︻第一回︼
一
運うん座ざの帰り、吾妻屋永左衛門は、お弓町の淋しい通りを本郷三丁目の自分の家へ急いで居りました。 八はっ朔さくの宵から豪雨になって亥よ刻つ︵十時︶近い頃は漸く小止みになりましたが、店から届けてくれた呉こ絽ろの雨合羽は内側に汗を掻いて着重りのするような鬱陶しさ――。 永左衛門は運座で三才に抜けた自分の句を反芻しながら、それでも緩かん々かんたる気持で足を運んで居りました。 眠そうな供の小僧を先に帰して、提ちょ灯うちんは自分で持ちましたが、傘と両方では何彼と勝手が悪く、少し濡れるのを覚悟の前で、傘だけは畳んで右手に持ち、五、六軒並んだ武家屋敷を数えるように、松平伊賀様屋敷の側へヒョイと曲った時でした。 ﹁え――ッ﹂ まさに紫電一閃です。いきなり横合から斬りかけた一刀、闇を劈さいて肩口へ来るのを、 ﹁あッ﹂ 吾妻屋永左衛門、僅かにかわして、右手に畳んで持った、傘で受けました。刄は竹の骨をバラバラに切って、辛くも受留めましたが、二度、三度と重なっては、支えようはありません。 朔つい日たちの夜の闇は、雨を交えて漆よりも濃く、初太刀の襲撃に提灯を飛ばして、相手の人相もわかりません。 幸い、吾妻屋永左衛門、若い時分町道場に通って、竹しな刀いの振りよう位は心得て居ました。二太刀三太刀やり過したのは、そのお蔭というよりは、暗とぬかるみのせいだったかも知れませんが、兎も角も、雨合羽を少し裂かれただけで、大した怪我もなく、松平伊賀様前の、自身番の灯の見えるところまで辿り着いたのは、僥ぎょ倖うこうという外は無かったのです。 ﹁えッ、面倒﹂ 畳みかけて襲いかかる曲くせ者ものの刄やいばは、灯が見えると、一段と激しさを加えました。吾妻屋永左衛門、それを除よけるのが精一杯、が、終ついに運命的な瞬間は近づきました。 後ろすさりの永左衛門、とうの昔に高足駄は脱ぎ捨てて居りましたが、道傍の石に足を取られて、物の見事にぬかるみの中に引っくり返ったのです。 今ぞ観念と、振り冠った曲者の刄、 ﹁あッ、大井、大井久我之助様﹂ 自身番の灯が細さい雨うを縫ってサッと、曲者の顔を照し出したのです。 それは弓町に住む浪人者で、同じ道に親しむ、青年武士――ツイ先刻まで、同じ俳はい莚えんに膝を交えて、題詠を競った仲ではありませんか。 相手の素性がわかると、吾妻屋永左衛門妙に自信らしいものがついて来ました。日頃懇こん意いにしているだけに、大井久我之助の強さ弱さをことごとく知って居ります。 吾妻屋永左衛門の棒振り剣術と違って、相手は二本差だけに、剣術の腕前は確かにすぐれて居るでしょう。しかし俳諧、弁舌、男前、わけても金の力では大井久我之助、鯱しゃ鉾ちほ立こだちをしても吾妻屋永左衛門に及ぶ筈もなく、それを知り悉つくしているだけに、泥んこの中に引っくり返った永左衛門、急に自信を取戻して来ました。 ﹁暗討は卑怯だろう――何んの怨みで、この私を――﹂ 永左衛門は建物の袖を木楯に、必死の声を絞りました。日頃金の力と男前と、弁舌と才気で、浪人大井久我之助を圧迫して来た町人吾妻屋永左衛門は、腕は少々鈍くとも、得物が一本ありさえすれば、この男にムザ〳〵敗ける気は無かったのです。 ﹁卑怯? 卑怯は其方だ﹂ ﹁何を﹂ ﹁金の力に物を言わせて、拙者が言い交した女を横取りしたのは、其方では無いか﹂ 大井久我之助は、一刀を構えたまま、ジリジリと詰め寄るのでした。 ﹁あ、その事か﹂ 吾妻屋永左衛門、ハッと思い当ったのです。 相手は女故に禄も家も捨てて、我儘気随に暮して居る浪人、暇はあるにしても、恥も人格も無い人間だけに、女出入の怨みを怨ねた刄ばを合せた暗討の一と太刀に、人知れず片付けようという腹だったのです。 ﹁覚えが無いとは言わさぬぞ﹂ ﹁で、素手の町人を斬る気になったのか﹂ 吾妻屋永左衛門は、相手の切っ尖を除けながら、隙があったら、ツイ鼻の先の自身番に駆け込む気でいるのでした。 ﹁望とあらば、拙者の小刀を貸そう――尋常に向って来るか﹂ ﹁いや、私は町人だ、武家との果し合いは御免蒙る﹂ ﹁卑怯だろう﹂ ﹁何方が卑怯か﹂ この掛け合いは、一瞬々々のやり取りで命を賭けての、必死の言葉争いでした。もし吾妻屋永左衛門に、少しばかりの心得がなく、大井久我之助に、人にすぐれた腕があったら、こんな厄介な事件には発展せずお弓町の一角の、雨中の暗討で事が済んだことでしょう。二
﹁親分、こんな馬鹿気た話があるんだが――﹂ と、ガラ八の八五郎が、明神下の平次のところへ、報告を持って来たのは、それから二、三日後のある朝でした。 ﹁何が馬鹿気ているんだ、お前の持って来る話で、馬鹿気ない話てえのは、あんまり無いようだが﹂ 初秋の温い陽を除けて、平次は相変らず植木の世話に余念も無かったのです。 ﹁だって親分、女一人のことから、大の男が命のやり取りを始めて――﹂ ﹁待ちなよ、八、女出入で命のやり取りなんざ、お前が好きそうな話じゃないか﹂ 平次は秋葉の緑の中に顔をあげました。 ﹁それが生優しい命のやり取りじゃありませんよ、馬鹿々々しいの何んのって﹂ ﹁詳しく話してみな、お前一人で呑込んでいたんじゃ、俺はちっとも馬鹿々々しくないよ﹂ 平次は八五郎を誘い入れると、縁側に並んで掛けて、いつもの馬糞煙草にするのです。 ﹁吉原の玉屋小三郎の店で、お職を張って居た薄うす墨ずみという大たゆ夫うを親分御存じですかえ﹂ ﹁知らないよ、俺のところにはそんな叔母さんは無かった筈だ﹂ ﹁ヘッ、素そっ気け無い返事だね、いかに御静姐ねえさんがお勝手で聴いているにしても﹂ ﹁つまらねえ気を廻しやがる﹂ ﹁その薄墨が、どんな女だと思います、親分﹂ ﹁よっぽど変っているのか、眼が三つあるとか、何んとか﹂ ﹁嫌になるなア、世間でそう言って居ますよ、銭形の親分は大した人間だが、何んだって又あんなに野暮だろう――って﹂ ﹁野暮でも箆べら棒ぼうでも構わねえが、その眼の三つある華おい魁らんはどうした﹂ ﹁あ、まだ化物にこだわって居る――そんなイヤな代物じゃありませんよ、玉屋の薄墨華魁というのは、そりゃ大した女で﹂ ﹁フ――ム﹂ ﹁仲町をクヮッと明るくしたほどの女だ、上品で愛嬌があって、茶の湯生花歌へえけえ――諸芸に達して親孝行で﹂ ﹁大変なことだね﹂ ﹁この薄墨華魁に入れあげて、身しん上しょうを潰したのが十六人、死んだのが三人﹂ ﹁矢張り化物じゃないか﹂ ﹁それを本郷三丁目の薬種問屋の若主人、吾妻屋永左衛門が、千両箱を積んで身み請うけをし、自分の家へ引取って内儀の位に据えたのはツイ二た月前だ﹂ ﹁内儀の位は嬉しいな﹂ 平次のからかいにも構わず、八五郎は報告を続けるのでした。 ﹁吾妻屋永左衛門は、三十そこ〳〵、金があってへえけえが上手で、ちょいと好い男で、道楽者の癖に少しケチで、――薄墨大夫のお染さんと並べると、少しヒネてはいるが見事な女めお夫とび雛なですよ――﹂ ﹁――﹂ ﹁それほどの大夫を根引いて宿の妻にすると、納おさまらないのが諸方にあるのも無理はないでしょう、ね、親分﹂ ﹁俺に相談することがあるものか、話の先を急ぐがいい﹂ ﹁一番納まらないのは、万両分限の身上を費い果して、乞食のようになった伊豆屋の虎松、こいつは憑つかれたようになって、夜も昼も、吾妻屋の近所をうろ〳〵し、間がよくば一と眼でも、昔の薄墨華魁――今は眉を落した、内儀のお染さんの顔を見ようとして居る﹂ ﹁浅ましいことだな﹂ ﹁あっしだって、万両という身上をつぶしたら、そんな心持になるかも知れませんね﹂ ﹁幸い、五両と纏まとまった金に、めぐり逢った例ためしもあるめえ﹂ ﹁有難い仕合せで――ところで、薄墨が吾妻屋の女房になって、納まらなかったもう一人は、お弓町に住んでいる浪人者で、大井久我之助という好い男だ、年の頃は三十二、三。