﹁池谷、佐々木︵味津三︶、直木など、親しい連中が相次いで死んだ。身辺うたた荒涼たる思いである。 ﹁直木を記念するために、社で直木賞金というようなものを制定し、大衆文芸の新進作家に贈ろうかと思っている﹂ 故菊池寛は、直木の死んだ直後﹃文芸春秋﹄四月号︵昭和九年︶中の﹁話の屑籠﹂にこうした思いつきを発表した。 爾来早や、二十五年を経た今日、その制定によって、毎年新進大衆文芸作家を世に送り出し、すでにことし前半期の受賞者池波正太郎氏を加えて、四十数人に達した。 しかし﹁直木賞﹂は、このように花々しく、迎えられても、記念される当の直木三十五の名と作品は、ともすれば忘れられ勝ちである。 かつて故人は、当時築地木挽町にあった、文春クラブの二階で、私に、 ﹁ボクのものなど、死んでしまったら、果たして何年くらい読まれるかな、キッとすぐ忘れられてしまうだろう……﹂ とあの長い顎︵あご︶をなでて、ポッンと﹇#﹁ポッンと﹂はママ﹈いったことがあった。私にはいま、その言葉が強く思い出される。 遺憾ながらその言葉は、当っているようでもある。でも﹃南国太平記﹄は、いまもなお新しく版を重ねている事実もある。 直木賞選考委員の一人の大佛次郎氏が、過日、本年度前半期の選考に臨むに際して、たまたま直木氏が、死の前に、晩年の仕事場として建てた、横浜市金沢区富岡の家を明らかにしたいといったのが動機で、地元の横浜ペンクラブがその宅趾︵し︶を顕彰することにし、直木氏と親しく、かつ﹁直木賞﹂選考委員でもある吉川英治、川口松太郎などの諸氏に、横浜市、商工会議所、神奈川県、その他有志によって﹁直木三十五宅趾記念事業委員会﹂が結成された。 そして、宅趾には記念碑を、付近の墓所のある長昌寺と、最初に葬った慶珊寺の前には標石を建てる運びとなった。 きたる十月六日には、その除幕式を行い、続いて七日には、横浜市音楽堂で、文芸春秋新社の後援のもとに、記念文芸講演会が開かれることになった。 碑は縦一メートル三、横二メートル九の仙台石と、大谷石の白と黒との直木好みの色で取り合わせ、横浜美術懇話会の吉原慎一郎氏が設計した。その碑面の右には、 ﹁芸術は短く、貧乏は長し﹂と刻まれることになり、文芸春秋社長の佐佐木茂索氏が、その字を揮毫︵ごう︶する。その句は、直木氏の随筆集中の一戯語からとった。 ﹁直木らしくてよかろう﹂と委員会では期せずして、あえてこのような戯語を撰んだ。 ﹁僕は、僕の母の胎内にいる時、お臍の穴から、僕の生れる家のなかを覗いて見て、 “こいつはいけねえ” と思った。頭の禿げかかった親爺と、それに相当した婆とが、薄暗くて小汚くて、恐ろしく小さい家の中に座っているのである。だが神様から、ここに生れ出ろと、いわれたのだから“仕方がねえや”と覚悟したが、その時から、貧乏には慣れている……﹂とかつて直木氏は、好んで書いた貧乏の話の一部に書いている。 そして昭和九年二月二十六日、四十三才で病没するまで、借金と税金に責められとおした。しかし一面では貧乏をまた楽しとさえもした。 ﹁紙屑みたいな物が、一万五千円︵当時の︶の金になった﹂と喜び、書きおろし全集の印税がはいると、三千円で家を、四千円で月賦の土地を、三千三百円でモリス自動車を買って、残り僅かとなり﹁金持になって、不愉快な話﹂とも書く浪費家でもあった。 ﹁身体が悪いし、悪いから、もっと働きたいので、坪三銭という土地をかりて、五十坪足らずの家を建てかけた、“日日”︵本紙のこと︶と“朝日”とを書いているので、そのどっちか一つで、建つと考えたからである。所が、九月などは流行の赤字で、大工から困りましたなア、といわれた。 外から見ると、これだけ書けば、いくら僕でも、五十坪五千円位の家は、訳なく建つだろうと――それは大いに尤もである。しかし“あれだけ多くかけば”という、その前提が大いに間違いである……﹂ と、死の数カ月前に﹁家が建たん﹂という随筆で彼はこんなふうに嘆じてもいる。 また﹁五間で狭いから、山の上に、もう一つ、私の本当の書斎を建てるつもりで、設計をしておいたが、この硝子窓の窓ワクだけが、何んと意地悪く出来上ってきた。