一
﹁親分、あつしはよく〳〵運が惡いんだね﹂ ガラツ八の八五郎は、なんがい顎あごを撫でながら、つく〴〵斯こんな事をいふのです。そのくせ下がつた眼尻も、天井を向いた鼻も悉こと〴〵く樂天的で、たいして悲觀した樣子もありません。 ﹁大層腐くさつてゐるぢやないか。煮賣屋のお勘かん子こが嫁にでも行つたのかえ﹂ 錢形平次はのつけからからかひ面づらでした。どんなに芝居がゝりの思ひ入れをして見せても、八五郎では一向ちよぼに乘りさうもなかつたのです。 ﹁そんなこつちやありませんよ。近頃大評判の谷中の感かん應おう寺じの富とみ籤くじを買つたんですがね﹂ ﹁誰が?﹂ ﹁あつしですよ﹂ ﹁百文二百文の安富籤ぢやねえ、あれや札ふだ代だいが八匁もするといふぢやないか﹂ ﹁その代り當れば千兩で、――一箱ありや吉よし原はらの大門だつて閉められる﹂ ﹁呆あきれた野郎だ、それが當りでもしたのか﹂ ﹁當りませんよ、たつた一字違ひでね。――だからあつしは運が惡いつて言つて居るんで﹂ ﹁富籤が當るより、罰ばちの當る面だ、お前は﹂ ﹁斯うなると、罰でも宜いから當つて貰ひたかつたと思ひますよ。あつしの買つた富札の番號は梅の千五百八番でせう。ところが當り札は梅の千五百十八番ぢやありませんか。癪しやくにさはるの何んのつて――﹂ ﹁つまらねえことが癪にさはつたものだな、まア腹を立てずにその札を温めて置くが宜い。この先また梅の千五百八番が當り籤くじにならないものでもあるめえ﹂ ﹁へツ、呆れたもので﹂ ﹁ところで、千兩の當りは誰が取つたんだ﹂ ﹁それがわからねえから不思議ぢやありませんか。感應寺で富籤の興行をしたのが先月の晦みそ日かで、それから七日經つたが、當り籤を持つた者がまだ名乘つて出ないんださうです。五十兩二十兩の富籤と違つて、千兩は一と身代だ﹂ ﹁八五郎に言はせると、吉原の大門が締められる﹂ ﹁罰の當つた野郎があるもんですね﹂ ﹁千兩の當り札が賣れ殘つたといふこともあるだらう﹂ ﹁ところが、今度の富とみ籤くじは江戸中の大人氣で、賣れ殘つた札は一枚もないさうですよ﹂ ﹁フーム、少し變だな﹂ 平次も首をかしげました。火事で燒いたとか、紛失したとか、その屆け出さへないといふのは、如何にも考へられないことです。 それから三日目、八五郎は相變らずの調子で飛び込んで來ました。 ﹁親分、大變ですよ。下谷廣くわ徳うと寺くじ前の藤屋に人殺しがあつたんですが、三輪の親分が行つて掻き廻してゐるが、萬七親分ぢや埒らちがあきさうもないから、錢形の親分を呼んで來い――と﹂ ﹁誰がそんな事を言つた。お前の細さい工くぢやないか﹂ ﹁お山同心の大和田金三郎樣ですよ。廣徳寺前は上野のお山とはお掛りが違ふが、藤屋は寛永寺の御出入りで、ことに御扱あつかひも御丁寧だ。ザラの町人並に罪のないものまで手當り次第縛らせたくないと仰しやるので﹂ ﹁成程﹂ ﹁三輪の親分には、そんな斟しん酌しやくはありやしません。盛りの付いた狂やみ犬いぬ見たいなもので、何處へ噛み付くか――﹂ ﹁餘計なことを言ふな﹂ 平次は八五郎を叱しかり飛ばしながらも、手早く支度に取りかゝりました。上野山内は治外法權で、そのお山同心は異常な權力を持つてゐたことや、その出入り商人までも、お山の庇ひ護ごを受けてゐたことは今の人の想像も及ばぬことです。二
