﹁この話の面白さに比べると、失礼だが今まで語られた奇談は物の数でもない、――と言うと、アラビアン・ナイトのお妃の極り文句のようですが、私は全くそう信じ切って居るのです﹂
奇談クラブの集合室で、話の競技の第五番目に選手として立った春藤薫は、十三人の会員達の好奇に燃ゆる顔を見渡し乍ら、斯う言った調子で始めました。まだ若々しい癖に、白襟に十徳見たいな被布を羽織った、妙に物越しの滑らかな、茶の湯か俳諧の宗匠と言った人体です。
﹁私は反はん魂ごん香こうの話をしようと思います。或る種の香を焚くと、思う人の俤おもかげが目の前に現れるという、あの反魂香です。種を明かせば此の話は﹃楚弓夜話﹄という香道の邪宗門の経典とも言うべき秘冊から見付け出した筋で、私や私の祖先の経験ではありません。香道というものは、今は殆んど廃すたりましたが、昔はどんなに盛んだったかということも、いくらか此の話でわかるわけであります。前置きは此の位にして、早速話の本筋に取りかかりましょう﹂
春藤薫の話はその風采の如く変って居りますが、何がなし、異様な匂いがあるので、好奇心ではお互に引けを取らない会員達は、固唾を呑んで次の言葉を待ちました。
仏像を背負って兇賊は逃げた
目明しの三吉は、二本榎の正護院の裏門に突っ立って、もう二刻も金かな壺つぼ眼まなこを光らせて居りました。 昨夜此の寺へ忍び込んだ盗賊が、物もあろうに、本尊の弥勒菩薩の立像を盗み出し、其の儘逃げ場を失って、寺内の何処かに隠れてしまったのです。 仔細あって、この盗賊の入るのは、寺の方でも予期したことで、それッと言うと手が廻った所せ為いもあったでしょう。本尊の仏体は盗み出したものの、出口出口を堅められて、梁上の君子も全く袋の鼠になってしまったのでした。 表の入口は同じ目明しの権次が堅め、お勝手には寺男が二人で見張った上、本堂は同心の相沢半助が、寺の者や、近所の人達に手伝わせ、畳まであげて詮索をして居ります。これだけ徹底的にやられては、よしや忍術を知って居ても免れっこはありません。その頃世の中を騒がした﹁寺荒し﹂の怪賊も、今度こそは間違いもなく正体を現すだろう――と、十人が十人疑う者はありませんでした。 それは、享保三年の春、山門の山楼がホロホロと散り初めた頃の出来事。 ﹁まだ捉まらねえのか、仕様がねえなア﹂ 目明しの三吉、裏門の扉に凭れて、思わず欠あく伸びを漏らしました。 少し高くなった春の陽は、朝乍ら妙に薄眠たく射して、不風流な目明しの髷節へ、桜の花はな片びらが二つ三つ散りよどみます。 ﹁御苦労様で御座います﹂ 庫く裡りの腰高障子を開けて出て来た一人の男、赤い大黒頭巾を冠せた子供を深々とおんぶして、浅あさ葱ぎの手拭で頬冠りをしたまま、甚じん々じん端ばし折ょりに長刀草履を穿いて、ヒョコヒョコと裏門を出て行きました。 ﹁あ、待て待て、お前は何んだ、何処へ行くんだ﹂ 三吉は欠伸を噛み締め乍らも、職業柄斯う誰すい何かすると、 ﹁寺男で御座います、あの通りの騒ぎで御座いますから、子供を背し負ょって、皆様へ差し上げるお茶受を買って参ります﹂ ﹁よしよし﹂ ﹁それでは、行っても宜しゅう御座いますか﹂ ﹁うるせえな、宜いってことよ﹂ ﹁ヘエ――﹂ 寺男は其の儘町の方へ、口調や物越しに似合わぬ活溌な足取りで、飛んで行ってしまいました。 ﹁兄イ﹂ 本堂の方から仲間の者の声。 ﹁何んだ﹂ ﹁今しがた其そっ方ちへ変な人間が行きアしないか﹂ ﹁変な人間なんざ来ねえよ﹂ ﹁おかしいなア、子供をおんぶしてねんねこを着て――﹂ ﹁おッ、それなら来たが、彼あい奴つは何うかしたのか﹂ ﹁それが﹃寺荒し﹄だよ、何方へ行った﹂ 五、六人、一団になって裏門へ飛んで出ました。 ﹁そいつア大変だ、お茶受を買って来るなんて騙しあがって――﹂ ﹁何方へ行った﹂ ﹁向うだ﹂ ﹁それ追っ駆けろッ﹂ 相沢半助の采配で五、六人の捕方、真っ黒になって駆け出しました。 逃げ場を失った﹁寺荒し﹂が、庫裡の物置から古いねんねこを盗み出し、仏像に地蔵様の赤い頭巾を冠せて、赤ん坊のようにおんぶしてしまったのは、恐ろしい良い頭、追っ駆け乍ら様子を聴いて、相沢半助も思わず舌を巻きました。駕籠の中には裲襠と手筥