二本差には違えねえが、薄墨華魁に入れ揚げて、小藩のお留守居だったのが永ながの暇いとまになったとかで﹂ ﹁――﹂ ﹁ちょいと金があって好い男で、へえけえは下手だが小唄と鼓の上手で、これは間違いもなく薄墨の深ふか間まだったそうですよ。今は浪々の身で金っ気とは縁が無い。薄墨の年の明けるのを待って二人は一緒になろうなんてケチな事を考えて居ると、横から飛出した吾妻屋永左衛門が、千両箱を杉なりに積んで﹃お先に御免﹄とも何んとも言わずに、薄墨華魁をしょっ引いて行き、誰にも相談をせずに、元服させて﹃お染﹄と親のつけた名前で呼ぶことにした――こいつは大井久我之助、納まらないのも無理はないじゃありませんか﹂ ﹁無理とは言わないから、其先はどうした?﹂ ﹁八月朔つい日たちのあの大雨の降った晩――春日町の運座のけえへ行った吾妻屋永左衛門、供の小僧を先へ帰して、たった一人でお弓町へ差かかると、いきなり闇の中から飛出して斬りかけた者がある――誰だと思います、親分﹂ ﹁お前でねえことは確かだ﹂ ﹁銭形の親分、さすが眼が高え﹂ ﹁ふざけちゃいけねえ﹂ ﹁浪人者の大井久我之助ですよ。二本差の癖にしやがって、女を奪とられて、町人に暗討を仕掛けるなんて、風上にも置けねえ野郎じゃありませんか、幸い吾妻屋永左衛門、少しやっとうの心得があるので、泥の中へ引っくり返っただけで、怪我はしなかった﹂ ﹁それから﹂ 平次にも、少しばかり話が面白くなって来た様子です。 ﹁――でも握にぎりっ拳こぶし一つじゃ、斬り結ぶわけに行かねえ、さすがの吾妻屋も持て余して居るところへ同じ運座の帰りのこれも俳人仲間の湯島の国こく府ふ弥八郎様が通りかかり、驚いて飛込んで、マア〳〵と引わけた﹂ ﹁それっ切りだろう、女出入はそんなことで市が栄えるのが筋書きさ﹂ ﹁ところが今度は泥んこになった吾妻屋が納まりませんよ、このなりじゃ恋女房のお染のところへ帰れない、第一武家が町人を暗討にするとは卑怯千万、この納まりをどうしてくれるとねじ込んだ﹂ ﹁成程な、――で、どう話がついたのだ﹂ ﹁つきませんよ、どっちも詫を入れる気は無いんだから、仲に入った国府弥八郎さんも大困り、いずれその内に、ジャン拳けんか何んかで格好をつけるでしょうが――﹂ ﹁そんな事で済むのかな﹂ 平次はこの事件の底に、何やら根強く横たわって居る、無気味な人の怨みを感じないわけには行かなかったのです。三
果して、吾妻屋永左衛門と、大井久我之助の鞘さや当あては、一応表向きは納まりましたが、二人の心持は執拗に深刻に、行くところまで行き着いてしまったのです。 それから十何日、丁度八月十五日の名月の晩に、吾妻屋永左衛門は小宴を開いて、大井久我之助と国府弥八郎を呼び、表向きは仲直りの杯を交わすということにして、実は退のっ引ぴきならぬ二人の間の蟠わだかまりの晩を、この献こん立だてで、一挙に片付けようとしたのも無理のない成行でした。 人妻に恋するのは不都合千万と言っても吾妻屋の女房のお染は、玉屋小三郎抱かかえの遊女薄墨の後身であり、その間ま夫ぶだった大井久我之助の手許には、薄墨の書いた起きし請ょうが十三通、外にとろけそうな文句を綴った日ひぶ文みが三百幾十本となり、このまま諦めるにしては、二人の仲はあまりにも深ふか間ま過ぎて、暗討まで仕掛けられた吾妻屋永左衛門にしても、寝ねざ覚めのよくなかったことでしょう。 ﹁先ず、どうぞ﹂ 深怨の久我之助と、時の氏神の国府弥八郎と、連れ立って来たのを、主人の永左衛門、自ら案内に立って、設けの席に導き入れました。 それは﹃かねやす﹄に背を向けた、東向の裏二階で、十五夜の月はもう、町並の屋根の上に昇って居り、縁側には型通りの祭壇が、青白い月の光を受けて、粛然と静まり返って居ります。 部屋の中にはわざと薄暗い行あん灯どんが一つ、主客席に着くと、待って居ましたと言わぬばかりに、手順よく膳が運び出されるのです。 それは気まずい月見の宴でした。時の氏神の国府弥八郎が、一人で弁じ立てますが、主人の永左衛門も、客の久我之助も、黙りこんで受け応えをするでもなく、国府弥八郎の駄洒落が騒々しく空廻りをして、一層座を白けさせるだけです。 ﹁入らっしゃいませ﹂ ほんのりと掛かけ香こうが薫くんじました。どうかしたらそれは、世にも稀なる、あで人の肌の匂いだったかも知れません。顔を挙げて見ると、空の色よりも青い小袖、ほの白い顔が灯あかりの側にパッと咲いて、赤い唇だけが、珠玉の言葉を綴って艶なまめかしく動きます。 ﹁――﹂ 久我之助も弥八郎も、思わず丁寧過ぎるほど丁寧に礼を返しました。 眉こそ青々と落して居りますが、頬の曲線の柔かい細面、顔を伏せると、美しい鼻筋がスーッと通ります。 ﹁御内儀、飛んだ御世話に相成る﹂ などと国府弥八郎は、取ってつけたような世辞を言いますが、素もとより白けた座を救う由もありません。 お染はさすがに、この座の息苦しさに堪えられなかったものか、間もなく引下ってさて、それからの酒は羽目を外しました。 主人の永左衛門もさることながら、客の大井久我之助は、いくら呑んでも酔が発しないらしく、まさに鯨飲という物凄さです。 座を斡旋してくれるのは、特に呼んだ若い芸子が二人、これが内儀が引込んだ後の座を取持って、必死と骨を折って居る様子ですが、月の光に照されて、海の底のように静まり返った一座の空気は、三味線でもドラでも、感興を掻き立てる工夫はありません。 ﹁さて、御両所﹂ 月まさに三竿かん、酒もやがて爛酔に入った頃、主人の永左衛門、改めて膝を直しました。 ﹁改まって何事じゃ、御主人、今夜はもう六つかしい事を言わぬ筈では無かったか﹂ 国府弥八郎は、両手を宙に泳がせます。 ﹁いや、此ままでは、大井久我之助様もお気がお済みになるまい、抜ぬき刀みで脅かされた私も、町人ながら諦め切れません﹂ ﹁――﹂ ﹁国府様の御はからいで、一応は納まりましたが、納まり難いのは、大井様と私の胸のうちでございます﹂ ﹁何を申すのだ、御主人﹂ ﹁私が町人でなく、二本差している身分の者なら勝負けは兎も角として、一応は大井様の御相手をいたすべきですが――﹂ ﹁――﹂ 大井久我之助は、真っ蒼な顔を振り上げると、そっと一刀を引寄せます。 ﹁町人の悲しさ、算そろ盤ばんを持つのが精一杯で大井様のお相手はいたし兼ねます――が、そうかと申して、犬や猫のように、何んの手向いもせずに、斬り殺されてしまっては男と生れた甲斐がございません﹂ ﹁――﹂ ﹁で、一つ、妙なことを思いつきました﹂ ﹁――﹂ 落着き払った吾妻屋永左衛門の言葉に、妙な殺気をカキ立てられて、大井久我之助も、国分弥八郎も、思わず固かた唾ずを呑みました。 ﹁もういいでは無いか、御主人、酒だ、酒だ﹂ 弥八郎はそれを停めようとあせりますが、主人永左衛門の強大な意志に圧倒されて、今となってはもう、何んの力もありません。 ﹁その酒で思いつきました――私は商売柄、ごく内密で長崎の異人から手に入れた、南蛮物の大毒薬﹂ ﹁?﹂ ﹁それを熱あつ燗かんに解とかして、一本の徳利に仕込みました――此処に酒の入った徳利が二本ございます。いづれも模様も何んにも無い、伊い万ま里りの白い徳利、一本には唯今申上げた南蛮物の毒酒が入って居り、一本には唐もろ土こしから渡った、不老長寿の霊薬が入って居ります。この通り﹂ ﹁――﹂ 主人永左衛門は、盆の上に並べた二本の徳利を、物々しくも座の真ん中に据えたのです。 ﹁私は薬種屋渡世の冥みょ利うりに、この二本の徳利で、大井久我之助様と果し合いがいたし度いのでございます。