一
八五郎の取柄は、誰とでも、すぐ友達になれることでした。長んがい顎あごと、とぼけた話し振りと、そして桁けたの外はづれた己うぬ惚ぼれが、どんな相手にも、警戒させずに近づけるのです。 その代り、時には飛んでもない者と、すつかり眤ぢつ懇こんになつてゐることがあります。巾着切辰たつ三などもその一人で、相手は御法の網の目をくゞる、雜ざ魚このやうな男。人の懷ろを狙ふのが渡世と言つても、五兩と纒まとまつた仕事をしたことのないといふ、世にも哀れな存在だつたのです。 その巾着切の辰三は、江戸の巾着切仲間の一つの名物でもありました。それは巾着切の仕事を、一つの藝と心得て、決して田舍者の懷ろは狙はないといふ一つのフエーアプレーを信じ、兩國の如いか何ゞはしい見世物の看かん板ばんを、口を開いて眺めて居る、田舍の人の財布などを狙ねらふのは、面白くも何んともないばかりでなく、折角稼かせぎ溜めて江戸見物に來た人達の、大事な旅費まで盜るのは、いかにも痛々しいといふのです。 で、辰三のおとくいは、キビキビした江戸つ兒に限りました。それも、氣き障ざなの、贅澤なの、通つうがつたの、ノラクラ者らしいのを狙つて、煙草入を拔くか、財布をかすめるか、精一杯に二分や一兩の收入が山で、胴卷や紙入を拔いて、死ぬの生きるのと言つた、むごたらしい目に逢はせるのは、巾着切道の極意でないと、辰三は考へて居るのです。 從つて、巾着切とわかつて居るくせに、辰三は誰にも憎まれることなく、御上の役人からもお目こぼしで、細く長く、その指先の至藝で暮して居りました。多くは富裕な旦那方の煙草入、御内儀の銀ぎん簪かんざし、二分か三朱の稼かせぎに滿足して、萬々一思はぬ大金をすり取つたりすると、大骨を折つてすられた人を搜し出し、要らない分は、窓から投げ返して來るといふ、途方もない潔けつ癖ぺきさです。 屋外泥棒も、十兩以上は打首になつた時代です。巾着切を看かん板ばんにかけて居るやうな辰三が、何時までも安穩に暮らせたのは、一つは働きの方法が馬鹿々々しく義理堅かつた上に、内々は御用聞の良い顏に喰ひ入つて、諜てふ者じやを勤め、その方でも調法がられて居る爲でした。 さて、これで、巾着切の辰公の存レー在ゾン理・デ由ートルはわかつたとして、風ふう采さいの方は、まことに氣の毒でした。まだ三十五六といふのに、眇めつ目かちで跛びつ足こで、虫喰ひ頭の禿はげちよろで、まことに見る影もない男だつたのです。家は元鳥越町の、八やは幡た知しらずの路地の奧、全くの獨り者、シミのやうに生きて居る、不思議な存在でした。 その巾着切の辰三が、向柳原の八五郎の宿へ、ある晩、あわたゞしく飛び込んだことからこの話が始まります。 ﹁親分、八五郎親分。大變なことがありますよ﹂ 窓の下から聲をかけると、二階の戸が開いて、長んがい顎あごをのぞかせながら、 ﹁何んだ、騷々しい、辰公ぢやないか﹂ などと、八五郎はすつかり良い心持になります。その受け渡しは、八五郎自身と平次の場合そつくり。 ﹁ちよいと降りて下さいな。本當に大變なんだから﹂ ﹁其處で話せねえことか。飮み屋から、馬でも曳ひいて來たんぢやあるめえな﹂ それでも八五郎は、帶引締めて、十手を腰に、薄寒い師走の往來に飛び出しました。仰ぐと、利とが鎌まのやうな五日月。 ﹁そんな間拔けな話ぢやありませんよ。殺しですよ、親分﹂ ﹁何? 殺しだ﹂ ﹁日頃の御恩報じ、眞つ先に親分ところに飛んで來ました。手柄にして下さい﹂ ﹁よし來た、場所は何處だ﹂ ﹁阿倍川町の六軒長屋の奧。