この﹁寺荒し﹂というのは、昨年の暮あたりから現れた不思議な泥棒で、名刹霊場を襲って、その本尊とか宝物とかいう、名ある仏体や、稀に経机、珠数など、世の中に知れ渡った什物を盗みますが、金銀珠玉や、衣裳骨董などには目もくれません。 切支丹の廻し者か、気違いか、兎に角、その頃の信仰深い人達の目から見れば、悪逆無道な仏敵の仕業で、江戸中は騒然たる有様、手を尽して詮議しましたが、さて、何処の誰が、何んの為にそんな事をするのか、まるで見当も付かない有様です。 芝二本榎の正護院の本尊弥勒菩薩、これは王朝時代の名作で、﹁寺荒し﹂が狙わずには居ないだろうと言う見当で、人に笑われるのも構わず、同心相沢半助、十日あまりも待駒を張って居ると、果して昨夜の夜半過ぎノコノコやって来ましたが、警戒疲れの油断に付け入って、ツイ本尊をしてやられたのは、飛んだ失策、その上目明しの三吉までがヘマをしては、世間に合せる顔もありません。 ﹁それッ、逃がすなッ﹂ と、一体の人数、往来の人に足取りを訊ただし乍ら、目黒の方へ揉みに揉んで馳け付けました。 不動様の境内へ追い込んで、三方から取り詰めたのは、其の日の辰いつ刻つ頃、人目の多い場所ではあり、それに白昼の捕物ですから、今度は万に一つも失しく策じりは無い積り、相沢半助は確かに此処で﹁寺荒し﹂の姿を見たという権次と、先刻正護院で、﹁寺荒し﹂を取り逃した三吉とを召し連れて、不動様の正門から堂々と入り込んで行きました。 その頃はことの外繁はん昌じょうした目黒の不動ですが、朝の事で境内には女乗物がたった一つ、深々と扉を引いて、陸ろく尺しゃくが二人、石畳の上に踞んで煙草を吸んで居ります。 ﹁ちょいと物を訊ねるが、此処へ子供をおんぶして頬冠りをした若い男が入ったろうな﹂ と相沢半助、 ﹁入るには入ったが、直ぐ裏へ抜け出したよ。何んですかえ、あれは?﹂ 太鼓張の煙きせ管るで堂の裏手の方を指します。 ﹁大事な捕物だ﹂ 此処へ来ては相沢半助も最早隠そうとはしません。 ﹁それッ﹂ と境内を探しましたが、隠れる場所があろうとも思われないのに、﹁寺荒し﹂の兇賊は、何処へ身を潜めたか、影も形もありません。 がっかりして、先刻の女乗物の方へ引き揚げて来ると、大名高家の奥勤めをして居るらしい、盛装の若い女が、女乗物を促し立てて帰ろうとして居るところです。 ﹁暫らくお待ちを願い度い﹂ 相沢半助、少しあせり気味で、動き出した乗物を呼び止めました。 ﹁何んで御座いますか﹂ 乗物の後に附き添った女中、――御代参とも見えるお品の良いのが、少しとがめる調子で美しい顔を振り返りました。その後には、老女が一人、草履取が一人、これは少し離れて差し控えましたが、イザと言えばの構え、おさおさ油断がありません。 ﹁近頃不ぶし躾つけ乍ら、仔細あって、そのお乗物の中を拝見さして頂き度い、如何なもので御座ろう﹂ ﹁それはなりません﹂ 若い美しい女中ですが、さすがに見識は宏大で、そんな無礼な申出に耳を仮そうとはしません。 ﹁重ねて申し上げるが、大事な捕物を見失い、悉ことごとく難渋いたす、如何なる御身分の方か存ぜぬが、枉まげて御助勢に預り度い、拙者は南町奉行組下同心、相沢半助と申すもの、平に﹂ 相沢半助は慇いん懃ぎんに小腰を屈めましたが、相手の出ように依っては、容捨しま敷き面構え、屹と女乗物の金鋲厳めしい扉を見据えて詰め寄りました。 ﹁万一、この中の御方が、その汚らわしい捕物とやらで無かったら何んと致されます﹂ 斯う言われると相沢半助も、乗りかかった船で、引くに引かれません。 ﹁如何様にもお詫いたす﹂ ﹁これは貴いお方の御隠居様が、御風気を冒しての御ごさ参んけ詣いで入らせられます。扉は半分以上引くことはなりませんぞ﹂ ﹁それは心得て御座る﹂ ヅカヅカと乗物の側に寄った相沢半助、疑問の扉に手を掛けようとすると、 ﹁お待ち下さい、不浄役人の手を触れて、後日如何ようのお叱りがあろうも知れませぬ、それにて御覧下さるよう﹂ 女中は乗物と相沢半助の間に身を入れ乍ら、扉の中へ。 ﹁お聴きの通りの仕儀で御座います。暫らくお許し下さいませ﹂ 一礼して扉へ両手を添えました。 ﹁頭が高いッ﹂ ﹁ハッ﹂ 額づく拍子に、駕籠の扉が二、三寸開きました、中の人は後ろに凭れ加減になって居りますから、顔は見えません、チラリと眼に入ったのは、総縫の裲うち襠かけに、三つ葉葵の紋を散らした手てば筥こ、相沢半助思わずハッと頭を下げるはずみに、乗物の扉はピシンと閉ってしまいました。 ﹁これにて御疑念が霽はれましたか﹂ ﹁ハッ﹂ 斯う言うより外に致し方もありません、三つ葉葵の紋の威力は大したもので、よく顔が見えなかったから、押してもう一度とは言い兼ねたのです。 ﹁役目とは申し乍ら、貴いお方に無礼の疑いをかけられた上は、其の儘では相い済みませぬ。いずれは町奉行大岡越前守様へ申し上ぐる筈のところ、――仏参の御道すがらでもあり、此の度だけは穏おん便びんにとのお思召で御座います﹂ 実に行き届いた言葉、美しさも若さも賢さも申し分の無い女中で、四方に使いして君命を恥かしめずと言った趣きがあります。 相沢半助は全く頭が上りません。 ﹁…………﹂ 恥じ入る体に差し俯向く隙に、駕籠は上って何処ともなく立ち去ってしまいました。美女の前に語る男の恐ろしい罪
