第一回の失敗
﹁瑞ずい竜りゅう、お前は養子に行く気はないか? 相手にもよりけりだろうが、随ずい明みょ寺うじなら申分あるまい?﹂ と兄貴がニコ〳〵して切り出した。さては来たなと僕は思った。随明寺の総領娘錦きん子こさんはナカ〳〵綺麗な子だった。此方が又、自慢ではないが、秀才の誉れ高かった。その辺は寺町といって、お寺ばかり十何軒並んでいるから、皆お互に見知り越しだった。中学生と女学生だから親しい面めん晤ごはなかったが、僕は途上でチョッカイをかけたことがある。 ﹁もし〳〵。ハンカチが落ちましたよ﹂ 学校の帰りに擦れ違った時、注意してやった。錦子さんは振り返ったが、嘘と分って、 ﹁まあ! 不良さんね、イヽン﹂ と言って、行ってしまった。以来僕を見かけると、空そら嘯うそぶくようにして通って行く。 さて、その錦子さんのところへ婿養子に貰われて行く問題だ。 ﹁今日東光寺さんが見えて、お互に身許が分っているから丁度好い縁談だと思うが、何どんなものだろうと言う﹂ 兄貴は僕の無条件承諾を期待しているように浴びせかけた。 ﹁随明寺へ行けば、矢っ張りお寺を継ぐんでしょう?﹂ ﹁それは当り前だ。その為めの養子だから﹂ ﹁僕、坊主は厭です﹂ ﹁こら、坊主とは何だ?﹂ ﹁お坊さんは嫌いです﹂ ﹁何も分らないで、未だ贅沢を言っているのか?﹂ ﹁…………﹂ この問答でも分る通り、僕のところはお寺だ。しかし僕は既に坊さんになりたくないことを言明していた。それに対して、兄貴は坊さんが一番間違いないから考え直せと言っていたのだった。僕は別に望みがあった。大学へ行って法科をやって官吏になりたいと思っていた。 ﹁すると何うする?﹂ ﹁大学へ行きたいんです﹂ ﹁しかし学資は出せないよ。お前も承知の通り、家は貧乏寺だから﹂ ﹁…………﹂ ﹁随明寺へ養子に行けば、大学へやって貰える。法科はいけないけれど、哲学を勉強すれば、先生になれる。官立学校の先生なら官吏だぞ﹂ ﹁帝大へやってくれると先むこ方うで言うんですか?﹂ ﹁修業は充分させてくれるさ。元来お前の成績を聞き知って懇こん望もうするんだから、その辺は何うにでも話をつけてやる﹂ ﹁哲学以外はいけないでしょうか?﹂ ﹁無論さ。お寺を継ぐんだから、哲学も東洋哲学に限る﹂ ﹁お寺を継げば教授になれますまい?﹂ ﹁それは些ちっとむずかしいだろうな、豪い学者になってしまえば兎に角、初めからは﹂ ﹁…………﹂ ﹁家は貧乏だ。学資を出したいにも、ない袖は振られない。家からは絶対に上級学校へ行けないと思ってくれなければ困る﹂ ﹁はあ﹂ 僕は大分心が動いた。兎に角帝大へ行けるということは大きな光明だった。それから錦子さんと夫婦になれると思うと、無暗に嬉しかった。坊主だって、そんなに厭なものでない。第一、暇だ。それでいて、就職難ということが絶対にない。一切食くう役やくの保証がついている。兄貴の生活を見るに、酒も飲むし、歌も唄うし、トンカツも食うし、夫婦揃って活動も見に行く。俗人と些っとも異ことなるところがない。僕は坊さんの好いところを列挙して、兄貴二人がやっているんだから、矢張りやろうかと考えた。 その翌日だったか翌々日だったか、学校の帰りに偶然錦子さんと擦れ違った。錦子さんはいつものように空嘯かず、真赤になって立ち止まって、丁寧にお辞儀をして行った。