一
﹁親分、面白い話がありますぜ﹂ ガラッ八の八五郎、銭形平次親分の家へ呶ど鳴なり込みました。 ﹁相変らず騒々しいな、横町の万年娘が、駆落したって話なら知っているよ﹂ 銭形の平次は、恋女房のお静に顔を当らせながら、満身に秋の陽を浴びて、うつらうつらとやっているところだったのです。 ﹁へッ、そんなつまらない話じゃねえ。――ところでお静さん、――いや姐あね御ごって言うんだっけ――、親分の顔を当るのはよいが、右から左からいい男っ振りを眺めてばかりいちゃ、剃そり上げないうちに、後から後から生はえ揃そろって来ますぜ、へッへッへッ﹂ ﹁まア、何という口の悪い八五郎さんだろう﹂ お静は真っ赧かになって俯うつ向むきました。赤い手てが絡ら、赤い襷たすき、白い二の腕を覗かせて、剃かみ刀そりの扱いようも思いの外器用そうです。 ﹁八、からかっちゃいけねえ。そうでなくてせえ、危なっかしくて、冷や冷やしているんだ﹂ ﹁まア﹂ とお静。 ﹁先さっ刻きも、止よせばいいのに自分で襟えりを当って、少し剃刀を滑らしたんだ﹂ ﹁自分の粗相にしても、姐御の頸くび筋すじへ傷を付けるのは虐むごたらしいねえ﹂ ﹁その血染めの剃刀で俺の髭ひげを当っているんだから、一つ間違って手が滑ると夫みょ婦うと心中だ、ハッハッ、ハッ﹂ 平次はそんな気楽なことを言ってカラカラと笑っております。 ﹁まア﹂ お静はまた赧あかくなりました。 ﹁だがね、親分、仲のいい夫婦だからいいようなものの、他人同士じゃ血と血が刃物の上で交るのは縁起が悪いって言いますぜ﹂ ﹁そんな事を担ぐ人もあるだろうよ。第一血染めの剃刀で当られちゃ気味が良くないやネ、――ところで八、手てめ前えが触れ込んで来た面白い話ってえのは何だい﹂ 平次は職業意職に返りました。当った後の顔を洗って、綺麗に拭き取ると、煙きせ管るを伸して、縁側の日ひな向たへ煙草盆を引寄せます。 ﹁あッ、忘れていた﹂ ガラッ八は自分の掌てでピシリと頬を叩きました。人間は少し甘いが、不思議にいい耳を持ったガラッ八は、平次にとっては申し分のない見る目嗅ぐ鼻だったのです。 ﹁忘れるようじゃ、どうせ大した話じゃあるまい﹂ と平次。 ﹁ところが大変なんで。野垂れ死をした若い物貰いが、百両持っていたんだから驚くでしょう。自慢じゃないがこちとらは、人様の袖に縋すがったおぼえはないが、どうかすると百文もんも持っていねえことがある﹂ ﹁自分に引きくらべる奴があるかい、――だが、筋は面白そうだね、もう少し詳しく話してみるがいい﹂ 平次も少し乗出しました。 ﹁たったそれっきりの話さ、種も仕掛もねえところがこの話の取とり柄えで﹂ ﹁種も仕掛もねえことがあるものか、貰い溜めたにしても百両は大金だ。五年や十年で溜まるわけはねえ、――今お前、若い物貰いと言ったろう﹂ ﹁なあ――る、恐れ入ったね、さすがに銭形の親分だ。若い乞食が百両溜めるわけはねえとは理りく窟つだね﹂ ﹁感心していちゃいけねえ、その百両は小粒か、小判か、それとも証文か﹂ ﹁それが小判なんで、封も切らずに二十五両包が四つ、外に貰い溜めらしい銭が二三百ありましたぜ﹂ ﹁何? 小判で百両? それが種も仕掛もない話かえ。大泥棒か仇あだ討うちじゃあるまいし、お菰こもが小判で百両持っているわけがあるもんか﹂ ﹁なるほどそう言えばその通りだ、――親分も知っていなさるでしょう、観音様の裏に居る編笠乞食﹂ ﹁ウム﹂ ﹁病に取っ付かれて、人に顔をさらさないが、物貰いにしちゃ色の白い、何となく身体に品のある若いのが居ましたろう﹂ ﹁それが死んだのかい﹂ ﹁道端に坐って、朝から晩までお経を読んでいたのが、何か食い物でも悪かったか、今日の昼頃のた打ち廻って死んでしまったそうです。誰も構い手がねえから、まだ菰をかけてありますよ――先さっ刻き町役人立ち会いで調べてみると、胴巻から二十五両包が四つ飛出しやがった。百両も持ってるくせに、何だってまた物貰いの真似をしやがるんでしょう、罰の当った野郎じゃありませんか﹂ ﹁そいつは曰いわくがありそうだ、もう一度行ってみる気はないか﹂ ﹁行きますとも、親分と一緒なら﹂ ガラッ八は飛上がりました。最上等の猟犬のように、鼻さえもヒクヒクさせております。二
神田から浅草へ、近い道ではありませんが、悠長な時代で、平次が行き着くまで、行倒れの死骸はまだ取捨てる段取りにもならず、町内の番太が、迷惑そうな顔をしながら、寄って来る野次馬を追っ払っておりました。 ﹁これは銭形の親分、――たかが物貰いの行倒れで、御手に掛けるような代しろ物ものじゃございませんよ﹂ ﹁どうせそうだろうが、商売冥みょ利うりにちょいと見て行こう――小判で百両も持っていたっていうじゃないか﹂ ﹁ヘエ――、大層溜めやがったもので、番太で駄菓子を売るよりは、よっぽど歩ぶがいいと見えますよ、へッへッへッ、――金は町内の旦那方が預かってありますが、なんなら――﹂ ﹁いやそれには及ばない、小判は物貰いの懐ふところから出ても小判に間違いあるまい﹂ 平次はそう言いながら、往来の人の疎まばらになったところを狙って、ヒョイと菰こもを捲まくり上げました。 