一
﹁親分、ちょいと逢ってお願いしたいという人があるんだが――﹂ ガラッ八の八五郎は膝ひざっ小僧を揃そろえて神妙に申上げるのです。 ﹁大層改まりゃがったな。金の工くめ面んと情いろ事ごとの橋渡しは御免だが、外のことなら大概のことは引受けるぜ﹂ 平次は安直に居住いを直しました。粉煙草もお小遣も、お上の御用までが種切れになって、二三日張合いもなく生き延びている心持の平次だったのです。 ﹁へッ、へッ、へッ、そんなに気き障ざなんじゃありません。御用向きのことですよ﹂ ﹁そんならいつまでも門かど口ぐちに立たせちゃ悪い。どんな人か知らないがこっちへ通すがいい﹂ ﹁ヘエ――﹂ ガラッ八が心得て路地へ首を出すと、共同井戸のところに待機している、手頃の年増を一人呼んで来ました。 ﹁親分が逢って下さるとよ。遠慮することはねえ、ズーッと入りな、ズーッと﹂ ガラッ八は両手で畳を掃はくように、件くだんの女を招じ入れました。渋い身みな扮りと慎み深い様子をしておりますが、抜群のきりょうで前に坐られると、平次ほどの者も何かしら、ぞっとするものがあります。 年の頃は二十七八、どうかしたらもう少し老けているかも知れません。眉の長い、眼の深い、少し浅黒い素顔も、よく通った鼻筋もこればかりは紅を含んだような赤い唇も、あまり街では見かけたことのない種類の美しさです。 ﹁銭形の親分さん、始めてお目にかかります。――私はあの、市ヶ谷御おな納んど戸ま町ちの宗むな方かた善五郎様の厄介になっている茂も与よと申すものでございます﹂ 少し武家風の匂う折目の正しい挨拶を、平次は持て余し気味に月さか代やきを撫なでました。 ﹁で、どんな用事で来なすった﹂ 煙草盆を引寄せて叺かますの粉煙草を捻ひねりましたが、火皿に足りそうもないので、苦笑いに紛まぎらせてポンと煙草入を投ほうります。 ﹁外でもございません。私が厄介になっております、宗方家の主人善五郎様は、ゆうべ人手に掛って相果てました﹂ ﹁殺されたと言いなさるのかい﹂ ﹁ハイ、殺されたとなりますと、何かと後が面倒なので、御親類方が集まって、自害の体に拵こしらえ、たくさんのお金まで費つかって、証人の口を塞ふさぎました。明日お葬とむらいを済ませば、死人に口なし、それっきりになってしまって、殺した人は蔭で笑っていることでございましょう﹂ ﹁お前さんはそれが気に入らないというのかえ﹂ ﹁宗方善五郎様は五十を越した御浪人ですが、元は立派な御武家でございます。御武家が死にようもあろうに首を吊って死んでは、お腰の物の手前末まつ代だいまでの恥でございます﹂ 平次は尤もっともらしく手などを拱こまぬきました。首を縊くくるのが誉れであるはずはありませんが、それを末代までの恥にする、この人達の気持にも解らないところがあったのです。 ﹁自分で首を吊るのが恥は解っているが、人に絞め殺されるのもあまり御武家の誉れではあるまいぜ﹂ ﹁でも、御主人様はこの春から軽い中風で、お身体が不自由でした﹂ ﹁中風で不自由な年寄りを絞め殺すような悪い野郎もあるのかな﹂ ﹁あんまりな仕打ちに、我慢がなり兼ね、何かの証拠にもと、これを持って参りました﹂ お茂与という美しい年増は、帯の間から紙入を出して、その中から小さく畳んだ半紙を抜き、皺しわを伸ばして平次の方へ滑らせたのです。 ﹁何だ、これは書置きじゃないか﹂ ﹁ハイ﹂
一、書置のこと。拙者こと万一非業に相果候様 のこと有之節 は、屹度 有峰杉之助を御詮議 相成り度く為後日 右書き遺し申候也。
月 日
宗方善五郎 判
御役人様 御中
平次は手に取って眺めて、その打ち顫ふるう手しゅ跡せきの間から、不思議な強迫観念におののく宗方善五郎の恐怖を覗くような気がして、言いようのない不気味なものを感ずるのでした。
﹁これはどうしたのだ﹂
﹁宗方善五郎様が、生前そっと書き遺のこして、私に預けておいたのでございます﹂
﹁いつ頃のことだ﹂
﹁二た月ばかり前で――﹂
﹁こんなものを預かるお前さんは?﹂
﹁宗方家遠縁の者で、三年越し御厄介になっておりますが、どんな御縁か御主人様はことの外信用して下さいました﹂
