一
﹁親分、変なことがあるんだが――﹂ ガラッ八の八五郎は、大きな鼻の穴をひろげて、日本一のキナ臭い顔を親分の前へ持って来たのでした。 ﹁横町の瞽ご女ぜが嫁に行く話なら知ってるぜ。相手は知らないが、八五郎でないことは確かだ。今さら文句を言ったって手遅れだよ八。諦あきらめるがいい﹂ 銭形平次は無ぶし精ょう髯ひげを抜きながら、ケロリとしてこんなことを言うのです。お盆過ぎのある日、御用がすっかり暇になって、涼みに行くほどのお小遣いもない退屈な昼下がりでした。 ﹁冗談じゃありませんよ。横町の瞽女はああ見えても金持だ。こちとらには鼻も引っかけちゃくれませんよ、へッへッ﹂ ﹁嫌な笑いようだな。さては一と口申込んで小気味よく弾かれたろう﹂ ﹁へッ、弾はねたのはこっちで﹂ ﹁うまく言うぜ﹂ ﹁ところで親分変な話の続きだが――﹂ ﹁そうそう変な話を持って来たんだね。瞽女の嫁入りの話でないとすると、叔母さんがお小遣いでもくれたというのか﹂ ﹁交まぜっ返しちゃいけません。この手紙ですよ、親分﹂ 八五郎は懐中から一通の手紙を出すと、畳の上を滑らせるように、平次の前へ押しやりました。 ﹁何? 手紙﹂ ﹁達筆で書いてあるから、よくは読めねえが、おおよその見当は、二千両という大金を、この春処刑になった大泥棒の矢の根五郎吉が、このあっしに形見にやるという文句だ。手紙を出した主は五郎吉の弟分で、兄よりも凄いと言われた彦ひょ徳っとこの源太――﹂ ﹁お前へもそんな手紙が行ったのか、八﹂ 銭形平次の声は急に緊張しました。 ﹁すると、親分は?﹂ ﹁知っているよ。いや、知っているどころの騒ぎじゃない。俺のところへもそれと同じ手紙が来ているんだ﹂ ﹁ヘエ――﹂ ﹁その二千両は、お旗本の神こう津づう右きょ京う様が預かった大公儀の御用金だ。神津右京様は二千五百の大身だが、日頃豊かな方でないから、二千両はおろか差迫っては二百両の工くめ面んもむずかしい。御預り御用金を、少しの油断で矢の根五郎吉に盗まれ、腹を切るか、夜逃げをするか、二つに一つという大難場だ。――もっとも、矢の根五郎吉はすぐ捉つかまった。俺の手柄と言いたいが、それは神津右京様の御総領吉弥様の働きと言ってもいい。――吉弥様は十四という御幼少だが、根が悧りは発つの方で、一と目泥棒を見てよくその癖を覚えていて下すった。右の足が少し短い上、声に癖がある――不思議な錆さびのあるちょっと響く声だ﹂ ﹁…………﹂ ﹁矢の根五郎吉はわけもなく捉まったが、伝馬町の牢同心が腕に縒よりをかけて責め抜いても、二千両の隠し場所を白状しない。骨が砕くだけるまで強情を張り通して、とうとう獄門になったのは二た月前だ。その矢の根五郎吉が命にかけて隠しおおせた二千両の金を、弟分の彦ひょ徳っとこの源太が、五郎吉を縛った俺やお前にくれるというのは可お怪かしいじゃないか﹂ ﹁そうですかね﹂ ﹁彦徳の源太の手紙には何とあったんだ﹂ ﹁――十三日の晩、小こび日な向たの竜りゅ興うこ寺うじ裏門まで行ってみろ――と書いてあります﹂ ﹁俺のは十五日だ。――今日は十二日か、お前は明日の晩じゃないか、行ってみる気か﹂ ﹁どうしたものでしょう、親分﹂ ﹁俺はツイ今しがたまで、行くつもりはなかった。世の中にはこんな手紙を書いて、岡っ引などをからかいたがる物好きな馬鹿がうんといる。これもその一人だろうと思っていたが、お前にまで呼出しが来るようじゃ油断がならねえ。――俺は行ってみることに決めたよ、八﹂ ﹁それじゃあっしも行ってみますよ。二千両の目腐れ金は欲しかアねえが、相手の仕掛けが見ておきてえ﹂ ﹁たいそうな勢いだな﹂ ﹁なアにそれほどでもありませんがね﹂ ガラッ八はすっかり面白くなった様子です。二
