一
﹁親分、良い陽気じゃありませんか。植木の世話も結構だが、たまには出かけてみちゃどうです﹂ ガラッ八の八五郎は、懐ろ手を襟から抜いて、虫歯が痛い――て恰かっ好こうに頬を押えながら、裏木戸を膝ひざで開けてノッソリと入って来ました。 ﹁朝湯の帰りかえ、八﹂ 平次は盆ぼん栽さいの世話を焼きながら、気のない顔を挙げます。 ﹁へッ、御鑑定通り。手拭が濡ぬれているんだから、こいつは銭形の親分でなくたって、朝湯と判りますよ﹂ ﹁馬鹿だなア、手拭は俺から見えないよ、腰へブラ下げているんだろう、――番太や権助じゃあるめえし、良い若わけえ者が、手拭を腰へブラ下げて歩くのだけは止よしなよ。見っともねえ﹂ ﹁こいつは濡れているから肩に掛けられませんよ、――いつか手に持って歩くと、不動様の縄じゃあるめえ、そんな不ぶす粋いな恰好は止すがいい――って、親分に小言を言われたでしょう﹂ ﹁よく覚えていやがる﹂ ﹁躾しつけの良い児は違ったもので――﹂ ﹁手拭をよく絞らないからだよ、海なま鼠このようにして歩くから扱いにくいんだ。第一その鬢びんがグショ濡れじゃないか、水入りの助六が迷子になったようで、意気すぎて付合いきれないぜ﹂ ﹁あ、これですかえ。なるほど朝湯の証拠が揃そろってやがる﹂ ガラッ八は腰から海鼠のような手拭を抜いて、鬢のあたりをゴシゴシとやりました。 ﹁自や棄けに擦こすると、小鬢が禿はげ上がって、剣術使いのようになるぜ﹂ ﹁鬢のほつれは、枕のとがよ――と来た﹂ ﹁馬鹿だなア﹂ 平次は腰を伸ばして、しばらくはこの楽天的な子分の顔を享楽しておりました。 ﹁ところで親分﹂ ﹁なんだい﹂ ﹁不動様で思い出したが、今日は道どう灌かん山やまに東海坊が火伏せの行ぎょうをする日ですよ。大変な評判だ、行ってみませんか﹂ ﹁御免蒙こうむろうよ。どうせ山師坊主の興行に極きまっているようなものだ。行ってみるとまたとんだ殺生をすることになるかも知れねエ﹂ 平次は御用聞のくせに、引込み思案で、弱気で、十手捕縄にモノを言わせることが嫌で嫌でならなかったのです。 ﹁火伏せの行だから、火かな難ん除よけになりますよ﹂ ﹁家は借家だよ。焼けたって驚くほどの身しん上しょうじゃねえ﹂ ﹁呆あきれたもんだ――家は借家でも、火の車には悩まされ続けでしょう。こいつも火伏せの禁まじ呪ないでどうかなりゃしませんか﹂ ガラッ八は自分の洒しゃ落れに堪能して顎あごの下から出した手で、しきりに顔中を撫なで廻しております。 ﹁なるほど、そいつは耳寄りだ。火の車除けの有難いお護まも符りが出るとは知らなかったよ。ブラリブラリと行ってみようか、八﹂ ﹁有あり難がてえ。今日の道灌山はうんと人出があるから、何か面白いことがあるような気がしてならねえ﹂ ﹁火除けの行だから、キナ臭かったんだろう﹂ ﹁違ちげえねえ﹂ 道灌山へ平次と八五郎が向ったのは、悠ゆう々ゆうと昼飯を済ましてから、火伏せの行が始まるという申なな刻つ︵四時︶時分には、二人は無駄を言いながら若葉の下の谷やな中か道を歩いておりました。二
東海坊というのは、そのころどこからともなく江戸に現われた修しゅ験げん者じゃで、四十五六の魁かい偉いな男でしたが、不思議な法力を持つと噂うわさされて、わずかの間に江戸中の人気を渫さらい、谷中に建てた堂宇は、小さいながら豪勢を極め、信者十万、日々の賽さい銭せん祈きと祷うり料ょう、浅草の観音様をさえ凌しのぐと言われました。 東海坊の法力で、一番江戸の町人を驚かしたのは、いかなる難病も癒なおらぬことはないと言われた祈祷でした。越後屋の隠居は三年越し立たぬ腰が立ち、伊勢屋の息子は五年がかりの癆ろう症しょうがケロリと治って嫁を貰い、旗本三右衛門の奥方は、江戸中の医者に見放された眼病が平癒し、小梅の豪農小兵衛は、気が触れてあらぬ事を口走ったのが、拭うがごとく正気に返って、谷中の堂に銅の大おお手ちょ洗うず鉢ばちを寄進したといった比たぐいの噂が、風に乗って撒さん布ぷされるように、江戸中へ広がって行ったのです。 その日東海坊は火伏せの行を修しゅうして、火事早い江戸の町人を救うと触れさせ、人家に遠い道灌山を選んで、火行の壇を築かせました。九尺四方白しら木きの道場の正面には、不動明王の御像を掛けさせ護ごま摩だ壇んを据すえ、灯とう明みょう供くも物つを並べ、中ほどのところに東海坊、白衣に袈け裟さを掛け、散らし髪に兜とき巾んを戴き、揉もみに揉んで祈るのです。壇の四方を取巻く群衆信徒は、その数何千とも知れません。賽銭の雨を降らせながらドッと声を併せて東海坊の修法を讃さん仰ごうするのでした。 町方から取締りの役人は出ておりますが、外の事と違って信心に関する限り、幕府は放任政策に徹して、大抵のことは見て見ぬ振り。