一
﹁親分、ありや何んです﹂ 觀音樣にお詣りした歸り、雷門へ出ると、人混みの中に大變な騷ぎが始まつてをりました。眼の早い八五郎は、早くもそれを見つけて、尻を端折りかけるのです。 ﹁待ちなよ、八。喧嘩か泥棒か喰ひ逃げか、それとも敵討ちか、見當もつかねえうちに飛び込んぢや、恥を掻くぜ﹂ 平次は若わか駒ごまのやうにはやりきつた八五郎を押へて、兎も角にも群衆をかきわけました。 ﹁はいよ、御免よ﹂ などと、八五郎は聲を張りますが、場所が場所なり日和もよし、物好きでハチきれさうになつてゐる江戸の彌次馬は、事件を十重二十重に圍んで、八五郎の蠻ばん聲せいでも道を開いてはくれません。 その間に誰が氣がついたものか、 ﹁錢形の親分だよ、道を開けなきや――﹂ などと言ふものがあり、やがて道は眞二つに割れます。 群衆の中に、居ゐす竦くんだのは二人の若い男女、男の方は三十前後の町人風で、女の方は十八九の旅姿の娘、これは非凡の美しさですが、何處か怪我をした樣子で、身動きもならず崩折れてゐましたが、それを介抱してゐる男の方も、額口を割られて、潮時のせゐか、鮮血が顏半分を染めて居ります。 ﹁どうしたんだえ、これは?﹂ 平次は、兄妹とも夫婦とも見える、この二人の前に突つ立ちました。 ﹁へエ﹂ ﹁怪我をしてゐるぢやないか﹂ ﹁危なく返討ちになるところでした――、親分さんが、お出で下さらなきや﹂ 若い男は、血だらけの顏を振り仰ぐのです。 色白で少しのつぺりして居りますが、なか〳〵の好い男です。縞しま物ものの地味な袷あはせ、小風呂敷包みを、左の手首に潜らせて、端折つた裾すそから、草色の股もゝ引ひきが薄汚れた足袋と一緒に見えるのも、ひどく手堅い感じでした。 ﹁返討ちは穩やかぢやないな、――一體どうしたといふのだ。いや、此處ぢや人立がして叶はない。八、その通の茶店の奧を借りるんだ、お前は娘さんを――﹂ 平次は眼顏で八五郎に合圖すると、直ぐ傍の茶店の奧へ若い男をつれ込みました。 その後から、旅姿の娘に肩を貸して、同じ茶店の奧へ入つて來る、八五郎の甘酢ぱい顏といふものは――。 何しろ娘の可愛らしさは非凡でした。旅姿も舞臺へ出て來た名ある娘形のやうで、汗にも埃ほこりにも塗まみれず、芳ほう粉ふんとして青春が匂ふのです。 ﹁先づ、その傷の手當てをするがいゝ﹂ 奧へ入つた平次は、若い男の右小こび鬢んの傷を、茶店で出してくれた燒せう酎ちゆうで洗つて、たしなみの膏藥をつけ、ザツと晒さらし木綿を卷いてやりました。打ちどころが惡くて、ひどく血は出ましたが、幸ひ大した傷ではなく、かうして置けば四五日で治りさうにも見えます。 ﹁まア〳〵こんなことで濟んでよかつたよ。ところで、深いわけがありさうだが、それを聽かして貰はうか﹂ ﹁有難うございます。錢形の親分さんださうで、飛んだところで、良い方にお目にかゝりました﹂ ﹁敵討ちが望みなら、強さうな武者修行か何んかに助けて貰う方がよかつたかも知れない。俺ぢや、助太刀の足しにはならないぜ﹂ ﹁飛んでもない、親分さん﹂ それから温いお茶を呑んで、煙草を吸ひながら、心靜かに平次は、二人の話を聽いたのです。 ﹁――私どもは腹違ひの兄妹で、私は山之助、妹はお比ひ奈なと申します。遠州濱松の生れで、父は榮屋といふ大きな呉服屋をいたして居りましたが、今から十年前父の山左衞門は、家中の惡侍大友瀬左衞門といふ者に討たれ、それが因で一家離散をしてしまひました﹂ 山之助は涙ながらに――文字通り、涙に濡れて語り進むのでした。 大友瀬左衞門が榮屋山左衞門を討つたのは、少しばかり用立てた金を、やかましく取立てた怨みで、榮屋もそれで潰れましたが、大友瀬左衞門も、城下の町人を殺した罪で永の暇いとまになり、それからは良からぬ者を集めて、自ら首領になり、海道筋を荒し拔いた上、近頃は江戸に入つて、押込強盜を働いてゐるといふ噂でした。 山之助はそれから間もなく、知しる邊べを尋ねて江戸に入り、新鳥越の呉服屋、越中屋金六といふのに奉公して、親の敵討ちは叶はずとも、せめて父祖の家、榮屋を再興する念願に燃えて、一生懸命働いてをりましたが、 ﹁――故郷の濱松在の叔母に預けて來た妹のお比ひ奈なが、叔母が死んで頼るところがなくなり、一人旅の苦勞を重ねて、江戸の新鳥越に、兄の私を訪ねて參りました。それはツイ二日前のことでございます﹂ ところが、肝かん腎じんの兄が奉公してゐる越中屋といふのは、もとは日本橋で相當の店を開いてゐたが、主人の金六が中風を患わづらつて沒落し、今では新鳥越に引つ越して、呉服屋とは名ばかり、主人一人奉公人一人の見る影もない小こぎ布れ屋に成り下がり、妹お比奈が折角濱松在から訪ねて來ても、お勝手の板の間より外には、寢かす場所もないといふ有樣だといふのです。二
﹁思案に余つて二人は、觀音樣にお詣りして、せめて親達の後生のお願ひでもしたら、敵討つ力もない不孝な私どもにも、運の開けることもあらうかと、ついこの先まで參りますと――﹂ 山之助はゴクリと固かた唾づを呑んで、暫くは絶句するのです。 ﹁何があつたんだ﹂ ﹁敵大友瀬左衞門と逢つたのでございますよ、親分さん﹂ ﹁フ――ム﹂ ﹁つく〴〵江戸は狹いと思ひました。今までは私の方から――耻かしいことですが、逃げて廻つてをりましたが、今日といふ今日は、妹を連れた私と、子分の伊八といふならず者をつれた瀬左衞門が、淺草雷門前の道の眞ん中で、除よけもかはしもならず、私共兄妹と顏を合せてしまつたのです﹂ ﹁で、名乘りでもしたのか﹂ ﹁飛んでもない、親分。私は算そろ盤ばんより重いものを持つたことがなく、それに途中で不意に逢つたんでは得物といふものはありません。商人の家に奉公してゐる私が、何處で敵に逢ふかも知れないと申して、脇差や匕あひ首くちを持つて歩くわけにも參りません﹂ ﹁妹のお比ひ奈なさんは?﹂ ﹁たしなみの短刀を持つてゐる筈ですが、これも着換への中に卷き込んで、風呂敷に入れて背負つてをりますので、急なことでは取出すわけにも參りません、――よしやまた、女持の短刀くらゐ取出したところで、斬取り強盜を稼業にしてゐる大友瀬左衞門に刄向へるわけもなく、子分の伊八は、喧嘩伊八と言はれた男で、それ一人でも私ども兄妹の手にあまります﹂ ﹁――﹂ ﹁伊八は私共を見つけると――おや榮屋の伜せがれと娘ですぜ、雷門前で返討ちにするわけにも行かねえが、敵討ちなんて惡い了簡を起さねえやうに、かうしてやれ、と、いきなり石を拾つて私の小こび鬢んを毆り、妹を突き飛ばして、何處ともなく姿を隱してしまひました﹂ ﹁で、どうしたのだ﹂ ﹁あんまり腹が立つから、五六間追つ驅けましたが、二人とも怪我をしてゐる上、あつといふ間に十重二十重に彌次馬に取圍まれ、逃げも隱れも、惡者を追ふこともならなかつたのでございます﹂ ﹁――﹂ ﹁何んといふ因いん果ぐわなことでございませう。五體滿足な男に生れながら、ひ弱く育つたばかりに、親の敵を討つこともならず、敵の姿を見つけると、泥棒猫のやうに逃げ廻らなきやならないとは――﹂ 山之助は又も男泣きに泣くのでした。 ﹁親の敵も討ちたからうが、差し當り、これからどうするつもりだ﹂ 平次は兎も角も、この不運な兄妹を慰なぐさめる外はありません。 ﹁今からヤツトウの稽けい古こをしたところで追つ付かず、それに越中屋の主人の金六は、身動きも自由にならない病人で、たつた一人の奉公人の私が、今更見捨てもなりません。さうかと言つて、貯たくはへも路用もあるわけはなく、一人の妹を、江戸へ留め置くことも、もう一度濱松へ歸す當てもございません﹂ 意氣地のない兄は、泣くより外に術すべはなかつたのです。 妹のお比奈は、兄よりはいくらか氣丈らしく、泣きもこぼしもしませんが、まだ身動きするのが痛いらしく、そつと唇を噛んで、美しい眉をひそめるのが、ひどく八五郎を惱ませます。 草くた臥びれ果てた旅姿のくせに、何んといふこれはまた魅力を發散することでせう。 ﹁親分、可哀想ぢやありませんか。つれて行つちやどうです﹂ 椽臺の上に崩折れて、物も言はずに差し俯向く娘を見ると、八五郎は我慢のならない心持になるのでした。兄の多辯さに比べて、千萬無量の歎きを、ヂツと耐こらへてゐるお比奈は、心の中で泣いて〳〵、泣き崩れてゐるやうに思へてならないのです。 ﹁何處へつれて行くのだ﹂ 平次にも旅はた籠ごち賃んの工面などがつく筈もなく、差し向き氣のきいた叔母さんの心當りもありません。 ﹁あつしのところでよかつたら、叔母さんに頼んで見ますよ。若い女一人ぐらゐなら、どうにでもなるでせう﹂ 八五郎は思ひきつた樣子で言ふのでした。三