翌あくる日。――飛んで来たガラッ八。 ﹁大変ッ、親分﹂ ﹁サア来た。今日あたりはそいつが来るだろうと、皿小鉢を片付けて待っていたんだ﹂ 平次は相変らず落着き払って笑っております。 ﹁関口の太助が殺されましたぜ﹂ ﹁何?﹂ 顔は新しいが、野心的で戦闘的な太助――かつての矢の根五郎吉を挙げるとき、平次に力を協あわせて働いた若い御用聞の一人が殺されたというのは容易ならぬことです。 ﹁滅茶滅茶に縛った死骸が、関口の大滝の下で揚がったんだ。行ってみて下さいな。親分が行くまで、指をささせないようにしてあるんだから﹂ ﹁よし、行ってみよう﹂ 平次は仕度もそこそこ、八五郎と一緒に飛びました。神田から関口までは近くない道ですが、八五郎はこんなことには馴れたもので、馬のようによく駆けます。 現場へ行ったのはもう昼頃、野次馬は一パイにたかっておりますが、幸いまだ検けん屍し前で、殺された太助の子分の石松が、町役人と一緒に筵むしろを掛けた死骸を護っております。 ﹁どうした石松兄あに哥い﹂ ﹁あ、銭形の親分。――とんだことになりました。あっしは口く惜やしくって口惜しくって。この敵かたきを討って下さい﹂ 石松はポロポロ涙をこぼしながら、筵をはねのけてくれます。 ﹁どれどれとんだ事だったな﹂ 平次は死骸の横に廻って丁寧に拝んだ上、ザッと全部の様子を見渡し、それから恐ろしく念入りに部分部分を見みき窮わめて行くのでした。 ﹁容易のことで手てご籠めにされる親分じゃありませんが﹂ 滅茶滅茶に取乱した死骸から顔を反そむけて、石松はまた涙をこぼすのです。 全く関口の太助は立派な御用聞でした。まだ三十代の若盛りで、腕っ節も智恵も人並にすぐれ、少し向う見ずで軽率ではあったにしても、悪者の罠わなに陥おちて、手籠にされるような男ではなかったのです。 死骸には斬り傷も突き傷もありませんが、頭から手足へ打撲傷だらけで、それが紫色になっているところを見ると、息のあるうちに拵こしらえた傷でしょう。平次の馴れた眼からは、打撲傷がどんなにたくさんあろうとも、命を奪ったのは水で、身動きもならぬように縛った上、水の中へ抛ほうり込まれたものに間違いもありません。 ﹁重りが付いてあったんだね﹂ ﹁その石が抱かせてありましたよ﹂ 石松は死骸の傍に転がされた、沢たく庵あんの重おも石しほどの石を指します。 胸から首だけは縄を解いてありましたが、腰から下はまだそのままになっていたので、平次は丁寧に縄をほどき始めました。結び目は至って緩ゆるく、俗に機はた織おり結むすびというので、身体の傷は想像以上に滅茶滅茶です。肩から首筋額へかけての傷のうち、その幾つかは棒か竿で突いたような跡でしょう。左右の手の爪が剥はがれているのも痛々しい限りです。 ﹁何という事をするのだろう﹂ 平次も思わず悲憤の唇を噛みました。 縄を解いて行くに従って、その縄と死骸の着物の間から変なものが落ちて来ました。拾い上げるとそれは、庭石の蔭や井戸端や石垣の間などによく生えている虎ゆき耳のし草たの美しい葉と小さい白い花で、平次はそれを紙に挟んで懐中へ入れながら、四あた方りを見廻しましたが、その辺には虎耳草など一つもありません。三
