一
﹁へッ、へッ、可お笑かしなことがありますよ、親分﹂ ﹁何が可笑しいんだ。いきなり人の面つらを見て、馬鹿笑いなんかしやがって、顔へ墨でもついていると言うのかい﹂ 銭形平次は、ツルリと顔を撫なでました。三十を越したばかり、まだなかなか良い男振りです。 ﹁気が短いなア、そんな人の悪い話じゃありませんよ、へッ、へッ﹂ ガラッ八の八五郎は、まだ思い出し笑いが止まりません。馬のような大きな歯を剥むき出して、他愛もなく笑う様子は、どうも十手捕縄と縁のある人間とは思えません。 ﹁イヤな野郎だな。可笑しくて笑う分には年貢は要らねえが、顔の造作は台なしだぜ。そんな羽目をはずした相好を、新しん造ぞに見せねえようにしろ﹂ ﹁ね、親分、相好ぐらいは崩したくなりますよ。三みの輪わの親分が風邪を引いて寝込んだのはいいが、縄張内に起ったことの捌さばきがつかなくなって、お神かぐ楽らの野郎が泣きを入れて来たんだから面白いじゃありませんか﹂ ガラッ八はすっかり御機嫌になって、手を揉もんだり額を叩いたり。 ﹁馬鹿野郎、人様の病気が何が面白い﹂ ﹁――お願いだから、銭形の親分に智恵を貸して貰ってくれ――って、あの高慢なお神楽の清吉がそう言うんだからよくよくでさ。だからあっしがそう言ってやったんで、――憚はばかりながら、銭形の親分は智恵の時貸しはしねえとね﹂ ﹁智恵の時貸しって奴があるかい﹂ ﹁山やまの宿しゅくの丸屋の主人が行ゆく方え知れずになって、もう三十日にもなるが、まるっきり見当がつかないそうですよ。お役人方からお小言が出たんで、三輪の親分仮病を使っているんじゃありませんか﹂ ﹁そいつは放ってもおけまい。すぐ行ってみようか、八﹂ こんな調子に運んで来ると、平次も案外気軽に御みこ輿しを挙げます。 近頃すっかり暇で、ろくな掻っ払いもないせいもあったでしょう。 浅草山の宿の金蔵というのは、まだ三十三四の若い男ですが、三年前新鳥越から移って来て金貸を始め、ちょっとの間に、メキメキと身しん上しょうを肥ふとらせて行きました。かつて新鳥越に栄華を誇った、菱ひし屋やの番頭をしていて溜め込んだと言われ、元手が非常に潤沢な上、金蔵は年に似ぬ締り屋で、女房を貰って、一人口ふやすのが惜しさに、下女一人、小僧一人を相手に、稼業大事と必死と働いていた様子です。 その丸屋の金蔵が、ちょうど一と月前の八月十七日の晩、下女も小僧も知らないうちに、どこへともなく出て行ってしまったのでした。身みな扮りも平常のまま、金は一文も持っていたはずはなく、その上心掛けのある町人に似にげなく、麻あさ裏うら草ぞう履りを突っかけて、手拭を一本持ったきりで出て行ったのですから、三輪の万七が一と月がかりで嗅ぎ廻っても、この失しっ踪そうの謎は解けそうもありません。 ﹁ところが、主人の金蔵が家出をしてから、四日目の晩に泥棒が入って、店にあった主人の財布ごと、有金二三十両盗とった上、十四になる小僧の要吉に怪我をさせて行きましたよ﹂ ガラッ八は得意の聴きき込こみを説明してくれました。 ﹁家出してから四日目は変だな﹂ と平次。 ﹁ね、変でしょう。金蔵が殺されたものなら、殺した野郎はその晩盗みに入るわけだ﹂ ﹁殺されたと決ったわけじゃあるめえ﹂ ﹁とにかく物騒で放ってもおけないから、町役人立会の上、七日目に丸屋の身上を調べてみると、有金が八百両、外に貸金が千五百両、抵当流れになった地所家作を勘定すると、容易ならぬ額です。たった三年の間に、どんな高利に金を廻したって五十や百の金じゃこうは太らねえ。これは新鳥越の菱屋が没落のとき、番頭の金蔵奴めうまく立廻ってうんと取込んでおいたに違いありません﹂ ﹁フーム、菱屋は御ごは法っ度との抜け荷︵密輸入︶を捌さばいて、主人の市兵衛は一番番頭と一緒に三宅島へ遠島になったはずだな﹂ ﹁そうですよ、菱屋は欠けっ所しょ。江戸構えになった母娘が二人、草そう加かとか千せん住じゅとかにいると聞きましたが――﹂ ガラッ八なかなかよく届きます。 ﹁菱屋の主人はまだ島にいるのか﹂ ﹁主人の市兵衛も番頭の清七も六十を越した年寄りで、三宅島へ流されると半歳経たないうちに死んだそうですよ﹂ ﹁それっきりか﹂ ﹁聞き込みはこれだけですが、山の宿まで行ってみましょう﹂ ガラッ八はもう案内顔に先に飛び出しました。つづく平次。 快適な秋の朝風に吹かれながら、神田から山の宿まで、ちょっと出のある道み程ちです。 ﹁三千両近い身上を捨てて、行方知れずになるのは変じゃありませんか、ね親分﹂ 道々、ガラッ八は平次の智恵の小出しをせびりました。 ﹁思い立って旅にでも出かけるということはあるだろうな﹂ 平次は少しからかい面です。 ﹁麻裏を履いて手拭を持って西国巡礼ですか、親分﹂ ﹁抜け詣りには、時々そんなのもあるよ﹂ ﹁金を溜めるより外に望みのなかった男ですぜ、親分。