僕はその刹那に決心を固めた。 ﹁よし、随明寺へ婿養子に行って、名僧智識になってやろう﹂と。 帰って早速兄貴に喜んで貰おうと思ったら、お客さんが来ていた。檀だん家かで一番金持の松本さんだった。僕も挨拶に出て坐り込んだ。 ﹁瑞竜さんは学校の成績が飛び切り好いんですってね。こう見るからに秀才らしい。これは坊さんには惜しいですよ﹂ と言って、松本さんが褒めてくれた。僕は松本さんの息子の房吉君と同級生だったから、家へも度々遊びに行ったことがある。 ﹁ひどいですな。それじゃ頭の悪いものばかりが坊主になるんですか?﹂ と兄貴が抗議を申入れた。 ﹁ハッハヽヽ。これは大おお失しく策じりだ﹂ こんな冗談話の中に僕が東京遊学の志望を述べたら、 ﹁瑞竜さん、中学校を卒業したら、私のところへ相談にお出なさい。何とか工夫のつかないものでもないでしょう﹂ と大おお檀だん那なの松本さんが言ってくれた。 ﹁有難うございます﹂ ﹁伜も何うせ東京へ出すんですから﹂ ﹁しかし……﹂ ﹁いや、御遠慮には及びません。御相談に乗りましょう。ついては一番で卒業して下さい﹂ ﹁一番で卒業すれば、東京へやって戴けますか?﹂ と僕は念を押した。 ﹁やって上げましょう。罪も科もないものを見す〳〵お坊さんにするには忍びません﹂ と松本さんは又兄貴にからかった。 ﹁何と仰有られても、この際は苦情を申しません。瑞竜、松本さんが後援して下されば大磐石だぞ。しっかりやれよ﹂ と兄貴も僕の年来の希望を知っているから、大喜びをしてくれた。 僕は固めたばかりの決心を翻した。錦子さんは惜しいけれど、一生の方針には代えられない。兄貴を頼んで、随明寺の方を断って貰った。序ながら、その後へ隣りの井いざ沢わし正ょう覚がくが納まった。正覚は極く気立の好い子で、僕とは竹馬の友だった。文字通り、竹馬に乗って遊んでいた時転んで股の辺りを裂いたことがある。以来玉が一つしかないという評判だったから、僕が訊いたら、チャンと二つ見せてくれた。そうして、 ﹁君、証拠人になってくれよ﹂ と頼んだのである。そこで僕はいつも正覚坊の為めに保証する役だった。小学校時代は同級だったが、卒業してからは中学と商業に分れた。お寺は貧乏でいけないから、実業家になって金を儲けるんだと言って、正覚君は商業学校へ入っていた。矢張り坊主嫌いの方で、 ﹁簿記棒で阿弥陀様を叩いたら、アカーンって鳴いたよ﹂ なぞと勿体ないことを言った。それにも拘らず、錦子さんの話が始まると、一も二もなかった。僕が断ると間もなく口がかゝって来たらしく、 ﹁君、僕は感ずるところあって、矢っ張り坊主になるよ。随明寺へ養子に行くんだ﹂ と報告した。 ﹁何を感じたんだい?﹂ ﹁十万億土の夢を見て、豁かつ然ぜんとして大悟一番したんだ。一子し出しゅ家っけの功くど徳くによって九きゅ族うぞく天てんに生しょうずというんだから素晴らしい。僕は甘んじて犠牲になる﹂ ﹁その犠牲には景品がついているんじゃないかい?﹂ ﹁えゝ?﹂ ﹁九族よりも錦子さんだろう?﹂ ﹁それを言うなよ。ヘッヘヽヽ﹂ ﹁お芽出度う﹂ と僕は背中を叩いてやった。首がガクリというくらい、正覚坊は気が弛んでいた。 西さい行ぎょ法うほ師うしのように浮世の無常を感じて出家するものもあれば、正覚坊のように綺麗なお嫁さんに釣られて、商業学校から坊主に転向するものもある。