石松の話で、関口の太助も変な手紙に誘われて出たと判りました。いずれこの事件は、神津右京の屋敷と、盗まれた二千両の御用金に関係していることでしょう。真相を見窮めるためには、そこから手た繰ぐって行かなければ――と平次は考えたのです。 小日向の神津の屋敷へ行くと、至って快く通してくれて、用人の佐久間仲左衛門が相手をしました。まだ、五十そこそこの年輩ですが、正直者らしい代り、ひどい耄ぼけようです。 主人の神津右京は四十代の働き盛り、長年の心願が叶かなってさいしょに付いたお役目が上野東照宮の修覆係でした。一世一代の晴れ仕事と意気込んでいると、ある夜厳重な締りを外から開けて曲くせ者ものが忍び入り、御預りの二千両の御用金を奪い去ったのです。 その二千両の小判にはいちいち極ごく印いんが打ってありますから、そのままに通用しませんが、ともかく神津右京にとっては家にも身にも代え難き大事件で、この二十日までに手に戻らなければ、本当に腹でも切って申し訳をする外はなかったのです。 その日は主人の神津右京は、金策のため上かず総さの知行所へ行って留守。用人の佐久間仲左衛門、代って平次と八五郎に応対しました。 ﹁御用金は奥の御居間の床の間に、注し連めを張ってお供え申しておいた。盗賊の入ったのは真夜中でござろう。二重三重の締りを、外から何の苦もなく開け、千両箱を二つ持出したのは人間業とも思えない。多分これこそ、柏手を二つ三つ打つと、どんな錠でも開くという、矢の根五郎吉とやらの仕業であろう。現に夜中隣室の物音にフト眼を覚した若様が、そっと起きて縁側へ出て見られると、右足の不自由な覆面の男が逃げるところであったと申す。声を掛けると、振り返って無礼にも、﹃馬鹿奴めッ﹄と言ったそうだが、その声は錆さびのある、不思議な響を持っていたということじゃ――﹂ 仲左衛門は少しくどくどとこう説明するのです。この話は今までこの人の口から幾度くり返して聴かされたことでしょう。 平次はもう一度念のためにその部屋を見せて貰った上、戸締りの工合も調べ直しましたが、外からコジ開けた様子もなく、ただ上下の桟さんの輪わか鍵ぎのあたりと、錐きりで小さい穴を開けた跡があります。平次は戸を閉め切って内外からその穴の工合を見ましたが、ただこれだけの穴で、三重の締りを開けるのは、ほとんど不可能で、﹁泥棒は外から入ったぞ﹂と教えているだけの細工とも思われます。本当に柏手を二つ三つ打って、苦もなく八重の締りを開く、奇蹟的な術を持った賊ででもなければ入れる場所ではありません。 その足の不自由なのと声の錆で、矢の根五郎吉と見当をつけ、平次と太助が力を協あわせて苦もなく縛りましたが、この手柄の蔭に、重大な失策が潜んでいるような気がして、我ながら不思議な自責を感じているのです。 神津右京の正室は十四になる総領の吉弥を遺のこして早く死に、今は雇人あがりの妾めかけお江野というのが万事世話をしております。お江野には五つになる京之助という子がありますが、お江野と吉弥の間は、世に謂いう継まましい仲でありながら何の隔たりもありません。 お江野は三十二三の美しい中年者。 ﹁親分、なにぶん宜よろしく頼みます﹂ 言葉少なにそう言われると、平次も何かしら、一と肌ぬぎたい心持になるのでした。下げせ賤んで育ったにしては、妙に臈ろうたけた賢い女です。 お江野の妹のお鳥というのが、出戻りになって、半年ほど前から神津家に引取られ、女中頭のように立ち働いておりますが、これは姉の上品とは打って変って、滴たれそうな愛あい嬌きょうと、どんな仕事にも向きそうな良い身体と、そして少しばかりお目出たい性格を持っているらしい年増でした。 ﹁あら銭形の親分さん。――八五郎さんも御一緒ね。お願い申しますよ。本当にこのお邸に万一のことがあれば、第一私の行きどころがなくなるじゃありませんか﹂ そう言うお鳥です。 ﹁心配するなってことよ。お鳥さんなら引取り手はうんとあるぜ、現にここにも一人――﹂ 平次はそう言って、後ろにぼんやり突っ立っている八五郎を顎あごで指すのでした。 ﹁あら、本当。嬉しいわねエ八五郎さん﹂ そう言って、よく肥った白い身体を、恐縮しきっている八五郎へもたれかけるお鳥です。 