一
﹁やい、ガラッ八﹂ ﹁ガラッ八は人聞きが悪いなア、後生だから、八とか、八公とか言っておくんなさいな﹂ ﹁つまらねエ見得を張りやがるな、側そばに美しい新しん造ぞでも居る時は、八さんとか、八兄あに哥いとか言ってやるよ、平ふだ常ん使いはガラッ八で沢山だ。贅ぜい沢たくを言うな﹂ ﹁情けねえ綽あだ名なを取っちゃったものさね。せめて、銭形の平次親分の片腕で、小判形の八五郎とか何とか言や――﹂ ﹁馬鹿野郎、人様が見て笑ってるぜ、往来で見得なんか切りやがって﹂ ﹁ヘエ﹂ 捕物の名人、銭形の平次と、その子分ガラッ八は、そんな無駄を言いながら、浜はま町ちょ河うが岸しを両国の方へ歩いておりました。 逢えばつまらない無駄ばかり言っておりますが、二人は妙に気の合った親分子分で、平次のような頭の良いい岡っ引にとっては、少し脳味噌の少ない、その代り正直者で骨惜しみをしないガラッ八ぐらいのところが、ちょうど手頃な助手でもあったのでしょう。 ﹁ところで、八﹂ ﹁へッ、有あり難がてえことに、今度はガラ抜きと来たね、何です親分﹂ ﹁今日の行先を知っているだろうな﹂ ﹁知りませんよ、いきなり親分が、サア行こう、サア行こう――て言うから跟ついて来たんで、時分が時分だから、大方、“百尺”でも奢おごって下さるんでしょう﹂ ﹁馬鹿だね、相変らず奢らせる事ばかり考えてやがる――今日のはそんな気のきいたんじゃねえ﹂ ﹁ヘエ――そうすると、いつかみたいに、食わず飲まずで、人間は何里歩けるか、お前に試させるんだ、てな事になりゃしませんか﹂ ﹁いや、そんな罪の深いのじゃないが――変な事を聞くようだが、手てめ前え、身体を汚したことがあるかい﹂ ﹁身体を汚す?﹂ ﹁文ほり身ものがあるかということだよ、――実は今日両国の﹃種たね村むら﹄に“文身自慢の会”というのがあるんだ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁これから覗いてみようと思うんだが、蚤のみが螫さしたほどでもいいから、身体に文身のない者は入れないことになっている﹂ ﹁それなら大丈夫で﹂ ﹁あるかい﹂ ﹁あるかいは情けねえ、この通り﹂ 袷あわせの裾すそを捲まくって見せると、なるほど、ガラッ八の左の足の踝くるぶしに筋すじ彫ぼりで小さく桃の実を彫ったのがあります。 ﹁ウ、フ、――その文身の方が情けねえ﹂ ﹁そう言ったって、これでも蚤の螫した跡よりはでっかいでしょう。――いったいそんな事を言う親分こそ身体を汚したことがありますかい﹂ ﹁真似をしちゃいけねえ﹂ ﹁何べんも親分の背中を流してあげたが、ついぞ文身のあるのに気が付いたことがねえが――﹂ ﹁そりゃア、手前がドジだからだ、文身は確かにある﹂ ﹁ちょいと見せておくんなさい﹂ ﹁往来で裸になれるかい、折おり助すけやがえんじゃあるまいし﹂ ﹁見ておかねえと、どうも安心がならねえ、向うへ行って木戸でも衝つかれると、銭形の親分ばかりじゃねえ、この八五郎の恥だ﹂ ﹁余計な心しん配ぺえだ﹂ 無駄を言ううちに、両国の橋詰、大弓場の裏の一郭の料理屋のうち、一番構えの大きい﹁種村﹂の入口に着きました。 ﹁入いらっしゃいまし﹂ ﹁銭形の親分がお出でだよ﹂ ﹁シッ﹂ 大きい声で奥へ通すのを、平次は半分目顔で押えました。﹁種村﹂の前には世話人が四五人、怪し気な羽織などを引っ掛けて、いちいち出入りの人の身体を検しらべて、手形代りに文身の有無を見ておりますが、平次は顔が売れているせいか、不作法な肌を脱ぐまでもなく、そのまま木戸を通されて、奥へ案内されたのです。 川に面した広間を三つ四つ打ぶっこ抜いて、いかにも文身自慢らしいのが、もう五六十人も集まっておりますが、平次は別段その中から人の顔を物色するでもなく、 ﹁親分、石原のが来ていますぜ﹂ と袖を引くガラッ八を目で叱って、隅っこの方へ神妙に差し控えました。二