東海坊の軍師格で、その信者の一人なる浪人者御おう厩まや左門次が同じく東海坊の門弟で、用人を兼ねている定吉という白い道服の中年男とともに、群衆の整理、修法の進行等、一瞬の隙もなく眼を配っております。 時刻が移るにつれて、群衆の心理は夢幻の境に引入れられる様子でした。護摩の烟けむりは濛もう々もうと壇をこめて、東海坊の素晴らしい次バリ低トー音ンだけが、凜りん々りんと響き渡るのです。やがて、 ﹁それ――ッ﹂ 壇上の東海坊が声を掛けると、壇の四方を埋めて人間の背丈ほどに積み上げた夥おびただしい枯かれ柴しばに油を注ぎかけて、護摩壇の火を取って移しました。 ﹁ワ――ッ﹂ と唸うなりを生じた群衆の声と共に、壇をめぐる枯柴は燃え上がり、一挙に俄にわか造りの壇を舐なめます。 ﹁今こそ、我が法力を知ったか﹂ 壇の中央、焔ほのおの真ん中に立ち上がった東海坊は、高々と数じゅ珠ずを打振り打振り、虎こは髪つをなびかせて叱しっ咤たするのです。 ﹁南――無﹂ 群衆はこの奇蹟に直面して、ただ感嘆の声を併せるばかり、中には大地に土下座して、随喜の涙を流す者さえあります。 枯柴は完全に燃えて、焔は壇を一杯に包むと、ここにまた思いも寄らぬことが起りました。今の今まで、高らかに呪じゅ文もんを称えて、その法力を誇示していた壇上の東海坊は、何に驚いたか、急に壇上を駆け廻り、床を叩き、壇を蹴飛ばし、浅ましくも怒号する態ていが、渦巻く焔の間から、チラリチラリと隠見するのです。 ﹁た、助けてくれ――ッ﹂ 壇上に狂態の限りを尽す東海坊の口から、とうとう救いを求める声が漏れました。焔は壇上に這はい上がって、修験者の白衣に移り、メラメラと袈裟を嘗なめ上がる様子が、折から暮れ行く道灌山の草原の上に灰色の空を背景にして、あまりにもまざまざと見えるのです。 東海坊は焔に包まれて、犬のごとく這い廻り、虫のように飛びました。が、石を積んで樫かしの厚板を並べた床は、東海坊の十本の指が碧へき血けつに染まみれる努力も空しく、ビクともする様子はなく、四方に積んだ枯柴は、丈余の焔を挙げて、翅つばさがあっても飛び越せそうもありません。 山に溢あふれる善男善女は、ただもう﹁あれよあれよ﹂と言うばかり、今は尊い修験者に対する讃さん仰ごうの夢も醒さめて、さながら目まのあたりに地獄変相図を見るの心地。渦巻く焔と煙の中に、死の苦闘を続ける東海坊の浅ましい姿を眺めて、動きもならず動ど揺よみ打つのです。 ﹁親分﹂ ﹁八﹂ 銭形平次と八五郎は、たったこれだけでお互の思惑を読み合いました。 ﹁水だ、水だ﹂ ﹁早く火を消せ﹂ ガラッ八は青松葉の枝を折って、枯柴の火を叩くと、平次は壇の四方に用意した、幾十の手てお桶けのうちの一つを取ってサッと猛火に水を注ぎかけました。 ﹁それッ﹂ と群衆の中から加勢に飛出した若い者が、五人、八人、十人、その人数が次第に多くなると、自然命令者になった平次の号令に従って八方から猛火を消しはじめたのです。 この仕事は相当以上に骨が折れました。山の上にあったたった一つの井戸は大した役には立たず大火を焚たくために、役人の指図で用意した手桶の水も、間もなく尽きてしまいましたが、多勢の熱心に助けられたのと、燃え草が枯柴で、他愛もなく燃えきってしまったので、四あた方りが雀すず色めいろになる頃までには、どうやらこうやら火を消してしまって、平次と八五郎は、掛り同心永村長十郎、土地の御用聞三河島の浅吉等と一緒に、焼跡の護摩壇に検けん屍しの足を踏込んだのです。 その時、群衆はもう大方散って、残るのは東海坊の弟子たちと、世話人数名と、火を消すのに手伝った、丈夫な男たちが二三十人だけ。暮色は四方をこめて、燃え残る薪まきがあちこちに煙をあげております。三
﹁あッ、人が――﹂ 真っ先に壇の上に飛上がった三河島の浅吉は立ち縮すくみました。 ﹁東海坊じゃないか﹂ 永村長十郎が続きます。 ﹁火伏せの修験者が焼け死んだぜ、親分。こいつア――﹂ ﹁馬鹿ッ﹂ 平次に睨にらまれて、ガラッ八は危うく口を緘とざしました。放っておいたら――こいつア大笑いだ――とでも言ったことでしょう。 ﹁法力が足りなかったんだ、可哀想に﹂ 年配者の浅吉は、東海坊に同情を持っている様子です。 四方に暮色が迫ったので、提ちょ灯うちんを呼びました。そうでもしなければ、半分焼けた壇は、足許が危なくて、うっかり歩けません。枯柴の火は大方消えて、壇を取巻く数十の好奇の眼は、なかなか立去りそうもなく、固かた唾ずを呑んでことの成行きを見ております。 ﹁法力なんてものは、最初からなかったんだよ、兄あに哥き﹂ 平次は壇の上を一と廻りすると、静かに顔を挙げました。 ﹁そいつは銭形の――﹂ 浅吉は講中の一人であったらしく、平次の言葉に不平らしい様子です。 ﹁これを見るがいい。