一
江戸開府以來の捕物の名人と言はれた錢形の平次が、幽いう靈れいから手紙を貰つたといふ不思議な事件は、子分のガラツ八こと、八五郎の思ひも寄らぬ縮しく尻じりから始まりました。 ﹁親分、近頃は暇ですかえ﹂ ﹁なんて挨拶だ。いきなり人の前へ坐つて、懷ふと手ころでをしたまゝ長い頤あごを撫でながら――暇ですかえ――といふ言ひ草は?﹂ 平次は脂やに下さがりに噛んだ煙管をポンと叩くと、起き上がつてこの茫ばうとした子分の顏を面白さうに眺めるのです。 ﹁錢形の親分が、この結構な日和に籠つて、寢そべつたまゝ煙草の烟けむりを輪に吹いてゐるんだから、暇で〳〵仕樣がないにきまつて居るぢやありませんか﹂ ﹁馬鹿だなあ、だからお前はまだろくな仕事が出來ないのだ。斯う寢そべつて煙草の烟を輪に吹いてゐる時こそは、こちとらが一番忙しく働いて居る時なんだ﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁クルクル動いて居る時は、ありや遊びさ。斯う呑氣さうにして居る時こそ、ありつたけの智慧を絞つて、惡者と一騎討の勝負をして居る時だよ﹂ ﹁へエ――、一體その惡者は何んな野郎なんで?﹂ ﹁大層感心するぢやないか、あんまり眞に受けられると引つ込みが付かなくなるが、なアに、そんなたいした相手ぢやない。お前も知つての通り、深川島田町の佐さは原ら屋の支配人殺しの一件だが、下つ引任せでまだ下手人が擧らねえから、いよ〳〵俺も御輿を上げなきやなるまいと思つて居るところよ﹂ ﹁實はその事なんですがね、親分﹂ ﹁何んだ、いきなり膝なんか乘り出して﹂ ﹁その佐原屋の騷動とは、一萬兩とかの金の行方が絡からんでゐるさうぢやありませんか﹂ 八五郎の眼の色は少し變つてをります。 ﹁それがどうしたといふのだ﹂ ﹁あつしは古いことはよく知りませんが、何んでも五年前に死んだ佐原屋の主人甚五兵衞が隱して置いた、一萬兩といふ大金の在あり所かを嗅ぎ出したので、支配人の專三郎が殺されたに違ひない、――首尾よく下手人を捉まへて、一萬兩の金を搜し出せば、千兩の褒美を出す――つて、あの店の采配を振つてゐる、主人の弟の小あづ豆きざ澤は小六郎といふ浪人者が言つたさうぢやありませんか﹂ ﹁フーム﹂ ﹁先刻お神樂の清吉の野郎が眼の色を變へて飛んで行きましたよ。﹃千兩の褒美はこの清吉がきつと取つて見せる、濟まねえが八兄あに哥い後で文句は言はないでくれ﹄つて、癪しやくな言ひ草ぢやありませんか。だからあつしは、親分が暇で仕樣がないなら、一番乘り出してその千兩の褒美をせしめ――﹂ ﹁馬鹿野郎﹂ ﹁へエー﹂ いきなり馬鹿野郎を浴びせられて、八五郎は首を縮めました。この時平次は三十を越したばかり、子分と言つても八五郎は二つか三つ歳下といふだけのことですが、智慧も貫くわ祿んろくも男前も、違ひ過きる﹇#﹁過きる﹂はママ﹈ほど違つて居るのでした。 ﹁金を目當の仕事なんぞ、眞つ平御免蒙るよ。お上の御用は勤めてゐるが、褒美の金なんかに釣られてウロウロするやうなそんな野郎は大嫌ひだ。さつさと歸つてくれ、歸らなきや野郎ゴミと一緒に掃はき出して鹽をブツかけるから﹂ 平次は以ての外の機嫌でした。尤もこんなことをポンポン言ふ癖に、寛々と胡あぐ坐らなんかかいて、ニヤリニヤリと笑つてゐるのです。この秘藏の子分のガラツ八が、腹の底から金が欲しくてウロウロしてゐるのでないことはよくわかつてゐるのでした。 ﹁驚いたなア、あつしは褒美の金が欲しくて言つたわけぢやありませんよ。眼の色を變へて飛んで行く、お神かぐ樂らの清吉の野郎が癪にさはつたんで。――それに千兩ありや、親分に何時まで貧乏させることはないし﹂ ﹁それが餘計だよ。馬鹿だなア、俺は醉狂で貧乏して居るんだ。お前なんかに不ふび憫んを掛けて貰ひたくねえ﹂ ﹁それからもう一つ。佐原屋の後見で、先代の義理の弟小豆澤小六郎といふ浪人者は、あつしとは懇意なんで﹂ ﹁浪人者とお前がかい﹂ ﹁浪人者といつても、すつかり町人になり濟まして居ますよ。二三年前から品川の沖おき釣づりで心安くなつて、竿さを先三尺の附合ひで﹂ ﹁竿先三尺の附合ひといふ奴があるかい﹂ ﹁へツ、柄つか先三寸の洒しや落れで﹂ ﹁馬鹿だなア﹂ ﹁これは二た月も前のことなんですが――小豆澤小六郎といふ浪人者が言ふんですよ。先代の主人が隱した一萬兩といふ金が出て來ないうちは、佐原屋に騷動が絶えない、金の祟たゝりといふのだらう。