一
﹁親分、小せう便べん組ぐみといふのを御存じですかえ﹂ 八五郎は長んがい顎を撫でながら、錢形平次のところへノソリとやつて來ました。 いや、ノソリとやつて來て、火のない長火鉢の前に御みこ輿しを据ゑると、襟元から懷手を出して、例の長いのを撫で廻しながら、こんな途方もないことを言ふのです。 ﹁俺は腹を立てるよ、八。まだ朝飯が濟んだばかりなんだ、いきなりそんな汚ねえ話なんかしやがつて﹂ 平次は妻つま楊やう枝じををポイと捨てて、熱い番茶を一杯、やけにガブリとやります。 ﹁てへツ、汚ねえどころか、それが滅法綺麗だからお話の種で﹂ ﹁何をつまらねえ。容顏美麗だつて、垂れ流す隱し藝があつちや附き合ひたくねえよ。馬鹿々々しい﹂ 平次がかう言ふのも無理のないことでした。貞操道徳が全く弛ちは廢いしてしまつて、遊女崇拜が藝術の世界にまで浸しん潤じゆんして來た幕府時代には、男の働きで妾めかけを蓄たくはへることなどは寧むしろ名譽で、國持大名などは、その低能臭い血統の保持のために、江戸屋敷の正妻の外に國許に妾を置き、それを見慣ふ有うと徳くな武家、好色の大町人は申すまでもなく、甚しきに至つては學者僧侶に至るまで、公然妾を蓄へて聊いさゝかも恥ぢる色がなかつたのです。 この風潮に應ずるために、一方にはまた妾奉公を世過ぎにする、美女の大群の現はれたのも當然の成行でした。尤も、その美女の群が、まともな人間ばかりである筈はなく、中には非常な美人で、たつた一と眼で雇やと主ひぬしをすつかり夢中にさせてしまひ、何百兩といふ巨額の支度金を取つて妾奉公に出た上、鴛ゑん鴦あうの衾ふすまの中で、したゝかに垂れ流すといふ、大變な藝當をやる女もあつたのです。 どんな寛大な好色漢も、したゝかに寢小便を浴びせられては我慢のできるわけはなく、これは簡單に愛想を盡かされて、お拂ひになつてしまひます。素より一度やつた支度金は、暇をやつた妾から取戻すわけにも行きません。 かうして次から次へと渡り歩く美人を、貧乏で皮肉でおせつ介な江戸ツ子達は、小便組と呼んで、嘲てう笑せうと輕蔑と、そしてほんの少しばかり好意をさへ寄せてゐたのです。現に江戸の風俗詩川せん柳りうに、小便組を詠よんだ洒落れた短詩が、數限りなく遺のこつてゐるのを見ても、その盛大さがわかります。 ガラツ八の八五郎が、朝つぱらから持つて來た話の種は、この美しき惡魔﹃小便組﹄の一人に關係した、世にも平凡で皮肉で、そのくせ捕捉し難き小事件です。 ﹁ね、親分。その小便組の一人が、一向垂れないんで、騷ぎが始まつたとしたら、どんなものです﹂ 八五郎はまだ顎を撫でてをります。 話があんまり下げ卑びてゐるので、平次の女房のお靜も、さすがに恐れをなしたものか、熱い番茶を一杯、そつと八五郎の膝の側に滑らせて、默つてお勝手に逃げ込んでしまひました。 ﹁何んだか、ひどく間拔けな話だなア、――良い若い者が、色氣がなさ過ぎるぜ。朝つぱらから小便の話なんか持込んで來やがつて﹂ ﹁さう言はずに、まア聽いて下さいよ。話の相手は淺草三間町の材木屋で若松屋敬三郎――﹂ ﹁評判の良い男ぢやないか﹂ ﹁男がよくて腹が大きくて、情け深くて古渡りの俳へえ諧けえの一つも捻ひねつてみようといふ――﹂ ﹁古渡りの俳諧といふ奴があるかい﹂ ﹁近頃流はや行りの冠かむ附りづけや沓くつ附づけぢやないから、多分こいつは古渡りだらうと思ふんだが﹂ ﹁無駄が多いな、それからどうした﹂ 錢形平次もツイ膝を前すゝめます。 ﹁その若松屋が二年前に女房に死なれて、四十一の厄やく前めえで獨り者だ。後添への口は降るほどあるが、二人の小さい子供を繼母の手で育てるのも可哀想だからと、そのまゝ聽流してゐたが、雇人も多勢ゐることだし、何なに彼かにつけて不自由で叶かなはない。そこですゝめる人があつて、三月前に無類飛びきりといふ入いり山やま形がたに二つ星の妾めかけを雇ひ入れた、――その支度金大枚百兩﹂ ﹁入山形に二つ星の妾てえ奴があるかい﹂ ﹁一々お小言ぢや困りますね。