殺されてゐるのは、そりや、好い女ですぜ﹂ 兩人はもう、急ぎ足に、阿倍川町に向つて居たのです。 ﹁唯、好い女ぢやわからねえ。身許は? 藝子か、妾めかけか、娘か、年増か﹂ ﹁あつしには何んにもわかりませんよ。フトしたことから、女の遺かき書おきを拾つて、その名宛をたどつて行くと、凄い年増が、縊くびり殺されて引つくり返つてゐるぢやありませんか。いや、驚いたの驚かねえの﹂ 辰三は酸すつぱい顏をするのです。 ﹁フトしたことで遺書を拾ふ奴があるものか。お前のいつもの傳で、拔いた懷中物にあつた遺書ぢやないのか﹂ ﹁へツ、八五郎親分はさすがに眼が高けえ。ま、そんなことかも知れませんがね﹂ 辰三はムニヤムニヤと言葉尻を濁すのです。 ﹁それ見ろ、圖づぼ星しだらう﹂ などと、八五郎は好い心持になれるのです。二
﹁その遺書といふのを見せろよ﹂ ﹁この女持の紙入ですがね﹂ 取出したのは、緑色呉ご絽ろの紙入、半分は化粧道具を疊み込んだ、それは洒し落やれたものでした。辰三はそれを、自分の物ででもあるやうに、至つて氣樂に八五郎の手の上に置くのです。 ﹁遺書はこれか﹂ 八五郎は無造作に手を突つ込んで、半紙を小さく疊んだ、手紙のやうなものを取出しましたが、月はもう町の家並の下に沈み、店の灯も疎うとくて、八五郎では讀みこなせません。 ﹁親分に預けて置きますから、後でゆつくり讀んで下さい。兎も角も、その紙入の中に小さい名札があつて、﹃阿倍川町久ら﹄とあつたんで、それを頼りに行つて見ると――﹂ ﹁待つてくれ、その紙入に金は入つてなかつたのか﹂ ﹁小判が一枚と、二分金と、あとは四文錢が少しばかり﹂ ﹁何處ですつたんだ﹂ ﹁相濟みません﹂ ﹁詫びなんか聽き度くない、すつた場所が知り度いのだよ﹂ 八五郎の聲は、少し尖とがりました。二人はもう、少し息を切つて居ります。それにしても、なんと跛びつ足この辰三の足の早いこと。これではすりの現場を見付けたところで、容易につかまる筈はありません。 ﹁申し上げますよ。へエ、斯かうなればもう、島へ送られる覺悟で﹂ ﹁呆あきれた野郎だ﹂ ﹁あつしも少し呆れてゐるんで。淺草の觀音樣の境内で、お詣りした歸り、ドカンと突き當つた女があるんで﹂ ﹁お前の方から突き當つたんだらう。罰ばちの當つた野郎だ﹂ ﹁相濟みません。でも、好い女でしたよ。ちよい〳〵見かける年増ですが、あんな好い女を見ると、ちよいと手輕なものをすり度くなります。商賣冥みや利うりでね、いゝ形見になりますから――﹂ ﹁形見だつてやがる、嫌な野郎ぢやないか﹂ ﹁へツ、へツ、馬鹿野郎になつたり、呆れた野郎になつたり、罰當りになつたり、嫌な野郎になつたり、斯う安くされちや浮ばれませんね﹂ ﹁贅澤を言ふな﹂ 巾着切の辰三に對しては、八五郎も優越感で膨ふくれ上がつて居るのでした。 やがて二人は、阿倍川町に着きました。とある路地を入つて、右も左も塀と羽目、よくも斯んな隱れ家が見付かつたと思ふやうなところに、眞つ黒な家が一つ、とほせん坊をするやうに突つ立つて居るのでした。 ﹁この家ですよ親分、阿倍川町のお久く良らと言へば大した女ださうで、すぐわかつてしまひました﹂ ﹁眞つ暗ぢやないか、これぢや鼻をつまゝれても、わかりやしない﹂ ﹁あつしが先さつ刻き覗いたときは、灯あかりが點いて居ましたよ。灯の點いた中に死骸があるんで膽きもをつぶしましたが、下へ手たに騷ぐと、親分の手柄がフイになると思つて、向柳原まで夢中で飛んで行きましたが、變だなア﹂ ﹁兎も角、灯をつけてくれ﹂ ﹁へエ﹂ ﹁火のない國へ來たわけぢやあるめエ﹂ ﹁へエ﹂ 辰三はヘドモドしながら、何處かへ飛んで行きましたが、やがて提灯を持つて戻つて來ました。 ﹁序ついでに、相長屋の人達にさう言つて來ました。間もなく家主やら月番やら、この邊中の彌次馬が、井戸替ほどの騷ぎで寄つて來ますぜ。その前に調べて置いて下さい﹂ ﹁よし來た﹂ 斯うなつて來ると、誰がリードしてゐるのかわかりません。 辰三が覗いて見たといふ、窓は開いたまゝですが、入口の戸は一應締つて居りました。尤も鍵などは掛つて居ず、二人は自分の家のやうに呑氣に入つて行くのです。 家はたつた三間、裏長屋らしく見すぼらしい感じですが、中の調度はなか〳〵に凝こつたもので、主人の日頃の生活も思ひやられます。死骸のあつたのは奧の八疊で、これは、まさに豪勢でした。その部屋の眞ん中に、座布團を半分敷いて、好い年増が引つくり返り、首に赤い扱しご帶きを卷いたまゝ、腰から下は、前まへ褄づまをきりゝと合せて、寸すん毫がうの亂れもないのが不思議に目立ちます。 女が縊くびり殺されるとき、裾のあたりを、斯うまで綺麗に合せられるものでせうか。 ﹁たしなみの良い佛樣ぢやないか﹂ 八五郎はさすがに、これが一番先に氣がつきました。 ﹁それにしても、好い女ですね﹂ 辰三はさうは言つたものの、死骸といふものをあまり見たことがないせゐか、無氣味さうに尻ごみして、念入りに見ては居られない樣子です。 さう言へば、死んだ女の顏は非凡でした。蒼白く屍色を帶びて、やゝ佛作つては居りますが、それは絞殺死體によくある、むくみから來る變貌で、この女の本來の美しさは、激しい苦惱の表情の底から、無氣味なまでに人に迫るのです。 鼻は高い方、唇くちは半分開いて、美しい齒並が見えて居ります。クワツと見開いた眼、何んとも言へない凄い表情ですが、その凄さのうちに、邪惡な色つぽさと、不思議な魅力がこびり付いて、この女の並々ならぬ素姓を物語つて居るのです。 ﹁おい辰公、手を貸しな。この佛樣を起して背うし後ろを見たいから﹂ 八五郎は遠のいてゐる辰三を顎あごで招きました。 ﹁勘辨して下さいよ、親分。あつしはこの上もない臆病なんで、死骸と來ては、猫の死骸を見ても、三日くらゐはうなされます﹂ ﹁仕樣のねえ野郎だな﹂ が、八五郎が一人で骨を折るまでもありませんでした。辰三が豫告したやうに、この時どつと、近併の衆と町役人と、そして夥おびたゞしい彌次馬が押し寄せて來たのです。三
八五郎が、明神下の平次の家へ行つたのは、その翌る日の朝の内でした。
﹁八が來たのか。大層な勢ひぢやないか、まだ辰いつ刻ゝ︵八時︶前だぜ﹂
﹁驚いちやいけません。昨夜殺しがあつたんですよ。その現場へ行つて夜つぴて調べましたがね﹂
﹁待つてくれ。まさか、お前が殺したわけぢやあるめえ、端はし折よつた裾すそだけでもおろしてよ、其處へ坐つたらどうだ。まるで逃げ出しさうな恰好ぢやないか﹂
﹁あつしや、逃げ出しやしませんが、下げし手ゆに人んに逃げられさうで﹂
﹁下手人の見當だけでもついたのか﹂
﹁つきましたよ。ところが、臭いのが三人もあるんで、どれを縛つたものか、親分に見て頂かうと思ひましてね﹂
﹁まア、初めから話せ。何處の誰が殺されたんだ﹂
平次はお勝手の方へ向いて、まだ朝飯前らしい八五郎のために、食事の用意をさせ、さて、自分で番茶などを入れるのです。
その間に八五郎は、昨夜のことを話し始めました。
﹁巾着切の辰三、親分も知つて居るでせう、あの變な野郎﹂
﹁知つてるよ。大した惡黨でもなく、調法だからと言つて、お前は懇こん意いにして居るやうだが、相手はゴミのやうな男でも、人の懷中を狙つて暮す巾きん着ちや切くきりだ。お上の御用を承はるお前が、あまり附合はない方が宜いぜ﹂