その晩もお菜に塩っ辛い鮭さけをつけると、――こんなお菜は飯が要ってかなわない――って、下女のお留に大小言を食わせたんですって。塩の辛い鮭が贅ぜい沢たくな人間が、三千両の身代を放り出して、旅へ出るものでしょうか﹂ 八五郎は一生懸命の抗弁です。 ﹁だが、江戸の街は広いようでも、人間一人殺して、一と月も知れないように始末するのはむずかしいぜ。近頃は大川にも身許の知れない死骸が浮んだという話を聴かないようだ﹂ ﹁でも、あの金蔵という男ばかりは、信心ごとなんかじゃ動きませんよ、――欲得ずくなら、どこまでも乗出すでしょうが﹂ ﹁欲得ずくで出たのかも知れないよ、――三十三四の強したたかな男が、誘拐されるはずもあるまいから﹂ 平次の話は、含がん蓄ちくの深いものです。二
丸屋へ行ってみると火の消えたようでした。めぼしいものは町役人に預け、小僧の要吉は傷が癒なおったばかりで、下女のお留の外に、伝助という中年男と一緒に、淋しく留守をしております。 ﹁お前は伝助といいなさるんだね﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁どんな係り合いなんだい﹂ ﹁旦那がいらっしゃる頃から、チョイチョイお手伝いに参りました﹂ ﹁商売の方をか?﹂ ﹁算そろ盤ばんとは縁のない人間で、ほんの使い走りか、留守番でございますよ、ヘエ﹂ 卑屈そうに四十男の伝助は、続けざまに四つ五つお辞儀をするのでした。 ﹁先月十七日の晩はどこにいたんだ﹂ ﹁成田様へ詣りました。町内の衆が十三人で、ヘエ、お蔭様で丸屋の旦那が行方知れずになっても、私にはなんの係り合いもございません﹂ 伝助は弁解らしくそんなことまで言うのです。 ﹁江戸にいれば、疑いでも受けるような筋でもあったのかい﹂ 平次の問いは直ちょ截くせつで仮かし借ゃくしません。 ﹁ヘエ、――そんなわけじゃございませんが、少しばかり丸屋さんには借りがございます﹂ ﹁いくらだ﹂ ﹁三十両ほどで、ヘエ﹂ ﹁たいそう借りたんだね﹂ ﹁二十両は利息でございますよ﹂ 一瞬、伝助の顔は険けわしくなりました。 ﹁お前さんの家はどこだい﹂ ﹁ツイ、この裏でございます﹂ 平次はそれを訊くと、チラリとガラッ八に目配せしました。八五郎が主人の合図を呑込んだ猟犬のように飛んで行ったことは言うまでもありません。 ﹁銭形の親分、御苦労様で﹂ 偶然らしく、ブラリと顔を出したのは、お神楽の清吉でした。 ﹁お、清吉兄あに哥いか。三輪の親分が悪いそうだね﹂ 平次は如才なく受けてニッコリします。 ﹁なアに、大したことじゃありません﹂ ﹁ところで、丸屋の主人の行方だが、まるっきり見当もつかないのかえ﹂ ﹁口く惜やしいが、なんにも解りませんよ。麻裏を履いて頬ほお冠かむりをして、煙のように消えてなくなったとでも思わなきゃなりません﹂ 清吉はひどく悄しょ気げ返りました。 ﹁女出入りはなかったのかい﹂ ﹁もとの主人、菱屋の娘のお茂しげが、母親に死に別れて、草加からそっと江戸へ帰っているのを、ときどき訪ねている様子ですが――﹂ ﹁良い女かい﹂ ﹁悪くない年増ですよ。今じゃ依よりどころのない女ですから、どうかしたら、独り者の金蔵と、何か相談があったのかも知れませんね﹂ ﹁そのお茂の隠れ家は?﹂ ﹁山さん谷やの駄菓子屋で、後家のお妻の家と訊けば判りますよ﹂ ﹁それから、他に金蔵を怨うらんでる者はないだろうか﹂ 平次は話題を転じました。 ﹁非道な利息を取るから、怨んでいる者は何十人あるか判りゃしません﹂ ﹁金蔵と仲の良いのは?﹂ ﹁そんなのはありゃしません。もとの朋とも輩がら、――菱屋が盛んだった頃の手代仲間の清次郎と一と月ばかり前に立ち話をしていたのを見た者がありますが、平常は、往き来もしていなかったようで――﹂ ﹁その清次郎はどこにいるんだ﹂ ﹁今いま戸どで小こて体いな小間物屋をしていますよ。妹とたった二人で﹂ ﹁…………﹂ 平次は何か考え込んでおります。 ﹁銭形の親分、清次郎はこれに係り合いはありませんよ﹂ ﹁…………﹂ ﹁八月十七日の晩は、一と足も出ないと判っていますから﹂ お神楽の清吉は、先を潜って清次郎のために弁解してやりました。 ﹁清次郎は評判の良い男だと見えるね﹂ 銭形平次の感のよさ。 ﹁手堅い一方で、町内の評判者ですよ﹂ ﹁お茂とか言ったね――菱屋の娘には行方知れずになった金蔵の外に仲の良い男がないのかな﹂ 平次の問いはまた一転します。 ﹁ありますよ。利八という遊び人で﹂ ﹁調べてあるだろうな﹂ ﹁近頃お茂が良い顔をしないので、ひどく腐っていたから、何をやり出すか判りゃしません。最初からこの野郎が一番怪しかったが、困ったことにその晩は馬うま道みちの賭と場ばで夜明しをして、一と足も外へ出なかったそうで﹂ お神楽の清吉の調べもなかなかよく届いております。 ﹁イヤにその晩に限って、皆んなはっきりしたことが判っているんだね﹂ 平次も苦笑をする外はありません。 