錢形の平次親分のやうな智慧の逞たくましい人間に來てもらつて、なんとかしてこの金を探し出したい――と、さう言つて居ましたよ﹂ ﹁フーム﹂ ﹁その金が祟つて、又支配人の專三郎が殺されるやうなことになつたぢやありませんか﹂ ﹁――﹂ ﹁だから親分、ちよいと出かけて行つて――﹂ ﹁まア止さう。一萬兩なんて金は、天井裏や床下に隱し了はせる代物ぢやねえ。いづれ時節が來れば出るだらう。――が支配人殺しは俺も考へて居るんだ。あんまり手際がよくて、下つ引を二三人やつたくらゐぢや下手人の見當も付かないが、これは放つて置くわけに行かない﹂ ﹁だから親分﹂ ﹁斯うしようぢやないか、今まで俺が聞き出した事は皆んなお前に話してやつた上、何も彼もお前に任せて俺は手を引く。その上下手人を縛らうと、千兩の褒美を取らうと、お前の腕次第といふことにしてはどうだ﹂ ﹁本當ですか、親分﹂ ﹁誰が嘘を言ふものか、褒美が附いて居なきや、俺がやらうと思つて、隨分念入りに調べさせてあるよ。これだけのことをしてやつて、それでもお神樂の清吉に負けたら、坊主にでもなるが宜い﹂ ﹁勝つたら、親分﹂ ﹁千兩の褒美で長屋でも建てるんだね、岡つ引よりは家やぬ主しの方が柄に合ひさうだぜ。嫁は俺が世話してやらア﹂ ﹁誰です、親分。良い心あたりがありますか﹂ ﹁煮にう賣り屋のお勘子よ――あの娘は何か藝當があるんだつてね。寢小便と癲てん癇かん﹂ ﹁止して下さいよ、親分﹂ 二人はそんな冗談を言ひながらも、仕事の打合せは進行させました。二
深川島田町への道すがら、錢形平次は八五郎のために、事件の經いき緯さつを五年前主人佐原屋甚五兵衞が殺された時に遡さかのぼつて話しました。 ﹁佐原屋といふのは、深川の材木問屋でも一二と言はれた家柄で、店の株、諸國の山元への貸金、材木置場に積んである材木などの外に小判で一萬兩以上も持つて居るといふ評判だつたが、今から五年前、主人の甚五兵衞は何を考へたか、その現金を一人でコソコソと隱し始めた。多分六十を越しても子供のない甚五兵衞は、自分の命や金を誰かに狙はれて居ることに氣が付いたのだらう﹂ ﹁金持も樂ぢやありませんね﹂ 八五郎は無駄を言ひました。 ﹁默つて聽け、お蔭樣でこちとらは十兩と※まと﹇#﹁纏﹂の﹁广﹂に代えて﹁厂﹂、277-4﹈まつた金を持つたこともないから、懷ろ手をして江戸の町が歩けるんだ﹂ ﹁違げえねえ﹂ さう言ふ江戸の町はもう秋でした。赤とんぼのスイスイと飛ぶ河かし岸つぷ縁ちを、襁おし褓め臭い裏通りを、足早に深川へと廻りながら、平次の話は續くのです。 ﹁その佐原屋甚五兵衞は、五年前の秋――丁度今頃だ、永代の下から、水死人になつて引揚げられたんだ。肋あば骨らぼねが折れて、水を呑んで居なかつたので、人に殺されてから水へ投り込まれたと解り、いろ〳〵調べると、甚五兵衞の用箪だん笥すの抽ひき斗だしから、書置きが出て來た。それを見ると、﹃私が若し人に害あやめられて死ぬやうな事があつたら、二人の甥をひを調べて貰ひ度い、近いうちに私を殺す者があるに違ひないと思ふが、下手人は甥おひの專三郎でなければ彦太郎だ。佐原屋の跡は義弟の小豆澤小六郎が女房の後見をして暫く立て、五年經つた後で二人の甥のうち、善人と見極めの付いた方に家かと督くを讓るやうに﹄と書いてあつた﹂ ﹁念入りですね﹂ ﹁佐原屋甚五兵衞は、時々曲者に附け狙はれたらしいが、それが、二人の甥の何方かに似て居たんだらう。――兎も角、甚五兵衞が死んで見ると下手人の疑ひは眞正面から專三郎と彦太郎に懸かゝつた。二人共その頃三十五、六で、二人共身體は達者だし、慾も相應に深さうだ。が、何が幸せになるかわからないもので、その晩專三郎の方は風邪を引いて早寢をして、自分の部屋から一歩も外へ出ないと解つたのに、彦太郎の方は町風呂へ行つて碁會所へ顏を出して、八幡前の矢場を覗いて歩いたのを多勢の人が見て居る。伯父の甚五兵衞が八丁堀へ行つた歸り提ちや灯うちんをつけて永代橋へ差しかゝつたところを、いきなり飛び出して撲なぐり殺し、死骸を大川へ投り込んだと見られて證あかしが立たない﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁併しかしどんな調べにも、彦太郎は知らぬ存ぜぬの一點張りで、伯父殺しを白状しなかつたのと、一萬兩の行方も知つてゐなかつたので、罪の疑はしきは罰ばつせずとやらで、三宅島へ遠島になつた﹂ ﹁變なお裁さばきですね﹂ ﹁お上のお情けだよ。