﹁大丈夫ですよ。力づくでも智慧づくでも。あつしの方が一と廻り上なんだから、イザとなれば、グウとも言はせはしません。本人も間違つて大それたことをして、萬一お召捕になる時は、八五郎親分の繩にかゝる――と口くち癖ぐせに言つて居るくらゐだから﹂
﹁まア宜い、それがどうなのだ﹂
平次に促がされて、八五郎は、昨夜の冒險を、細々と報告しました。阿倍川町のお久く良らといふ不思議な美女の死が、若い八五郎の情熱を掻き立てます。
﹁何しろ、大變な女でした。縊くびり殺されても、前まへ褄づまをピタリと合せて、ふくら脛はぎも見せないんだから、良いたしなみでせう﹂
﹁馬鹿だなア、殺されながら裾を合せる人間があるものか。それは、死んだあとで曲者が直してやつたのだよ。流しや氣きま紛ぐれの殺しぢやない。女の身内の者か、亭主か情い夫ろか、關かゝはりのあるものの仕業だ﹂
﹁あ、成る程ね﹂
﹁感心してやがる。緋ひぢ縮りめ緬んの扱しご帶きで殺して、死骸の裾を直して置くのは、女に未練のある奴の仕業に極まつてるぢやないか。その女の身許や素姓はわかつて居るのか﹂
﹁いづれ玄くろ人うとあがりでせうが、人の妾なんださうで、旦那は赤松院門前町の金貸で、阿波屋浪太郎。近頃上方から江戸へ來た男ですが、こいつは大した金持で、早速人をやつて見ましたが、三日も前から房州へ取立てに行つて留守。相手は小大名か大旗本で、その領地か知行所へ行つたから、急には戻るまいといふことでした。留守は、通ひ番頭の金三郎と、小僧の壽助が預かつて居ります﹂
﹁その他に、繁々來る男はないのか﹂
﹁有りますよ。有り過ぎて困るくらゐで﹂
﹁――﹂
﹁役者の大村喜十郎、こいつはちよいとした二枚目でさ。尤も、田舍廻りの役者で、江戸の檜ひのき舞臺を踏む貫くわ祿んろくぢやありません。男のくせに、ナヨナヨとした大變な野郎で、一名は蟻地獄﹂
﹁それが怪しいのか﹂
﹁怪しいどころの騷ぎぢやありません。その死骸の側に蟻地獄野郎の定ぢや紋うもんの金具をつけた、煙草入があつたんだから、文句はないでせう。唯煙草入があるだけなら、三日前に忘れて行つたといふ言ひのがれもあるわけだが、洒落れた煙草入の、煙きせ管るは拔いた上に、雁がん首くびに煙草まで詰めてあつたんだから、こいつは文句はないでせう﹂
﹁その煙管を見たいな﹂
﹁念のために持つて來ましたよ。見て下さい、この通り﹂
八五郎は懷中から、女持見たいな、紫色の懷中煙草入を取出しました。煙管を拔いて見ると、吸口だけは銀を張つた、これも華きや奢しやなものですが、雁首にはチヤンと、刻みの細かい良い煙草が詰めてあるのです。
﹁八、俺もお前も、尻から煙の出るほど煙草を好きだが、この煙管の煙草の詰めやうを變だとは思はないか﹂
﹁へエ﹂
八五郎にはまだ見當がつかない樣子です。
﹁こんなに固く詰めた煙草は、吸へるかどうか、試して見るが宜い﹂
﹁?﹂
﹁大村喜十郎とやら、田舍廻りでも、二枚目の好い男の役者に違ひあるまい。それが、こんなに固く詰めた煙草を、頬つぺたを凹へこませて吸ふわけはないと思ふが、どうだ﹂
﹁へエ﹂
﹁これは、煙草を呑まない素人の詰めた煙草だよ、――大村喜十郎は下手人ぢやあるまいよ。もう一人の男といふのは誰だ﹂
平次は坐つたまゝで、もう一人の無實を救ふのです。
﹁もう一人の男は、鐵之助といふ遊び人で、松前鐵之助と違つて、股また旅たびの鐵之助といふちよいと苦み走つた、好い男の小博ばく奕ちう打ちで﹂
﹁それを當つて見たか﹂