四日、五日、無事な日は過ぎました。 彼ひが岸ん過ぎの江戸はめつきり涼しくなつて遊びにも仕事にも、申し分のない日は續きますが、どうしたことか、それつきり八五郎は來ず、今日あたり一つ、此方から押しかけて行つて見ようかと思つてゐるところへ、當の八五郎は、氣の拔けたやうな顏をフラリと持ち込んで來たのです。 ﹁お早う、親分﹂ ﹁お早うぢやないぜ、八。先さつ刻き鳴つたのは上野の巳よ刻つ︵十時︶ぢやないか﹂ ﹁もうそんな時刻ですかね、道理で腹加減が晝近いと思ひましたが――﹂ ﹁あんな野郎だ、晝飯の催さい促そくをしたつて、今日はろくな干物もねえよ。ところであの娘はどうしたえ、首尾よく住みつきさうか﹂ ﹁貰つた猫の子のやうですね、――喉を鳴らして、コロコロしてゐますよ﹂ ﹁それは好いあんべえだ﹂ ﹁すつかり叔母の氣に入つちやつてね、無口で氣がついて、食は細いが、よく手傳つてくれるし、こんな嫁を貰つたら、さぞ――なんて﹂ ﹁恐ろしく氣を廻すんだね﹂ ﹁それほど氣に入つたのに、叔母はあのきりやうのことを、一と言も言はないのは剛情ぢやありませんか。女のヒネたのは若い女のきりやうのことを言ふと、見識に拘かゝはると思つてゐるんですね。嫁なんてものは、顏があつてもなくても仔しさ細いはないと――﹂ ﹁顏のない人間なんてのはないよ﹂ ﹁あの叔母なんて代しろ物ものは、それぐらゐのことを考へてゐますよ、――ところで、それほど叔母によくする娘が、あつしの姿を見ると、滑るやうに逃げ出すのはどうしたことでせう﹂ ﹁お前といふ人間が怖いのさ﹂ ﹁あつしはそんな怖い顏をしてゐますかね親分﹂ ﹁袖でも引かれたらどうしようと思つてゐるんだらう﹂ ﹁そんな思ひ過しをされちや叶かなはねえから、近頃は二階から降りて、あの娘の傍へ行くときは、懷ろ手をすることにきめてゐますよ。變な素振りであつたと言はれちや、あつしの耻ばかりぢやありません﹂ ﹁懷ろ手をしたつて、顎あごを引つかける手がある﹂ ﹁お前さん﹂ 後ろの方から、番茶をくんで出た、女房のお靜がたしなめました。 ﹁ハツハツハツハツ、八がそんなことで怒るものか、心配するなよ――ところで何にか變つたことがあるのか﹂ ﹁大ありですよ。昨ゆう夜べ遲くなつてから、あの兄貴の山之助が訪ねて來ましてね、大層世話になつたから御恩返しの心持でそつと教へたいことがあると――﹂ ﹁虫齒の禁まじ呪なひか何んかだらう、お前この間頬を脹らしてゐたぜ﹂ ﹁そんな間拔けなもんぢやありません。近頃江戸中を荒らし廻る、黒雲五人男の素姓と名前――それに人相まで、事細かに教へてくれたからたいしたものでせう﹂ ﹁何? 黒雲五人男――そいつは大變なことぢやないか。山之助は何處でそれを嗅ぎ出したんだ﹂ 平次が驚いたのも無理はありません。何々五人男といふ群盜が、江戸の綱かう紀きの亂れに乘じて、勇侠者流のやうな顏して跳てう梁りやうした頃のことです。﹃百兩盜んで五兩十兩を貧乏人に施ほどこし、あとの九十何兩を飮み食ひや惡遊びに費つて、義賊面もねえものだ﹄と曾つて﹇#﹁曾つて﹂はママ﹈平次が腹を立てたのは、この仲間のことだつたのです。 わけてもその中の﹃黒雲五人男﹄は、殘忍で貪どん慾よくで、狡かう猾くわつで、手のつけやうのない兇賊團でしたが、二、三年前東海道を荒し拔いて江戸に入り、それから引續き諸人の恐怖と迷惑の種た子ねになつてゐたのでした。 手口はその時〳〵で違ひますが、それは五人の兇賊が、盜賊の手柄爭ひをして、毎年首領の地位を爭ふのだとも言はれ、その神出鬼沒さと、無法殘酷な手口に、南北兩奉行、二十五騎の與力、百二十人の同心、悉こと〴〵く手を燒いてゐたのです。 ﹁その黒雲五人男の素姓人別が、手に取るやうにわかつたのはたいしたことでせう。尤も訊けばその筈で、あの山之助の親を討つて濱松を立退いた大友瀬左衞門の一味が、黒雲五人男だと聽いたら、どうです親分﹂ ﹁フ――ム﹂ ﹁黒雲五人男は、五人とも遠州の者で、最初の首領は大友瀬左衞門で、これは濱松の御家中で、百石を食はんだ立派な武士、取つて四十五といふ、恰幅の良い青あを髯ひげの浪人者。それから瀬左衞門と負けず劣らず、仲間で立てられてゐるのは、早川水右衞門といふ、これも浪人者、年は五十五、六と言ふから、先づ泥棒には珍らしい年寄だ。次は伊八といふやくざ、二十七、八の好い男で、身輕で、氣が強くて、箸はしにも棒にもかゝらねえ曲者ださうですよ。その次は坊主還がへりで宗そう玄げんといふ四十男、イガ栗頭の大入道で、恐ろしい髯武者だが、不斷は深い笠を冠つてゐるから、容易に人相は見せない――これで四人でせう﹂ ﹁あとの一人は﹂ ﹁それが大變で、――お源といふ、二十四五の年増女ですよ。黒雲五人男と一口に言ふが、本當は黒雲四人男の一人女で﹂ ﹁――﹂ ﹁この女は悧りこ口うで愛嬌があつて、色つぽくて、手が早くて、噛みつかれると命が危ないから、蝮まむしのお源といふんださうですよ。大友瀬左衞門もこの女には一目も二目も置く﹂ 八五郎の説明は、それで大方盡きました。 ﹁有難う、大きに助かるよ。それだけ素姓と人相がわかれば、黒雲五人男だつて、呑氣に江戸の往來を歩いちやゐられまい﹂ ﹁それぢや親分﹂ ﹁あれ、もう歸るのか、八﹂ ﹁へツ、あつしがゐないと、あの娘が淋しがりますよ﹂ ﹁勝手にしやがれ﹂ 八五郎はイソイソと歸つて行きました。が、平次に對する、黒雲五人男の挑戰は、これをきつかけに、恐ろしい勢ひで始められることになつたのです。四
それから五日の間に、黒雲五人男は二ヶ所に押入り、一人を傷つけて一人を殺し、夥おびたゞしいものを盜りましたが、場所がかけ離れてゐるので、平次も出しや張るわけに行かず、そのまゝ口惜しがりながらも見過してしまひました。 が、三度目は大變でした。 ﹁わツ、親分、到頭やつて來ましたよ﹂ ガラツ八の八五郎、馬のやうに泡あわをふいて明神下の平次の家へ飛び込んで來たのです。 ﹁何がやつて來たんだ、相變らずあわてた野郎ぢやないか。盆と正月が一緒に來たつて、男の子はさう物驚きをするものぢやねえ﹂ ﹁驚きますよ、親分。黒雲五人男が來たんだから――﹂ ﹁何處へ來たんだ、路地なんかで待たしちや濟まねえ。此方へお通し申すんだ﹂ 平次は八五郎の眼の色の變つてゐるの見て、わざと落着き拂つてゐるのでした。 ﹁向柳原のあつしの家ですよ﹂ ﹁へエ、お前の家へ、そいつは飛んだ御苦勞だ、何を盜つて行つたんだ﹂ ﹁お奉行所の手形︵門鑑︶と、御用の提灯が一と張り、――癪しやくにさはるぢやありませんか﹂ ﹁そいつは皮肉だな、お前はそれを默つて見てゐたのか﹂ ﹁あつしがゐさへすれば、黒雲五人男を數じゆ珠ずつなぎにしますよ。癪にさはることに昨日友達五六人と川崎へ行つて、一と晩飮み明かして、朝がけに歸つて來ると、大變な騷ぎぢやありませんか﹂ ﹁怪我はなかつたのか﹂ ﹁お比ひ奈なさんと叔母と二人つきりでせう。猿さる轡ぐつわを噛まされて、押入へ投り込まれ、家中を掻き廻したらしいが、叔母の臍へそくりなんかには眼もくれませんよ。尤も二兩二分と、穴のあいたのが五六十枚、竹筒に入れて枕許の柱にブラさげてありますがね、相手は黒雲五人男だ、からかひ面に竹筒を外して、家中にバラ撒まいて行つたが、勘定して見ると一文も不足してゐなかつたなんざ、人を嘗なめたものですね﹂ ﹁兎も角も行つて見よう、放つて置けねえことをしやがる﹂ 平次は八五郎を促すやうに、向柳原まで飛んで行きました。 路地の中はまだ三々五々の人立ち、評判の兇賊黒雲五人男が押入つたといふので、お長屋の格が上がつたやうに思つてゐるのでせう。 家の中へ入ると、八五郎の叔母はまだブリブリしてをりました。 ﹁私のところへ押込みが入るなんて、本當に呆れ返つてモノが言へないぢやありませんか、千兩箱の二、三十も持つてゐるとでも思つたのか、――若くて綺麗なお比奈さんがゐるから、私はもうそればかり心配で――﹂ と、まくし立てるのです。 ﹁泥棒が入つたのは宵か、夜中か、それとも曉あけ方がたかえ、叔母さん﹂ 平次はその鋭鋒を避けながら靜かに訊きました。 ﹁夜中でしたよ、――子こゝ刻のつ︵十二時︶前だつたかね、お比奈さん﹂ ﹁――﹂ お比奈は默つてうなづきました。 ﹁人數は?﹂ ﹁たつた一人でしたよ。盲めく目ら地ぢの袷に、豆絞りの頬ほゝ冠かぶりで、懷ふと中ころに呑んでゐた匕あひ首くちを拔いて、脅おどかしながら――俺は黒雲五人男の一人だ、岡つ引の家を承知で入つたが、ジタバタすると命が危ない。良い子だ、靜かにしろ――と、お比奈さんと私を縛り上げ、猿さる轡ぐつわまで噛ませて家中を搜し廻り、どうせ金のある筈はねえが、こいつはサバサバした貧乏だ、せめて、十手ぐらゐは持つてゐさうだと思つたのが此方の間違げえだ。せめてこれでも――と、御用の提灯とお奉行所の手形を持つて行つてしまひましたよ﹂ ﹁それつきりか﹂ ﹁それつきりならよいが、私の頬つぺたを匕首で叩いて、口く惜やしいぢやありませんか――好い婆さん振りだが、少しヒネ過ぎたなんて、つまらないことを言ひながら、お比奈さんを引寄せて、その頬つぺたへ、自分の頬つぺたを持つて行くんですもの、私はもう飛びついて引つ掻いてやらうと思ひましたが、縛しばられた上、口の中へ汚い風呂敷を詰められちやどうすることも出來ません﹂ ﹁で?﹂ ﹁それでもよい加減に諦あきらめたと見えてお比奈さんと私を押入の中へ投り込み、灯を消し――火の用心に氣をつけろ、火鉢にはまだ火があるぜ――なんて、余計な世話まで燒いて、後ろ戸を閉めて行つてしまひました﹂ ﹁人相や身體つき、聲などに叔母さん心覺えはなかつたのか﹂ ﹁ありませんよ、泥棒なんかに近づきは、――でもたつた一つ氣のついたことがあります﹂ ﹁――﹂ ﹁身みな扮りも言葉の樣子も、町人かやくざでしたが、頬冠りの下に、ふくらんでゐる髷の恰好は、野郎頭ぢやありません。あれは髷節が高くて、固かた鬢びんつけでカンカンに固めた武家の髷に違ひありません。ねえお比奈さん﹂ 振り返るとお比奈は、相變らず言葉少なに、そして淋しさうにうなづいてをります。 ﹁そいつは良いことに氣がついてくれた。甥おひの八五郎より立派な御用聞になれるぜ叔母さん﹂ ﹁まア、それ程でもないでせうよ﹂ などと、叔母さんは滿更でもない樣子です。 ﹁ところで、それからどうしたんです、叔母さん﹂ ﹁何時までもさうしてゐるわけに行かないから、お比奈さんと二人で押入の戸を蹴け飛とばして轉げ出ると、御近所の衆を起して兎も角も繩を解いてもらひました。別段怪我もないし、お比奈さんの可愛らしい頬が、火ぶくれになつたわけでもないから、そのまゝ八五郎が歸るのを待ちましたが、この子と來たら、御存じの通りの呑氣者でせう﹂ 叔母さんの鋭鋒は、いつもの通り八五郎の方に向いて行くのです。五
平次は時を移さず、八五郎を新鳥越の越中屋金六の家へ走らせ、お比奈の兄の山之助に急を告げました。――尤も事件はたいしたこともなかつたので、忙しかつたら來なくてもよいといふ條件です。八五郎が歸つて來ての報告は、 ﹁山之助は膽きもを潰してをりましたが、晝は前々から人でも頼まないと、店をあけられないから、宜しくお願ひしてくれといふことでした﹂ ﹁昨ゆう夜べ、山之助は外へ出た樣子はないのか﹂ ﹁主人の金六はヨイヨイで身動きも怪しく、ロレツも廻らず、下しもの世話まで山之助にさせるので、人でも頼まなきや、一と晩でも家をあけられない――と、これは近所の評判ですよ。昨夜も夜半過ぎまで、何彼と介抱をしてゐたさうで、あんな評判の良い男はありませんね。一季半季の奉公人には出來ないことですね﹂ 黒雲五人男と、お比奈の兄の山之助との間に、何にか連絡はないかといつた、少しばかりの疑ひも、これでは吹き飛んでしまひます。 併しかし、事件はこれが本當の發端でした。兇賊の一團、黒雲五人男の跳てう梁りやうと、錢形平次の死鬪は、これを皮切りに展開されたと言つてもよかつたのです。 黒雲五人男の挑戰の第一手段は、 ﹁サア、大變だ、親分。黒雲五人男は御用の提ちや灯うちんを持つて池の端の生藥屋、丸屋吉兵衞のところに押入り、漢方と南蠻物の毒藥を一と箱盜み出して行きました。その中には江戸中の人間を半分は殺せる程の毒が入つてゐるんだといふから大變ぢやありませんか﹂ と、いふのは八五郎の報告でした。 ﹁錢形の親分、近頃お南の奉行所に變な者が出入りする樣子です。出入り商人にも變りはなく、曲者の忍び込んだ樣子もないのに、お奉行所の中でいろ〳〵變つたことが起つたり、妙な物が紛ふん失しつします﹂ 八丁堀屋敷からは、與力笹野新三郎の使ひで、若い下つ引が飛んで來ました。まさに、八五郎のところから盜み出された、御用の提灯と、奉行所の手形が惡用されてゐるに違ひはありません。六
﹁親分、妙なことになりましたが――﹂ フラリと八五郎がやつて來たのは、それから四五日經つてからのことでした。 ﹁何が妙なんだ、大層腐くさつてゐるやうだが﹂ さういふ平次も、黒雲五人男の跳てう梁りやうに任せて、影もつかめない昨今を、珍らしく腐り續けてゐたのです。 ﹁あの、新鳥越の越中屋の山之助がやつて來ましてね﹂ ﹁お比ひ奈なの兄と言つた方が手つ取り早いぜ﹂ ﹁そのお比奈さんの兄が、青い顏をしてやつて來て――向柳原のあつしの家へ、暫らく泊めてくれないかといふ相談なんで﹂ ﹁新鳥越から向柳原は、少し遠過ぎるぜ、あの小こぎ布れ屋の店はどうするんだ﹂ ﹁暫らく休むんださうですよ﹂ ﹁フーム﹂ ﹁詳くはしく言ふとかうです。あの山之助が、黒雲五人男の素姓や名前を、あつしに漏もらしたでせう﹂ ﹁――﹂ ﹁それを嗅ぎつけた黒雲五人男の仲間が、どこで何う訊き出したか山之助の奉公してゐる越中屋を突きとめ、術てを變へ人を換へて山之助をつけ狙つてゐるんださうです﹂ ﹁で?﹂ ﹁これぢや、命が危ない、越中屋の店のことも氣にかゝるが、主人に頼んで店を閉めてもらひ、向柳原のあつしの家へ來て、暫らく黒雲五人男の眼を外そらせ、樣子を見定めた上で、又新鳥越へ歸りたい――とかう言ふ頼みですよ﹂ ﹁ありさうなことだが――あのヨイヨイの主人金六獨りでは身動きも出來まい。誰がそれを介抱するんだ﹂ 平次は當然の疑ひを持出しました。 ﹁兄の山之助があつしのところへ來てゐる間、妹のお比ひ奈なさんが、新鳥越へ行つて、主人の介抱から、三度の世話、閉めてゐると言つても、少しは店も見るんださうで――﹂ ﹁つまり、兄と妹と入れ替るわけだな﹂ ﹁早く言へばその通りで﹂ ﹁それが妙なことかえ、八﹂ ﹁――﹂ ﹁あの綺麗な妹が、兄と入れ替つちや、成程お前にして見れば妙なことかも知れないよ――ところで、お前はそれを承知したのか﹂ ﹁男と見込まれちや、イヤとも言へませんよ。尤もあつしの傍では、あのお比奈坊が、袂たもとをいぢつたり、爪を噛んだり、眼をつぶつたり、斷わつて貰ひたい樣子でしたがね﹂ ﹁ヨイヨイの年寄の傍より、八五郎の傍の方が良いといふわけかえ﹂ ﹁それに違げえねえと思ふんだが――﹂ ﹁お前といふ人間は、よく〳〵結構に出來てゐるよ――ところで、入れ替へは濟んだのか﹂ ﹁今日、これから始まるんですが、どうしたものでせう、親分﹂ ﹁男と見込まれたんだらう――兄に頼まれちや、妹の手前もあるといふわけだ﹂ ﹁でも、袂たもとを裏返したり、爪を噛んだり、眼をつぶつたり﹂ ﹁娘の所しよ作さなんか、俺に訊いたつてわかるものか。袂を裏返したのは、蚤のみをさがすためで、爪を噛んだのは、癇かんのせゐで、眼をつぶつたのは、眼に埃ほこりが入つた爲とでもして置け﹂ 平次はこんなことを言つて、煙草の煙を輪に吹くのです。 ﹁錢形の親分の、あれだけは玉に傷さ。情いろ事ごととなると、まるつきり通用しねえ﹂ 八五郎は拳げん固こを顎杖にして、納まらない顏をするのでした。 ﹁そんなに不服なら、山之助をこの俺の家へつれて來るがよい。黒雲五人男をおびき寄せる囮をとりくらゐにはなるだらう﹂ ﹁あつしは?﹂ ﹁お前は時々新鳥越を覗くんだな。その氣があるなら、偶たまには病人の世話ぐらゐは手傳つてやるさ。散々親不孝をして、兩親に別れたお前だ、赤の他人の年寄の世話をするのも、飛んだ功徳になるかも知れないよ﹂ ﹁へツ、そんなものですかね﹂ などと、ツイその氣になる八五郎です。七