兎も角、大した代しろ物ものだ。お扇せんと言つて年は二十一、骨細で、よく脂が乘つて、色白で愛嬌があつて――あツ﹂ 八五郎は飛び上がりました。身振りが過ぎて、お靜が置いて行つた番茶の湯呑を引つくり返したのです。 ﹁たうとう垂れ流しやがつた。仕樣のねえ野郎だ、――お靜、雜ざふ巾きんだよ﹂ ﹁へツ、へツ、これで支度金は丸儲け﹂ ﹁馬鹿だなア﹂ 掛け合ひ話は、こんな調子で運んで行くのでした。八五郎の話の筋だけを書くと、――その若松屋敬三郎の雇ひ入れた支度金百兩といふ妾のお扇は、素より生しや無うむ垢くの娘である筈はないのですが、美しさも拔群、立居振舞も尋常な上に新嫁のやうに純情で、先妻の遺した二人の子供や、奉公人達へのあたりもよく、まことに豫想もしなかつた良い女でした。 そのうち一と月、二た月と日が經ちましたが、お扇の勤め振りは、日を經るにつれて益々よく、主人敬三郎の喜びは、何に比くらべやうもありません。 このまゝ無事な日が續けば、まことに申分のない仕合せでしたが、お扇が來てからものの一と月とも經たぬうちから、若松屋の内外にいろ〳〵の變つたことが起り、それが嵩じてたうとう人一人の命にかゝはる破局までのし上げてしまつたのです。二
事件の最初は、主人敬三郎の寢間のあたりへ、毎夜續け樣に石を投げることから始まりました。材木町寄りの往來から、黒板塀越しに礫つぶてを投げると、丁度主人の寢間を脅おびやかすことになるのですが、狙ねらひの確かさから見て、それは餘程心得たものの仕しわ業ざでなければなりません。
三日目、四日目の晩からは、奉公人達――わけても下男の茂十に言ひ付けて、手ぐすね引いて曲者を待ちましたが、それは宵だつたり曉あけ方がただつたり、此こつ方ちの監視の隙を狙つての縱横無盡の活躍で、全く手のつけやうがなかつたのです。
礫が少し止むと、今度は店先へ馬ばふ糞んを投げ込んだり、裏の井戸へ猫の死骸を入れたり、全く手のつけやうのない惡戯が始まりました。奉公人達は躍起となつて、その惡戯者を捉つかまへようとひしめきましたが、主人の敬三郎は世間の思おも惑わくの方を恐れて、ことを荒立てることを好まず、奉公人達をなだめて相手の疲れを待つやうな態度に出るのでした。
併し、その惡戯は、恐ろしく性たちの惡いもので、さすがに寛大な敬三郎も、顏色を變へた程です。
それは、若松屋の妾お扇は、名題の﹃小便組﹄だといふ噂を、執しつ拗あうに小意地惡く言ひふらした上、町の惡童共に菓子などをやつて、
おせんの小便、小便おせん、
垂れろよ垂れろ、どんどん垂れろ、
旦那を流せ、枕ごと流せ。
垂れろよ垂れろ、どんどん垂れろ、
旦那を流せ、枕ごと流せ。
こんな歌を、若松屋の前で歌はせるのでした。この戰術は全く我慢のならぬものでした。ワーツと囃はやして逃げ出す子供達を追つかけて捉まへたところで何んの役にも立たず、いや、それどころではなく、反つて子供達の反感を買つて、翌る日はもつとひどい合唱を浴びせられるのを覺悟しなければなりません。
そんなことが續いた揚句、
﹁今朝、若松屋の裏の路地で、御ごし朱ゆい印んの傅次郎といふ札つきの惡わるが、土手つ腹をゑぐられて死んでゐるぢやありませんか﹂
八五郎の話はようやく結論に入りました。御朱印の傅次郎といふのは、――御朱印船にも乘つたことがあるといふのを、唯一の自慢の種にしてゐる船頭上がりのやくざ者で、これが小便組の女王お扇せんの後ろで絲を引いてゐるアパツシユだつたのです。
﹁傅次郎は、お扇は俺の女房だと言つてゐたさうですが、そいつはあんまり當てになりません。尤もちよいと好い男で、浮氣な娘達には騷がれてゐますが、人間がろくでもないから、筋の通つたのは掛り合ひませんよ﹂
﹁まるでお前とはあべこべだ﹂