中には古綿をつくねたような、見る影もない乞食の死骸――と思うと大違い、苦くも悶んに歪ゆがんで、妙に怪奇な身体の恰好になっておりますが、年の頃二十五六の、何となく美男という感じのする男の死体です。 それに、病気のせいもあったでしょうが、乞食にしては色も白く、ところどころよごれはありますが、それも大したことではなく、見た感じは、それほど醜くもなっておりません。 ただ平次が驚いたのは、死骸は素人の眼にも異常で、毒死の跡がはっきり判ることだったのです。平次も日頃﹃検屍弁疑﹄ぐらいは読んでおりますが、その中の毒死の幾項かは、この死骸にはっきり現れているような気がするのです。 ﹁医者に立ち会って貰ったかい、爺とっさん﹂ ﹁いえ、それどころじゃありません、旦那方は秋祭の支度で眼が廻る騒ぎで――﹂ 番太の親おや爺じは心得たことを言います。 ﹁八、検屍のやり直しというわけにも行くまいが、町役人にそう言って、念のため町内の本道︵内科医︶を連れて来てくれ。道端の物貰いに毒を飲ませて、懐中の百両を盗とらずに行くなんかは、少しおかしいよ﹂ ﹁よし来たッ、町役人が文句を言ったら八丁堀まで飛んで行って、笹野の旦那に江戸一番という医者を連れて来て貰おうか﹂ ﹁馬鹿だなア、八丁堀まで行っちゃ日が暮れるじゃないか、丁寧に頼むんだぞ﹂ ﹁心得てるよ、親分﹂ ガラッ八は横っ飛びにスッ飛んで行きましたが、どう話をつけたものか、間もなく町役人と坊主頭の医者を一人、手を引っ張るようにして連れて来たものです。 医者は屍体の眼を見、唇を見、爪を見、それから全身を調べて、薬箱から取出した銀の簪かんざし、それを何やら薬液に浸して屍体の口に入れ、しばらくして取出して、水で洗って、 ﹁フーム﹂ と眺めております。 ﹁毒は何でしょう﹂ ﹁そこまでは判らないが、毒を飲まされて死んだ事に間違いはない、この通り﹂ 医者の差出した銀簪を見ると、なるほどその先が青黒く色変りがしております。 ﹁死んだ後で口の中へ毒を入れたのじゃありませんね﹂ ﹁そんな事はない。爪の色、眼まぶ瞼たの中がまるで違う﹂ ﹁有難う、とんだ手数をかけました﹂ 平次は丁寧に医者を送り返しました。 ﹁親分、大変なことになったね﹂ ガラッ八は妙な行掛りに、すっかり面喰らっております。 ﹁八、この男の身許を洗ってくれ、生れながらの物貰いじゃあるめえ﹂ ﹁そんな事なら訳はありません﹂ ガラッ八は足を空くうに飛んで行きます。三
﹁親分、大おお縮しく尻じりさ。こんなヒドい目に逢ったことはねえ﹂ ガラッ八が帰って来たのは、それから一いっ刻とき︵二時間︶ばかり経った時分、四方はすっかり暗くなって乞食の死体も取り片付けてしまってからでした。 ﹁解らないのか﹂ 番太の小屋でガラッ八の帰りを待っていた平次、幸さい先さきが悪いと見たか、やおら立上がって、煙草入を腰に落します。 ﹁小屋頭を尋ねて、編笠乞食の身許を訊いたが、どうしても言わねえ。堅気の方が身を落したのは仲間の定法で元の名前は申上げられません。どうせ、こうなった身体だから、そんな事はどうでもいいじゃございませんか。それに、あの編笠野郎は、余程深い仔しさ細いがあると見えて、自分からも言いません――とこう吐ぬかしやがる﹂ ﹁フム﹂ ﹁その代り遺なき骸がらはこっちで引取り、回えこ向うば万んた端ん手落なく致させます――てやがる。お貰いの仲間にも、坊主も穴掘りもいるんだってネ、親分﹂ ﹁そんな事はどうでもいい、が、変死人と解っても、身許が解らなきゃア、何にもならない﹂ ﹁ところが、親分、面白い話を聞込みましたぜ﹂ ガラッ八は、例のキナ臭いような鼻をしました。これは何か嗅ぎ出した時の表情です。 ﹁何だ、八、物もの惜おしみをせずに、言ってしまいな﹂ 平次も少し不機嫌です。 ﹁あの編笠乞食のところへ、毎日一度ずつ様子を見に来る娘があるんだってネ﹂ ﹁何? 誰がそんな事を言った﹂ ﹁筋向うの駄菓子屋の婆アがそう言っていましたよ。初めのうちは気が付かなかったが、近頃は毎日食べ物を持って来てやるから、ツイ顔を見る気になりましたって、――とんだ綺麗な娘だって言いますよ﹂ ガラッ八はとうとう大変な事を嗅ぎ出して来ました。 もっとも、こんな騒ぎが始まると、大抵の人は掛り合いを恐れて、知ってる事も黙ってしまうのが人情ですが、ガラッ八の調子が開けっ放しで、人間がいかにも邪念がなさそうなので、相手になっていると、うっかり舌を滑らしてしまうのでしょう。それがガラッ八の取柄で、銭形平次に重宝がられている原因でもあったのです。 気さくな平次は、すぐ駄菓子屋へ飛んで行きました。反そっくり返った箱の中から、駄菓子を二三十文選えり出させて、観音詣りの土みや産げも物のといった体裁に包ませながら、 ﹁お婆さん、編笠乞食のところへ来る娘さんは、ありゃ何だろうねえ、大層な容きり貌ょうだって評判だが――﹂ ﹁親分はよく御存じで、町内にもあの娘の事を知っているのは、そうたんとはありませんよ﹂ 駄菓子屋の婆さんの舌は、思いの外滑らかにほぐれます。