床はガンドウ返しになって、煙が一パイになった時、東海坊はそっとスッポンへ抜ける仕掛けだったのさ﹂ ﹁えッ﹂ ﹁そいつが、何かの弾はずみで開かなかったんだ。東海坊が火に追われながら、床板ばかり気にすると思ったが、こいつだよ﹂ 平次が指さした。 提灯を突き付けると、なるほど床板には二尺四方ほどの鋸のこが入って、何かの仕掛けで開くようになっているのが、厳重に締っていて、叩いても踏んでも開きそうになかったのです。 ﹁フーム、天罰だな﹂ 永村長十郎は唸りました。長いあいだ愚民を惑わしていた修験者が、命がけの詭きけ計いに失策して、猛火の中に死んだのも、江戸御府内の静せい謐ひつを念としている長十郎にとっては、全く天罰としか思われなかったのでしょう。 ﹁呆れた野郎だ﹂ 浅吉はたった一ぺんに愛想が尽きた様子で、ペッ、ペッと唾つばを飛ばしております。 一いっ刻とき︵二時間︶の後には野次馬もすっかり散り、永村長十郎も﹁東海坊の弟子どもや世話人一統は追っての御沙汰を待つように﹂と不気味な言葉を残して引揚げました。 ﹁親分、帰ろうじゃありませんか。天罰なんか縛れやしませんよ﹂ ガラッ八は大きな欠あく伸びをしながら言います。 ﹁腹が減ったんだろう。――ここじゃろくな水も呑めやしねエ。谷中へ行って何か詰めて来るがいい﹂ 平次は焼け残る壇の上から動こうともしません。 ﹁親分は?﹂ ﹁腹なんか減らないよ、――俺はもう少しここに頑張って、その天罰野郎の面を見て行きてえ﹂ ﹁それじゃ、親分?﹂ ﹁大きな声を出すな、その辺にはまだ多勢いるんだ﹂ ﹁あっしも手伝いますよ、親分。そう聴くと、腹が一杯になるから不思議で――﹂ ﹁そう言わず行って来るがいい。帰りには鳶とび頭がしらの家へ寄って、道具を借りて来るんだ。梃てこと槌つちと鋤すきだ﹂ ﹁何をやらかすんで、親分?﹂ ﹁この下に天罰が居そうなんだよ﹂ 平次は暗がりの中で床板を指しながら、ガラッ八に囁ささやくのでした。 八五郎はいろいろの道具を借りて、すぐ引返して来ました。こうなるともう、腹の減った事などを考えてはいられなかったのです。 ﹁親分、何をやらかしゃいいんで?﹂ ガラッ八は七つ道具をドタリとおろしました。 ﹁床板を剥はぐんだ。樫かしの木で、やけに丈夫だから、道具がなくちゃどうにもならない﹂ ﹁三河島の親分は?﹂ 八五郎は板の隙すき間まに梃を打ち込みながら、この容易ならぬ労作を手伝わせる相手を物色します。 ﹁弟子と世話人を見張っているよ。あの中に天罰野郎がいるかも知れない﹂ 平次は独り言のように言いながら、梃の先をグイと押しました。 ﹁あっしがやりますよ、親分。提灯を持っていて下さい﹂ ﹁頼むとしようか。何か飛出したら、構うことはねエ、存分に縛り上げてくれ。お前の手柄にしてやるから﹂ ﹁へッ、脅かしちゃいけません﹂ ﹁大丈夫だよ、そこから何にも飛出しゃしない﹂ ﹁自や棄けに頑丈ですぜ、親分﹂ そんな事を言いながらも金かな梃てこのお蔭、二枚の板はすぐ剥げました。 ﹁なるほど、龕がん灯どう返がえしの仕掛けを、下から石と材木で塞ふさいだんだ――思った通りだよ、八﹂ 平次は提灯を突きつけます。 ﹁入ってみましょうか﹂ ﹁そうしてくれ、その材木を取払ったら身体くらいはもぐるだろう﹂ ﹁提灯を貸して下さい﹂ ﹁そら﹂ 八五郎は提灯を片手に、床下の穴の中へ潜り込みました。横穴は思ったより深いらしく、しばらくすると灯が見えなくなって、それっきり八五郎は帰って来ません。四
﹁親分﹂ 遠くの方から八五郎の声が筒つつ抜ぬけます。 ﹁なんだ、八﹂ ﹁穴の中で提灯が消えたから、引返そうかと思ったが、忌いま々いましいから手探りで真っ直ぐに行くと、変なところへ出ましたぜ﹂ ﹁茶店の床下だろう﹂ 平次は何の気取りもなく、こんな事を言うのです。 ﹁へッ、どうしてそんな事が?﹂ ﹁近くて、人目に隠れて、穴の中へもぐり込めるという場所は外にないよ﹂ ﹁さすがは親分だ。あっしは地獄の三丁目かと思いましたよ。どうかしたら、閻えん魔まの屋敷の雪せっ隠ちんの床下かも知れないと思って這はい出すと、眼の前に燃え残りの護ごま摩だ壇んが見えるじゃありませんか﹂ ガラッ八の話は手振りが交りました。 ﹁怪かい談だん噺ばなしは後で聴くとして、それで、大方解ったよ。修験者東海坊は、やはり人に殺されたんだ﹂ ﹁ヘエ?――﹂ ﹁火伏せの行ぎょうとかなんとか言って、さんざん賽さい銭せんと祈きと祷うり料ょうをせしめた上、四方から火を掛けさせ、煙が一パイになった時を見測らって護摩壇の抜け穴から、茶店の床下へ抜けるはずだったんだ。そいつを仕掛けを知っている者に狙ねらわれて、床下から龕灯返しを塞ふさがれ、多勢の見る前で焼け死んでしまったのさ。