﹁からかつちやいけません。――ところでちよいと行つて見て下さいな。三輪の萬七親分が乘り出して、散々掻き廻した末お扇を縛るんだと言つて、眼の色を變へて搜してゐますが、そのお扇が姿を隱してしまつたんで﹂
﹁成程そいつは面白さうだな。三輪の親分に盾たてをつくわけぢやねえが、話を聽いただけでも、餘つ程奧行がありさうだ。行つて見るとしようか﹂
﹁へツ、有難てえ。親分が御輿を上げて下さりや﹂
八五郎は少し有頂天になつて、平次が身みな扮りを整へる間に、その草履などを直してやるのです。
﹁大層氣がつくぢやねえか、――一體誰に頼まれたんだ﹂
﹁若松屋の主人敬三郎――﹂
﹁嘘うそ吐つきやがれ﹂
﹁實はね、親分、――お扇の妹のお篠しのと言ふのが、雷門前の水茶屋に奉公してゐるんですよ。まんざら知らない仲ぢやありませんがね。その娘こが若松屋を出て來る私を追つかけて來て――﹂
﹁わかつたよ、もう。それも小便組の一人だらう﹂
﹁飛んでもない、十八になつたばかりで、粉しんこ細工のやうな綺麗な娘ですよ。お茶こそ汲んで出すが、小便なんか――﹂
﹁馬鹿だなア﹂
二人は髷まげ節ぶしを揃へて路地の外へ出ました。初冬の江戸の町は往來の人までが妙に末うら枯がれて、晝の薄陽の中に大きな野良犬が、この施せし主ゆになりさうもない二人を見送つてをります。
三
三間町の若松屋は、材木屋といつても、銘木や唐たう木ぼくを扱ふのが主で、角店ながら何んとなく小綺麗な店構へでした。住居は裏の方に延びて、繞らした黒板塀も嚴重に、忍び返しなど冬空を刺して物々しいくらゐ、御朱印の傅次郎風情が、容易に近づけないのも無理のないことでした。 店の前後、街のあちこちに、三輪の萬七の子分の顏は見えましたが、平次と八五郎はそ知らぬ顏で入つて行きました。 ﹁あ、錢形の親分、お待ち申してをりました﹂ 主人の敬三郎は、立ち上がつて眞にいそ〳〵と出迎へます。四十一の厄やく前まへと聽きましたが、典型的な江戸の大町人で、恰幅の見事な、眼鼻立ちの大きい、美男型といふよりは、寧むしろ純情型の、誰にでも好かれさうな爽やかな人柄です。 ﹁飛んだことで﹂ ﹁驚きましたよ、錢形の親分。御ごし朱ゆい印んの傅次郎とかいふやくざが、裏の塀側で殺されてゐるんです。それを三輪の親分がお扇の仕業にして、八方に手を擴げて探してをりますが、肝かん心じんのお扇は昨ゆう夜べ宵の内から姿を見せません。逃げ隱れすれば、疑ひが重なるばかりで、私も心配をして、心當りへ人をやつて、一生懸命搜してをりますが――﹂ ﹁――﹂ 若松屋の主人敬三郎の顏は、絶望的に翳かげるのです。 ﹁親分の前ですが、お扇は人などを殺せる女ぢやございません。尤も惡者の手に操あやつられて、以前は隨分惡いと知りながら、不本意なこともさせられたさうですが、私のところへ來てから、ざつと百日の行おこなひといふものは、どんな立派な氏うぢ育ちの奧方も及ばないやうな、それは〳〵見事なものでした。私の口から申してはのろい奴とのお笑ひもございませう。二人の子供がどんなになついてゐるか、店中の者がどう申してゐるか、親分がお訊き下さればよくわかります﹂ ﹁ところで、そのお扇は、前々から家出でもしさうな樣子はあつたのかな﹂ 平次は果てしのない愚ぐ痴ちを押へて、敬三郎に訊ねました。 ﹁この間からの惡戯を、お扇への厭がらせと判つて、――私がこゝにゐるために、皆樣にも御迷惑をかけ、お店の暖のれ簾んにも疵がつきます、私は矢張りこゝから出て行かなきや――と始終申してをりました。私はその度毎に、――何をつまらない、そんなことを一々氣にしちや――と元氣をつけてをりましたが﹂ 敬三郎が、かうまでもお扇に打ち込むのも不思議ですが、小便組といふ、女の最も不名譽な綽あだ名なを取つてゐるお扇が、さうまでも敬三郎に忠實だつたことは、奇蹟といふのほかはありません。 ﹁昨夜からゐないのだな﹂ ﹁夕方まで、いや宵までは確かにをりました﹂ ﹁行く先の心當りでもないのか﹂ ﹁里の請うけ人にんもない女で、どこを搜す當てもございません。