こういうのは悟りを開いても知れたものだろうと肚の中で馬鹿にしていたが、僕は間もなく正覚君の境遇が羨ましくなった。当てにしていた大檀那松本さんが死んでしまったのである。一番で卒業したけれど、実は御主人に学資を出して戴く約束でしたと言って行けない。随明寺の方を断るのではなかったのにと後悔した。 ﹁困ったな、これは。養子に行くにしても、今更好い口がない﹂意気軒昂の水鳥会
僕は茫然自失という形だったけれど、御方便なもので、奮起一番、方針を立て直した。こうなれば、自力でやる。天意がそこにあると思った。中学校の校長先生のところへ相談に行ったら、県庁へ紹介してくれた。丁度欠員があって、月給三十五円の雇員に採用して貰った。今なら五千円というところだろうが、十年前の話だ。食くい扶ぶ持ちを入れる代りに貯金しろと兄貴が嫂の理解を得て言ってくれた。四五年やれば東京へ行く学資が出来る。夜学の大学へ通って高等文官試験を受けようという遠大な計画だった。 ﹁順当に行っても高等学校大学と六年かゝります。此方は廻り道ですから、少し手間がかゝりましょう。三十までに試験を取れば宜いです﹂ と僕は急がず撓たゆまずやることにした。 同じような計画の青年が同僚の間に二人いた。一人は中学校の先輩尾崎君で、もう一人はその年商業学校を出た黒須君だった。目の寄るところへ玉で、三人忽ち肝胆相照らした。 僕達は退庁後よく散歩をした。四時仕舞いだから、随分議論をしても日が暮れない。三度に一度は狐ウドンで晩餐を共にした。 ﹁何うだい? 三人の会を青雲会としようじゃないか? 青雲を望む会だ﹂ 年長で大将株の尾崎君が散歩の途上空を仰ぎながら申出た。 ﹁宜かろうね﹂ と僕は賛成したが、黒須君には別の案があった。 ﹁青雲会も好いけれど、少し安っぽくはないかい?﹂ ﹁青雲の志だもの、安っぽいことはなかろう﹂ ﹁いや、露骨だからさ。もっと婉えん曲きょくに行きたい﹂ ﹁それじゃ何か考えがあるのかい?﹂ ﹁水鳥会は何うだろう? 水鳥は呑気そうに浮いているけれど、足は始終足掻いている。僕達もこうやってノコ〳〵散歩して無駄口を叩いているけれど、肚の中は立身出世を念がけて間断なく足掻いている﹂ ﹁なるほど﹂ ﹁そこを現して水鳥会さ﹂ ﹁巧いね﹂ ﹁これは好い﹂ と尾崎君と僕が賛成して、会の名が水鳥会と定った。その晩は発会式の積りで天丼を食べた。 夏の暑さで中止になった散歩が秋になってもそのまゝだった。雨降りが続いたからかも知れない。冬になってから、尾崎君の家へ遊びに行くことが始まった。尾崎君のところは僕と黒須君の家の中間にあったから、都合が好かった。相変らず、立身出世を話す。或晩、尾崎君と黒須君が揃って、僕のところへ訪ねて来た。 ﹁井沢君の家は何方隣りだね?﹂ と黒須君が訊いた。黒須君は正覚君と商業学校で同級だった。 ﹁此方だよ。養子に定きまって東京の仏教大学へ行っている﹂ ﹁君が僕のことを知らせたと見えて、東京から手紙をくれたよ﹂ ﹁僕のところへもチョク〳〵来る。大変な手紙だったろう?﹂ ﹁驚いたよ。錦子さん〳〵だ。その人と毎日手紙の交換をしているのらしい﹂ ﹁一日一信だと書いてあった。当てられるよ﹂ ﹁君は一種の恋こい敵がたきってものかな?