﹁丈太郎様、これは何うしたことで御座いましょう﹂ 先刻、同心相沢半助を追い返した若い女は、打って変った物優しい調子で、斯う若い男の顔を見上げました、片手は畳に落して、片手に胸を抱くように、大きい島田が揺れると、すぐれて美しい顔が昃かげります。 ﹁…………﹂ 男は差し俯向いて言葉もありません。山形屋丈太郎と言って、二十七歳、元は本町三丁目に大きい唐物屋を開いて、万両分限の一人に算かぞえられましたが、先代が亡くなる頃から道楽を始めて、家業というものを一切顧みなかった為に、瞬く間に没落して、今は目黒の寮に、昔の栄華は名残ばかり、妙に気随な、その癖骨にも泌みるような貧しい暮しを続けて居るのでした。 ﹁丈太郎様、仰しゃって下さいませ、もう誰も聞いては居りません﹂ 女は少し涙声になります。 お園と言って十九の厄年、今は太田淡路守様の隠居、英山公の手許に腰元奉公をして居りますが、丈太郎とは従い兄と妹こ同志、生れ落ちるからの許いい嫁なずけで、二は十た歳ちになったら一緒にと、親達の間で極められた二人の運命だったのです。 丈太郎は江戸前の優れた美男、お園は咲き切った花のような美しい娘、二人の心の中には、年と共に育って行く恋心が、今は抜きも枯らしもならぬほどになって居りました。両親も財産も喪なくしてしまった裸一貫の丈太郎ですが、この二人の間を割さくほどの強い力は﹁死﹂より外にはありません。幸せなことにお園の両親は、それが解らないほどの人達ではありませんでした。 今日は御隠居英山公の代参を仰せ付かり、手筥まで預って目黒の不動様に詣でたお園が、フトした事から、許嫁丈太郎の危難を救いましたが、浅葱の手拭を頬冠りにして、汚ないねんねこの下に、赤い頭巾を冠せた、仏体をおんぶした恰好や、同心、目明しの輩やからに追い詰められた丈太郎の様子が容易ではありません。兎に角、頭から裲襠を被せて、女乗物の中に押し込み、英山公から預った、三つ葉葵散らしの手筥を持たせて、相沢半助の眼は胡麻化しましたものの、どうしても胡麻化し切れないのは、お園自身の心のうちだったのです。 お詣まいりの帰りは、芝大門前の自分の家へ行ってくつろぐなり、猿若町へ延して、芝居を覗くなり、自由に夕景までは遊んで帰るが宜い――という、よく解った英山公の許しがあったので、お園は丈太郎を目黒の寮まで送り届けると、口止めやら心付けやらを存分にはずんで、供の者を銘々の好きな場所へ追いやり、自分は其の儘踏み止まって、この恐ろしい疑いを解こうと決心したのでした。 ﹁…………﹂ 丈太郎は相い変らず差しうつ向いて、田たに螺しのように唇を閉じて居ります。これも栄華の名残りの古渡りの唐桟に、博多の帯、少し薄い膝に手を置いて、色白の細っそりした顔が、男乍らたけてさえ見えるのに、何んと言うことでしょう、側には脱ぎ捨てたばかりの汚いねんねこと浅葱の手拭と、正護院の本尊なる弥勒菩薩の木像が、唐紙に凭せかけられたまま、慈じげ眼んを垂れて二人を見護って居るのでした。 ﹁あの寺荒しとか言うのが、若しや、若しや――﹂ お園の唇は恐怖の予感におののきました。この在五中将のような美しい男、気心も知り抜いた積りの許嫁の夫が、近頃江戸中を騒がして居る﹁寺荒し﹂――あの仏像仏具を専門に盗む、兇悪無残な盗賊とは、どうして信じられましょう。 併し、そう言われると丈太郎は、はじめてその上品な細面をあげました、膝の上に打ち顫う華きゃ奢しゃな指先にも、唇に淀む言葉にも、異常な亢奮は隠すべくもありません。 ﹁お園、許してくれ、俺は悪魔とも外げど道うとも、言いようの無い人間になってしまったのだ﹂ ﹁…………﹂ 予期した言葉ではあるが、丈太郎の口から斯うはっきり言われると、お園は自分の耳を塞ぎ度いような、不思議な衝動に駆られ乍らその後を促すともなく男の顔を見詰めるのでした。 ﹁聞いてくれ、お園、江戸中は言うに及ばず、近在近郷の名刹から、尊い仏体を盗み出したのは、お前が察しの通り、この丈太郎だよ、俺はそれを打ち割ったり、削ったり、昼ともなく、夜ともなく焚いて居る――何んと言う浅ましい事だろう、仏体破却の罪の恐ろしさが、犇ひし々ひしと身を責めさいなむが、因果なことに俺はそれを思い止まる力も無い﹂ ﹁…………﹂ お園は戦く胸を抱いて、恐ろしい言葉が紬つむぎ出される、男の紅い唇を、魅入られたように見詰めるばかりでした。 ﹁斯うなっては隠しても詮ないことだ、皆んなお前に見せて、何んとか智恵も借りよう、此方へ来るがいい﹂ 丈太郎はフラフラと立ち上って、奥の一と間へお園を導き入れます。 襖を開けると、 ﹁あッ﹂ お園は思わず敷居際に崩折れました。 中は打ち砕かれた仏体が一パイ、八畳ほどの一と間が、足の踏みどころもありません。 金箔を置いたの、素しろ木きの黒ずんだの、五彩眼も綾なる、如来、地蔵、羅漢、あらゆる限りの大小種々の仏体が、惨ましくも腕を折られ、蓮座を割られ、砕かれ、削られて、上げ汐に打ち寄せられたように、混然雑然として散乱して居ります。真っ逆様に丈太郎は鼻観地獄の底へ
