一
錢形平次は久し振りに田舍祭を見物に出かけました。 調てう布ふ街道を入つた狛こま江え村、昔から高こ麗ま人の裔すゑが傳へた、秋祭の傅統がその頃まで殘つて居て、江戸では見られぬ異國的な盛大さが觀物だつたのです。 宿は北見の三五郎、義理堅い良い目明しでした。この邊は伊奈半左衞門の支配で、江戸の眞ん中と違つて、事件は少ないやうです。が、人間と人間の關係がうるさいので、實際斯かう言つた顏の良い親分衆でないと、十手捕繩を預つての、キビキビした活動はむづかしかつたのです。 それは兎も角、平次が着いたのは祭の前日の晝過ぎ。 ﹁まア〳〵一つ、お濕しめりをくれてから、宵宮へ繰り出さうぢやないか﹂ と、三五郎は呑ませる工夫ばかり、尤も、北見の三五郎、中年者の強したゝかな男ですが、平次には江戸で恩になつたことがあり、折角呼んだのだから、存分に御馳走もして、自分の近頃の威勢も見せてやり度かつたのでせう。 × × × 五里近い道を歩いて來て、すつかりくたびれたところへ、強しひるほどに呑むほどに、夕方はもう、すつかり虎になつた八五郎は、宵宮の村が賑やかになる頃は、ぐつすり寢込んでしまつて、呼んでも叩いても起きることではありません。 ﹁放つて置かうよ。鼻から提ちや灯うちんを出して居るところを見ると、お祭の夢を見て居るに違げえねえ﹂ 平次は三五郎とその子分達を促うながして、宵宮の太鼓の音のする方に出かけました。 それから二た刻あまり、八五郎は漸ようやく目が覺めました。滅法喉が渇かはきます。手でも叩かうと思ひましたが、この部屋は母おも屋やから離れて居て、それも少し氣の毒、水差しくらゐは來てゐさうなものと、鎌かま首くびをもたげてそつと見廻すと、 ﹁おや?﹂ 窓の半分を明るくした、秋の夜の月明り、芒すゝきの中にしよんぼり女の立つて居るのが、影繪のやうに鮮あざやかに障子に映つて居るのです。 ﹁江戸の親分樣﹂ か細い聲が呼びます。影法師が搖れると、鬢びんの毛がサラサラと風にほつれて、凄いほど華きや奢しやな手が、生垣の杭くひにもたれるのです。 ﹁俺に用事かえ、脅おどかしちやいけないぜ﹂ 八五郎は起ち上がりました。甚だ尾びろ籠うな腰つきですが、江戸の親分と呼ばれては、顫へてばかりも居られません。窓を開けると、水のやうな月夜、遠く祭のどよみを聽いて、低い生垣に凭もたれるやうに、シヨンボリ立つて居る女と顏を合せました。 ﹁お願ひでございます。江戸の親分さん、私は殺されかけて居ります。どうぞ、お助けを――﹂ 女は月に濡れて、ワナワナと掌てを合せるのでした。 ﹁冗談ぢやねえ、俺の方が取り殺されるかと思つたよ。――見たところ、二本の足も滿足に揃つてゐるやうだ。相手が人間の女の子とわかれば、逃げも隱れもするわけぢやねえ。一體俺に、どんな用事があるのだ﹂ 八五郎も漸ようやく膽がすわりました。膽がすわると同時に、食慾と無駄口の出て來る八五郎です。 ﹁私はこの隣りの酒屋の者ですが――﹂ 北見の三五郎の隣りの家といふのは、この土地でたつた一軒の大きな酒屋で、それが地主でもあり、金持でもあり、太田屋易やす之のす助けといふ好い男でした。 主人の易之助は、三五郎のところへ平次と八五郎が來ると、早速呼び寄せられて、江戸の高名な御用聞と近づきになり、三五郎と三人連れ立つて、村祭の宵宮に出かけ今は留守の筈です。土地へ來ると直ぐ、八五郎もその噂をきゝ、醉ひつぶれる前に三五郎に紹介されて、口もきゝ、盃も取り交した間柄です。 ﹁それぢやお前さんは、太田屋の御主人の妹の納をさめさんと言ひなさるのか。大層綺麗な人と聽いたが――﹂ ﹁いえ、違ひます。