お茂与はこう言って眉を落すのです。顔がくもると一ひと入しお美しさが引立って、不思議な魅力が四方に薫くんじます。
﹁八、行ってみようか﹂
﹁有難い﹂
八五郎はもう掘っ立て尻になって平次の出動を待っていたのです。
二
浪人宗方善五郎は、武家の出には相違ありませんが、すっかり町人になりきって、高利の金などを貸して裕福に暮しておりました。 お茂与は﹁私が余計なことをしたと思われると、皆んなに辛つらく当られますから﹂と尤もっともなことを言って裏口へ廻り、平次と八五郎は十手の見けん識しきを真っ向に、 ﹁御免よ﹂ 表向きから入りました。 ﹁あ、銭形の親分﹂ 店にいた近所の衆や、親類の老人達らしいのが、銭形平次の顔を見るとサッと蒼くなりました。お通夜を済ませて、明日はお葬とむらいをするばかりのところへ、とんだ者が飛込んだと思ったのでしょう。 ﹁気の毒だが、ちょいと仏様に逢わしてくれ﹂ 八五郎がズイと出ました。 ﹁ヘエー﹂ ﹁気の毒だが、少し不審がある。構わないだろうな﹂ ﹁検けん屍しは済みましたが、親分さん﹂ 近所の隠居らしいのが、恐る恐る抗議するのを背に聴いて、平次は真っ直ぐに通りました。 家の中は思いのほか豪勢で、宗方善五郎の裕福さと、高利の金の罪の深刻さを思わせます。 ﹁誰か案内して貰おうか﹂ ガラッ八は妙に権けん柄ぺいずくです。それに応えて出て来たのは、先さっ刻き平次の家へ来たお茂与、――よくもこう素知らぬ顔が出来たものだと思うほど、美しく取りすましております。 宗方善五郎の死体はまだ奥へ寝かしたまま。首へ巻いてあった細ほそ引びきは取り外してありますが、 ﹁何もかももとの通り﹂ とお茂与は言うのです。 死んだ善五郎は五十少し過ぎというにしては老けて見えますが、これは軽い中風のせいだったかも知れません。 ﹁主人の死んでいるのを、誰が一番先に見付けたんだ﹂ 平次の問いは定石通りに進みます。 ﹁私でございました。主人の居間へ来て雨戸を開けますと――﹂ ﹁雨戸は開いていなかったのだね﹂ ﹁え、いえ、鍵も桟さんもおりていませんから開けようと思えば外からでも開けられます﹂ ﹁で?﹂ ﹁雨戸を開けると、主人は細引で絞め殺されて、冷たくなって床から抜け出しておりました。びっくりして大声を出すと、若旦那の甲きね子た太ろ郎う様や、奉公人たちが多勢飛んで来ましたが、――殺されたとなると、お上かみ向むきも面倒になるし、商売柄人様に怨うらまれているからだと、世間様に思われるのも口く惜やしいから、鴨かも居いに扱しご帯きを掛けて自分で縊くびれ死んだということにして検屍まで受けたのでございます﹂ お茂与は静かな調子ながら一糸乱れずに説明して行くのです。 ﹁主人は中風だと言ったね﹂ と平次。 ﹁え、大した不自由はございませんでしたが、それでも中気でブラブラしている御主人が、鴨居へ扱帯などをかけて、自害するような、そんなことが御自分で出来るはずもございません﹂ 踏台をして覗いてみると、高い鴨居には、如い何かさま扱帯を通したらしく埃ほこりを拭き取った跡もありますが、中気の老人が、危なっかしい踏台をして、ここへ扱帯を通すということは、ちょっと受取り難いことです。 ﹁その細工に使った扱帯はどれだ﹂ ﹁これでございます﹂ お茂与が取出して見せた扱帯は艶なまめかしくも赤い縮ちり緬めんで、その端っこの方には、細い紐ひもか何か堅く結んだような痕あとがあります。 ﹁誰のだえ﹂ ﹁亡くなったお嬢さんので――﹂ ﹁フーム﹂ 平次も妙な心持になります。縊い死しの細工をするのに、死んだ娘の赤い扱帯を持出す番頭や親類もよっぽどどうかしております。 ﹁で、主人を殺した細引は?﹂ ﹁これでございます﹂ お茂与は押入を開けて、そっと隠しておいたらしい細引を取出しました。ほんの五六尺の麻あさ縄なわですが強きょ靱うじんで逞たくましくて、これは全く物凄いものです。 ﹁それにしちゃ細引の跡が薄いようだ﹂ 平次は死体の首筋を覗いて、そっと八五郎に囁ささやきました。 ﹁おや、こいつは何でしょう﹂ 八五郎は萌もえ黄ぎの組紐を一本見付けたのです。長さは四尺くらいもあるでしょうか、細くて弱そうな紐ですが、先に結び目をつけて、ひどく埃で汚れているのが気になります。 ﹁蚊か帳やの釣手でございましょう﹂ ﹁まだこの辺には蚊がいるのかい﹂ ﹁御主人様は大層蚊がお嫌いでございました﹂ お茂与は静かにその疑いを解きました。三