﹂ ﹁そうじゃないよ。此方は断ったんだから﹂ ﹁何しろ手放しだ。錦子さんとの仲は、天にあらば比ひよ翼くの鳥、地にあらば連れん理りの枝。それは好いが嘘字が沢山書いてあった﹂ ﹁こゝの悪い男かい?﹂ と尾崎君が自分の頭を指で叩きながら乗り出した。尾崎君は偶たま随明寺の檀家だった。 ﹁悪いって程でもないが、慌てものだ。試験の時に手を挙げて﹃先生、カンニングをしても宜うございますか?﹄と訊いたくらいのものだから﹂ ﹁馬鹿だな﹂ ﹁ナイフを借りるのを合図に教えるという申合せさ。それで、ナイフを借りてと訊くのをカンニングと言ってしまったんだ﹂ ﹁ハッハヽヽ﹂ ﹁告白したようなものさ。先生は憤ったよ。余り馬鹿にすると思って﹂ ﹁カンニングをやるのかい?﹂ ﹁いや、案外正直だ。カンニングをやる積りで準備をして来るけれど、度胸がないらしい。しかしそのお蔭でいつも中軸の成績だったよ﹂ ﹁何のお蔭で?﹂ ﹁カンニング・ペーパーを拵えるお蔭で、結構覚えてしまうんだ﹂ ﹁僕はいつも思うんだが、カンニング・ペーパーに書き込む面倒を勉強に向けたら、充分準備が出来るだろうにね﹂ ﹁そこだよ。井沢君はカンニングをする気にならないと勉強が出来ないんだ。唯だと張合がなくて頭に入らないと言う﹂ ﹁変な奴だな﹂ ﹁つまりカンニングという猟りょ奇うき的てき刺しげ戟きがないと、本気になれないらしい。変な癖だけれど、それを効果的に利用していたんだから、ナカ〳〵隅に置けない人間だと思う﹂ ﹁品行は大丈夫かい?﹂ ﹁乙だろうな﹂ ﹁悪いね﹂ ﹁茶目だからさ。悪わる気ぎはないけれど、先生から始終睨まれていた﹂ ﹁そういえば、始終何かやっていたよ﹂ と僕は思い出した。 ﹁君は親友だろうからな﹂ ﹁僕のところへ来て、一々失敗を報告する。好奇心が強いんだね。いけないということは何でもして見たいんだ。君、昨夜はカフェーへ探検に行って、あべこべに悉すっ皆かり探検されてしまったと報告したことがある﹂ ﹁何うしたんだい?﹂ ﹁長い憧れのカフェーへ行ったのさ﹂ ﹁しかし学校の生徒は寄せつけまい﹂ ﹁そこは考えて、商店の若旦那に扮装して入り込んだ。仲間が一人ある﹂ ﹁それは君だろう?﹂ と黒須君は美事言い当てた。 ﹁ハッハヽヽ﹂ ﹁見ろ﹂ ﹁それじゃ二人分告白する。諜し合せて、多少懐ろを温かくして出掛けたんだ。女給にはチップをやるものだと聞いていたから、入るとすぐに、五十銭銀貨を二枚握らせた。一枚宛だよ、女給は二人だったから﹂ ﹁ケチだね﹂ ﹁いや、引続いて十分毎に一枚宛寄進についた。しかし、これが拙かったらしい﹂ ﹁チップは後からやるものだろう﹂ ﹁それだからさ。此奴等雛っ子だと見られてしまった。 ﹃ちょっと、あなた方は中学校か商業の生徒さんじゃない?﹄と訊くんだ。僕達はギョッとして、顔を見合せたよ。知れゝば退学ものだからね﹂ ﹁何と答えた?﹂ ﹁馬鹿あ言えと威張って、又五十銭やった。﹃ちょっと、あなた方はお葬式の帰りじゃない? お線香の香においが沁みているようよ﹄と又一人の女給が言うんだ。僕達は又顔を見合せて、又五十銭やった﹂ ﹁ハッハヽヽ﹂ ﹁するともう一人が﹃ちょっと、あなた﹄と言って、僕の手を握った。綺麗な方の奴さ﹂ ﹁涎よだれが流れるぞ。ダラシがない﹂ ﹁﹃ちょっと、あなた、あなた方はお寺さんじゃない?