天罰と言えば天罰だが、この天罰は少しタチが悪い﹂ 平次の説明して行くのを聴くと、東海坊が詭きけ計いの裏を掻かれて、猛火の中に死んだ経いき緯さつ、一点の疑いもありません。 ﹁その天罰野郎はどいつでしょう、親分﹂ ﹁あの中に居るよ。――行ってみようか、八﹂ 平次とガラッ八は、そこから少し離れて、虫聴き台の捨石や床しょ几うぎに思い思いに腰を掛けて、三河島の浅吉の監視の下にいる十五六人の人数に近づきました。 ﹁どうだい、銭形の﹂ 浅吉の口くち吻ぶりには、少しばかり挑戦的なものがありました。 ﹁東海坊はやはり殺されたに違ちげえねえ。抜け穴を下から塞いだ奴がいるんだ﹂ ﹁ヘエ、そいつは本当かい﹂ 浅吉は改めて提灯をかかげて、世話人や弟子達の顔を見廻しました。夜風のせいか、男女取交ぜ十幾人の顔は、心持緊張して、捜さぐるような瞳が、お互の間をせわしく往復します。 ﹁谷中の堂へ引揚げようか、ここじゃ調べもなるめえ﹂ ﹁よかろう﹂ 平次と浅吉は、土地の下っ引に死骸と焼跡の監視を頼み、掛り合いの十幾人には因いん果がを含めて、そこからあまり遠くない東海坊の堂まで引揚げさせました。 いかにも急造らしい小さな堂ですが、豪勢な調度や、金色燦さん然ぜんたる護摩壇は、いかにも流行の神らしく、虚こけ仮お脅どかしのうちにも、人を圧する物々しさがあります。 ﹁兄哥はしばらく見ていてくれ。俺がちょっと小手調べをしてみるから﹂ ﹁いいとも﹂ 平次の謙けん遜そんな調子に気をよくして、浅吉は先輩らしく本堂の奥に頑張りました。そこから居流れて、弟子世話人たち十五六人、平次と八五郎はそれを挟んで左右に控えます。 ﹁一番弟子とかなんとか言うのは誰だい﹂ 平次は一座を眺め渡しました。 ﹁私でございます。東山坊と申します﹂ 白い物を着ておりますが、髪形も俗体の四十男が膝を直します。少し狡ずるそうな、ショボショボ眼と、大きな鼻を持った男です。 ﹁親の付けた名があるだろう﹂ ﹁定吉と申します。ヘエ、生れは行ぎょ徳うとくで、親は網元でございました﹂ ﹁道楽に身を持崩して、東海坊の弟子になり、大おお法ぼ螺らの合あい槌づちを打ってトウセンボウとか名乗ったんだろう﹂ ﹁ヘエ――﹂ 日頃にもない平次の舌の辛しん辣らつさ、定吉の東山坊は面目次第もなく頭を下げました。 ﹁その次は?﹂ ﹁拙者だ﹂ 昂こう然ぜんとして顔をあげたのは、ちょっと良い男の浪人者御おう厩まや左門次でした。二十七八、身みな扮りもそんなに悪くはなく、腕っ節も相応にありそうです。 ﹁お名前は?﹂ ﹁御厩左門次、俗名だけしかない。俺は用心棒で修験者ではないからだ。主人のお名前は勘弁してくれ、――身を持崩して東海坊のところに転げ込んだが、東海坊の出でた鱈ら目めな大法螺に愛想を尽かして近いうちに飛出すつもりだったよ﹂ 御厩左門次自や棄けな苦笑いをしております。 ﹁どんな法螺で?﹂ ﹁火伏せの行ぎょうだって、本人は火かと遁んの術のつもりさ。する事も言うこともみんな法螺だ。――もっとも病気だけは不思議によく癒なおしたが、癒っても後で金を絞られたから、丈夫になっても楽じゃあるまい﹂ ﹁ところで、外に弟子はないのか﹂ 平次は鉾ほこを転じて、不安におののく十数人を見やりました。 ﹁あとは子供と女ばかりですよ﹂ 定吉の東山坊は、そう言いながら、二人の子供と二人の女を指さしました。二人の小僧はどっちも十二三で、物の数でもなく、二人の女はこんな邪悪な修験者にありがちの妾めかけで、一人はお雪といって二十七八、一人はお鳥といって二十三四、二人とも恐ろしく派手な風をしておりますが、病身らしく蒼ざめて、相当の力を要する、護摩壇の下の細工などは出来そうもありません。 信徒の総代――世話人と呼ばれているのは二人、一人は下谷一番といわれた油屋で、大徳屋徳兵衛。もう一人はこの堂を建てた大工の竹次、二人とも五十前後、町人と棟とう梁りょうで肌合は違いますが、物に間違いのありそうもない人間です。 ﹁どうして東海坊の世話方になったんだ﹂ 平次の問いに対して、大徳屋は口を開きました。 ﹁娘が長年の病気を治して貰いました。嫁入り前の十九でございます。その御恩報じに、番頭と一緒に先せん達だつの御世話を引受けております﹂ ﹁娘は?﹂ ﹁これに参っております。菊と申します﹂ 徳兵衛の後ろに小さくなっている娘――八方から射す灯とう明みょうの中に浮いて、それは本当に観音様の化けし身んではないかと思いました。少し華きゃ奢しゃで弱々しく見えますが、多い毛の緑も、細面の真珠色も、この世のものとも思えぬ気高さ――﹁よくもこんな美しいものを生んだことかな﹂と、もう一度父親の顔を振り返って見るほどの美しさです。その後ろに小さく控えたのは番頭の宇太松、これは二十七八の至って平凡な正直そうな男でした。 つづいて棟梁の竹次は何の巧たくみもなく、 ﹁あっしの疝せん痛つうと、女房の腰痛を治して貰いましたよ。