜光の珠を盜るためにはどうしても三つ揃へなきやならないのだ﹂
﹁へエ、成程ね﹂
﹁最初あれは和おら蘭んだ人が持つてゐたが、難破して、それを救つた船頭の手に入り、その船頭は金に困つて三つのうち二つを燕女の父親――今田屋茂左衞門に賣り、今田屋はそのうちの一つを、堺さかひ奉行の石崎丹後にやつた。船頭といふのは後の和泉屋宗助さ、それで三つの夜光の珠の因いん縁ねんがわかるだらう﹂
﹁――﹂
﹁燕女はあんな娘だから、その夜光の珠を大した大事の品とも思はず、あとの二つは和泉屋と石崎丹後のところにあることまで話してしまつたらしい。權之助も權八もそれを聽いてよく知つてゐる。が、權八は喰へない男だから、夜光の珠の値打が大變なものだといふことを開き噛かじり、それを三つ揃へる大望を起した。三つ揃へて長崎へ持つて行けば何千兩になるかわからない﹂
﹁――﹂
﹁ところで、その頃から權八は、身體も心も年頃の娘になりきつた燕女に心を引かれた。年々美しくなる燕女は、一緒に住んでゐる權八には、たまらない餌ゑさだつたに違ひない。それにあの男は少し變り者だから、打ち込むとなると命がけだ、どんな無理をしても、――命にかけても燕女を手に入れようとした﹂
﹁――﹂
﹁ところが、燕女は親方の權之助の方に心を寄せてゐる。毎日舞臺の上で、掌てのひらの上で舞はせてゐる權之助も、燕女をいとしく思ふのも無理のないことだらう。あれこそ本當に掌しや中うちゆうの珠といふ奴だ﹂
﹁へエ?﹂
平次の洒しや落れが八五郎にはよく解らなかつた樣子です。
﹁權八は口く惜やしかつた。權之助の掌ての上で、しなやかに踊る燕女、舞臺一パイに匂はせる娘姿を見て氣も狂ひさうになつた。たうとうたまり兼ねて幾度も小當りに當つたが、燕女は相手にもしてくれない。たうとうたまり兼ねて、夜光の珠を二つ盜んで燕女にやつて機嫌を取らうか、それともどうせ自分のものになりさうもない燕女は殺してしまはうかと迷つた。その手始めに和泉屋と石崎屋敷に忍び込み、勘七まで殺して夜光の珠を二つ盜んだ。繩脱けの名人には、引窓から入ることも欄らん間まから潜るのも何んでもない藝當だ﹂
﹁成程ね﹂
﹁その疑ひが燕女の方に向くのを見て、權八は占めたと思つたに違ひない、――一をと昨ゝ日ひの夕方小屋の外で俺を呼留めたのは、それを言ふつもりだつたらしいが、俺の顏を見ると氣が變つて默り込んでしまつた。そしてその晩のうちに三輪の萬七親分のところへ行つて、燕女が下手人に違ひないと吹つ込んでしまつた、――可愛さ餘つて憎さが百倍といふ奴だ﹂
﹁惡い野郎ですね﹂
﹁ところが、縛られて行く時燕女は、權八の手にそつと渡した物が二つある。何んだと思ふ、八﹂
﹁解りませんね﹂
﹁一つは燕女の持つてゐたもう一つの夜光の珠で、一つは權八が勘七を刺した血ちあ脂ぶらの浮いた匕あひ首くちだ﹂
﹁へエ?﹂
﹁賢こい燕女は權八のすることを一々見拔いてゐた。そして俺とお前が昨夜權八の荷物を調べた時、先廻りしてその中から匕首を取出し、そつと隱してやつたのだ。燕女は權八が自分に命がけで焦こがれてゐることを知つてゐるので、惡い人間だが憎む氣になれなかつた、――それに權八が自分を三輪の萬七に賣つたことは夢にも知らなかつたのだ﹂
﹁へエ﹂
﹁それと知つて權八は、燕女の優しさに泣いた。腸はらわたが煮えくり返るほど後悔したが追付かない――せめて、自分が繩を打たれる一寸手前に自首して出たのだよ﹂
﹁良い話だね、親分﹂
﹁良い話だよ、――燕女に惚れ直したらう、八﹂
﹁ところで夜光の珠はどうなりました﹂
﹁慾張るなよ、――石崎丹後もあの珠のせゐでお役罷ひめ免んになつたのだ、――船頭宗助に卷き上げられたもとの持主――和おら蘭んだ人からの訴へがあつたので、公儀から長崎に送り長崎奉行の手からそれを和蘭人へ返してやつたよ﹂
﹁へエ﹂
﹁その代り、玉川權之助は輕かる業わざの足を洗つて、燕女と夫婦になり、近いうちに小間物屋を始めるといふことだ。燕女といふのは字で書くと變だが、あの女はつばめといふのが本名だつてね﹂
﹁――﹂
﹁面白くない顏をするなよ、八。俺はこんな目出度いことはないと思つてるんだが、――さう言へば祝言にはお前も呼ばれてゐるぜ、――可愛らしい花嫁だらうな﹂
平次は本當に嬉しさうでした。あの掌の上で翩へん飜ぽんと踊つた美女が、毒婦でも淫いん婦ぷでもなく、この上もなく優しい女だつたことが嬉しかつたのです。