倅せがれの甲きね子た太ろ郎うはまだ二十そこそこの若い男で、武家の匂いもない町人風ですが、一人の親を喪うしなって逆上したものか、眼は血走り、唇もわななき言うことは悉ことごとくしどろもどろでした。 ﹁気の毒だが、少し訊きたいことがある﹂ ﹁…………﹂ 甲子太郎は黙りこくって固かた唾ずを呑みます。 ﹁お前さんも親旦那が自分で首を縊くくったものと思っていなさるのかえ﹂ 平次の問いにはいろいろの意味がありました。 ﹁皆んなで、そう決めてしまいましたよ、親分﹂ 甲子太郎の調子はひどく捨鉢ですが、父親が自殺したとは信じていない様子です。 ﹁すると?﹂ ﹁親父の首へ細引を掛けた奴を私は堪忍しちゃおきません﹂ ﹁それはどういう意味だね﹂ ﹁…………﹂ 甲子太郎は黙りこくってしまいました。 ﹁有あり峰みね杉之助という人を知っているだろうな﹂ 平次は話題を変えました。 ﹁町内にいる御浪人ですから、よく知っています﹂ ﹁その有峰という浪人者が、親旦那を怨んでいるようなことはなかったろうか﹂ ﹁あったかも知れません、――親父はひどく有峰さんを煙たがっていました﹂ ﹁有峰という浪人者に殺されるかも知れないといったような――﹂ ﹁とんでもない、有峰さんは立派な方ですよ﹂ 甲子太郎は平次の言葉を障さえぎって、以もっての外の首を振るのです。有峰杉之助が評判の良い浪人とは聴きましたが、甲子太郎までこう言おうとは思いも寄らなかったのです。 ﹁それじゃ他のことを訊くが――あのお茂与という女は、この家の何だえ。掛かかり人うどのようでもあり、召使のようでもあり、親類のようでもあるが――﹂ ﹁――親類なんかじゃありません﹂ 甲子太郎は頑がん固こに首を振りました。ひどくお茂与に反感を抱いている様子です。 ﹁外に身寄りの者は?﹂ ﹁何にもありませんよ。父一人子一人で、あとは奉公人ばかり。親類といったところで三代も四代も前の親類で、少し暮し向きが悪くなれば寄りつかなくなる人達です。親父の首の細引を扱しご帯きに変えても、世の中が無事な方がいいんでしょう﹂ 甲子太郎の憤激は、当てもなく爆発し続けるのです。 この上甲子太郎の顎あごを取ったところで、大した収穫がありそうもないと見ると、平次は番頭の吉兵衛を呼んで、家中を案内させました。 吉兵衛は五十男で、世の中を世辞笑いと妥協で暮して来た男、こんな人間が案外強したたかな魂の持主かもわかりません。 手代は二人、庄八と金次といって、どっちも三十前後、貸金の取立てには負けず劣らずの腕前を持っていそうな、逞たくましい感じの人間ですが、相当以上の給金を貰っている外に、主人の善五郎と関係がありそうもなく、主人が死ねば、明日から収入の途みちを失って、ひどく損をしなければならない二人です。 庄八は色白のちょいと良い男、金次は四角の顎と大きな眼を持った男、この人相の怖い金次が案外好人物で、色白の庄八の方が太い魂の持主らしいことは、二た言三言交すうちに平次は見抜きました。 平次の問いに対する応答は番頭の吉兵衛と同じようなもの、ただ、お茂与の身分を聴いたとき、庄八は、 ﹁主人はまだ若かったんですから、一人くらい身の廻りの世話をする者があっても不思議はないでしょう。お茂与さんはあんなに綺麗ですからね、へッへッ﹂ 卑いやしい笑いが何もかも説明したような気がします。甲子太郎がお茂与にひどく反感を持っているのも、お茂与が掛り人でも召使でもあるように見えるのも、これですっかり解るのです。 もう一人下女のお元もとという三十女がいました。強健な相さが模みも者ので、恐ろしく元気そうですが、平次が名代の岡っ引と聴いて、歯の根も合わないほどガタガタ顫ふるえております。こんな女に素直に物を言わせるのは、平次も楽な仕事ではありません。 