それから三日目、山谷の春徳寺に、思はぬ事件が起りました。 春徳寺の檀だん家か、本銀町の阿あ波は屋や三郎兵衞、獨り娘お由ゆ利りが長の患ひで、一度は醫者にも見放されたのが不思議なきつかけで本服し、今では以前の美しさも健やかさも恢復した喜びに、先祖の菩ぼだ提い寺なる春徳寺改築のために、祠しだ堂うき金ん三千兩を寄進することになり、その日出入りの鳶かし頭らが宰領で人足に擔がせた吊つり臺だい、三つの千兩箱を積み、阿波屋三郎兵衞夫婦が、娘お由利とともに、山谷の春徳寺に乘込んで來たのです。 時刻は丁度晝少し前、昔は寺の多い山谷でも、名めい刹さつのうちに數へられた春徳寺でしたが、數度の火災に檀家も離散し、今は假寺のみじめな板屋根で、まことに名ばかりの寺に過ぎませんでした。 兩替屋阿波屋三郎兵衞の寄進で、本堂の再建が出來れば、春徳寺も昔の姿を取戻すわけで、その日の設けは、三日も前からの大騷動。住職の春嚴和をし尚やうが、子供のやうに喜んだのも無理のないことです。 ところで、阿波屋の一行、主人夫婦に娘お由利、手代の宗次郎、鳶かし頭らの銀次に、手代りを加へて人足四人の同勢、春徳寺に着いた時は、出迎へに出たのは、水も垂れさうな寺小姓が一人。 ﹁お早いお着きでございます。住職以下未や刻つ︵二時︶過ぎのお着きと承つて、まだお出迎への支度もいたしてをりません。暫らく此方にてお待ちを願ひます﹂ 一行を本堂の側の一室に案内して、まことに行き屆いた挨拶です。前髮立の美少年、曙あけ染ぼのぞめの振袖、精好の袴はかま、短かいのを前半に差して、紫足袋、さながら繪に描いたやうです。 その頃、山谷の山内には、よくこんな寺小姓を見かけることがありました。振袖火事の娘が三ツ橋で見かけたのも、多分こんな姿だつたでせう。谷中や湯島、芳町あたりの蔭かげ間ま茶屋にも、こんな艶あで姿の少年が養はれてゐたことは言ふ迄もありません。 ﹁それは御丁寧で恐れ入ります。實は晝過ぎ日本橋を出て未や刻つ過ぎ申なゝ刻つ︵四時︶近く參る筈でしたが、お寺からのお使ひの方が見えて、晝頃の方が御都合がよいといふお言傳だつたので、取急いで參つたやうなわけで――﹂ 阿波屋三郎兵衞はクドクドと辯解をしてをります。 ﹁――そんなわけで、まだお茶の支度も出來て居りません。恐れ入りますが、お孃樣のお手を拜借願へませんでせうか﹂ 小姓は顏を擧げて、母親の後ろに小さくなつてゐる娘お由利の顏をチラリと見たのです。 ﹁それはいと易やすいことで。これ、由利や﹂ 父親に聲をかけられると、お由利は雷かみ鳴なりに打たれたやうな驚きでした。 ﹁では、お願ひいたします﹂ お小姓は靜かに立上つて庫く裏りの方に退くと、死ぬほど耻かしかつたお由利は、憑つかれたもののやうに起つて、その後を追ふのです。 庫裡には大釜に湯が沸いてをりました。茶道具から菓子まで、何んの手落もなく其處に出揃へてあります。 年頃の見當はつきませんが、前髮立の美しい小姓と、十八になつたばかりの、これは申し分なく可愛らしい町娘は、まゝごとのやうな心持で、お茶の支度をしたのです。阿波屋の主人夫婦と手代宗次郎と、お由利自身の分、それから本堂に擔ぎ入れた三千兩の祠しだ堂うき金んを見張つてゐる鳶かし頭らの銀次の分、外に本堂前の段々に寛ろいでゐる、四人の人足の分、それを二人は、幾度にも幾度にも、面白さうに運ぶのでした。それが濟むと、今度は菓子、 ﹁お孃樣、これで皆んな濟みました、お孃樣も此處で召上がりませんか――私も戴きますが﹂ お小姓はお由利にもお茶と菓子をすゝめ、自分も一碗の茶を取つて、口のところへ持つて行くのでした。八
﹁わツ、大變、親分﹂ ガラツ八の八五郎、泳ぐやうに飛び込んで來たのは、その日も漸ようやく暮れかける頃でした。 ﹁何んだ、大變が迷まひ兒ごにでもなつたのか、相變らず騷々しい野郎だ﹂ 平次は慢性大變中毒で、八五郎のわめくのを、たいして驚きもしません。 ﹁三千兩ですよ、親分、三千兩――﹂ ﹁誰がお前に三千兩くれると言つたんだ﹂ ﹁誰もくれるわけぢやありません。三千兩の大金が煙のやうに消えたんですよ﹂ ﹁言ふことが大きいな﹂ ﹁その上、人が一人殺されたんだ。親分、大急ぎで行つて見て下さい﹂ 八五郎はまだ格子につかまつたまゝわめき立てるのです。 ﹁もう少し落着いて話せ。お前の樣子はまるで三千兩の憑つき物ものがしてゐるやうだぞ﹂ 平次にたしなめられると、八五郎は漸ようやく中へ入つて、冷たい水を一杯所望し、胸を撫でおろしながら、漸く話し出しました。 山谷の春徳寺へ、三千兩奉納の一埒らつ。 ﹁繪に描いたやうな綺麗なお小姓ださうですよ――そのお小姓のくんでくれた茶を呑むと、阿波屋の夫婦を始め、娘のお由利も鳶頭も人足四人も、性も他愛もなく睡りこけてしまつたんださうです﹂ ﹁睡り藥だらう、それもきゝのよいところを見ると南蠻物だ。この間池の端の丸屋で盜まれた毒藥の中に、天てん竺ぢくの阿あへ片んから採つた、恐ろしい眠り藥があると聽いたが――﹂ 平次は早くも、この企くはだての奧に、並々ならぬ用意のあることを見て取つたのです。 ﹁鳶かし頭らの銀次は茶が好きぢやないから、半分しか呑まなかつたんで、一番先に氣がついたさうですよ。ハツと思つて見ると、本堂に擔ぎ込んで、臺の上へ杉なりに積んだ、三つの千兩箱がない、思はず這ひ寄つて、空つぽの臺を叩きながらわめき立てたといふことですよ﹂ ﹁で?﹂ ﹁續いて、阿波屋の夫婦も、四人の人足も氣がついたが、肝かん腎じんの娘お由利と、手代の宗次郎の姿が見えない。娘は庫く裏りに行つてゐる筈――と、廊下傳ひに行つて見ると、廊下の端つこに、手代の宗次郎が、胸を一と太刀、心の臟をゑぐられて、蘇すは芳うを浴びたやうになつて死んでゐる﹂ ﹁娘は?﹂ ﹁庫く裡りにゐましたよ。正體もなく睡りこけて、兩手にひしと曙あけ染ぼのぞめの大振袖を抱いたまゝ﹂ ﹁裝しや束うぞくを變へて逃げたのか﹂ ﹁曲者はその小姓にきまつてゐますが、何處へ逃げたか、まるで見當もつかず、第一、三千兩を持つて行つたとすると、相棒がなきやなりません﹂ 八五郎は八五郎だけの智慧を傾けるのです。 ﹁ところで、先さつ刻きから春徳寺の住職も小僧も出て來ないやうだが、何處へ行つてゐるんだ﹂ ﹁それが大笑ひで﹂ ﹁何が大笑ひだ﹂ ﹁寺の納戸の中へ、メチヤメチヤに縛られた上、猿さる轡ぐつわまで噛まされて、二人仲よく投り込まれてゐましたよ﹂ ﹁寺にゐるのはそれつきりか﹂ ﹁まだ外に、釜吉といふ五十年配の寺男がゐますが、門もん跡ぜき前まで使ひに出てゐたさうで、ぼんやり歸つて來たところを、三輪の萬七親分に縛られてしまひましたよ﹂ ﹁門跡前へ何にか用事があつたのか﹂ ﹁春徳寺は貧乏寺で、ろくな用意もないから、三千兩といふ大金持參の大檀だん那なの接待に、門跡前の知合ひの寺へ道具を借りに行つたんださうで。膳箱を背負つて、碗を十人前、皿小鉢を一と箱兩手にブラ下げてはゐましたが、あのなりぢや三千兩は盜めさうもありませんね﹂ ﹁――﹂ ﹁尤もあつしがさう言つてやると――出直すといふ手があるぜ、無駄は言はねえものだ――と三輪の親分は大きな眼を剥むきましたよ﹂ ﹁ところで、お前はどんなきつかけで、山谷あたりへ行つたんだ﹂ 平次の問ひは當然でした。向柳原に住んでゐる八五郎が、山谷のニユースを拾つて來るのは、少し時間が早過ぎます。 ﹁へツ、へツ、あの娘の顏を見に行きましたよ﹂ ﹁誰だ、あの娘てえのは。羅らし生やう門もん河が岸しあたりに、又筋のよくねえのを拵へたのか﹂ ﹁飛んでもない――あの清淨無む垢くな娘ですよ、新鳥越町の越中屋――﹂ ﹁山之助の妹のお比ひ奈なの顏を見に行つたのか﹂ ﹁まア、そんなことで﹂ ﹁お比奈は元氣か﹂ ﹁せつせと洗濯物をしてゐましたよ。越中屋の金六は、あの娘に下の世話までさせるんですつて、罰の當つた話で﹂ ﹁兄の山之助はそればかり心配してゐるよ﹂ ﹁さう言へば、山之助の姿は見えませんね﹂ あのことがあつてから、妹のお比奈は越中屋へ行き、兄の山之助は錢形平次に引取られてゐるのでした。 ﹁昨日から風か邪ぜの氣味で隣りの六疊に寢てゐるよ。呼んで見ようか﹂ ﹁それには及びませんがね﹂ ﹁ところで、何處まで聽いたつけ﹂ ﹁お比奈が洗濯をしてゐるところですよ――裏へ廻つて無駄話をしてゐると、三輪の子分が表の往來を驅けて行くぢやありませんか。たゞごとでない樣子なので、跟けて行くと山谷の春徳寺で、その騷ぎの眞つ最中でせう﹂九