遠島にして置けば、萬一眞ほん當とうの下手人が擧つたとき島から呼び戻せる﹂ ﹁成程ね﹂ ﹁ところが、その船が三宅島へ着いて間もなく、彦太郎は死んだといふ通しら知せが島役人から屆いてゐる﹂ 平次の話が次第に佳境に入る頃、二人は丁度永代橋を渡つてをりました。ガラツ八は悉こと〴〵く感に堪へて、 ﹁それから何うしました﹂ 昔話を聞く子供のやうに續きをせがみます。 ﹁それつきりさ。それから何しろ五年も年月が經つて居るが一萬兩の金は相變らず出て來ない。――其の邊のことは小豆澤とか言ふ浪人者からお前も聽いた通りだ﹂ ﹁擽くすぐつたいやうな話ですね﹂ ﹁五年經てば罪のなかつたもう一人の甥の專三郎が、佐原屋の跡取りになるわけだが、いよ〳〵先代の命日が明後日といふ日、あの騷ぎが始まつた﹂ ﹁因いん縁ねんですね﹂ ﹁それを話す前に、先代の主人甚五兵衞が死んだ後の佐原屋のことを少し話して置かなきやなるまい。先づ島流しになつた甥の彦太郎には十二になる娘が一人あつた。親は親でも、小さい者まで憎しみを掛けては非道だといふ小豆澤小六郎の計らひで、親類の反對を押しきつて佐原屋に引取つて育ててゐる。さすがにもとは武士だけのことはあるよ。その娘はもう十六くらゐだらう、お筆とか言つて飛んだ綺麗な娘こださうだ﹂ ﹁綺麗でさへあれば島流しの娘だつて獄門の娘だつて宜いぢやありませんか﹂ ﹁お前はさうだらうが、世間がさうは行かないよ。それは兎も角、佐原屋は後家のお由――これはもう五十七八だが、それが女主人で後見は義弟の小豆澤小六郎、甥をひの專三郎が支配人で昔の通り繁昌してゐる﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁ところが近頃支配人の專三郎が急にソハソハして、女房のお倉に近い内に大金が入るやうな事を言つて居たさうだ――多分一萬兩の隱し場所を嗅ぎ付けたんだらう。それを取出すのに手間取つて居るうち、――一昨日の晩、忍び込んだ曲者に刺さされて死んだ。それはお前も知つての通りさ。尤も二三日前、專三郎の味みそ噌し汁るの椀の中に、石見銀山の鼠捕りが入つてゐたさうだが、味が變だからと一と口で氣が付いて、この時は危ない命を助かつたさうだ﹂ ﹁下手人は、親分?﹂ ﹁まるつきり見當もつかないよ。兎も角行つて見るが宜い﹂ そんな事を言つてゐるうちに、二人は島田町の佐原屋の大きな構への前に立つてをりました。三
﹁八、家中の者に一と通り逢つて見るが宜い。俺は此處からすぐ歸るから﹂ ﹁そんな事を言はずに、親分﹂ 八五郎は少し心細くなつた樣子ですが、平次は何にか口實を設けてこの日當りのよくない子分に一とかどの手柄を立てさせたかつたのです。 ﹁千兩の褒美が怖いわけぢやあるめえ、お神かぐ樂らの兄哥が見て笑つて居るぞ﹂ さう言はれると、強ひて平次を引留めることも出來なくなりました。 ﹁おや、八兄哥、錢形の親分も一緒ぢやなかつたのか﹂ ヌツと店に顏を出したのは、お神樂の清吉でした。 ﹁いや、今日は俺一人だ、――ところで何うだい下手人の當りは?﹂ ﹁まア行つて見るが宜い。俺はそれより先に一萬兩の方を搜さがすよ。材木置場を一と通り見るだけでも、三日や四日はかゝるだらうから﹂ 清吉はさう言つて、草ざう履りを突つかけるのももどかしさうに、堀割を隔へだてた材木置場の方へ行きました。其處へガラツ八に先鞭べんをつけられるのを恐れる樣子です。 ﹁親分さん、御苦勞樣で御座います﹂ 代つて八五郎を迎へてくれたのは、老番頭の藤六といふ六十男でした。乾し固めたやうに皺しわが寄つて、一と握りほどの小さい老爺ですが、何んとなくきかん氣らしく、昔は隨分荒つぽい人足を叱り飛ばして、江戸で何番と言はれた材木屋の店を預かつた人間でせう。 ﹁あつしは神田の八五郎だが、飛んだことだつたね。ところで、支配人の專三郎が死ねばこの身上は誰が繼ぐことになるんだ﹂ ﹁左樣でございます。いづれ御親類方の御相談の上といふことになりませうか、後見人の小あづ豆きざ澤は樣はもとがもとですから、町人の家を繼ぐのは嫌だとおつしやいますし、多分專三郎樣の伜の專之助樣か、それとも――﹂ ﹁それとも――﹂ ﹁彦太郎樣の娘のお筆さんといふことになりませう﹂ 島流しになつて死んだ彦太郎の娘のお筆が佐原屋の跡取りになるといふことは、八五郎には想像も出來ないことですが、老巧な番頭の藤六が斯う言ひきるのは仔しさ細いのあることでせう。 ﹁專三郎の殺された部屋といふのを見せて貰はうか﹂ ﹁斯うお出で下さいまし﹂ 店を通つてお勝手や納戸や女中部屋を左右に見て行くと、廊下續きながら別べつ棟むねに一つの建物があり、其處に後家のお由、甥の專三郎夫婦、その伜の專之助、死んだ彦太郎の娘のお筆などが住んで居るのでした。 さすがに商賣の良材をふんだんに使つて、少し手が混み過ぎて下品ではあるが、一應も二應も凝こつた家で、庭の掃さう除ぢもよく行屆き、向うの方には銘めい木ぼくを貯たくはへて置く物置やら土藏やら、滅多に開けたことのない門などが見えてをります。 專三郎夫婦の部屋といふのは裏の中二階になつて居て、五六段の廣い梯子段を踏まなければ入れず、その梯子段の下には、伜の專之助の部屋や、後家のお由の部屋があり、母家から廊下傳ひに來たにしても、誰にも氣が付かれずに、そつと忍び込むことは容易ではありません。 ﹁戸締りは?﹂ ﹁この離はな屋れは先代の主人が念入りに繪圖を引いた建物で、戸締りは恐ろしく嚴重でございます――一昨日の朝も、戸締りには何んの變りもなく、内からよく締めてあつたさうでございます。死骸を見付けたのは、階し下たに寢てゐた息子の專之助さんで、父親がいつになく遲いので、中二階を覗いて見るとあの騷ぎでございます﹂ 老番頭の説明を聽きながら中二階に上がると、 ﹁これは〳〵﹂ 一番先に顏を出したのは、浪人者の小豆澤小六郎でした。その爲に武士を棄すてたといふひどい跛ちん者ばで、身體も至つて華きや奢しや、町人のやうに腰の低い、縞物などを着た、至つて碎けた人柄です。尤も髮かみはさすがに武家風で、一刀を提げて居るのは、嗜たしなみを忘れないためでせうか。 ﹁おや、小豆澤樣、飛んだところでお目にかゝります。御災難で﹂ 竿さを先三尺の附き合ひらしく、八五郎は愛想よく言ひました。 ﹁全く災難だよ。だから私は前から一萬兩の金を探してくれるやうに頼んで置いた筈だが今となつては仕樣がない。――ところで錢形の親分は?﹂ ﹁參りません、――風か邪ぜを引きましてね﹂ 八五郎は淋しい作を入れました。 ﹁いや、八五郎殿で不足を言ふわけぢやない。が、錢形の親分が一と肌脱いでくれさへすれば、五年越し探し拔いた一萬兩の金も、すぐ見付かるだらうと思ふが――﹂ そんな事を言ひながら、八五郎を案内してくれました。 專三郎の殺された部屋といふのは中二階の六疊で、その前は危ふい手てす摺りを取り付けた椽側になり、後ろの方は唐紙を開けると格子を打つた腰高窓の廊下になつて、便所に通ずる狹い梯子段に盡きて居るのでした。 ﹁お神さんは、その晩何處に居ました﹂ ﹁專三郎の女房か――、日本橋の親類へ泊りに行つたよ、――尤もよく專三郎と喧嘩はするが、亭主を殺すほどの大それた女ではない。ハツハツハツ﹂ 小豆澤小六郎は場所柄も辨わきまへず笑ひ出すのです。 ﹁刄物は?﹂ ﹁出刄庖丁さ。殺風景な代物だよ﹂ 二本差の小豆澤小六郎から見れば、出刄庖丁は如何にも愚ぐれ劣つです。 ﹁母おも屋やのお勝手から持ち出したのですね﹂ ﹁その通りだ﹂ ﹁此處からは忍び込めませんか﹂ 八五郎は椽側から危ない手摺に凭もたれて下を覗きました。雨戸は名ばかりで、ろくに締りもなく、地上からの高さはほんの五六尺、踏み臺があれば身輕な者なら隨分忍び込めないこともありません。 ﹁私もさう言つて居るよ――清吉とかいふ男は手摺が腐くさつて居るから、危なくて飛び込めまいと言ふが、あの通り下の土には、箱か何にかを置いた跡があるだらう。出刄庖丁をお勝手から持ち出して、庭傳ひに別べつ棟むねになつて居る此處へ來たとしたら、此處から忍び込む外はあるまい。物置を搜したら、踏臺にした箱くらゐは見付かるだらう。箱の上に乘つて手摺に手が掛りさへすれば、此處へ這ひ上がるのは丈夫な者なら何んでもないことだらう。――これほど念入りに建てた家だが、專三郎は呑氣で此處だけは時々戸締りを忘れて寢る癖があつたらしいよ﹂ ﹁――﹂ 小豆澤小六郎の説明は、如何にも要領の良いものでした。ガラツ八の八五郎は妙に職業的な誇ほこりを傷つけられたやうな氣がして、默りこくつてしまつたのも無理のないことです。 ﹁おや、又あの乞食が來て居る、――おい、誰か居ないか、おい﹂ 小豆澤小六郎が呼ぶと、二三人の男達が驅けて來ました。