私はこの作品集のなかの作品を、﹁倒叙小説﹂と﹁直接小説﹂の二つに分けたが、この分類のしかたについては、一口いっとかなければならない。 もともと、推理小説というものは、興味の中心が知的であるという点で、ほかのいっさいの小説とちがうのである。むろん、推理小説のなかにも、感情だとか、劇的な行動だとか、ユーモアだとか、哀感だとか、恋愛だとかの要素はふくまれているだろうが、推理小説ではそんなものはアクセサリー的存在にすぎないので、よしんば、そんなものをかなぐりすてたとしても、本質的興味は、すこしも損そこなわれないのである。 では、推理小説で必要欠くべからざるものは、いったいなんであるかといえば、それは謎とその解決であって、それが賢明な読者に、知的体操とでもいうべき快感を味わわせるのである。 だが、その快感を味わわせるためには、推理小説はつぎの三つの条件をそなえていなければならぬ。 ︵一︶ その謎は、当らずといえども遠からずという程度に、読者にもすこしは解決できるように提出されなければならない。 ︵二︶ 探偵の口をかりて説明する作者の解決は、誰にでもうなずける、完全で、決定的なものでなければならぬ。 ︵三︶ 推理の材料を読者にかくしてはならない。解決を説明するまえに、あらゆる持札を、全部正直にテーブルのうえに並べなければならない。 この三つの条件、わけても︵三︶の条件をつくづく考えているうち、私は数年前面白い疑問をおこした。それは、﹁歌う白骨﹂の序文にもかいたが、最初から読者が作者とおなじ程度のことを知り、じっさいに作者といっしょに犯罪を見、読者が推理に必要な、あらゆる材料を知っているというような推理小説が、ほんとにかけるものだろうか? 読者がすべてを知ってしまったら、もう話すことは、なくなるのではないだろうか? 私はこの疑問にたいして、いや、話すことはなくならないと考えた。そして、その信念を試験するためにかいたのが、﹁オスカー・ブロズキー事件﹂なのである。ごらんのとおり、この作では話の順序が逆になっている。読者は、すべてをしっているが、作中にあらわれる探偵は、なんにもしらないのである。そして、読者の興味は、なんでもない、ささいな事柄にふくまれた、意外な意味に集中される。 そして、この作は、ピアスン誌の編集者はいうにおよばず、大西洋の東と西の批評家から高く評価された。それで、私はそうした倒叙小説をその後もしばしばかいた。この作品集には、そんな倒叙小説も加えておいた。こんな型の話を愛する読者は、こんなに犯罪編と推理編とを、順序をかえてとりあつかっても、話全体の知的興味をそこなわないばかりか、かえってそれが増すものだということを認めてくれることと思う。前半の犯罪編を読んだあとですぐ後半の推理編にうつらず、自分の知っている事柄の、証拠としての価値を考えてみたあとで後半にうつればなおさらである。
グレーヴセンドにて
フリーマン