片岡君は又禁酒を思い立った。 思い立つ日が吉日というが、片岡君は然そう右から左へ埓を明けたがらない。思い立ってから吉日を探し当てるまでに可なり手間がかゝる。 ﹁今から禁酒しても来月は小杉君が洋行するから送別会がある。俺は一番懇意だから何うしたって発起人は免れない﹂ なぞと言って、兎角大だい切じを取る。 ﹁あなたのような方は身投げの決心をしても大丈夫でございますわね﹂ と細君が冷かす。 ﹁何故?﹂ ﹁何故って、こんな深いところじゃ迚とても助かるまいって先ずお考えになりますわ﹂ ﹁然うかも知れない。未練があるのさ。子供がないんだから、酒でも飲まなくちゃね﹂ ﹁ですから是非おやめなさいとは申上げませんよ。適度に召上ったら宜しいじゃございませんか?﹂ ﹁その適度がむずかしいから一思いにやめようと言うのさ﹂ ﹁それならおやめなさいませ﹂ ﹁やめるよ。小杉君の送別会を切っかけに断然やめる﹂ と力りきんだのは数月前のことだったが、その小杉君がアメリカへ着かない中にもう撚りが戻って、又やめる必要を認めたのである。片岡君は年に三四回思い立つ。そうして吉日を定めるのに暇が要る代り、後は極めて手っ取り早い。精々一週間だ。二週間と禁酒が続いたことはない。 しかし今回は細君も適度のむずかしいことを承知する理由があったので、 ﹁然う決心して下されば、私も何より安心でございますわ﹂ と全然悃願的態度を取った。片岡君は禁酒から禁酒までに必ず溝どぶへ落ちる。今度のはそれが少し念入りだったのである。身投げの決心をしても大丈夫なことは細君の保証するところだが、酔っていてお濠ほりへ落ちたのだから危かった。深い浅いを考える余裕がなければ死んでしまうかも知れない。 ﹁未だ決心した次わ第けでもないんだ﹂ と片岡君、今回は決心からして手間を取るようだった。 ﹁この間のようなことがありますと、私だって黙っていられませんよ﹂ ﹁俺もそれを考えているのさ。あれが人通りのないところだったら確かに死んでいる。揚げて貰うまでに相応水を呑んだからね。しかしあの時死んだと思えば、これから先の命は只儲けだとも考えられる﹂ ﹁人が本気で申上げていれば、あなたは管くだを巻いていらっしゃるのね?﹂ ﹁勝手にしろと来たか?﹂ ﹁いゝえ、然うは申上げられませんよ。それは、あなたはお好きなお酒と心中なされば御本望でございましょうが、後で私が困りますよ。貯金は碌すっぽないし、保険には入って下さらないし、何う致します? お嫁に行きたくたって三十五にもなっちゃ貰って下さる方はありませんよ﹂ ﹁ツケ〳〵物を言う女だなあ﹂ ﹁せめて二三万なくちゃ死んで戴けませんよ﹂ ﹁二三万円あれば殺す気だな?﹂ ﹁殺しもしませんが、死んでも困りませんわ﹂ ﹁金の代りに生きているようなものだね。よし〳〵、済なしくずしに天命を完まっとうする算段をするさ。いよ〳〵真ほん実とうにやめるかな﹂ ﹁今度こそ是非やめて戴きます。これからはお酒を仇と思って戴きましょう﹂ ﹁ウィスキーに外濠へ突き落されたと思えば仇と考えられないこともないが、俺わしは武さむ士らいの子だから、直きに仇に繞り会いたくなる﹂ ﹁相変らず古い洒落ね。親の仇と思わなくても宜いわ﹂ ﹁それじゃ人類の敵と思おう。しかし汝の敵を愛せよという宗教もある﹂ ﹁未練な人ね、余っ程﹂ ﹁未練はあるが、いよ〳〵発ほっ心しんすると俺も来年は厄年だ。段々落ちるところが出世するから、この分で行けば今度は大川か海へ落ちるに定きまっている。俺だって命は惜しい。決心する﹂ ﹁決心がおつきになったら、善は急げでございます﹂ ﹁まあ然う急ぐこともない。