小六郎が指した木戸の外、この中二階から五間とも離れてゐない路地を、お勝手の方へ蟲のやうに這つて居るのは、見る影もない躄ゐざりの乞食老爺で、罵のゝしりわめく男達の顏を怨うらめしさうに見上げながら、 ﹁殘り物をやるから、時々晝過ぎに來いと御隱居樣が御親切に仰しやつて下さいましたよ。ハイ歸ります。打たなくたつて歸りますよ。南無、ブツブツ、ブツ﹂ 何やら獨り言をいひながら躄ゐざりは裏の方へ逃げて行くのでした。片かた鬢びん火やけ傷どか何んかで大禿はげになつた上、惡い病ひで鼻も頬も潰れたらしく、見る眼も氣の毒なほど痛々しい姿ですが、それでも生活力は旺わう盛せいらしく、馬の草わら鞋ぢを履いた足と手で、思ひの外に早く行きます。 ﹁あれは?﹂ ガラツ八はさすがに見逃しませんでした。 ﹁八幡樣の境内に十年も前から居る乞食だよ﹂ ﹁十年も前から﹂ それでは何んの意味もありません。四
裏の梯はし子ごだ段んを降りると便所で、その先に誰やら人影――。 ﹁あれが專三郎の伜の專之助﹂ 小豆澤小六郎は苦笑ひをしてをります。八五郎にはその苦笑の意味が解り兼ねましたが、やがて眼が廊下の暗さに馴れると、その後ろに寄り添ふやうに立つて居る、若い娘の姿を見付けました。小六郎の苦笑ひの種はそれだつたのです。 ﹁あれは?﹂ ﹁お筆といふのだが、――彦太郎の娘の﹂ 八五郎は何も彼も一ぺんに解つたやうな氣がしました。この敵同士のやうな若い男女――從い兄と弟こ同士の伜と娘が、親が非業に死んだ三日目だといふのに、もう薄暗い廊下の隅に額ひたひを寄せて、何やらひそ〳〵と話しをして居る仲だつたのです。 ﹁お前は專之助といふのだな﹂ ﹁へえ﹂ 若い男は間の惡さうな顏を擧げました。少し青あを瓢べう箪たんですが、お店たな者風の良い男で、精々二は十た歳ち前後でせう。 ﹁親が殺された晩は何處に居た﹂ ﹁自分の部屋にをりました。――御隱居樣の隣りの部屋でございます﹂ ﹁近頃父親の素振りに變つたことはなかつたのか﹂ ﹁へエ――﹂ ﹁お前の父親を怨うらんでゐる者はないか﹂ ﹁一向氣が付きません﹂ ﹁あの晩、何んか物音でも聽かなかつたか﹂ ﹁へエ――、私の部屋の前を通れば氣が付く筈ですが――私は寢付の惡い方ですから﹂ これだけ言ふのが精一杯、あとは何を訊いても一向頼りがありません。 ﹁お前はお筆といふのだね﹂ ﹁え﹂ 八五郎の問ひが娘の方に轉ずると、これは小氣味の良いほどハキハキしてをりました。丸ぽちやの色白で、大きい眼、ほのかなエクボ、愛くるしさが一切のものを救つて、何んとなく四あた方りを明るく幸福にせずにはおきません。 ﹁專之助と何を話してゐた﹂ 八五郎はツイこんな事を訊いて見たくなりました。﹃この大野暮奴﹄自分でそんなことを自分に言ひ聞かせながら。 ﹁何んにも話しやしません﹂ ﹁その手に持つてゐるのは何んだ﹂ ﹁私の部屋にあつたんです。專之助さんが捨てた方が宜いつて仰しやるけれど――﹂ ﹁一寸、見せろ﹂ 八五郎は精一杯の威ゐ儀ぎを作つて、娘の手から紙包みを取上げました。無造作に疊んだのをほぐして行くと中から現はれたのは、八五郎の馴れた眼には、紛まぎれもない石見銀山の鼠捕りと判るではありませんか。 ﹁これを何處から出した﹂ 八五郎は急に嚴きびしくなりました。殺される三日前、專三郎が危ふく石いは見みぎ銀んざ山んの鼠捕りを呑まされるところであつたといふ噂を思ひ出したのです。 ﹁私の部屋にありました﹂ ﹁何時からあつたのだ﹂ ﹁今朝まではなかつたんです﹂ ﹁誰が持つて來た﹂ ﹁解りやしません﹂ ﹁これが何んだか知つて居るだらう、お前は﹂ ﹁いーえ﹂ お筆は大きく眼を見張つたまゝ頭を振るのです。 ﹁お前の部屋を見せて貰ひ度い。宜いだらう﹂ ﹁え﹂ 不承々々のお筆ふでに案内させて、八五郎は薄暗い六疊に入つて行きました。娘らしく何んとなく艶なまめかしい色しき彩さいと、ほのかな匂ひは漂たゞよひますが、調度は至つて粗末で、押入から引出した荷物の中にも、ろくな着物がありません。世間の手前此處に置いたにしても、島流しの娘は矢張り島流しの娘らしく、あまり優待されては居なかつたのでせう。 一と通り葛籠も行かう李りも手箱も見ましたが、何んの變つたこともなく、痛々しくも貧しげなうちにも、何んとなく可愛らしさの溢れる品々は、斯んな殺生なことをしなければならぬ八五郎をすつかり憂いう鬱うつにします。 一應押入の中を調べて八五郎は、そのまゝ唐紙を締めようとして、フト氣が付きました。