もっとも、問いも答えも何の変哲もなく主人の善五郎が飼犬に手を噛まれるとも知らずに、お茂与にばかり目をかけて、自分をあまりよくしてくれなかったことなどをクドクド言うだけの事ですが、最後に、 ﹁ゆうべ旦那は蚊か帳やを釣ったかい﹂ 平次の唐突な問いに対して、 ﹁二三日釣らずにいましたが、この辺は山の手でも藪やぶ蚊かの多いところで、やはり秋の蚊が出て来るから、今夜は釣ってみようとおっしゃって――﹂ ﹁で?﹂ ﹁釣手は一パイになっているが、中たるみがしていけないから中釣りをしたい。もっとも長なげ押しへ釘を打てば何でもないが、それでは家がたまらないから、欄らん間まから鴨かも居いへ紐を一本通してくれとおっしゃって、私は萌もえ黄ぎの細い紐を見付けて通して上げました。――もっとも蚊帳は後でお茂与に釣らせるからいいとおっしゃって、私はそのまま下がりましたが﹂ お元の話は妙な方へ発展して行きます。 ﹁その紐はこれかい﹂ 平次は八五郎の拾った萌黄の紐を見せました。 ﹁え、それですよ﹂ お元は大きく合点合点をしました。 もういちど吉兵衛に逢って、宗方家の身上を調べると、貸金はざっと三千両。地所家作が方々にあった上、店の有金は千五六百両。これはほんの概算ですが、まず浪人上がりの金貸しとしては、御納戸町の悪五郎と言われただけの事はあります。四
﹁親分、やはり殺しでしょうね﹂ 家の外を一と廻り、急所急所で足を留める平次へ、追いすがるようにガラッ八は言うのでした。 ﹁解らないよ﹂ 平次は何か外の事を考えている様子です。 ﹁ヘエ――すると下げし手ゅに人んは?﹂ ﹁まるっきり解らないよ、お前はどう思う﹂ 平次は八五郎に水を向けます。 ﹁あっしはやはり有峰なんとかの助が殺したんだと思いますよ。この通り主人の寝間の外に男下駄の歯の跡があるじゃありませんか﹂ 八五郎は縁の下の柔かい土に印された夥おびただしい跡を指さしました。 ﹁念入りに証拠を残して行ったじゃないか、そのうえ煙草入か印いん籠ろうを落して行くと申分はないんだが﹂ ﹁おや? こいつは何でしょう﹂ ガラッ八は沓くつ脱ぬぎの間へ手を入れて、怪し気な紙入を一つ取出しました。もとは立派な縫いつぶしだったでしょうが、色も褪あせ糸もほつれて、見る影もなくなっている上、中は引っくり返して叩いても何にも出ないという恐ろしい空っぽです。 ﹁こいつは誰のだ、聴いて来てくれ﹂ ﹁よしッ﹂ 八五郎は飛んで行きましたが、間もなくそれは町内の貧乏な浪人者有峰杉之助の品と聴き込んで帰って来ました。 ﹁その有峰とかいう浪人者に逢ってみようか﹂ 平次はようやくそんな気になった様子です。 ﹁そう来なくちゃ面白くねエ﹂ 喜んだ八五郎、平次の後に跟ついて手を揉もんだり額ひたいを叩いたりしております。 ﹁たいそうお茂与の肩を持つようだが、お前は昔からあの女を知っているのか﹂ ﹁へッ、へッ、ほんの少しばかり﹂ ﹁へッ、へッじゃないよ。知っているなら正直に白状しておくがいい。あとで尻が割れるとうるさいぞ﹂ 平次はきめ付けました。 ﹁尻なんざ割れっこありませんよ。あっしは何にも掛り合いがありませんから﹂ ﹁掛り合いは大おお袈げ裟さだな、いったいどこから這はい出した女なんだ。どうせただの鼠ねずみじゃあるめえ﹂ ﹁御ごし守ゅで殿んお茂与を親分知りませんか﹂ ﹁何? 御守殿お茂与? あれが御守殿のお茂与の化けたのか、ヘエー﹂ 平次が感歎したのも無理はありません。御守殿お茂与というのは一時深川の岡場所で鳴らした強したたか者で、大名の留守居や、浅あさ黄ぎう裏らの工面の良いのを悩ませ一枚摺ずりにまで謳うたわれた名代の女だったのです。 ﹁もっとも今じゃすっかり堅気になって、宗方善五郎の奉公人同様に働いているが、旦那が殺されたと知って指を銜くわえて引込んじゃいられない。御守殿お茂与の一生の仕事じまい、恩になった宗方の旦那のために、せめて敵かたきを討って上げたい――と涙を流して頼みましたよ﹂ ﹁それでお前が乗出したのか﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁ヘエ――じゃないよ。早くそう言ってくれさえすれば、考えようもあったのに﹂ ﹁だって宗方善五郎は殺されたには間違いないでしょう﹂ ﹁まあいいや、乗りかかった舟だ。しばらくお茂与の思うままに踊ってやろう。おや、もう有峰杉之助という人の浪宅じゃないか﹂ 平次は八五郎を顧みて戦闘準備を促しました。仕事は第二段に入ったのでしょう。五