平次は途々八五郎の説明を聽きました。 廣徳寺前の藤屋といふのは、上野東とう叡えい山ざんの御用を勤めて巨萬の富を積み、町人ながら苗めう字じた帶いた刀うを許され、特に當代の主人六右衞門は、頑固で正直で少し口やかましくはあるが、江戸中の商あき人んど仲間にも立てられた人間です。 これだけのことは平次も知つてをりますが、その藤屋の店に働いてゐる甥をひの清太郎といふのが、昨夜店の二階で脇わき差ざしで刺されて死んでゐたといふのです。 ﹁尤も清太郎といふのは、評判のよくない男でしたよ。藤屋の娘のお筆と許いひ婚なづけとか何んとか言はれてゐますが、道樂が強くて浮氣で、金費ひが荒くて――﹂ ﹁まるで八五郎見たいだ﹂ 平次は時々こんな半疊を入れるのでした。 ﹁冗談で、――兎も角近頃は叔父にもすつかり愛想を盡かされて、遊ぶ金にも詰まり藤屋の遠縁で、奉公人代りに働いてゐる、お若といふ澁しぶ皮かはの剥けたのと懇ねんごろにしてゐるといふ噂があつたさうですよ。死んだ者の惡口をいふわけぢやないが﹂ 八五郎は忌いま々〳〵しさうに唾つばなどを吐はくのです。 そんな話をしながら、廣徳寺前の藤屋に着いたのはやがて晝頃。 中は舊家らしい頑丈な構へですが、思ひの外質素で、檢屍の役人を送り出したばかりの主人六右衞門と、老番頭の茂兵衞はそれでも如じよ才さいなく二人を迎へてくれました。 ﹁これは、錢形の親分、飛んだ御苦勞樣で﹂ 主人の六右衞門は五十前後、町人ながら一と癖くせあり氣で、恰幅の見事さも、物言ひの尊大さも、容易に人に屈くつしない――そして町方の御用聞などを物の數ともしない樣子があります。 ﹁飛んだ災難でしたね、――佛樣は矢張り二階で?﹂ ﹁動かさない方が宜いだらうと言ふので其の儘にして置きました。でも御檢屍が濟んだからいづれ下に移してお通つ夜やの支度をしなきやなりますまい。番頭さん、錢形の親分を御案内申し上げて下さい﹂ ﹁へエ、へエ、斯うお出で下さいまし﹂ 番頭の茂兵衞は六十を越してゐるでせう。小柄で痩やせて皺しわだらけで、見る影もない上に、ぜんそくの持病があるらしく、引つきりなしに咳せきをしてをります。 平次と八五郎は中の間から梯はし子ご段を登つて、二階の八疊に通りました。天井の低いひどい部屋で、人の住めさうな場所ではありませんが、其處が氣に入つた清太郎は、物置のやうになつてゐた二た間のうち、奧の疊を片付けて、一年越し自分の部屋にしてゐたのだ――と老番頭は説明してくれます。 清太郎の死骸はまだ其の儘、型ばかりの香かう華げを供へて、若い女が一人、その前に泣いてゐた樣子でしたが、三人の足音を聞くと、ハツと起ち上がつて、極り惡さうに階し下たへ降りてしまひました。 ﹁あれは?﹂ 平次は振り返つて顎で指しました。 ﹁お若と申します。――奉公人のやうにはしてをりますが、遠縁の掛り人で﹂ 老番頭の説明するうち、八五郎は意味あり氣に眼をパチパチさせてをります。あれが殺された清太郎とワケのある女だといふ意味でせう。 ﹁良いきりやうぢやないか﹂ 二十一二の豊滿な女、色の白さと、表情的な眼と、唇の赤さだけでも、相當なものです。 ﹁皆樣がさう仰しやいますが﹂ 茂兵衞は商賣物を褒められたやうな冷淡な調子で、死骸の前に据すゑた机などを直して居ります。 平次は型の如く線香を上げて、簡單に拜んで横の方に廻りました。 ﹁一應清めたのか﹂ ﹁へエ、あんまりひどい血で、――それに刄物の始末もいたしましたので﹂ 茂兵衞は辯解らしく言ひます。 清太郎といふのは二十七八の優やさ形がたの男で、頼りない感じはしますが、生きてゐるうちは、隨分好い男にも見えたことでせう。傷は右の首筋、頸動脈を一とゑぐり、恐らく一とたまりもなかつたことでせう。その上布團を掛けて押へたらしく床の亂れやうや、掛布團の慘さん憺たんたる有樣など、平次は念入りに調べた上、平次の眼は床の側に置いた血染の脇差とその鞘さやに注がれました。 ﹁その刄物は主人の古い差料で、隣りの六疊の箪たん笥すの中にしまひ込んでありました﹂ 老番頭はその意を迎へるやうに説明してをります。 ﹁下手人は家の中の者ですね﹂ 八五郎は横から口を出しました。 ﹁夜中に聲か物音がしなかつたのか﹂ ﹁私は梯子段の下に休んでをりますが、一向氣が付きません﹂ 茂兵衞は辯解らしく言ふのでした。 ﹁梯子は一つだけか﹂ ﹁へエ、この二階へ登るには、中の間に寢てゐる私の枕許を通らなきやなりません。外に梯子も何んにもございませんので﹂ ﹁格かう子しは﹂ ﹁御覽下さいまし、釘で嚴重に打ち付けてあります﹂ それは全く茂兵衞の言ふ通りでした。二階二た間の表格子は、全部嚴重な釘付で、人間のもぐれるやうなものではなかつたのです。 ﹁すると曲者はお前の枕許を通つたことになるが﹂ ﹁へエ、それが不思議でなりません。梯子段の下には私と小僧の定吉と二人寢てをりますが、昨夜一と晩、人間は愚おろか鼠一匹通らなかつたことは確かでございます﹂ さうかと言つてこの老番頭には、色男型とは言つても、まだ二十臺の強健な清太郎を、一と太刀で刺し殺して、上から布團で押へ付けるほどの力があるわけはありません。 ﹁お前の年配では、夜一度や二度は小用に起きるだらう﹂ 平次は細かい事まで氣を廻します。 ﹁へエ、一度は必ず起きます。大抵子こゝ刻のつ︵十二時︶頃で、それより遲いことはあつても早いことはございません﹂ ﹁昨夜は﹂ ﹁上野の子こゝ刻のつが鳴つて直ぐ起きました﹂ ﹁手てう水づ場は遠いのか﹂ ﹁いえ、中の間を出ると直ぐで――その間に曲者が二階へ登つて、清太郎さんを刺し殺して、二階から降りて逃げるなんて、そんな事は出來ません。手洗場の前を通らなければ、何所へも行けませんし、私が小用を足す間に丈夫な若い男を一人殺すなんて、そんな事が出來るわけはございません﹂ 茂兵衞は平次の顏に浮んだ、うさんな色を見ると、躍やく起きとなつて言ふのです。全く茂兵衞が便所へ行つてゐる間に、二階へ忍び込んで清太郎を刺し、布團で押へて息の絶えるのを待つて、茂兵衞が床へ歸る前に、同じ梯子段から逃げるなどといふことは、絶對に出來ることではありません。 ﹁それぢや番頭さんの外に下げし手ゆに人んはないことになるぜ﹂ 八五郎は妙なところへ口を出しました。 ﹁飛んでもない、親分﹂ 茂兵衞はすつかりあわててしまひました。八五郎が引出した結論は、あまりにも殘ざん酷こくで、そして適切過ぎたのです。三
﹁それぢや訊くが、昨夜一番遲く清太郎と逢つたのは誰だ﹂ 平次は質問の鋒ほこ先さきを變へました。 ﹁――﹂ 番頭の茂兵衞は口を緘つぐみます。不意に、 ﹁お前は誰だ﹂ 茂兵衞の後ろにゐる、色の淺黒い、確しつかり者らしい三十男が平次の注意を惹ひいたのです。 ﹁へエ、手代の彌吉と申します﹂ 三十男は臆病らしく、二つ三つ續け樣にお辭儀をしました。 ﹁此處へ何の用事で來たのだ﹂ ﹁佛樣を下へ移して、午こゝ刻のつ半はん︵一時︶には入にふ棺くわんすることになつて居りますので、その手傳ひに參りました。死んだ清太郎さんとは朋ほう輩ばい同士で、少しはそんなお役に立ちたいと思ひますので、へエ﹂ ﹁それは感心なことだ。が、序ついでに俺の仕事にも手傳つてくれ﹂ ﹁へエ、へエ﹂ 彌吉は又二つ三つお辭儀をしました。背の低い、逞たくましい感じの男ですが、思ひの外氣輕な性分らしく、何んとなく呑込みの早い頼たの母もし氣なところがあります。 ﹁昨夜一番遲く清太郎に逢つたのは誰か、それを訊きたいのだ﹂ ﹁そんな事なら、家中の者が知つてをります﹂ ﹁誰だ﹂ ﹁旦那でございました﹂ ﹁旦那?﹂ ﹁旦那が宵よひから清太郎さんに意見をしてをりましたが、清太郎さんが面倒臭がつて二階へ引つ込むとそれを追つかけて二階へ行つて、何か意見をしてゐなすつたやうでございます。暫らくの間大きなお聲が聞えてをりました﹂ ﹁その旦那の六右衞門が二階から降りたのは?﹂ ﹁亥よ刻つ︵十時︶前でございました﹂ ﹁その後で誰も二階へ行かなかつたのか﹂ ﹁へエ、それは確かでございます﹂ 番頭の茂兵衞と手代の彌吉は口を揃へて斯う言ふのでした。 ﹁ところで、清太郎を怨うらむ者の心當りはあるのか﹂ 平次は當り前のことを、平凡な調子で訊きました。 ﹁あの通り女の子にチヤホヤ言はれましたから、隨分妙なところに敵をつくつてをります﹂ ﹁例へば﹂ ﹁さア、其處までは存じませんが――﹂ 彌吉も具體的な話になると器用に身をかはします。 其處を宜い加減にして平次は、茂兵衞を案内に中の間から便所のあたりを一と通り調べました。 ﹁下手人は矢つ張り番頭が小用に起きた間に、小僧の定吉の枕許を通つて二階に登り、清太郎を刺して逃げたと見る外はありませんね﹂ 八五郎は追つかけるやうに言ふのです。八五郎でなくともこれは當然の推すゐ理りで、宵のうちに清太郎を追つて二階に行き強こは意いけ見んをして降りて來たといふ、主人の六右衞門が下手人でなければ、曲者は、梯子段の下に寢てゐる老番頭の茂兵衞が便所へ行つた間に、驚く可き素早さで二階へ飛び上がり、清太郎を殺して逃げたものと見るのは當然の推理です。 だが、實際に於て、そんな事が出來るでせうか。 ﹁番頭さんの小こよ用うは長いのかえ﹂ 平次は訊ねました。 ﹁いえ、年は取つてをりますが、至つて早い方で、煙草三服ほどの間も床を開けません﹂ 茂兵衞はもつての外の顏をするのです。 ﹁するとお前の眼をのがれて、曲者が二階へ行つて來ることなどは、出來ないわけだな﹂ ﹁そんな事は思ひも寄りません。へエ﹂ ﹁今朝清太郎の死骸を見付けたのは誰だえ﹂ 平次の問ひは定きま石り通りでした。昨夜最後に清太郎に逢つた者と、今朝最初に死骸を見付けた者が、當然なにかの意味を持つことになるのです。 ﹁小僧の定吉でございました。清太郎さんが何時までも起きて來ないので、定吉を起しにやると、悲鳴をあげて梯子段を轉げ落ちて參りましたので――﹂ ﹁その定吉といふのは﹂ ﹁へエ、私でございます﹂ 十二三の典型的な白しら雲くも頭あたまが、茂兵衞の後ろから顏を出しました。これではどう間違つても、大の男の清太郎を、一と突きに刺した上、布團でその口を塞ふさぐなどといふことは出來る筈もありません。四
中の間を通つて便所までは一本廊らう下かで、その先にお勝手があり、それから下女のお六や手代の彌吉の部屋になり、そして離はな屋れのやうになつて主人の六右衞門夫婦、娘のお筆と掛り人のお若の部屋などがあります。 ﹁先さつ刻きお若とかいふ女が、清太郎の死體の前で泣いてゐた樣だが、何にか深い掛り合ひでもあるのかな﹂ ﹁そこまではどうも私にはわかり兼ねます﹂ 老番頭は尻しりごみします。 ﹁昨夜二人は逢つた樣子はないのか﹂ ﹁さア﹂ ﹁あの、私から申し上げても宜しうございませうか﹂ 手代の彌吉は、何所かでこの話を聽いて居た樣子で、物蔭から顏を出しました。 ﹁知つて居るなら話すが宜い。遠慮する筋合ひではあるまい﹂ ﹁では申しますが、――私は腹の加減が惡うございまして、夕飯が濟むとすぐ番頭さんにお願ひして、自分の部屋に引下がらして貰ひましたが、それに氣が付かなかつたものか、清太郎さんとお若さんが、私の部屋の前で逢あひ引びきをしてをりました。あの邊は灯あかりが遠いので﹂ 手代の彌吉は、清太郎とお若の仲のよさに反感を持つてゐたものか、かなり突つ込んだことを言ひます。 ﹁嘘、嘘、お前さんこそお孃さんを附け廻してゐたぢやないか。昨ゆう夜べだつて腹が痛いとかなんとか言つて、宵のうちから自分の部屋へ引取つた癖くせに、その自分の部屋にも居なかつたぢやないか。またお孃さんを追ひ廻してゐたんだらう﹂ さう言ふのは、掛り人のお若でした。お勝手に居て、ツイ彌吉の告げ口を聽いてしまつた樣子です。 ﹁飛んでもない、私がお孃さんをどうするものですか。