この事件は、三輪の萬七のお膝許だからと、すましては置けないものがありました。それは、春徳寺で用もちひられた毒藥は、池の端の丸屋で盜まれたものに相違なく、その邊一帶は、錢形平次の繩張り内と言つてもよかつたのです。 もう一つ、それより大分前のことですが、由比正雪の一味が、神田上水に毒を投じて、江戸の人心を攪かう亂らんし、謀叛を企てて徳川幕府を倒さうとしたことがあり、毒藥に對する幕府の神經は、火器に對する場合に劣らず、想像以上に尖せん鋭えいになつてゐた時でもあつたのです。 平次は八五郎と共に、時を移さず、山谷まで飛んだことは言ふまでもありません。 春徳寺に着いたのは、もう酉むつ刻は半ん︵七時︶といふ時刻だつたでせう。秋の陽はとうに暮れて、寺町は淋しく暗くなりまさるばかりですが、春徳寺だけは寺社の係り役人を迎へ、三輪の萬七の子分達を交へて、高張提灯の物々しい警戒振りです。 だが、盜まれた三千兩は、それつきり行方もわからず、殺された手代宗次郎の死骸は、引取手もなく、寺の一室にそのまゝにしてあります。 平次が來たと聞くと、寺社の役人河村半治は、ホツとした顏になりました。慣れない仕事で、自分ではどうにも裁さばきがつかず、さうかと言つて、評判のよくない三輪の萬七に全部を任せるのも甚だ進まなかつたのでせう。 ﹁おや、平次が來てくれたか、それは有難い。萬七と相談をして、良きやうに取計らつてやれ。拙者は一應引揚げる、いづれ又參るとして――﹂ 寺社役河村半治は、晩ばん酌しやくの膳と内儀の顏が戀しくなつた樣子で、さつさと引揚げてしまひました。 神社佛閣の中で起つた事件は、言ふ迄もなく寺社奉行の係りで、町方は口を出す權利さへなかつたのですが、上野の山内のやうに、山同心がゐて、自治的に取締りが出來てゐる場所は別として、一般江戸の町の寺や社で起つた事件は、民事的なものは別として刑事上の事件は、江戸の治安を背負つて立つ、町奉行配下の與力同心に任せ、寺社の係りは事件を委ゐし囑よくした形式を採つて、手を引いて報告を聽くのが慣例になつてゐたのです。併し、納まらないのは、この邊を繩張りにしてゐる三輪の萬七でした。 ﹁錢形の親分の前だが、もう下手人が擧つてゐるんだぜ。親分に汗を掻かせる程のこともあるめえよ﹂ などと、甚だ平らかでない調子です。 ﹁有難う、このまゝ引揚げて、晩酌でもやる方が氣がきいてゐるが、眠り藥が池の端の丸屋から盜まれた物らしいから、毒藥の御取締の手前放つても置けない﹂ 平次は穩かに辯解しました。 ﹁なアに、つまらねえ泥棒さ、三千兩の小判が見つかりさへすれや﹂ 萬七はひどく輕くあしらつてをりますが、事件には底の底がありさうで、企たくらみの深さに、平次は壓迫的な豫感さへ持つてゐたのです。 ﹁ところで、その寺男の釜吉といふのが、大きな荷物を背負つて來たと言つたが、門もん跡ぜき前の寺から此處までの道順と、時刻を調べたことだらうな﹂ ﹁そんなことにぬかりがあるものか。花川戸で喉のどが乾いたから、一杯呑んだと言つてゐるが、調べて見るとそれも確かだ。だがな、錢形の、釜吉は五十男だが、力もあり機轉もきゝさうだ。狐の化けたやうな、僞物の寺小姓を使つて、阿波屋一家へ一服盛りさへすれば、あとはわけもない。眠り藥を呑まない手代の宗次郎を害あやめて、三つの千兩箱を隱すだけのことなら、荷物をチヨイと椽側におろしても出來ることだぜ﹂ 三輪の萬七は、この事件を、怪しい寺小姓と、寺男の釜吉の共謀と睨んでゐる樣子です。 平次はそれをよい加減にあしらつて、寺の中に入りました。阿波屋三郎兵衞と女房お仲、それに娘のお由利は、眠り藥の覺めた後の氣分の惡さが治りきらず、それに三千兩の紛失は、阿波屋に取つても、償つぐなひ難い重大事なので、同じ目にあつた鳶かし頭らの銀次と共に、本堂の傍の部屋に踏止つて、果てしもない相談事に沒頭してをります。 ﹁錢形の親分ださうで、丁度よいところ﹂ 三郎兵衞は青い顏をしながらも、席を設けて平次を迎へ入れました。 ﹁飛んだ災難でしたね﹂ ﹁いやもう、散々の目に逢ひましたよ。お寺へも氣の毒ですが、もう一度三千兩の金を拵へることは、私にも出來ないことだ。何んとか取返して頂けませんか。それに手代の宗次郎も下手人が擧がらないうちは行くところへも行けないでせう﹂ 大家の主人らしい闊くわ達つたつさのうちにも、諦め兼ねた愁しう悶もんが太い眉を曇らせます。 ﹁その寺小姓の顏に、見覺えはなかつたでせうな﹂ ﹁飛んでもない、夢にも見覺えのない顏でしたよ。聲は少し皺しわ枯がれてをりましたが、まるで繪に描いたやうな美しい顏で﹂ それがまた、憎くてたまらない樣子です。十
﹁殺された宗次郎は、毒茶は呑まなかつたことでせうな?﹂ 平次は變つた角度から問ひをすゝめました。 ﹁呑まなかつたやうです。茶碗に口をつけましたが、そのまゝ下へ置いて、お小姓の後を追つて、庫く裏りの方へ行つたやうで﹂ ﹁その呑み殘しの茶碗の茶は﹂ ﹁三輪の親分が、急きふ須すに戻して、何處かへ持つて行きました。本草の學生にでも見せて、どんな毒を使つたか調べたいといふことで﹂ それは當然な用意でした。 ﹁内おか儀みとお孃さんが、席を外されたやうだから、その間に一寸伺ひますが――﹂ 三郎兵衞は﹃何んなりと﹄と言つた顏を振り向けました。 ﹁手代の宗次郎を、お孃さんの婿むこにでもするやうな話があつたことでせうな﹂ ﹁その通りですよ、親分。娘は來年は厄やくだから、年内に盃事だけでもさせて置きたいと、内々話を進めて居りました――どうしてそんなことが?﹂ 三郎兵衞は、平次の慧けい眼がんに一寸驚いた樣子です。 ﹁綺麗なお小姓に誘はれて、お孃さんが庫く裡りへ行つた――その後からお茶も呑まずについて行つたといふのは、わけがある筈で﹂ ﹁成程、若い者の心持は、さう言つたものでせうな﹂ ﹁そのお孃さんが、曙あけ染ぼのぞめの振袖を、抱きしめたまゝ、眠つてゐたといふのも、變な話ぢやありませんか﹂ 平次は其處まで突つ込んで行つたのです。 ﹁それも、隨分責めて見ました。若い娘にあるまじきことで、世間の聞えも惡いと思ひましてな――すると娘の申し分にも、滿更の言ひわけとばかりも思へない節があります﹂ ﹁?﹂ ﹁娘はかう申すのです。――お小姓にすゝめられてお茶を呑んだ。喉は乾いてゐたが、ひどく苦にがいと思つた。すると間もなく四あた方りが眞つ暗になつて、地獄の底に引き入れられるやうに眠くなつた。恐ろしいから、並んで坐つてゐるお小姓の袖を掴んだ。何んか言つたかも知れないが、それつきり氣を喪うしなつてしまつて、暫らく經つて氣がつくと、曙染の振袖を犇ひしと掴んでゐたが、肝心のお小姓は、振袖から脱け出して、姿も見えなかつた――といふのです﹂ 三郎兵衞は父親らしい熱心さで、娘のために、かう辯ずるのでした。 そんな話をしてゐるところへ、隣室へ退いた内儀のお仲は、娘のお由利の手を取らぬばかりに、もとの座に戻つて來ました。母親のお仲は四十前後、美しさの僅かに殘る、平凡な町家の内儀で、娘のお由利は、品はないが、丸ぽちやで、愛嬌があつて、いかにも可愛らしい十八娘でした。 ﹁錢形の親分さん、いろ〳〵娘に訊いて見ましたら、大變なことを申します﹂ 内儀のお仲は少し息を彈はずませてをります。 ﹁大變なこと?﹂ ﹁娘は、まア、私は驚いてしまひました。あのお小姓を探し出してくれと、飛んでもないことを申します――あれは大泥棒の人殺しだと申しても聽きやしません。そんな筈はない、大泥棒の人殺しは他にあるに違ひない――と﹂ 内儀が意氣込むのも無理のないことですが、浮氣な江戸娘の無分別さ、我儘で、惚ほれつぽくて、物の道理もわからないのが、この時代の江戸の市井に、幾多の物語と傳説とを作つたことは事實で、芝居と繪本と、猥みだらな話で、娘をかう教育した、母親の無分別さも考へないわけには行きません。 ﹁そんな馬鹿なことが﹂ 三郎兵衞は居住ひを直して、煙きせ管るを逆に取りました。娘を意見し馴れたポーズです。 ﹁でも、娘は、かう言ふんです。名前は聽かなかつたが、あのお小姓には、間違ひやうのない目印があるから、それを便りに探せば、すぐわかるに違ひない――つて﹂ ﹁目印?