﹁有峰杉之助は拙者だが、御用の筋は?﹂
三十五六のまだ壮年の武士でした。月さか代やきも髯ひげも少し延びましたが、それが無精らしくはなく、細ほそ面おもてのなんとなく聡明らしい感じのする浪人者です。
﹁あっしは町方の御用を承る平次と申すものですが、旦那はなんですか、あの宗方善五郎様とは御懇意で――﹂
平次はさり気なく捜さぐりを入れます。
﹁ゆうべ死んだそうだな、――お気の毒な、――昔は同藩であったが、少しも別べっ懇こんではない﹂
﹁往来もなさいませんので﹂
﹁しないよ。向うは有うと徳くじ人ん、私は貧乏人、付き合う方が不思議なくらいだ﹂
有峰杉之助は面白そうに笑うのです。秋の単ひと衣えがひどく潮垂れて、調度のないガランとした住居は、蟋こお蟀ろぎの跳ちょ梁うりょうに任せた姿です。
﹁旦那は――ズケズケ申しますが、あの宗方様を怨んでいるようなことはございませんか﹂
﹁怨んでいるよ﹂
﹁ヘエ――﹂
平次は少し度どぎ胆もを抜かれました。杉之助の言葉が予期以上に唐突で正直だったのです。
﹁怨んでいる仔しさ細いは気の毒だが話せない﹂
杉之助は口を緘つぐみました。貧しい住居ですが、机も本箱も鎧よろ櫃いびつも槍もあり、本箱にはむずかしい四角な文字の本が一パイ詰っている様子が、ひどく平次を頼たの母もしがらせます。同じ家中から、浪人したにしても、高利を貸して大身代を拵えた宗方善五郎とはなんという違いでしょう。
﹁それじゃこれを御覧下さいまし﹂
平次は懐中から半紙一枚の遺書を出して、有峰杉之助の前に皺しわを伸ばします。中気になってから書いた、宗方善五郎の乱れる筆跡のうちに、生命に対する根強い執しゅ着うちゃくと、有峰杉之助に対する恐怖がありありと読み取れるのです。
﹁なるほど、こういった遺書を書く気になったかも知れぬ。宗方善五郎は気の毒な男じゃ﹂
﹁この遺書一つで、お気の毒だが旦那は縛られるかも知れません。それより仔細はこうこうと手軽におっしゃっちゃ下さいませんか﹂
﹁左様﹂
有峰杉之助はなかなか口を開く様子もありません。
﹁これを御存じですか、旦那﹂
平次は縫いつぶしの古い紙入を取出しました。
﹁知っている段か、拙者の品だ、――どこで――﹂
﹁宗方善五郎の殺された部屋の前にありましたよ﹂
﹁ほう、無一物の紙入が、一人で歩くとは知らなかった、――がそんなことがあるようでは黙っているわけにも行くまい。いかにも宗方善五郎と拙者との関係、詳くわしく話そう﹂
有峰杉之助は、ようやく打ち明ける気になった様子です。
その話はかなり込み入ったものですが、簡単に言うと、宗方、有峰両人とも、さる中国の大藩に仕え、小禄ながら安らかに暮しておりましたが、御蔵番になった宗方善五郎は、金銭上のことに不正があり、若い同役の有峰松次郎――杉之助の弟に難なん詰きつされて返答に窮きゅうし、松次郎を斬って本国を立退いたのは、もはや十年も昔のことです。
弟を失った杉之助は、武家としての生活に疑ぎ懼くを生じ、そのまま禄を捨てて浪人し、宗方善五郎の隠れ住む江戸に来て、同じ町内の手習師匠などをして、なんとなしに五六年を過しました。
﹁申すまでもなく、弟御さんの仇あだを討つ心つも算りで同じ町内に住んだのでしょうね、旦那﹂
平次はたまり兼ねて口を容いれました。
﹁いや、それは町人の一応の考えだ﹂
﹁と申すと﹂
﹁弟の敵かたきや子の敵を討つのは、武士の作法にないことだ﹂
﹁ヘエ――﹂
平次もそれは気の付かない事ではなかったのですが、卑ひぞ属くし親んの敵――例えば子の敵、弟の敵などを討つのは、武士としては悉ことごとく恥じたもので、どの藩もそんなものには決して助力も、便宜も与えないばかりでなく、それは私しえ怨んとして取扱われ、目的は遂げても刑罰は免まぬかれることが出来なかったのです。