その時、ガラッ八の八五郎は、わめき散らしながら飛び込んで来ました。 ﹁親分、有った――小判と小粒で三十八両。ボロに包んで天井裏に隠してありましたぜ﹂ ﹁よしッ、逃がすなッ﹂ 平次が一いっ喝かつするのと、八五郎が跳びつくのと一緒でした。首筋を掴つかんで物蔭からズルズルと引出したのは、留守番に来ていた伝助。 ﹁野郎ッ、太え奴だッ、神妙にせいッ﹂ ﹁あッ、痛。お許しを願います。――その三十八両の金は十年も稼いで溜めた金で、少しも怪しいものじゃございません﹂ 伝助は両りょ掌うてを合せながら、ズルズルと土間を引摺られるのでした。 ﹁馬鹿野郎ッ、十年で三十八両溜める辛抱人が、三年で二十両の利息のつく金を借りるか。つまらねえことを隠し立てすると、人殺しの罪まで背負わされるぞ﹂ 平次の調子は峻しゅ烈んれつでした。 ﹁申します、申します。私が悪うございました。――丸屋の旦那が行方知れずになったと聴き、三日三晩考えた揚あげ句く、暮しの苦しさに負けて、四日目にとうとう――﹂ ﹁どうした?﹂ ﹁ここへ忍び込んで、店にあった金を盗み出しました。そのとき小僧の要吉さんが眼を覚したので、用意の薪まきで殴って逃げただけでございます。それだけでございます。親分さん、丸屋の旦那は、三年の間私から高い利息を絞ったことを考えると、それぐらいのことは当り前でございます﹂ 伝助はわけの解らぬ泣き言を並べながら、土間に額を埋めて、言い廻るのでした。 ﹁そいつは罪になるかならないか、お白しら洲すで申上げてみるがいい、――ところでお神楽の兄哥、なんだって、この野郎を縛らなかったんだ﹂ 平次は蟠わだかまりのない問いを持出しました。 ﹁丸屋の金蔵をどうかした野郎と、四日後の泥棒と、同じ人間だと思い込んだんだ。伝助が八月十七日に、成田へお詣りに行ったことは確かなんだから、うっかり油断をして――﹂ 清吉は口惜しそうでした。 ﹁誰でも一応は間違えることだ。まアいいや、こいつは兄哥の手柄にして、番所へ引いて行くがいい。俺はもう少し捜さぐってみるから――﹂ 平次は伝助を清吉に縛らせて、惜しげもなくその手で送らせました。 ﹁親分、いいんですかえ﹂ 後ろを見送ってガラッ八。 ﹁いいってことよ、それぐらいのことをしてやらなきゃ、清吉も顔が立つまい。それよりは日の暮れる前に金蔵の方の目鼻をつけることだ﹂ ﹁三輪の親分が、一と月死に物狂いになって、解らなかったんですぜ、親分﹂ ﹁一と月もかかるからいけないのさ﹂ ﹁今そこで下っ引に逢いましたがね、――三輪の親分がそう言ったそうですよ、――俺が一と月で判らなかったことが、銭形のに七日や十日で判るものかってね﹂ ﹁筋を追わなかったんだよ。見当違いをあさっていちゃ、一年経ったって判るものか﹂ 平次は言い捨てて、丸屋の家の四あた方りをグルリと一と廻りしました。場所柄に似ぬ小さい庭があって、手頃な物置が一つ、お勝手口からは下女のお留が、物好きそうに顔を出して眺めております。三
平次と八五郎は、山さん谷やの駄菓子屋に、菱屋の娘のお茂を訪ねました。 ﹁丸屋の金蔵が行方知れずになったのだが、お前さんへ手紙でも来なかったかい﹂ 平次は穏やかに始めました。駄菓子屋の裏手、共同井戸の側まで誘い出して、あまり人目に立たないように埒らちをあけようと思いましたが、秋の陽は意地悪く照しつけて、あんまり楽なお白洲ではありません。 ﹁何にもありませんよ﹂ お茂は恥かしそうにもしません。二十二三の良い年増で、烈はげしい秋の陽の下でも、なんの隈くまもない美しさは、金蔵や利八を夢中にさせるに充分だったでしょう。 それにしても、万両分限の娘というにしては、少し自じだ堕ら落くで艶なまめきます。 菱屋が没落してから三年、江戸を外にして放浪して歩いて、艱かん難なんと貧苦とが、この女から大おお店だなの娘らしい上品さを奪って、媚びた態いと下品さだけを残したのでしょう。 ﹁金蔵となにか約束でもあったのかい﹂ 平次は突っ込みました。 ﹁え――新鳥越の店にいる頃から約束のあった仲ですもの﹂ お茂はそれが当り前のような口調です。 ﹁どうしてそのころ一緒にならなかったんだ﹂ ﹁番頭の清七が不足を言い出したんです、――三宅島で死んだ清七ですよ﹂ ﹁それで金蔵は菱屋の養子になれなかったのだな、――利八とは手をきったのかい﹂ ﹁ええ﹂ お茂は恥のない顔をあげて、軽蔑しきったように笑いました。白い歯が秋の陽に光って、頬に渦巻く笑えく靨ぼも、皮膚を透すく血の色も、少し赤味を帯びた毛も、恐ろしく魅力的です。 ﹁利八は怒ってるだろう﹂ ﹁私を殺すって言っているそうですよ。私を殺す前に、金蔵どんをどうかしたんじゃありませんか﹂ お茂はケロリとしてこんなことを言うのでした。﹁ただ意味もなく美しく生れついた女﹂というものを、まのあたりに見るような心持です。 