﹄と来た。﹃馬鹿を言え﹄﹃でも、戴く五十銭銀貨には皆御飯粒の固りがついているわ。お布ふ施せをちょろまかして剥がして来たんでしょう?﹄と図星を指しやがった﹂ ﹁ハッハヽヽ﹂ ﹁こゝは不浄人種の来るところで、坊さんや学生さんの足を踏ん込むところじゃないからお帰りなさいと言ったけれど、チップは一向返してくれない﹂ ﹁当り前さ﹂ ﹁足許の明るい中にと思って、早速逃げて来た﹂ ﹁態ざまを見ろ。ハッハヽヽ﹂ ﹁坊主が女給にお説法をされるようじゃお話にならないな﹂ と尾崎君が歎息した。 ﹁元来が正覚君の発ほっ起きさ。頓狂者だから、事を共にすると、飛んでもないことになる﹂ ﹁そんな風で随明寺が継げるだろうかな?﹂ ﹁利巧だから、何とか誤魔化しをつけるだろう﹂ ﹁いや、僕にしても檀家だから、結局その正覚君に引導を渡して貰うことになる﹂ ﹁成程ね﹂ ﹁そんな頓狂者なら、地獄極楽を間違えないとも限らない﹂ ﹁これは痛快だ。ハッハヽヽ﹂ ﹁比翼連理じゃ浮べないよ﹂ 尾崎君は陰気な冗談を好む男だった。その晩はこれが切っかけになって妙に死ぬ話が続いた。第二の失敗
水鳥会が一年続いた。黒須君は肋膜炎を患って、長らく欠勤を続けた後、退職した。死ぬのではないかと思ったが、好い塩梅に容態が好転した。しかし再び働けるまでには容易のことでない。尾崎君と僕は時々見舞いに行って元気をつけてやった。
自然、僕は尾崎君を訪れて、差向いで話すことが多かった。お母さんも妹の町子さんも僕を歓迎してくれる。町子さんはいつしか女学校の五年生になって、見違える程器量を上げた。僕は特別女性に脆いのか何うか、会う度に惹きつけられ始めた。僕が行くと、町子さんはいつもお茶の給仕をしてくれる。或時は尾崎君と町子さんと僕とで映画を見に出掛けた。町子さんが間に挾まって坐って、僕にばかり話しかけてくれた。
その人の面影を忍ぶと、桜の花が咲いたように周囲が明るくなる。何となく嬉しくて、胸がドキ〳〵する。それが恋愛だろうと僕は思っている。町子さんを貰ったら幸福だろうと考えるようになった。尤も差当りは何うすることも出来ない。高文試験を取ってからの話だけれど、今から約束を定めて、待っていて貰えば、何んなに励みになるか知れない。僕は機会を見て尾崎君に懇望して見ようかと思っていたが、尾崎君は勉強一心だった。
﹁君、今は高文突破以外に何もない。道は一筋だ。その道が首相官邸まで続いているんだから有難いじゃないか?﹂
と言う。僕が県知事さえ諦めかけているのに、総理大臣になれる積りだ。少し誇大妄想のようなところがあるから、恋愛問題に共鳴してくれまいと察して差控えた。
しかし町子さんへの思慕が日ひま増しに募って来た。面影を浮べると周囲が花盛りのように明るくなる。つい惹きつけられて、尾崎君のところへ足が向く。尾崎君は無論未だ独身だけれど、もう家長だから、用が多い。僕が訪ねて行っている間に客が来て、その応対に出なければならないことがある。そういう折からは町子さんが話相手をしてくれるから書き入れだ。兄貴よりも妹に会いたくて訪れる。こうなっては宜しくないけれど仕方がない。
﹁町子さん、あなたはもうソロ〳〵お嫁にいらっしゃるんでしょうね?﹂
と僕は訊いて見た。
﹁まあ! 厭な木下さんね﹂
﹁何故ですか?﹂