万両長者の一人息子に育った丈太郎は、子供の時からいろいろの遊芸に身を打ち込みましたが、わけても香道が自慢で、こればかりは斯の道の先輩達も、若い丈太郎の前に兜を脱ぎました。 香道は足利時代から徳川時代へかけて、茶の湯生花以上に流は行やったもので、三条西実さね隆たかを祖とする御家流をはじめ、志野流、建部流、米川流、蜂屋流、園流、里見流などの諸流派に岐れ、名木を焚いて聞く閑寂な楽しみに、上下の隔てなく熱中したものでした。わけても十じっ寄合とか﹇#﹁十寄合とか﹂は底本では﹁十※﹇#﹁火+王﹂、U+241A6、319-下-13﹈寄合とか﹂﹈競べ香、香合せなどいう遊戯は、いろいろ方式があって、一時天下を風靡する有様でしたが、維新以後お家流、志野流、蜂屋流以外の諸流派は殆んど廃絶してしまって、今では玄妙不可思議な鼻観三昧の秘奥を知る人も甚だ少なくなってしまいました。 丈太郎も最初はこの清らかな聞もん香こうの道に入って、正しい鼻観の大道を辿りましたが、生れ付き非常に嗅きゅ覚うかくが発達して居たものか、遂に邪道に踏み入って、大変なものを嗅ぐ欲望に悩まされるようになったのです。 尤も足利時代の香木の蒐集家で有名な佐々木佐渡守道誉入道は、仏像を焚いて丹霞と称し、蓮座をいて仏座と名づけ、外に慈覚大師の念珠、足利義政の卓、楊貴妃の椅子、唐人の笠、石帯――などさえ焚いたと言うことですから、丈太郎の欲望も決して例の無いことではありません。 香というのは、支那、印度、南洋あたりに産する名木を材料にしたもので、栴せん檀だんの木が長い間水に沈んで居たのは沈香と言い――これは年数によっていろいろ名称があります。――昔は沈じんをはじめ各種の香木を材として、仏像を彫ったり、念珠を刻んだりしましたから、古い有名な仏像の中には、どうかすると、非常に高貴な香木があるわけです。現に推古天皇の三年四月、淡路島に長八尺の沈水香が漂着したのを、聖徳太子が仏像に刻まれたということが、日本書紀その他の本に伝えられて居ります。 名香六十一種、その内三十三種は勅銘で、第一は蘭らん奢じゃ待たい、これは東大寺に在る勅封の名香、昔は将軍一代に一寸四分切り取って下か賜しになる例でしたが、後世はその事さえ無くなりました。次で法隆寺にある太子、其の他香の数は、和香木を加えると数限りもありません。 香道は閑寂高雅な遊びで、まことに結構なものですが、丈太郎は一種の変質者で、正しい香道から、一種言いようも無い邪道に踏み込んでしまったのです。 一つは没落して、高価な香木を求める金が無くなった為、一つは佐々木道誉入道の亜流で、古い道具や仏像から、名香を見出そうとする誘惑に打ち負かされた為、最初は死んだ母親の形見の珠数をいて見ましたが、これは素晴らしい香木で、すっかり丈太郎の異常嗜好を満足させてしまいました。 続いて仏壇の奥に祀まつってある仏像を取り出しました、これを焚くのは流石に躊躇しましたが、金が尽きて香木を求める事の出来ない苦し紛れ、到頭思い切って、その蓮座の後ろを削って焚くと、これも山形屋繁昌の時手に入れた品だけに、実に結構な香木、丈太郎今更ながら驚いてしまいました。 仏像が一つあると、小さくとも十日位は焚けます。もうこれ丈け味を占めると、止め度もない嗅覚地獄へ、真っ逆様に落ちて行くばかりです。 何んか良い香木は無いものかと、鵜の眼鷹の目で探して居ると、いろんな物が眼に付きます。硯すずり箱、経机、文鎮、手筥――と手に従って削って焚きましたが、いずれも駄木で、ただキナ臭いだけの話、新しい香、佳い香と漁り抜く丈太郎は日と共に懊悩を重ぬるばかりでした。 その煩悶が重なると、やがては有名な寺や堂の、時代の付いた仏像を狙うようになります。天てん禀ぴんの智恵と身の軽さを利用して、江戸から近郷へかけて、有名な仏像仏具を盗んで、片っ端から削っては焚きましたが、十中八九は檜や白檀、精々浅香などですが、中には思いもよらぬ素晴らしい名香があります。 斯うして丈太郎の異常嗜好が、気違い染みた熱心さで、際限も無い罪悪の淵へ陥ち込んで行ったのです。救いの道はたった一つ