平次はいい加減にしてお茂を諦あきらめると、その辺までついて来た下っ引を走らせて、三年前菱屋が欠所になった時の奉行所記録を調べて貰いました。 ﹁誰が訴人をしたか。罪になったのは誰と誰で、許されたのはどんな人間か。没収になった金はどれぐらいあったか。そんなことを詳しく聴き出して来い、大急ぎだよ﹂ 飛んで行く下っ引を見送って、平次とガラッ八は、近所の賭場や、足軽部屋を一つ一つ覗いて歩きました。お茂に未練があるという、やくざの利八を捜したのです。 一いっ刻ときばかりの努力で、ようやく見付けた利八は、平次が予想したのとは、まるっきり違ったタイプの男でした。華きゃ奢しゃで、ちょいと良い男で、猫のように物静かで。 ﹁丸屋の金蔵の行ゆく方えを知ってるかい﹂ 川岸っぷちに踞しゃがんで、平次は頭から浴びせました。 ﹁親分、あっしは何にも知りませんよ﹂ ﹁八月の十七日の晩はどこにいたんだ﹂ ﹁馬道の三五郎親分のところにいましたよ。すっからかんに叩はたいて、夜が明けてから這ほう々ほうの体で帰ったのを皆んな知っていまさア﹂ ﹁夜が明けてからか﹂ ﹁ヘエ、――卯む刻つ︵六時︶にならなきゃ、表戸を開けてくれませんよ。三五郎親分のところは、それが仕来りなんで﹂ そう言われると一句もありません。 ﹁お茂は近ごろ甘い顔をしないそうだな﹂ ﹁お嬢様くずれで、あの女は手におえませんよ。面は綺麗だが、恐ろしい機嫌買いで、こちとらの手綱じゃ動きゃしません﹂ ﹁で、殺すとか言っているそうだな﹂ ﹁一時はカーッとしましたが、今じゃかえっていい塩あん梅ばいだと思っていますよ。近頃は親分の前だがもっと素直なのができましたよ、へッ、へッ﹂ 話はまんざら嘘らしくもありません。 ﹁その素直なのは誰だい﹂ ﹁千こ住つの大橋屋の浜夕てんで、お目にかけたいぐらいのもので。へッ、御免下さい、親分さん﹂ 利八はそう言って、ヒョイとお辞儀をしました。道楽者によくある、ちょっと憎めない男振りです。 平次は黙って背を見せます。四
﹁親分、あの野郎じゃありませんか﹂ ﹁判らないよ﹂ ﹁千住へ行って聴いてみましょうか、本当に浜夕とかに通っているかどうか﹂ 八五郎は諦め兼ねた様子です。 ﹁大おお熱あつ々あつだろうよ、念のため行って聴いてみるもいいが、――金かね費づかいがどんな塩梅だか、そいつが一番大事だぜ﹂ ﹁それじゃ親分﹂ 八五郎は飛んでしまいました。そこから今戸までほんの一と息、平次の足は自然に、菱屋の大番頭の倅せがれで、手代をしていたという、清次郎の小間物屋に向っております。――この辺かしら――と思ったのがピタリと当って、小さい店には、十七八の可愛らしい娘がお仕事をしながら店番をしておりました。 ﹁清次郎はいるかい﹂ 黙って仰いだ娘の顔は、活き活きとした典型的な下町娘です。少し浅黒い顔、長い眉、よく通った柔かい鼻、その下の唇が近くて、頬が引ひき緊しまって。 ﹁神田の平次だよ、――少し訊きたいことがあって来たんだが――﹂ ﹁町内の湯屋へ行きました。もう帰る頃ですが――兄さんは癇かん性しょうで、夜の湯へは入れない人ですから﹂ お半は弁解するように言って、お仕事を片付けます。この間から三輪の万七やお神楽の清吉に脅かされ続けで、岡っ引と聞くと少し固くなる様子です。 ﹁八月十七日の晩、清次郎は何をしていたんだ。本当のことを言わないと困るよ﹂ ﹁どこへも行きゃしません。私と亥よ刻つ︵十時︶近くまで話して、それから寝ました﹂ ﹁どこに寝るんだ﹂ ﹁兄さんは二階で、私は下です﹂ ﹁夜中に兄さんが外へ出たのを、知らずにいるようなことはあるまいね﹂ ﹁そんなことはありません﹂ 言葉少なですが、お半の顔には一生懸命さが漲みなぎります。兄に万に一つの疑いのかかるのを恐れているのでしょう。 この純な娘が、岡っ引と瞳めを合せて、嘘が言えるかどうか平次はそれを考えておりました。 ﹁菱屋の娘が江戸へ帰って来ているようだが、ここへ来ることがあるのか﹂ ﹁いえ、兄さんは、あの人を大嫌いなんです。――お嬢さんも、もとはあんな人じゃなかったんですが﹂ ﹁金蔵と一緒になるという話は知っているだろうね﹂ ﹁ええ﹂ ﹁兄さんはそれについて何か言わなかったかえ﹂ ﹁困ったことだ――と言っていました﹂ ﹁何が困るんだ﹂ ﹁さア、私には解りません﹂ そんな問答をしている時、もうかげりかけた日蔭を拾うように、濡ぬれ手てぬ拭ぐいをさげて、兄の清次郎が帰って来ました。 ﹁…………﹂ 黙って会釈するのを、 ﹁今、いろいろ聴いていたんだが、もう一度お前の口から話しちゃくれまいか。菱屋のことや、金蔵の行方不明になった前あと後さきのことだよ﹂ 平次は迎えるように訊ねました。が、清次郎の答えも、妹のお半と大方同じことで、なんの掴つかみどころもありません。ただこの二十二三の若い男から、平次は手堅さと生真面目さと、この上もない正直さを感じただけのことでした。 