このうち、毒酒の方を呑めば、肺はい腑ふを破って立ちどころに死にますが、薬酒の方を呑めば、不老長寿とまでは行かずとも、神気爽やかに、百病立ちどころに癒えると申します﹂ ﹁――﹂ ﹁大井様と私は、どうせ並び立たない二人でございます。此先又お気が変って、暗がりから斬りかけられては、町人の私は防ぎようはございません。そこで、この二本の徳利のうち、どちらかを一本、先ず大井様に選んで呑んで頂き、残ったのを一本、私が呑むといたしたら如何なものでしょう﹂ ﹁それは卑怯﹂ 大井久我之助は勃然として膝を立て直しました。 ﹁飛んでもない、――同じ形の徳利で、どちらに毒が入って居るか、それとも薬が入って居るか、この私にもわかり兼ねます。その上大井様に先に選んで頂き、残ったのを私の分ときめ、一緒に呑むとすれば、これほど立派な果し合いはあるまいと存じます﹂ ﹁――﹂ ﹁武家と町人の刀を抜いての果し合いよりは、此方がよっぽど公明正大ではございませんか――選ぶのは大井様が先でも、呑むのは一緒といたしましょう、さあ、大井様﹂ ﹁――﹂ ﹁臆おくれましたか、大井様﹂ ﹁――﹂ ﹁闇から飛出して、町人に斬りつけるのと毒酒薬酒の果し合いと、何どっ方ちが卑怯か﹂ ﹁――﹂ ﹁――﹂ 恐ろしい緊迫でした。行あん灯どんは丁ちょ字うじが溜まって、ジ、ジと瞬きますが、三人の大の男は瞬きも忘れて、互の顔を、二本の徳利を、洞うつろな眼で見廻すのです。 ﹁あれッ、御こし新んぞ造さ様ま﹂ 隣の部屋は、火の付いた騒ぎでした。 ﹁何うした、騒々しい﹂ 吾妻屋永左衛門は僅かに身体を動かして振り返ります。 ﹁御新造様が、危い、あれッ﹂ 二人の芸子は内儀のお染に絡みついて、その手から短刀をもぎ取ろうと争い続けて居るのでした。 ﹁ならぬぞ、見苦しい﹂ 永左衛門は思わず声が高くなります。 ﹁でも、わちきのためにお二ふた方かたが――﹂ 思わず里言葉の出るお染の薄墨大夫は、此処まで来る前に、この無法な企てを、どんなに止めたことでしょう。 ﹁男と男の意地だ――それとも夫の私が、もう一度泥の中に這わされ、虫のように殺されるのを見て居る積りか﹂ ﹁――﹂ そう極きめつけられると、お染は返す言葉もありません。短刀を取上げられて青い袂たもとに顔を埋めたまま、声を立てて泣く外は無かったのです。 ﹁よし、呑むぞ、拙者はこれだ﹂ 大井久我之助は猿えん臂ぴを伸して、一本の徳利を取りました。お染の演じた激情的な情シー景ンに勇気をかき立てられたのでしょう、早くも大振りの盃に注いで呑もうとするのを、 ﹁待った、二人一緒でなければ――﹂ 国府弥八郎に注意されて、しばらく躊躇する隙に、残る一本の徳利は主人の永左衛門が取上げたのです。 ﹁では﹂ これも同じく盃に波なみ々と注ぐと、盆を引いて、顔と顔が、一方は薄暗い行灯に照され、一方は月を隠した庇ひさしの闇に染まって、 ﹁行くぞ﹂ 口と口へ、盃は一緒に触れたのです。四
﹁親分、とうとう大変なことになりましたぜ﹂ 八五郎が、その報告を持って来たのは、翌あくる日の朝でした。 ﹁何が大変なんだ。――昨ゆう夜べのお月見の馬でも曳いて来たのか﹂ ﹁そんな気のきいた話じゃありませんよ、いつか話したでしょう、薄墨華魁のことで鞘さや当あてをして居る、二りゃ本ん差こと薬種屋の若主人﹂ ﹁間抜けな話さ、身請をされた女郎に未練を残す二本差の、顔を見てやり度え位のものだ﹂ ﹁ところが、もう見られませんよ﹂ ﹁逃げたのか、身を隠したのか﹂ ﹁死んだんです﹂ ﹁何? 死んだ﹂ ﹁薬種屋の若主人と、果し合いの毒酒を呑んで――﹂ ﹁果し合いの毒酒?﹂ ﹁吾妻屋が毒酒と薬酒を二本の徳利に入れて、何方でも好きな方を呑めと言ったそうで、暗討をしかけた弱い尻があるから、大井久我之助もこいつは断われねえ﹂ ﹁で、選えったのは運悪く毒酒で、浪人者が死んでしまったという話だろう﹂ ﹁その通りですよ、お染さんの薄墨華魁は、短刀まで持出して止めたそうですが、二人は意地になって聴き入れなかったんですって﹂ ﹁吾妻屋はそれで清々したというのか﹂ ﹁ところが大違いで――﹂ ﹁まさか華魁が後追い心中をしたわけじゃあるめえ﹂ ﹁いえ、薄墨華魁はいいあんべえに無事でしたが、薬酒を呑んだ積りの吾妻屋の若主人永左衛門も、七転八倒の苦しみで、毒酒を呑んだ大井久我之助の直ぐ後から息を引取りましたよ﹂ ﹁毒は両方の徳利に入って居たのか﹂ ﹁そんな筈は無いというんですが﹂ ﹁行って見よう、八、こいつは厄介なことになるかも知れない﹂ ﹁ヘッ、そう来なくちゃ――お蔭で薄墨華魁の元服姿が拝めるというものだ﹂ ﹁馬鹿だなァ﹂ 平次は大きく舌打をしながら、手早く仕度を整えました。 八五郎のような桁けたの外はずれた貧乏人でさえ、遊女崇拝の風に染まずには居られなかった時代、薄墨の美貌の作った悲劇の恐ろしさに、さすがの平次も肝を冷やしましたが、事件はこれがほんの発端で、次から次へと、不思議な展開を続けて行くのです。︻第二回︼
一
銭形平次は、吾妻屋永左衛門の女房お染――曾かつての玉屋小三郎抱え遊女薄墨と相対して居りました。 消えも入るような、歎きの美女の、哀れ深くやるせない姿を見つめて、平次はさて何んと言い出したものか、暫くは言葉もありません。 多い毛は襟のあたりで惜気もなく切って、紫の紐で結んであり、好みの青い衿に黒い帯、凝ぎょ脂うし豊かなくせに、異常に細そりした身体を包んで、深い歎きに身を揉むごとに、それが蜘蛛の巣に掛った、美しい蝶をさいなむように、キリ〳〵と全身を絞り上げるのです。 平次はこんな女に逢ったのは、生れて始めての経験でした。それは単に美しいとか愛嬌があるとか言った、通り一ぺんの形容詞で片付けられる種類の女ではなく、人間の女性から、五ごじ濁ょく五ごあ悪くの血肉を抽ぬき去ってその代りに、天人の玉の乳鉢で煉った、真珠の露を入れ換えたと言った感じです。 遊女崇拝を土台にした江戸の文化は、大部分恥っ掻きな馬鹿々々しいもので、それは人類の歴史の中の、最も薄汚い頁ページであったに相違ないのですが、売春婦を神格化し、仙台様に吊し斬にされた高尾を、貞烈無比な女と信じた時代の遊女は、厳しい選択と、激しい修業と、かなり高い教養を積んだことも事実らしく、﹁歌舞の菩ぼさ薩つ﹂という形容詞が、必ずしも出鱈目とは言えないものがあったのでしょう。 大門を入れば、極楽浄土――と当時の人は信じ切って居たのです。その極楽浄土に棲すむ三千の菩薩達、その中でも、入山形に二つ星と言われる、松の位の大夫は、今日のミス何んと言った、お手軽なもので無かったこともうなずけるのです。 遊び嫌いの銭形平次、遊里へ足を踏み入れるのを、――当時の道徳とは逆に、男の恥のように思って居た平次も、眼の前に近々と見た、歎きの大夫、薄墨のお染の、悲しんで傷やぶらざる、上品で痛々しい姿に、思いも寄らぬ驚きを味わいました。 洗練に洗練を重ね、一点のしみも留とどめない女の清すが々すがしさ、恐らく、そのあらゆる分泌物が馥ふく郁いくとして匂い、踏む足の下から、百花妍けんを競って咲き乱れることでしょう。これでこそ、十六人の男に身代限りをさせ、三人の男の命を奪とりもしたのです。さしも堅固の銭形平次でさえ、こう相対していると、息詰まるような――それは不思議な女の魅力でした。 ﹁どうしましょう、銭形の親分さん、私はもう﹂ 頼る主人に死なれては、元の浮き川竹――の遊女生活に還るか、でなければ、生活の道を一つも知らない、虫のようにか弱い女として、往来に投ほうり出される外は無かったのです。 ﹁お気の毒なことで――毒酒の果し合いなどは、いかにも魔の差しそうな事だが、間違いが何処にあったか、それは調べ抜かなきゃなりませんよ、御こし新ん造ぞ﹂ 平次は職業意識を取戻すと、昨夜事件の起った部屋に案内して貰いました。 月見のために用意された、東向二階の八畳で、六畳の次の間があり、さすがにあわてたものか、月見の用意なども昨夜のまま、薄や萩が、真昼の陽の中に、ユラ〳〵と影を落して居るのも、わびしく哀れな姿です。 ﹁お膳はこう三つ、主人は此こ処こで、お客様お二人は此処でございました。銚子は引込めて、盆の上に徳利が二本、それが出た時は、私も芸子達も、皆んな次の間へ追いやられました﹂ 内儀お染――薄墨大夫の説明はなか〳〵行届きます。 二本出した徳利、一本には毒、一本には霊薬が入って居る筈のが、二本共毒であったのでは、其処に種も仕掛けもある筈は無く、お染の説明はどんなに念入でも、銭形平次の調べの役には立ちそうもありません。 ﹁その最後の酒の席に、誰も入って来た者は無かったのかな﹂ ﹁誰も入る筈はございません﹂ ﹁酌は?﹂ ﹁二人の芸子に任せました。私がいましては、大井様に当てつけがましいと存じまして﹂ ﹁お燗かん番ばんは?﹂ ﹁お勝手に任せましたが﹂ お染の答は何んの淀みもなく、平次にしても、これ以上立入って訊きくこともありません。二