お綺麗なのは納さんで、私は縫ぬひと申します﹂ ﹁お、お内儀のお縫さんか、それも大層綺麗だと聽いたが﹂ 旅に出ると、八五郎も斯うお世辭がよくなるのでした。 ﹁私なんか――飛んでもない﹂ さうは言ふものの、お縫も包みきれない嬉しさを、兩手の袖で、斯かう胸のあたりを抱くのです。内儀も小こじ姑うとも、同じ年頃と聽きましたが、青白い月の光の下では、ぞつとするほど美くしい二十一、二。きりやう好みで太田屋に拾はれ、倍以上も年の違ふ主人の易やす之のす助けに仕へて、年頃の似寄つた小姑の納をさめと、亡くなつた先妻の子で、繼しい仲の娘、十九のお梅の間に挾まり、氣兼苦勞の多いその日〳〵に、さらぬだに痩せる思ひのお縫だつたのです。 ﹁ところで、誰がお内儀さんを殺さうと企たくらんで居るのだ﹂ 八五郎はザツと人別︵戸籍︶を明らかにした上、お縫に問ひかけました。もう酒の醉ひも醒めてしまつて、月の光の中に細々と佇んだ、内儀の身體にも露を置きさう。祭太鼓の遠とほ音ねを縫つて、蟲の音がジージーと耳に沁みます。二
内儀のお縫の話は、まことに取りとめのないものでした。それによると、近頃村へ來た陰おん陽やう師じ――何んとか坊の天てん惠けいといふ易者が、滅法當るといふ評判を取つて居るので、ツイ觀て貰はうかと思つてゐる矢先、手代の伊三郎が先驅けをして觀て貰ひ、 ﹁御新造、まア騙だまされたと思つて行つて觀て貰ひなさい。財布の中の穴あき錢の數まで當てるから﹂ とすゝめられ、ついその氣になつて、人相手相から、身の上運勢を判斷して貰ふと、これが大變でした。天惠といふ易者、本人は古風に陰陽師と言つてるのですが、――その言ふことには、 ﹁お前さんの家に、全く同じ歳の女が二人居ないか。この干え支との人は、相さう剋こくする運勢を持つて居るから、同じ屋根の下に住んで居れば、一方がきつと一方に殺される。くれ〴〵も氣をつけるやうに﹂ といふ恐ろしい警告だつたのです。その殺すか殺されるかの最後の日も、決して遠いことではなく、年内、いや〳〵、この月のうちにも、二人の運勢の勝負はきまるだらう、どちらか一人は一日も早く身を退くやうに、といふのでした。 内儀のお縫と、小こじ姑うと――即ち主人の妹の納をさめは同じ年の二十二、向うが殺されなければ、私が死ぬ――と思ひ込んだ矢先、この間から、幾度となく、お縫の上に危險が襲ひかゝりました。寢ようと思つた床の中へ、誰が入れたか磨ぎすました刺さし身みば庖うち丁やうが入つて居たり、物置の二階から、あるべき筈のない、澤庵石が落ちて來て、危ふく頭を割りかけたり、――さう言つた無氣味なことが續出するので、すつかり氣を腐らして居るところへ、江戸から高名な岡つ引が、お隣りへ來るといふ噂をきいたのです。 村の祭の宵宮は、近郷へも聞えた賑はひで、村中の者は殆んど總出でした。留守番の有るなしは、田舍の人はあまり問題にもしなかつたのです。 その中で内儀のお縫は、頭痛がするからと言つて、たつた一人家に留りました。尤も、同じ家の離はな屋れに、小こじ姑うとの納をさめも祭を嫌つて留守をして居るとは知る由もありません。村祭の宵宮の賑ひ、今夜はわけても、村中の踊り手をすぐつての盆踊りもあるといふのに、それさへも見ずに、鬱うつ々〳〵として籠つて居たのは、折を見付けて、お隣りの三五郎親分の家へ來たといふ、江戸の御用聞に逢ひ、事情を打ちあけて、相談して見たかつたのです。 ﹁そいつは、俺にも見當はつかないよ。八卦けや占うらなひの言ふことは、十手捕繩でどうなるものか、まア、氣を大きく持つて、樣子を見ることだな﹂ 八五郎は、お座なりを言ふのです。八卦屋さんを相手では、喧嘩にも角力にもなりません。 お縫はしを〳〵と歸りました。