﹁昨夜のうちに突きとめて、見張らせて置きました。近所の賭と場ばにもぐつて、良い加減勝ち續けて居ましたよ。宵から目が出たさうで﹂
﹁人殺しをした足で賭場にもぐつて、勝ち續けるのは、大した膽つ玉ぢやないか﹂
﹁そんなものですかね﹂
﹁もう一人、怪しいのがあつた筈ぢやないか、誰だいそれは﹂
﹁下女のお紺こんといふ女で、――殺された主人のお久く良らと同年輩の二十二三ですが、こいつは、飯を炊たいて掃除をする外には能のない、恐しいぼんやりで、お久良のところへ、不斷どんな男が出入りするか、それも覺えちや居ません﹂
﹁その女はどうした﹂
﹁お久良に小遣を貰つて一日のんびりと近所の叔母さんのところで遊んで來たさうで、大騷ぎの最中に、ぼんやり戻つて來ましたよ﹂
﹁もう宜い。ところで、お前は辰三に預かつた、女持の紙入を持つて居るだらうな﹂
﹁これですよ﹂
八五郎は又懷中を探さぐつて、手拭に包んだ、紙入を取出し、平次の掌ての上に載せました。それは、エメラルド・グリーンの素晴らしい呉ご絽ろ、翡ひす翠ゐの息づくやうな飾りが付いて、金無垢の小ハゼで留めた、平次も見たことのないやうな、恐ろしく豪華なもの。中を開くと、玩具のやうな純銀の化粧道具が三つ四つ、眞ん中の深いポケツトに、小さく疊んだ半紙の遺かき書おきが入つて居るのです。
疊の上に延べると、下手な字をクネクネと書いた、短かい文句、
わけがあつて、死なねばならぬこのいのち、あと/\のこと、よろしく頼み入り參らせそろ。 久良。
﹁こいつはお前男の筆て跡だぜ﹂
﹁さうでせうか﹂
﹁その上文句も、小唄の文句のやうで、身につまされるところはないぢやないか。お前が擔かつがれたんでなきや、辰三が一杯喰はされたに違ひない﹂
﹁だつて親分、觀音樣の境内ですつた紙入の中から出たんですぜ。巾着切にすられるのを當て込んで、惡いた戯づら書きの遺書を用意するものもないでせう﹂
﹁ムキになるなよ。遺書などといふものは、遊び半分に書くものぢやねえ。ところでと、おや、おや﹂
平次はその豪勢な紙入を調べて居りましたが、急に居住居を直しで、外から射して來る朝の陽射しに、縫目などを透して熱心に調べ始めました。
﹁どうしたんです、親分﹂
八五郎はのぞいて見ました。
﹁珍らしい細さい工くだよ。この紙入には、もう一つ物を入れる場所があつたんだ。裏が疊み込みになつて居て、それを開くとそれ﹂
﹁へエ?﹂
﹁人に見られ度くない物を持つて居る女などは、斯うした隱れた物入れのある紙入を持つて居たのだらう。おや、こいつは、何んか、厄やつ介かいなことらしいよ﹂
﹁――﹂
隱れた紙入のポケツトから取出したのは、これも薄く小さく疊んだ雁がん皮ぴで、その上には、
心覺えのため記し置くものなり、人に勿 言ひそ。
十二月二日、 二百八十兩 (なめくぢ)
同じく、 二十七兩
二月みそか、 三十八兩
四月五日、 三百兩 (蛇)
六月十九日、 十五兩
九月十日、 六十九兩
十月一日、 百四十五兩 (蛙)
久良
十月二十日、 百五十兩 (蛙)十二月二日、 二百八十兩 (なめくぢ)
同じく、 二十七兩
二月みそか、 三十八兩
四月五日、 三百兩 (蛇)
六月十九日、 十五兩
九月十日、 六十九兩
十月一日、 百四十五兩 (蛙)
これだけのことが、かなりの達筆で書いてあつたのです。
﹁これは大變ぢやありませんか、親分﹂
﹁大變な匂ひがするよ。それに、半紙に書いた遺書の下手な字と、この雁がん皮ぴのうまい字とは大變な違ひだ。此方は確かに女の筆て跡だ。お久良が心覺えに書いたものだらう﹂