﹁親分、五丁目の杏きょ斎うさい先生が、お話をし度いことがあるとかで、下で待って居りますが﹂ 八五郎がそう言って来たのをきっかけに、平次はこの美しい女房の囚とりこから解放されて、階下の一と間に案内されました。 ﹁これは、銭形の親分、忙がしいところを気の毒だが、少しお耳に入れて置き度いことがあってな﹂ 五丁目で売込んだ本道の杏斎が、平次を迎えて大きな坊主頭を振り立てます。 ﹁杏斎先生、お話と仰しゃるのは﹂ ﹁少々他聞を憚はばかるが﹂ 眼顔で誘い合って、二人は部屋の隅に、吹き寄せられたように顔を突き合せました。 ﹁どんな事で?﹂ ﹁昨夜、あの騒ぎに立ち会った私が、医者としてはなはだ腑に落ちないことがあるのじゃ﹂ ﹁?﹂ ﹁外でもない、大井久我之助様の命を奪ったのは、日本には類のない薬で、これは恐らく南蛮物であろう、――ところが、暫く後で発病した、此家の主人永左衛門殿の呑んだのは、それと全く違ったありきたりの、石いわ見みぎ銀んざ山ん鼠捕り、つまり砒ひせ石きじゃ、二人の症状はまるで違う﹂ ﹁――﹂ ﹁念のために、騒ぎに紛れて誰も気のつかぬうちに、私は二本の徳利を見付け、封印をして持って帰ったが、家で調べてみても同じことだ、徳利は伊万里の無地で、一ちょ寸っと見てはけじめもわからぬが、中味は全く違った、二様の毒酒が入って居るのじゃ﹂ ﹁それは容易ならぬことですが、杏斎先生﹂ ﹁全く容易ならぬことだ、――これだけ申上げたら、親分の調べに、何かの助けになろうと思ってな、いや、忙しいことじゃ﹂ 杏斎先生は、自分の言うだけの事を言うと、ろくな挨拶もせずに、サッサと帰って行くのです。 ﹁親分、妙なことになりましたね﹂ 八五郎は、話し度いこと一パイ溜めた調子で、庭から顔を出しました。 ﹁何が妙なことなんだ﹂ ﹁あんな良い女が、この世の中に生きて居ると思うと、あっしはこう、張合のあるような、情けないような、死に度くなるような気持になりますよ﹂ ﹁それが妙なことかえ﹂ ﹁外にもまだありますがね﹂ ﹁どんな事?﹂ ﹁下女のお友が、徳利の酒を下水へ捨てて居るから、私はあわてて止めましたよ、半分はもう捨てられてしまいましたが、まだ残って居るでしょう﹂ 八五郎は懐中から白い伊万里焼の徳利を出して平次に見せるのでした。 ﹁もう一本あったのか、毒酒の入って居た二本は、あの杏斎先生が持って行った筈だ﹂ 平次は受取って匂いを嗅かいで見ましたが、酒の匂いの外には、何んの特色もありません。 ﹁少し嘗なめて見ないか、八﹂ ﹁御免蒙りましょう、あっしはまだ死ぬのに少し早いようでもっともあんな女と三日も添い遂げた上ならコロリと死んでも化けて出るような未練がましいことはしませんがね﹂ そんな太平楽を言う八五郎です。 ﹁良い心掛だ、口惜しかったら千両箱を杉なりに積んで見ろ、お前の望み通りになるぜ﹂ ﹁有難いことに、それが出来ないから、百までも生きますよ﹂ ﹁無駄は止して、下女のお友は自分の勝手な了見でこの徳利の酒を捨てて居たのか﹂ ﹁訊きましたよ、うんと脅おどかしながらね、三十八にもなって、口の隅をただらせて居るつまみ喰いの名人だ、あんまり利口でない代り、何んでもベラ〳〵しゃべってしまいますよ﹂ ﹁どんな事を﹂ ﹁万一、その徳利にも、毒が入って居ると怖いから、早く捨てた方がよい――って、人に教えられたんだそうで﹂ ﹁誰がそんな知恵をつけたんだ﹂ ﹁手代の佐太郎ですよ――ちょいと良い男で、薄墨華魁を観音様の化けし身んのように思って居る――これはあのこまちゃくれた小僧の春松の悪口ですがね﹂ ﹁よし、その佐太郎というのを捜してくれ﹂ ﹁ヘェ、先さっ刻きまで其辺に居ましたが﹂ 八五郎は店の方へ飛んで行きましたが、その時はもう佐太郎は何処かへ出かけた後で、店にも姿を見せなかったのです。三
お勝手へ廻ると、乞食のような不気味な男が一人、下女のお友と立話をして居りましたが、平次と八五郎の姿を見ると、ひどく驚いた様子で、横っ飛びに裏通りに姿を隠してしまいました。 ﹁あれは何んだえ﹂ 平次はぼんやり口を開けて立って居る下女のお友に訊きました。 ﹁虎――という男です、満まん更ざらの乞食じゃありません、あれでも昔は伝馬町の伊豆屋の若旦那で、虎松さんと言われた良い男の成れの果てで――﹂ 口の隅をただらした女も、なか〳〵洒しゃ落れたことを言います。 ﹁あ、薄墨華魁に入れ揚げて、良い身上を棒に振ったという――﹂ 八五郎は横から口を入れました。それは界隈に隠れもない噂の種で、若い者を戒いましめる、年寄の一つ話にもなって居りました。 平次はチラリと見ただけですが、成程そう言えば、満更の乞食では無いらしく、身みな扮りも自堕落ではあったにしても、そんなにひどいものでは無く、顔かお容かたちも尋常、身体なども逞しくさえ見えたのです。 ﹁あの男はチョイ〳〵此処へ来るのか﹂ 平次は訊ねました。 ﹁毎日其辺へ来てウロ〳〵して居ますよ、御新造の顔を、一と目でも見たいんでしょう、あんなになっても、男って本当に、身の程を知らないものですねェ﹂ この女も時折は、こんな一とかどの事を言うのでした。 ﹁ところで、手代の佐太郎は何処へ行った﹂ ﹁知りませんよ、私は﹂ ﹁お前に徳利の酒を捨てろと言ったそうじゃないか﹂ ﹁――万一、その徳利にも毒が入って居ると危ないからって言うんですもの﹂ ﹁こんな徳利は外に無いのか﹂ ﹁もう一本ありますよ、四本二対になって居たんで﹂ ﹁どれ﹂ お友が戸棚から出してくれた、四本目の徳利を嗅いで見ましたが、これは酒を入れた様子もなく、中までカラ〳〵に乾いて居ります。 ﹁昨夜のお燗は誰がした﹂ ﹁佐太郎どんですよ、私は料理の方が忙しかったんですもの﹂ ﹁二階へ運んだのは、芸子達で﹂ ﹁誰だえ、あれは?﹂ 平次は不意に顔を挙げました。 ﹁御新造さんの弟さんで、米吉さんですよ﹂ そう言って居るところへ、十七、八の前髪立の美少年が、何心ない様子で、チョロチョロとお勝手を出て来ました。 ﹁ちょいと、米吉さんと言ったね﹂ ﹁ヘェ﹂ ﹁お前は御新造のお染さんの本当の弟か﹂ 平次は突っ込んだことを訊きました。 ﹁よく似ているそうですから、見て下さい﹂ 米吉は微笑を浮べたままの顔を突出すのです。邪念の無い細面で、小柄で色白で、女の児のようですが、声変りのせいか、声は思いの外太く、態度に何んとなく人を喰ったところがあります。 ﹁生れは?