菱屋の没落から、主人の市兵衛や父親の清七の遠島については、ひどく心を痛めたらしく、それを深く訊ねるのさえ気の毒なぐらいです。お茂の自堕落な生活には愛想を尽かしている様子で、何を訊いても苦笑いするばかり。行方不明の金蔵とは、以前の手代仲間ながらあまり仲が良い方ではなく、幾ヶ月も逢ったことのないのを強調しております。 ﹁金蔵とは近いところに住んでおりますから、まんざら顔を合せないこともありませんが、滅多に口をきいたこともない方です。性が合わなかったのですね﹂ 清次郎はそう言って、淋しく笑うのです。金蔵とお茂が結びつくようになってから、ますます二人の心持が離れて行ったのでしょう。五
この事件は思いの外奥行が深く、平次もたった一日ではどうすることもできませんでした。 翌あくる日は、その代り、諸種の情報が一度に集まって来ました。千住の大橋屋に行ったガラッ八の報告は、平次の予想した通り、利八はこの一と月ばかり前から、浜夕という妓このところへ、三日にあげず通い詰めて、早手廻しの夫婦約束までしたということや、利八は相変らずすっからかんですが、いつか大金が転がり込むようなことを言っていたが、近頃はそれも口にしなくなったということでした。 一方奉行所の書き役の方へやった下っ引は、もっと重大なことを聴込んで来ました。それは、三年前菱屋が没落した原因というのは二番番頭の金蔵が、菱屋が永年にわたって手広く禁制の抜け荷を扱っていることを密告したためで、そのために、金蔵は罪を許され、御褒美まで貰って良い子になったということです。 その金蔵に万一のことがあると、菱屋の娘のお茂と、手代だった清次郎が疑われなければなりません。 あのお茂や清次郎に、そんな大それたことができるでしょうか。平次はもういちど考え込まなければならなかったのです。 ﹁八、もういちど丸屋へ行ってみようか﹂ ﹁ヘエ――﹂ 平次とガラッ八が山の宿へ行ったのは、もう昼近い頃でした。丸屋は留守番の伝助が縛られて、下女のお留と小僧の要吉とたった二人になりましたが、事件の片付くまでは、この大事な証人を外へやるわけに行かず、五人組が交代で来て泊ることになったのです。 いきなり裏口から庭へ入って行った平次は、思いの外手の届いた庭を見渡して、お勝手口に顔を出したお留に訊きました。 ﹁ここへ植木屋が入るのかい﹂ 塩の辛い鮭さえ贅ぜい沢たくと思う家に、植木屋を入れるのは少し変なようにも思います。 ﹁いえ、何年にも植木屋さんの入ったことはありませんよ﹂ ﹁それにしちゃ綺麗じゃないか﹂ ﹁旦那が鋏はさみをお使いになりました﹂ そういえば植込みの刈かりようがひどく不器用です。 ﹁池も掘ったのかい﹂ まだ真新しく土を掘り返して、狭い庭に小さい築つき山やまが拵こしらえてあります。 ﹁どうせ低い土地で、雨が降ると水が溜まってかなわないから、三た和た土きにして金魚を飼ってみようと言っていましたよ、夏になると蚊が出て困りますから﹂ ﹁主人が自分で掘ったんだね、――鍬くわか鋤すきがあるかい﹂ ﹁え、物置に鍬がありますよ﹂ まさか手では掘れないでしょう――といった下女の顔を見ると、ガラッ八はグイと肩を聳そびやかしました。すべた奴め、親分の智恵がどんなに働くか、今にみろ――といった恰かっ好こうです。 ﹁八、物置へ行ってみてくれ﹂ ﹁ヘエ――﹂ 八五郎が物置の方へ歩き出すのを、 ﹁錠がおりてますよ﹂ お留は大きな鍵をお勝手の柱から外はずして追っかけます。 ﹁ないぜ、鍬も鋤も﹂ ガラッ八は張り上げました。 ﹁盗られたんじゃあるまいな﹂ と平次。 ﹁そんなはずはありません。錠がおりてるんですから――﹂ お留は頑がん固こらしく首を振りました。 ﹁鍵をかけるのを忘れたことはないだろうな﹂ ﹁一度だけありますよ、――旦那が行方知れずになった晩、――それも確かに鍵をかけたつもりでしたが、翌る朝見ると開いていたんです。それから後で三輪の親分が幾度もその物置を覗きましたよ﹂ ﹁鍬はこの一と月の間たしかに物置にあったんだな﹂ ﹁さア――﹂ お留の記憶は次第に怪しくなります。 ﹁あるつもりでも、使う時でないと、うっかりなくなったのに気がつかずにいるものだが――﹂ 平次も物置を覗きました。かなり夥おびただしいガラクタで、鍬の一梃ぐらいはなくなっても、ちょっと気がつきそうもありません。 ﹁じゃやっぱりなかったのかしら﹂ とお留。 ﹁旦那がいなくなった朝は、確かにこの錠がおりていなかったんだね﹂ ﹁え、念のために開けてみようとすると、海えび老じょ錠うが抜けていましたよ﹂ お留の言葉が、すっかり平次を考えさせます。 ﹁八、金蔵は麻裏草履をはいて、手拭を冠って、鍬を持って行ったんだぜ、――財布は持っていなかったはずだ。