それからは御恩返しにいろいろ働いているだけの事で、ヘエー﹂ 至って無技巧にそんな事を言うのです。つづいて父親を癒して貰ったという、越後屋の倅せがれ、女房の気きう鬱つが治った小梅の百姓小兵衛、等々、なんの不思議もありません。 ﹁東海坊の祈祷で治らない者もあったろう﹂ 平次は妙な事を訊きました。 ﹁業ごうの深いのは癒らないとされております。例えば御おか徒ちま町ちの伊勢屋の利八さん、これは喘ぜん息そくがどうしても治らず、先達様を怨うらんでおりました﹂ 一番弟子の定吉は応えました。 ﹁その利八は今日来ていたのかな﹂ ﹁顔が見えました。それから門前町の文七、倅の文太郎は七日七夜の祈祷で百両もかけたのに助からなかったと、先達様の悪口を言い触らしております。今日も来ていたようですが、先達様が火の中で死んだと解ると、底の抜けるような大笑いをして帰りました﹂ 定吉の話で、東海坊の法力なるものの正体と、それを囲めぐる恩おん怨えんの渦が次第に判るような気がします。 ﹁ところで、護摩壇の下の抜け穴だ。あれを知らなかったとは言わさない。誰と誰が知っていた﹂ ﹁…………﹂ 定吉と左門次は顔を見合せて黙り込んでしまいました。 ﹁それくらいの事は言えるだろう。誰と誰が抜け穴のあることを知っていたんだ﹂ ﹁…………﹂ 頑がん固こな沈黙がつづきます。 ﹁親分さん﹂ ﹁あ、大徳屋さんか﹂ ﹁私から申しましょう﹂ 大徳屋は静かに膝を進めます。五
﹁え? お前さんが知っているのかい﹂ 平次も少し予想外でした。世間の噂では、娘の病気は治ったが、それから東海坊にだまされて、下谷一番という身しん上しょうの半分は痛めたろうといわれる大徳屋徳兵衛は、いわば東海坊にとっては、大事なだまし相手で、このお客様に抜け穴の秘密を知らせるはずはないように思ったのです。 ﹁御不審は御ごも尤っともですが、先達様――東海坊様は、そんな気の小さい方じゃございませんでした。――俺は知っての通りどんな病気でも癒す力があるんだから、諸人助けのために、少しは細工もする、皆んな手伝ってくれ、――とこうおっしゃって、ここに居るほどの人数は、大抵抜け穴のことを聴かされております。定吉さん、御厩様、それに棟梁も、越後屋さんも――﹂ 徳兵衛は一座を見渡しながらも指を折るのです。誰も抗弁するものはなく、合槌を打つものもありません。 ﹁そう打ち明けてくれると大変有難い。――ところで、あの騒ぎの真っ最中――というよりは、壇の四方に火を掛ける頃、これだけの人数は大抵顔を揃えていたことだろうな﹂ ﹁…………﹂ 十幾人顔を見合せて、お互に探り合いました。 ﹁騒ぎの真っ最中といっても、東海坊が壇に登ってから、枯かれ柴しばに火を掛けるまでだ﹂ 平次は注ちゅうを入れます。 ﹁親分、その前に龕がん灯どう返がえしの仕掛けを塞ぎゃしませんか﹂ ガラッ八はそっと袖を引きました。 ﹁いや、仕掛けに変りのないことを見みき窮わめずに、東海坊は火を付けさせるものか。曲くせ者ものが穴にもぐり込んだのは東海坊が壇に登ってから枯柴に火をかけるまでの間だ﹂ 平次の言うことは自信に満ちております。 ﹁確しかとしたことは判りませんが油を掛けたり、火を付けたり銘々受持があって、ちぐはぐにならないようにしますから、私ども二人ずつ四方に分れておりました。私と御厩様、越後屋さんと大徳屋さん、棟梁と小兵衛さん、宇太松さんと五郎次さん――﹂ 定吉は指を折りながら説明するのです。 ﹁祈祷がきかなくて、東海坊の悪口ばかり言って歩いたという門前町の文七と伊勢屋の利八は、抜け穴の事を知らないだろうな﹂ ﹁さア、そこまでは解りません。なにぶんそんな事は一向気にかけない東海坊様でしたから、火伏せの行などと言って諸人を騙だますのは、いわば火かと遁んの術で、衆しゅ生じょ済うさ度いどの方便だと思い込んでいらっしゃいました﹂ 定吉の説明する、東海坊の人柄はますます怪奇です。狂信者型の人間には、そんなのもあるのかしらと銭形平次も首を傾けました。 ﹁ところで、皆んなの手を見せてくれ﹂ 咄とっ嗟さに平次が合図をすると、八五郎と浅吉が手を貸して、十数人の掌てのひらを三方から調べ始めました。 ﹁あわてて拭いたって、追っつくかい、馬鹿野郎ッ﹂ 越後屋の番頭の五郎次は、したたか浅吉に頬ほお桁げたを殴られて、キョトンとして両掌を挙げました。 一人一人調べて行くと、嘗なめたように綺麗なのは、一番弟子の東山坊こと定吉と、御厩左門次と女たち。泥と炭でひどく汚れているのは、大徳屋の主人徳兵衛と、棟梁の竹次。あとの五六人は薄汚い程度で、格別、炭も泥も付いてはいず、洗った様子もありません。 ﹁洗ったのか﹂ 平次は定吉の顔を見詰めました。 ﹁ヘエ、ひどく汚れましたので﹂ ﹁俺も洗ったが、悪いか﹂ 御厩左門次は、何か突っかかりそうな物言いです。平次はそれに取合わず、 ﹁八、こんどは着物だ、手伝ってくれ﹂ ﹁さア、一人ずつ立ってみろ﹂ おびただしい灯明の前に、一人ずつ立たせました。 定吉も左門次も、徳兵衛も竹次も、火を消すのに手伝って、少しずつは着物が汚れておりますが、狭い抜け穴を潜ったと思われる程のはありません。わけても汚れているのは定吉で、いちばん綺麗なのは身だしなみの良い徳兵衛です。六