若様の吉弥は十四歳というにしては、背せいも智恵も伸び切って、何となく逞たくましい感じのする少年でした。 ﹁平次か、御苦労だな﹂ そう言った如才なさ。神津一家に蔽おおい冠かぶさる災厄を、この名御用聞の手で取払って貰いたさで一杯だったのでしょう。 ﹁もう一度あの晩の事を伺いますが﹂ ﹁何なりと﹂ ﹁曲者は千両箱を持っておりましたでしょうか﹂ ﹁チラと見ただけで、よくは判らなかったが、何にも持っていなかったと思う。私がとがるめと、﹃馬鹿奴めッ﹄と言い捨てて、庭に飛び降りた。声が祭さい文もん語がたりのように錆びていたのと、足の悪いのはすぐわかったが、庭に飛降りたはずの曲者は、すぐ姿を消してしまって、多勢で捜したが、どこへ隠れたかわからなかった。逃げるにしても、あの通り塀は高いのだが――﹂ ﹁庭を拝見いたします﹂ ﹁さアさア遠慮なく﹂ 庭下駄を借りて、下に降りた平次は、植込みから縁の下まで覗きましたが、人間が一と晩隠れているような物蔭があろうとも思われません。吉弥が言った通り、塀は一丈あまり、容易に飛越せるはずもなかったのです。 ﹁その晩、月は?﹂ ﹁朧おぼ月ろづきであったよ﹂ 後ろからつづく吉弥は応えました。 ﹁ところで、お庭に虎ゆき耳のし草たはないでしょうか﹂ ﹁虎耳草というと?﹂ ﹁赤い茎くきに丸い毛のある葉が出て、白い小さい花の咲く――井いど戸ぐ草さとも言いますが﹂ ﹁庭にはないが、あ、裏の三日月の井戸には沢山ある﹂ ﹁それは?﹂ ﹁小こび日な向た第一の名水だよ﹂ ﹁拝見出来ましょうか﹂ ﹁いいとも﹂ 案内されたのは、神津家の裏門の外。ザッと屋根をかけた立派な井戸で、ザラの人には汲ませないために、釣つる瓶べは外してありますが、覗くと山の手の高台の井戸らしく、石を畳み上げて水肌から五六間、苔こけと虎耳草が一パイ生はえております。 ﹁ひどく荒らしてありますな﹂ ﹁子供たちが悪いた戯ずらをするから。――それで釣瓶も外はずしてある﹂ 吉弥は自分はもう大人の部に入っているような口をききます。四
﹁ところで、内密に伺いますが――﹂ ﹁何だ﹂ 吉弥は平次の物々しい顔色を読んで、四あた方りを見廻しました。 ﹁お江野様は、若様にどのようになさいます――こんな事をお訊ねするのは、失礼でございますが﹂ ﹁お江野か。――良い人だよ、たいそう親切にしてくれるし﹂ ﹁それからお妹のお鳥さんは?﹂ ﹁あれは面白い女だ、まるで芸人のようで﹂ 吉弥は何やら思い出し笑いをしているのです。 ﹁御用人は?﹂ ﹁佐久間は若年寄だよ。――年はまだ若いくせに、物忘れがひどいし、老人のように引っ込み思案だから、私は若年寄と綽あだ名なをつけたよ。面白かろう﹂ ﹁外に?﹂ ﹁若党の三次、爺やの熊吉、それから婢はしためが二人﹂ ﹁有難うございます﹂ 平次はていねいに礼を言って、奉公人の部屋へ下がりました。若党の三次は二十七八のちょっと良い男。――頭の空っぽな美男によくある、髷まげの刷はけ毛さ先きや、腹掛けの皺しわや、煙草入の金具ばかり気にするといった男。爺やの熊吉は、馬まぐ糞そた茸けが化けて、仮に人間のヒネたのになったといった老人です。 門を出ると、 ﹁八、関口の子分衆と、下っ引を五六人集めて、あのお妾姉妹と、奉公人達の身許をすっかり洗ってくれ。詳くわしいほどいい﹂ 平次は八五郎に言い付けました。 ﹁親分は?﹂ ﹁俺はもう一度大滝へ行ってみる。あの辺に大八車か何かあればしめたものだが﹂ 平次のこの予想は見事はずれました。八五郎に別れて大滝へ引返した平次、その辺を隈くまなく捜しましたが、大八車はおろか、玩おも具ちゃの風車もそこにはなかったのです。 その日は八方に飛ばした下っ引の報告を待って、空むなしく暮れました。