四日後に伝助が盗んだから﹂ ﹁どこへ行ったでしょう、親分﹂ ﹁何か掘りに行ったんだ、――お寺はどこだい、菱屋のだよ﹂ ﹁橋場の総そう泉せん寺じですよ﹂ ﹁行ってみよう﹂ 平次と八五郎は、真っ直ぐに総泉寺へ行きましたが、なんの変ったこともありません。 ﹁金蔵はここへは来ませんよ、親分﹂ ﹁見当が違ったようだ。新鳥越の菱屋の屋敷跡へ行ってみようか﹂ ﹁…………﹂ そこからは、ほんの一と丁場です。三年前まで、万両分限の栄華を誇った菱屋の跡は、取壊した跡の礎いしずえと、少しばかりの板塀を残すだけ。繁しげるがままの秋草ですが、それでも気をつけて見ると、人間の通ったらしい跡が、ほんの少しばかり草が踏みつけられております。 ﹁おや?﹂ 先に立ったガラッ八が指しました。草くさ叢むらの中に一箇所、真新しい土が掘り返されて、その上へ、幾つかの石を載せたところがあるのです。 ﹁八、鍬くわでも鋤すきでもいいから借りて来てくれ﹂ ﹁掘るんですか﹂ ﹁ウム、何が出るか解らないが﹂ 八五郎は飛んで行って、二梃の鍬を借りて来ました。幸い板塀があって往来の人に見えませんが、それでも、石を起して穴を掘るのは、あまり楽な仕事ではありません。まず最初に出て来たのは一梃の鍬。それから四しは半んと刻き︵三十分︶ばかりの後、 ﹁占めたッ﹂ 八五郎は歓声をあげました。土の間から、着物の一端が現われたのです。間もなく二梃の鍬は、腐ふら爛んしてしまった男の死骸を一つ掘り出しました。町役人を呼んで、丸屋に使いをやると、お留と要吉が飛んで来ます。一と目、 ﹁あ、旦那だ﹂ お留は顫ふるえ上がりました。 ﹁間違いはないな﹂ と平次。 ﹁たしかに旦那ですよ﹂ 要吉は言葉を添えます。 死骸を穴から引揚げてみると、後ろから脳天をやられたらしく、髷まげ節ぶしのあたりに大きな傷がついているのです。 ﹁自分の持出した鍬で穴を掘って、その鍬で打たれて死んで、その鍬で穴を埋めて、――﹂ 平次は独り言ともなく、そんなことを呟つぶやいております。 ﹁変な紙かみ片きれがありますよ、親分﹂ ガラッ八は土の中から白いものを抜き出して、指の先で叩きました。 ﹁どれどれ﹂ 手に取って見ると、古い大福帳から引千切った紙片で、 大黒より十六間井より二十八間 小判千六百枚大判二百三十枚 外に―― そんなことが達筆な細字で書き下してあるではありませんか。 ﹁やはりこんなことだったんだね、――お前は清次郎のところへ行って、様子を見張ってくれ。俺はお茂に当ってみる﹂ 平次は後のことを町役人にまかせて、もう一度、振り出しへ戻りました。六
﹁親分、私はもう何も知っちゃいませんよ﹂ 平次の顔を見ると、お茂はもう不吉な予感に脅おびえます。 ﹁気の毒だが、金蔵の死骸が見付かったぜ﹂ ﹁まア﹂ ﹁念仏でも称えてやるがいい﹂ 平次はお茂が思いの外平気なのに少し張合い抜けがした様子です。甘やかされ放題に育った箱入娘が、境遇の激変の中に揉み抜かれると、どうかしたはずみで、こんな人格の破産者になるのでしょう。 ﹁でも、気の毒ねえ﹂ 少し芝居じみた調子が、女が美しいだけに平次の胸を悪くさせます。 ﹁金蔵は近頃大金の入る話をしなかったかえ﹂ ﹁そういえば、行方知れずになる前の晩そんなことを言っていました。――丸屋の身上がちょっと倍になるから二三日のうちに、支度金を持って来てやる。そのうちから、利八に少しやって、うるさくつき纏まとわないようにしてくれ――とも言いましたよ﹂ ﹁利八にその話をしたかい﹂ ﹁え、翌る日またうるさいことを言って来たから、お小遣が欲しかったら、明日にもどうかしてやる。もう私に絡からみついておくれでないって言ってやりました﹂ ﹁利八は金がどこから入るとでも訊いたろう﹂ ﹁え、――だから私は、痩せても枯れても菱屋の娘だもの、屋敷跡の石っころを起して持って来ても、五十両や三十両にはなるよって言ってやったんです﹂ ﹁よしよし、だんだん目鼻がつくようだ。ところで、この字は誰の筆て蹟だえ﹂ 平次は土の中から出た大福帳の端っこを見せました。 ﹁私の父さんの筆蹟によく似てるけれど――﹂ お茂はすっかり面喰らっております。 ﹁お前の父親の筆蹟をよく真ま似ねた人間があったはずだ。知ってるかい﹂ 平次の問いはひどく突っ込んだものです。 ﹁金蔵どんも、清次郎どんも、上手に真似ましたよ﹂ ﹁有難う。それでいい﹂ 平次は紙片を丁寧に畳んで紙入の中に納めました。 お茂の宿を出て今戸の清次郎の家まで行く途中で、ガラッ八が顎あごを先に出して向うから来るのに逢いました。 ﹁親分﹂ ﹁変ったことがあったのかえ、八﹂ ﹁何にもありませんよ、――妹を熊くま谷がやの親類へやった外には﹂ ﹁何? 清次郎は妹を親類に預けた? そいつはいつのことだ﹂ ﹁けさ早く知合いの者と一緒に発たったそうですよ﹂ ﹁昨日までその素振りもなかったじゃないか。