﹂ 平次は膝を立て直しました。 ﹁右の耳の後ろ、玉をのべたやうな首筋に、豆粒ほどの、眞つ紅な痣あざがあるんですつて﹂ ﹁そいつは有難い。繪に描いたやうなきりやうで、首筋の赤い痣だ。地獄の底へ行つても見つかりますぜ、親分﹂ 傍で聽いてゐた八五郎が夢中になつて乘出します。 其處をきり上げた平次は、庫く裡りの一室に納めてある、手代宗次郎の死骸に目を通しました。二十三四の華きや奢しやな男で、傷は前から心の臟へ一と突き、血潮に塗まみれて、慘憺たる姿です。 たつた一と突きで埒らちをあけた曲者の手際は非凡で、これは決して素人の盲めく目ら突きではありません。 お茶の用意をした部屋には、お由利が抱きしめてゐたといふ曙あけ染ぼのぞめの振袖がそのまゝにしてあり、其處には血潮の跡もありません。 庫裡の奧には、住持の春嚴和をし尚やうと小坊主の岩良が、鼠に引き殘された、坊主雛びなのやうに淋しく控へてをりました。六十過ぎの痩せた老僧と、十四五の小坊主です。 ﹁阿波屋さんの皆さんが着くほんの四半刻ほど前でしたよ。深い饅まん頭じゆ笠うがさで顏を隱した、腰こし法ごろ衣もの修行者が訪ねて來て冠かぶ物りもののまゝ阿波屋の使ひの者だがと私を呼出し、いきなり一と當て當身を喰はせて眼を廻させてしまひました。氣のついた時は、岩良と二人、メチヤメチヤに縛られて納戸に投り込まれてゐたのです。いやはや、どうも、沙汰の限りで、これで春徳寺の再興もフイになるかと、私は私の不徳を責める外はありません﹂ 慾のなささうな老僧ですが、それでも一代の心願がフイになるかと思つてか、眼をシヨボシヨボさせて歎くのです。小坊主は傍から、老師の泣き濡ぬれた顏を珍らしさうに覗いてをります。あまり賢くはなささうです。十一
春徳寺の三千兩紛失事件は、それつきり迷宮入になつて、阿波屋三郎兵衞の手代宗次郎を殺した、兇惡な下手人も、見當もつかぬうちに三日五日と日が經ちました。 ある生暖かい日の夕方。 ﹁親分、あの病人の臍へその穴まで調べて來ましたよ﹂ こんな途方もないことを言ひながら、相變らず旋つむ風じのやうに飛んで來たのは八五郎でした。 ﹁何を言ふんだ、馬鹿々々しい﹂ 平次は椽側の日ひな向たで、鼠の尻尾のやうな、世にも情けない、懸けん崖がいの菊の鉢の世話をしてをりました。 ﹁でも親分は、新鳥越の越中屋金六のところを、時々は覗いて見るやうに――つて言つたでせう﹂ ﹁お前が、あのお比ひ奈なといふ娘の顏を見たい樣子だつたから、たいした用事でもない用事を頼んだのさ。誰が病人の臍へその穴を覗けなんて言ふものか﹂ ﹁ところで――お比奈坊の兄の山之助はゐませんか﹂ それはこの間から黒雲五人男に狙はれて、平次のところへ逃げ込み、錢形の羽はが掻いの下で暮してゐる、榮屋の山之助のことだつたのです。 ﹁氣分が良いと言つて、先さつ刻き明神樣へお詣りに行つたよ、――飛んだ素直で良い男だが、屈託してゐて可哀想だから、久し振りで出してやつたのさ﹂ ﹁それぢや、どんなことを言つてもよいわけで――實は、この間から一日に二度づつ、新鳥越の越中屋を覗きましたよ。お比奈坊は一寸見は、はにかみやで無口で取りすましてゐるやうですが、段々顏馴染になると、飛んだ面白い娘で、あつしとすつかり仲好しになつてしまひましたよ﹂ ﹁フ――ム﹂ ﹁あれで飛んで色つぽいところがあるから面白いでせう、仲なか人うどを立てる迄もなくあの樣子なら小當りに當つて――﹂ ﹁馬鹿だなア、あの娘はなか〳〵確りしてゐるから、つまらねえ眞似をすると、飛んだ目に逢はされるぞ﹂ ﹁大丈夫ですよ――ところで、今日といふ今日、お比奈坊が、ちよいと用事があるけれど、病人を一人置いては出られない、氣の毒だけれど、半日留守番をして下さらない?――と言ふんぢやありませんか。おつと承知の助、皆まで言ふな――か何んかで、大呑込みで引受けたのは、この間親分に頼まれた、あの病人の身體のことでせう﹂ ﹁フ――ム﹂ ﹁中風で口もきけない病人と、半日睨にらめつこをして暮らすのはあまり樂ぢやないが、その代りお比奈坊にイヤな思ひをさせずに、何も彼も調べられるでせう。――先づ第一にあつしはあのヨイヨイの金六に行水を使はせることにしましたよ﹂ ﹁思ひつきだな﹂ ﹁ところが、やつて見て驚きましたよ。大釜に一杯湯を沸して、流しに盥たらひを置いて、病人を床から牛ごば蒡う拔ぬきにつれ出して見ましたが、臭いの臭くないのつて――﹂ ﹁若い娘一人の手ぢや、そんなに度々行水も使はせられなかつたことだらうよ﹂ 平次は妙なところへ同情してをります。 ﹁兎も角も、ざつと洗つて、もとの床へ納めてやりましたがね、あの病人は誰が何んと言つたつて、正眞正銘の、交まじりつ氣なしの病人ですよ。右半身は石つころのやうになつてゐるし、眼も耳も疎うとい上に、口もきけやしません、――それでも久し振りに身體を洗つてもらつて良い心持になつたと見えて、口をモグモグさせながら、片手拜みにあつしを拜んでゐましたよ﹂ ﹁飛んだ功徳だつたな、いづれ良い酬むくいがあるよ﹂ ﹁酬いはテキメンで、お比奈坊が歸つて來て、それや喜んでゐましたよ。私一人では重くてどうにもならないから、兄が歸つて來るのを待つて、一日も早く湯を使はせてやりたいと思つてゐました――と﹂ ﹁いや、俺からも禮を言ふよ。越中屋の金六が、本當の病人でないと、山之助お比奈兄妹は、とんだ濡ぬれ衣ぎぬを着なきやならないんだ、――いつか江戸を荒し廻つた強賊の﹃疾はや風て﹄が、僞の中氣病みになつてゐたことがあるから一應は金六も疑つて見たのさ﹂ ﹁念の入つたことですね、――でもあの金六ばかりは、醫者に見せる迄もなく、眞物のヨイヨイですよ。尤も、何處かで見たことのある顏だと思つたが、そいつは思ひ出せません﹂ 記憶の百味箪だん笥すの、何處へしまひ忘れたか、八五郎は鼠の穴を仰向けにして、大空を嗅ぎ廻すやうな恰好をするのでした。 ﹁外に氣のついたことはないのか﹂ ﹁行水が濟んでから、家中を探して見ましたが、賣れ殘りの小こぎ布れが少しあるだけで何んにもありやしません﹂ ﹁刄物は﹂ ﹁切れさうもない菜切庖ばう丁ちやうが一丁あるだけ、さう〳〵見事な懷中煙草入がありましたよ。叺かますの中には、國分の上等が少々、多分山之助のものでせうが、少し贅澤ですね﹂ ﹁あとは?﹂ ﹁女物と男物が、だらしもなく交つてゐましたよ。お比奈坊、顏の造作や物言ひはひどく片付いてゐますが、世帶の方は一向片付きませんね﹂ ﹁女房には不向きぢやないか﹂ ﹁へツ、片付けの方は、あつしがやります﹂ 八五郎は顎あごを撫でるのです。 ﹁おや、山之助が歸つたぢやないか﹂ 二人は急に口を緘つぐみました。氣がつくと路地の中へ、少し疲れたやうな山之助がナヨナヨと入つて來るのでした。十二
その翌る日、平次は與力筆頭笹野新三郎の八丁堀役宅に呼出されてをりました。 ﹁平次か、忙しいところを氣の毒であつたな。實は困つたことが起きたのだ﹂ 椽側に平次をかけさせて、近々と煙草盆を持つて來た笹野新三郎は、その頃漸ようやく四十になつたばかり、家代々の與力ですが、當代の新三郎はわけても濶くわ達つたつで聰明で、錢形平次とはよくウマが合つたのです。 ﹁へエ、どんなことでございませう﹂ 平次は膝に手を置いて次を待ちました。美しい秋日和でした。 ﹁外でもない。この間から、南の御奉行所に、何んとも素姓の知れぬ者が出入りするといふ噂のあることは、知つてゐるであらうな﹂ ﹁存じてをります。向柳原の八五郎のところへ押入つた、武家風の泥棒が、御用の提灯と御奉行出入り商人の手形を盜んで參りました。それを變なところで役に立てはしないかと、ビクビクしてをりましたが――﹂ 平次は言ひ淀むのです。間違ひもなくその門もん鑑かんが惡用されてゐると知つても、八五郎の手落ちにしたくなかつたのです。 ﹁いづれ出入りの町人のやうな顏をして來ることであらうが、六十枚の手形が出てゐることだから、どれが曲者やら一向に見當はつかない、――兎も角も、寮に忍び込んで、夜つぴて仕事をする樣子で、書き役の手文庫から抽ひき斗だし、本箱までが散々の荒しやうだ。後で念入りに調べて見ると、書き役の書類の中から、いつぞやお前に追はれて、品川沖で海の中に沈んだ兇賊﹃疾風﹄︵﹃八人藝の女﹄參照︶の記録だけが紛ふん失しつしてゐる﹂ ﹁――﹂ 平次はヂツと考へ込みました。 ﹁あれから三年經つたが兇賊の﹃疾はや風て﹄は三千兩の金を盜み溜めて、本國へ歸參の手てづ蔓るにするために、養ひ娘のお島といふ八人藝の女と、伜の皆吉といふ美少年を使つて、兇賊を働いた末、お前に見出されて船で逃げ出し、品川沖で水死したといふことであつたな﹂ ﹁左樣でございます。養ひ娘のお島といふのが生き殘り、疾風の女房――お島は養ひ親を引取つて世話をして居りましたが、その母親も間もなく亡くなり、お島も何時からともなく姿を隱してしまひました。生きてゐたら、二十五六にもなりませうか﹂ ﹁その疾風と申した兇賊の名を、お前は覺えてゐることだらうな﹂ ﹁本名は木村六彌、又の名を森右門と申しました﹂ ﹁いづれ記録を新らしく作らなければなるまい、宜しく頼むぞ﹂ ﹁かしこまりました﹂ ﹁その記録を選つて盜んだといふのは、仔しさ細いのあることだらう。何彼の手掛りと思つて、わざわざ呼んだのだ﹂ ﹁有難うございます。森右門の木村六彌は死んだ筈でございますが、伜の皆吉と養ひ娘のお島はまだ生きてゐることと存じます。丁度山谷の春徳寺で、三千兩の祠堂金が盜まれた折でもあり、とことんまで調べて見たら、何にかの繋つながりがあるかもわかりません﹂ 曾かつて﹃疾風﹄の木村六彌が、主家歸參のために盜み溜めたのも三千兩、春徳寺で盜まれたのも三千兩、﹃疾風﹄の記録は南町奉行所で盜まれ、それに一脈の關係のありさうな山之助お比奈兄妹の後ろにも、﹃疾風﹄の時と同じやうに、中氣の病人が附き纒つてゐるのです。 尤も、曾て﹃疾風﹄が扮裝したのは僞の中氣でしたが、山之助の主人で、お比ひ奈なが世話をしてゐる越中屋の金六は、八五郎が調べたところでは、間違ひもなく眞物の病人だといふのが、二つの事件の違ひでもあります。 平次は妙に割切れない心持で明神下の自分の家へ歸つて來ました。 黒雲五人男と、山之助お比奈兄妹は、何にかしら重大な繋がりがあるやうですが、兄の山之助は、脅おびえきつた姿で平次のところに泊り込んでをり、妹のお比奈は病人の介抱に隙もない有樣では、黒雲五人男と、この二人の間には、さしたる連れん繋けいがあらうとも思へません。 ﹁あの、ちよいと﹂ 平次は、路地に入らうとした足を停めました。耳に馴れた快よい響きが、思ひも寄らぬ場所で平次を呼止めたのです。 ﹁何んだお前か﹂ 建物の袖の蔭から、ソツと出て來たのは平次の戀女房のお靜だつたのです。曾ては兩國の水茶屋で、美しさと清らかさを謳うたはれた茶汲女でしたが、フトしたことから平次と親しくなつて、散々苦勞をした末に一緒になつた二人です。 でも、平次と一緒になつてからのお靜は見事でした。夫の平次と自分の生活を、少しでも豊かにすることばかり考へて、貧しさの中に精一杯の、つゝましやかな努力を續けてゐるのです。その内氣で出しや張りのないお靜が、自分の家の路地の外に、平次の歸りを待つてゐるといふのは、容易のことではありません。 ﹁何があつたんだ﹂ 平次は重ねて訊きました。十三
お靜の眼顏に案内されて、平次は默つてその後に從ひました。何にか重大なことがあつたらしく、お靜は顏を少し緊張させて、默りこくつて、神田明神の境内へ入つて行くのです。 平次は妙な思ひ出し笑ひのコミあげて來るのを、どうすることも出來ませんでした。二人はまだ戀仲であつた頃、平次の姿を見つけたお靜は、店からソツと拔け出して、眼顏で合圖しながら、町の裏へ、河か岸しぶちへ、案内して行つた、樂しい逢引のワンカツトを思ひ出してゐたのです。 ﹁ね、お前さん、あの人は矢つ張り女よ﹂ 明神樣の裏手に廻つて、捨石に並んでかけると、顏をそつぽの方へ向けたまゝ、偶然並んでかけた他人同士のやうに、お靜は口を開くのでした。 ﹁女? 山之助が?﹂ ﹁お前さんは、さう言つたでせう。呉服屋の番頭だと言つた山之助さんの手に、撥ばちだこのあるのは變だつて﹂ ﹁言つたよ、聲も恰好も、男に違げえねえが、素振りに變なところがあるし、あの撥だこはどうも呑込めないつて﹂ ﹁私は、それから氣をつけてゐました。すると、風邪を引いたと言つて、どうしても町湯へ行かないし、もう一つ、うちへ來てから七日にもなるのに、少しも髯ひげが伸びないでせう﹂ ﹁あ、成程、いゝところへ氣がついた﹂ 平次は思はず褒めてしまひました。お勝手へ引つ込んで、世帶のやりくりより外には、何んにも知らないやうな顏をしてゐるお靜に、こんな結構な智慧があらうとは思はなかつたのです。 ﹁それに、聲も恰かつ幅ぷくも男だけれど、身のこなしに、妙に柔かい丸味があるでせう﹂ ﹁フーム﹂ ﹁それから、女にはよくわかりますが、あの人には男の匂ひがないんです﹂ ﹁――﹂ ﹁もう一つ、先さつ刻き、お勝手の落しの揚げ蓋ぶたが曲つてゐたのへ足を乘せて、思はず落しの中へ落ち込むと、あの人はキヤツと悲鳴をあげたぢやありませんか。どんなに氣の弱い人だつて、男はあんな悲鳴をあげる筈はないでせう﹂ ﹁その落しの蓋を、お前はわざと曲げて置いたんぢやないか﹂ ﹁あら、そんなこと﹂ お靜は思はず顏を赧らめて、襟に顎を埋めましたが、おとなしいやうでも岡つ引の配つれ偶あひは、それぐらゐの技巧がないとは言ひきれません。 ﹁兎も角、そいつは有難かつた。山之助が女とわかると、いろ〳〵考へ直さなきやならないことがある。お前もよく見張つてゐてくれ――なアに大丈夫、何んにも怖いことがあるものか、お前は默つて家へ歸るがいゝ。俺は相手が用心しないうちに、もう一つ突つ込んで調べたいことがある﹂ 平次はお靜を家へ歸すと、その足ですぐ向柳原の八五郎の巣を訪ねました。 ﹁おや、親分、珍らしいことですね。親分の方から此方へ來るなんて、まア〳〵﹂ などといふ八五郎を押し留めて、 ﹁直ぐ支度してくれ、新鳥越へ行くんだ﹂ ﹁お比ひ奈なのところですか、今日も一度覗いて來ましたが、――﹂ ﹁精の出ることだ﹂ 二人はあまり冗談も言はず、銘々のことを考へながら新鳥越の越中屋へ行きました。もう日が暮れかゝつてゐる頃です。 ﹁ま、親分さん方、こんなところへ﹂ などと、お比奈は嬉しさうに二人を迎へてくれます。 ﹁病人はどうだえ、世話のやけることだらうが、お前は感心だよ﹂ 平次はお比奈の勸めるまゝに、狹せまい店の中に入り込みました。 ﹁今丁度晩の支度のところでした﹂ ﹁さうか、兄さんもお前がよくしてくれるので、安心してゐる樣子だよ﹂ ﹁本當に濟みません。兄さんが臆病なばかりに、飛んだ御厄介になつて﹂ ﹁何んの、そんなことは構ふものか。ところで、俺も何にかの縁だ、ちよいと病人の見舞ひをして行きたいが――﹂ ﹁汚いところですが、どうぞ﹂ 平次はお比奈に案内されて、たつた一と間の病間へ入つて行きました。プーンと鼻をつく異臭が、さすがの平次を辟へき易えきさせましたが、それでも割り込むやうに狹い部屋に入つて、傾かたむく夕陽の――丁度窓から射し込むのに透すかして見ると、八五郎が言つたやうに、これは間違ひもなく半身不隨のまゝ死にかけてゐる中氣の病人で、嘘も掛け引もないことは一と眼でわかります。 一つ二つの慰めの言葉をかけましたが、病人の金六には、それも通じない樣子です。 平次はよい加減にきり上げて、八五郎を誘つて、暮の街へ飛び出す外はありません。踏み留まつて調べるには、これはあまりにも陰慘です。 外へ飛び出すと、 ﹁八、近頃六十年配の、左の小こび鬢んに禿はげのある行き倒れがなかつたか、調べてくれ――それがわかつたら誰が引取つて行つたか嗅ぎ出すんだ。多分乞食だらうと思ふが――﹂ 平次はいきなり八五郎に一つの仕事を言ひつけるのです。 ﹁乞食ですつて、親分?﹂ ﹁あの病人は呉服屋なんかぢやないよ、立派な物貰ひさ。顏は申し分なく陽に焦やけてゐる癖に、齒は眞つ白だし、手の甲と同じやうに手の平まで陽に焦けてゐる。人足や百姓のやうな、激しい仕事をする人間ぢやない、――多分中氣で行倒れになつてゐる物貰ひを、拾つて來て金六に仕立てたんだらう、――非ひに人んが頭しらに訊くがよい、うまく行けば一ぺんにわかる筈だ﹂ ﹁やつて見ませう、――お比奈坊は何んだつて、そんな乞食を――﹂ ﹁お比奈坊のことなんか、忘れてしまへ﹂ ﹁へエ﹂十四
