奉行に代って
﹁お駒こまさん、相変らず綺麗だぜ﹂ ﹁あら、権ごん次じさん、お前さんは相変らず口が悪いよ﹂ ﹁口の悪いのは通り者だが、お駒さんの綺麗なのと違って罪は作らねえ﹂ ﹁何を言うのさ、いきなり悪口を言ったり、好い児こになったり﹂ 二人は顔を合せさえすれば、斯こんな調子で物を言う間柄だったのです。 神田明神前にささやかな水茶屋を営んで居る仁じん兵べ衛えの娘お駒、国くに貞さだの一枚絵に描かれたほどの美しさで、享保明和の昔の、お仙せんお藤ふじにも優るだろうと言われた評判娘が、何どんな廻り合せで懇意になったものか、金きん座ざの後ごと藤うさ三ん右え衛も門んに仕われて、草ぞう履りを直したり、庭の草までって居る、潮ひょ吹っとこの権次という三下野郎と、不思議に馬が合うのでした。 尤もっとも、恋でも情でもあるわけはありません。お駒はピカピカするほど美しいのに、権次は綽あだ名なの通り潮ひょ吹っとこで、それに年だっても、四十の方へ近かったかも知れず、家も金も、貫祿も見識も無い身軽な折助風情ですから、引ひき手てあ数ま多たのお駒を何どうしようと言う野心があるわけは無かったのです。 見てくれの美しさに似ず、気きし象ょう者もので鉄火で、たった十九と言うのに、狼連を手玉に取って、甘塩でしゃぶるようなお駒と、気軽で、剽ひょ軽うき者んもので、捉えどころの無い権次が、互たがいに友情らしいものを持って居たにしても不思議はありません。 ﹁ところで、お駒さん、内々の話があるんだが﹂ ひとわたり軽口を叩くと権次は案外真剣を顔になって、見事に尖った唇をペロリと嘗なめます。 ﹁厭だねえ、内々の話なんか、其そ処こで白状して了しまいなよ﹂ ﹁口く説どくんじゃ無いぜ、お駒さん﹂ ﹁当り前さ、お前さんに口説かれたって驚きやしないが、又お小遣を借せってんじゃないの﹂ ﹁人聞きの悪いことを言いっこなし、ありゃお前たった一度だぜ、割前勘定が不足して、飛んだ恥を掻きそうになったからお駒さんに頼んで埋め合せをして貰ったが、翌あくる日は、お土みや産げ附で返した筈はずだぜ﹂ ﹁お土産まで吹聴されちゃ世話あ無い――﹂ ﹁まア宜いいやな、今日のは天下の大事だ、お茶らかさずに附き合ってくんな﹂ ﹁天下の大事と来たね、――それじゃ聴いてやらなきゃア駿する河がだ台いの殿様に済まないだろう、此こっ方ちへお入りよ、ホホホ﹂ ﹁大おお久くぼ保ひこ彦ざ左え衛も門んの講釈と間違えてやがる、ハイ御免﹂ 変な顔で見送って居る客をかき分けて、権次はお駒の後に続きました。店から帳場だけを隔てて、形ばかりの六畳ですが時々は此こ処こへ泊るものと見えて、一ひと通りの世帯道具は揃って居ります。 ﹁閉め切って居ると暑いね、少し開けようか﹂ ﹁ちょいと待った、其そ処こを開けるのは、一と通り話が済んでからにして貰おうか﹂ ﹁だってもう四月だよ﹂ ﹁四月だって五月だって、女を口説くのに開けっ放しと言う法は無い﹂ ﹁本当に口説く積つもりかえ、権次さん﹂ ﹁権次さんと来たね、俺はもう十ばかり若いと、口説き度たくなるだろうよ﹂ ﹁若くなくたって、顔の造作は変えられない﹂ ﹁言ったね、お駒奴め﹂ 又脱線して了しまいました。 ﹁冗談は宜い加減にして、早く用事を言ってお了しまい、店は金きんちゃん一人で、困って居るじゃないか﹂ お駒はそれでも、話の本筋へ引戻しました。少し斜ななめに坐ると、膝の間から紅いものがこぼれて、皮下脂肪の多い、滑らかな手足、――その真珠色の皮膚や、桜貝のような爪を見ただけでも、この女の恵まれた美しさが、全身に行ゆき亙わたって居るのに驚かされるばかりです。 ﹁思い切って話そう、お駒さん、お前は言い交した、相あい沢ざわ宗そう三ざぶ郎ろう様と別れなきゃアならないんだぜ﹂ ﹁えッ﹂ ﹁そして、今の俺にはお主に当る、金座の後藤三右衛門の総領、三さん之のじ丞ょう様のところへ行って貰わなきゃアならないんだ﹂ ﹁そんな馬鹿な事を、誰が一体私に言い付けるのだえ、生意気じゃないか、潮ひょ吹っとこ権次の癖に――﹂ お駒はカッとすると、外して持って居た赤い襷たすきで権次の顔をピシリと叩きました。 練ねり絹ぎぬのような美しい膚はだが、急に茜あかねさして、恐ろしい忿ふん怒ぬに黒い瞳がキラリと光るのさえ、お駒の場合にはたまらない魅惑です。 ﹁お駒さん、腹を立てるのも尤もだが、これには深いわけがある、落おち付ついて聴いてくれ﹂ ﹁誰が落付いてなど居るものか、犬にでも食われて死んで了しまうが宜い﹂ お駒がサッと立たち上あがるのを、権次は裾を掴んで引戻しました。 ﹁小唄の文句の通りだ、俺もこんな非道な事を言うより、犬にでも食われた方が増しだよ﹂ ﹁何をするのさ、離しておくれ、人の裾なんか掴んで、気き障ざでないのだけがお前の身上だと思ったら――大きな声を出すよ﹂ ﹁あ、存分に張り上げておくれ、お駒、俺は袋叩きにされて放り出されても怨みはしない、お前が相沢様と切れて、後藤の小倅のところへ切り込んでくれさえすれば、自慢じゃ無いが、痛い腹位は切っても宜いよ﹂ 振り上げた権次の顔は、妙に突き詰めた真剣さに硬こわ張ばって稀代の醜グロ怪ティスクな潮ひょ吹っとこも、もう笑える人相ではありません。 ﹁何なんだとえ?﹂ ﹁誰も聴いちゃ居ないか、お駒さん、皆みんなブチまけて話そう、これは勘定奉行矢やべ部する駿がの河か守み様の指さし金がねだ﹂ ﹁えッ﹂ ﹁お駒さん、俺は駿河守様に代って、お前を口説きに来たんだ、聴いてくれ﹂ 権次の声もすっかりうるんで、お駒は引据えられたようにその前にうな垂れて居りました。不義の富を探る役目
天保四年、七年再度の大飢饉の恐ろしさは、書いたものにも故老の話にも語り伝えましたが、特に八年は窮乏の絶頂で日本全土の人間が菜さい色いろになったと言っても宜い有様、江戸から東北へかけて、文字通り餓がひ野のに横よこたわるという悲惨な日が続きました。 大阪では大おお塩しお平へい八はち郎ろうの乱が二月に起り、江戸でも春から人気が沈み切って、毎日何百という飢うえ死じにがある有様です。 幕府の倉を開いて、窮民を賑わすとか、悪貨を鋳いて逼迫した金融を緩和しようと言う議はありましたが、もう少し根本的に考えて、米価を引ひき下さげようとか、差し当り何十万の窮民を救おうとか言う議は無かったのです。 勘定奉行矢部駿河守は、後に鳥とり居いか甲いの斐か守みに陥れられて、水みず野のえ越ちぜ前んの守かみの末路も見ずに憤死して了しまいましたが、天保年間ばかりでなく、徳川三百年の治世中にも、幾人と数える位の良吏でした。 この時は若くもあり、元気でもあり、その代り新米の勘定奉行で、睨にらみのきかなかった惧おそれはありましたが、随分辛辣と思われるほどの仕事もやって退のけました。 第一に眼をつけたのは、勘定奉行配下にある、金座、銀座の役人です。これは貨幣鋳造の度たび毎ごとに、分一と言うものを貰う︵千分の十、即ち千両の鋳造で十両ずつの所得︶外ほか、いろいろの役得があって、後藤三右衛門などはその私財だけでも百万両を超えるだろうと言われるほどでした。遥か後年弘化二年に金座の後藤が死罪になったのは、上かみを誹謗したと言う罪名になって居りますが、実際は鳥居甲斐守等と結んで悪貨を鋳造し、不義の私財を集め過ぎた為です。 