第一、兄きょ妹うだいたった二人の店で、妹を田いな舎かへやったら後はどうなるんだ﹂ ﹁まるで叱られているようなものだ。あっしのせいじゃありませんよ。親分﹂ ガラッ八はニヤリニヤリと顎を撫でております。 ﹁あの穴の中から出た紙片は、金蔵が書いたんでなきゃ、清次郎が書いたんだぜ。金蔵は騙だまされて殺されているんだ﹂ ﹁あの紙片を、清次郎が書いたというとどんなことになるでしょう﹂ ﹁菱屋の主人市兵衛が、没落の前に大判小判を隠し、大福帳のどこかにその宝の隠し場所を書き遺しておいた――と思わせ、欲の深い金蔵をおびき出して殺したことになるのさ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁紙片に書いた文句の、大黒よりというのは、大黒柱のあった場所からということだ、――大黒柱から十六間、井戸から二十八間のところに、小判千六百枚、大判二百三十枚隠してある――と判じさせたのだ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁妹を急に田舎へやったのは、あの娘と口を合せて、八月十七日の晩に兄の清次郎は、一と足も外へ出ないと言わせたが、どうも、その嘘をつき通せそうもなくなった。あのお半という娘は正直すぎる、――俺に問い詰められた時の一生懸命な様子は、痛々しいほどだったよ。一生に一度しか嘘をついたことのない人間だ﹂ ﹁なるほどね﹂ 二人はもう清次郎の小さい小間物屋の前に立っておりました。 店先にしょんぼり坐っている清次郎。 ﹁清次郎、覚悟はいいだろうな﹂ 平次は静かに声を掛けながら、その前にヌッと立ちました。心得たガラッ八は素早く裏に廻って、その逃げ道を絶ちます。 ﹁あッ親分﹂ 清次郎のふり仰いだ顔は真っ蒼です。 ﹁手荒なことをしたくない、番所まで一緒に来るか﹂ ﹁親分、それは大変な間違いです。私じゃございません﹂ ﹁何?﹂ ﹁金蔵は悪い奴でございます。八つ裂きにしてもあき足らない奴でございます。が殺したのはこの私じゃございません﹂ 清次郎はキッパリと言いきりました。 ﹁紙片へ変な文句を書いておびき出してもか﹂ ﹁あれは私です。欲の深い金蔵を、あんな拵こしらえ文句でおびき出しました。最初は打ち殺すつもりだったに違いありません﹂ ﹁妹を田舎へやって口を封じたのは身に覚えのない者のすることか﹂ 平次はグイグイと突っ込みます。 ﹁妹は坂本の叔母へ預けました。口を滑すべらしそうで怖かったんです。――それ、そこへ、坂本にもいられなくて、私のことを心配して、そこに来ているじゃありませんか﹂ 清次郎の指す町の方から、美しいお半は飛鳥のように飛び込んで来ました。 ﹁兄さん、とうとう﹂ 兄の手に縋すがりついておろおろする娘は、張りきった平次の気持を、すっかり挫くじいてしまいます。 ﹁心配するなお半、一度は金蔵を殺す気になって、おびき出したには違いないが、本当に殺したのは私じゃない。銭形の親分さんは、そんなことの判らない方じゃない﹂ 清次郎の一生懸命さには、不思議な真実性があって、平次もツイ、親類の伯父さんのように、穏やかに兄妹の前に坐り直さなければなりませんでした。七
清次郎の物語は、銭形平次が組み立てた筋と少しの違いもありません。
菱屋のお茂の聟むこになって、あの大身代を継ぐはずになっていた二番番頭の金蔵が、大番頭の清七の異議でその望みがフイになった上、自分の長年にわたる不正がばれそうになると急に訴人して出て、菱屋の抜け荷のからくりを発あばき立て、さしもの大家を一朝にして亡ほろぼしてしまいました。
主人市兵衛と番頭の清七は遠島になった上相あい踵ついで死に、内儀と娘のお茂はいちど草加に隠れましたが母親が死んだ後のお茂は、お上の御目こぼしを幸い江戸に流れ込み、やくざ者の利八や、以前許いい婚なずけだった金蔵に関係して、自堕落な生活をしていたことは前にも書いた通りです。
ところで、金蔵はいよいよ近い内にお茂と祝言するという噂うわさが、清次郎の耳に入りました。
﹁御ごは法っ度との悪いことをしていたにしても、主人を訴人して菱屋を取潰した金蔵が、主人の娘のお茂さんと祝言するというのは見ちゃいられません。それでは人間の道が違います。――金蔵は、お茂さんにもこの私にもいわば親の敵かたきです。そんなことをさしちゃ、いくらお茂さんは平気でも、亡くなった主人や親に済まないと思いました。幾度もお茂さんに逢って意見しましたが、あの通りの人で聴いちゃくれません。思案に余っていっそ金蔵を殺そうと――﹂
﹁…………﹂
黙って聴入る平次の前に、清次郎は涙ながらに語りつづけるのです。