平次は其處から直ぐ本銀町の兩替屋阿波屋三郎兵衞の家へ急ぎました。事件は妙に急迫感を帶びて來たので、寸刻の遲れも許されず、町駕籠を拾つて精一杯の酒手をやつたのは平次にしては珍らしい奢おごりです。 ﹁あ、錢形の親分、丁度私の方から參らうと思つてをりました﹂ 阿波屋三郎兵衞はイソイソと迎へるのです。 ﹁お孃さんはどんな樣子で?﹂ ﹁そのことでございます。最初は散々に駄々をこねてをりましたが、あのお小姓は三千兩の盜人で、手代の宗次郎を殺した下げし手ゆに人んに相違なく、それに身許も名前もわからず、探しやうもないではないか、そんな者に逢はせろといふのは、世間樣への聽えも恥かしい、何時までもそんなことを言ふなら久離きつて勘當する――と申しますと、それからは床に就いたつきり、三度の食事にも起きて來ず、まるで半病人になつてしまひました。その上誰が何んと言つても返事をせず、朝から晩まで泣いてをります。不心得な娘でございますが、萬一のことがあつては、三千兩の金にも換へられません。親分にお目にかゝつて、良い智慧を拜借したいと思つてをりました﹂ 阿波屋三郎兵衞は、面目次第もない首を垂れるのです。我儘一杯に育つた一人娘が、思春期の爆發的な狂態は、親の意見もさして役には立たなかつたのでせう。 ﹁それは困つたことで、――兎も角も、あつしが逢つて見ませう﹂ 平次は娘に逢つて、手代宗次郎を殺して、三千兩の金を奪つた、色小姓の正體を突きとめる氣になつてをりました。 ﹁では﹂ 三郎兵衞の案内で、平次は娘の部屋へ通されましたが、それは世にも可愛らしく、艶なまめかしい六疊で、床に就いてゐる我儘娘を看み護とつてゐたらしい母親のお仲は、平次の顏を見ると、靜かに立つて隣りの部屋に外し、行あん燈どんを中にして相對したのは、あわてて床の上に起き直つた、娘のお由利の取亂した姿と、錢形平次の冷たい顏だけになつてしまひました。 ﹁お孃さん、あのお小姓は、男姿にはなつてゐるが、實は女と判りましたよ﹂ ﹁え?﹂ 錢形平次の言葉は、無言戰術のお由利にも、恐ろしい衝しよ撃うげきを與へました。 ﹁あれは黒雲五人男の内の一人で、お源といふ、名題の毒婦とわかりましたよ。女が女を思ひ詰めて、どうするのですお孃さん、恥かしいとは思ひませんか﹂ 平次の言葉は丁寧ですが峻烈でした。 ﹁いえ、いえ違ひます、違ひますよ、そんなことはあるものですか、あの人は、確かに男﹂ ﹁證據は?﹂ ﹁私が振袖に縋すがりつくと、それをパツと脱ぎ捨てて、用意の半はん纒てんに頬冠りをして外に飛び出しました。お乳と胸毛と、――そんなものを皆んな見てしまつたんですもの﹂ ﹁――﹂ ﹁あの方は私に囁きました、いつかは又逢はうと﹂ かう言はれると、平次の築き上げた空想の構圖も、すつかり突き崩されてしまひます。 ﹁そしてあの小姓が引揚げる時、宗次郎を刺したのも、お孃さんは見てゐたでせうね﹂ ﹁――﹂ お由利は激しく頭を振ります。恐らくその時は、昏こん々〳〵として麻ます睡ゐせられてゐたのでせう。 平次は默つて引揚げる外はなかつたのです。明神下まで歸つて來ると、夜更けにも拘かゝはらず、八五郎が待つてをりました。 ﹁どうした八、わかつたか﹂ ﹁非人頭のところへ行くと一ぺんにわかつてしまひましたよ。片かた鬢びんの禿はげた乞食の爺いが、中氣で身動きも出來なくなつたのを、綺麗な若い女が來て、知しる邊べの者だからと引取つて行つたさうですよ。尤も、場所は草さう加かで、少し遠いからわからなかつたわけで、あつしが一度見たやうに思つたのは、滿更夢ではなかつたとわかりましたよ﹂ ﹁それは何時のことだ﹂ ﹁三月ほど前で﹂ ﹁よし、それでわかつた。お前は明日の晝頃新鳥越へ行つて、あのお比奈坊を口く説どいて見る氣はないか﹂ ﹁へつ、からかつちやいけません﹂ ﹁大眞面目だよ、抱きついても構はねえ。首の後ろに眞つ赤な痣あざはないか、それを見極めるんだ。頬ほゝ摺ずりぐらゐはしたつていゝとも。萬々一だよ、髯ひげを削そつた跡があつたら、其處で縛つてかまはねえ﹂ ﹁あの、お比奈坊が三千兩泥棒のお小姓ですか、親分﹂ ﹁まだわからねえよ、――それからかう言ふんだ。親分の平次が、泥棒の隱した三千兩を見つけたさうだから、今晩は取出すことになつてゐると――﹂ ﹁本當ですか、それは?﹂ ﹁本當なら、こんなことをお前に頼むものか﹂ ﹁へエ、何んだかわからなくなりましたね﹂ 八五郎は平次の思惑を測りかねて、眼をパチパチさせてをります。十五
翌る日の夕刻、薄暗くなりかけた頃、越中屋にゐた筈のお比奈は、不斷着のまゝ、山谷の春徳寺の山門を入りました。
本堂の前で、お賽さい錢せん箱の中に、なにがしかの鳥目を投げ入れると、暫らく默祷をして居りましたが、何に脅おびえたか、いきなり身を飜ひるがへしてバタバタと逃げて行くのを、山門の前で、大手を擴げた八五郎に止められてしまつたのです。
﹁あ、八五郎親分﹂
隙を狙つて、雌めへ豹うのやうに逃げ出さうとしましたが、その時後ろから錢形平次が、
﹁皆吉、久し振りだつたな﹂
と、聲を掛けると、お比奈は、暫らく石疊の上に立ち縮すくんでしまひました。平次の後ろには﹃あのお小姓に逢はせるから﹄と無理に誘ひ出された阿波屋の娘お由利が、何が何やらわからず夢心地に立つてゐるのです。
﹁えツ、もうかうなれば﹂
お比奈はパツと裾すそを蹴返すと、一瞬しゆん、鬪志沸ふつ々〳〵たる惡少年皆吉になつて居りました。
﹁それ、八﹂
﹁御用ツ﹂
爭ひは深刻でしたが、平次の力添へで瞬時にかたづいてしまひました。
﹁畜生ツ、覺えてゐやがれ、岡つ引奴﹂
平次を睨んで惡あく罵ばの嵐を浴びせるお比奈は、もう物靜かな娘のおもかげもありません。
× × ×
平次はその夜のうちに、春徳寺の須しゆ彌みだ壇んの下から、三つの千兩箱を取出して、寺社奉行の役人に引渡しました。
そして事件が一段落といふ時、八五郎のために、かう説明してやつたのです。
﹁あれは今から三年前、浪人木村六彌が、主家歸參のために入用な三千兩を盜み溜め、それを俺に邪魔された上、品川沖で水死をしたことがあるが――その後日物語さ。お比ひ奈なは六彌の伜の皆吉で、小さい時から女姿で育ち、自由自在に女にも男にもなれるといふ重寳な野郎だが、人間は恐ろしく太いよ。死んだ親父の志を繼ぐために三千兩の金を拵へることを考へ、義理の姉のお島を無理に引入れて、黒雲五人男の芝居を書いたのさ﹂
﹁お島といふと、あの八人藝の﹂
﹁榮屋の山之助といふのは、實は女で、八人藝のお島が姿を變へたのだよ。皆吉のお比奈に無理に仲間にされ、喧嘩になつて淺草で額ひたひを割られた、あれは黒雲五人男のせゐではなくて、義理の弟の――しかも女姿になつてゐる皆吉のせゐだよ、――其處へ俺が顏を出すと、この平次には昔の恨うらみがあるから、馬鹿にしてやらうと思ひついて、あんな黒雲五人男の芝居を拵へたのだ﹂
﹁へエ、太てえ奴等で﹂
﹁お前の家へ入つた泥棒は、お島の山之助だ﹂
﹁でも、侍髷まげが頬ほゝ冠かぶりの下から見えたと叔母は言ひましたぜ﹂
﹁附け髷だよ。五六寸の棒がありや、叔母さんの眼ぐらゐは誤ご魔ま化かせるよ﹂
﹁へエ、呆あきれた話で﹂
﹁それから丸屋で毒藥を盜んで、春徳寺で三千兩を盜つたのさ。お島の山之助は惡事をいやがるから、人質のつもりで俺のところへ預け、お比奈の皆吉が一人でやつた仕事だよ。住職と小僧を縛つた修行者も、皆吉の早變りさ﹂
﹁首の赤い痣あざは?﹂
﹁そんなものはわけもなく描けるぢやないか﹂
﹁三千兩の金が、あの寺にあるとどうしてわかつたんです﹂
﹁千兩箱は一つ五貫目もあるんだ、――あの時は外へ持出す隙がなかつたよ。それに相棒もないとわかると、寺の中に隱してあるときめて差支へはあるまい。俺が三千兩を見つけてしまつたと、お前がお比ひ奈なに言ふと、我慢が出來なくなつて、日暮れを待ちかねて樣子を見に來たらう、――阿波屋の娘のお由ゆ利りは、それを襖ふすまの隙間から見て、お小姓に違ひない――と飛び出さうとするんだ。それで間違ひあるまい﹂
﹁へエ、恐ろしいことですね、あんな綺麗な若造が――﹂
﹁義理の姉のお島が手傳つたといつても先づ皆吉一人の仕事だ。黒雲五人男が江戸一パイに蔓はびこると見せた手際は恐ろしいよ﹂
﹁お島はどうしました﹂
﹁何處かへ逃げたよ。それでいゝぢやないか﹂
かう言つた平次です。