銀座の方の役人も、これに劣らず豪奢を極め、中役の小こみ南なみなどは、家の中が小判だらけだったとか、蒲焼を取って二分金で払ったとか、千両以上の費用で、別荘を三つも作ったとか言う噂もありました。 駿河守はこの金座銀座の役人から、窮民救済の冥加金を取とり上あげようと考えましたが、何んとしても適当な工夫がありません。勘定奉行の役目で、金座へ出張して調べることは何んでも無いが、吹ふき屋やち町ょうの後藤三右衛門の私宅――黄金が唸うなって居るという奥倉は、役目を笠に被きても調べようが無かったです。金座銀座の頭かしらは、今日の日本銀行総裁のような非常に見識があったもので、勘定奉行と雖いえども、滅多に指を差すわけに行かず、若もし調べた上で、不正の貯蓄が見当らないとなると、これは腹切り道も具のです。 そこで、清廉謹直な駿河守ですが、日毎に加わる町人百姓の窮状を見兼ねて、金座銀座の役人の宅に隠密を放ち、その生活状態から、貯蓄の有無を調べさせ、本宅別荘の絵図造作までも写し取らせました。 この間の消息は﹁甲子夜話﹂などにも載って居りますが、良吏駿河守にしては、全く一代の密偵政策だったでしょう。 ﹁何を隠そう。俺は矢部駿河守様から、金座の後藤に附けた隠密の一人――﹂ ﹁えッ﹂ これは、お駒も驚きました。馬鹿な話ばかりして居る潮ひょ吹っとこの権次が、勘定奉行の密偵とは、さすが人を見る商売のお駒にも思い及ばなかったのです。 その上、命を的に金座へ入り込んで居る権次が、軽々しく身分を打うち明あけたのが、此この頃ごろの隠密制度が、どんなに厳重なものであったかを知って居るお駒には不思議でたまらなかったのでした。 ﹁こんな事をベラベラ喋ったら、お駒さんは吃びっ驚くりするだろうが、皆みんな駿河守様の御指図さ、俺一人の智慧じゃねえ﹂ ﹁…………﹂ ﹁聴いてくれ、お駒さん、外の役人の暮し向むきは、二月三月の探索で、手に取るように判って了しまったが、肝かん甚じんの本尊、後藤三右衛門の暮し向ばかりは、何どうしても判らねえ、吹屋町の奥蔵三戸前には、大判小判が捻って居ると言うことだが、誰も入って見た者が無いんだから、世間の噂ばかりじゃ、駿河守様も冥加金の謎の掛けようがねえ﹂ ﹁…………﹂ ﹁俺は吹屋町の屋敷に住すみ込こんで半年になるが、銀座の小南と違って、金座の後藤は躾しつけが宜いから、年に四両の給料の外には小判の面つらも見せたことがねえのだよ、――嘘か本当か知らないが、あの三戸前の奥蔵へ入りゃア、其その場ばを去らず手討だという話だ、手討にされたら化けて帰って、駿河守様へ申もう上しあげる積りで、半年越し折を狙ったがいけねえ﹂ ﹁…………﹂ ﹁三戸前の蔵の鍵は、三右衛門が自分で持って居て、誰にも開けさせねえことにしてあるんだ﹂ ﹁…………﹂ 権次の話が次第に核心に触れて行くのを、お駒は耳を塞ふさぎ度いような心持で聴いて居るのでした。 勘定奉行の下役――お駒と内証で夫婦約束までした相沢宗三郎と切れて、此間から熱くなって通う、後藤三右衛門の倅三之丞の許もとへ行けと言うのは、その吹屋町の後藤の私宅にある、三つの奥蔵の中を探れと言う頼みでしょう。 大概の事なら、真っ向から断って退けるお駒ですが、相手は矢部駿河守ではそうもなりません。何んと言う因果な通り合せか、駿河守がまだ一千五百石の小祿を食はんで、火附盗賊改あら役ためやくをして居る頃、親の仁兵衛はフトした罪を犯して、危うく遠島にもなるところを、駿河守の寛大な処置で助けて貰った大恩があったのです。 ﹁後藤の小倅が、毎日明神様へ参詣して、呑み度くもない茶を呑むことを、矢部の殿様は悉ことごとく御存じだが、昔、少しばかり恩をきせてあるだけに、仁兵衛やお駒には頼まれないと仰おっしゃる﹂ ﹁…………﹂ ﹁俺には、矢部の殿様のお心持はよく解って居る、――吹屋町の三戸前の蔵は、女の腕で無きゃア開けようがねえ﹂ ﹁…………﹂ ﹁お駒さん、余計な事は言わない、此境内からたった一ト足出て、此この節せつの江戸の街を見てくれ、両に二斗の米︵米価は此時百文に二合八勺まで騰あがりました︶が食えるものか食えねえものか﹂ ﹁――――﹂ 権次は暗然と声を呑みました。 ﹁田いな舎かでは蕨わらびの根も田たに螺しも、藁も杉の皮も食うと言うが、江戸の者は一体何を食やあ宜いいんだ――昨日も昌平橋の側で三人、今日はお茶の水で二人、此界隈だけでも、何十人何百人行倒れになるか、わからねえ世の中だ。所々にお救い小屋はあるにしたところで、江戸中の困る者の口の数に比べりゃア、焼石に水だ、近いところ筋すじ違かい橋はし外と和いず泉みば橋しの御おす救くい小ご屋やへ流れ込む人の数を見ねえ、一杯ずつ粥を施すんだって容易のことじゃねえ﹂ ﹁…………﹂ ﹁こんな事を言っちゃ何んだが、お上の御金蔵は空っぽ、買かい穀こくをし度いにも金がねえ、御払米が一万石出たが、それもお湿りにもならないじゃないか、町方はせめて十万両も米を買上げて、半値に売り度いと言うそうだが、駿河守様は、何どうしても三十万両なくちゃ、新米の出廻るまでの凌しのぎが付かないと仰しゃるんだ、そんな大した金は、町人からは絞りようがねえ、当てにするのは小判が唸って居る金座銀座の役人衆の懐ばかり﹂ ﹁もう解ったよ、権次さん﹂ ﹁えッ﹂ お駒はいきなり顔を挙げると、権次の饒舌を封じて了しまい度い様に斯こう言いました。 ﹁理窟は知らないが、向うでも隣りでも、三度の食事は愚かろくなおも湯も啜すすれなくって、弱い者や年寄や子供が、バタバタ死んで行くのは私もよく知って居る。こんな時世に、色の恋のと言っては勿もっ体たいない、私は行くよ﹂ ﹁えッ﹂ ﹁後藤の小倅のところへ行って、あの三戸前の蔵の中に、何が入って居るか見届けてやるよ﹂ ﹁本当かいお駒さん﹂ ﹁だけどもさ、あの青あお瓢びょ箪うたん野郎の儘ままになると思えば、私は口く惜やしい﹂ ﹁お駒さん﹂ ﹁何んだって又、私はこんなに綺麗に生れ付いたんだい﹂ ﹁そんな事を言ったってお駒さん﹂ ﹁私は泣き度い、権の字、膝を貸しておくれよ﹂ ﹁御安い御用だとも﹂ お駒は、権次の膝の上へ身を伏せて、泣いて泣いて泣き耽ふけりました。身も浮くばかり――と言う形容詞は、こんな時だけが本当らしく使えます。 湯のような美女の涙が、布ぬの子こを通して太股に流れるのを、権次は手の付けようの無い心持で、我慢しました。それは、実に恐ろしい魅惑です。身を捨てて人を助けよう
﹁相沢さんはそれを御存じかい﹂ 泣き疲れて、暫しばらく静かにして居たお駒は、半刻ばかり経つと不意に頭を挙げました。すっかり涙で洗われた顔は、新鮮な李すもものように紅くなって、十九娘のむせ返るような魅力が何んとも言いようの無い匂いを蒔まき散らします。 ﹁それは御存じだとも、相沢の旦那も一緒になって捜索したが、矢や張はり吹屋町ばかりは手が付けられねえ、到とう頭とう我慢が出来なくなって、お前を頼むことに話が纏まとまったのだよ﹂ 今まで、美女の涙を膝に享楽して居た権次は、夢から呼び覚されたように斯こう言いました。 ﹁それほど知って居なさるなら、何どうして御自分で入いらっしゃらないのさ﹂ ﹁こんな事をお駒さんに言う顔が無いと言うのだよ﹂ ﹁意気地が無いんだねえ﹂ ﹁えッ﹂ ﹁そうじゃ無いか、外に良い女が出来ての切れ話なら、人に頼んで言わせる筋もあるだろうが、それほどの役目を引受けて、江戸中の人を助ける為に切れるのを、私は厭いやだと言うとでも思ったのかい﹂ ﹁冗談、冗談じゃ無いよお駒さん、相沢の旦那は気が弱かったんだ、唯ただそれだけの事だよ、自分の口から、お前に切れてくれとは言い憎にくかったんだ﹂ ﹁そうかねえ﹂ 妙にそぐわない心持、お駒は襟に顎を埋めて、考かん込がえこんで了しまいました。 ﹁相沢の旦那を悪く思っちゃいけないよ、お駒さん﹂ ﹁悪くは思わないが、意気地の無い人だと思うよ﹂ ﹁…………﹂ ﹁そんな武士が何ど処こにあるんだい﹂ ﹁お駒さん﹂ ﹁黙っておくれ、――自分の女を人に取られているのに、指を食えて引込んで居るような男を、私は大嫌さ﹂ ﹁お駒さん﹂ ﹁権次さん、黙って居ておくれ、腹でも立てなきゃア、私は後藤の小倅のところへ行く張り合あいが無い﹂ ﹁…………﹂ ﹁畜生ッ﹂ 権次は慰めようもなく、黙って女の取乱した様子を見守るばかりです。 ﹁お駒さん、無理もない事だが、相沢さんには罪が無い﹂ ﹁黙ってお出いでよ、権の字、お前さんもお節介だねえ、隠密などになったり、色事へ口を利いたり、畜生っ、惚れてやるから﹂ ﹁あッ﹂ 権次は飛とび退のこうとしました。お駒の見幕があまりに凄まじかったのです。 ﹁権の字、私は口く惜やしい﹂ ﹁お駒さん、気を確しっかり持ってくれ﹂ ﹁相沢さんは勘定奉行与力で、二百石取の大身だろう、夫婦約束をしたって、水茶屋の娘の私とは提ちょ灯うちんに釣鐘、末遂げられるものとは思っちゃ居ない。――邪魔なら邪魔と、何どうして御本人の口から言ってくれないんだえ﹂ ﹁お駒さん、それは無理だ、相沢さんは、お前を捨てる積りもなく、厄介払ばらいをする積りで拵こしらえた細工でも無い――﹂ ﹁解って居るよ権の字、だから、私は自分の勝手であの後藤の瓢箪野郎のところへ行くんだ、私は自分の身を捨てて江戸中のいや日本中の困って居る人を救えや宜いんだろう、相沢さんが何んだい﹂ ﹁…………﹂ ﹁さア、帰ったらそう言っておくれ、相沢さんには、私の方から切れてやるって﹂ お駒は立上って、夕明りのほのかに射して来る窓へ寄りました。其そ処こには鏡台が一つ、上へ掛けた被いを取ると、磨みがかせたばかりの鏡の中に、少し腫はれっぽくはあるが、涙に洗われて反かえって美しくなった自分の顔が映ります。 もう、後藤三之丞が、お詣りに来る時刻だったのです。吹屋町の屋敷へとお駒の望み
﹁あら、後藤様﹂ ﹁大層今日は愛想が好いな、お駒﹂ ﹁誰も居ないから﹂ ﹁ウ、フ、フ﹂ 金座の後藤三右衛門の倅三之丞、少し病弱で青白くはありますが、何ど処こから見ても、立派な若侍です。供の者が一人、それを店先に休ませて、自分だけは、例の通り、ズイと奥へ通ります。 ﹁それに、いつもより綺麗に見えるのは何どう言うわけだ﹂ 羽織の裾を払って、長いのを側へ置くと、扇を斜に、少し気取った構かまえになるのでした。年の頃二十五六、何んと言っても若い三之丞です。 ﹁旦那がお見えになったからでしょう﹂ ﹁ウ、フ、フ﹂ ﹁それに、今日はあのいつぞやのお返事を申上げようと思って、朝からお待ちして居りました﹂ お駒は側へ坐ると、なよなよと上半身を曲げて、三之丞のノッペリした顔を下から見上げるのでした。 ﹁それは有あり難がたいな、吉か、半吉か、まさか凶ではあるまいな﹂ ﹁吉か、凶かは存じませんが、旦那様のお覚おぼ召しめしもよく解りましたし、父とも相談して、いよいよ御言葉に従うことにいたしました﹂ ﹁え、本当か、それは、有難いな、いよいよ話が決れば、この水茶屋の株などは人にやって了しまって、お前の好きなところへ一軒﹂ ﹁あの、お言葉中ですが﹂ ﹁何んだお駒﹂ ﹁旦那様の御側へ置いて下されば、妾、手掛はおろか、召し使つかいでも厭いとうことでは御ご座ざいませんが、なるべくは、吹屋町のお屋敷の方へ置いて頂き度う御座います﹂ ﹁それは又異な望みだな、窮屈ではないか﹂ ﹁それも覚悟して居ります、女と生れて、旦那様のような立派なお方と契った冥利に、金座のお屋敷にたった一日でも住んで見度いので御座います﹂ ﹁フーム﹂ 家門に対する自負心があるだけに、お駒の望みが、三之丞には尤もに聞えました。 ﹁何どうした物で御座いましょう旦那様、どんなに不自由なく暮しても、世間並の囲われ者では、私は厭で御座います﹂ ﹁待て待て吹屋町へ入れることを、ならぬとは言わぬぞ、一応父上へ申上げて、近いうちに吉きち左そ右うを知らせるとしよう﹂ ﹁旦那様、お願ねがいで御座います﹂ お駒は一生懸命でした、ツイぞ側へ寄ったことも無い三之丞の膝に取とり縋すがって、それをグイグイと動かし乍ながら、あらゆる媚と我儘と、魅惑と香気を撒き散らします。蔵へ行き度い願い
話は思いの外トントン拍子に進みました。二十六まで独身を通して、お駒より外の女には、振り向いても見ようとしなかった三之丞の一克さが、頑固な父の三右衛門を動かして到頭﹁召使﹂という名儀でお駒を容れることになったのは、それからたった三日の後だったのです。 お駒は手軽に吹屋町に乗のり込こみました、が、宏大な屋敷の中に入って、幾十人の召使の中に立ち交まじわると、今いま更さらお駒の美しさが目に付きます。 鉄火者という評判を取ったお駒が、思いの外素直に仕えるので、三右衛門も少し予想外な心持でした。 二日、三日、五日、と日は経ちます。 凶作の後の恐ろしい餓うえは、江戸中を濡れた灰のように冷たく不活溌にして了しまいましたが、吹屋町の後藤の屋敷は、栄華と歓楽が渦を巻いて居りました。 お駒は召使と言う名儀でも、実は若旦那の三之丞の愛妾でその存在は次第に火の如くはっきりして来ましたが、まだ、奥の三戸前の土蔵に近づくことなどは夢にも及びません。 七日目、 お駒はとうとうしびれを切らして了しまいました。 ﹁旦那様﹂ お駒の愛撫の疲れでウトウトして居た三之丞は、不意に甘い夢から引戻されました。 ﹁何んだ、お駒か﹂ 何い時つの間にやら床の中から抜ぬけ出だしたお駒は、長なが襦じゅ袢ばん一つで三之丞の枕元に坐って居たのです。 行あん灯どんの灯が片かた面おもを照して居るせいもあるでしょう、何い時つも滴したたるような美しい顔が、妙に引ひき緊しまって、畳に突いた片手は、ワナワナと顫ふるえて居ります。 ﹁私は、眠られません﹂ ﹁ジッとして居ると眠られるよ、今頃起き出す人間は無い﹂ 三之丞の調子は寝そびれた子供をあやすようですが、お駒は、少し根の弛ゆるんだ島田を大きく振って、 ﹁いえ、私は大変な逆のぼ上せ性で、こんな時は、水を冠かぶるか、穴蔵へでも入らなければ眠られないのです﹂ ﹁なら――﹂ 三之丞は少しからかい気味に半身を起しました。この情熱そのもののような女は、それ位の特異性を持って居るかも知れないと思ったのです。 ﹁お願いで御座います、旦那様、私を裏の三戸前の蔵のどれかへ入れて下さい﹂ ﹁それはならぬ﹂ 三之丞も少し驚きました。 ﹁何どうしてで御座います﹂ ﹁あれは、父上のお許ゆるしが無ければ、誰も入ることが出来ないことになって居るのだよ﹂ ﹁こんな夜中でも?﹂ ﹁夜でも昼でも﹂ ﹁あ、あ﹂ お駒は投げ出したように言って、クルリと後ろ姿を見せました。 ﹁寝ないか、お駒﹂ ﹁どうぞ、お休み下さいまし、私は、どうせ眠られはしません﹂ ﹁弱ったなア﹂ 暫らく言葉が絶えました、が、お駒は身動きもせず、三之丞はその美しい後姿から目を離そうともしませんでした。 ﹁あのお蔵の中には、何が入って居るので御座いましょう﹂ ﹁さア﹂ お駒の問といが不意だったので、三之丞も少しギョッとしました。 ﹁世間の噂では、大判小判が一杯だと申しますが﹂ ﹁さア﹂ ﹁一と目、私に見せては下さいませんか﹂ ﹁そんな解らぬことを言わずに、眠る工夫をしたら何どうだ﹂ ﹁私はどうせ眠られはしません、こんなに火のように熱いんですもの――﹂ お駒は三之丞の手を取って、自分の胸へ差し入れました。大して熱いとは思いませんが、高鳴る心臓の鼓動が、男の手に響きます。 ﹁それが何どうしたと言うのだ﹂ ﹁私は、この熱い肌を、金で冷やして見度いので御座います﹂ ﹁?﹂ ﹁この焼けるような身から体だを、山吹色の黄こが金ねで包んで了しまって腹の底から冷え冷えして見たいのです﹂ ﹁馬鹿なことを﹂ ﹁そうさせて下さいまし、旦那様、私はこんなに、焼けるような心持で、もう我慢が出来ません﹂ お駒は自分の言葉に勢い付けられたように、立ち上ると三之丞を床の中から引出しました。 ﹁これ、何をする﹂ ﹁旦那様、蔵へ参りましょう、私は栄耀も栄華も望みでは御座いません、此お屋敷へ上ったのは、たった一と目、何万両というお金が見度かったので御座います﹂ ﹁…………﹂ ﹁蔵の中へ入れてお金を唸らせて置くなんて、随分勿体ないことでは御座いませんか、さア、参りましょう、私は、大判小判を身から体だ中に浴びて、この火のような心持を覚さまし度いのです﹂ ﹁…………﹂ ﹁でなければ、私を帰して下さい、明日と言わず、今直すぐ、――私は明神様の水茶屋へ帰って、木の床の上へ寝てこの身から体だを冷やします、絹の夜具なんか、もう、見るのも厭――﹂ お駒は三之丞へ絡み付いて、離れようともしません、何んと言う素晴らしい情熱の体温でしょう、三之丞は唯もうおろおろするばかりでした。黄金の滝に
お駒は到頭三之丞を説き伏せて了しまいました。二人は二羽の蝶のように、父親の寝部屋に忍び込むと、そっと枕元に這い寄って、手てば筐この中の鍵と、柱に掛けてある手鍵を持もち出だしました。 ﹁シッ、静かに﹂ 奥に並んだ三戸前の土蔵まで辿り付くうち、三之丞は何べんお駒をたしなめたことでしょう。 お駒はすっかり有頂天になって、執念深く三之丞に絡み付くのでした。 廊下が尽きるところに、金網の掛った、有明が灯ついて居ります。三之丞はそれを外して左手に持つと雨戸を開けて、真ん中の土蔵の戸前に掛ります。 大一番の海えび老じょ錠うを外して、塗ぬり籠ごめの扉を開くと、中は二重の板戸、それは手鍵一つで、わけも無く開きます。 ﹁騒ぐんではないぞ﹂ お駒をさし招くと、籠行あん灯どんを持ったまま、三之丞は中へ入りました。 最初は、心の激動に何んにも見えませんでしたが、少し落付くと、蔵の中の光景は、想像以上の素晴らしいものだったことに気が付きます。 左右に杉なりに積んだのは、千両箱の山、これが何百あるとも見当が付かないのに、正面は、封をしない小判と大判が本当に砂利のように積んであるのです。 中に交った延べ板、なまこ、地金、砂金の袋などは、その砂利の中の石とも材木とも見られるでしょう、それが大地から掘り出したばかりの、純良無垢な山吹色で、行灯の灯に燦さん爛らんと光るのですから、その壮観は言葉にも及びません。 ﹁どうだお駒﹂ 少し得意そうに、籠行灯を捧げる下から、 ﹁あッ﹂ お駒は唯悲鳴のようなものを挙げて飛出しました。 いきなり、黄金の山を駆け登り、その上に二三度転がって、あとは両手ですくい上げて、大判小判の滝を頭の上からザクリザクリと冠かぶるのでした。 閃きらめく黄金は、美女の肌を洗って、床に、壁に、窓に、鏘しょ然うぜんと鳴ります。 お駒が逆のぼ上せ性で、金に身から体だを包み度いと言ったのは、元より当座の口実でしたが、斯こんな素晴らしい黄金の山を見るとその約束を果して、黄金の乱舞をやらずには居られないような心持になるのでした。血潮に染めた二十万両を