商売冥利、お客への世辞のつもりだったかもわかりません。 ﹁幾つぐらいに見えるだろう﹂ ﹁十や九くそこそこ、ちょうどにはなりませんねえ﹂ ﹁身分は何だろう。男には眼の届かないところがあるものだ、お前さんが見たら判るだろう﹂ ﹁それがね、親分、側そばへ寄ってみたわけでも、声を掛けたわけでもありませんから、判はっ然きりしたことは申上げられませんが、着物の好み、髪形などから見ると、下町の大おお店だなのお嬢さんというところじゃございませんか﹂ ﹁なるほど、――ところで、編笠乞食との間柄は何だろう。兄きょ妹うだいとか、許いいなずけとか、話しぶりで見当は付かなかったろうか﹂ ﹁それがネ、親分、こんなに離れていちゃ、聞こうと思っても聞えやしません。裏の井戸端に居る嫁の話し声はよく聞えるんですが――﹂ 姑しゅうとめ根性――と言うものでしょう、ガラッ八は危うく吹出すところでした。 ﹁今日も何か食い物を持って来た様子かい﹂ ﹁ヘエ、竹の皮包にして、お寿すもじか何か持って来た様子です。お昼少し前でしたよ﹂ ﹁確かにそれを食ったろうね﹂ ﹁娘さんの後ろ姿を伏し拝むようにして喰たべてましたよ﹂ ﹁で、その後で苦しみ始めたんだね﹂ ﹁お鮨すしを喰べて小こは半んと刻きも経ちましたかしら、しばらくはそれでも我慢している様子でしたが、とうていたまらなくなったとみえて、地べたを這はい廻るようにして苦しみ出しました。見ちゃいられませんでしたよ﹂ ﹁有難う、それだけわかりゃ、大助かりだ﹂ 平次はホッとした心持になったのでしょう、思わず岡っ引の地を出して、こんな事を言ってしまいました。四
﹁八、今日は大事な仕事だ。縮しく尻じるような事があっちゃ、取り返しが付かない﹂ ﹁親分脅かしっこなしに願いますよ、一体どんな野郎と噛み合やいいんで――?﹂ ﹁喧けん嘩かじゃないよ、あの娘の後を跟つけて、どこへ納まるか見届けりゃアいいんだ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ガラッ八は眼を見張りました。よくもこう目が届いたものです、花はな川かわ戸どの方から入って来た娘、町一杯に見通す位置に身を潜めて、路地の口から、こっちを眺めているのを平次は指さしているのです。 事件の翌あくる日、変死した乞食の身許を洗いようがないと解ると、平次は最後の手段として、馬うま道みちに朝から張り通して今日も来るかも知れない娘を待ったのでした。 ﹁――身に覚えがなきゃア来るに決っている。覚えがあっても、下手人は後の様子を見たがるから、きっと来る――﹂ そんな事を言って、半日路地に立った平次とガラッ八は、昼少し前漸ようやく酬むくいられて、目差す娘が白日の下に現れたのを見付けたのでした。 ﹁綺麗だね、親分、あれを跟つけるのは朝飯前だが、あんなに綺麗じゃ跟ける方で気がさす﹂ ﹁何をつまらない、――それ、諦あきらめて帰って行くだろう。覚さとられちゃ打ぶちこわしだ、そっと跟けて行け﹂ ﹁合点、これも役得さ。同じ跟けるなら、綺麗な新しん造ぞの方がどんなに心持がいいか判らない﹂ 八五郎は駆け出しました、が、思い直した様子で立止まると、裾すそを七三に端はし折ょって、手拭でヒョイと顔を包んだものです。ポカポカする秋あき日びよ和り、頬ほお冠かむりは少し鬱うっ陶とうしいが、場所柄だけに、少し遅い朝帰りと思えば大して可お笑かしくはありません。 ﹁銭形の﹂ 不意に平次の肩を叩いた者があります。 ﹁あ、三みの輪わの兄あに哥き﹂ 振り返ると、ニヤリニヤリと四十男が、平次の顔と、駆けて行くガラッ八の後ろ姿を半々に眺めております。 三輪の万七という顔のいい御用聞、石いし原はらの利助が隠居してからは、銭形の平次を向うに廻して、事ごとに手柄を争っている男だったのです。 ﹁大層な手柄だってネ、行倒れの乞食の懐から小判で百両出たという話には驚かないが、その行倒れを毒死と睨にらんだ平次親分の目には恐れ入ったよ、――ここは馬道だから、筋を言や俺の縄張だが、そんなケチな事は言わねえ、まア、せっかくやんなさるがいい。あの乞食が大名の落おとし胤だねだったりした日にゃ、大変な事になるぜ、ハッハッハッ﹂ 万七はもう一つ若い平次の肩をポンと叩くと、言いたいだけの事を言ってクルリと、踵きびすを返しました。 ﹁…………﹂ 平次は眉を顰ひそめましたが、妙に万七の様子に自信があるので、うっかりした事も言えません。 それから半刻︵一時間︶ばかりすると、ガラッ八は埃ほこりと汗に塗まみれて飛んで来ました。 ﹁親分ッ﹂ ﹁何というざまだ﹂ ﹁口く惜やしいよ﹂ ﹁口惜しくたって、泣く奴があるものか、大の男が――、娘を見失ったろう﹂ 平次に図星を指されたのでしょう。 ﹁見失ったんじゃねえ。