尤も雷門前にお篠といふ妹が、水茶屋に奉公してをります。今朝になつて人をやつて訊かせましたが、心當りはないさうで﹂ 敬三郎はたよりない顏をするのでした。 ﹁そいつは心細いぜ、鳴物入りで迷子の〳〵お扇さんでもあるめえ﹂ ガラツ八がまた無駄を挾むのです。 ﹁馬鹿野郎、默つてゐろ﹂ ﹁へエ﹂ 平次は主人の敬三郎に引合せられて、店中の者に逢つて見ました。主人の弟の源吉といふのは三十七、八の良い男で、これは別に世帶を持つて、晝だけ兄の店に通ふ支配人格。老番頭の彌平は六十近い年寄りで、商賣の外には何んの興味もなささうな男。外に下女のお夏といふ中年女。先妻の遺のこした二人の子――敬太郎とお久はまだ子供で、事件と何んの關係もある筈はありません。 もう一人下男の茂十といふ中老人がをります。五十二、三の忠實な男で、伜夫婦が川越在で百姓をしてゐるので、自分一人だけ若い時分世話になつた若松屋へ、返り新參で奉公をしてもう六年になるといふ奇特な人間です。 ﹁お扇さんは大した人でしたよ。以前は惡い噂もあつたといふことですが、この家へ來てからは早起き遲寢で、旦那樣の世話萬端から、二人の子供達の寢起き、奉公人への心づかひ、あんなによく屆いた人はありません。自分の貰つてゐる給金だつて、百も身に着けはしなかつたでせう。氣前は良いし愛嬌があるし、それで身仕舞がよくて、滅法綺麗と來てゐるんだから、全く非の打ちやうのない人でした。昔のかゝり合ひで、變な野郎につけ廻され、たうとう家出までなすたのは、本當にお氣の毒なことで――﹂ 下男の茂十は心からお扇には推すゐ服ふくしてゐるのでした。 主人の弟の源吉は、 ﹁亡くなつた兄嫁は、身體が弱くて、兄も長い間苦勞しました。それ比くらべると今度のお扇さんは、身體も丈夫だし、心掛も申分ないし、兄も喜び、敬太郎とお久もよくなついてをりましたが、――今姿を隱しちや、店中の難儀でございますよ﹂ かう心から言ふのでした。小便組といふ札つきの妾が、こんなに良い評判を取るのは、一時の體裁や骨折でないことは明かで、恐らくお扇は世間の評判ほど惡い人間でなく、御朱印の傅次郎に操られて、不本意の惡業を重ねてゐるうち、フト若松屋の内部に入り込んで、主人敬三郎の人柄の立派なのに驚き、更に若松屋の店中の空氣の良いのに打たれて、こゝを永住の地と思ひ込み、精一杯の眞面目な愛と光明とに充ちた生活を營いとなまうと決心したのでせう。それはお扇の持つてゐる本來の素質の良さの、偶然な發露であつたにしても、まことに不思議な成行といふの外はなかつたのです。四
平次は茂十に案内させて、庭から材木置場を一巡じゆんし、それから塀の外の御朱印の傅次郎の死骸のあつた場所を見ました。そこは丁度主人の寢部屋のあたりで、少しばかりの空地と嚴重な塀へいをへだてて、その塀の外、末うら枯がれた僅かばかりの雜草を染めて、血潮のこぼれてゐるのも淺ましい感じです。 ﹁死骸は誰が見付けたのだ﹂ 塀の下の二尺ほどの溝みぞを跨またいで、平次は何やら念入りに調べながら訊くのでした。塀の正面、下から五尺ほどのところに、誂あつらへたやうに節穴が一つあるのが氣になります。 ﹁まだ薄暗いうちでした。往來の人が見付けて大きい聲を出したので、驚いて私が飛んで出ましたが、その時はもう見付けた人の姿は見えませんでした。觀音樣へ朝詣りにでも行く人が、通りすがりに死骸を見付けて、思はず大きい聲を出したが、後のかゝり合ひがうるさいので、そのまま行つてしまつたものでございませう﹂ 茂十の話はなか〳〵よく行屆きます。 ﹁それから?﹂ ﹁町役人や、三輪の親分が來てくれまして、死骸は一と先づ番所へ運びました。御朱印の傅次郎といふと物々しく聞えますが、賭と場ばから賭場へと渡り歩いて、定まる家もないやうな厄介な人間ださうでございます﹂ 茂十の話を聽きながら、平次は若松屋の外廻りを、グルリと一と廻りしました。