﹁すると、どういふことになりませう﹂
﹁この金は、八口で、大した額たかだ。この金高に覺えはないか﹂
﹁覺えがあるやうですね。去年あたりから江戸中を荒した、黒こく旋せん風ぷうとか言つた押込み、まだつかまらないやうですが、その稼ぎは、こんなことになりやしませんか﹂
﹁黒旋風――なるほど、それに相違あるまい。御南の書き役に調べて頂けば、すぐわかる。――あの泥棒は、五六人の人を害あやめて居るし、奪とつた金も千兩を越すだらう﹂
﹁氣に入らねえ曲者ですね。手向つたり、逃げ出さうとする者は、女子供の見境ひもなく斬つて捨てるといふ、恐しい惡黨で、――﹂
﹁いづれにしても、容易ならぬことだ。お前一人には任されない、出かけようか﹂
﹁何處へ行くんで﹂
﹁先づ阿あ波は屋やだ。それから大村喜十郎と、鐵之助と、一と通りお久良と關かゝはりのありさうなのを調べる、――それから、誰か一と走り、御奉行所へやつて見よう﹂
﹁巾着切の辰三は放つて置いても構ひませんか﹂
﹁斯うなるともう、巾着切などに取合つちや居られないよ。――と言つても、辰三は何にかの役に立つかも知れない﹂
﹁へエ、面白くなりさうですね﹂
八五郎はすつかり張りきつてしまひました。
四
平次は近頃になく緊張して居りました。 八五郎とつれ立つて、先づ一番に、其處からあまり遠くない、門前町の阿波屋浪太郎の家を覗くことにしました。 阿波屋の家は小さいが、よく纒まとまつた、贅澤な家でした。格子づくりのしもたやで、深々と暮して居るのは、金貸といふ商賣のせゐでせう。 格子の外から聲を掛けても、なか〳〵人が出て來ないので、中へ入ると、 ﹁入らつしやいませ、何んか御用で?﹂ 四十前後のむづかしい顏をした男が、とがめるやうに、顏を出すのです。 ﹁先さつ刻きから隨分聲をかけたぜ。其處に居るなら返事ぐらゐはしても宜からう﹂ 八五郎は向かつ腹を立てて、喰つてかゝります。 ﹁へエ、押賣りや押借りがはやるんで、お名前のわからないうちは、表を開けないことにいたして居りますが、――今日はうつかり表の格子を閉めなかつたので――﹂ 男はにんがりともせずに、斯こんなことを言ふのです。 ﹁何を言やがる。押賣りや強ゆす請りと間違へられて、たまるものか。昨ゆう夜べは使ひの者をよこしたが、今日は直々にやつて來たんだ。向柳原の八五郎だよ――此處に居るのは、明神下の錢形の親分だぜ。え、おい﹂ 八五郎は精一杯肩かた肘ひぢを張るのです。 ﹁相濟みません。でも、私共は後ろ暗い稼業をして居るわけぢやございませんので﹂ ﹁な、何んて言ひ草だ。お前の主人が飼つて居る妾のお久く良らが、昨夜人手にかゝつて殺されたんだぜ﹂ ﹁そんなことださうで。あの女には手を燒いて居りましたから、主人も存外ホツとするかもわかりません。――丁度三四日前から、房州の方へ取立てに出かけまして、あと三日もしないと戻りませんが――﹂ ﹁ちよいと、家の中を見せてくれ﹂ 八五郎の後ろから、平次が顏を出しました。 ﹁へエ、御覽下さるのは構ひませんが、主人が留守ですから、そのおつもりで﹂ ﹁――﹂ 平次はこの番頭の苦い顏を尻目に、ズイと通りました。まことに狹い家ですが、よく整とゝのつて、何から何まで一と目に見られるやうになつて居り、商賣柄の大金などは、此處には置いてない樣子です。 ﹁商賣の方はどうだ﹂ 平次はさり氣なく訊きました。 ﹁つぶれが多いので、引締めて居ります。新しい口は大抵お斷りで、へエ﹂ ﹁至つて無人のやうだな、女手はないのか﹂ ﹁主人は女嫌ひで、私と小僧だけでございます。