建築上、ステール、サッシという名の、ショーウインドウの硝子をそれにはめて、所謂ドライコンストラクションという最新様式の建築であるが……﹂ などと﹁家の事﹂のなかにも書き﹁このワクが千二百円。口惜しいから、門の代りに、山の下から上まで、このワクを建て、 “どうだ、家は小さいが門だけは八つもあるぞ” と、一つの門を、菊池寛に名をつけて貰って“この門を潜ると、金ができる”次の門を潜ると“女が惚れる”久米の門は“家庭円満”総称して“八門遁甲”諸葛孔明の陣構えみたいなものだ。 書いていると面白いが、建つ見込もない洋館の窓ワクだけができ上ってきたなどとは、相当に憂欝なものだ……﹂と自らふざけても書いた。 死の直後、故菊池寛は﹁直木は富岡の家を建てなければ、死んだ時に借金はなかったんだ。とにかく書きおろし全集ではいった金は、全部富岡の家に入れ上げたんだ。一万三千円半年で注ぎ込んでいる。いま売るとなるとあんな変な家だから三千円にも売れないよ﹂と富岡の家を語っている。ロクな値に売れないだろうというわけは――押入がなく、玄関がないというおかしな家であったからである。 そのころ直木氏は、笹本寅や、故菅忠雄に﹁病気が︵せきずいカリエス︶﹇#﹁︵せきずいカリエス︶﹂はママ﹈進んで原稿生活ができなくなってからも、二年くらい生きなくちゃならないので、その間はいるつもりでこしらえた家だ﹂ともいい﹁いまから書けなくなって、三カ月たてば、施療患者になるよりほかはない。短編の筋をいま考えているが、その筋は、いよいよ書けなくなり、仕方がないから、銀座街頭で一日、十人づつにお辞儀する、そして友だちになって家にきてもらい、お茶を一ぱい出す、それを一月やると、自分が死んだ時、香典に一人から十円づつもらう、そうすると、三千円できるから、これで、子供が学校を出るまでの金ができる。どうだい、こんな筋……﹂ などとも語った。四十三年の生涯を、貧乏で終始した直木氏晩年の、富岡の家は、その終編であり、体当たりで描いた彼自身のカリカチュアでもある。 ギリシャのヒポクラテスの﹇#﹁ヒポクラテスの﹂は底本では﹁ヒボクラテスの﹂﹈名句をもじった彼の戯語は、彼の全生涯を物語る結語のようでもある。それには自ちょうとシニカルなニヒル的精神ばかりでなく、その底には金の世の中に対する鋭い批判を私は感じとる。そのゆえにこの一語は、直木の宅趾の碑に刻まれても不当でないと思う。 今日の流行作家から見たら、おかしいような話だ。 また直木さんについて思い出すのは、私が新聞社をやめ、筆一本で独立を志した時、故浜本浩君も改造社をやめ、共に出発することにした。その時、二人は親しくして貰った直木さんに、木挽町にあった文春クラブの二階で、 ﹁実は二人共決心はしたものの不安なんですが……﹂と、二、三の先輩にいったのと同じようなことの伺いを立てたら、直木さんは言下に、 ﹁そりゃ努力次第だ﹂とポツリといってくれた。その後浜本君は大いに努力の甲斐あって、先づ﹇#﹁先づ﹂はママ﹈名作﹃浅草の灯﹄以来めきめきと目覚ましい仕事をしたが、私は廻り道をしたり、怠けたりして、現状に至っている。 今度、横浜市金沢区富岡の地に直木さんは晩年の労作の場所にと撰んだ土地に建てた家の跡が、僅か三カ月で碌に住みつきもしないで他界してしまった。その宅趾に大佛さんの呼びかけで、横浜ペンクラブの人々と、偶然横浜に住みついた私も御手伝して、記念碑を建てることになった。 来る十月六日に建碑式を行う。これは県、市、商工会議所を始め、地元の有志の協力と、大佛、吉川、長谷川︵伸︶、川口松太郎の諸氏の積極的な支援で、直木三十五遺蹟記念事業委員会を組織し、文壇その他の御寄附で、この運びとなった。碑は前記の通りであるが、碑面の文字﹁芸術は短し、貧乏は長し﹂という直木さんの残した言葉を、碑前頒布し、残部は有隣堂から発売することにした。 その編集を担任した私は、直木さんの書いたものを読み返していると随筆のなかに、 ﹁平野零児、浜本浩、海音寺潮五郎、木村哲二等々今年は多くの新人が出てきたが、この及落は来年が決定する云々﹂私は既に直木さんのいう﹁来年﹂で、落第と決定していたものであったということを、今更悔いている。 建碑のことを書いた序が、つい私の愚痴に終ったが、これを機会に、直木さんのいった﹁努力﹂することを遅まきながら決意したい。