八五郎はそれっきり顔を見せず、彦ひょ徳っとこの源太に呼出される前、一応の注意をしておくべきであったと思いましたが、その運びもつかぬうちに、夜は次第に深くなります。 ﹁親分ッ﹂ 表の格子戸を押し倒して、八五郎が飛込んで来たのは、子ここ刻のつ︵十二時︶近い頃でした。その刻限まで、寝もやらずに待っていた平次はこの時ばかりは冗談を言う余裕もなく飛出しざま、 ﹁八、帰って来たか﹂ 手を取って引上げぬばかり、後ではさすがにはしたないと気が付いたか、女房のお静が持って来た手てし燭ょくの灯の中に苦笑しております。 ﹁驚いたの、驚かねえの――﹂ ﹁どうした、八。無事だったのか﹂ ﹁無事は無事だが、驚きましたよ、親分﹂ ﹁関口の太助を殺した相手だ。油断をするととんだことになる。出かける前に、お前によく言い含めておくんだったよ。でも間違いがなくて何よりだ。どんな事があったんだ。事詳しく話してみろ﹂ ﹁あの手紙の通り、正亥よ刻つ︵十時︶竜興寺の裏門に立っていると、――来ましたよ﹂ ﹁何が?﹂ ﹁大きな男、黒い単ひと衣えを着て、顔は隠している。風呂敷でも冠かぶっていたんでしょう。――なんにも言わずに小手招ぎをするから、しばらく神妙に跟ついて行ったが、どうも気になってならねえ。どう考えてもこの野郎は知ってる人間だ﹂ ﹁…………﹂ ﹁相手は人をなめた野郎で、先に立って気取った恰かっ好こうで歩いてやがる。畜生奴めッと思うと、俺はもう飛付いていましたよ﹂ ﹁馬鹿だなア﹂ ﹁覆面を引ひっ剥ぱぐと、その下から現れた顔は、――親分の前だが、驚いたの驚かないの――﹂ ﹁誰だ、そいつは?﹂ ﹁彦ひょ徳っとこですよ。――彦徳の面めんを冠っているんだ﹂ ﹁フーム﹂ ﹁それから取っ組み合いが始まったが、恐ろしく強い野郎で、その上匕あい首くちを持ってやがる。切きっ尖さきを除よけるはずみに、鼠ねず坂みざかを逆さか落おとしだ﹂ ﹁お前が落ちたのか﹂ ﹁正にあっしで。相手は坂の上で笑っていましたよ﹂ 八五郎はさんざんの体ていを隠すところもなく話して、あちこちの擦すり剥むきや打うち撲みを擦さすっているのです。五
関口の太助の子分と、平次の子分たちに調べさした神津家のいろいろの事が、次第に手元に集まって来ました。 それによると、神津右京は召使のお江野を妾めかけに直して、同役や上役からとかくの非難を受けましたが、人間はまことによく出来た人で、それだけにまた出世も遅く、家柄や石高に似ず、長いあいだ無役で貧乏に暮しております。 お江野は下賤に育った女ですが、心掛けはともかく不思議に賢い性たちで、二千五百石取の奥様に直しても少しも可お笑かしくはない女です。継まま子この吉弥にもよく、内外の噂うわさはそんなに悪くありません。 妹のお鳥は、もと見世物小屋にもいたことがあり、一度は亭主も持ったそうですが、喧嘩別れをして姉のところへ転げ込んだほどで愛嬌もあり人付きは滅めっ法ぽう良い方ですが、何かしら評判のよくないところがありました。下品で、身勝手で、浮気っぽくて、物事に裏表のある関係でしょう。 吉弥は十四にしては出来過ぎたほう。弟の京之助は五つで何にもわからず、若党の三次は房州の者で、おしゃれで、金遣いの荒い渡り者。爺やの熊吉は秩ちぢ父ぶの奥から出て来た、山男のような親爺です。 これだけ判ると、何の変哲もない調べの中から、平次は何やら呑込んだ節があるらしく、一人でうなずいて事件の発展を待っておりました。 事件の発展――それは思いも寄らぬ形で、その翌る日は江戸中を驚かしておりました。 ﹁親分﹂ 飛込んで来たガラッ八。 ﹁また大騒ぎが始まったろう、今度は何だ﹂ ﹁神津の若様が行ゆく方えふ不め明いだ﹂ ﹁何?