文ほり身ものというのは、元は罪人の入いれ墨ずみから起ったとも、野蛮人の猛獣脅しから起ったとも言いますが、これが盛んになったのは、元げん禄ろく以後、特に宝ほう暦れき、明めい和わ、寛かん政せいと加速度で発達したもので、平次が活躍して来た、寛かん永えいから明めい暦れきの頃は、まだ大したことはありません。 図柄でもわかる通り、大模様の文身の発達したのは、歌舞伎芝居や、浮世絵の発達と一致したもので、今日残っている倶くり梨から伽も羅ん紋も々んという言葉は、三代目中村歌右衛門が江戸に下って、両腕一パイに文身を描いて、倶梨伽羅太郎を演じてから起ったことだと言われております。 この物語の時代には、文字や図案めかしい簡単な文身が、漸ようやく絵に進化しただけのことで、まだ、大模様やボカシ入れや浮世絵風の精巧な図柄はありません。しかし珍しいだけに、世の中の好奇心の方はかえって旺さかんで、こんな会を催すと、江戸中の文身自慢は言うには及ばず、蚤の螫した跡のような文身を持っている人間までが、見物かたがたやって来るという騒ぎだったのです。 やがて定刻の未や刻つ︵午後二時︶が遅れて、申なな刻つ︵四時︶までに集まった者が九十八人、それにいちいち籤くじを引かせて、番号順に肌を脱いで、皆んなに見せなければなりません。第一番は鳶とびの者らしい若い男で、胸へヒョットコの面を彫って、背中へはおかめの面が彫ってあります。まことにとぼけたもので、相当手が込んでおりますから、その時代の人には珍しく、ワッと褒め言葉が掛りました。 次に出たのは、仲ちゅ間うげ者んものらしい三十男。 ﹁真っ平御免ねえ﹂ クルリと尻をまくると、両方の尻に蛙かえるとなめくじを彫って犢ふん鼻ど褌しの三みつの上に、小さく蛇がとぐろを巻いております。 第三番目に出たのは、背中へ桜の一と枝に瓢ひょ箪うたん、寛政天保以後のように手の込んだ文身ではありませんが、これもその時分の人の眼には、相当立派に映ります。 こうして九十八人裸にして押し並べ、それへ世話人が等級を付けて、第一等には白米が一俵、第二等には反物一反という工合に褒美を出す仕組み――その後、文化八年に一度、天保の御改革に一度、﹁文ほり身もの御ごは法っ度と﹂になりましたが、大体この競技会の型は、維新近くまで頻繁に催されましたから、年を取った方で、今に記憶している向きも少なくないことでしょう。 ガラッ八の踝くるぶしの桃などは、あまりケチなんで吹き出させてしまいましたが、不思議なことに銭形平次の文身はちょっと当てました。肌を押し脱ぐと、背筋を真ん中にして、左右へ三枚ずつ、真さな田だの紋のように、六文銭の文身、これは何となく気がきいておりました。 さて、いよいよ九十八人全部裸はだ体かになってしまって、この日の一等は、胸から背へかけて、胴一杯に、狐の嫁入りを彫った遊び人と、背中一面に大津絵の藤娘を彫った折助とが、争うことになりましたが、いよいよこれが最後という時、 ﹁あっしのも見ておくんなさい﹂ パッと着物を丸めて、満座の視線の中へ飛込んだ男があります。 ﹁何だ、無むき疵ずの身体じゃないか、色が白いだけじゃ通用しねえ、退どいた退いた﹂ 世話人がかき退のけるようにすると、 ﹁俺の文身はこの下なんだ、諸人にひけらかすような安い絵柄じゃねえ﹂ 白木綿を一反も巻いたろうと思う新しい腹巻を、クルクルと解くと、その下から現われたのは真っ白な下腹部を三巻半も巻いて、臍へその上へ鎌首をヒョイともたげて、赤い焔ほのおのような舌を吐いている蛇の文身。 ﹁あッ﹂ 九十八人の文身自慢で集まった人達も、思わず感嘆の声をあげました。 見ると、白はく皙せき長ちょ躯うく、浪ろう裡りの張ちょ順うじゅんを思わせるような好いい男、一とわたり、一座の驚き呆れる顔をたそがれの色の中に見定めると、腹巻をクルクルと巻き直して、丸めた着物を小脇に掻い込むと、 ﹁御免よ、あっしは忙しい身体なんだ。白米は後から貰いに来るぜ﹂ ﹁あッ﹂ ﹁待ちな﹂ と言う声を後に二階の縁側の欄らん干かんを越えると、庇ひさしを渡って、腹ん這いに雨あま樋どいに手が掛りました。 ﹁御用ッ﹂ 続いて飛付いたのは、先さっ刻きから虎こし視たん眈た々んとして、一座をねめ廻していた石原の利助、縁側へ飛出して、曲くせ者ものの後から欄干を越えようとする前へ、 ﹁ちょいと親分、私の文身も見てやって下さいな﹂ と立ち塞ふさがった者があります。 ﹁えッ、邪魔だッ﹂ ﹁あれさ、石原の親分、あんなヒョロヒョロ蛇より、もっと面白いものをお目にかけようじゃありませんか﹂ 絡み付いて、利助を引戻したのは、この店の女中とも、客ともつかぬ、変な様子をしておりますが、二十二三の滅法美しい女。 ﹁えッ、何をしやがるんだ、手てめ前えのお蔭で、大事な捕物を逃がしたじゃないか﹂ 女を突き飛ばした利助、同じく屋根を渡って、下へ飛降りましたが、ほんのしばらく手間取るうちに、怪しい男はどこへ逃げたか、影も形もありません。 一方利助に突き飛ばされた女、起き上がると思いの外ケロリとして、 ﹁文ほり身ものがありさえすりゃ、女だって構やしませんわねエ﹂ 少し媚こびを含んだ調子で、世話人の方へやって来ました。 ﹁そりゃいいとも、お前さんを入れてちょうど百人だ。皆んなこうして薄寒くなるのに、裸になって待っているんだからお前さんにも肌脱ぎになって貰わなきゃならないが、承知だろうな﹂ ﹁そんな事は何でもありゃしません。なアに銭湯へ行ったと思や――﹂ 女は自分を励ますようにそう言いながら、それでも少し含はに羞かむ風情で、肌を押し脱ごうとしました。 二百の瞳が、好奇に燃えて、八方からチクチクするほど見張っている中うち、たそがれかけたとは言っても、まだ充分に明るい川沿いの広間で、不思議な女は、サッと玉の肌をさらしものにしたのでした。 ﹁あッ﹂ 百人が百人、感嘆の声をあげたのも無理はありません。白羽二重に紅を包んだような、滑らかな美しい肌に、彫りも彫ったり、 頸くび筋すじに鼠ねずみ、左右の腕に牛と虎、背に龍と蛇、腹に兎と馬―― 上半身に十二支の内、子ね、丑うし、寅とら、卯う、辰たつ、巳み、午うま、の七つまで、墨と朱の二色で、いとも鮮やかに彫ってあるのでした。 女はさすがに身を恥じて、二つの乳房を掌たなぞこに隠し、八方から投げかけられる視線を痛そうに受けて踞うずくまりました。 ちょうどそこへ、石原の利助は、広い階はし子ごだ段んを二つずつ飛上がるようにやって来たのです。 ﹁女はどこへ行った。余計な事をしやがるんで、とうとう曲くせ者ものを逃がしてしまったぞ﹂ ﹁ここに居るよ、石原の親分﹂ ﹁あッ﹂ 利助もさすがに立ちすくみました。息せき切って飛込んだ鼻の先へ、匂うばかりに半裸体の美女、しかも、その上半身には、十二支の内、七つまで、羽二重に描いた藍あい絵えのように見事な文身がしてあるのです。 ﹁お前は何だ﹂ ﹁女よ――少しお転てん婆ばだけれど﹂ ﹁その文身は?﹂ ﹁ご覧の通り十二支さ、子から午まで、あとの五つを見たかったら面つらを洗って出直してお出で﹂ ﹁何だと、女﹂ 女はそう言ううちにも、肌を入れて前まえ褄づまを直しました。 ﹁反物は私が貰ったよ、皆さん左様なら﹂ 小腰を屈めて、滑るように出ようとすると、 ﹁待て待て、お前は先刻の野郎の仲間だろう、叩けば埃ほこりの出そうな身体だ。番所までちょっと来い﹂ と追いすがった利助、先へ廻って大手を拡げます。 ちょうど、その時でした。 ﹁あッ、俺の紙入がない﹂ ﹁俺の羽織がねえぞ﹂ ﹁大変、着物がなくなった﹂ という騒ぎ、九十八人悉ことごとく裸はだ体かになっているのですからその被害は大変です。 泥棒は多分、先刻の蛇の文身の男の騒ぎから、引続いて女の文身の騒ぎの間に仕事をしたのでしょう、全まる然っきり裸にされたのが二十二三人、あとの七十何人も、何かしら奪とられない者はない有様です。三