娘の後を跟つけて、浅草橋御門を出るといきなり横合から飛出した野郎が、ドカンと突き当るんだ﹂ ﹁尻餅をついたろう﹂ ﹁尻に泥が付いているから、そんな事を言い当てたところで自慢にならねえ、――ね、親分、その突き当った野郎は、あっしが起上がると胸むな倉ぐらを掴つかんで、ポカポカッと来やがるじゃないか﹂ 一いっ刻こく者もののガラッ八は、すっかり腹を立てて、親分の平次にまで食ってかかりそうです。 ﹁それがどうした、八、落着いて物をいえ、大事なところだ﹂ ﹁その野郎を誰だと思いなさるんだ。親分、三輪の万七の子分、お神かぐ楽らの清せい吉きちだろうじゃないか。――手前の親分の平次は、三輪の縄張を荒らして、事ごとに恥をかかせやがる。今度という今度は、その敵かたきを討ってやるから、覚えていろって言やがる﹂ ﹁何だと八、敵を討つ?﹂ ﹁清吉の野郎は確かにそう言いましたよ、親分、身に覚えがありますかえ﹂ ﹁馬鹿、敵の覚えなんかあってたまるものか、――それから娘はどうした﹂ ﹁そんなに揉もんでいるんだもの、女の足だって請合い箱根の関を越す﹂ ﹁つまらない事をいうな、とうとう縮しく尻じりやがったろう﹂ ﹁だって親分﹂ ﹁三輪の子分なんかに掛り合っているから悪いんだ。そんな時はな、八、後学のために言っておくが、殴られ損にして逃げ出すんだ﹂ ﹁…………﹂ ﹁見ろ、埃ほこりと汗と涙で、台無しじゃないか。往来の人が見て笑っているぜ﹂ ﹁…………﹂ ﹁よくその扮な装りで、浅草橋御門から駆けて来たものだ。そっちを向きな﹂ 口小言を言いながらも、平次の眼も泣いておりました。汚れ傷ついて来た飼い犬でもいたわるように八五郎の身体をクルリと廻して、せめてもの埃を叩いてやっております。 ﹁親分、あっしは口く惜やしい﹂ ﹁何をつまらねえ、――三輪の兄哥が、神田か日本橋で、何か嗅ぎ出したんだろう、――ところで、八、ここから浅草橋まで行くうち、娘は後ろを振り向いて見なかったか﹂ ﹁後ろを振り向くどころか、横顔も見せねえ。お重詰らしい風呂敷を持って真っ直ぐに行きましたよ、あんまり後ろ姿が綺麗だから、何遍か前へ駆け抜けて顔を拝もうとしたが――﹂ ﹁馬鹿、そんな心掛けだから、お神楽の清吉に殴られるんじゃないか﹂ ﹁親分、何とか敵を討っておくんなさい。あのお神楽の野郎、あっしの鼻へ指を突っ込みやがって、勘弁ならねえ野郎だ﹂ ﹁ウ、フ、お前の鼻を見ると、指ぐらい突っ込みたくなるだろうよ。踵かかとでなくて仕合せだ、まア、勘弁してやれ﹂ ﹁ね、親分、せめてあの娘の家だけでも判りゃア﹂ ﹁そのぐらいのことならわけはないよ。三輪の万七親分か、お神楽の清吉の後を跟つけていりゃア、日の暮れるまでにはきっと判る﹂ ﹁有あり難がてえ、それじゃ親分﹂ ガラッ八はまた飛び出しました。五
娘の素姓はすぐ判りました。 横山町の米屋――といっても、金貸の方で名高い万両分限、越えち後ご屋や佐さ兵へ衛えの跡取り娘お絹きぬ、弁天とも小町とも、いろいろの綽あだ名なで呼ばれる、界かい隈わい切っての美人だったのです。 編笠乞食の素性も、それにつれて次第にはっきりしました。 越後屋の手代弥やさ三ぶろ郎うといって、二十五。主人の佐兵衛が、今から二十五年前、観音様へ朝詣りをした時、雷門の側に捨ててあったのを拾って、そのまま自分の子とも、奉公人ともなく育てたのでした。 佐兵衛夫婦はちょうど生れたばかりの総領を喪なくして、悲歎にくれている時だったので、そのまま総領の乳う母ばを留め置いて弥三郎を育てました。間もなく、姪めいのお絹を貰って、跡取り娘ということにしたのです。 二人は負けず劣らず美しく可愛らしく育ちました。弥三郎は素姓も判らぬ拾い子ですが、維これ盛もり様のような美男、お絹とは似合いの夫めお婦とび雛なを見るようで、主人の佐兵衛も妙に許したような眼で見、二人の間柄も、淡い友愛から、次第に濃い恋へと変って行くのが、店の人達の眼にも、はっきり判るのでした。 そこへ主人の遠縁に当る、新しん助すけというのが割り込んで来ました。年は二十七、さんざん他の店で苦労して商売にも賢く、人柄がまことに実直で、二三年の間に、すっかり弥三郎の占めていた地位を奪い、縁続きの関係があるにしても、今では番頭の茂もす助け、支配人の民たみ五ごろ郎うに次いで、店にはなくてならぬ人になってきたのです。 茂助は四十年も勤め上げた商売一点張りの老人、支配人の民五郎は、佐兵衛の弟で、これは一と癖も二た癖もある人間、若い時はずいぶん放ほう埒らつな暮しもしたようですが、今ではすっかり堅くなって、兄の佐兵衛を助けて、家業大事に励んでおります。 弥三郎は、妙に自分の不安定な地位を考えさせられる頃から、体にも、恐ろしい症状があらわれ始めていたのです。 出入りの医者に診みて貰って、それは、当時では癒なおりようのない病と知った時の、弥三郎の驚きはどれほどだったでしょう。医者の口から漏れるともなく、この事が家中に知れ渡ると、弥三郎はもう居ても立ってもいられない心持になっておりました。 