﹂ 平次も思わず起たち上がります。 ﹁昨夜宵のうちに脱け出したっきり、今朝になっても帰って来ねえ﹂ ﹁二千両に釣られたんじゃないか﹂ ﹁あっしもすぐそう思いましたよ。あの彦ひょ徳っとこの源太の野郎が、可哀想に十三や十四の若様を誘い出したんじゃあるまいかと、大滝も鼠坂も見ましたが、影も形もねえ﹂ ﹁フーム﹂ 平次も唸うなるばかり。 ﹁気の毒なのは神津の殿様と、お江野とかいうお妾だ。邸の中は言うに及ばず、小こび日な向た中血眼になって捜し廻ったが、どこへ行ったか見当もつかねえ。――何とかしてやって下さいよ。親分﹂ ﹁俺にも判らないよ、待て待て。――少し考えてみる﹂ 平次は高々と腕を拱こまぬくばかりです。 その晩正亥よ刻つ半︵十一時︶、平次は彦徳の源太の手紙で指定された通り、小日向の竜興寺裏門前に立っておりました。 ほんの煙草の二三服ほど待つと、眼の前の月明りの中に、ヌッと立った者があります。頭の大きな黒装束、見事な恰好。 ﹁…………﹂ 黙って小手招ぎすると、平次は心得てそれに従いました。生いけ垣がきの間を通ったり、屋敷の塀について廻ったり。――前夜ガラッ八に飛付かれた苦い経験のせいか、曲者は平次からは少し離れて、不気味な沈黙を続けたまま、神津家裏門外の、三日月の井戸まで導いて行ったのです。 ﹁二千両の小判はこの井戸の中にあるよ――夜じゃ見えない、灯あかりで見るがいい﹂ ピーンと金属性の響を持った不思議な声です。曲者はそう言いながら、用意したらしい手燭と火打道具を井いげ桁たの上におくのでした。 平次、何のこだわる色もなく、ズカズカと進んで、落着き払った態度で火ひう打ちが鎌まを鳴らし、手燭の蝋ろう燭そくに点ともしました。 ﹁灯があればよく見える。千両箱が二つ、水の中にあるよ。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ﹂ 平次はその不気味な笑いを背に聴いて、手燭を取って井戸に近づきました。 チラリと灯先が曲者の顔のあたりを照らします。黒い覆面から漏れたのは、鉛色の濁った皮膚、洞うつろな眼の穴――多分それは彦ひょ徳っとこの仮面でしょう。 次の瞬間、平次は手燭を持ったまま、井戸の上へ乗り出しておりました。深い深い井戸、石を畳み上げて、苔こけと虎ゆき耳のし草たの一杯に付いた石垣の下、真っ黒な水の底の底に、そういえば何やら四角なものが沈んでいるようでもあります。もう少しよく見定めようとした平次、身体を充分に乗り出したところを、 ﹁あーッ﹂ 無意識に乗っていた板を後ろからサッと引かれて、平次の身体は真っ逆さまに井戸の中へ――。 ﹁ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ﹂ 怪けち鳥ょうのような笑いが、小日向の夜に木こだ霊まします。六
曲者――彦徳の源太は、かねて用意したらしい竹竿を手に取って、井戸の上から覗きました。中の平次が這はい上がろうとすれば、一気に突き落すだけの事です。
が、しかし、不思議な事に平次は這い上がる様子もなく、第一、落ちた時、水音も立てなかったのは何とした事でしょう。
﹁?﹂
上から、竹竿を構えてそっと差しのぞく曲者。
﹁野郎ッ、御用だぞッ﹂
その後ろからむずと組付いたのは、ガラッ八の八五郎でなくて誰であるものでしょう。
﹁八、逃すなッ﹂
井戸の中から濡ぬれた様子もない平次が這い上がって来ました。
﹁何なに糞くそッ﹂
その揉もみ合いは長くはありませんでした。曲者にどんな術があったものか、羽はが交い締じめにした八五郎の腕をスルリと抜けると、巨大な鳥のように、サッと物蔭に消え込みます。
﹁畜生ッ﹂