尤も主人がお歸りになれば、私はツイ近所の自分の家へ還かへりますが、お留守の間は此處に寢泊りして居ります﹂ ﹁小僧さんは﹂ ﹁あの通り、あの縁側で居ゐね寢むりをして居ります。まことに、他愛もない子で﹂ それは十三、四の白しら雲くも頭あたまで、ひどく智能の遲れた、間延びのした小僧です。 庭を覗くと、生垣に三尺の木戸があつて、嚴重に大きな錠がおりて居り、其處から家と家の間を縫つて、裏へ出られさうにも見えますが、ガラクタが一杯に塞ふさがつて、通せん坊をして居るのです。試みに降りて見ましたが、錠前は錆さび付いて力づくでも開かず、ガラクタも何年越しの埃ほこりを冠つて、ちよいとの手間では除けられさうもありません。 ﹁八、歸らうか﹂ 平次は見るだけのものを見ると、外へ出ました。 ﹁この裏の元鳥越に、巾着切の辰公が居ますよ。誘さそつて見ませうか﹂ ﹁宜からう﹂ グルリと町を一と廻り、丁度反對側の路地の奧に、蛆うじの湧きさうな、辰三の獨り住居がありました。 ﹁辰、居るか﹂ 八五郎が聲を掛けると、 ﹁おや、八五郎親分、昨夜の今日で、すつかり朝寢をしましたよ。待つて下さい﹂ ゴトゴトとやらかして、暫らくして出て來たのを見ると、一應は顏見知りの平次も、この男の見すぼらしさに、ものの哀れを感ずる程でした。 ﹁錢形の親分だよ﹂ ﹁へ、存じて居ります。この邊に住んで、錢形の親分を知らないものはありやしません﹂ なか〳〵のお世辭ですが、眇めつ目かちで、跛びつ足こで少し傴せむ僂しで、まことに見る影もありません。 それに、今起きたばかりといふのに、惡い方の左の眼は眼やにだらけ。 ﹁お前は旅役者の大村喜十郎の家を知つてるだらうな﹂ ﹁へエ、存じて居ります。ツイ三味線堀で﹂ ﹁案内してくれ﹂ ﹁へエ﹂ ﹁ところで、此處から裏へ出る近道はないのか﹂ ﹁金貸の阿波屋の主人が、癇かん性しやうで、用心が惡いとか言つて、野良犬の通り道まで塞ふさいでしまひましたよ﹂ ﹁そいつは念入りだな、――尤も、その壁をつき拔けさへすれば、阿波屋の裏口あたりへ、バアと出られさうだな﹂ ﹁冗談なすつちやいけません。家はこの通り痛んで居ますから﹂ 壁を叩く平次の拳こぶしを、辰三はあわてて止めました。 そこから三味線堀へは一と丁場、役者の大村喜十郎の長屋はすぐわかりました。 ﹁この奧ですが﹂ 辰三の教へてくれた路地を入ると、これはいくらか優ましの小ぢんまりした住居で、主人の喜十郎の外に、召使の婆さんが一人、これもヨタヨタして居ります。 ﹁私が大村喜十郎でございますが﹂ 八五郎が訪づれると、擬まがひものらしい唐たう棧ざん、眉の薄い、顏の長い、鉛えん毒どくで青白くなつた男が、丁寧に招じ入れました。 ﹁私は明神下の平次だが、――親方はこの煙草入を知つてるだらうな﹂ ﹁あ、錢形の親分さん。その煙草入は間違ひもなく、私の持物でございますが﹂ ﹁そのお前の煙草入が、阿倍川町のお久く良らの死骸の傍に落ちて居たのだぜ﹂ ﹁お久良が殺されたことは、今朝聽きましたが、その側に、私の、私の﹂ 大村喜十郎はすつかり青くなつてしまひました。 ﹁どうした、親方。言ひわけがあるのか﹂ ﹁その煙草入は三日前、淺草の仲見世ですられた品でございます。夕方の人混みの中で、相手の人相にも氣がつきませんが﹂ ﹁ところで、物事を隱かくさずに、正直に言つてくれ。お前はお久良と親しくして居たさうだな。近所の衆は皆知つて居るぜ、隱すな﹂ ﹁へエ﹂ ﹁そのお久良が殺されたんだぜ。やくざの鐵之助でなきや、お前だらう――と、驚くな、世間ではさう言つて居る﹂ ﹁と、とんでもない、私にそんなことが――尤も、お久良殺しの下手人なら、私は見當が付いて居ります。