――あの時私は腹具合が惡くて便所へ行つてゐたのですよ﹂ ﹁誤ご魔ま化かしたつて駄目だよ。お孃さんは困り拔いて、何んとか意見をしてくれつて、私へ頼んでゐるくらゐだから﹂ これは完全に彌吉の敗けでした。お若の勝かち誇ほこつた調子は、彌吉に口もきかせなかつたのです。 ﹁もう澤山だ。お若は清太郎と逢引したのも本當なら、彌吉がお孃さんを追ひ廻したのも、滿まん更ざら嘘うそぢやあるめえ。ところでお若は、昨夜清太郎を追つ驅けて二階へ行かなかつたのか﹂ ﹁行きました﹂ 平次の問ひに應こたへたお若は、大膽で無造作を極めました。 ﹁それは何時のことだ﹂ ﹁旦那樣がいらつしやる前でした。――でも旦那樣が二階へいらしつて、強こは意いけ見んが始まつたので、私は入れ違ひに階し下たへ降りてしまひました﹂ ﹁その時梯子の下か、中の間には誰も居なかつたのか﹂ ﹁誰も居やしません。旦那のお小言が始まると、店中の者は皆んな遠くへ逃げ出してしまひます﹂ お若は妙なところで、主人六右衞門の口やかましさを素すつ破ぱ拔ぬきます。 この勝氣で猛烈で、遠慮のないところを見ると、平次はまだいろ〳〵の事を引出せさうな氣がしたのでせう。 ﹁彌吉の部屋を見たい――案内はお前に頼む。八は外の者を皆んな店の方へ連れて行つてくれ﹂ ﹁へエ﹂ 平次に何にか思おも惑はくがあると見て取つた八五郎は、老番頭の茂兵衞を始め、彌吉、定吉の三人を追つ立てるやうに、店の方へ行つてしまひました。 後に殘つたのは、平次とお若の二人。 ﹁此處は彌吉どんの部屋ですよ。押入を開けて、行かう李りでも出しませうか﹂ お若は先をくゞつて何にか手傳ひをする氣でゐる樣子ですが、平次はそんなものには目もくれず、 ﹁いや、そんな物はどうでも宜い。實は人拂ひをして、お前にいろ〳〵の事を訊きたかつたのだ﹂ お若を疊の上に坐らせて、その前に膝ひざを立てます。 ﹁でも、私は﹂ ﹁何んにも知らないといふのか。――清太郎を殺した下手人の事を訊いてるのではない、お前と清太郎の仲が近頃どうなつてゐたか、それを先づ訊きたいのだよ﹂ ﹁――﹂ お若は今までの激しい表情を喪うしなつて、急に打ち萎しをれました。見る〳〵大粒の涙が、その長い睫まつ毛げを綴つて、ポトポトと疊を濡らします。 ﹁昨夜、主人に強こは意いけ見んされたといふのは、お前との仲をどうかしろといふのではないか﹂ ﹁え﹂ お若は屹きつと顏を振り仰ぎました。感情の變り目、變り目がこの女の激しい氣性にかき立てられて、それが魅力になると言つた肌合の女です。 ﹁で、主人は何を叱つたのだ﹂ ﹁斯んな事は、申し上げて宜いのか惡いのかわかりませんが――でも、清太郎さんが可哀想ですから、皆んな申し上げませう﹂ ﹁その通りだ。皆んな言ふのが、死んだ清太郎のためにもなるだらう﹂ ﹁實は、清太郎さんは、叔父さん――主人の六右衞門――にこの間から千兩の金を返して下さるやうにと、執しつこくお願ひして居たのです﹂ ﹁千兩、――少し大きいな。そんな金を預けてでも置いたのか﹂ ﹁いえ、富とみ籤くじで當つた金で﹂ ﹁富籤﹂ ﹁清太郎さんは、この家から飛び出して、私と一緒に世帶を持つつもりでしたが、借金こそあれ、一文の貯たくはへもございません。それに叔父さんは身内の者だからと言つて給金もくれなかつたので、思案に餘つて、萬一の運を天に任せて谷中感かん應おう寺じの富籤を買ふ氣になりました﹂ ﹁――﹂ ﹁富札代は私が出して、買つた札は梅の千五百十八番﹂ ﹁えツ﹂ ﹁默つて居れば宜いものを、正直者の清太郎さんは、ツイ富札を買つたことを叔父さんに打ち明けてしまつたのです。すると叔父さんは、――眞面目な町人が富札を買ふなどは、以ての外の心得違ひだ、お前のやうな人間に千兩の一番札が當る筈もないから、見す〳〵損そんではないか。