江戸川乱歩氏が盛んに売り出そうとしている頃、それは確か関東大震災の翌年あたりであったと思う。報知新聞の応接間で初めて逢って、私は﹁面白い探偵小説を書こうとするなら黒岩涙るい香こうを研究すべきではあるまいか、今の人は涙香を忘れかけて居るが、この人の話術は古今独歩で、筋を面白く運ぶこと、人物を浮出させること、複雑な事件を書きこなして行く技倆に至っては、全く比類もないものである﹂と話したことがあった。 江戸川氏もその頃既に涙香研究に着手していた相そうで、その前後から文壇の一隅に、涙香研究と涙香の著書蒐集が盛んになり、木村毅氏、柳田泉氏、横溝正史氏などそのうちでも有名なものであったが、一方若い探偵作家の仲間にも、涙香熱が高まり、一時﹁涙香の書くような悪人が書けたら﹂ということが、探偵作家の一つの通り言葉になった時代さえあった位である。 その後太平洋戦争の真っ最中、筆を執ることさえ稀になった私と江戸川乱歩氏は、自分の持って居る涙香の著書の目録を見せ合って、互に重複したものを交換し合い、騒がしい世の姿とかけ離れて、静かに涙香物の醍醐味に没頭し、箇こち中ゅうの境地を楽しんだことは、個人的な思い出ではあるが、まことに忘れ難い記憶である。 私が涙香に興味を持ったのは十歳位の時であった。最初に読んだのは﹁如夜叉﹂で、次は﹁非小説﹂、それから﹁死美人﹂であったと思うが、生意気盛りになって硯友社畑の小説などに興味を持ち、暫しばらくは涙香と遠ざかって文学青年らしい考え方へと、分りもしない癖に、難かしいものを有難がるように慣されてしまった。 併しかし、今にして考えると、あれほど天下を風ふう靡びした硯友社の作家の中で、歴史的意義は別として、読物として、又は文芸作品として、後世に遺のこるものを書いた人が果して幾人あったであろうか。当時文壇の埒外に通俗作家として取残されて居た涙香の作品は、五十年六十年を隔てた今日でも、些いささかも昔の清新さを失わず、再読三読して感歎を新にするに反して、これは誠に皮肉な時の批判と言わざるを得ない。 その後私は駆け出しの新聞記者として、晩年の大記者黒岩先生に幾度か親しん炙しゃし、再びその作物の魅力に引ずられ、三十幾年の長い間、甚だ不熱心乍ながらも研究と蒐集を続けて来た積りである。 涙香こそは大衆小説中興の祖であり、尽きざる興味の源泉である、半世紀の歳月を閲して、少しの古さも感じさせないというのは、――いや多少の古きは感じさせたにしても、その古さに依って一種のなつかしさと、威容と、そして古典的の美しさを添えるということは、天才の仕事の有難さでなくて何んであろう。 この度愛翠書房が涙香の著作約六十の長編の中から、最も今日の読者に享うけ容れられそうなのを選んで、昔の姿のままの文体と用語で、――小ざかしき後輩の手を加えることなしに――オリジナルの珠玉篇を提供しようという企ては、わが読書界のために、近頃珍らしい有意義な仕事である。 涙香は小説家であると共に、大新聞人であり、偉大なる社長であり、練達の紳士であり、民間の哲学者であり、そして曾かつては内村鑑三、堺枯川、幸徳秋水をその羽うよ翼くの下に抱擁した自由人であったのである。 涙香の小説の大部分は外国の名作の翻案であったが、それは極めて自由にして奔放な翻案で、原作は時に単なる素材に過ぎず、書かれたものは涙香の創作と言っても差さし支つかえの無かったことは、多くの涙香研究家の知るところである。従って涙香の作物に盛られたものは、面白い物語の底を流るる人間愛と、火の如き正義感で、これは世の通俗小説の、好色的な頽廃趣味とは、大に選を異にするところで、涙香を再び世に送らんとする、出版社の意図もまた此こ処こにあることだろうと思う。 最初に世に送らるる﹁巌窟王﹂が大デュマの傑作﹁モンテ・クリスト伯﹂であることも機宜を得たものだろう。﹁巌窟王﹂の雄大な構想や、無類の面白い運びは、まことに世界の大衆小説の王座に据えられるもので、時は移り世紀は変っても、興味中心の小説に於ける限り、人間の頭からは﹁巌窟王﹂以上のものの生れるのは難しかろう。 世に原作以上と言わるる名翻訳は幾つか伝えられて居る。森鴎外の﹁即興詩人﹂、二葉亭四迷の﹁ルージン﹂などはそのよき例であるが、涙香の﹁巌窟王﹂もまた、或意味に於て原作以上と言って差支ないものではあるまいか。 願わくば此この計画を推し進めて、涙香の全作品を復元し、混乱し頽廃したわが読書界の一部に、最も正統的なる大衆読物として涙香物を送らんことを熱望して已やまない。