﹁宗方善五郎は藩金を私わたくしし、拙者の弟を殺した憎むべき奸かん賊ぞくではあるが、拙者にはそれを討つべき名分はない。そこで、せめては同じ町内に住んで、悪人の行く末を見みき窮わめ、倅が成人の上、故主に帰参のお願いするはずで、今日まで相待ったのじゃ。倅は当年七歳、あとせめて十年﹂
杉之助の述懐は筋立って少しの疑いも挟みようはありません。
﹁御ごも尤っともで﹂
平次はそれを全面的に肯定して聴く外はなかったのです。
閑居に慣れ、貧乏に慣れ、読書三昧に打ち込んで、有峰杉之助はもう帰参の望みなどはなかったのかも知れませんが、七つになる倅のために、唯一の出世の機会を待っているのでしょう。
﹁お、杉丸、帰ったか﹂
折から母親と一緒に帰って来た倅杉丸を迎えて、杉之助の顔はさすがに淋しそうでした。
﹁ただ今戻りました﹂
小買物にでも行ったらしい内儀のお延のぶは、杉之助の前に三つ指を突いて、それから平次と八五郎にていねいに挨拶しました。
﹁ヘエー、今日は﹂
武家の内儀に思いのほか丁寧にあしらわれて、八五郎は少し面喰らった様子です。
﹁宗方善五郎は昨夕死んだそうだ、――自害をしたといったな、平次殿﹂
杉之助は平次を顧みます。
﹁人手に掛って死んだとも申します﹂
﹁まア﹂
美しい内儀のお延は、何もかも事情を呑込んだらしく、まだいたいけな倅の杉丸を顧みて、聡明らしい眼をしばたたきます。お茂与の取澄ましたのと違って、滋味の豊かな若々しくも美しい母親です。
﹁旦那は、御守殿お茂与という女を御存じでしょうね﹂
﹁知っている、――あれも同国の者だ。今は宗方善五郎の許にいると聴いたが――﹂
そう言う杉之助の言葉のつづくうち、平次は内儀のお延の顔に動く表情を読んでおりました。
﹁そのお茂与が、宗方善五郎を殺したのは、有峰の旦那だと言うのですが﹂
﹁馬鹿なッ﹂
一瞬杉之助の顔に激しい表情が動きました。が、寒かん潭たんを渡る雁がんのように、その影が去ると、元の平静に返ります。
﹁まア、なんという人でしょう。さんざん迷惑をかけた上に――﹂
内儀のお延はフト舌を滑すべらせて、あわてて口を緘つぐみました。聡明さがツイ、女の本能の憤いかりに破れたという様子です。
﹁親分いよいよ解らなくなりましたよ。あの有峰という浪人は人など殺しそうにもありませんね﹂
帰る途みち々みちガラッ八はこんな事を言うのです。
﹁俺もそう思うよ﹂
平次はケロリとして、もう考えている様子もありません。
﹁じゃ誰が殺したんでしょう﹂
﹁誰でもいいじゃないか﹂
﹁ヘエ――﹂
﹁俺はもう帰って一杯やって寝るよ。浪人者の高利貸が首を縊くくったところで、晩ばん酌しゃくを休むわけには行かない﹂
市ヶ谷から九段へ出て、江戸の夕暮を眺めながら、恋女房のお静が待っている家へ帰るのです。平次はもう宗方善五郎殺害事件などは考えてもいない様子です。
﹁でも――﹂
﹁御守殿お茂与に頼まれたことが気になるのかい。じゃ、お前だけ引返して、こう言うがいい――平次は盲目じゃない。余計な細工をして、とんだ罪を作るのは止よした方がよかろうとな﹂
﹁親分﹂
﹁何をもぞもぞしているんだ、――平次を担かつごうなんて太ふてえ女に掛り合っていると、お前もひどい目に逢わされるぞ﹂
﹁ヘエ――﹂
まだ腑ふに落ちない様子のガラッ八を残して、平次はさっさと自分の家へ引揚げてしまいました。
その翌あくる日。
﹁た、大変ッ。親分﹂
朝のうちからガラッ八の大変が鳴り込んで来たのです。
﹁あ、脅かすなよ、八。朝の味噌汁が胸に閊つかえるじゃないか、――どこの猫の子がいったい五つ子を産んだんだ﹂
﹁そんな話じゃありませんよ親分。市ヶ谷御納戸町の――﹂
﹁まだそんなところをせせっているのかい。三年あさってもあの殺しは下げし手ゅに人んが出て来ないよ。馬鹿だなア﹂
﹁親分、そんな話じゃねえ。お茂与が殺されたんですよ――昨ゆう夜べ﹂
﹁なんだと?﹂
﹁それ、親分だって驚くでしょう。御守殿お茂与があの家の大納戸の中で、細引で絞められて冷たくなっているんだ、――死顔を見るとあの女には悪相がありますぜ﹂
ガラッ八の報告はさすがに平次を驚かせました。事件は全く思いも寄らぬ方に発展したのです。
