一
﹁お母様、泣いていらっしゃるの?﹂ よし子は下からのぞくように、母親の顔を見上げました。 ﹁いえ、泣きはしません。なんにも泣くようなことはないじゃありませんか﹂ ﹁でも、お父様の形見が一つずつなくなってゆくのが心細いって、昨日叔お父じ様へ泣いておっしゃったじゃありませんか﹂ ﹁この子はまあ﹂ 母親は顔をそむけて、そっと涙をふきました。お正月の銀座はまだ宵の口ですが、身を切るような寒い風が街の石畳の上に、後から後からと砂ほこりの渦を巻いて、悲しい事がなくとも、つい涙のしみ出るような嫌な晩でした。 三十五六とも見える、やつれ果ててはおりますが、なんとなく上品な婦人と、とってようやく十一になる、可愛らしい娘のよし子とは、街路樹の蔭にうずくまって、あかりをさけるように、こうしめっぽい話をしております。 その前には毛もう氈せんが一枚、所々破けたままの上へ、火鉢、小机、置物、目覚し時計、膳、椀、皿、古茶器、装身具、文具など、いずれも中古から大古まで、中には化けそうなのもまじえて、古道具の貧しい店をひろげ、五十位の人の好さそうな中老人が、ふところ手をしたまま、えりまきにあごを埋めて、ポツネンと坐っておりました。 ﹁そんな愚痴は言わないことにしようよ、せっかく足をとめた客も、お前さん方の泣き言を聞くと、驚いて逃げだすじゃないか、私はこの通り口銭無しでお前さん方の品をさばいてやるんだ、この上、愚痴を聞かされちゃかなわない﹂ ﹁どうもすみません、つい愚痴っぽくなって、厭いやな事をお耳にいれます、ただみたように二階を貸して頂いた上、こう品物をさばいて頂いて、本当にお礼の申しようもありません﹂ ﹁イヤ、そう改まって礼を云われるときまりが悪い。ところで今晩はこの通り寒くもあるし、客があるか無いかわからない、もしお前さん方の品が売れなかったら、失礼だが明日のお米の代は私が建てかえて上げよう、ボツボツ帰る支度をなすったらどうだね﹂ 古道具屋のおやじさんは、ひざかけの古けっとの下から、うこん木もめ綿んの財布をとりだして、チャラチャラ銅銭の音をさせております。 丁ちょ度うどその時でした。古道具屋の店先に立ちどまった二人の人影、 ﹁叔父さん、あの人形にして下さいな、まあなんて可愛いんでしょう﹂ と言うのは、直すぐそばの百デパ貨ート店メントの窓飾の中から飛出したような、可愛らしい女の子です、浅いえんじ色の外套に同じ色の帽子、いかにも健康らしい、身から体だ中にバネが入っているよう。 ﹁あの人形? あれは加奈ちゃん、古物じゃないの?﹂ というのは、どこか若々しいところのある立派な紳士です。 ﹁ヘエヘエこの人形でございますか、これは眠り人形で、これ位のになると、その辺の百貨店にもめったにございません﹂ 古道具屋のおやじさんは、よき客ござんなれと、毛糸の汚いえりまきから首をぬきだすように弁じたてます。 ﹁道具屋さん、私はこの娘こにお人形を買ってやる約束をしたんだが、この辺の百貨店と玩おも具ちゃ屋やをあさり尽しても、どうも気に入ったのが無いんだよ。けっして高い安いを言うのではない、せっかく買ってやるなら、この娘の気にいったのにしてやりたいと思って、とうとう忙しい日を半日つぶしてしまったんだ。ハハハハハハ﹂ 若い紳士は快活に、わだかまりもなくこう笑います。 ﹁とんでもない、お嬢様のお目が高いのでございますよ、これはさるお方がアメリカからお土産に買って来られたお人形で、これ位の眠り人形はめったにございません、少し身から体だを動かすと、マンマ――と泣くように出来ております、この通り――﹂ 人形を箱から出してやると、なるほど可愛らしい声で、 ﹁マンマ――﹂ と泣きます。 ﹁叔父さん、この人形にしましょうよ、ネ叔父さん﹂ 加奈子は若い叔父さんの外套にすがりついて、もう鼻を鳴らさないばかりです。 ﹁そこで値段は?﹂ ﹁十円頂きます﹂ ﹁なに十円? 少し高くはないかネ﹂ ﹁いえ、決してお高いことは申しません、新しいとどうしても五十円より下ではお求めになられない品で、それに出も確かですから、古と申しても決してお心持の悪い品ではございません――﹂二