﹁お園、斯うしたわけだ、金さえあれば、まさか、此処までは落ちなかったろうが――いやいや――、今となっては、金があったところで、この仏像仏具を漁る楽しみは、思い止まられそうも無い――﹂ ﹁…………﹂ 丈太郎の恐ろしい懺ざん悔げ話にお園は唯打ち顫うばかり、応えようもなく男の顔を見守りました。 ﹁信心深いお前の両親が、仏敵同様の俺にお前を添わせる筈もない、お園、こんな男を許嫁に持ったのが不仕合せとあきらめて、今のうちに身を退いてはくれまいか、いずれは知れずに済むことではない、山形屋の丈太郎が寺荒しの本人と判ってからでは、繋がるお前の一生も廃りものになる﹂ ﹁あれ、丈太郎様、何を仰しゃいます。仮たと令い何のような事があろうと、私は、私は――﹂ すがり付く事もならず、お園は涙を呑んで娘らしく俯向くばかりでした。 ﹁いやいやそうでない、俺はこの通り言いようも無い悪逆無道な人間、お前は親もあり主人もあり、それに、若くて美しくて――﹂ ﹁いえ、いえ、もうそんな事は聞かして下さいますな、それより丈太郎様、今からでも改心をするに遅い筈は御座いません、その仏像仏具を焚くことだけはフッツリ止して、元の丈太郎様に返って下さいまし、香木のお代は、お許し下さるなら、私が何んとか致しましょう﹂ お園も必死の気組、思わずいざり寄って、男の膝に手を掛けてしまいました。 ﹁有難う、お園、その志は忘れないが、何んの因果か、俺はこの道楽が思い切れない﹂ 丈太郎は思わずお園の手を取って、引き寄せるともなく、その泣き濡るる顔を差し覗きました。 娘の顔は一生懸命さに上気して、庭に咲いたばかりの八重桜のよう、涙に香ってたとえようもない美しさです。 ﹁丈太郎様、丈太郎様﹂ ﹁お園、堪忍してくれ﹂ 二人は何時の間にやら、犇と抱き合って居りました。生れて初めて経験した、不思議な瞬間が、涙も、悔恨も、不安も、懊悩も洗い流して、残るものは、夢心地の陶酔ばかり、頬と頬と、唇と唇とが、二人の言葉にも、意志にも裏切って、慕い寄るように近付くのです。 ﹁いやいや、俺は何時繩目を受けるかも知れない身体だ、お園、退いておくれ、お園﹂ 思い直して丈太郎が、娘の身体を突き退けましたが、 ﹁あれ、丈太郎様、どうぞ思い直して、元のお前の心になって下さい、仏像を焚く代りに、一寸刻み、五分刻みに、私の身体を焚いても構わない、丈太郎様、丈太郎様﹂ 娘はその柔かい弾力的な肢体を揉んで、丈太郎の身体から離れようともしません。 ﹁たった一つ、俺を救う道がある﹂ ﹁え、それは何ういう?﹂ ﹁いや、言うだけ無駄だ、これは言わない方が宜い﹂ うっかり口を滑らしたらしい丈太郎は、あわてて斯んな事を言い紛らしますが、藁にも縋る気のお園は、それを訊さずには措きません。 ﹁仰しゃって下さい、どんな事でも仕ましょう、お前の心を救う薬があるなら、地獄の火の中からでも、私は取って来て上げ度い﹂ お園は男の肩にその華奢な手を投げ掛けて、子供のように身を顫わしました。 ﹁言ったところで何うもなるものではない、来年の念願だが、若し天下第一の名香﹃東大寺﹄を聞くことが出来たら、私の邪念が霽はれるかも知れない﹂ ﹁え、え?﹂ ﹁東大寺と言うのは、下々では手に入れる由も無い、蘭奢待の名香だ、――若しそれを手に入れて、思いおく事なく焚くことが出来たら、鼻観邪道に踏み入った私も、迷いの雲を払い落して、元の丈太郎に還ることもあろう﹂ 思い入った丈太郎の言葉を、暫らく黙って聴いて来たお園、この時男の身体を離れて、膝を直しました。 ﹁丈太郎様、それは本当で御座いましょうか﹂ ﹁天下第一の名香、十里の外に匂って、もろもろの邪気を払うと言う蘭奢待の威力は宏大だ、私の迷いを払うことなどは物の数でもない﹂ ﹁それならば、工夫も手段もありましょう﹂ ﹁何?﹂ ﹁私の主人英山公様が、蘭奢待をば秘蔵で御座います﹂ ﹁えッ﹂ ﹁織田信長公が東大寺の蘭奢待を一寸八分に切らせて頂いたのを、三分の二ほど諸侯に頒わけたと申しますが、太田淡路守様御先祖も武功によってその中から頂いた相で、今に御隠居様御自慢のお物語が御座います﹂ ﹁フーム﹂ ﹁私の手で、何んとか致しましょう、御隠居様に御願申し上げて頂くか、でなければ――﹂ ﹁…………﹂ 思い耽る丈太郎を、懐かしそうに見送り乍ら、お園は部屋の外へ滑り出ました。 ﹁丈太郎様、さらばで御座います、蘭奢待を手に入れる為、私の身が何うなろうとも、決して決して見捨てては下さいますな﹂ 小さい嗚むせ咽びなきを残して、お園は背を見せます。 ﹁待て待て﹂ 丈太郎は立ち上って、追いすがりましたが、女は早くも門の外へ。 赤い夕陽が目黒の森に落ちて、春乍ら悲しい風物です。蘭奢待を盗んだ美しい曲者