親無し子を拾って、これまで育ててくれた大恩を思うと、このうえ越後屋に踏み止まって、家族に迷惑をかけることは、血をわけない間柄だけに、弥三郎には忍びないことでした。 その上、まだあまり悪くならぬうちに、お絹とも別れて、美しい記憶だけでも残そうというのが、せめてもの弥三郎の望みだったのでしょう。 全国の霊場を巡って、せめては後ごし生ょうを願おうといった、悲しい決心を定きめると、佐兵衛の引止めるのも、お絹の歎なげきも振り切って、弥三郎は越後屋を飛出してしまいました。 それは三月ばかり前のこと、餞せん別べつに貰った小判の百両を懐中に深く秘め、編笠に面めん体ていを隠したまま、まず日頃信心する観音様の近くに陣取って心静かにうろ覚えのお経を誦ずしながら、――せめては後ご世せを――と悲しくも祈っているのでした。 病を不治と思い込んだ当時の道徳では、弥三郎の態度はまことに見上げたものだったに相違ありません。 ところが、野のて天んに寝て、不ま味ずい物を食うようになってから、不思議に弥三郎の病気は癒って行きました。全く治ったわけではありませんが、次第に身も心も軽くなって、年内に元の身体になるかも知れないと思う未練が、弥三郎を江戸から一歩も踏み出させなかったのです。 お絹は人伝てに弥三郎が観音様のあたりに居ると聞くと、矢も楯もたまらず、横山町から毎日のように逢いに来ました。 頑かた固くなな弥三郎は、部屋住みのお絹が持って来る金などは、どうしても受取らなかったので、いつの間にやら、毎日変った食物を持って来て、弥三郎が編笠を傾けてそれを食うのを、お絹は遠くから眺めて涙ぐんでいるようになったのです。 そのお絹の持って来た鮨すしで弥三郎は殺されたのです。平次はこれだけの事を探ると、深々と手を拱こまぬいて考え込みました。六
平次は、とにかく横山町の越後屋に乗込んで行きました。今はおちぶれた弥三郎には相違ありませんが、自分の縄張内に、人一人殺した下手人が、息を吐ついていると思うと、我慢がならなかったのです。 ﹁あッ、銭形の親分、よくお出で下さいました。ちょうど今弟と相談して、お願いに上がろうというところでした﹂ 主人の佐兵衛はよく禿はげた前ひた額いを叩くように、薄暗い奥から飛んで出ました。 ﹁何か変ったことがありましたか﹂ 平次も少し面喰らいます。 ﹁三輪の万七親分がいきなりやって来て、弥三郎を毒害した覚えがあるだろう――って、娘のお絹と甥おいの新助を縛って行きました。そんな馬鹿なことがあるものですか﹂ 佐兵衛はカンカンになって平次にまで食ってかかりそうです。 ﹁親分、家出をして物貰いにまで身を落しているものを、何を物好きに殺す奴があるものでしょう。兄が腹を立てるのも無理じゃございません﹂ 民五郎も口を添えました。若い時分は上方から九州までも放浪して、身に余る野心を抱いたこともありますが、今ではすっかり落着いて、兄の莫ばく大だいな身しん上しょうを切り廻して、何から何まで指図をしている四十男だったのです。 ﹁ヘエ――、驚きましたな。新助さんという人には逢ったことがありませんが、お嬢さんを縛るのはどうかしていますよ、私が行ってよく話してやりましょう﹂ ﹁なにぶん宜よろしく願います。新助だって、そんな無法なことをする人間じゃございません﹂ 佐兵衛にくれぐれも頼まれて、平次はぼんやり外に出ました。 ﹁親分﹂ ﹁何だ、ガラッ八か﹂ ﹁三輪の親分が、あの綺麗な娘を縛って行ったんだってネ、罰の当った野郎じゃありませんか﹂ ﹁何をつまらない﹂ ﹁だってそうじゃありませんか、自分が殺した覚えがあるものなら、翌る日も同じ時刻に、重詰の小風呂敷包なんか持って、馬道まで行きゃアしません﹂ ﹁…………﹂ ﹁それに、馬道から“浅草橋まで行くうち、あの娘が後ろを振り向いて見なかったか”って親分が訊きなすったが、あれはなるほど図星だ、後ですっかり恐れ入ったぜ、後ろ暗いところのある人間なら、後も振向かずに帰るってことはない。――ひょいと、これだけの事を考えるんだから、親分の胸は大したものだ﹂ ガラッ八は首を傾かしげたり、鼻の先を撫でたり、独りで感心しております。 ﹁それだけ判りゃ、手前も一本だ。八丁堀へ飛んで行って、笹野の旦那にそう申上げてみるがよい。お嬢さんはその場で縄を解かれるから――﹂ ﹁親分は?﹂ ﹁俺は他に用事もあるから、もう一度この家やの支配人に逢ってみる﹂ ﹁有難え、あっしの口一つで許される段取りになると、手もなくお嬢さんの恩人だね﹂ ﹁まアそうだ﹂ ﹁八五郎さん――ときたらどうしよう﹂ ﹁馬鹿だね﹂ 平次はそう言いながらも、この剽ひょ軽うきんな男、――ガラッ八の駆けて行く後ろ姿を見ておりました。 話は飛びますが、平次が予言した通り、八丁堀へ引いて行って、奉行所のお白しら洲すへ突出すまでの下調べをされていたお絹は、ガラッ八の弁明でその日のうちに許され、佐兵衛を呼出して、横山町の自宅へ帰しました。 ﹁畜生、ガラッ八の野郎、つまらねえところへ出しゃ張る﹂ 三輪の万七とお神楽の清吉はプリプリしておりますが、与より力きの鑑めが識ねですることへ、文句の付けようもありません。 新助の方は留め置いて、二三日責めました。弥三郎さえ居なければ、お絹とめあわせられて、越後屋の跡取りになることは、あまりにも明白な新助だったのです。 お絹が弥三郎に未練があって、毎日浅草へ出かけるのを、新助は知らないはずもなく、知って嫉やき妬もち心ごころを起さないとしたら、それは嘘になります。 ﹁お絹さんが浅草とやらへ通うのは、店中の評判ですから、私もよく存じております。弥三郎が家出した後、私とお絹さんをめあわせるという下相談もあったくらいですから、私もお絹さんの出歩きを苦々しいとは思いましたが、それくらいのことで、人一人殺そうとは思いません。第一私には、そんな恐ろしい毒薬を手に入れようがありません﹂ 口不調法なほど実直な新助は、これだけの事を何べんも何べんも繰り返して言うだけで、それ以上に隠し事も駆引もあろうとは思えなかったのです。 ﹁旦那、見込み違いでございました。新助という男は、人を殺せるような性たちの人間ではございません。あれは商売外の事はばかも同様の男でございます﹂ 四日目に、三輪の万七もとうとう兜かぶとを脱いでしまいました。縛って来た万七が見込み違いと言うのを、笹野新三郎、吟ぎん味みよ与り力きでも、留めておくほどの証拠も自信も持っていません。七
事件はそのままうやむやに葬られそうでした。三輪の万七も間の悪さを我慢して、ちょいちょい顔は出しますが、しばらくは手の下しようもなく、平次はガラッ八に言い付けて、横山町一円に泳がせましたが、名代の早耳も、大した面白い話を聞き込んだ様子もありません。 ﹁三輪の万七親分は、お神楽の清吉をうんと働かせて、新助の身持と、越後屋へ入るまでの奉公先を洗っていますよ﹂ ガラッ八はそんな事を言って来ました。 ﹁フム﹂ 平次の返事は一向張合いがありません。 ﹁否が応でも、もう一度新助を縛るつもりなんだね、――ところが、新助は生はえ抜きの米屋の手代だが、主人の弟の民五郎は、上方で薬種屋をやっていたことがあるんだそうですぜ﹂ ﹁何だと?﹂ ﹁薬種屋ならどんな毒薬でも手に入るでしょう﹂ ﹁誰がそんな事を言った﹂ ﹁番頭の茂助爺さんですよ。あの親爺は算そろ盤ばんの事しか知らないのかと思うと、四十年も人の飯を食っただけに、なかなか気の付くところがありますよ﹂ ﹁フーム﹂ ﹁親分がまた腕を組んだ、この双すご六ろくも上がりが近いぜ。ね、お静さん――おっと姐あね御ご、この秋は少し遠走りして、湯治にでも行こうじゃありませんか﹂ ガラッ八はそう言って、晩の支度にいそいそと立ち働くお静の美しい後ろ姿を見るのでした。 全く、このガラッ八の予言も見事に当りました。 翌る日の朝、越後屋から急の迎え。 ﹁旦那が殺されて、新助どんが深ふか傷でを負わされました。すぐ親分に――﹂ と言う使いの口上を半分も言わせず、平次は爪つま楊よう枝じを叩き付けるように、ガラッ八を促して、横山町へ駆け付けました。 越後屋へ行ってみると、全く文字通り上を下への騒動です。 ﹁親分、た、大変なことになりました﹂ 飛んで出たのは、少し狸たぬきに似た老番頭の茂助。 ﹁とんだ事だね、番頭さん﹂ 平次は言い残して奥へ入りました。 薄うす暗ぐらい仏壇の奥、独り者の主人が昼でも時々は籠こもっている八畳の間には、床から抜け出したままの佐兵衛、血の海の中にこと切れております。 傍そばには弟の民五郎、妙にウロウロして、何事も手の付かぬ様子で平次を迎えましたが、さすがに落着きを見せるつもりか、血ちし飛ぶ沫きの中に、おののく膝ひざを突いて、 ﹁親分、御苦労様で﹂ そんな事を言っております。 平次は黙って会釈して、念入りにその辺を見廻しました。曲くせ者ものは雨戸を外して入ったらしく、縁側には泥足の跡などを付けておりますが、部屋の中には別にそんなものはなく、主人の佐兵衛は熟睡しているところを、虫のように刺されたらしく、少し乗出し加減に虚こく空うを掴つかんでおりますが、深々と喉のど笛ぶえをえぐった傷の様子では、声をも立てずに死んだ様子です。 ﹁恐ろしい腕前だ﹂ 平次は思わずガラッ八を振り返りました。寝ている者の首が、半分千切れるほど切るのは、非凡の業か腕力がなければなりません。 曲者の遺留品というのは、蝋ろう塗ぬりの脇差の鞘さやが一本だけ。 ﹁この鞘に見覚えはありませんか﹂ 誰へともなく平次が言うと、 ﹁ヘエ、そ、それは私の品で――中味は隣の部屋にあります﹂ 待ち構えたように民五郎が言います。 次の間は深ふか傷でを負わされた新助が寝ている、納なん戸ど兼用の六畳です。 一足入ると、ここは更に惨さん憺たんたる有様です。かなり取乱した中に床を敷いて、町内の外科が、新助の傷の手当をしているところへ、 ﹁災難だったね、番頭さん﹂ 平次は声を掛けます。 ﹁ヘエ――、私はよろしゅうございますが、旦那がお気の毒で、何しろ昼の疲れですっかり寝込んでいるところをやられたんですから﹂ 新助はおどおどした顔を挙げました。 ﹁曲者の顔を見なかったのかい﹂ ﹁いま申上げた通り、何かに驚いて、ハッと飛起きると、行あん灯どんは消えて真っ暗でしょう、――旦那、旦那――と声を掛けるといきなり後ろからバサリとやられたんで――﹂ ﹁それから﹂ ﹁恥かしいことですが、それっきり眼を廻してしまいました。呼び起されてみるとこの有様で、ヘエ――、何とも申し訳ございません﹂ ﹁謝らなくたっていい、――ところで、その主人を呼んだとき隣の部屋に灯あかりが点ついていたのかい﹂ ﹁点いておりました、ヘエ﹂ ﹁疲れちゃ悪い、横になった方がいいだろう。全く災難だったね﹂ 平次は新助の後ろへ廻って、外科の手当をしている傷を見せて貰いました。 右の肩下から、五寸ばかり定規で引いたように斬り下げた刀かた創なきずは、さまで深いものではありませんが、血の出ようがひどいようですから、ずいぶん気の弱い者は眼ぐらいは廻すでしょう。新助は長年の米屋奉公で鍛えて、身体こそ立派ですが、人間は少し無愛想で、何となく臆病らしいところさえあります。 ﹁これが曲者の捨てて行った脇差かい﹂ ﹁ヘエ﹂ 平次は血刀を取上げて縁側へ出ました。朝の光にすかして、切っ先から柄つか、目めぬ貫きまで、丁寧に調べておりましたが、何を考えたか、風呂敷を借りてそれを包むと、 ﹁この脇差はちょいと借りて行くぜ﹂ そう言って、今度は念入りに部屋の中を捜し始めました。 押人の中、箪たん笥すの上、脱ぎ捨てた着物、一つも平次の目を脱のがれるものはありません。それが済むと、縁側へ出て、便所の手ちょ水うず場ばの下をツクヅク眺めております。曲者が何か洗ったものか、そこの植込みや砂利は、ほんの少しですが、薄くなった血が流れております。 ﹁親分、見当は?﹂ ガラッ八は心配そうに後から尾ついて来ました。 ﹁まるっきり解らないよ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁この家から人間を一人も出さないように手配してくれ。俺はちょいと出て来る。それから新助はなるべく一人でそっとしておく方がいいぜ、手負いは気が立っちゃ悪い﹂ ﹁どこへ行きなさるんで――﹂ ガラッ八は追っかけて訊きました。 ﹁まだ飯も食わないじゃないか﹂ ﹁あっしだって食いませんよ﹂ ﹁我慢しな﹂ 平次は風呂敷に包んだ脇差を小脇にフラリと外へ出ました。八
その後へやって来たのは三輪の万七とお神楽の清吉でした。 平次がやったと同じような探索をして、一度門口へ出ましたが、思い直したように取って返すと、支配人の民五郎に縄を打って引立てます。 ﹁八五郎兄あに哥い、念のために言っておくがネ、これだけ証拠の揃った犯ほ人しを、平次親分がなぜ挙げなかったんだ。後で縄張がどうのこうのと言わないことだぜ﹂ 万七は冷たい言葉を浴びせると、ガラッ八を尻目に野次馬の群がる中を、腰縄を打った民五郎を追っ立てて八丁堀へ引揚げるのでした。 吟味与力の笹野新三郎は、その時ちょうど平次と話し込んでおりました。 ﹁万七が越後屋の支配人を縛って参りました﹂ 取次がそう言うと、 ﹁何、万七が? ――とにかく庭へ廻せ﹂ その声を聞くと万七は、待ってたと言わぬばかりの顔を縁側へ出しました。 ﹁旦那様、平次から御聞きでございましょう。越後屋の主人を殺し、手代に深ふか傷でを負わせた、支配人民五郎を挙げて参りました。浅草で編笠乞食の弥三郎を毒害したのも、こやつの仕業でございます﹂ ﹁フーム﹂ 笹野新三郎が顔を挙げると、庭へはもう、お神楽の清吉が、民五郎を引据えております。 ﹁兄あに哥き、とうとう民五郎を挙げたね﹂ 同じく縁側へ滑った平次は、天を仰いで歎息するようにこう言いました。 ﹁それが悪いのか、銭形の、――弥三郎殺しを新助の仕業と思ったのは俺の鑑めが識ね違いだったが、今度ばかりは外れっこのねえ証拠がある﹂ 万七は少しいきり立ちます。 ﹁二人とも、静かにせぬか、――万七、何よりその証拠というのを聞こうか﹂ 笹野新三郎は二人の争いをなだめてこう言います。 ﹁申しますとも、第一に主人の佐兵衛と、養子分の新助を殺せば、あの身代は民五郎の自由になります。佐兵衛を斬ったのは、かなりの腕前ですが、民五郎は若い時ならず者の仲間に交って、腕も少しは出来るっていいます。それから上方で薬屋をやった事もあるそうですから、弥三郎を殺した恐ろしい毒薬を持っていたはずです﹂ ﹁…………﹂ ﹁それに、曲者は外から入ったように見せてありますが、縁側の泥足は、すぐその下の沓くつ脱ぬぎにあった下駄でつけたもので、柔かい庭土の上には足跡もありません。曲者は内の者に決っております﹂ ――ずいぶんヘマな証拠を拵こしらえたんだネ――平次はそう言おうとして口を緘つぐみました。万七と争ったところで仕様がないと思ったのでしょう。万七はしかし委細構わず続けました。 ﹁新助は怪しいが、自分であれだけの傷を背中へつけられるわけはなく、番頭は年寄りで荒っぽい事の出来る柄ではありません。もう一つ、動きの取れない証拠は、主人と新助を斬った脇差はこの民五郎のもので、中味は銭形のが持っているはずでございます﹂ 万七の言葉には淀よどみもありませんでした。 ﹁それは非道だ。私は人を殺すような人間じゃありません。まして自分の兄を手にかけるなんて、聞いても恐ろしい――﹂ 民五郎はあまりの事に転倒して、縛られたまま身を揉みますが、縄尻を押えたお神楽の清吉は、グイグイと引いて大地に押付けております。九