丁ちょ度うど其時、後藤三右衛門は、眼を覚しました。何ど処こからともなく響いて来る黄金と黄金と触れ合う音が、何どんなに微かすかであったにしても、馴れた三右衛門の夢を驚かすに充分だったのです。
本能的に枕元の手筐を見ると、蔵の鍵がありません。
ハッと思って挙げた目に、柱に掛けてあった筈の長鍵も無くなって居ることに気がついたのです。
三右衛門は、たしなみの帯を締めて、一刀を帯に落すと、長なげ押しの手槍を取って廊下へ出ました。
雨戸が一枚開いて居ります。
音は真ん中の蔵の中から、――と思うと躊躇はしません、板戸に手を掛けると、
﹁旦那様、危のう御座います﹂
何ど処こから出て来たか、中間姿の男が立塞がります。
﹁何んだ、権次か、曲くせ者ものが入って居る、お前は引返して皆んなを起して来い﹂
﹁旦那様は?﹂
﹁俺は中へ入って見る﹂
後藤三右衛門、充分胆が据って居ります。
﹁それは危う御座います、旦那様﹂
権次は尚なおも蔵の戸前から離れようとしません、此こ処こから三右衛門を入れたら、何どんな事になるかわからなかったのです。
﹁えッ、退どけ退け﹂
併しかし三右衛門はもう我慢をしませんでした、権次をかき退けると、樫の板戸を開けて、中へ、
﹁あッ﹂
中は淡い灯に照されて、黄金の雨、黄金の洪水です。
﹁己れッ、売ばい女た﹂
黄金の洪水を禦ぎょして、あらゆる狂乱を続けて居るお駒を見ると、三右衛門の手槍は、サッと伸びました。
﹁あッ﹂
薄桃色に上気した美女の肉体が、黄金の山の上へ崩くず折おれると、胸から赤い血潮が、滝の如く吹き出すのでした。
﹁権次、権次さん﹂
お駒はそう言って、顔をあげましたが、土蔵の外に、何やら物の気配を感じると、又ガックリ血潮の中へ崩折れて、其儘息は絶えて了しまいました。
黄金の音、――続く絶叫、自分を呼ぶ声などを聞いて、権次は何遍か蔵の中へ飛込もうとしましたが、思い直して一散に門の外へ飛出して了しまいました。
行手は勘定奉行、矢部駿河守の屋敷、自分の頭をカキ乱して、ゼイゼイ息を切らし乍ら、権次の潮ひょ吹っと顔こづらはさめざめと泣いて居りました。
翌あくる朝勘定奉行与力相沢宗三郎は、権次を案内に、吹屋町の後藤三右衛門屋敷へ乗込んで来ました。
﹁仁兵衛娘、駒、親許の承諾を得、仮親を立てて、拙者の妻に申受くることに相成った、奉公中気の毒であるが早速引渡して貰い度い﹂と言う口上です。
三右衛門も、倅三之丞も申開きが付きません。奉公人を手討にするのはよくある例で、金蔵へ盗みに行ったと言えば事が済むようなものですが、その金蔵は数十万両の金が、血潮に染んで居ては、検視の受けようが無く、第一、権次が勘定奉行の隠密と解っては、争う余地もありません。
三右衛門は、黙って、即座に二十万両を上納しました。
これは歴史にも有名な話、続いて隠居願を差さし出だしましたが、そこまで追及する積りは無かったので、それは差許されませんでした。
お駒の血潮で彩られた二十万両は、右から左へ窮民を救うの資に当てられ、天保の大飢鐘の始末も、これで一段落付きました。
矢部駿河守は後町奉行に転じて、天保十三年憤死し、相沢宗三郎は終おわりを知らず、潮ひょ吹っとこの権次は坊主になったと言うことです、お駒に膝を濡らされて以来、よくよく骨身に徹して世の中がつまらなくなったのでしょう。