押入の天井の隅の板が一枚づれてその間に何やら挾はさまつて居るものが見えるのです。 提ちや灯うちんを取寄せてなほも念入りに調べると、それは女物の袷あはせらしく、裾がほんの二寸ばかり、天井板に噛まれて三角に現はれてゐるではありませんか。 裏板をハネ上げて、それを引下ろすと、手に從つて猛烈な埃ほこりと一緒にズルズルと落ちて來たのは、まさに紫むら矢さき絣やがすりの袷あはせが一枚、見ると胸から袖へ、裾へかけて、斑はん々〳〵と黒ずんだ血潮が附いて居るのです。 ﹁あ、斯んなところに﹂ 一番先に口を利いたのはお筆でした。 ﹁この袷はお前のものか﹂ 八五郎は屹きつとなりました。 ﹁えゝどうして斯んなところにあつたんでせう。――まア、氣味が惡い﹂ 血の色を見ると、お筆の顏色はサツと變ります。 ﹁來い、お前にはいろ〳〵聞きたいことがある﹂ 八五郎の手は、お筆の肩にピタリと掛つてをりました。温かいふくよかな肉が波打つやうに顫ふるへて居ります。 ﹁八五郎殿――それは少し殺生だ。お筆はその通り顫へてゐるではないか﹂ 取りなしたのは小豆澤小六郎です。 ﹁いや、これだけ證據が揃つちや﹂ 繩を打たないのが、まだしもこの八五郎の情けだつたのです。 ﹁だが、曲者は外から手てす摺りを越して中二階へ入つて居るのではないかな﹂ 小豆澤小六郎は手摺ばかり氣にして居ります。が、八五郎はもうあの腐つた手摺などを問題にしては居ません。 その時驅け付けて來た下つ引の市助といふ男に、お筆の見張りを頼んで、八五郎はなほもこの調べを續けました。 專三郎の女房――專之助の母親のお倉といふのは、三十七八の身分柄としては少し取濟した口やかましさうな女で、 ﹁あの娘は、父親の彦太郎を島流しにしましたのは、私の配つれ偶あひの專三郎の告白のせゐだと思ひ込んでゐる樣子ですよ。同じ屋根の下に住んでゐても、私なんかには滅めつ多たに口も利きはしません。――伜の專之助なら懇ねんごろにして居るぢやないかつて、――飛んでもない、そんな事があるものですか。伜はあんなに見えても大の孝行者ですもの――﹂ 立てつ續けに喋しや舌べり捲くるので、訊く方では掛引も技巧も要りませんが、その代り恐ろしい出でた鱈ら目めで、父親が死んで三日經たないうちに、お筆の後を追ひ廻して居る伜を、大の孝行者と信じきつて居るといふ大甘さです。 先代の配つれ偶あひ、後家のお由といふのは、五十八といふにしては恐ろしく老ふけた女で、何を訊いてもハキハキした返事も出來ず、亡夫甚五兵衞の死後は、義弟の小豆澤小六郎や、番頭の藤六に任せきつて、何の疑ひもなく阿あ彌み陀だ樣と首つ引でその日〳〵を送つて居ると言つた人柄でした。從つて一萬兩の隱し場所も知らず、佐原屋の財政状態にさへも、何んの關心も持つては居なかつたのです。 ﹁あの晩、何んか物音を聽きませんか﹂ ﹁何んにも聞きませんよ。私はこの通り少し耳が遠いので――﹂ これでは八五郎と雖いへども手の付けやうがありません。 窓から外を見ると、ツイ鼻の先の材木置場で、四五人の人足を指圖して居たお神樂の清吉は、材木の山の側にある、古井戸の蓋を取つて一生懸命覗いてをります。 ﹁あの材木置場も念入りに搜したが、ことに古井戸は今年になつてからでも二度も井戸替へをして居る、あの中には小判どころか古釘もありはしない﹂ 小豆澤小六郎はさう言つて苦笑ひをして居るのでした。五
﹁これだけ證據が揃つても、可哀想であの娘こには繩は打てません。さうかと言つて棄てても置けないから、兎も角親分に相談してからと思つて、町役人に身柄を預けて來ましたよ。どうしたものでせう、親分﹂
ガラツ八の八五郎は、その晩取とり敢あへず親分の錢形平次のところへ行つて、その日の報告を濟ませた上、斯う相談を持ちかけるのでした。
﹁俺にも解らないよ。だが、石いは見みぎ銀んざ山んを手に持つて居たのは可怪しいな﹂
﹁さうでせうか﹂
﹁それから、袷の血はどんな具合だつた﹂
﹁どんな具合と言つても――斯うベタベタとあちこちに附いて居ましたよ﹂
﹁フーム﹂
錢形平次はすつかり考へ込んで居ります。
﹁何處か變なところがあるでせうか﹂
﹁變なところだらけだよ――ところでその浪人者の小豆澤といふのは何處に寢て居るんだ﹂
﹁これは母おも屋やの方で、番頭、手代、下女、下男などと一緒ですが、小豆澤といふ人だけは店の二階に寢てゐますよ――たつた一人で、梯子段の下には小僧が二人、右大臣左大臣のやうに寢て居るんで、夜中にそつと外へ出ることなんか思ひも寄りません﹂