お納戸町の宗方家は上を下への騒ぎです。番頭に案内させて奥へ行ってみると、美女のお茂与は主人の善五郎を殺したという、凄すさまじい細引で喉のどを絞められ、銭箱の山の前にこと切れていたのです。
﹁この通りでございます、親分さん﹂
場所は亡き善五郎が溜め込んだ夥おびただしい銭箱の前、お茂与は細引で喉を絞められて、黄金の中に死んでいたのです。
﹁親分﹂
八五郎はさすがにこの旧知の女の死骸を見ると緊張しました。
﹁今度は外から曲くせ者ものが入ったのじゃない。なんの細工もないからお前でも判るだろう。お茂与の追善に一つ真ほん物ものの下手人を挙げてみちゃどうだ﹂
平次はからかいますが、八五郎たった一人であんよするとなるとどこから手をつけていいか、まるっきり見当も付きません。
﹁判ったか八、戸締りに異常はなく、外には柔かい土を踏み荒らした跡もないから、この下手人は家の中の者だ﹂
﹁ヘエ、あっしでもそれくらいのことは判りますが﹂
﹁お茂与が銭箱を開けて見ているところを、後ろから忍び寄って絞めたんだ。下手人が近づくのをお茂与ほどの女が知らずにいるはずもないから、こいつはお茂与に近い人間で、お茂与は大して驚きもしなかったと見る方がいい﹂
平次はお茂与の死骸を前に、次第に謎をほぐして行きます。
﹁すると親分?﹂
﹁お茂与が我が物顔に小判を眺めているところを、後ろへ廻って首へ細引をかけた、――前の晩主人の善五郎の首に巻いた細引だ。お茂与はその人間には驚かないが、細引には驚いたろう。ハッと思うところを、グイグイと絞めた。若くて張りきっていて、お茂与憎さで一パイになっているから情けも容よう赦しゃもない。お茂与は見事に自分の掘った穴に落ち込んで死んでしまったのさ﹂
﹁自分の掘った穴ですって、親分﹂
﹁そうさ、自分の拵こさえた筋すじ書がき通りの死にようをしたのだ﹂
平次の言う情シー景ンは凄まじいがしかし争う余地のないものでした。お茂与のような賢い女が、全く予期もしない相手のために、ゆうべ善五郎の首に巻いた細引で、驚愕と恐怖のうちに苦もなく殺されてしまったのでしょう。お茂与の死顔にこびり付く表情が、雄弁にそれを語っているのでした。
﹁親分、誰です、下手人は?﹂
﹁…………﹂
﹁親分﹂
﹁お化けだよ﹂
﹁ヘエ――﹂
﹁善五郎の幽霊だな﹂
﹁そんな馬鹿な﹂
﹁いや本当だ。さあ帰ろうか八。お茂与は悪い女だ――お前は美しい女を皆んな善人だと思っているようだが、こんな悪い女は滅多にないよ。世話になった善五郎の首へ縄を掛けたのは、あのお茂与さ、――もっとも善五郎を殺したのはお茂与じゃない。が、昨夜の下手人は、善五郎を殺したのをお茂与と思い込んでやったんだ﹂
﹁さア判らねえ﹂
平次の言葉の意味は、八五郎にもよく判りません。
番頭も手代も倅の甲きね子た太ろ郎うもおりました。朝の光の中に曝さらされたお茂与の浅ましい死骸を前に、平次は静かにつづけるのです。
﹁最初から順序を立てて話してやろう、いいか八﹂
﹁ヘエ――﹂
﹁主人の善五郎は武家の出だ。金は出来たが中気にあたった。昔自分が殺した有峰松次郎の兄の杉之助は同じ町内に住んでいる。いつ敵かた名きな乗のりをして来るか判らない。その上弟の敵を討った杉之助は世間への申し訳、故郷へ帰る名聞を立てるために、宗方善五郎の旧悪の数々を言い立てるに違いない。それが善五郎には何より辛つらかった。その有峰杉之助の刃やいばを、不自由な身体でどうして防ぎきれよう――善五郎はそう考えた。その考えを側から焚たき付けたのは、近頃善五郎に愛想を尽かしながら、何千両という金に引かれて飛出しもならずにいたお茂与だ﹂
﹁…………﹂
﹁お茂与の弁舌に焚き付けられて、善五郎の恐怖は募つのるばかり、とうとうお茂与の言うままに︿非業に死んだら有峰杉之助を調べてくれ﹀という書置きを書いて渡した﹂
﹁…………﹂
﹁これは決して俺の拵こさえた筋書じゃない。いちいち証拠のあることだ。――宗方善五郎は、恐怖と心配とでとうとう死ぬ気になった。倅へ遺書くらいは書いたかも知れないが、それは気の廻るお茂与が隠したことだろう。中気で手が顫ふるえるから、武家の出でも刃物の自害は覚おぼ束つかない。そこで下女のお元に頼んで蚊か帳やの中釣りだと言って、細い紐を鴨かも居いに通して貰い、その紐の端に赤い縮ちり緬めんの扱しご帯き――死んだ娘の形見を出して結び、紐を引いて扱帯を欄らん間まにかけた﹂