﹁親分、一体ありゃどうしたことです。九十何人裸にされるのを、銭形の親分が黙って見ているという法があるものですか﹂ とガラッ八、﹁種村﹂の騒ぎを後にしての帰り道、あまりの事に平次に喰ってかかりました。 ﹁ハッ、ハッハッ、お前もそう思うかい、いや面目次第もないと言いたいが、実は少しばかり心当りがあって、多分あんな事になるだろうと思っていたんだ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁だから、お前にも着物や持物に気を付けろと言ったじゃないか。それに、人の言うことを空耳に走らせるから、平次の子分のガラッ八ともあろうものが、財布を盗まれるようなへまをやるんだ﹂ ﹁まさに一言もねえ、あの中で一ひと品しなも盗られねえのは親分だけでしょうよ、石原の親分が、煙草入をやられたのは大笑いさ﹂ ﹁馬鹿野郎、余計な事を言うな﹂ ﹁ヘエ――、それはそうと、石原の親分が縛って行った、あの綺麗な年増が、やはり曲者でしょうかね﹂ ﹁そんな事がわかるものか、俺は小泥棒を挙げに行ったんじゃねえ、十二支組の残党が、何人来るか見に行ったんだ﹂ ﹁えッ﹂ ﹁お前も知ってるだろう。ひと頃江戸を荒らし廻った十二支組、元は弱い者いじめをする悪侍やならず者を懲こらすつもりで、十二人の仲間が、銘々の干え支とに因ちなんで、身体に十二支を一つずつ文ほり身ものしたんだが、だんだん仲間に悪い奴が出来て、強ゆす請り、かたり、夜盗、家やじ尻りき切りから、人殺しまでするようになり、十二人別れ別れになってしまったという話はお前も聞いているはずだ﹂ 平次が案外シンミリ話し出したので、 ﹁ヘエ――、二三年前に、そんな噂うわさがありましたね﹂ ガラッ八も引入れられて、真面目に受け答えをします。 ﹁ところが近頃妙なことがあるんだ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁ちょいちょい人殺しがあるが、検けん屍しに立会ってみると、それが大抵十二支のうちの一つを、身体のどこかに彫っているんだ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁どうだ、この謎は解るかい﹂ ﹁いいえ﹂ ﹁感心したような顔をするから、解ったのかと思うと、何だ﹂ ﹁叱ったっていけませんよ﹂ 二人はそんな話をしながら、平次の家へ帰って来ました。 銭形の平次も、全くこの時ほど迷ったことはありません。近頃頻ひん々ぴんとして行われる、性たちの悪い押込、強盗、家尻切は、どう考えても一二年この方のさばり返った十二支組の仕業に相違ありませんが、その十二支組の仲間と思われるのが、斬られたり、絞くびられたり、水へ突っ込まれたり、この間から五六人も死体になって現われたのですから、十二支組が仲間割れをしたか、それとも、第二者で義憤の士がそっと十二支組を片付けているとでも思わなければなりません。 “文身自慢の会”に、十二支組の仲間らしいのは、蛇の文身の男より外には、一人も来た様子はありません。すると、あの上半身に十二支のうち七つまで彫った美女、あの石原の利助に縛られて行った女――というのは何だろう。 平次は腕を拱こまぬいて考え込んでしまいました。 ﹁銭形の親分、ちょいとお顔を拝借さして下さいませんか﹂ 磨き抜いた格子戸を明けて、慇いん懃ぎんに小腰を屈めたのは、石原利助の子分で、清せい次じろ郎うという中年男、年は平次よりだいぶ上でしょうが、岡っ引の子分よりは商人といった感じのする、目から鼻へ抜けるような性たちの男です。 もっとも頭の良い平次には、少し勘定の合わないガラッ八がちょうどいい相棒であったように、石原の利助のような、年を取った伝統主義の岡っ引には、こうした世せさ才いに長たけた子分も必要だったのでしょう。 ﹁お、清次郎兄イか、用事は何だ﹂ と平次。 ﹁大変なことが起りました。ちょいと親分に八丁堀までお出でになるように――と、笹野の旦那様のお言葉添えでございます﹂ 藍あい微みじ塵んの七三に取った裾を下ろして、少し笑まし気に傾けた顔は、全く利助の子分にはもったいない人柄です。 ﹁どうしたというんだい﹂ ﹁ヘエ――、その、﹃種村﹄で捉つかまえた女を伴つれて来て、改めて見ると、文身が半分消えちまったんで﹂ ﹁あ、そんな事か﹂ ﹁親分はもう御存じで――﹂ ﹁知ってるわけじゃないが、大方そんな事だろうと思ったよ。実は俺もその術てを用いたんだ。背中へ藍墨で、六文銭を描いて行ったが、濡ぬれ手拭で拭くと、綺麗に消えるよ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁すると親分の文身はペテンだったんですね﹂ とガラッ八。 ﹁当り前さ、俺は親から貰った生身を汚すことなんか大嫌いだよ﹂ ﹁ヘエ――﹂ 二人の子分は全く開いた口が塞ふさがりませんでした。 ﹁すると、あの女は、何の目当てで、文身なんか描いたんでしょう?﹂ と清次郎、これはなるほどガラッ八よりは事件の急所を知っております。 ﹁それが解ってしまえば何でもないんだが、まだ少しばかり解らないことがある――笹野の旦那のお言葉なら、行かないわけにもいくまいが、俺はもう少し考えを纏まとめたいことがあるんだ。すまないが清次郎兄イは、家うちの八の野郎を伴つれて、一足先に行ってみてはくれまいか﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁それから念のために言っておくが、女の身体を濡れ手拭でよく拭いた上、髪を解いて頭の地を見てくれ、頭の地に何も変ったことがなきゃア、あの女に用事はないが、万一あの頭に曰いわくのある女なら、逃がさないようにって、石原の兄あに哥きへそう言ってくれ﹂ ﹁ヘエ﹂四
二人の子分――清次郎とガラッ八は、宙を飛んで八丁堀へ駆け付けました。 与より力き、笹野新三郎の役宅へ飛込んでみると、女はまだ町奉行所には送らず、庭先に筵むしろを敷いて、裸はだ蝋かろ燭うそくの下で、身体を拭かれております。 ﹁不届きな女だ。文ほり身ものなんぞ描きやがって、なんて事をするんだ﹂ 四十を越した石原の利助が、濡れ手拭で、若い女の肌を拭いているのは、あまり結構な図ではありません。 後ろ手にほんの形ばかり縛られた女は、灯ほか影げに痛々しく身をくねらせて、利助の荒くれた手に、遠慮会釈もなく凝ぎょ脂うしを拭かせております。 左には、瞬く赤い灯ひ、右上からは、青白い月、女の顔も肌も、二色に照らし分けられて、その美しさは言いようもありません。赤い灯に照らされた方は、軽い苦悩に引き歪ゆがんで、少し熱を帯びたように見えると、青い月に照らされた方は、真珠色に光って、深沈としてすべての情熱が淀んで見えます。 笹野新三郎は、さすがに見るに忍びないか、面おもてを反そむけて月を眺めております。小者、折助手合は、物の隅、建物の蔭などから、好奇に燃える眼を光らせて、この半裸体の女の、不思議なアク洗いを見物しておりました。 ﹁恥っ掻きな女だ、何だってまた、こんな馬鹿な事をしたんだ。早く言うだけの事を申上げてしまって、旦那様の御慈悲を願え﹂ ﹁…………﹂ ﹁お前は、あの蛇の文身の男を知っているだろう、あれは十二支組の者と睨んだが、どこにいる何という者だ﹂ ﹁…………﹂ ﹁フーン、物を言わないつもりだな、それもよかろう。自慢じゃねえが、俺は少しばかり腕が強いんだぜ。幸いお前の文身を洗い落すついでに、一と皮剥はいでやろうじゃないか、石原の利助を三助にするなんざア、お前にとっちゃ一代の晴れだ﹂ 利助の左の手が女の丸い肩に掛ると、右手に持った濡れ手拭が、恐ろしい勢いで女の背から、肩から、腕を摩擦し始めました。 ﹁あっ﹂ 身をねじ曲げて、もがく女。 ﹁えッ、動くと当りが強いぞ﹂ ピシリと肩に鳴る利助の掌て。 女の肩から腕から背へかけての皮膚――羽二重のような美しい皮膚――は、利助の恐ろしい力に擦り剥かれて、見る見る血がにじみ出して来ました。 ﹁ウーム﹂ 強情に堪える唇から、ゼイゼイ漏らす息に伴つれて、破れた笛を吹き続けるような、無むざ慙んな悲鳴が、ヒー、ヒーと断続します。 ﹁あ、これ利助――﹂ 新三郎は見兼ねて手を挙げましたが、 ﹁旦那、放っておいて下さい。こうでもしなきゃア、素直に口を開く女じゃありません。――野郎、黙って見ていずに、塩でも持って来い﹂ 利助は、振り返ってもう一人の子分にそんな事を言います。 ちょうどそこへ、ガラッ八と清次郎が飛込んで来ました。 ﹁平次親分は後から参りますが、その前に女の髪を解いて頭の地を見て下さいって言いましたよ、頭の地に何にもなきゃア、ただの女だが、何か曰いわくがありゃ大事な女だと言いましたよ﹂ とガラッ八、自分の親分は予言者のように心得ているだけに、こう言う声も何となく誇らしく響きます。 ﹁よしッ﹂ 利助は案外素直に答えて、女の乱れかかった髪の中から、元もと結ゆいを探しました。子分に鋏はさみを持って来さして、嫌がるのを無理に切ると、丈たけなす黒髪が、サッと手に絡んで水のごとく後ろに引きます。 ﹁えッ、ジタバタしたってどうにもなる場合じゃねえ、静かにしろ﹂ 女の頭を膝ひざの間に挟むように、乱れ髪を掻き分けて、蝋燭の火を近づけた利助、何を探し当てたか、 ﹁あッ﹂ とたじろぎました。とたんに、蝋燭が斜めになって、蝋涙がタラタラと女の頬へ。 女は熱いとも言わず、凄せい婉えんな瞳を挙げて、世にも怨めしそうに、利助の顔を見上げました。 ﹁どうした利助﹂ 新三郎も思わず縁側から降り立ちました。蝋燭の灯を中心に、女の頭の上に顔を集めると、濃い黒髪の地に、藍色に描かれたのは、紛れもない一匹の鼠の文身。 ﹁お、お﹂ 驚く新三郎の顔へ正まと面もに、 ﹁馬鹿にしちゃいけねえ、十二支組のお珊さん姐あね御ごだ、臭い息なんか掛けると罰ばちが当るよ﹂ 桃色の啖たん呵かが、月下へ虹のごとく懸ります。五
その晩、銭形の平次が八丁堀へ駆け付けた時は、笹野新三郎の役宅は上を下への大騒動でした。 十二支組の女首領で、頭の地へ鼠の文ほり身ものをしているお珊が誰の手を借りたか、見事に縄を切って逃げ出してしまったのです。 ﹁平次、遅かった。大変な事になったぞ﹂ と笹野新三郎。さすがに役目の手前、奉行所へ送らずに自分の役宅から逃げられたでは申し訳が立ちません。 ﹁旦那、あの女が十二支組のお珊とわかれば、かえって筋が判はっ然きりして来ました。御心配には及びません﹂ 平次は大して驚いた様子もなく、いつもの平静な調子で、お珊が脱けたという縄の切目などを見ております。 ﹁お前は何もかも判っているようだが、少し話してみてはくれまいか﹂ ﹁ヘエ――、何にも判っているわけじゃございませんが、これだけは確かでございます、十二支組の残党で、生き残っているのが、鼠の文身をしているお珊と、蛇の文身をしている巳みの之き吉ちと、猪いのししの文身をしている亥いた太ろ郎うと三人だけですが、その三人が、何か命がけの争いをしているらしゅうございます﹂ ﹁…………﹂ ﹁とにかく、お珊の隠れ家だけでも、すぐ突きとめて参りましょう﹂ ﹁どこへ行くつもりだ﹂ ﹁なアに、あれだけの十二支を女の肌に描くのは、絵にしたって心得がなくっちゃ出来ません。わっしの背中へ六文銭を描いてくれた、人形町の彫ほり辰たつの顎あごを探ったら、大方女の住すみ家かの当りが付きましょう、御免﹂ 平次はフラリと八丁堀の役宅を出ました。人形町までは、若い平次の足では本当に一と走りですが、彫辰へ行って聞いてみると、さて、思ったように簡単には埒らちがあきません。 ﹁そんな新しん造ぞが来ましたよ。親分が六文銭を描かせて、お帰りになってすぐ後でしたが、何でも、お茶番をやるんだから、腰から上へ、七つだけ十二支を描いてくれ――とこういう註文じゃありませんか、断る筋のものでもありませんから、二た刻ばかりかかって念入りに描いてやりましたよ、――町ちょ所うどころは知りません、あんまり綺麗な女だからって、若い者が後で騒ぎましたが、この辺で見たことのない女で探しようがありません。だがね、親分、絵を描いただけでさえ、あんなにいい心持なんだから、こちらから金を出しても、あの羽二重のような肌へ、存分な図柄で彫ってみたいと思いましたよ﹂ 彫辰はこんな事を言いながら、名人らしく、蟠わだかまりもなく笑っております。 少し大きい口を利いて、笹野新三郎に別れて来た平次は、しばらく去りもあえず、彫辰の戸口で唸っておりました。六