﹂ ﹁上州――でも、仲な町かで育ちました、姉の仕送りで﹂ ﹁昨夜は何処に居たんだ﹂ ﹁仲な町かの知合の家へ行って、お月見の御馳走になって、とうとう泊ってしまいました﹂ ﹁此処に客のあるのを承知でか﹂ ﹁後で聞いたんです、姉さんは、私を子供扱いにして、酒の席なんかには寄せつけませんよ﹂ 縞物を短かく着て、何処か大おお店だなの小僧とも見える美少年米吉は、平次の問うままに、蟠わだかまりもなく答えます。 ﹁ところで、昨夜の芸子は何処から呼んだ、湯島か、芳町か、それとも――﹂ ﹁仲な町かですよ、少し遠いけれど、泊めてやりゃいいと、御新造様の知合いの家の芸者衆で、何んでも巴家とか言いましたが――﹂ お友の記憶は甚だ覚おぼ束つかないものでした。 ﹁どんな妓おん達なたちだ﹂ ﹁綺麗な芸子さん達でしたよ、一人は芸達者で、一人はそりゃお人形のようで﹂ お友は眼を細くします。 平次と八五郎は、そんな事で切上げて、本郷の通りへ出ました。 ﹁親分、カラクリはわかりましたか﹂ 八五郎はキナ臭い鼻をして見せます。 ﹁いや、少しも見当はつかない、最初から二本の徳利に毒が入って居るから、吾妻屋永左衛門は、大井久我之助と一緒に死ぬ気でやったことになるが、そんな馬鹿なことがある筈は無い。矢張り最初は二本のうち一本には毒が入って居なかったのだ、それを、何処で摺すり換かえたか、誰が毒を入れたか﹂ 平次もそれ以上のことはわからない様子です。 ﹁何処へ行くんです、親分﹂ ﹁五丁目の杏斎先生のところだ、三本目の徳利の酒に、毒があるか無いか見て貰い度い﹂ ﹁成程ね﹂ 二人は杏斎の門に立ったとき、杏斎先生は病家へ駕か籠ごで出かけるというところでした。 ﹁先生、三本目の徳利が見付かりましたよ、これに毒があるか無いか、御手数でも調べて頂き度いんですが﹂ 平次が駕籠を停めて、袖の中から白伊万里を出し、杏斎先生の鼻の先へ出すと、杏斎は駕籠に乗ったまま、 ﹁どれ〳〵匂いは無いな、味は――?﹂ と掌に酒を垂らして、ペロ〳〵と嘗なめるのです。 ﹁先生、毒が入って居ちゃ危いじゃありませんか﹂ 平次の方が驚きました。 ﹁なァに、大丈夫、私は不死身だよ――これ位のことで命に拘わる毒というものは無い筈だ﹂ などと舌鼓を打って見せるのです。 ﹁あっしのような無法者も、そいつは気味が悪くて嘗め兼ねましたよ﹂ それは八五郎でした。 ﹁いや、嘗めなくてよかったよ、此酒には矢張り南蛮物の毒が入って居る、嘘だと思うなら、少しやって見るがよい、舌を絞るような、悪く苦いところがある﹂ 杏斎先生は言うだけの事を言うと、駕籠を急がせて行ってしまいました。 ﹁親分、驚きましたネ﹂ ﹁驚くことは無いよ、三本共毒の入って居る方が、筋道がはっきりして居るんだ、――今日はこのまま帰って考えて見るとしよう﹂ 平次はそのまま事件に背を見せるのでした。四
毒酒事件がそのまま迷宮入りになって、銭形平次の叡智も、一向埒らちがあかぬまま、幾日か過ぎました。 この辺で八五郎が、﹁大変﹂を持ち込んで来る段取ですが、今度は思いも寄らぬ方面から、その﹁大変﹂が舞込んで来たのです。 吾妻屋の手代佐太郎は、あの日から行方不明で、主人永左衛門の葬いが済んでも帰って来ず、平次は精一杯手を伸して居たにも係らず、そのまま江戸の坩るつ堝ぼの中に溶け込んでしまったかと思われてから四日目、橋場の渡しの近くに、佐太郎らしい水死人が上ったという知らせを、吾妻屋の内儀お染の弟、あの美少年の米吉が教えに来てくれたのです。 平次と八五郎が橋場へ行って見ると、丁度検視も済んだばかり、吾妻屋から番頭の嘉七と、小僧の春松がやって来て、死骸を引取って行こうという間際でした。 ﹁銭形の親分さん、大変なことになりましたが﹂ 重なる不祥事に、番頭の嘉七は泣き出しそうにして居ります。 ﹁どれ〳〵﹂ 筵むしろを取って見ると、紛れもなくそれは、吾妻屋の手代の佐太郎で、その精力的な身体や、ちょいと良い男に変りは無く、濡れ鼠になって着崩れて居ても、渋い好みの袷あわせなどは、水死人には勿体ないようです。 ﹁おや、ひどい傷だが﹂ 死骸の後頭部のひどい傷は、石か何んかで殴ったものでしょう、柘ざく榴ろのように割れて、水にふやけて居りますが、これをやられてから、水に投ほうり込まれたらしく、身体に水死人らしい特徴は一つもありません。 ﹁山谷堀から流れて来たのかな﹂ 八五郎でした。 ﹁昨夜の上げ汐で、下の方から押し流されて来たのかも知れない﹂ それはいずれにしても、昨夜のうちに水に投げ込まれた事は間違いもありません。 ﹁懐中物は?﹂ ﹁百も持っちゃ居ませんよ、抜かれたんですね﹂ 番人は忌いま々いましそうです。 ﹁ところで番頭さん﹂ ﹁ヘェ〳〵﹂ 嘉七はあわてて振り返りました。ひどく萎しなびた中老人ですが、吾妻屋の先代から勤めて居る白鼠で、着実そうなことは此上なしです。 ﹁昨夜吾妻屋から出た者は無いのかな﹂ 平次の問は当然でした。 ﹁一人も出たものはございません、御新造様は早くからお休みになりましたし、米吉さんは二階へ、私と春松は戸締りを見廻って、その下へ休みました。お友は出るわけも御座いません﹂ 小僧の春松は、それを肯定するように、黙って聴いて居ります。不ア在リ証バ明イは吾妻屋の屋根の下に住んでいる者に限り、極めて完全です。 ﹁ところで、もう一つ、それから御新造の様子はどうだ﹂ 平次は突っ込んだことを訊ねました。 ﹁見上げた方で御座います、朝晩念仏三昧で、慎つつしみ謹つつしんで居ります。一足も外へ出ることではございません﹂ ﹁――﹂ ﹁そう申しては何んですが、あれが君傾城の果てとは、どうしても思われません、大したお心掛けでございます﹂ 嘉七の言葉は老実そのもので何んの誇張があろうとも思われません。 やがて釣台に載せた佐太郎の死骸は動き出しました。後ろへしょんぼりと従う嘉七と春松、少し離れて平次と八五郎も、途中までは一緒に行かなければなりません。 ﹁変な殺しですね、――あの毒酒の果し合いの続きでしょうか﹂ ﹁あっしは、あれはあれ、これはこれという気がするんですが、佐太郎はフラ〳〵と遊びに出て、吉原で居続けたあげく、一文無しになって、帰るところを、辻強盗か何んかにやられたんじゃありませんか﹂ 八五郎は一応の順序を立てますが、 ﹁主人が変死した翌日は、葬式も出して居ないのに、奉公人の佐太郎が吉原へ遊びに来たというのか﹂ 平次にそう言われると一言もありません。五
湯島の天神下にかかると、 ﹁あの晩仲裁に入った、国府弥八郎様のお屋敷は此辺じゃないか﹂ ﹁直ぐ其処ですよ﹂ ﹁ちょいと寄って見よう﹂ 平次は良いところに気が付きました。 国府弥八郎は小禄ながら聞えた御家人で、四十年配の分別盛りを、道楽と洒落っ気で暮して居る武家でした。 ﹁平次親分か、――よく来てくれた、まァまァ寛ろいで、ゆっくり話して行ってくれ﹂ などと友達付き合いで如才もありません。 ﹁実は、あの晩――吾妻屋の毒酒の果し合いの時の様子を、詳しく伺い度いのですが﹂ 平次は早速要件に入りました。 ﹁良いとも、どんな事を話せばいいのだ﹂ ﹁徳利はたしかに二本出たのでしょうね――三本では無く﹂ ﹁その通りだ、その前の酒は燗の良いのであったが、果し合いの酒は、白伊万里の徳利に入れた冷酒が二本、――吾妻屋がわけを話して、果し合いを申出ると、大井氏はさすがに驚いたらしく、暫くは睨にらみ据えて口もきかなかったが、隣の部屋で内儀のお染殿が、自害しようとする気配を聴くと大井久我之助殿、サッと顔色を変えて、二本の徳利のうち、吾妻屋の方に寄った遠いのを取上げた﹂ ﹁その時席に三人の外に人は居なかったので?﹂ ﹁居なかったが――一人の若い芸子がアタフタと入って来て、吾妻屋に――御新造様が――と囁いた。吾妻屋は面倒臭そうに払い退けて、邪魔だ、向うへ行って居ろ――と叱った﹂ ﹁それは初耳でした﹂ ﹁つまらない事だから、言わなかったのだ﹂ 国府弥八郎ことも無げに言うのです。 ﹁その時、芸子は徳利を換えた様子はありませんか﹂ ﹁気が付かなかった、何分、唯事ならぬ二人の意気込で、私も気が張って居た、――が二人の芸子がお内儀の自害を止めて、そのうちの一人がそれを教えに来たことに間違いは無く、徳利を換える隙などは無かった筈だと思う﹂ ﹁そうでしょうか﹂ 平次は何やら腑に落ちぬらしく考え込むのです。 ﹁ところで、平次親分は、これをどう思う、吾妻屋は大井久我之助殿を殺して、最初から自分も死ぬ気でやった細工では無いのか﹂ ﹁飛んでも無い、――千両箱を杉なりに積んで、あれだけの大夫を身受けした吾妻屋の主人が、一年も経たないうちに死ぬ気になるでしょうか﹂ ﹁成程な、諸行無常を感ずるのは、貧乏人か、振られ男に限るというわけか、ハッハッハッハッ﹂ 国府弥八郎は自分の警句に堪能してカラカラと笑うのです。︻第三回︼