﹁銭形の、民五郎が下手人でなきゃア、誰が殺したんだ。縄張は縄張、物の道理は物の道理だぜ――。わざわざ笹野の旦那をおつれして、見事俺に恥を掻かせるつもりだろうが、そんなわけにゆくものか﹂
万七はしきりといきり立っております。
﹁そんな訳じゃないよ、三輪の、口で言っても解らない事があっちゃ、人間一人の命にかかわるから、旦那を始め皆んなの目で見て貰おうというんだ﹂
平次はそれを宥なだめながら、横山町の越後屋の店から入って行きました。人殺しの現場へ、吟味与力を引っ張り出すということは、なかなか容易ならぬことでもあったのですが、新三郎は思う仔細があるのか、黙って平次について行きました。それを迎えたガラッ八は、不思議な事の成行きに、大きな口を開あいて挨拶をするのさえ忘れております。
惨さん憺たんたる中を一と通り見て廻った後で、平次は笹野新三郎と万七を縁側に誘い出しました。
﹁この手水鉢の下の植込みと、白い砂利が血に洗われております。これは曲者が主人を斬った後で脇差の刃を洗ったのでございます。脇差の柄つかの真さな田だひ紐もが少し濡れておりますから、間違いはございません、――人を一人斬って、二人目を斬る前に、刀を洗うのは、並大抵の曲者にしては悠長すぎはしませんでしょうか﹂
平次は重大な謎を投げかけました。それを解けるのが、――いつぞや平次が女房のお静に髭ひげを当らせているのを見た、ガラッ八だけかもわかりません。
﹁――それからこの柱を御覧下さい、かなりひどく血が付いておりますが、これは手や着物から付いたのではなくて、傷口から飛し沫ぶいたのです﹂
﹁…………﹂
﹁主人の死体からも新助からも、遠い、この柱のこちらの側に血が飛沫くはずはありません。それに、新助は先刻、曲者に斬られたとき主人の部屋の灯あかりが見えていた――と言っていました。ここで斬られて、後ろの灯が見える道理があるでしょうか、新助は斬られてすぐ目を廻しているのでございます﹂
﹁それでは下手人は誰だ﹂
笹野新三郎、たまり兼ねて言いました。
﹁お待ち下さいまし、この柱にこう脇差の柄を縛って――﹂
平次はそう言いながら、自分の持っている風呂敷を解き、中から血だらけな脇差を出して、その柄を風呂敷で柱に縛り付けながら続けました。
﹁こう三尺五六寸のところへ脇差を縛り、刃を下へ向けて、切っ先に肩先を当て、スーッと上へ起たち上がると、人間の身体が背うし後ろから斬り下げられたように真っ直ぐに下へ傷が付きます。新助の背中の傷は、定規で引いたように真っ直ぐに斬り下げてありますが、人間の手で斬ったんでは、あんなに行くものではございません﹂
そこまで聞くと、半身を白はく布ふで巻いて、ウンウン唸うなっていた新助は、いきなり起上がって這はい出そうとしました。
﹁八、その野郎を捕まえろ。臥ねている人間の首を半分斬落した恐ろしい力だぞ、手負いだと思って油断するな﹂
﹁何をッ﹂
猛烈な取っ組合いが始まりました。
平次が手を貸さなかったら、本当にガラッ八もどんな目に逢わされたか知れません。
﹁新助、まだ逃げるには早いぞ、もう少し聞かせることがある。この脇差の柄を縛った前まえ垂だれをどこへ隠した。先さっ刻きまで、少し血が付いているのに気が付かずに、そこへ放っておいたろう、――俺はそれを隠させるつもりでここを明けてやったんだ。俺が脇差の柄に糠ぬかの付いてるのを眺めていると、手前は急に糠だらけな前掛を気にしていたじゃないか﹂
﹁…………﹂
新助はすっかり恐れ入ると急に背中の傷が痛み出したらしく、縛られたまま畳の上へ崩くず折おれました。
三輪の万七とお神楽の清吉は、いつの間に帰ったか、もうその辺には居ません。
*
﹁恐れ入ったね、親分、三輪の万七とお神楽の清吉がコソコソ逃げ出した恰好はなかったぜ﹂
﹁馬鹿ッ、つまらないことを言うな。俺は人を縛ると後の気持がよくねえ、――だが、あの野郎は助けるわけにいかなかったよ。もっとも、あれほどの悪党でも、主人の血の付いた脇差で自分を切る気がなかったのは不思議さ、よっぽど、気味が悪かったんだね。それでとうとう露顕したのも因縁だろう﹂
平次はそう言いながらガラッ八を促して家路に向いました。
言うまでもなく新助は越後屋を乗っ取って、お絹を手に入れるつもりだったのです。弥三郎を殺した毒薬は、民五郎が物好きで持っていたのを、用よう箪だん笥すから盗み出したもの、これはお白しら洲すで判りました。