話は少し前後しますが、誰やらに縄を切り離されて、そっと物置から連れ出されたお珊、少し痛む身体を我慢して、導かれるままに、そっと裏門を抜け出しました。ほんの一二町行くと、とある路地から、小手招きする者があります。疲れ果てたお珊は、それを疑う気力もなく、フラフラと入って行くと、突き当りは、ちょっとしたしもたや、開け放したままの入口を入ろうとすると、後ろからパッと飛付いて横抱きにしたものがあります。 ﹁あッ﹂ と驚く隙もありません。漸ようやく解いてもらった縄をもう一度掛け直したばかりでなく、今度は念入りに猿さる轡ぐつわまで噛ませて引摺り上げます。こんな事をするくらいなら、最初から縄付のまま引張り出して来ればいいはずですが、それでは人目に立つとでも思った細工でしょう。 奥へ担ぎ込まれて、投ほうり出すように引据えられたお珊、思わず四あた方りを見廻すと、目の前に坐っているのは細面に青あお髯ひげの目立つ、ちょっと凄い感じのする若い男。 ﹁お珊、久し振りだなア﹂ 少し脂やに下さがりに銀ぎん煙ぎせ管るを噛んで、妙に含蓄の多い微笑を送ります。 ﹁あッ、お前は亥い太た――﹂ 驚くお珊、こう言ったつもりですが、猿轡を噛まされておりますから、もとより声は出ません。恐ろしい苦痛を忍んで、わずかに負けじ魂の眼を光らせます。 ﹁ウ、フ、思い出したか、どうだお珊、お前めえと俺との間には、まだ済まない勘定があるはずだ。今晩は一と思いにそれを決めようと思って伴つれて来たんだ。猿轡を噛ませちゃ気の毒だが、大きい声を出されると厄介だ。少しの間我慢をしてくれい。何? お前は怒っているのか、――ハ、ハッハッ、猿轡が気に入らないんだろう、よしよし解いてやる、その代り、間違っても大きい声を出すと、一と思いに芋刺しだよ﹂ 亥太郎はそう言いながら、立ち上がってお珊の猿轡を解きました。もっとも、同時に脇差を一本、縛られたままのお珊の膝の前へ置くことを忘れるような男ではありません。 ﹁さア、これでよかろう。とにかく、あの八丁堀の組屋敷からお前を助けて来たんだ。俺はお前のためには恩人だ、少しは素直に言うことを聞いてくれるだろうな﹂ 周あた囲りには誰もいません。親分に遠慮して皆んな外へ出てしまったのでしょう。亥太郎の執念深そうな青い眼だけが、お珊の美色に絡み付くように、その顔から、頸筋から、縛られた胸を見詰めております。 ﹁お珊、手っ取り早く言おう、俺とお前は昔の仲間、三年前に別れ別れになって、今は十二支組もあるわけはねえが、俺はどうもお前が忘られねえ……内々様子を探ると、お前は巳之吉と夫婦みたいに暮しているようだが、ありゃお前悪い料りょ簡うけんだぜ、巳之はあれから身を持ち崩して、泥棒、家やじ尻りき切り、人殺しまでやるそうだ、言わば十二支組の面汚しさ。そんな悪い人間はあきらめて、俺のところへ来るがいい、近頃商法が当って、金もだいぶ出来たから、お前に不自由させるようなことはねえつもりだ﹂ ﹁お黙りッ﹂ ――お珊はたまり兼ねてこう言いました。 ﹁何?﹂ ﹁黙って聞いていりゃ何だとえ、巳之さんは泥棒や人殺しをするから、別れろッて、――馬鹿も休み休みお言いよ、泥棒や人殺しはお前の方じゃないか、その上、昔の十二支組の者が、自分の素姓を知っているのが恐ろしさに、お前は、仲間の者を片っ端から殺して歩くっていうじゃないか。誰がそんな鬼のような奴の言うことを聞くものか。