﹁これ、お女中﹂ ﹁ハッ﹂ ﹁それは何んで御座るな﹂ 宝蔵に梅雨前の風入れを了って、やがて一と片付けしようと言う時、御隠居様の御用と名乗って入って来た英山公附の女中が、何やら袖に隠して、いそいそと出て行こうとしたのでした。 見とがめたのは、小堀平治、年は若いが宝蔵の鍵を預るほどの武士、眼にも心にも聊いささかの油断がありません。 ﹁砧きぬた青磁の香爐を持って参れ、当分手許に差し置く――と御隠居様の仰せで御座います﹂ 小腰を屈めたのは、腰元のお園、宝蔵の陰気な空気の中にも、ほんのり匂うような美しさ、堅造の小堀平治も、聊かたじたじと来ましたが、気を取り直して、 ﹁もう一品、その袖の下にあるのは何んで御座るな﹂ ﹁…………﹂ ﹁役目の手前、一度拙者が目を通した上でなければ持ち出しはなりませんぞ、お出しなさい﹂ ﹁…………﹂ お園は悚ぎょ然っと立ち淀みましたが、まだその懐の前に掻い抱く袖を開こうとはしません。 ﹁見せられなければ、調べようがある、――待て待て﹂ 小堀平治はお園が探して居た唐から櫃びつに近付きました、馴れた眼で一と通り眺めると、何れの品に手を触れたか直ぐ判ってしまいます。 ﹁お、これは?﹂ 唐櫃から取り出したのは、紫色七尺の長紐を掛けた金蘭の袋、それを解くと、中から現れたのは、印籠蓋唐木の香箱です。 紐も崩れ、袋も歪ゆがみ、中を開くまでもなく、見当は付きますが、念の為蓋を払って見ると、中に納めてある筈の、蘭奢待の名香がありません。 ﹁お、矢張りそうであった、蘭奢待の名香を盗んで、立ち去る積りであろう。小堀平治が在る限り、そうはさせぬぞ、――御隠居様に成敗して頂こう、来い、女﹂ 帯際を取って、お園を引き立てました。うっかりすると腹切り道具ですから、小堀平治も全く気が気じゃありません。 御隠居英山公は、その時南陽の入る書斎で心静かに書見をして居りましたが、廊下を蹈みしだくあわただしい足音に、思わず眉をひそめて、 ﹁騒がしい何事じゃ﹂ 静かに四あた方りを顧みます。最早還暦もすませ、何も彼も当守淡路守に任せ切りで、風月を友に暮して居りますが、有髪の法おか体らだとも思えぬ案外の元気で、半白の鬢にも血色の良い顔にも何んとなく返り咲く若い血潮が漲って居ります。 ﹁ハッ﹂ 近習の者が立ち上ろうとすると、 ﹁蘭奢待の名香を盗み出した曲者を召し捕って参りました、御成敗を願いまする﹂ 一徹者の小堀平治の声、取次も待たずに、凛々と縁側から響きます。 ﹁うむ﹂ 障子を開けさして、立ち出でる英山公の足元に、大輪の花のように崩折れたのは、日頃目を掛けて使って居る腰元のお園、 ﹁…………﹂ 英山公もさすがに驚きました。 ﹁信長公より御先租が拝領の御品、代々の殿にも、幾年に一度も御覧にならぬほどのものを、腰元風情が盗み出すとは容易ならぬこと、諸人への見せしめ、一刀の下にお斬り捨下さるよう、小堀平治確しかと御願申し上げます﹂ 責任者だけに、恐ろしい鼻息、日頃この娘姿を可憐と見て居る英山公も、斯う大袈裟になっては、罪を宥なだめる方法もありません。 ﹁これ、女、面を挙げえ、蘭奢待の名香に手を掛けるには仔細があろう、次第によっては助け取らせないものでもない、遠慮なく申して見よ﹂ 身分柄乍ら老巧な英山公は、この美しい腰元を救う道もがなと、弁解の言葉を聴こうとしましたが、お園は涙に暮れ乍らも、縁側の板敷の上にひれ伏して、一言もありません、なまじ物を言えば、許嫁の夫、丈太郎の罪を発あばくことになると思ったのでしょう。 ﹁恐れ乍ら、此の様な不心得者にお言葉を下さるのも勿体ない事で御座います。早速御成敗を遊ばすよう﹂ 小堀平治も、娘のあまりの美しさに、少し心配になったのでしょう、切しきりに英山公を促し立てて、一刻も早く埓らちを明けようとします。全く長く見詰めて居ると、この娘の首に刃は当てられなくなってしまいそうです。 ﹁致し方が無い、女、それに直れ﹂ 英山公の最後の言葉を聞くと、小堀平治はハッとお園を縁の下に蹴落しました。 続いて沓くつ脱ぬぎの上に庭下駄を直すと、 早くも番手桶を一つ、砂利の上に居住いを直すお園の後ろへ据えます。 庭へ下り立った英山公の手には、つい近頃二つ胴を試したばかりの新身の一刀が、夕陽を受けて焼金の如く光りました。反魂香の煙の中から美しいお園の媚態