店を中にして、左の方の狹い路地へ廻ると、そこは若松屋の廣い庭の外で、その邊に溝はありませんが、往來に面してゐないので、思ひの外塀は古いらしく、所々に材木屋らしくない破損があり、一ヶ所などは四尺ほどの高さの大きい割れ目を、眞新しい杉板で塞ふさいだところさへあるのでした。 その下に硫いわ黄うつ附け木ぎが一枚と一とつまみの火ほぐ口ちが、濡れたまゝ落ちてゐるのを、平次はそつと拾ひながら續けました。 ﹁塀が少し濡れてゐるやうだな﹂ ﹁子供衆の落らく書がきでございますよ。ろくでもないことをベタベタ書き散らすので、主人が氣を病んで、昨日の夕方私に言ひつけて洗はせましたが、なか〳〵落ちません﹂ 茂十の辯解を聞き流しながら、平次は町内の自身番に向ひました。 ﹁おや、錢形の――親分が來たといふ話は聽いたが、下手人はもう擧げてしまつたぜ﹂ 油障子を開けると三輪の萬七が、銀張りの煙管を脂やに下さがりに、ニヤリニヤリしてゐるのです。その後ろには萬七の子分のお神かぐ樂らの清吉が、若い女を一人引据ゑて、肩かた肘ひぢを張つてをります。 ﹁そいつは大手柄だ。誰だい、下手人といふのは?﹂ 平次は蟠わだかまりのない調子でした。 ﹁雷門前の水茶屋に奉公してゐる、お篠といふ綺麗首さ。こいつは若松屋の妾のお扇とは、血をわけた姉妹だよ﹂ 萬七の得意さうな聲に應ずるやうに、お神樂の清吉は、お篠の丸い頤あごの下に手を差し込んで、その白い顏をグイと明り先に振り向けるのです。 姉のお扇に似て、それは拔群の美しさでした。髮はひどく亂れてをり、手足にも頬のあたりにも、引つ掻きやら撲うち傷やらありますが、丸ぽちやの愛くるしい顏立ちで、素直な鼻筋、眉が霞かすんで、唇が泣いて、つぶつた眼の睫まつ毛げの長さが、妙にこの娘を痛々しく見せました。 ﹁證據は?﹂ ﹁あの傷だ、顏も手足も――昨夜御朱印の傅次郎と揉み合つた證據ぢやないか。そればかりぢやねえ、その時刻――亥よ刻つ︵十時︶から亥よつ刻は半ん︵十一時︶過ぎまで雷門の家をあけてゐるし、もう一つ動きの取れないことには、現場に鼈べつ甲かふの櫛くしが落ちてゐたのだよ。こいつは二朱や一分で買へる品ぢやねえ。お篠が姉と對つゐにこしらへて、自慢で持つてゐたことは、淺草中で知らない者がないくらゐだ﹂ ﹁フーム﹂ ﹁この櫛を見せると、最初は自分の品ぢやねえと剛情を張つてゐたが、それぢや姉のお扇のかといふと、今度は打つて變つて自分の品だつて言やがる﹂ ﹁なるほど﹂ ﹁一體お扇とお篠は苦勞して育つてゐるから、姉妹仲が好かつたさうだ。お篠に言はせると、傅次郎の奴が姉にからみ附いて、折角幸せになつた姉を、もとの泥沼に引きずり込まうとするから、――毎晩若松屋のあたりへ來て、たちの惡い惡戯をすると聞いて、雷門前の家を拔け出して三間町までやつて來たといふのだ。それから傅次郎に意見を言つて、掴み合ひになり、引つ掻きや摺すり剥むきを拵へたといふが、掴み合つたくらゐだからその揚句に殺さないとは限らないぢやないか――尤も小娘が易やす々〳〵と大男を殺せるわけはねえから、傅次郎が節穴から中の樣子を覗いてるところを、不意に戻つて來て背うし後ろから突いたのかも知れないよ﹂ ﹁刄物は?﹂ ﹁それがないから不思議さ。尤も大川へでも投り込めば三年搜したつて出る氣遣ひはないぜ﹂ 三輪の萬七はこれですつかり自分だけの論理を整へ、お篠を下手人に決めてゐる樣子です。 ﹁どうした、お篠。八五郎に頼んだ言傳ては聽いたぜ﹂ 平次はお篠の傍に寄つて、その肩に手を置きました。 ﹁親分さん、姉さんが可哀想でなりません。どうぞ――﹂ お篠の言葉は涙に消えました。姉をどうしろといふのか、平次にはその意味がはつきり掴めませんが、何やら呑み込ませられるものがあります。 ﹁よし〳〵、心配するな﹂ 平次はお篠の側を離れると、ツイ鼻の先に、投り出すやうにして、二枚屏びや風うぶでかこつてある御朱印の傅次郎の死骸に眼を移しました。 三十前後の小柄な好い男で、素すあ袷はせに銀ぎん鎖ぐさりの肌守り、腕から背中へ雲龍の刺ほり青ものがのぞいて、懷中には鞘さやのまゝの匕あひ首くちが、無抵抗に殺されたことを物語つてをります。 傷は左の脇腹を後ろから刺されたもので、多分心の臟を一と突きにやられたことでせう。小娘の手並でこれくらゐのことができるかどうか、平次は暫らく小首を傾かしげました。 ﹁八、死骸の着物に溝どぶ泥とろがついてゐないか、濡れたところはないか、念入りに見てくれ﹂ ﹁そんなものはついちやゐませんよ。飛んだ洒しや落れ男で、袷は唐たう棧ざんの仕立ておろしですぜ――持物は一兩二分入つた財布と、煙草入と火打道具﹂ 八五郎は縛られてゐるお篠の痛々しい姿に心こゝ惹ろひかれながらも、死骸の着物や持物を念入りに調べてをります。 丁度その時でした。 ﹁お願ひ、私を縛つて下さい。傅次郎を殺したのはこの私です。妹なんかぢやあるものですか﹂ 眞に一陣の旋せん風ぷうの如く、自身番の中へ飛び込んで來たのは二十一、二の眼のさめるやうな美しい女でした。五
﹁お前はお扇ぢやないか﹂ それを迎へたのは、入口の近くに陣取つた三輪の萬七でした。 ﹁どこに隱れてゐたんだ。飛んだ骨を折らせるぜ﹂ それに續いたのは、お神樂の清吉です。 ﹁昔の友達のうちに隱れてゐたんです。私はこのまゝ遠くへ行つて、一生この邊へは姿を見せないつもりでした。でも、妹のお篠が傅次郎殺しの罪を背し負よつて、縛られたと聽いちや默つてをられません﹂ お扇はすつかり興奮してをりますが、言ふことは思ひの外筋が立ちます。地味な銘仙の袷に、黒つぽい帶などを締めてをりますが、細ほそ面おもての華奢立ちで、たけく見える品の良さ、これが百兩の支度金を狙ふ小便組とは、一體誰が氣がつくでせう。 ﹁お前が傅次郎か殺したといふのだな﹂ 三輪の萬七はうさんな眼を三角にします。 ﹁さうですとも、私の外に誰があの傅次郎の惡黨を殺すものですか﹂ ﹁證據は?﹂ ﹁お前さんが持つてゐる、その鼈べつ甲かふの櫛くしが證據のつもりなら、それは私のものですよ﹂ ﹁お篠も自分のものだと言つてゐるぞ﹂ ﹁妹は私を庇かばつてゐるんです。さう言ふ生意氣な妹なんです、――揃ひにこしらへた自分の櫛は、半歳も前に落してしまつたくせに﹂ ﹁あ、姉さん﹂ お篠は顏を擧げました。 ﹁お默りよ。お前の知つたことぢやない﹂ ﹁でも﹂ ﹁ね、親分さん方、聽いて下さい。事の起りからみんなお話しませう﹂ お扇はさう言つて、ともすれば力が拔けて倒れさうになる身體を、辛からくも柱に支へて續けるのでした。 ﹁――私と妹は日本橋の大きい商あき人んどの子に生れました。親の名は勘辯して下さい、――私が七つの時兩親に死に別れ、親類に惡いのがあつて、身しん上しやうを根こそぎ持つて行かれた上、二人は往來へ投り出されてしまつたんです﹂ ﹁――﹂ ﹁それを拾つてくれたのは、情深い年寄り夫婦でしたが、六七年經つうち二人共なくなり、私と妹は人手から人手に渡つて、たうとう御ごし朱ゆい印んの傳次郎の父親、船頭の傳六といふ惡者の手に陷おち、危ふく吉原へ叩き賣られるところでしたが、それよりは妾奉公をさせて、幾度も〳〵支度金を稼かせがせた方が實入りになると知つて、いやがる私を父子二人で責め折せつ檻かんして――この二、三年の間に支度金だけでも五百兩近い金をまうけました﹂ ﹁――﹂ ﹁妹にも同じ稼かせぎをさせようとしましたが、私は命がけで喧嘩をして、そればかりは思ひ止らせ、好ましくはないが水茶屋に奉公させました。それから一年ほど經つて父親の傳六は死にましたが、伜の傅次郎は親に優る惡人で、いやがる私を半殺しの眼に逢はせては、あんな恥かしい妾奉公を續けさせました﹂ ﹁――﹂ お扇の話は思ひの外に眞劍でした。