﹁私、お嫁になんか行きませんわ﹂
﹁しかし来年はもう御卒業でしょう?﹂
﹁卒業すればお嫁に行くものと定っていますの?﹂
﹁そういう世間相場ですから﹂
﹁相場なんて失礼よ﹂
﹁それじゃいらっしゃらないんですか?﹂
﹁えゝ。兄が高文試験を取るまで側についていますの﹂
﹁五年も六年もかゝって、お婆さんになってしまいますよ﹂
﹁三十になっても四十になっても構いませんわ﹂
僕は町子さんの誇張を善意に解釈した。序に何年でも僕を待っていてくれるという意味らしい。それなら約束して置いてくれるだろうと思って、申込の手紙を書いた。決して浮いたことでない。修身の答案のような鹿爪らしいものだった。次ぎの機会に婦人雑誌を買って行って、
﹁これを御覧下さい﹂
と言って手渡した。無論手紙が入れてある。これは僕が数日かゝって絞った智恵だった。まさか手紙丈けを剥き出しには渡せない。
二三日訪問を控えて返事を待っていたが、音沙汰なかった。そこで又出掛けたけれど、尾崎君が頑張っていて、機会を提供しない。殆んど日参したら、三晩目ぐらいに、尾崎君が散髪に行って、もうすぐ帰るということだった。上って話している間に、
﹁町子さん、この間の僕の作文、読んで下さいましたか?﹂
と冗談のように訊いて見た。
﹁…………﹂
﹁町子さん﹂
﹁えゝ﹂
﹁何うですか?﹂
﹁私、御返事を書いたんですけれど……﹂
﹁有難いです﹂
﹁でも、やめましたわ﹂
﹁何故?﹂
﹁あなたのお名前、木下瑞竜でしょう。お坊さんらしくて、ロマンチックの気分が消えてしまったじゃありませんか?﹂
﹁…………﹂
﹁宛名まで書いて考え込んでしまいましたの。私、あなた、決して厭じゃないんですけれど……﹂
そこへもう尾崎君が帰って来た。奴さん、何ういうものか、機嫌が悪かった。その翌朝だった。役所で顔が合うと直ぐに、僕の腕を捉まえて廊下へ引っ張り出した。
﹁君は妹にラブ・レッターを送るなんて、不都合千万じゃないか?﹂
﹁ラブ・レッターという程のものじゃないんだよ﹂
﹁いや、僕は読んだ。要するに下らないことが正々堂々と書いてある﹂
﹁…………﹂
﹁出世以外のことを考える時か?﹂
﹁多少は仕方あるまい。人間だもの﹂
﹁断るよ。妹はズボは嫌いだと言っている﹂
﹁ズボとは?﹂
﹁坊主だ﹂
﹁失敬な﹂
﹁何方が失敬だ? 妹の縁談の邪魔になるから、もう一切寄りつかないでくれ給え﹂
﹁宜いとも﹂
﹁道で会って話しかけても困るよ﹂
﹁安心してくれ。迷惑はかけない﹂
その日、家へ帰ったら、町子さんから郵便で手紙が来ていた。
あら〳〵走り書きよ。御免下さい。
私、あなたが嫌いじゃありませんが、お坊さんらしいお名前が厭ですの。瑞竜さんなんてロマンチックじゃありませんわ。竜太郎とでも改めて下さい。でも、兄さんが憤ってしまったから駄目ですわ。兄さんと仲直りをして下さいよ。兄は出世以外何も考えていませんから困ります。あなたがお出下さらなければ、この手紙、これで最後になります。
かしこ
不幸な乙女
僕は黒須君のところへ相談に駈けつけた。丁度尾崎君が役所の帰りに寄って行った後だった。僕のことを水鳥会の精神を裏切る賊徒だと言って罵ったそうだ。僕は町子さんの為めに尾崎君の御機嫌を取ったけれど、一こくな奴だから梃てこでも動かない。そのまゝ絶交の形になってしまった。