よしや又當つたところで、働いて儲けた金と違つて身につくわけはない。その千兩の金をバラバラ費つて、殘るものは贅ぜい澤たく癖ぐせと、博ばく奕ちこ根んじ性やうばかりだ。その富札をよこしなさい。燒いて清々するのが一番宜いことだからと、嫌がる清太郎さんから富札を取上げ、其の場で火鉢へ入れて灰にしてしまひました﹂ ﹁――﹂ それは實に驚く可きことでした。感應寺の富籤の當り籤くじ、梅の千五百十八番が、富突きが終つて十日たつても、現はれて來なかつた原因は此處にあつたのです。 ﹁清太郎さんもあまりの事に腹を立てて、いくら叔父さんでも主人でも、私ひとの物を取上げて燒くといふのは無法だ。若しその梅の千五百十八番が千兩の一番に當つて居たらどうします。と、叔父さんにねぢ込むと、叔父さんは笑つて、千に一つも當る筈はないが、それ程言ふなら、萬々一その札が當つてゐたら、千兩の金は俺から出してやらうと言つてしまつたんです﹂ ﹁――﹂ ﹁間もなく感應寺の富突き興行で、梅の千五百十八番が、千兩の當り籤と、その日のうちに呼賣りで知りました。清太郎さんはそれを聞くとカツとなつて、早速その千兩の金を叔父さんに出して貰ひたいと、掛け合ひを始めたのです﹂ ﹁――﹂ ﹁叔父さんも驚きましたが、今更どうすることも出來ません。――千兩と一と口にいふけれど、近頃藤屋の商賣も手違ひだらけで、立派なのは昔からの屋臺だけ、内うち輪わはお前も知つての通りの火の車だから、上野の寛永寺樣に出入りの株でも賣らなければ、差迫つての千兩の工面はむづかしい。それよりお前と私は叔父甥をひの間柄だし、娘のお筆とも昔から許婚のやうに思はれて居る。一つ此處で互ひの意地を捨て、お筆と一緒になつて、この藤屋の身しん上しやうを起してはくれまいか、お前とお筆の祝言が濟めば明日にも私は隱居する――と斯う言つたのでございます﹂ ﹁で、清太郎は何んと言つた﹂ ﹁承知するわけはありません。――私といふものと、固い約束があつたんですもの。それに、清太郎さんも私も、今まで長い〳〵間、身内の者だからと言ふので、給金も貰はずに奉公人同樣に働かされて來ました。今更千兩の代りに私を捨てて、あのお筆なんかと一緒になる清太郎さんぢやありません﹂ ﹁――﹂ ﹁富突きがあつてから昨日まで、毎日々々揉もめました。でも清太郎さんも迷つたやうで、昨夜二階へ追つかけて來た叔父さんとの論はな判しで、清太郎さんは一應考へて置くと言つたやうでした﹂ お若は思ひきつた樣子で、これだけの事を打ち明けるのです。 ﹁それでいろ〳〵の事がわかつたが、すると主人――清太郎の叔父――が一番怪しいといふやうに聽えるがどうだ﹂ 平次は突つ込みます。 ﹁いえ、そんなつもりで申し上げたんではございません。私は――﹂ ﹁よし〳〵、それはまアそれとして、お前は昨夜二階へ行つて清太郎と話して居て、主人が來たので驚いて隱れたと言つたな﹂ ﹁え﹂ ﹁その時何處へ隱れたのだ﹂ ﹁清太郎さんの部屋の手前、梯子を上つたばかりの突き當りの六疊は、ガラクタを一杯入れて隱れるには都合の宜いところです﹂ ﹁其所にはお前の外に誰も居なかつたのか﹂ ﹁サア、氣が付きませんが、多分誰も居なかつたでせう﹂ ﹁それだけの掛け合ひを聞いたところを見ると、お前が主人と入れ違ひに降りたと言つたのは嘘うそだな﹂ ﹁え、でも話の見當が付かなかつたんですもの﹂ ﹁誰か、それを知つて居るのか﹂ ﹁主人の小言が始まると店中のものは近そ所ばへ寄りつきません﹂ ﹁彌吉の部屋を覗いたといふのは何時のことだ?﹂ ﹁二階へ登る時と、二階から降りた時と、二度覗いて見ました。先さつ刻きウンウン言つて居たことを思ひ出して――氣分は何う――と外から聲を掛けましたが、返事がないので覗いて見ると灯あかりは點いて床も敷いたなり、本人は見えませんでした﹂ ﹁よし〳〵、いろ〳〵の事がわかつたよ。序に二階へ案内して、昨ゆう夜べお前が隱れて居た場所を見せてくれ﹂ 平次はもう一度二階へ引返しました。五