平次や八五郎は言ふまでもなく、萬七も清吉も、事情の異常さも忘れてすつかり聽き入ります。 ﹁ところが、三月前、若松屋へ奉公に來て、私は生れて始めて眼を開きました。世の中には、御主人敬三郎樣のやうなこんな立派な男があるといふことを知つたのです。私は矢つ張り唯の女だつたに違ひありません。私は旦那のお情けにすがり、その袖の下に隱れて、これから本當に良い内儀で暮したいと思ひ定めました。私は一生懸命でした。何も彼も旦那に打ち明けた上、今までのことはみんな許して頂いて、本當に生れ變つた氣になつて、どんな育ちの良い嫁にも負けないやうに、立派にやつて行かうと思ひ定めたのです﹂ ﹁――﹂ ﹁ところが、傅次郎は私の心變りを知つて、あらゆる嫌がらせをやり、もとの通り自分のところへ歸つて來いとせがむのです。妾奉公がいやなら、自分の女房にするとも言ひました。――でも私は傅次郎の女房になるくらゐなら、大川へ飛び込んで死んでしまひます﹂ さう言つてお扇はいくらか氣がさすものか、二枚屏びや風うぶの中の傅次郎の死骸をそつと振り返るのです。 ﹁それから?﹂ 平次は靜かに促うながしました。 ﹁惡戯や嫌がらせがあんまりひどいので、私は昨夜宵のうちでしたが、そつと家を脱け出しました。傅次郎が庭のあたりの塀の外に來て、何にか惡いた戯づらをしてゐると判つたので、思ひきつてぶつかつて、話をきめようと思つたんです、――外へ出て見ると、良い月夜でした。見ると丁度店の左の方の庭の外の塀へい際ぎはで、妹と傳次郎が掴み合つてゐるぢやありませんか。飛び出して止めようと思ふうちに、妹は諦めた樣子で歸つてしまひ、私と傅次郎は改めて顏と顏を見合せてゐたのです、――昨夜は良い月夜でした、お互にどんなに憎み合つてゐるか、たつた一と眼でわかるやうな﹂ ﹁――﹂ ﹁二人は激しく言ひ合ひました。が、言ひ合つたところで果てしの付く筈もありません。私は、どんなことがあつても、二度とお前のところへは歸らないと言ふと、傅次郎は――それぢや、とことんまでお前の邪魔をしてやる。先づ手始めに若松屋に火をつけて燒き拂ひ、それでもお前が歸らなきや、主人の敬三郎を殺してやる――と言ひます。それくらゐのことはやり兼ねない傅次郎です。私は諦あきらめて――私の身さへ退けば八方圓く納まるだらう、大川へ身を投げて死んでやるから――と口惜しまぎれに駈け出しました﹂ ﹁それから?﹂ ﹁傅次郎はニヤニヤ笑つて見てゐました。――死ぬなら死ぬがいゝ、新しん情い夫ろのできた女は容易に死ねるものぢやねえ――と塀にもたれて、鼻唄なんか唄つてゐるぢやありませんか、――あんまり憎らしいから、私は引返して、刺してやりました﹂ ﹁どこを?﹂ 平次は不意に問ひを挾むのでした。 ﹁胸だつたか、どこだつたかわかりません﹂ ﹁何んで刺したんだ。刄物は?﹂ ﹁匕首ですよ﹂ ﹁そんな物を持つてゐたのか﹂ ﹁え﹂ ﹁それからその刄物をどこへやつた﹂ ﹁大川へ投り込んでしまひました﹂ ﹁よし〳〵、さう來るだらうと思つたよ。ところで、場所は、店の左、庭の外の塀際だと言つたな﹂ ﹁え﹂ 平次はこゝ迄突つ込むと、二人の女にクルリと背を見せて、 ﹁ね、三輪の親分、お聽きの通りだ。この二人にはやくざの傅次郎は殺せないよ。尤もお扇の言つたことが途中までは本當だらう。傅次郎と言ひ爭つて、口惜しまぎれに身でも投げるつもりで飛び出した――といふところまでは間違ひあるまい。傅次郎は塀にもたれて、ニヤリニヤリとその後ろ姿を見送つたことだらう﹂ ﹁すると誰が殺したといふのだえ、錢形の﹂ 三輪の萬七は甚はなはだ以て平かでない顏色です。 ﹁男だよ、強い男の手だ。傷は背後から胸へ突き貫くほど深いものだ――多分、傅次郎を勝負事の怨みか何んかで附け廻してゐたやくざが、脇差で突いたのでもあらうか﹂ ﹁――﹂ ﹁二人の女は許してやるがいゝ。なア三輪の親分﹂ ﹁いや、俺にはまだ腑ふに落ちないことがある。もう少し調べるとしよう﹂ ﹁さうか、ぢや俺は歸るぜ﹂ ﹁勝手にしな﹂ ﹁それぢや三輪の親分﹂ 錢形平次は二人の美女に一瞥べつを與へたまゝ八五郎を促うながして往來へ出ました。六