﹁番頭は﹂
﹁女中部屋の隣りで﹂
﹁小豆澤といふ浪人者は、中二階の手てす摺りが怪しいといふのだな﹂
﹁腐つて居ますよ、あの手摺は――北向きですから﹂
﹁でも丁度土の上の跡に合ふ踏臺はあるだらう、物置かなんかに﹂
﹁そんな物はありやしません。一應は搜して見ましたが﹂
﹁少し心細いな﹂
﹁踏臺くらゐあつても、あの手摺へ這ひ上がるのは、猫でなきや子供ですよ。大の男の出來る藝ぢやありません﹂
﹁フーム、まあ宜い、暫くお前に任せて置くとしよう。ところでお靜――酒はあるだらうな、千兩の褒美の前祝ひに一本つけないか﹂
﹁ハイ﹂
若い女房のお靜は次の間から立上がつて、お勝手に行つた樣子でしたが、何んに驚いたか、
﹁あれ――ツ﹂
恐ろしい悲鳴を擧げて、二人の居る部屋に轉げ込んで來ました。
﹁何をしたんだ、騷々しい。素しろ人うと衆しうの娘つ子ぢやあるめえし﹂
﹁でも――水を汲むつもりでお勝手口を開けると、闇の中から怖こはい顏が――﹂
お靜は餘つ程驚いたらしく、まだ動どう悸きの鎭まらぬ胸を押へて顫へて居ります。
﹁怖い顏――冗談ぢやないぜ、暮の家主の顏より外に、俺は怖い顏なんぞ見たこともない﹂
平次は口小言をいひながら、お勝手へ行つて見ました。
﹁お前さん、氣をつけて下さいよ﹂
﹁何をつまらねえ、何處かの野良犬かなんかを見たんだらう――おや變なものがあるぜ﹂
﹁何んです、親分﹂
﹁手紙らしいよ、敷しき居ゐの上に置いてあつたが――﹂
平次は何か白いもの持つて來て、灯りの下に展のべました。
﹁達者な字ですね、――こちとらには讀めさうもない﹂
﹁――何、――何﹂
平次は讀み下して眼を見張りました。手紙といふのは、半紙一枚に達者な細さい字じで書いたもので、その文句は、
そなたの子分八五郎殿は、佐原屋の甥專三郎殺しの下手人として、娘筆を擧げたが、それは飛んだ間違ひであるぞよ。娘筆は潔白 で何んにも知る筈はない。證據となつた石見銀山も身に覺えがないからこそ手に持つて居たのだ。血染の袷も天井に隱してわざとらしく端だけ出して置いたのは不思議ではないか。眞の下手人ならあんなことはせずに、何處かへ取捨てる暇もあつた筈だ。血潮も飛沫 いた血ではなく、染付けた血だ。娘筆が眞の下手人でない證據はまだ/\あるが、このくらゐにして置いても、明智の錢形親分ならわかるだらう。すぐ娘筆を許して、惡人の策略 の裏を掻くが宜い。夢々私の言葉を疑ふまいぞ。
お筆の父 彦太郎の幽靈
斯う書いてあるのです。ひどく人を嘗なめた調子ですが、眞實性が紙面に溢あふれて、八五郎の言葉を聽いて浮んだ平次の疑問を一つ〳〵恐ろしい的確さで言ひ當てたやうでもあります。
﹁親分何んでせう、これは?﹂
﹁三宅島で死んだ彦太郎の幽靈が、江戸へフラフラ來るわけはない。いづれは足のある幽靈の仕業だらうが、それにしちや恐ろしく眼が屆くね﹂
﹁でも親分﹂
﹁今から飛んで行きたいが、それ程のこともあるまい。明日は暗いうちから飛び起きて行くとしようよ﹂
併し、さすがの平次も、この時ばかりは恐ろしい縮しく尻じりをやりました。翌る朝早々と深川の島田町へ行くと、町内は唯ならぬ物のけはひ。
﹁親分方﹂
平次とガラツ八の顏を見たのか早速飛んで來ました。
﹁何うした、何にか變つたことが――﹂
﹁あの娘が見えなくなりましたよ﹂
﹁えツ﹂
﹁お預けのお筆が、夜中に煙のやうに消えてしまひました。八方へ手を廻して見ましたが、何處へ行つたか見當もつきません﹂
六
﹁親分、娘を隱したのは、父親の幽靈ぢやありませんか﹂ 八五郎は其處までは氣が付きました。佐原屋の内外を、一と通り搜し拔いた上、平次と二人、椽側に腰をおろして顏を見合せたのです。 ﹁さうかも知れないが、さうでないと困つたことになる﹂ ﹁?﹂ ﹁娘の命が危ないのだ﹂ ﹁へエ――﹂ 八五郎には何が何やら少しも解りません。 ﹁ところであの手紙は――番頭に見せたのか﹂ ﹁見せましたよ。島流しになつて死んだ彦太郎の筆ひつ跡せきによく似てゐるさうですよ﹂ ﹁そつくりだとは言はなかつたか﹂ ﹁少し違つて居るやうでもあるといふことで――帳面馴れた字は誰のもよく似て居ますからね﹂ ﹁フ――ム﹂ 二人は又顏を見合せました。 ﹁錢形の親分さん﹂ 庭先へチヨコチヨコと入つて來たのは、十三四の賢かしさうな﹇#﹁賢かしさうな﹂はママ﹈小僧です。 ﹁何んだ﹂ ﹁この手紙を置いて行つた者がありますよ﹂ ﹁お前は何んだ﹂ ﹁留とめ吉きちと申します。この家の奉公人で﹂ 平次は忙しく手紙を開きました。昨夜のと同じ半紙が一枚、矢立の墨らしい濁にごつた墨すみ色いろで、