古道具屋のおやじさんはフト後ろを振り向いて、街路樹の下に額を突き合せて涙にふけっている可愛そうな母子の方を眺めやりながら、ためらいがちに言葉をつぎました。 ﹁こんな事は申し上げていいかどうかわかりませんが――この人形ばかりは、一銭も私は口銭を頂きません、十円に売れば十円、そのままそっくり、此こ処こにおる二人の方へお渡しするのです﹂ 不思議な古道具屋の言葉に、若い紳士は思わず好奇の眼を見はりました。 ﹁というのは、こうしたわけです。この方の御つれ合いが十年間もアメリカで働いて、たいそうお金を貯めたそうで、つい三ヶ月ばかり前に、そのお金を持って不意に帰って来られたのです。十年間音信不通にしていたのにも、いろいろわけがあるそうですが、とにかく母娘の喜びは申すまでもありません、横浜まで出迎えて、久しぶりの父なり夫なりに逢った二人は、天にも昇る心地で、三人一緒に帰って来ると、桜木町の駅で後ろから自動車で追っかけて来た紳士が、この方の御主人と知り合いのようで、なんか話しこんでいられたそうですが、話しが容易に決らなかったものと見えて︵暫しばらく其そ処こまで行って来るから、駅の待合室で待っていてくれ、ほんの三十分もしたら帰って来る︶とその追っかけて来た人の自動車に乗って行ってしまったのだそうです。それからの事は、申し上げるだけでも涙がこぼれます、三十分と言ったのが、一時間たっても、二時間たっても帰らず、日が暮れても、夜が更けても帰らず、省線の終電車が出てしまったのでようやく停車場の外へ出たそうですから、その日お二人は十二時間以上も、ご主人の帰るのを待っていたわけです。それから三月、身を焦すほど待ちましたが、御主人はとうとう姿も見せません、申すまでもなく警察へも捜査願を出しました。知り合へは全部手をまわしましたし、あらゆる手段を尽して探しましたが、十年目で姿を見せて、たった一時間ばかり母子を喜ばせた御主人はそれっきり、この世界から姿を隠してしまったのです。その上にまた不思議な事がありました。それから二週間ばかりたった或日のこと、どこから誰が出したともわからぬ一つの鞄かばんが、母子の手もとへ届けられたのです、持って来たのは車夫風の男で、ほうりこむように渡して、そのまま姿をかくしてしまいましたが、その鞄というのは、御主人が横浜へ上陸した時持っていた品で、中には、手廻りの道具が少しばかり、それに、この人形が一つ入っていたのだそうです。さっそく警察へ届け出ると、警察の方も非常な意気込で、新しくまたさがして下さいましたが、矢や張はり雲をつかむようで、御主人の行ゆく方えは手がかりもありません。その内に母子の方は貯金をすっかり無くして、その日の暮しにも困るようになり、僅わずかの知合をたどって、私共の二階に同居されたのはツイ一ひと月ばかり前の事です、私が古道具屋をしているところから、持っている品を一つずつ売って上げては、ようやくその日その日をしのいでいますが、一つ一つ主人の形見の品が無くなるのは、身を切るより辛いと言っています。これもまたいたし方がございません。せめて私の露店に、御主人の持物が並んでいる間、母子二人で此こ処こに出て来て、もしや、この品を見知っている方があって、それから御主人の行ゆく方えの手がかりでも見つからないものでもないと、頼みにならない事を頼みにして、こう毎晩お二人で出ていられるので、御主人の形見の品を買われる方がある毎ごとに、私からこの話を申し上げて、念のためにお尋ねしているのです、――もしや貴あな方たは﹃松沢彦次郎﹄という者を御存じはありませんか――と。これはこの方の御主人の名前なのです。私も見らるる通りの大道商人で、志はあっても何どうすることもできません﹂ 長物語を終った古道具屋のおやじさんは、ひざ掛に目を落して、ホーッと太息をつきました。 ﹁気の毒な話だ、松沢彦次郎さんと言ったネ、なんかの折に聞込むことでもあったら、早さっ速そくお知らせして上げよう、まあまあ力を落とさずにいなさい――それはそうと今の人形だ、話を聞いては負けろとも言われまい、十円で私が買って行きましょう﹂ 若い紳士は、こう言いながら外套のボタンを外して、大きな紙入れをぬき出します。 ﹁あら叔父さん、たった十円ではお気の毒よ、二十円で買ってお上げなさいよ﹂ 加奈子は高慢な口をきいて、叔父さんの顔を振りあおぎます。鈴を張ったような瞳めには、真珠のような涙を一パイためて――。 ﹁古道具屋の言い値より高く買う客というものはないね、まあいいや、加奈ちゃんにやるお年玉だから、加奈ちゃんの気のすむようにさしてやろう﹂ 十円紙幣が二枚、紳士の指先に抜き出されて夜風にふるえます。三
﹁お母様、こんな人形を買って頂いたの、可愛らしいでしょう﹂
﹁まあ、立派なお人形ですこと、叔父さんによくお礼を申し上げて?﹂
加奈子の抱き上げた人形の見事さに、母親も思わず目を見張りました。亜麻色の毛を房々と下げて、淡とき紅い色ろの絹服を着たママー人形の可愛らしさは、誰でもほほ笑まずにはいられません。
﹁それがね姉さん、大道の古道具屋で買ったんですよ、おまけに十円というのを、加奈ちゃんのお声掛りで、二十円に買わされたんだから世話はない﹂