一
無事な日は五日、七日と過ぎました。 大井久我之助と、吾妻屋永左衛門を、一ぺんに殺した毒酒の秘密もまだわからず、吾妻屋の手代佐太郎を、石で叩き殺した下手人の見当もつかぬうちに、お月様は一と晩毎に痩せて、江戸の街もやがて悪魔の跳梁に都合の良い、闇夜続きになって行きます。 ﹁親分、今日は、良い日和ですぜ、ちょいと遊びに出ちゃどうです、ジッとして煙草ばかり吸って居るのは、身体のために毒ですよ﹂ などと、一とかどの事を言いながら、子分の八五郎は幾日目かの顔を見せました。 ﹁遊びに行くほどのお小遣でもあるかえ、大層機嫌が良いようだが﹂ 平次は悠然として、日向のとぐろをほぐそうともしません。 ﹁御存じの通りで、金には縁がありませんよ、もっとも女の子には持て過ぎて困るんだが﹂ そう言って長なんがい顎を撫で廻す八五郎です。 ﹁ヘェー、大層なことになるものだね、世よな並みが悪いわけだ﹂ ﹁そう馬鹿にしたものじゃありませんよ﹂ ﹁相手は何処のおん婆さんだえ﹂ ﹁そんなイヤな代物じゃ無いんで、ヘッ、入山形の二つ星、眉は落したが、お灯明をあげ度てえ位の代物で――﹂ ﹁吾妻屋の後家じゃ無いのか、あれは止せよ八、下手なちょっかいを出すと、飛んだ恥を掻くぜ、第一お前にはお職過ぎて、お染八五郎じゃ床ちょぼに乗らねえ﹂ 平次は少しムキになりました。吾妻屋の後家、曾かつての薄墨大夫のお染が相手では八五郎、深草の少将ほど通ったところで、モノになる道理はありません。 ﹁その吾妻屋の後家が言うんですよ﹃八五郎親分、済みませんけれど、毎晩泊りに来て下さいませんか、淋しくて心細くて、私は誰かにどうかされそうで、気味が悪くて叶わないんですもの、――親分はお一人だそうだから何処からも尻の来る気づかいは無いんでしょう、後生だから﹄と、里さと訛なまりの抜けきれない言葉で口説いて、顎の下のあたりで、手を揉むような拝むような格好をするんです。その色っぽさというものは――﹂ ﹁止さないかよ、馬鹿々々しい、お前がそんな格好をしたって、少しも色っぽくなんかなりゃしないよ、擽くすぐっ度い野郎だ﹂ ﹁ヘェ、擽ぐっ度いんですかねえ﹇#﹁擽ぐっ度いんですかねえ﹂は底本では﹁擽ぐっ度いんですいかねえ﹂﹈、あっしという人間は﹂ ﹁お前と話をすると、臍へそのあたりがムズムズするよ﹂ ﹁まるで蚤のみですね﹂ ﹁それほど思い込まれたら、八五郎も男冥みょ利うりだ、二た晩三晩行って泊ってみるか﹂ ﹁行ってもいいんですか、親分﹂ ﹁用心棒に泊る分には構わねえが、吾妻屋へ婿入しようなんて了見は出すな﹂ ﹁お職過ぎますかね、あの後家は? 高慢で無愛想で、ヒヤリとしたところがある癖に、何んかの弾はずみでニッコリすると、ゾッとするほど色っぽいところがありますよ、あの女は﹂ でも八五郎はイソ〳〵と飛んで行きました。江戸一番のフェミニストの八五郎が、首尾よく用心捧の役目を果して、平次が期待する、吾妻屋の秘密を探って来るでしょうか、はなはだ覚おぼ束つかないことです。二
三日経たないうちに、八五郎はもう最初の報告を持って来ました。 ﹁親分、あの家は変な家ですね﹂ その酢すっぱそうな顔を見ると、勇敢なる騎士が恋の成功を納めたとは受取れません。 ﹁まさかあの後家に手ひどく弾はじかれたわけじゃあるまいな﹂ ﹁大丈夫ですよ、まだ亭主の三十五日も済まないうちから、私がそんな事をするものですか﹂ ﹁大層義理堅い人だね﹂ ﹁第一あの女は、あっしが側に居ると、一日一と晩経っても、白い歯も見せませんよ、妙にこうヒヤリとして﹂ ﹁お前というものに用心して居るのさ﹂ ﹁そんな筈はねえと思うんだが――﹂ 八五郎の甘さ、 ﹁ところで、変な事というのは何んだ﹂ ﹁皆んな変ですよ、主人の死んだのを良いことにして、番頭の嘉七はセッセと取込んで居る様子だし、下女のお友はつまみ食いばかりして居るし、後家のお染は取済して冷んやりとして居るし、弟の米吉は、姉の部屋へばかり入り込んで、こちとらには鼻は汁なも引っかけないし――あの米吉という野郎は、気の知れない若造ですよ、物腰は女みてえで妙に物静かなくせ、ひどく気象に激しいところがあって、小僧の春松などは、うっかり嘗なめた事を言うと、ひどい眼に逢わされますよ﹂ ﹁綺麗な男だったな﹂ ﹁さすがは姉の弟で、芝居の色子にも、あんな綺麗な男の子は滅多にありませんね、小柄で、華奢で、声変りで変な太い声さえ出さなきゃ、女の子と間違えますよ﹂ ﹁それっ切りか﹂ ﹁まだありますよ、橋場で殺された佐太郎は、勿体なくも主人の配つれ偶あいのあのお染さんに夢中だったんですってね﹂ ﹁不都合な話じゃないか﹂ ﹁もっとも、薄うす墨ずみ華おい魁らんの客の一人だったというから、無理もありませんがね、知らぬは亭主ばかりで、女房が勤めをして居る時の客の一人が、店に居る手代だったとは、死んだ吾妻屋も気が付かなかったでしょうよ﹂ ﹁フーム﹂ 遊女制度の不都合さで、金さえ出せば、誰でも客になれたことが、この不倫な結果を生んだのでしょう。 ﹁主人が生きて居るうちは慎つつしんで居た様ですが、主人が殺されると忽たちまち羽をのして、三日経たないうちから、主人の後家に絡からみついて居たというから、佐太郎にも殺されるだけなわけがあったのかも知れませんね﹂ ﹁その佐太郎が殺された晩、吾妻屋の家の者は、一人も外へ出なかった筈だな﹂ ﹁相あい憎にく皆んな家に居たそうで、どう詮索しても、佐太郎殺しの下手人は、吾妻屋には居ませんよ﹂ ﹁外に変ったことは?﹂ ﹁何んにもありませんね。もっとも、あの下女のお友というのは出戻りだそうで、世帯の苦労も情いろ事ごとの苦労も劫こうが経て居ますから、妙なところへ眼が届きますよ﹂ ﹁――﹂ ﹁佐太郎が惚のろ気けま交じりに話したことや、内儀と米吉が、夜も昼も奥の部屋に籠こもって、綾取り双すご六ろく、鞠まりつき、と他愛もないことばかりして遊んでいることも、あの女が見届けてくれましたが﹂ ﹁それから?﹂ ﹁それっ切りですよ、あ、そう〳〵、伊豆屋の虎松が、相変らず乞食からお釣つ銭りの来そうな風ふう体ていで、朝から晩まで吾妻屋のあたりをウロ〳〵して居まさア、後家のお染さんはそれを嫌がるまいことか﹂ ﹁――﹂ ﹁虎松は身みな扮りこそ悪いが、若くて丈夫そうだから、うっかり追っ払うわけにも行きませんよ。番頭の嘉七などは、見て見ない振りで、あっしが気を揉んだ位じゃ、どうにもなりゃしません﹂ 八五郎の報告はざっとこんなものでした。三