お園がお手討になった―― その日のうちに、親許から、許いい嫁なずけの丈太郎にも知らせがありました。 ﹁ああ、失し策まった﹂ いつぞやの約束を思い出して、丈太郎は歯噛みをしましたが、今更追い付くことではありません。 経いき緯さつは、何うやら丈太郎には判はっ然きり読めそうです。可哀そうなお園は、多分自分を鼻観邪道から救う為に、十襲の蘭奢待に手をつけたものでしょう。 斯う思うと丈太郎は身も世もありません。暫らくは鼻観三昧に耽ることも忘れて、美しかったお園の事を思い続けて居りましたが、不思議なことに何時まで経っても、親許に死骸を下げ渡してくれません。強たって聞けば、 ――お取り捨になった――、 とだけ、お葬いを出すことも、死顔を一と眼見ることも出来ない有様です。 そのうちに日は経ちますが、丈太郎の嘆きは募るばかり、せめて邪道でも何んでも、好きな香でも焚いたら、紛れることもあろうと、盗み溜めた名木を削って、何くれと焚いて居ると、 誰やら閉したままの戸口に立ったものがあります。 ﹁御免下さい、通りすがり、思わず名香の匂いに引き寄せられました。お窘たしなみの程も奥床しい、近頃不躾乍ら、いささか用意の香も御座います。お合せ下されば仕合せに存じます﹂ 物馴れた調子で斯う言うのは、一人の尼、中年者の豊満な身体を、墨染の法ころ衣もに包んで、いとも慇懃に小腰を屈めます。 ﹁…………﹂ 丈太郎は玄関に立ったまま、暫らくはこの不思議な客を見詰めました。近頃は人に顔見られるさえ疎うとましい気分ですから、香合せなどをする気は微塵もありませんが、相手の尼法師の調子が滑らか過ぎて、一寸咄嗟の間には断わり切れなかったのです。 それに、手討にされたお園の事が気になって居る矢先き、仏像破壊を道楽にして居る悪魔的な丈太郎にも、後生気というものが蘇がえったのでしょう、尼さんを招じ入れて、せめて供くよ養うでもして貰ったらと言った心持で、 ﹁サアどうぞ﹂ ツイ、そんな事を言ってしまったのでした。 さて、座が定まると、お経を読むでもなく、念仏を称えるでもなく、尼法師がおもむろに取り出したのは、緞どん子すの袋に入った紫檀の十香箱、一重口白磁の香爐に、流儀の炭す団みを入れ、銀葉を置いて、 ﹁…………﹂ 静かに一礼して、名木をきます。素より香合せという程ではありませんが、行ゆき摺ずりに好める道の窘みを見せてくれるのは、何んとなく奥床しいもの、丈太郎も会釈を返して聞香の形を改めます。 相手は墨染の法衣を着て、豊満な肉体と、醜い顔とを持った見る蔭もない比び丘く尼にですが、いた香は実に素晴らしいもの、白磁の香爐から立ち上る香煙を聞いて、丈太郎は思わず眼を見張りました。 六十余種の名香、一つとして諳そらんじないものは無いと信じ切って居る丈太郎ですが、この香ばかりは得体がわかりません。少し強過ぎるようですが、湿っぽく媚を含んで、聞く者の五体の血を湧き立たせます。 一体香は閑寂幽雅なもので、此の様に刺戟の強い媚態のある筈のものではありません、尊い仏像仏具まで盗んで焚いた位、鼻観外道では引けを取らない丈太郎ですが、あまりの艶なまめかしい香気に、思わず顔を挙げて相手の尼を見ました。 ﹁御主人には、何やら屈托がおありと見えます――お顔の様子では、近頃亡くなられた方を忘れ兼ねて入らっしゃるのでは御座いませんか﹂ 図星を指した言葉、尼は香爐を下に置いて斯んな事を言います。 ﹁えッ、どうしてそれが?﹂ ﹁それ位の事が解らなくて何んとしましょう。丁度幸い、此処に反はん魂ごん香こうを持参いたして居ります。これを焚くと亡くなられた方の姿が、ありありと眼の前に現れ、在りし日と同じようなお話をなさいます。世に得難い名香乍ら貴方様の為に焚いて進ぜましょう﹂ 尼は袂の中からもう一つの重香箱を取り出しました。漆塗の印籠蓋を払うと、中に入って居るのは、黒い煉香が数塊、尼はその内の一つを香匙さじで取って、銀葉の上に載せました。 と見ると、立ち昇る紫煙、 四方は夕暮のようにたそがれて、室の中を籠むる異薫に、丈太郎は暫らく夢心地に俯向きましたが、やがて身心水の如く澄み渡って、今まで感じた事も無い、不思議な衝動が、全身の脈管を流れ去ります。 思わず顔を挙げると、 ﹁あッ﹂ 眼の前に端坐して居る筈の醜い尼の姿は掻き消えて、香爐から立ち昇る淡い淡い煙幕の蔭に居るのは、高島田に薄化粧をして見馴れたお腰元風の美しいお園です。 ﹁お園﹂ 差し延べる丈太郎の双もろ腕ての中へ、お園は無言のまま、その華奢な体を投げかけました。 ﹁お園﹂ 美しさも、香ばしさも、在りし日のお園と変りません、温かい唇も、軟かい頬も、其の儘のお園が、蘇よみ生がえって丈太郎の腕の中に、思いもよらぬ艶かしい媚態を尽すのです。 こればかりは、純情なお園に無かった事ですが、歓よろ喜こびに夢中になって丈太郎の心は、そんな事に気の付く余裕もありません。 ﹁お園、お園﹂ ﹁…………﹂ 物を言わない代りに、その唇は限りなく微笑み、その眼は今までのお園には見た事もない、情熱に燃えました。 果てしも無い抱擁が幾刻続いた事か、――ひたり切った法エク悦スタシーが、薄れて行く香の匂いと共に醒めると、自分の腕の中のお園は何時の間にやら失せて、眼前数尺のところに、墨染の衣の袖をかき合せた醜い尼が、殊しゅ勝しょうらしく香爐を護って居ります。 丈太郎は恥かしさに穴にも入り度い心持でした、我にもあらず前褄を掻き合せて俯向くと、尼は静かに立ち上って、 ﹁それでは又参ります、御免下さいまし﹂ 意味あり気な言葉を残して立ち去りました。浅ましの光景に名香は燃え尽きた