﹁親分、有難うございました。お蔭で二人は助かります﹂
後ろから聲を掛けて、そつと近づいて來たのは、若松屋の主人敬三郎でした。
﹁若松屋の御主人か、丁度いゝところだ。お前さんに傅次郎殺しの下手人を教へてやらう﹂
﹁へエ?﹂
キヨトンとする敬三郎をうながして、平次はもとの若松屋の塀外、傅次郎の死骸のあつた場所へ戻りました。そこは塀の内がすぐ主人の寢部屋で、傅次郎がよく礫つぶてを飛ばした場所です。
﹁傅次郎はこゝで、節穴からのぞいてゐるところを刺された――と三輪の親分は思ひ込んでゐるが、大嘘だよ﹂
﹁――﹂
﹁傅次郎は背が低いから、踏ふみ臺だいでもしなきやあの節穴へ眼は屆かない、――それに塀の下は直ぐ溝どぶだ。水は腐つて泥が沸いてゐるから、こゝで刺されて倒れた人間は、間違ひもなく着物に溝泥がつく筈だが、傅次郎の着物にはそれらしい跡もなかつた、――傅次郎は他の場所で刺されて、死骸になつてからこゝへ運ばれて來たのだ﹂
﹁――﹂
﹁お扇さんは、店の左の方――庭の外の塀際で傅次郎に逢つたと言つてゐる、――訊かれもしないのに言つたんだから、嘘ぢやあるめえ。すると傅次郎が殺されたのは向うの方だ﹂
店を左に見て、向うの狹い路地の中へ、平次は敬三郎を誘ひ入れました。
﹁こゝだよ御主人、傅次郎は嫌がらせに火でも附けるつもりでこゝへ來て、お篠とつかみ合ひを始め、鼈べつ甲かふの櫛くしは物の彈はずみで傅次郎の懷ろに入り、死骸と一緒に向うへ運ばれたのだらう。その後へお扇さんが來たが、話が物別れになつて、可哀想にお扇さんは死ぬ氣で向うへ行つてしまつた。それを傅次郎は、塀に凭もたれたまゝ、たかをくゝつて見てゐると、――﹂
﹁――﹂
﹁塀の中――丁度この破れ目から、力まかせに脇差が飛び出して、傅次郎の背中を突いた。不意の深ふか傷でに、傅次郎は聲も立てずに死んだことだらう、――塀越しに傅次郎を刺し殺した下手人は、切戸をあけて出て來て、死骸を向うの方に移した上、夜中ながら塀についた血を洗つて、その上念入りに、塀の割け目を、新しい板でふさいだ――板は商賣物だが、少し新し過ぎたし、杉の絲いと柾まさで塀の穴をふさぐ法はない﹂
﹁――﹂
﹁下男の茂十は昨日の夕方、落書を洗ひ落したと言つてるが、それは嘘に違ひない。近所の人に聽いて見ればわかることだ。それから板塀の血は隨分念入りに洗つたつもりだらうが、夜の仕事だから、何んとしても木目の間に沁み込んだ血は綺麗にならない。傅次郎を殺した刄物は――井戸の中か、縁の下の土の中か、いや、いや、いつぞや材木屋で、銘木の洞うつろの中に物を隱して置いた例ためしがある。こゝにもそんな隱し場所は澤山ある筈だ﹂
﹁――﹂
﹁御主人、――これは一人の仕事にしては少し手重だから、下男の茂十などが手を貸してゐるかも知れない。呼んで訊いて見ようか﹂
平次の論告は明快で行屆いて、爭ふ餘地もありません。
﹁親分﹂
﹁待つた。うつかり恐れ入つたりすると、懷ろの十じつ手ての手前、お前さんを縛らなきやならない。お扇、お篠姉妹を喰ひ物にして、長い間世の中の人を困らせて來た御朱印の傅次郎は、矢つ張りやくざ仲間の出入り事で殺されたとして置く方が無事だらう﹂
﹁親分﹂
若松屋敬三郎の突き詰めた顏に、平次は不意に背そびらを見せました。
﹁それぢや、お扇さんと仲よく暮しなさいよ。あれは珍しい貞女だ。昔のことなんざ綺麗に忘れて本妻に直してやつて下さい。文句を言ふ奴があつたら、この平次が引受けますぜ﹂
平次は八五郎をうながして神田の家へ歸つて行くのでした。傾かたむく冬の夕陽の中に、後ろでそつと手を合せたのは、若松屋の主人敬三郎の涙に濡れた顏です。