それから又四、五日経ちました。吾妻屋の主人永左衛門の二た七日が済んで、月も九月に改まって間もなく、八五郎は二度目の報告を持って飛んで来ました。まだ朝のうちです。 ﹁何んだ、八﹂ ﹁大変なんですよ、親分﹂ 八五郎は格子に絡みついて息を継ぎました。 ﹁何がどうしたんだ﹂ ﹁四人目がやられましたよ﹂ ﹁四人目?﹂ ﹁伊豆屋の虎松が、吾妻屋の裏木戸の前で喉のど笛ぶえを切られて、血だらけになって死んでいますよ﹂ ﹁よし、手を緩ゆるめると、飛んでもねえ業をする畜生だ、行こう八﹂ 平次は手早く仕度をすると、十手を腰に、ポンと飛出します。 ﹁あれ、まだ御飯が――﹂ うろ〳〵するお静へ、 ﹁すぐ帰けえって来るよ――味噌汁のさめねえうちに﹂ 本郷三丁目はさして遠い道では無く、簡単に埒らちをあけてと思った平次も、こればかりは飛んだ見当違いでした。 物をも言わずに、吾妻屋の裏通りへ駆けつけた平次、木戸の前に、引取手もなく筵むしろを掛けてある、虎松の死骸の前へ立止りました。 ﹁親分、飛んだ早い足ですね﹂ 八五郎はフウ〳〵言いながら追いつくのが精一杯。 ﹁味噌汁の冷えねえうちに、下手人を縛しばる気で飛んで来たよ――おや、これはひどい﹂ 平次は死骸を見張って居る町役人や、番ばん太たの老爺に挨拶して、早速筵をハネのけました。死骸になった虎松は、この時漸く三十二、三、分別も思想も一人前に円熟する筈の年を、薄墨華魁に現うつつを抜かし、伝馬町で歌われた伊豆屋の身上をフイにしてしまって、乞食同様の姿になりながら、一度契った薄墨が忘られず、請うけ出だされて人の女房になった後までも、落ぶれ果てた姿で、ウロウロと附き纏まとって、恥を恥とも思わぬ、不思議な生活を続けて居たのです。 顔立もよく整って、格幅も見事ですが、恋に狂う型の人間によくある、やや肥ふとり肉じしの多血質で、脹はれっぽい眼、多い毛などが妙に人目につきます。 着て居るものは、昔の栄華を偲ばせる絹物ですが、滅茶々々に破れて、芝居に出て来る乞食という風体、皮膚の色も陽に焦げて、手足の垢づいて居るのも浅ましさです。 傷は右首筋、匕あい首くちか何んかで、廻しながらザブリと切ったもの、返り血を受けないために、恐らくは後ろから手を廻して刃物を引いたものでしょう。 ﹁刃物は、すぐ足の下の下水に投ほうり込んでありました、――こいつは自害じゃありませんか﹂ ﹁いや、これだけ切ると自分の手が血で汚れる筈だ﹂ ﹁少しは血が付いて居ますよ﹂ ﹁自分でやったのなら、そんなこっちゃあるめえ、それに、右手を使って、こうは自分の喉を切れるものじゃないよ、――虎松は左ひだ利りききなら話は別だが﹂ ﹁もう一つ、鞘さやが虎松の懐から出て来ましたよ﹂ ﹁小尻は何どっ方ちを向いて居た﹂ ﹁外を向いて居ましたよ﹂ ﹁落付いたようでも、下手人はあわてて居る証拠だ。小尻を外へ向けて、自分の懐へ匕首の鞘を突っ込む奴があるものか、それに、自分でやったものなら、鞘を自分の懐へしまい込まずに、反かえって捨てるのが本当だろうよ――多分後ろから行って、声を掛けて油断をさせながら、刺したものだろう。虎松と親しい人間の作業だ﹂ 平次の観察はさすがに行届きました。 ﹁銭形の親分﹂ 年配の町役人が、平次に声を掛けます。 ﹁何んです、佐野屋さん﹂ ﹁吾妻屋の内儀さんが、この死骸を引取って葬ってやり度いと言って居るが、どうしたものでしょうね﹂ 事情をよく知って居るらしい町役人はひどく腑に落ちない顔をします。 ﹁奇特なことじゃありませんか、お望み通りにしてやったら、死んだ伊豆屋の虎松さんも、どんなに喜ぶことでしょう﹂ 平次は簡単に賛成しました。吾妻屋の主人が死んで、まだ三十七日にもならないのに、生前の恋敵とも言うべき虎松の死骸を、後家のお染が引取るのは、一応出過ぎたことのようにも見られますが、裏木戸の外に死骸を晒さらして、何時までも諸人に見られるよりは、反かえってその方が恥を小さくする方法かもわかりません。四
﹁銭形の親分さん、さぞ、差出がましい女とさげしみなさんしたでしょうね﹂ 死骸はお勝手の隣の、薄暗い部屋に移され、形ばかりの香花は供えられました。 平次と八五郎も、ツイ手伝ってやる気になって、何んとなく動いて居ると、やや一段落になった頃、後家のお染は沈んだ顔を、そっと廊下から覗かせたのです。 ﹁いや、飛んだ功くど徳くですよ、伊豆屋の虎松とも言われた人が、犬猫のように死骸を扱われちゃ可哀想だ﹂ 平次は心からそう言った調子です。死んだ者には、何んのとがめもある可べき筈は無いのです。 ﹁そう聞いて安心いたしました。昔の恥になりますけれど、私のためには随分苦労をなすった虎さんですもの、死んでしまえば、憎かろう筈はありません﹂ 静かに部屋の中に入って来たお染は、黒っぽい袷あわせ、切髪が首筋に淀んで、素顔にほのかな紅を含んだのさえ、驚くべき効果的な魅力ですが、虎松の死骸の側に寄って、たしなみよく香を捻ひねる姿は、あわれ深くも美しいものでした。 ﹁ところで御新造――いや今では内儀さんと言った方がよいでしょう、――昨夜この家から、外へ出た者は無かったでしょうか﹂ 平次は場所柄を無視して、こう訊ねました。 ﹁一人も無かった筈でございます。喜七どんと、お友に訊いて下さい﹂ ﹁――﹂ ﹁私は奥の部屋へ一人で休んで居りますし、弟の米吉はたった一人で二階へ、その階はし子ごだ段んの下には、番頭の嘉七どんと、小僧の春松が休んで居ります。一人で外へ出て誰にも気取られないのは、下女のお友位のものでございましょう﹂ お染は掌を返して、口許へ持って行きました。よっぽど笑い度いのを我慢した様子です。 ﹁念のため、家の中を見せて貰います﹂ ﹁どうぞ、御自由に﹂ お染は少しツンとして、自分の部屋へ引取りました、銭形平次の執拗な疑いに対して、矯きょ慎うしんを発した姿です。それは怒った孔くじ雀ゃくのような、不思議な気高さと華やかさを持ったものです。 平次は番頭の嘉七に案内させて、ざっと家中を調べてみました。二階への階子段は一つで、その上に休んでいる米吉は、階子段の下の六畳に休んでいる嘉七と春松に知られずに、夜中便所へも起きられないことは確かでした。 内儀のお染の部屋は、階下の一番奥の六畳で、一応どの部屋とも掛け離れて居りますが、平次はその部屋の外に、無用な階はし子ごが掛けっ放しであり、それを登って、庇ひさし伝いに行けば、米吉の寝て居る二階六畳の窓に、わけもなく達することを発見しました。 ﹁八、あの庇から向うの窓へ行けるだろうか﹂ 平次に声を掛けられると、階子から庇を渡って、米吉の部屋の前まで行って、変な顔をして戻って来た八五郎は、 ﹁庇の上は鎌倉街道だ、散々苔が踏み荒されて、二階の窓は外からでも格子が外れますよ﹂ と思いも寄らぬ報告です。 ﹁よし〳〵、それで大方わかったよ、お前は下女のお友と仲好しになったようだから、精一杯口説いて見てくれ、昨ゆう夜べ何んか変ったことがあったに違えねえ、それから下っ引を二、三人狩り出して、伊豆屋の虎松の巣を突き留め、手一杯に捜させるんだ﹂ ﹁親分は?﹂ ﹁俺は吉原へ行ってくる、――変な顔をするな、遊びに行くんじゃねえ、巴屋という芸者屋と、編笠茶屋の裏の当り屋という料理屋を探るんだ﹂ ﹁承知しました、それじゃ﹂ ﹁待ってくれ、もう一つ頼みがある﹂ ﹁何んです、親分﹂ ﹁お前も気が付いて居るだろうが、内儀の弟の米吉、男にしちゃあんまり綺麗だ、どうかするとありゃ女じゃ無いのかな――声は太いが、音曲で喉をつぶすと、女でも随分あんな声になることもあるだろう――それを試して貰い度いんだ、いきなり懐へ手なんか入れちゃいけないよ、何んとか、うまい工夫をして、――何をニヤ〳〵笑って居るんだ﹂ ﹁それならもう済みましたよ﹂ ﹁何が?﹂ ﹁あっしも、あの野郎がどうも女のような気がして仕様が無いんで――親分に叱られそうですが、とうとうやりましたよ﹂ ﹁何を?﹂ ﹁いきなり尻を捲めくったんで、ヘッ﹂ ﹁ひどい事をするな、お前は﹂ ﹁男姿だから、ふざけた振りをしてやりゃ何んでもありませんよ。女なら尻を捲られると、キャとかスーとか言っていきなりペタリと坐るが、野郎なら、ジッとして居て怒鳴るでしょう――此野郎、ふざけた事をしやがるとか何んとか﹂ ﹁呆あきれた野郎だな﹂ ﹁安心して下さい、ありゃ確かに男ですよ。毛けず脛ねが大変で――その上切り立ての犢ふん鼻ど褌しをして、威張って居ましたよ﹂ 八五郎の説明は途方も無いものでしたが、この冒涜行為も、相手が確かに男とわかっては、平次の神経を痛める程の事件でもありません。五