﹁金蔵が人並すぐれて欲の深いのを幸い、亡くなった主人の筆蹟に似せてあんな謎のようなことを書いて見せると、金蔵は大喜びで、その晩すぐ鍬くわを持ち出してもとの菱屋の屋敷跡にやって来ました。金蔵がたった一人で、私の書いた文句の場所を測り出し、私に構わず掘り出しました。――子ここ刻のつ︵十二時︶から始めて丑や刻つ半︵三時︶頃までに三尺も掘ったでしょう。黙ってそれを見ていた私は、何べん金蔵をやっつけてしまおうと思ったことでしょう、――大きな石を持ち上げたり、金蔵が鍬の手を休めた時、その鍬を振りあげたりしましたが――﹂
﹁…………﹂
﹁私にはどうしても人は殺せません。――寅なな刻つ︵四時︶ころ私は諦めて帰ってしまいました﹂
﹁金蔵は?﹂
平次はようやく口を挟みました。
﹁後に残ってせっせと掘っていたようです。――それからあの晩限り金蔵が行方知れずになったと聴いて、どんなに驚いたことでしょう。私は覚えのないことですが、献立まで拵えたのですから、私のこの手で殺したような気がして、本当に生きた心持もありませんでした。妹にもよく申付けてあの晩一と足も外へ出なかったことにさせましたが、嘘というものを吐つき馴れない妹は、うっかり本当のことを言ってしまいそうで、どんなに気が揉もめたかわかりません。坂本の叔母のところへやって、熊谷へやったと申したのはそのためでございます。――これだけ言ってしまうと、私はもうすっかり清々してしまいました﹂
清次郎はホッとした顔を挙げるのです。
平次は、それを聴きおわると、二つ三つ気休めの言葉を遺して、フラリと外へ出てしまいました。驚いたのはガラッ八の八五郎です。
﹁親分があの清次郎を縛らなきゃ、あっしが縛って行きますよ﹂
﹁馬鹿﹂
﹁だって、あんなに沢山証拠が揃っているじゃありませんか﹂
﹁証拠が人を殺すかい﹂
﹁ヘエ――﹂
﹁人を殺す奴は人間だよ﹂
﹁ヘエ――、じゃどこへ行くんで﹂
﹁黙って伴ついて来い、もういちど振り出しに戻るんだ。人を殺しそうな野郎を当ってみるんだ﹂
﹁ヘエ――﹂
平次の不機嫌さ、ガラッ八はそれを気にしながら、どこまでもついて行きました。馬道の三五郎の家です。
﹁御免よ﹂
﹁あ、銭形の﹂
格子を磨いていた二三人の若い者が、あわてて鉢巻を取りました。
一と月前の八月十七日の晩から、十八日の朝のことを思い出させるのは、かなりむずかしいことでしたが、幸いその晩は月が良かったので、多勢の若い者のうち、二三人の記憶がピタリと合って、
﹁あ、あの晩は月の良いのを夜が明けたのと早合点して、寅なな刻つ︵四時︶の鐘を卯む刻つ︵六時︶と間違えましたよ、――利八の野郎はすっからかんになって戸が開くとすぐ飛び出しましたよ、――利八が帰ってから一刻︵二時間︶も経ってから本当に明るくなったようですが﹂
こんな話に落着きました。
﹁利八の家はどこだい﹂
と平次。
﹁山谷ですよ﹂
﹁有難う、それで解った﹂
平次は礼を言って飛び出すと、一気に山谷まで――、利八の巣を見付けるのはわけもありません。
﹁御用ッ﹂
と表からガラッ八が踏込むと、道楽者らしく昼寝から起きたばかりの利八、早くもズキが廻ったと覚さとって、
﹁何をッ﹂
煙草盆を取って投げつけました。灰の目めつ潰ぶしの中に、ひるむガラッ八。平次はそのとき早くも裏口に廻って、
﹁利八。手向いするかッ﹂
背後から一喝をくれました。
﹁親分、恐れ入った﹂
投げ銭を用いるまでもなく、ドッカと板の間に坐った利八。匕あい首くちを投ほうり出すと、素直に後ろ手を廻します。
*
これは後で判ったことですが、うっかり一刻早く三五郎の賭と場ばを飛び出した利八、月の光に照らされながら、新鳥越の菱屋の屋敷跡の前を通ると、中からコソコソと清次郎の出て来るのを見たのです。
フトお茂の言葉を思い出すと、利八の好奇心は燃え上がります。根が胆きもの太い利八は、物に遠慮も躊ちゅ躇うちょもありませんでした。草くさ叢むらをわけて屋敷跡へ入ると、変な男が一人、四五尺の穴を掘って、一生懸命底の方をあさっているのです。ヒョイと腰を伸したところを、月の光に透すかして見ると紛まぎれもない金蔵、――この野郎がお茂を横取りしたと思うと、ムラムラと我慢のならない気持になりました。見ると穴の口には一梃の鍬があります。これを取上げると、後ろから拝み打ちに一撃をくらわせ、声も立てずに穴の底へ崩くず折おれたところを、上から滅茶滅茶に土を崩し込んで、金蔵の死骸ごと穴を埋め、鍬を土の中へ突っ込んだ上、気休めに石などを並べて引きあげたのでした。
﹁千こ住つの浜夕などに熱くなったのはどういうわけでしょう﹂
ガラッ八が呑込み兼ねる顔をすると、
﹁お茂なんかに未練はないというところを見せる心つも算りだったのさ。それが人間の弱いところで、せっせと通っているうちに、ツイ深間になったんだろう﹂
平次は行届いた説明をしてくれるのです。
﹁お茂という女は嫌な女ですね﹂
ガラッ八はあのうれきった年増には胆をつぶしたのでしょう。
﹁その代りお半はとんだ拾いものさ。あんな良い娘はちょっといないよ、どうだい八﹂
平次はまたガラッ八をからかい始めたのでした。