急せいては事を仕損じる﹂ ﹁いゝえ、思い立ったが吉日と申します。今晩はもうそんなに召上ってしまったんですから、明日からおやめ下さい﹂ ﹁明日からやめても二十五日に忘年会があるぞ。忘年会が。俺は幹事だ﹂ と片岡君はお株を始めた。宴会には必ず幹事か発起人を承わっている。到底飲み頭だ。 決心から実行までの期間、片岡君はこれがこの世の飲み納めという考えがあるから無制限に飲む。細君も好きなお酒をやめてくれるのかと思えば気の毒が先に立つ。死刑囚には望み通り叶えてやるのが人情の自然で、機嫌好く飲ませる。片岡君は或はこの辺の兵法を弁わきまえていて時々発心するのかも知れない。兎に角忘年会まで一週間大いに飲んだ上に忘年会で又大いに飲んだ。幸い何処へも落ちずに家へ帰り着いたのは腰が立たなくなって自動車に乗って来たからだった。 ﹁お尚や、今夜は飲むよ﹂ とその翌晩片岡君が晩酌を要求した時、細君は、 ﹁あなた、それはお約束が違いますよ﹂ と無論反省を促した。 ﹁年の暮は半端でいけない。来年からやめる。此年は何うせ飲んだんだから、このまゝ完全に飲んでしまって、年が改まってから綺麗さっぱりとやめる﹂ ﹁仕様のない方ね﹂ ﹁二十年来飲んだ酒だ。昨日の今日と然う手の平を返したようにやめちゃ人情に背そむくよ。これから大晦日までゆっくり名残りを惜しませておくれ。お前だって二十年もつけ続けた白粉をやめるとなったら、少しは未練が出るだろう?﹂ と片岡君は理窟を言い出した。 ﹁白粉とお酒とは違いますわ﹂ ﹁品物は違っても道理は同じことだ。そんな不景気な顔をしていないで早く出しなさい﹂ ﹁それなら真実にお正月からやめて下さいますか?﹂ ﹁やめるとも。来年は厄年だ。頼まれても飲まない。今度のは真剣だから、自然こんなに大だい切じを取るのさ﹂ ﹁それじゃ大晦日までお上りなさいませ。丁度それぐらい残って居りますわ﹂ と細君はなまじ争って来年も飲むなぞと旋つむ毛じを曲げられては困ると思ったから、快く晩酌を許した。 これで片岡君は数日の小康を得た。 ﹁斯う念を入れて置けば未練もなくなる﹂ と言って毎晩余命を楽しんだ。大晦日には日頃好む肴を悉すっ皆かり用意させて、宵の口から十二時まで飲み続けた。 ﹁これが人生最後の盃だ﹂ といよ〳〵お積つもりに達した時除夜の鐘が鳴り始めた。 ﹁お名残り惜しゅうございましょう﹂ と細君が笑った。 ﹁いや、今度は決心が堅い。俺も酒では長いことお前に苦労をかけた。いよ〳〵この一杯で永遠の禁酒だ。赤せき誠せいを示すぞ﹂ と片岡君は飲み乾して盃を膳の上へ置くが早く、火箸を取って叩き破わった。 ﹁まあ、そんなことをなさらなくても宜しいじゃございませんか?﹂ ﹁いや、これぐらいやらないと未練が残る。今度は本気だ。二十年来の問題を解決してしまう﹂ ﹁その意気込みなら大丈夫でございましょう。私も安心致しました﹂ と細君は嬉しがった。片岡君は人生最後の酒を酌む為めに愛あい玩がんの逸品を使ったのである。それを破わったのだから無論誠意はあった。のみならず今回は思い立つ日が元日に当る。これぐらい吉日はない。 一夜明けても、片岡君の決心は堅かった。 ﹁お屠と蘇そのないお正月は初めてゞございますわね﹂ と細君の方が手持ち無沙汰だった。吉例でも蟻の穴になるといけないと言って、主人公自ら然う手筈を極めて置いたところは用意周到真に見上げたものである。 ﹁しかし家よりも外が大切だ。正月は何処でも勧めるからね﹂ と片岡君はその辺も疾うに考えていた。 ﹁御年始は、名刺丈け置いて簡単になすったら宜しゅうございましょう﹂ ﹁然うばかりも行かないが、何あに、決心さえ堅ければ大丈夫さ﹂ ﹁それでも禁酒をなさるには一番悪い時機でございますわね。