平次は先ず吉原の巴屋へ行って訊きましたが、女おか将みは、
﹁あのお月見の晩、元の薄墨華魁からの使いで、お酌を二人本郷の吾妻屋さんへよこして貰い度い、どうせ泊めるから、遅くなっても心配しないようにというお話でしたが、一人は病気で出られなかったので、お袖というのを一人だけ本郷へ駕か籠ごで送りました﹂
という思いも寄らぬ挨拶です。
そのお袖というお勘に逢って見ると、十五、六のなか〳〵才気走った娘で、
﹁向うへ行って見ると、私より二つ三つ年上らしい、もう一人のお酌が居りました。柳橋から来たということで、自分でたよりという名だと言って居りました。唄はいけませんでしたが、踊りは一と通りで、何より、それは〳〵綺麗な人でした﹂
そんなことを話すのです。その晩吾妻屋の主人と大井という浪人者の争いが始まってから、二人のお酌は怖いので次の間に逃げて居たが、薄墨華魁が自害をしようとしたので、二人がかりでそれを止め、たよりが次の間へその事を知らせに行って間もなく、大井という浪人者が苦しみ出し、続いて吾妻屋の主人も苦しみ出したというのです。
﹁あんな怖い思いをしたことはありません――でもたよりさんは何時の間にやら帰ってしまって、私一人、翌あくる日の朝まで、下女のお友さんの部屋にもぐり込んで顫ふるえて居りました﹂
お酌のお袖は、こう言うのでした。
﹁外に気の付いた事は無いのか﹂
平次はもう一と押し押しました。
﹁あの騒ぎの中でたよりさんが、袂たもとの下に白伊万里の徳利を隠すようにして、隣の部屋へ行ったようです﹂
﹁何? それは本当か、大事のことだが﹂
﹁でも、そのまま持って戻りました、――間違いはありません、変なことだと思って、よく覚えて居ります﹂
﹁有難う、それでわかった﹂
平次は巴屋を飛出すと、編笠茶屋の裏の小料理屋、当り屋へ行って居りました。四十五、六の女房が一人、商売物の料理の仕した度くをして居りましたが、
﹁米吉のことですか、――あの子は薄墨華魁の先代の、矢張り薄墨と言った華魁の隠し子で男の子のくせに、禿かむろになって居ましたよ、可愛いい坊士禿でした。先代の薄墨華魁が死んだ後は、何んでも色子になったとか妙な噂もありましたが、吾妻屋さんに身みう請けされた二代目の薄墨華魁が見付けて来て、大層世話をして居りました。男っ振りが良いのと小柄なので、十七、八にしか見えませんが、もう二十より下では無い筈です。――女に化けるかと仰おっしゃるんですか、それはもう、男姿よりは、女姿の方がピタリとする位で、地声は太い人ですが、裏声を使うと、どうしても女としか思えません﹂
女房の話は平次を驚かすに十分でした。どうして此処へ気が付かなかったのか、毒酒と薬酒の詭きけ計いがあまりにも鮮かだったので、さすがの平次の叡智にも盲点があったのです。
﹁月見の晩、此処へ泊らなかったのか﹂
﹁泊りやしません、宵に一寸姿を見せて、預けてある荷物を持って行きましたが――﹂
それで充分でした。引揚げて神田明神下の自分の家へ帰ると、八五郎はもう鼻の下を長くして待って居ります。
﹁親分、大変なことを聴きましたよ、昨夜、あの取すました後家の華魁の、お染が――﹂
﹁乞食のような虎松を引入れて、大変な口くど説きをしたというのだろう﹂
﹁その通りですよ、下女のお友が一から十まで、隙見をして居たんですって――いやもう大変な見ものだったそうですよ﹂
﹁金のためには、国守大名にも乞食にも、平気で身を売った女だ、虎松に脅おどかされてそれ位のことをするのは当り前だ﹂
平次は早くもそれを見通したのか、さして驚く色もありません。
﹁それから、虎松の巣はわかりましたよ、妻つま恋こい稲いな荷りの裏の物置、かき廻してみると、血の付いた手拭が出て来ましたよ、血の外ほかに泥が付いて、真中は毟むしったように切れて居ますが――﹂
﹁その手拭に石を包んで、佐太郎を殴った上、大川へ投ほうり込んだのだ――手拭を捨て兼ねたのは乞食根性だが﹂
﹁すると﹂
﹁もうよい、行こう八、三丁目の吾妻屋だ、お前は下っ引をつれて行って裏表の出入口を張って居るんだ、俺は中へ入って少し捜す物がある﹂
平次は吾妻屋へ着くと、番頭の変な顔をするのを案内させて、いきなり二階の米吉の部屋へ行きましたが、押入の中の行李を捜しても、目当ての物は無かったのか、直ぐ様奥の一ト間――後家のお染の部屋に飛込んで、箪笥、長持、押入、戸棚と捜したあげく、思いも寄らぬところから、若い芸者の着そうな、派手な振ふり袖そでを見付けて、嘉七の鼻の先へ持って行くのでした。
﹁この振袖は、月見の晩、年を取った方のお酌の着て居たものに相違あるまい﹂
﹁ヘェ、そのようで﹂
平次は合図する間もありませんでした。裏口へ飛出した後家のお染は、下っ引のマゴマゴする手の下を掻いくぐって逃げてしまい、表へ飛出した美少年の米吉は、八五郎の手に、骨を折らせながらも縄を打たれてしまったのです。
* *
薄墨華魁のお染が、水死体になって大川に浮んだのはその翌あくる日、美少年米吉は、吾妻屋永左衛門と、伊豆屋の虎松を殺した罪で、獄門になったのはその後のことです。
一件落着後、平次は八五郎の為にこう説明してやったのです。
﹁米吉は坊士禿から成人して色子になり、お染の薄墨太夫に拾われて、その間ま夫ぶになったのさ。商売女のいか物喰いだよ。吾妻屋に身請されてからも、顔の一ちょ寸っと似て居るのを幸い、弟ということにしてつれ込み、不義の契を重ねて居たが、矢張り吾妻屋永左衛門が邪魔になって殺す気になったのだ﹂
﹁ヘェ? 恐しい女ですね﹂
﹁もっともあの月見の晩は、吾妻屋の方にも悪企みがあった。最初果し合いに持出した徳利には、二本共南蛮物の毒薬を仕込み、大井久我之助は何どっ方ちを取っても、助からないように仕組んだのだ。そして大井久我之助がそれを呑む――という息の詰つまるような時分を狙って、お酌に化けた米吉が、毒の入ってない徳利を持出し、それを主人の永左衛門が呑んで、目出度く大井久我之助だけを死なせる手筈だったが――﹂
﹁――﹂
﹁物事はそう都合よくは行かない、お染と米吉は相談をして、主人の永左衛門が飲む筈の、三本目の薬酒の入った徳利に、石いわ見みぎ銀んざ山ん鼠捕りを投り込んだのだ。永左衛門はそれを飲んで死んだ。杏きょ斎うさい先生が持って行った徳利二本の毒が違って居るわけだよ、――そして、お酌のお袖が――たよりに化けた米吉が、徳利を持って行って又持って帰ったと言って居るのも本当だ、石見銀山の徳利を持って行って、南蛮物の毒酒を持って戻ったのだ﹂
﹁ひどい事をしますね﹂
﹁ひどいのはそれからだ。それを嗅ぎつけて、お染へ執しつこく絡からみついた佐太郎を、虎松に誘い出させて打ち殺させ、――虎松がこれを根に持って、乞食姿にも恥じずに、お染を口説き廻ると、油断をさせて置いて木戸の外へ送って出た米吉に刺させたのだ﹂
﹁――﹂
八五郎も黙ってしまいました、あまりの事に、口をきく張合も無くなったのです。
﹁何千人の男と掛り合った女――の中には稀にこんなのもあるのだろうよ、怖いことだな、八﹂
﹁ヘッ、乞食と華魁の色模様なんざ、たまらねえな﹂
八五郎は平次の教訓より、この歪んだ情いろ事ごとの方が、遥かに面白そうです。