細つそりした肩、傾かたむきかけた月の影を長く引いて、哀れ深い姿ですが、八五郎はそれを見送つて大おほ欠あく伸びを一つ、枕を引寄せて、又一と寢入りときめました。盆踊りが酣たけなはになつたらしく、太鼓の音に絡からみ合つて、歌聲まで、風の吹き廻しで手に取るやうに聽えますが、無精者の八五郎は、わざ〳〵起き出して、それを見に行く氣にもなりません。 やがて、夜半も過ぎました。踊りの太鼓や笛は、容易のことでは止みさうもなく、夜更けの大氣をかき亂して傅はりますが、年寄りや子供や明日用事のあるものはさすがに家路を急ぐらしく、田圃の中を、ザハザハと一ときは人の話聲が傅はります。 間もなく、錢形平次も、宿の三五郎も、その子分達も戻つたらしく、家の中が急に活氣づいて、隣りの聲までが、賑やかに聽えて來ました。 ﹁今夜の踊りは面白かつたが、あんまり面白いのでお化けまでが浮れ出て、田圃の中で、見越の入にふ道だうの通るのを見た人間が、三四人もあるさうだよ﹂ 子分達の話が、八五郎の寢呆けた耳にも、よく響きます。 ﹁そんな間拔けなものが、この邊に居るわけはないぢやないか﹂ 親分三五郎の分別臭い聲です。 ﹁親分はさう言ひますがね、盆踊りの途中で、途中から歸つたのや、用事の都合で遲く來かけた者が、田圃の畦あぜ道みちで、一丈あまりもあらうと思ふ、恐ろしい怪物に逢つたり、後ろから追ひ廻されたりして、腰を拔かしたのもあるさうですよ、――新田の嫁と、喜十のところの隱居と﹂ と、子分は指を折つてるのです。 ﹁そんな話を、錢形の親分に聽かしちや、村の耻になるぢやないか﹂ ﹁でも、白いフハフハした大入道が、風のやうな早さで飛ぶんださうで﹂ 子分達もなか〳〵敗けては居ません。が、その時でした、隣りの太田屋で大變な騷ぎが始まつたのです。三
﹁親分さん方、ちよいと、お願ひ﹂ 酒屋の太田屋の下男半助といふ中年男は、顎あごで這ふやうに飛んで來ました。 ﹁どうしたえ、半助さん﹂ 親分の三五郎が飛んで出ると、 ﹁留守の間に、納をさめさんが、死んで――﹂ 半助は息もつけません。 ﹁納さんが、死んで居た﹂ ﹁離はな屋れが血だらけで、來て見て下さい﹂ 兎も角も、變死に違ひないらしく、半助のあわてやうは一と通りではありません。 ﹁よしツ、直ぐ行くぞ、――錢形の親分、お聽きの通りだ。土みや産げげ噺なしのつもりで、覗いてやつてくれまいか﹂ 三五郎は支度をしながら、平次を誘ふのです。 ﹁よし來た。丁度八の野郎も居るから行つてみよう﹂ 忽ち八五郎も叩き起されて、總勢五六人、夜討ほどの勢ひで隣りに行つたのは、やがて、丑や刻つ︵二時︶近からうと思ふ頃でした。 太田屋の騷ぎの中で、一番落着いてゐるのは主人の易やす之のす助けでした。四十五六の立派な人柄、體度もさすがに悠揚として居ります。 ﹁若い者と一緒に、私も踊りを見物して、ツイ先さつ刻き戻りました、――親分さん方と御一緒だつた筈です――家で留守をして居たのは家内と妹だけ。最初は何んの氣もつきませんでしたが、下女のお卷が離屋に灯あかりがあるやうだと覗きに行つて、妹の死んで居るのを見付けました。いやもう、ひどい有樣で﹂ 案内された離屋――と言つても、母おも屋やからの廊下續きになつて居る六疊で、覗くと床とこの上に若い女が、喉笛を掻き切つて、そのまゝ俯うつ向むきにこときれて居るのです。右の大動脈を切つて、それはひどい血でしたが、死骸の右手には、血だらけの匕あひ首くちを持つて居り、自害と見られないこともなかつたのです。 年の頃は――いやこれは内儀のお縫と同じ年の二十二、お縫と違つて、豊滿な感じのする、美しい年増でした。