店から八五郎を呼び寄せて、平次は奧へ一と部屋づつ調べて行きました。 下女のお六といふのは四十年配の地味な女で、お勝手のことの外は何んにも知らず、富とみ籤くじのことさへ氣が付かないほどの鈍感で、これは物を訊いても何んの役にも立ちません。 ﹁お前は﹂ 廊らう下かでフト逢つた若い女に、平次は聲を掛けました。 ﹁筆と申します﹂ 擧げた顏は眞四角で、眼が少し釣つり上あがつて、年頃で若々しさは匂ひますが、先づ醜みにくい方の娘でした。年は十九か二は十た歳ちといふところでせう。化粧も念入り、身みな扮りも存分に贅澤で、きりやう以上に人の注意をひきます。 ﹁お孃さんですね、少し訊きたいことがあるが――﹂ ﹁――﹂ 廊下へ立つたまゝ、平次の要えう領りやうの良い調べが始まりました。 ﹁昨夜彌吉がお孃さんを追ひ廻した――と、お若は言つてゐるが、本當ですか﹂ ﹁いえ、そんな事はございません。彌吉はお腹が痛いとか言つて、自分の部屋へ引取つたと聞きましたが、それから一度も姿を見掛けません﹂ ﹁でも、平ふだ常ん彌吉はお孃さんを追ひ廻してゐることは本當ですね﹂ ﹁え﹂ お若は﹇#﹁お若は﹂はママ﹈消えも入りさうでした。 ﹁言ひ難にくいことでせうが、はつきり返事をして下さい。清太郎が殺されてゐるのですから﹂ ﹁ハイ﹂ ﹁彌吉はどんな事をするのです﹂ ﹁あの手紙をくれたり﹂ ﹁――﹂ ﹁清太郎さんはお若さんに夢中だから、當てにならない――と言つたり﹂ ﹁その手紙はどうしました﹂ ﹁お父さんに見られると叱しかられるから、皆んな燒いてしまひました﹂ ﹁で、お孃さんは清太郎をどう思ひます﹂ ﹁――﹂ お筆は默り込んでしまひました。強しひて返事を迫つたら、泣き出したかもわかりません。 ﹁彌吉は﹂ ﹁私本當に困つてしまひました﹂ ﹁では、もう一つ、清太郎がお父さんに千兩の金を出せと言つてゐたことは知つてゐるでせうね﹂ ﹁え、薄々母から聽いてをりました﹂ ﹁昨ゆう夜べ、二階でお父さんと清太郎が逢つてゐた時は、お孃さんは何處に居ました﹂ ﹁母が心配してそつと樣子を見て來いと申しました﹂ ﹁で?﹂ ﹁梯子の下に隱れて、二階の樣子を見てをりましたが、――聲はよく聽えませんでした――でも――﹂ ﹁お父さんが行く前に、二階へ登つた人はありませんか﹂ ﹁え――でも﹂ ﹁でも、何にかあつたので?﹂ お筆の調子に、平次はフト不ふし審んを抱きました。 ﹁お若さんが二階へ行つて、間もなく、誰かもう一人二階へ行きました。その後から父が行つて、清太郎さんと大きな聲で話してをりました。――父が二階から降りると、その後から直ぐお若さんが降りましたが、それつきり何時まで經つても――降りて來ないので、私は離はな屋れへ歸りました﹂ ﹁すると二階に誰か――お若が降りた後まで殘つて居たのだな﹂ ﹁それはよくわかりませんが――﹂ お筆は覺おぼ束つかない眉まゆをひそめるのです。六
﹁親分﹂
﹁何んだ﹂
﹁下手人は主人でなきやお若ですね﹂
お筆の後ろを見送りながら、八五郎は妙なことを言ふのです。
﹁主人から千兩貰つて、清太郎と一緒に世帶を持つといふ矢先に、お若は清太郎を殺したといふのか﹂
﹁?﹂
﹁お若が二階から降りた後に、まだ二階に一人殘つて居たのは誰だ﹂
﹁番頭の茂兵衞ぢやありませんか。あの男なら何時でも二階から降りて、梯はし子ごだ段んの下の、自分の床に潜り込めますぜ﹂
﹁お前は店へ行つて、主人が二階へ行つて清太郎と話してゐる時、店に姿を見せなかつたのは誰と誰だか、念入りに訊いて來てくれ﹂