﹁ヘエ――﹂
﹁その扱帯で縊くびれ死んだのを、翌あくる朝お茂与が見付け、自害では面白くないことがあったので、引おろして扱帯を解き、――そのとき扱帯の端に縛ってある細紐まで解いて、押入へ投げ込み、別の細引を出して死骸の首にまき付け、人に絞め殺されたように見せかけて、縁の外に男下駄の跡まで付けた﹂
﹁なるほどね﹂
ガラッ八は平次の説明にすっかり圧倒されましたが、それよりも驚いたのは、番頭手代、倅の甲子太郎などでした。
﹁そのとき皆んなが駆け付けて、主人が人手に掛って死んだと知れては厄介だから、あとの面倒がないように、首の細引を解き、手近の押入にあった赤い扱帯を出して首に巻き、もういちど自殺に拵こしらえた。世間も検屍もそれで済んだが、お茂与が俺のところへ来て、俺と八五郎が乗出すことになったから、話が少し厄介になった﹂
﹁…………﹂
﹁俺が来て見ると、――死体を見付けたとき、首に細引を巻いていたとお茂与は言うが、死骸の首の縄の跡などというものは容易に消えるものじゃない。善五郎を殺したのは、間違いもなく扱帯だ。鴨居にはそれを掛けた跡があり、縮緬の扱帯の端には、萌もえ黄ぎの紐を結んだ跡まで残っている。下女のお元の話を聴いて、俺は、何もかも読んでしまったよ﹂
﹁お茂与が有峰杉之助に罪を着せようとしたのは、どういうわけでしょう﹂
ガラッ八の疑いは尤もっともでした。
﹁お茂与は有峰杉之助を憎む筋があったんだ。きのうの話の中に、そんな口くち吻ぶりのあったのをお前も聴いたはずだ。それにお茂与の話をした時の、有峰杉之助のお内儀の顔は容易じゃなかった。あんな慎み深い武家のお内儀が、あれほど顔色を変えるのは容易のことじゃない﹂
﹁ヘエ、――なるほどね﹂
﹁お茂与は有峰杉之助を下手人にして、存分に思い知らせてやりたかったんだ﹂
﹁ところでお茂与を殺した下手人は? 親分﹂
ガラッ八はようやく結論を引出すことが出来たのです。
﹁この中にいるはずだ、――きのうの朝、お茂与が主人善五郎の首から扱しご帯きを解いて、細引を巻き付けているところを、チラと見た者があるに違いない。それは多分下女のお元だろう﹂
下女のお元はあわてて唐紙の蔭に顔を引込めました。
﹁お元はそれを黙っているはずはない。日頃お茂与を憎みつづけて来たから――キット誰かに言った。俺にはその相手もよく判っている。その相手は、お茂与が主人の首に細引を巻いていたと聴いて、カッとしたのも無理はない。夜になってお茂与の様子を見ていると、ここへ入って銭箱の蓋ふたをあけ我が物顔に小判を眺めて喜んでいたから、もう我慢が出来なかった。いきなり飛び込んで、――ちょうど押入に投げ込んであった因いん縁ねん付の細引で殺してしまった﹂
平次の論告は終りました。
﹁親分、――その通りです。少しの違いもありません。私を縛って下さい。あの女に親を殺されたと思い込んで私はお茂与を殺しました﹂
平次の前に這い寄るように、自分から両手を後ろに廻したのは、倅の甲子太郎でした。
﹁お前さんは何をあわてるんだ。親旦那は首を縊くくって死んだ。召使のお茂与はそれを悲しいと言って、翌る日首を縊って死んだ。あっしはそれを見届けに来ただけじゃないか、なア八﹂
平次は静かに立上がりざま、呆あっ気けに取られている八五郎を顧みました。
﹁その通りだ。それに違ちげえねえ。親分、偉いッ﹂
八五郎は宙に泳ぐように、それに続きます。
﹁有難い、親分﹂
力も勢いも抜け果てたように、甲子太郎はペタリと坐って、二人の後ろ姿を伏し拝みます。
﹁それじゃ帰ろうか、八﹂
﹁親分、見ていて下さい。こんな商売を止よして、私は裸になって出直しますよ﹂
甲子太郎の声はその後ろに追いすがります。
平次はそれには応えませんでした。まだ昼には間のある明るい秋の往来へ飛出すと、何もかも忘れてしまったように黙りこくって家路を急ぎます。