一度縁付いて亭主に死に別れ、姉の嫁入先に轉げ込みましたが、その姉も死んで、今は後添への世界になり、とかく暮らし難いその日を暮して居たのでせう。 ﹁おや、書置きがありますぜ﹂ 見つけたのは八五郎でした。死骸の下の布團から、三角に喰み出した白い紙、引拔くと幸ひ血潮にも汚れず、下へ手たな女文字でなよ〳〵と、書き遺した數々、平次はそれを受取つて一氣に讀み下しました。 ﹁床の下に敷いて三角に耳を出したのは、なるほど書置きの隱し場所としては、うまい考へだね﹂ 八五郎は感心するのです。 書置きの文句は、まことに平凡なものでした。自分の身の不幸をなげき、この上は生きて行く張合ひもないから、自害して相果てる、皆樣にはお詫びの申上げやうもなく、わけても兄上には、長い間の御恩にも報むくい參らせず、――としをらしいことを書いて居るのです。 ﹁遺書がありや、言ふことはないだらう。もう夜のあけるのも間があるまい。お葬とむらひの支度をしなきや﹂ 三五郎はもう引揚げの支度をして居ります。 ﹁おや、まだ、踊りの太鼓が聽えて居るやうだ。若い者といふものは、仕樣のないものだな﹂ 三五郎が年寄り染みたことを言ふと、 ﹁さう言へば、家の伊三郎もまだ戻つて來ませんよ。夜の明けるまで踊るつもりでせう。あれは笛も吹ける上に、道だう化けを踊どりが上じや手うずで、ひよつとこの面を冠つて、メチヤメチヤに踊つてましたから﹂ 主人の安之助は苦々しく言ふのです。四
さう言ふ伊三郎は、噂をすれば影のやうに、ヒヨツコリ戻つて來ました。埃ほこりだらけになつて、踊り疲れて、まことに散々の體ですが、主人の妹の納をさめが死んだと聽いて、さすがに膽きもをつぶしたらしく、ろくに汗も拭はずに離屋に飛び込んで來ました。 ﹁を、納さんが、自害? 飛んだことで、――﹂ いざり寄つて、死骸の所に据ゑた香かう爐ろに、五六本の線香を立て、鼻をつまらせて、ひれ伏すやうに拜んだのは、二十五、六のこれは好い男でした ﹁ちよいと、これは變じやございませんか、皆さん﹂ 伊三郎は顏を擧げて、拜んだ掌てを胸に組んだまゝ、四あた方りを見廻すのです。 ﹁何が變だえ、伊い三さどん﹂ 三五郎はそれに應じました。 ﹁自害をしたもの――ことに喉笛を切つたものは、後ろへ反るものですが、これは女だてらに大おほ胡あぐ坐らをかいた形になつて、俯うつ向むけになつてますね――納をさめさんはそんなたしなみの惡い人ぢやなかつた筈で﹂ 端座して喉を切つても、反つくり返るのが自然で、兩膝を帶か扱しご帶きで縛つて自害をするのは、女のたしなみとされて居たのです。 ﹁伊三郎どんとか言つたね、宜いところへ氣がついてくれたよ。お前がさう言つてくれなければ、佛は殺され損になつて浮ばれなかつたことだらうよ﹂ 三五郎の後ろから平次が應じました。そして、チラリと八五郎を振り返つて、何やら耳打ちをすると、八五郎は早くも平次の氣持を察したらしく、曉あかつき近い田圃道へ飛び出して、踊りの太鼓の方へ飛んで行きます。 ﹁それほどでもありませんが﹂ 伊三郎は極り惡さうに首筋を掻くのです。 ﹁外に氣のついたことはないのか伊三さん。俺が見ると、持つて居る匕あひ首くちも逆ぎやくだし、膝の間に首を突つ込むやうな恰好で、後ろから曲者に喉を切られ、起き上つたところを、後ろから押へ付けられたとしか思へない﹂ ﹁親分は? さう言ふ親分は﹂ 伊三郎は目ばかりパチパチして居ります。 ﹁神田の平次といふものだよ﹂ ﹁あツ、近頃評判の錢形の親分﹂ ﹁さア、後を續けてくれ。お前めえはまだ、何にか知つて居さうだ﹂ ﹁では申しますが﹂ 伊三郎はさう言ひながらも、ひどく澁つて、モヂモヂして居ります。 ﹁さア、話してくれ、伊三さん﹂ ﹁この書置きは、納をさめさんの手ぢやございませんよ﹂ ﹁何んだと﹂ ﹁納さんは綺麗な字を書きました。こんな右下りの、イヤな字ぢやございません﹂ ﹁それは本當か﹂ ﹁私は嘘を申しません。皆んなに訊いて下さい﹂ ﹁よし、わかつた。それぢや、この遺書は誰が書いたのだと思ふ﹂ ﹁それはどうも﹂ 伊三郎は其處までは言はうとしません。 が、それには及びませんでした。家中の者の顏色と話と、内證の囁きを綜合すると、それは何んと、内儀のお縫、――殺された納と同じ年の、この家の中に、敵同士のやうに睨み合つて居る、兄嫁のお縫の手しゆ跡せきに間違ひもなかつたのです。 太田屋の家の中の空氣は、一瞬にして變りました。氣性者の納をさめが、全く人に殺されたとわかり、遺書も僞物ときまると、その僞の遺書を書いた本人、日頃小こじ姑うとの納と仲が惡い上に、母おも家やと離はな屋れと別れて居ても、この太田屋の屋根の下に留守をして居た、主人の後添へのお縫に恐ろしい疑ひが、眞つ向からのしかゝつて行くのは當然なことです。 三五郎の子分達はいきり立ちました。日頃は隣りに住んで、口もきゝ、世話にもなつて居る太田屋の内儀ですが、人殺しの下手人とわかると、職業意識はまた別に働くのです。 ﹁待つて下さい。お縫はそんなことの出來る女ぢやございません﹂ 主人の易やす之のす助けは、大手を擴げないばかりに子分達の前に立ち塞ふさがるのです。その後ろにはワナワナと顫へて立つてゐる、内儀のお縫と、先妻の娘、お梅。これは十九の厄やくで、生み立ての玉子のやうに、清潔で、脆ぜい弱じやくで、燃える生命そのもののやうな、美しい娘でした。五
﹁御主人、これには、いろ〳〵わけがありさうだが、三五郎親分は、お隣りだけに調べ難いといふから、あつしが万事を引受け、夜の明けきらぬうちに、埒らちをつけると約束してしまひました﹂
平次は主人の易之助を一と間に呼び入れ、差し向ひになつて斯う話しかけるのです。
﹁へえ、よくわかりました。不審なことがあつたら、何んなと訊いて下さい。皆んな申上げませう﹂
﹁その氣なら、遠慮のないところを訊きますが、第一、殺された納をさめさんを怨んでゐる者はありやしませんか﹂
平次の第一の問ひはまことに尋常です。
﹁あの氣性者ですから、ないとは申されませんが、縁付いた先の夫は死んで居りますし、一時は手代の伊三郎が、執しつこく追ひ廻して居りましたが、納はあんな氣性で、伊三郎のやうな男は嫌ひだと言つて相手にもせず。伊三郎も近頃は娘のお梅に一生懸命で、この家へ婿にでも入るつもりでゐるやうですが、お梅は丁度十九の厄やくで、それに家内が伊三郎を嫌つて、お梅と一緒にする氣はないやうです﹂
﹁で、この家で、筆て蹟の良いの――字のうまいのは誰と、誰でせう﹂
﹁死んだ納は手の良いのが自慢でした。あとは、手代の伊三郎くらゐのもので、家内と來ては、全く金かな釘くぎ流りうで、お梅も大したことはありません。奉公人達は一文不通、自分の名前へ書けないのばかり揃つて居ります﹂
﹁御内儀と納をさめさんは、仲が好くなかつたやうですが﹂
﹁それはもう、同じ年の女と女が、一つ家の中に住んでゐるのですから、仲の好い筈はありません﹂
﹁お孃さんとは?﹂
﹁あの娘こは人の好いのが取柄で、納とも繼母の家内とも、まことに折合の良い方です﹂
﹁有難う。序ついでに、御内儀に一寸﹂
平次は其處へ内儀のお縫を呼んでもらひました。
﹁どんな御用でせう、親分さん﹂
江戸の御用聞の前に引出されて、細々とした内儀は、心持顫へてさへ居るのです。
﹁内儀さん、隱さずに皆んな話して下さい。お前さんは、大事な瀬戸際に立つて居るのですよ。殺された納さんの床の下から出た遺書は、誰が見ても、内儀さんの筆て蹟だといふが、これは、どういふわけでせう﹂