――恐ろしい人間でございます﹂ ﹁それを言つてくれ﹂ ﹁待つて下さい。私は、それを申し上げるのは命がけで﹂ 大村喜十郎は、入口の格子に手をかけて、用心深く外を眺めましたが、サツと顏色を變へて引つ込み、それつきり田たに螺しのやうに默り込んでしまつたのです。 ﹁さア、誰がお久良を殺したのだ。それを言つてくれ﹂ ﹁――﹂ ﹁わけもないことぢやないか﹂ ﹁――﹂ 大村喜十郎は急に默り込んでしまひましたが、そつと婆やさんが平次に茶を出した塗ぬり盆ぼんの上に指先で、
――今夜、そつと申上げます。――
と、怪しい假か名なで書くのです。
この上は、何んと説いても口を割りさうもないので、平次と八五郎は諦めて、路地の外に出ました。
﹁やくざの鐵之助は――﹂
﹁これも、ツイ其處で﹂
路地の入口に待つて居た辰三は、心得て犬つころのやうに先に立ちます。跛びつ足こで眇めつ目かちな犬の樣に、それはいかにもみじめな姿でした。
鐵之助は喧嘩早さうな猛烈な男でしたが、昨夜すつかり儲けて良い心持になつて居り、お久く良らの殺されたことにも、あまり關心は持つて居ない樣子です。
﹁あの女は、やたらにピンシヤンするからですよ。青あを瓢べう箪たんの役者野郎に夢中になつて、働き者の旦那の阿波屋を大事にしないから、あんなことになるんで﹂
と言つた調子。
﹁お前は、阿波屋の主人と懇こん意いにして居たのか﹂
﹁お妾めかけにちよつかいを出す男なんか、相手にするわけはありません。でも、太つ腹で、働き者で、大した旦那でしたよ。身體の弱いのが玉に疵きずで、いつでも頭づき巾んを冠つて居ましたが、町内では夏頭巾と綽あだ名なされたくらゐで﹂
﹁お前は昨ゆう夜べ、何處に居た﹂
﹁冗談言つちやいけません。あつしかお久良を殺すものですか。もう一と押しでなびきさうになつて居たんですもの﹂
斯う言つた鐵之助です。
﹁でも、念の爲に――﹂
﹁佐竹の賭と場ばで、夕方から曉方まで、張つて張つて張り通しましたよ。あんな勝目は開けいびやく以來で、一と晩に二十五兩と勝ちましたぜ。誰にでも訊いて下さい、小便に立つのが惜しかつたくらゐで﹂
まことにざつくばらんです。
それから三人は、阿倍川町のお久良の家にやつて來ました。町役人と近所の衆が、どうやら入棺をすませ、お通夜の支度までしてくれましたが、身寄も知合ひもないものか、引取手は言ふ迄もなく、線香をあげに來る者もありません。
﹁元鳥越の阿波屋さんの世話になつて居ると聽いて、二度も三度も人をやりましたが、主人が留守だとかで、覗いて見るものもありません。金持などといふものは、薄情なものですね﹂
家主の親爺が、平次に説明するのです。それにしても、その頃の江戸の町人連は、今の人が考へるやうな冷れい淡たんなものではなく、五人組や月番が主になつて、何くれと世話をして居ります。
﹁阿波屋さんの來るのを、見かけた人もあるだらうが、口はきかなかつたのか﹂
﹁飛んでもない。隱れるやうにお通ひで、顏が合つても、そつと反そむけて通つたくらゐです。でも立派な旦那でした。身みな扮りも顏も。身體が弱いさうで、夏も頭づき巾んを冠つて居ましたが﹂
近所の人達は口を揃へて斯う言ふのです。
下女のお紺は二十二三、少し足たりない女とは聽きましたが、全くの白はく痴ちで、使ひ走りも覺束なく、炊すゐ事じと掃除が精一杯、こんなのは反つて、お妾の下女には打つてつけかも知れません。親は巣鴨の百姓、近所に叔母があるので、その後見で奉公して居ると言つた心細い女です。