私は十二支組の大おお姐あね御ごでお前は一番の新米の亥太郎じゃないか、馬鹿も休み休み言わないと承知しないよッ﹂ ﹁少し声が高いぞ女、これが見えないか﹂ 亥太郎はドギドギするのを取上げて、お珊の胸へピタリと付けました。 ﹁さア、殺しておくれ、殺されたって、お前なんかの――﹂ 半分言わせず、亥太郎は飛付くように、もう一度猿轡を噛ませました。 ﹁えッ、やかましい女だ、もう少し小さい声で物を言え、野中の一軒家じゃねえぞ﹂ ﹁…………﹂ ﹁しばらく考えさせてやる。明日になっても強情を張ると、お前ばかりか巳之吉の命はねえぞ﹂ ﹁…………﹂ ﹁俺はあいつの巣を見届けているんだ、ちょいと笹野の旦那に教えてやりゃ、獄門台に上る野郎だ﹂ お珊の美しい眼が、 深しん怨えんと憤ふん怒ぬに燃えるのを亥太郎は面白そうにいつまでもいつまでも眺めております。七
﹁親分、判った﹂
その翌日の夕刻、ガラッ八は転がるように平次の家へ飛込んで来ました。
﹁何が判った﹂
﹁情けねえな親分、しっかりしておくんなさい。一日一と晩あっしは寝ずに働いたんだ﹂
﹁ガラッ八、俺は寝ずに考えたんだ﹂
﹁考えたってこれが判るわけはねえ、足の裏に文ほり身もののある人間は親分――﹂
﹁シーッ、小さい声で言え﹂
﹁三人で手分けをして、八丁堀から両国まで、銭湯という銭湯を一軒ずつ歩いたんだ。どこの番台で聞いても、足の裏に文身をしている人間なんか、見たこともねえ――って言いましたぜ﹂
﹁それじゃ、わかったと言うのは何だ﹂
﹁どっこい話はこれからだ。一日一と晩歩き廻って、すっかり汗になって、町内の銭湯へ行って、何心なくその話をすると、――どうだい親分、灯台下暗しだ、この町内にあるぜ――足の裏に文身をしてるのが﹂
――ガラッ八の声は物々しく低くなります。
﹁誰だ﹂
﹁驚いちゃいけませんよ、石原の利助親分の一の子分、あの清次郎――﹂
﹁何、何だと﹂
平次はこの時ほど仰天したことはありません。それから笹野新三郎の役宅に飛んで行って、一刻ばかり密談をすると、何気ない様子をして、清次郎を呼出させました。
まさか悪事露顕とも知らず、ノコノコやって来た清次郎を平次とガラッ八と二人で取って押えるのに、どんなに骨を折った事でしょう。縄をかけて、足の裏を見ると、ちょうど土踏まずのあたりに、ほんの一寸五分ばかりの小さい猪が文身してあったのです。弁解がましい事を言うのをそのままにしておいて、清次郎の家へ駆け付けてみると、二三人の子分が、お珊を縛り上げて、責めさいなんでいる最中、バタバタと縛り上げて、事情は一瞬の間に解決してしまいました。
十二支組の一人、亥太郎が、自分の悪事の妨げになるので、素姓を知った昔の仲間を片っ端から殺しましたが、お珊の美色に未練があったばかりに、とうとう最後の二人で躓つまずいてしまったのです。これだけの細工をしながら、一面は年恰好まで変えて、利助の子分として分別臭い顔をして来たので、どうしても捕まらなかったのは無理ないでしょう。
巳之吉の隠れ家もすぐわかりました。これも亥太郎の手込めに逢って、九死一生の危ういところを救われ、平次の取りなしで少しばかりの罪はそのまま流してもらいました。
巳之吉が“文身自慢の会”へ出たのは、日蔭の身ながら、あの見事な蛇の文身が見せたかったためで、お珊はそれを察して彫辰に十二支を描かせ、“文身自慢の会”を騒がして、男の危急を救ったのでした。
平次は十二支組の秘密を読むことが出来ないために、随分長い間苦労しましたが、お珊の鼠が頭の地にあり、巳之吉の蛇が腹に巻き付いているのを推おして、亥太郎の猪は足の裏にあるに相違ないという結論に到達したのでした。一つは十二支組の文身が、悉ことごとく人目に付かぬところにあったのから思い付いたわけです。
文身発達史の最初の頁ページに、こうしたロマンスもあったということを話すのが、この物語の目的です。巳之吉とお珊が、平次の情けで目出たく夫婦になったことや、正業に就いて長生きをしたというような事は毛頭ここへ書くつもりはありません。