﹁私は何んにも存じません。私の下へ手たな字は、家中の笑ひものですけれど、そんなものを書いた覺えはございません﹂
一應さう言つてから、先さつ刻きお隣りの三五郎の家へ忍んで行き、八五郎に訴へた數々のことまで、隱すところなく平次に打ち明けるのでした。
﹁その八五郎に逢つた時刻は?﹂
﹁亥よ刻つ︵十時︶過ぎだつたと思ひます。あの方に訊いて下さい﹂
その、あの方なる八五郎は、平次の旨を受けて、盆踊りの現場へ飛んで行つたのです。
﹁伊三郎がお孃さんの婿むこになり度いと言ふのを、内儀さんがひどく嫌がつたさうですね﹂
﹁でも、あの伊三郎といふ人の氣は知れません。納をさめさんを追ひ廻したり、それから、それから――﹂
﹁それからどうしました。大事のことですよ、皆んな言つて下さい。決して人に漏らすやうなことはしません﹂
﹁私は隣り同士で育つて、あの人の氣性もよく知つて居りますが――﹂
﹁それからどうしました、――三五郎の子分達はあの通り、内儀さんを縛るつもりで居ります。氣の付いたことがあつたら、隱さずに﹂
﹁――﹂
お縫はそれでも思ひきつて言ひ兼ねたらしく、
﹁あの、私はもう、頭痛がして﹂
室の外へ滑るやうに、逃げ歸つてしまつたのです。
平次はそれを追うわけにも行かず、もとの部屋に引つ返しました。其處では三五郎とその子分達が、家中の大福帳、手紙日記、書出し、など、いろ〳〵のものを集めて、筆蹟の鑑定に夢中でした。
﹁錢形の親分の言つた通り、家中の者の書いたのを集めて、この通り比べて見たが、右下がりの下手な字を書く者は、内儀のお縫さんの外にはないぜ。この通り小遣帳があるが――﹂
内儀の小遣帳といふのは、半紙五六枚を四つ折に綴とぢたものですが、のたくらせた文字は右下りの下へ手たな字で、死骸の床の下にあつた書置きの文字とそつくりです。
﹁外の人の書いたものもこの通り揃つて居るが、――手代の伊三郎は手習ひに熱心で、隨分反ほご古が紙みを拵へてゐる。皆んな念入りの左下りで、内儀の右下がりの字と並べると、矢筈になるから面白いぢやないか。帳面の外に手習の反古もあるが――﹂
大福帳の左下がりの字、それは手代の伊三郎の書いたもので、左上がり右下がりの、書置きの字とは、全く反對の勾配です。
﹁恐ろしく反古を拵へたものだな。おや、おや、――これを透すかして見ると、變なことがあるぜ﹂
平次は二三枚の反古紙を、灯に透して三五郎に見せました。
﹁成る程、透して見るともとは皆んな右肩が下つて居るね。その上を左肩の下つた字で、眞つ黒になすつて居る﹂
﹁右肩の下つた字を、斯かうまで手習ひするのは、尋常のことぢやないぜ﹂
平次と三五郎は顏を見合せました。右肩の下がつた字をうんと書いて、その上を左肩の下がつた字で眞つ黒に書きつぶすのは、何にかわけがなければなりません。
﹁その手代の伊三郎を見張つてくれ、逃しちやならねえ﹂
平次の聲に應じて、三五郎の子分が三四人、バラバラと驅け寄つて、伊三郎の手を取りました。
﹁冗談なすつちやいけません。私は何んにも知るわけはない。一と晩あの森の中で、踊りを踊つてたつた今戻つたばかりぢやありませんか﹂
さう言へばその通りで、伊三郎がひよつとこの面を冠つて、手振り面白く踊つて居たのは、子分衆も皆んな見て居ることです。
﹁えツ、神妙にせい、お前でなくて、誰が納をさめさんを殺すものか﹂
平次もツイ乘り出した。江戸の御用聞の口を出す場所ではないのですが、三五郎の子分達は、伊三郎に言ひ負かされて、顏見合せて尻込みをするのです。