それから五六日、銭形平次は八五郎以下の子分や下っ引を動員して、定吉、左門次、徳兵衛、竹次、文七、利八、その他関係者を洗いざらい調べ抜きました。 日頃の行状、金廻り、東海坊との関係、一つも漏らしません。抜け穴の仕掛けの下に石と材木を積んだのは、咄嗟の間の細工で、女や子供には出来ない芸と睨にらみ、調べは専もっぱら男に集中しましたが、それでも、東海坊をめぐる女の一群に関心を持たない平次ではありません。 東海坊という修験者は、経文一つ読めないような、無学鈍どん根こんの男ですが、生得不思議な精神力の持主で、――今日の言葉で言えば、自己催眠という類のものでしょう。憑ひょ依うい状態になって熱祷をこめると、気の弱い信者達の病気は、不思議にケロリと癒るのでした。 この種の邪教的な気根の持主らしく、東海坊も女犯にかけては、大概の醒なま臭ぐさ坊主に引けを取らず、妾二人を蓄えてる外、講中の誰彼に手を出して、絶えず問題を作りますが、そんな不始末は不思議なことに狂信者達を驚かさなかったのです。 ﹁親分、三河島の親分は、とうとう挙げて行きましたよ﹂ ガラッ八の八五郎は、息を切って飛込みました。事件があってから七日目の朝です。 ﹁誰だ、文七か、利八か﹂ 平次も少し気けし色きばみます。 ﹁一番弟子の定吉ですよ。――近頃あの野郎にも人気が出たから、師匠の東海坊が死ねば、そっくり跡を継いでうまい汁が吸えると思ったんでしょう﹂ ﹁そいつは三河島の兄あに哥きの見当違いだ。定吉は東海坊の介添えで、壇の正面をちょっとも離れなかった﹂ ﹁でも、枯柴へ油をかけて火をつけた時は、皆んなそれに気を取られて、定吉が居なくなっても、ほんのしばらくなら気はつきませんよ﹂ ﹁八、お前にしちゃうまい事を言ったぜ。火をつけた時は皆んなそっちへ気が外れるから、定吉なんかに目もくれる者はない――とね、なるほどそれに違いない﹂ 平次は妙なところへ感心しました。 ﹁――お前にしちゃ――は気に入らないね、親分﹂ ﹁贅ぜい沢たくを言うな、それで沢山だ。――定吉に気がつかないくらいだから左門次にも、徳兵衛にも、竹次にも気がつかなかったわけだ。待てよ、東海坊が壇に登って、薪まきに火をかける前に、曲者が穴へ潜り込んだと思ったのは俺の間違いかな﹂ ﹁親分、感心していちゃいけません。それじゃ、定吉が下手人ですかい﹂ ﹁いや違う。定吉は変てこな白い着物を着ていた。あの扮なりじゃ穴へ潜れない、手を洗ったのは一応臭いようだが、本当に穴に潜った奴なら、手を洗うとかえって疑われるくらいのことに気が付くだろう。曲者は手を洗わない奴だ﹂ 平次の推理は微びに入り細を穿うがちます。 ﹁それじゃ、あの浪人者も?﹂ ﹁あれは怪しい。が、腕が出来そうだ。東海坊が気に入らなきゃ、細工をせずに斬って捨てるだろう﹂ ﹁なるほどね﹂ ﹁東海坊の祈祷がきかなくて、一人っ子に死なれたという、門前町の文七が一番怪しい。あの日どこに何をしていたか、――近ごろ東海坊の悪口を言わなくなったか。そんなことをよく聴き込んで来てくれ――﹂ ﹁そんな事ならわけはねエ﹂ ﹁あ、ちょっと待った八。それからもう一つ、あの日道どう灌かん山やまへ、大徳屋徳兵衛は夏なつ羽ばお織りを着て来なかったか、それを訊いて来てくれ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ガラッ八の八五郎は何が何やらわけも解らず、闇雲に飛出してしまいました。 ﹁お静、羽織を出してくれ。ちょっと下した谷やまで行って来る﹂ いつにもなく羽織を引っかけた平次、それから下谷一円を廻って髪かみ結ゆい床どこ、湯屋、町医者と、根気よく訪ねました。 日が暮れて帰って来ると、八五郎は一と足先に戻って、――待人来たらず――を絵で描いたように、入口の格子に凭もたれて顎を長くしております。 ﹁あ、親分。待ってましたぜ﹂ 飛付くような調子。 ﹁嘘を突きゃがれ。一と足先に帰ったばかりじゃないか﹂ ﹁どうして、それを﹂ ﹁路地の口へ干したカキ餅を引っくり返されて、煎せん餅べい屋やのお神かみさんブウブウ言いながら、半分くらい拾い込んだところへ俺が帰ったんだ。あんな粗相をするのは、この路地の中に一人も住んじゃいないよ﹂ ﹁へッ﹂ 八五郎まさに一言もありません。 ﹁ところで、何を拾って来た﹂ ﹁下手人は門前町の文七に違いありませんよ、親分。あの日道灌山へ行っていたことは皆んな知っているし、護摩壇の下に抜け穴のあったことも、前から知っていたって本人が言うそうですよ﹂ ﹁それから﹂ ﹁今でも滅茶滅茶に東海坊の悪口を言って歩きますよ。あの野郎が焼け死んだのは天罰だ。もう三月も生きていたら、この文七が殺すはずだった――って﹂ ﹁三月は妙に刻きざんだね﹂ ﹁無尽の金が取れるから、東海坊を叩き斬った上、倅の骨を持って高野山へ行く気だったそうですよ。自分が下手人だと白状しているようなものじゃありませんか﹂ ガラッ八は勢い込んで説明をつづけます。 ﹁それっきりか﹂ ﹁これっきりでも縛れるでしょう、親分﹂ ﹁よし、よし、文七は無尽の金が取れるまで逃げるような心配はあるまい。まずそれは安心としておいて、――ところで、大徳屋はあの日夏羽織を着ていたのか﹂ 平次は夏羽織の方に気を取られている様子です。 ﹁着ていたそうですよ。多勢の人が見ていまさア。小紋の結構な羽織で﹂ ﹁谷中へ引揚げた時はそれを着ていなかったね﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁それで解った。八、一緒に来ないか、面白いものを見せてやる﹂ ﹁どこへ行くんで、親分﹂ ﹁どこでもいい﹂ 平次は疲れた様子もなく、ガラッ八を伴つれてまた下谷へ取って返したのです。七
平次が訪ねて行ったのは、下谷一番と言われた、油屋の大徳屋でした。
﹁誰も聴いちゃいないでしょうな﹂
平次は煙きせ管るを出して一服つけると、静かにこう切り出しました。
﹁ここは離はな屋れで、誰も聴くはずはありません。娘も奉公人も母おも屋やで、廊下を人が来るとすぐ知れますよ。――一体どんな御用で、親分?﹂
物々しい空気に圧倒されて、徳兵衛の唇の色は少し変りました。が、大おお店だなの主人らしい鷹おう揚ようさは失わず、どんな事を言い出されても驚くまいとするように、膝に置いた手は、犇ひしと単ひと衣えを掴つかんでおります。
﹁外ではない。――東海坊を自滅させたいきさつ、あっしはみんな知っているつもりだ。が、なろう事なら本人の口から言って貰いたい﹂
平次の言葉はこの上もなく静かですが、釘くぎを打ち込むように相手の肺はい腑ふに響く様子です。
﹁それは?﹂
﹁いや、弁解は無用だ。――言いにくければ、あっしが代って言おう。いきなり縛って突き出すのはわけもないが、聴けば娘のお菊さんの婚礼が、明日に迫っているという話。その前の晩に縄付を出しちゃ気の毒だと思うから、わざわざやって来たようなわけさ﹂
﹁親分さん﹂
﹁大徳屋さん。――あっしは下谷中を駆け廻って、七日の間にこれだけの事を捜さぐり出した。違っているなら違っていると言って貰いたい。――大徳屋の一人娘下谷小町と言われたお菊さんは、父親の手一つで育ったが、何の因果か二つの疾やまいがあった。一つは癲てん癇かんで、一つは――これは言わない方がいい。若い女にはこの上もない恥かしい病気だ﹂
﹁…………﹂
﹁あらゆる医者にも診せ、加持祈祷の限りを尽したが、十九の春までどうしても癒らなかった。嫁入りも婿取りも諦あきらめていると、江戸で五番とは下らぬ大町人室町の清水屋総兵衛の倅総太郎が見み初そめて、人ひと橋はし架かけて嫁にくれるか、それがいやなら、持参金一万両で婿に来てもいいという話だ。当人のお菊も親のお前さんも乗気になった。この縁を逃してなるものかと思ったが、悲しいことにお菊には人に明かされない病気がある﹂
﹁…………﹂
徳兵衛は深々と首を垂れて、平次の論告を聴き入るばかりです。
﹁フト人の噂で聴いた東海坊の祈祷、これを頼むと不思議に験げんがあって三月経たないうちに二つの悪病がケロリと癒った。お前さんも、お菊も、天にも登る喜びで、さっそく婚礼の話を進めたが、――どっこい、東海坊は自分の法力を諸人に知らせるために、癒した病人のことを、みんな言い触らす癖がある――﹂
﹁…………﹂
﹁これにはさすがに驚いた。危うく言い触らされそうになって、幾度止めたかわからない。しまいには、百両、三百両、五百両と、鰻うな上ぎのぼりの口止め料を取られ、下谷一番の油屋と言われた大徳屋の身上も、このままで行っては年一杯も保もちそうもない﹂
﹁…………﹂
﹁もう一つ悪いことに、娘の病気のことを言われたくなかったら、当人を谷中の堂へ奉公に出せ、――と東海坊が言い出した。それに相違あるまい﹂
﹁…………﹂
平次の論告はここまで来ると一段落で、しばらく口を緘つぐんで、徳兵衛の出ようを見ました。行あん灯どんの灯芯はジ、ジと油を吸って、夏の虫はもう、庭で鳴いている様子。勢い込む八五郎の息づかいだけが異常に荒々しく聴えます。