それから幾日かの間、不思議な尼法師は毎日丈太郎の寮を訪ねました。
来れば座も定まらぬうちから、反魂香を焚いて、即座にお園の美しい姿を現してくれます。
丈太郎と香の煙から現ずるお園との遊戯は、次第に熱を帯びて、現実的に、深刻に、醜怪になりました。二人の法悦は、斯うして世にも奇怪な悪魔的なものにさえなって行ったのです。
香の酔から醒めて、尼法師が帰って了うと、お園の思い出を涜けがす恥かしさに、丈太郎は自分の身内を掻きむしり度いような恐ろしい悔恨に責められました。が、それも日と共に薄れて、やがては、尼法師の訪ずれるのを、夜となく昼となく待ち焦れるようにさえなってしまいました。
併し、この不潔な冒涜的な遊戯も、そんなに長くは続きません。
此の辺で簡単に筋を割って、恐ろしい結カタ末ストローフへ導きましょう。――太田淡路守の隠居、英山公に手討になった筈のお園は、実は命を助けられて無事で生きて居たのです。
その代り、今まで頭を横に振って居たお園が、命と引換の頭を縦に振って、英山公の妾になることを承知してしまったのです。
お園は身にも世にも恥じて、自分が死んだと言い触らさせ、其の儘英山公の側に止まって時機を待ちましたが、操を捨て、親を捨て、許嫁の夫を捨てた甲斐があって、到頭命を賭けて狙った蘭奢待の名香を手に入れることが出来たのです。
盗んだか、貰ったか、それはわかりません。どうかしたら、盗んだのでも貰ったのでも無かったかも知れません。兎に角お園は名香を手に入れると、直ぐ様目黒の寮へ飛んで来ました。操にも命にも換えた名香を一刻も早く届けて、許嫁の夫を悪魔的な道楽から救い出そうとしたのです。
門口を入って、何んの気もなく玄関にかかると、中から不思議に艶かしい香の匂いが漏れます。この道には馴れた筈のお園ですが、まだこんな刺戟的な香は聞いた事もありません。
――ああ、又か――
と言った心持で、自分の家も同様の玄関をそろりと入って、丈太郎の居間を差し覗くと、
何んとした事でしょう。
自分が斯んなにまで思って居る丈太郎が、墨染の法衣を着た中年者の醜い尼と夢心地に抱き合って居るではありませんか。
お園の眼は真っ暗になりました、足元の大地が崩れ落ちたように、其の儘ヘタヘタと坐って、汚らわしいものから必死と眼を反けました。もう涙も出ません。あまりの浅ましさに、泣く事さえ忘れてしまったのです。
やがてお園は気を取り直して、ソツと﹇#﹁ソツと﹂はママ﹈奥の一と間に滑り込みました。雑然たる仏像の中に、僅かばかりの座を作ると、有り合せの香爐を引き寄せて、馴れた手順で火を入れました。
取り出したのは、命と貞操とを賭けて手に入れた蘭奢待の名香。
あらゆる望みを失ったお園は、最後の思い出に、せめて此の名香をいて、その香の中に死んで行こうとしたのです。
銀葉の上へそれを置くと、紫煙はほのぼのと立ち昇って、四辺を籠むる異薫は、何に譬たとえようもありません。気も心も水の如く澄み渡って、今は邪念も懊悩も霧の如く消え去る心地、お園は思わず両掌を合せて、御仏の名を称となえました。
時ならぬ名香の香りに、ハッと我に返って丈太郎。
﹁お、蘭奢待だ﹂
見ると自分の膝の上に居るのは、美しいお園とは似も付かぬ醜い尼です。
ハッと突き飛して、香の香りを尋ねて奥へ――。
一と間の唐紙を開くと、本物のお園が香爐から立ち昇る煙を前にいとも閑寂な姿で合掌して居ります。
﹁お、お園﹂
﹁丈太郎様、私はまだ生きて居りました、この蘭奢待を持って参り度いばかりに――﹂
美しい眦まなじりに籠むる、千万無量の怨みは、丈太郎の心も凍らせそうです。
﹁お園、お前こそ本当のお園だ﹂
物言うお園の手を取って、丈太郎は其の場に端坐しました、純情な高雅な本物のお園の気品が、それ以上の事を丈太郎に許さなかったのです。
立ち昇る香煙は、その時最後の尾を引いて、名香蘭奢待は尽きてしまいました。
× ×
お園と丈太郎は、其の場を去らず心中してしまいました。尼の行方はわかりませんが、丈太郎の書き遺したものなどを見ると、多分、八犬伝の妙真にも似た、妖婦であったのだろうと思います。
尼の焚いた反魂香は、多分オランダ人などから手に入れた阿片のような魔酔薬だったでしょう。兎に角丈太郎の美貌に心を寄せた尼が、お園になりすまして契りを結んだことは、疑いもありません。
私の話はこれで終りました。
春藤薫は斯う言って席に着きました。