飛び付く八五郎。
﹁八、もういい。あの頭と足を見たろう。――相手の素姓は判っている﹂
平次はいきなり神津邸の裏門へ廻ると、拳こぶしを挙げて叩いたのです。
寝ぼけ顔を出した熊吉を叱り飛ばして、屋敷に飛込んだ平次と八五郎、おどろき騒ぐ家人を尻眼に、寝巻のまま飛び起きて来た主人神津右京の袖を掴つかみました。
﹁早く一いっ刻こくの油断もなりません。若様の御命――早く、お鳥の部屋へ御案内を願います﹂
平次の息は弾みました。
﹁何を申す﹂
神津右京、何が何やら判りませんが、平次の気組みの激しさに釣られて、お鳥の部屋へ案内する外はなかったのです。
﹁八、よいか﹂
諜しめし合せた眼と眼。サッと唐紙を開くと、八畳の奥に一人の怪人――と見たは彦ひょ徳っとこの面をかなぐり捨てた人間が、小脇に半死半生の吉弥を抱え、脇差をその喉のど笛ぶえに押し当てて、いざと言わば一と突きと構えているのでした。
﹁馬鹿ッ、何をする。姉も京之助も破滅だぞッ﹂
﹁えッ﹂
おどろく拳へ、平次の手から投げ銭が二枚、三枚つづけざまに飛びました。
ひるむところへ飛込んだ八五郎が、吉弥の身体をむしり取るのと、平次が怪人を押えるのと一緒だったことは言うまでもありません。
*
事件はその晩のうちに片付きました。
御用金の二千両はお鳥の部屋から発見され、お鳥は彦ひょ徳っとこの源太の姿のまま縄を打たれました。井戸から引揚げられて、半死半生のまま一日一と晩お鳥の部屋の押入に隠されていた吉弥は、危ないところで助けられたのです。
この騒ぎのうちに、妾のお江野は倅せがれ京之助をつれ出して夜逃げをし、一応神津右京を仰天させましたが、京之助は決して神津右京の本当の子ではなく、お江野は妹のお鳥と相談して二千両の御用金を隠し、右京を窮きゅ地うちに陥おとしいれた上、吉弥を亡きものにして、京之助に家督を継がせる魂こん胆たんをめぐらし、着々それを、実行していた事を平次に証明されて、今さら驚き呆あきれるばかりでした。
もっとも、この陰謀を企んだのは、右京が京之助を自分の本当の子でないと覚さとり、お江野を疎うとんじ始めたから起ったことで、お江野の妹のお鳥は、もと見世物小屋などを渡り歩き、力ちか業らわざにすぐれた上、声こわ色いろまで巧みだったので、喧嘩別れした亭主――矢の根五郎吉に変装して、御用金二千両を盗み出したと見せかけ、怨みのある五郎吉を刑死させたのです。
﹁矢の根五郎吉はなんにも知らなかったわけさ。――さいしょ関口の太助の死骸の縄の結び目に、女の癖があった時から俺はお江野お鳥姉妹を疑い始めたよ。縄の下に虎ゆき耳のし草たの花があったので、場所は三日月の井戸と判った。――神津家の雨戸は決して外から開けたのじゃない。柏手を打ったくらいであの桟や輪鍵はビクともするものじゃない。小こび日な向たで殺した太助の死骸を、わざわざ上流の大滝へ持って行ったのは細工すぎたが、さいしょは大八車か何かで持って行ったこととばかり思ったよ。女にあの死骸は運べまい。――ところがお鳥の前身は見世物の力業の太たゆ夫うだ。そのうえ声色の名人と知れて、何もかもわかったよ。覆面をしていたにしても、頭がひどく大きいのと、内輪に歩いていたことに気が付かなかったのは大笑いさ――何? 俺が井戸へ落ちなかったわけか。――鉤かぎ縄なわを用意して行っただけのことさ。それにしても彦徳の源太が女とは気が付かなかったよ。先の亭主の矢の根五郎吉に捨てられたのを怨んで、わざわざ細工をして縛らせたくせに、五郎吉を縛った関口の太助や、この平次が憎くてたまらないところが、あの女の不思議なところさ。女や折れた針は滅めっ多たに捨てちゃならねえよ、八﹂
平次は八五郎のためにこう説明してくれるのでした。