﹁違ふ、違ふ、私ぢやない。私は踊りの輪を拔けなかつた。――皆んな知つての通り、ひよつとこの面を冠つて、一と晩踊り拔いて居たので﹂
﹁いや、そんな筈はない﹂
﹁錢形だか何んだか知らないが、江戸の外へ出て、そんな口はきいて貰ひ度くない。私は、踊つて踊つて踊り拔いてゐた﹂
伊三郎は激はげしく抗議するのです。
﹁さう言へば錢形の親分、――ひよつとこは一と晩踊り續けて居たぜ。小用くらゐは行つたかも知れないが、煙草三服の間も踊りの輪を拔けなかつたやうだ、――拔けたのは笛の玉吉だけ、暫しばらく太鼓だけで踊つたが――﹂
三五郎も、隣り同士の伊三郎のために斯う言ふのでした。
﹁その笛の玉吉といふのは?﹂
﹁ツイ二三軒先の男だ。先さつ刻き戻つたやうだが﹂
﹁連れて來てくれ﹂
平次のかんは見事でした。盆踊りに笛のないのは、刺さし身みに山わさ葵びがないやうなもので、誰でも氣がつかずには居ません。
間もなく、笛の玉吉といふ、少し甘さうな五十男が引つ立てられて來ました。
これは二つ三つ三五郎に脅かされると、
﹁伊三郎さんに頼まれて、ほんのちよいと、ひよつとこの面を冠つて、踊りの輪に入つて踊りましたよ。その間笛が拔けたわけで、――尤もつとも伊三郎さんは、お腹が惡いのださうで、手てう水づに行く間ほんの四半刻もたゝないうちに戻つて來ましたが﹂
玉吉の言ふのはまことに伊三郎のためには致命的でした。
﹁嘘だ、嘘だ、俺はそんな事を玉吉に頼んだ覺えはない。第一、あの森から此處まで、夜つぴて人通りは絶えなかつた筈だ。人に見とがめられずに此處へ戻つて、そんなことが出來るわけはない﹂
伊三郎は必死と抗辯するのです。
が、その抗辯も、八五郎が戻つて來て、それつきりに封じられてしまひました。
﹁親分、さすがに目が高けえ。踊りの輪の外に燃えて居る焚たき火びの中から、燃え殘つた竹たけ馬うまを一本見つけて來ましたよ。あとの一本は燃えきつてしまつたが﹂
八五郎は燃えさしの竹馬を振り廻して、すつかり良い心持にわめくのです。
﹁それだ〳〵。その三尺もある竹馬に乘つて、白い巾でも冠つて田圃道を飛んで歩くと、夜道を通る人は天狗か見越しの入道と間違へる。さア、伊三郎、この竹は何處から持出したか、細さい工くは誰がしたか、皆んなに訊けば直ぐわかることだ。恐れ入つてお慈悲を願へツ﹂
平次が言ふと、さすがの伊三郎、ヘタヘタと大地に崩折れて、
﹁――﹂
無言のまゝ――に二つ三つお辭儀をするのです。
× × ×
下手人の伊三郎を三五郎に引渡し、翌る日のお祭を見物して、平次は神田へ引揚げました。道々、
﹁伊三郎の惡る企だくみを、今度はあつしが繪解をしませうか﹂
八五郎は斯んなことを言ふのです。
﹁そいつは有難いが、思し召しだけで澤山だよ。お前めえは、――伊三郎と内儀のお縫は、生れた家が近所で、幼をさな馴染だつたといふから、若氣の過あやまちで、二人は戀中だつたといふことを、何處からか聽いて來たんだらう﹂
﹁その通りですよ。どうして親分は、それを?﹂
﹁内儀の顏と樣子で覺つたのさ。その伊三郎が、納をさめにちよつかいを出して斷わられ、今度はお梅の婿になつて、太田屋を乘つ取る企たくらみだつたに違ひないが、お縫がそれを承知しなかつたので、僞の遺書を拵へて納を殺したのさ。もう一つ、八卦けの天てん惠けいとかに妙なことを言はせたのも、伊三郎の細さい工くだらう。三五郎親分にさう言つてあるから、いづれはお手當てになるだらうよ。――こんなところまで來て全く妙な廻り合せだつたなア﹂
﹁その晩錢形の親分が隣りに泊つて居ることは伊三郎も氣がつかなかつたんですね﹂
道はもう江戸に入つて居りました。此處でも秋祭の太鼓の音が、何處からともなく響いて居ります。