﹁へエ﹂
﹁俺はその間主人に逢つてゐる﹂
平次は離はな屋れへ行つて主人の六右衞門に逢ひました。主人はさすがに氣が挫くじけて、
﹁いや、私が口やかましく言ひ過ぎました。清太郎の道樂を叩き直してお筆と娶め合あはせ、何んとかこの身しん上しやうを繼いでもらひたさに、つい無理なことも申したのです。商あき人んどが富とみ籤くじなどを買ふのは以ての外ですが、ろくに小遣もやらなかつた私にも罪がないとは申されません。――富札まで燒いての強こは意いけ見んは藥が強過ぎたのです。梅の千五百十八番が千兩の當り籤と知つて私も驚きましたが、今の今と言つては千兩と※まと﹇#﹁纏﹂の﹁广﹂に代えて﹁厂﹂、267-11﹈まつた金を出す工夫もなく、この上は娘の筆と祝言させて、この身上を讓る外はないと思つたのです。いやもう面目次第もないことで――﹂
六右衞門は悉こと〴〵く恐れ入つてをります。
﹁親分わかりましたよ﹂
其處へ飛び込んで來たのは八五郎でした。
﹁あの時店に居なかつたのは誰だ﹂
平次はそれを受けて屹となります。
﹁皆んな居ましたよ﹂
﹁何んだと﹂
﹁皆んな顏を揃へて、二階の遠かみ雷なりの濟むのを待つて居た樣ですよ﹂
八五郎が遠慮なく張り上げるのを、主人の六右衞門は苦笑ひをして聽いてをります。
﹁彌吉は? 彌吉も店に居たのか﹂
﹁いえ、彌吉は腹はら痛いたで、宵から自分の部屋に引つ込んで寢て居たといふぢやありませんか﹂
﹁よし、その腹痛が術てだつたんだ。八、來い﹂
平次は疾風の如く店へ行きました。續く八五郎。其處にマゴマゴして、追ひ詰められた鼠のやうに、逃げ路を搜して居た彌吉は、ガラツ八の手に無む手ずと襟えり髮がみを掴まれたことは言ふ迄もありません。
× × ×
﹁さア解らねえ。彌吉は下手人だつたんですね、それでは何時の間に二階を逃げ出したんです。え、親分﹂
その歸り路、八五郎はたまり兼ねて斯う訊くのでした。
﹁彌吉は清太郎とお若があの家を出さへすれば、お筆を口く説どき落して藤屋の身代を乘つ取る氣だつたのさ。あの不きりやうなお筆を附け廻したのはそのためだ﹂
﹁其處まではわかりますが﹂
﹁あの晩、お若が二階へ行つた後でそつと二階へ行き、隣りの部屋に隱れて居たのだらう――腹痛で寢て居た筈の彌吉が、あの時の事をよく知つてゐるので、最は初なから變だとは思つたよ。それから主人が二階へ來たのでお若が驚いて隣りの部屋へ飛び込んだ時は、ツイ側に彌吉が息を殺して居たのだ。隣り部屋の主人と清太郎の話に氣を取られて、さすが氣性者のお若も側に居る彌吉には氣が付かなかつたのだ﹂
﹁?﹂
﹁お若も主人も階し下たへ降りると、彌吉は清太郎を殺す氣になつた。ツイ側の箪たん笥すには主人の古い差料の脇差が入つてゐる――清太郎が氣を變へてお筆の婿むこになれば、彌吉の望みは丸まる潰つぶれだ。――清太郎の寢入るのを待つて、そつと隣りの部屋に忍び込み、一と思ひに首筋を刺した上、上から布團をかけて押へたのだらう﹂
﹁二階から逃げ出したのは?﹂
﹁それが大事だ――彌吉はぜんそく持ちの番頭の茂兵衞が、夜中に一度きまつたやうに小用に起きるのを知つて居た。そこで、その刻こく限げんまで二階に隱れて待ち、茂兵衞が小用に起きた一寸の隙すきに、二階から降りて、自分の部屋に戻つたのだらう。――どうかすると茂兵衞をやり過すために、手てう水づ場の戸の蔭に、一寸身を隱したかも知れない。兎も角も際どい藝當だ﹂
﹁なんだ、そんな事ですか﹂
﹁そんな事でも思ひ付いた彌吉は、馬鹿にならない惡智慧のある男だよ﹂
﹁それを見破つた親分は?﹂
﹁いや、飛んだ骨を折らせた﹂
晩秋の夕暮でした。二人はそんな事を話しながらブラリブラリと神田へ――赤トンボが八五郎の野暮な髷ま節げをかすめてスイスイと飛びます。