﹁その通りでございます、親分さん。秘し隠したことをよくそれまでお判りになりました。全く恐れ入りました﹂
徳兵衛は畳の上に手を突いて、力が抜けたようにガックリとお辞儀をするのです。
﹁で、抜け穴から入って、龕がん灯どう返がえしの仕掛けを塞ふさぎ、東海坊を自滅させたというのだな﹂
平次はくり返して自滅という言葉を使いました。
﹁その通りでございます。火が燃え上がって、みんな壇の方に気を取られたとき、案内知った茶店の床下に飛込み、壇の下の穴の中に捨ててあった、石と材木の切れ端はしで仕掛けの下を塞ぎ、大急ぎで出て来ると、誰も気の付いた者はない様子です。穴の中でひどく汚れた羽織は脱いで、畳んで娘の風呂敷の中に入れ、心にとがめられながらも、誰知るまいと思っておりました﹂
﹁…………﹂
こんどは平次が聴き手になりました。火が燃え上がってから、誰も気の付かない“時間”のあったことや、夏羽織を気にしていた親分の慧けい眼がんを、今さらガラッ八は思い当った様子です。
﹁親分さん、決して逃げも隠れもいたしません。――が、たった三日だけお見みの遁がしを願います。娘の祝言が済んでしまったら私は――﹂
徳兵衛は悲痛な顔を挙げるのです。娘の祝言が済んだ後で自首して出たとして、その娘が無事に嫁入り先に納まるでしょうか。
﹁それはむずかしい﹂
平次のむずかしいと言うのは三日縄を延ばしてくれという言葉に対するものではなかったでしょう。
﹁東海坊が娘の病気を言い触らしたら、この縁談は破れるばかりでなく、娘は生きていないでしょう。そうかといって、自分の子ながらあんなに綺麗に育った娘を、獣けだ物もののような東海坊にくれてやる気にもなりません﹂
﹁よく解った﹂
﹁親分﹂
﹁たった三日だよ﹂
平次は立上がりました。後ろには畳の上に伏し拝む徳兵衛、ボロボロと泣いている様子です。
﹁八、行こうか﹂
﹁ヘエ﹂
廊下の嫁入りの調度の中へ、二三歩踏み出した時でした。
﹁あれは、親分﹂
母屋と離屋をつなぐ廊下の真ん中に坐って何やら蠢うごめく姿が、遠い有あり明あけの灯に見えるのです。
﹁番頭じゃないか﹂
﹁お﹂
番頭の宇太松――まだ若くて働き者らしいのが、脇差を自分の腹に突立てて、のた打ち廻っているではありませんか。
﹁親分さん、――私だ。東海坊を殺したのは、この私、――宇太松でございますよ﹂
手負いは苦しい息を絞りました。
﹁何? そんな馬鹿な事が――﹂
平次と八五郎は、宇太松を左右から抱き起しました。主人の徳兵衛も驚いて飛んで来ます。
﹁抜け穴を塞いだのは、この私でございます――誰でもない、誰でもない。この、この、宇太松でございますよ﹂
尽きかける気力を振い起して、血潮の中にのた打ち廻りながら、宇太松はひたむきにこう言いきるのでした。
﹁宇太松。お前は、お前はまア。どうしたということだ﹂
大徳屋の徳兵衛は夢心地に突っ立ったきり、自分の代りになって死んで行く気の、宇太松の動機さえ判らない様子です。
﹁旦那、――私は死んでも思い置くことはございません。あんな山師を自滅させて、諸人の迷惑を取除けば﹂
﹁よく判った。――番頭さん、何か望みはないか﹂
平次は宇太松の耳に唇を寄せて、次第に頼み少なくなる気力を呼びさましました。
﹁何にもない――ただ、――お嬢様には、――何にも言わない方がいい。――お嬢様には、私が、私が、なんで死ぬ気になったということも、――お嬢様に﹂
言ってはならぬ恋を身に秘めて、宇太松は死んで行くのです。
﹁宇太松、――有難いぞ。お前のお蔭で――﹂
徳兵衛の言葉は涙に絶句しました。
この騒ぎも明日という幸福な日を迎える興奮に夢中になっている母屋のお菊には聴えなかったでしょう。
三人は、息の絶えた宇太松の前に、黙りこくったまましばらく頭を垂れて坐り込みました。長い長い人生のうちにも、滅多にこんな厳げん粛しゅくな気持になる時間はないものです。
*
﹁可哀想なことをしたね﹂
帰り途みち、平次はガラッ八にこんな事を言うのです。
﹁あっしも泣いてしまいましたよ﹂
とガラッ八。
﹁番頭が腹まで切らなくたって、――俺は徳兵衛をどうして助けようか、そればかり考えていたのに、――三日待つというのを、本当に取って、身代りに死ぬ気になったんだね。俺は三百年も待つ気だった﹂
平次は沁しみ々じみと言うのでした。
﹁でも、あの番頭にしちゃ、生きている気はなかったかも知れませんぜ。お嬢さんが明日祝言だと聞いちゃ﹂
ガラッ八は妙に思いやりがあります。
﹁なるほどな、独り者は察しが良い。――あの娘は綺麗すぎるから、自分の知らない罪を作っていたんだろう﹂
﹁それが親を助けることになるとは、変な廻り合せじゃありませんか﹂
平次は黙ってうなずきました。妙につまされる晩です。