﹁まあ﹂
優しい母親は、二の句がつげないという様子で、娘のふところにかいいだかれている、見事な人形を眺めました。が、フト気がついた様子で、
﹁加奈子さん、一ちょ寸っとそのお人形さんをお見せなさいな、少し眼が小さいようだが、私の心持かしら﹂
母親は手をさしのべましたが、思い直した様子で弟香かし椎い六郎の顔を見ました。いかに真実の弟でも、折せっ角かく娘に買ってくれたお年玉に、けちをつけては済まないと思ったのでしょう。
﹁姉さん、私もそれに気がついていたんだ、眠り人形だから、寝かしてる時眼をつぶってるに不思議はないが、起しても半眼に眼を閉じているのはおかしい。こんな人形はたいてい起すと大き過ぎるほど大きい眼をパッチリ見開くものだが――﹂
香椎六郎も同じ疑を持っております。
﹁あらいやよ、みんなでこの人形の悪口を言っては。私お名前をつけるの、何んとしましょう、――玉子としましょうか、猫の子見たようね、――春江さんはどうでしょう、あんまり人間見たやうで変ねエ――西洋風のお名前はどうでしょう? メリーさんとしようかしら、――叔父さん、外にいいお名前はなくって?﹂
加奈子はもう他愛もありません。
﹁加奈ちゃん、一ちょ寸っとお見せな、その人形にどうも腑ふに落ちないところがある﹂
香椎六郎は、少し嫌がる加奈子の手から、お人形を取り上げて、
﹁眠り人形が眼を開けたり閉じたりする仕掛けは、眼玉の裏に針金を付けて、その先に分銅が付いているためだったね――、その分銅は丁度人形の口の奥にあるはずだ、寝かすと分銅が上るから人形のまぶたを閉じ、起すと分銅が下るから、人形のまぶたが開くようになっているわけだ。起しても半分しか眼をあかないのは、どっか損じているためではないかな――﹂
探偵癖のある香椎六郎は、お人形さんを電灯の下へ持って行って、その可愛らしい口の中を、電灯の先で見ておりましたが、
﹁なんか中に入っているよ、加奈ちゃん、ピンセットはないか。何? ある、では一ちょ寸っと貸してくれ、有難う、これでよかろう﹂
理科の時使うピンセットの先を、人形の小さい口の中に入れて、中からそっと引張り出したのは、ていねいにたたんだ一枚のパラフィン紙です。
﹁これだけの物が入っていては、眼を半分しかあかないわけだ。つまらないいたずらをしたものだな﹂
一度はポイと捨てようと思ったパラフィン紙の切れ端を何んの気もなくひろげて見ると、それは丁度銀紙と一しょに巻煙たば草こを包んである三寸四方ほどのパラフィン紙で、その中には、薄い鉛筆で、細かい字が一パイに書いてあるのです。
﹁これは大変なものだ、どれどれ、
――悪漢に欺かれて向島の或家に押し込められている、電車に近く、深い庭のある、悪漢共の巣窟だ、早く救い出す方法をとってくれ、この手紙はよし子へ土産に買って来た人形に封じ込めて、悪漢の手下の一人を買収して鞄と共に送り届ける、人形の眼が開かないようになっているから、多分気が付くだろう、悪漢共は私の署名と実印で私の財産を横領しようとしているが、私の眼玉の黒い内は決して署名しないつもりだ、――
加奈ちゃん大変だ、これはさっきの古道具屋の話した、松沢彦次郎という人から送った密書だ﹂
﹁叔父さん、どうしましょう﹂
﹁大ピラに手紙が書けなかったので、こんな細工をしたのだろう。買収した悪漢の手下の持っている安鉛筆で、西洋煙たば草こを包んだパラフィン紙へ書いたのだ――、あの人達が見付けなかったのは、紙片があまり小さ過ぎて気がつかなかったのだろう﹂
﹁叔父さん、まだそんなに遅くはないから、自動車で行きましょう、早く助けてあげないと、あの人達が可哀そうよ﹂
﹁よし行こう、とにかく、あの母子に知らせなくては……私一人で沢たく山さんだ、加奈ちゃんは家で待ってお出いで﹂
﹁嫌、私も行くわ、このお人形さんを持って﹂
加奈子は母の許しを得て香椎六郎と共にそのまま寒い街へとび出しました。
銀座へ行って見ると、夜店はとうにしまって、人通りの少い街を、刃のような空からっ風かぜが、砂塵を巻いて、ヒューヒュー吹き捲っているばかりです。
警察へきいたり、夜店の地割をする世話人にきいたり、やっと竜泉寺町の古道具屋の家をつきとめたのは、その夜ももう夜半近くなった頃でした。
幸い古道具屋は家に帰ったばかり、未だ寝ておりません、門口でつかまえて事情を話すと、これも飛立つような喜びで、
﹁そいつは大変、とにかく二人にしらせてそれから警察へ届けましょう﹂
と三人一と塊りになって、恐ろしく急な梯はし子ごを二階へかけ上ると、
﹁アッ﹂
何があったんでしょう、三人は思わず梯はし子ごだ段んの上に立ちすくんで顔を見合せました。