娘筆は惡者にそゝのかされて姿を隱したぞ。これはあらぬ疑ひをかけて、娘の心をかき亂した八五郎親分の罪だ。幸ひまだ永代橋を渡つた樣子はないから、遠くへは行かない筈だ。一刻も早く搜し出せ、手遲れになると娘の命が危ないぞ。早く、早く。
筆の父 彦太郎の幽靈
斯う讀めるのです。今度は文字も亂れ、口調も荒々しく、少なからずあせつて居る樣子で、早く、早くと重ねたあたり全く居ても起つてゐられない焦せう躁さうに驅られて居る樣子です。
﹁八、お前がひどく怨うらまれてゐるぞ﹂
﹁へツ、幽靈に怨まれるのは始めてで﹂
八五郎は龜かめの子のやうに頭を引つ込めました。
﹁女の子に怨まれるのと違つて、こいつは怖いよ﹂
﹁脅おどかしつこなしに願ひませう﹂
﹁だが、これでお筆を隱したのは幽靈でないと解つた。が、さうなると一刻も放つては置けない﹂
﹁何うしたものでせう﹂
﹁あせつても駄目だよ。斯んな時は精一杯落着くことだ。お前は深川中の下つ引を集めて、これだけの事を調べてくれ﹂
﹁へエー﹂
平次の聲は次第に小さくなりました。
﹁佐原屋の身しん上しやうがどうなつて居るか、現か金ねの融ゆう通づう、材木、山元との取引など、仲間に訊きいたら判るだらう。出來るだけ詳くはしく調べてくれ。ことにこの五年の間に何う變つたか、先代の主人の生きてゐる頃と今とどう違つて居るか、それが知りたいのだ﹂
﹁へエー﹂
﹁それから店中の者の身持、貸借の樣子、わけても番頭の藤六と、死んだ專三郎と、後見人の小あづ豆きざ澤はの懷ろ具合が大事だ﹂
﹁親分は?﹂
﹁俺は今晩此處へ泊るかも知れない――店に小僧達と一緒に寢かして貰ふよ。――お筆の行先が判らないうちは、一刻も此處を離れるわけに行かない﹂
﹁あつしは?﹂
﹁俺が頼んだことを手配すれば、歸つても構はないよ。――あ、待つてくれ。永代橋まで一緒に行かう﹂
平次はガラツ八と肩を並べて、永代橋の方へ注意深く歩き出しました。色の淺黒い顏がすつかり緊張して、少し唇くちびるを噛んだやうな表情は、見馴れたガラツ八にも、平次が容易ならぬことを考へて居るのがよく解ります。
﹁あれは何んだ﹂
﹁躄ゐざりの乞食ですよ﹂
平次が指さしたのは、昨日佐原屋の裏へ來てゐた、醜しう怪くわいな躄の乞食老爺でした。
﹁何處に住んでゐるんだ﹂
﹁八幡樣の裏に小さい小屋を拵こしらへて住んでゐるんですつて﹂
﹁何時も此處に居るのか、橋番に訊いて來てくれ﹂
﹁へエー﹂
ガラツ八が飛んで行くと、平次は躄ゐざりの乞食の横に立つて、熱心にその樣子を觀察し始めました。
﹁親分﹂
間もなく戻つて來た八五郎は、平次を片隅に呼んで聲を潜ひそめます。
﹁解つたか﹂
﹁晝のうちは大抵此處に居るやうです。橋番とすつかり心安くなつて、昨夜遲く若い娘が通らなかつたか、そればかり氣にして居たさうで――﹂
﹁あの躄ゐざりの小屋へ行つて見よう﹂
平次は引返しました。八幡樣の裏と言つても少し遠く木立の中に、さゝやかな掘立小屋が建つて居ります。
﹁家搜しするんですか、親分﹂
﹁大名屋敷へ踏み込むのと違つて、氣だけでも樂ぢやないか。入つて見るが宜い﹂
﹁此處からでも一と眼に見えますよ﹂
﹁その筵むしろを捲いて見な、――襤ぼ褸ろの束たばの下には何があるんだ﹂
平次は容赦しませんでした。莚の下も、襤ぼ褸ろの中も、小屋の隅々の土まで掘つて見ましたが、乞食一と通りの物以外何んにもありません。
﹁此處でお家の家寳でも見付かると面白いんだが――﹂
と八五郎。
﹁馬鹿ツ、無駄を言ふな。相手は手剛いぞ﹂
平次は以ての外の機嫌です。
念のため、橋の袂たもとの家や、八幡樣裏の人達に訊くと、躄ゐざりの乞食は名前も何んにも判りませんが、顏かたちの醜怪なのに似ず、至つて無害な老爺で、皆んなにも可愛がられ、從つて貰ひも多いせゐか、金廻りもなか〳〵良く、もう七八年も此處に住んで、深川中を貰ひ歩いて居るといふのです。
﹁あの乞食が此處へ來てから本當に何年くらゐになるのかなア﹂
平次は幾人かに同じことを訊きましたが、その答へは區まち々〳〵で、或人は十年と言ひ、或人は七、八年と言ひ、中には十二、三年といふのさへあつて、少なくとも六、七年よりは少なくない樣子です。