三※﹇#小書き濁点付き片仮名カ、172-上-1﹈日は何処へいらしってもお酒が出ますから﹂ と細君は内心危んだ。 ﹁然ういう誘惑の多い時の方が却って意志の鍛錬になるよ﹂ ﹁会社が始まりますと、又新年宴会がございましょうね?﹂ ﹁ある。しかし今度は幹事じゃない﹂ ﹁三※﹇#小書き濁点付き片仮名カ、172-上-8﹈日とその宴会でございますわね﹂ ﹁然うさ。それを突破すれば後は当分寛くつろげる。大丈夫だよ。今までは恐れていたからいけない﹂ と片岡君は悉皆作戦計画を立てゝいた。 それで雑煮丈け祝って年始廻りに出掛けた時も堅い決心だった。二三軒は細君の入れ智恵通り、そっと名刺を置いて逃げ出した。しかしこれでは稍や卑怯だと思った折から飲み友達の津田君の玄関で主人公とバッタリ顔を合せてしまった。 ﹁さあ、上り給え。吉例だ﹂ ﹁一寸失敬しようか﹂ と片岡君は度胸試しという気もあった。 ﹁幾つになっても正月は好いものだね。今日はゆっくりやろうじゃないか?﹂ と津田君はもう少し召上っていた。 ﹁好い色をしているね﹂ と片岡君は褒めた。早速禁酒の決心を発表する積りだったが、相手のほろ酔い機嫌を見て取って差控えたのである。 ﹁朝っぱらから大ビラに飲めるところが元日の功徳さ。唯年を取る丈けの分なら何にも面白可笑しいことはない﹂ ﹁それも然うだな﹂ ﹁僕は今君の来るところを二階から見ていたんだよ。これぞ好き敵御ござ参んなれとね﹂ ﹁道理でうまく捉まった﹂ ﹁覚悟をし給え。その代り明日は此方から押しかけて行く﹂ ﹁待っているよ﹂ と尚お胆力を試している中に奥さんがお膳を運んで来た。正月は何処でも支度がしてあるから手っ取り早い。 ﹁吉例だ。屠蘇から先になさい﹂ と津田君が命じた。 片岡君は発表が後おくれると共に、 ﹁仮りに今から禁酒するとしても……﹂ と考え始めて、 ﹁……明日明後日は来客があるに定っているし、その先に新年宴会というど豪えらい奴が控えている。無論決心は堅い。今更翻ひるがえすのではない。交際上拠よんどころなく延すのだ。何も元日早々こゝの奥さんに恥をかゝせることはない﹂ と次いで度胸を据えたから、 ﹁何うぞお一つ﹂ と奥さんに勧められた時、 ﹁恐れ入ります﹂ と受けて少しも悪びれた様子を見せなかった。 片岡君は朝から鎧を着たような重苦しい気分に圧迫されていたが、今やそれが取れて悉すっ皆かり寛くつろいだ。元日が元日らしくなって来た。新年宴会までだと思えば心に疚やましいところもなく、年礼にも励みが出て、それから三四軒廻った。最後に佐原君の家を辞したのは夜の十時過ぎだった。 ﹁停留場まで送ろうか?﹂ と佐原君が言ったけれど、 ﹁いや、大丈夫だ﹂ と片岡君は答えた。朝の大丈夫とは大丈夫が違う。 ﹁兎に角その角まで送ろう﹂ と佐原君は責任を感じて門までついて来た。 ﹁いや、真ほん実とうに大丈夫だ。明日待っているぜ。津田君も堀川君も来る。有難う﹂ と謝して、片岡君は歩き出した。案外足取りが確かだったので佐原君は安心して引っ込んだ。 片岡君は酒を過すと種々の芸当を演じる。 ﹁もし〳〵、彼処の停留場までは未だ余程ありますか?﹂ と少しば時らくの後、酔すい歩ほま蹣んさ跚んとして通行人に訊いたのはその序曲だった。 ﹁停留場は彼あっ方ちですよ。此方へお出になると遠くなるばかりです﹂ とその人が笑いながら教えてくれた。 ﹁遠いのは苦にならない﹂ ﹁でも此方には停留場はありませんよ﹂ ﹁なくても宜いい。一緒に参りましょう﹂ と片岡君は追い縋った。 ﹁駄目ですよ。遠くなるばかりですよ﹂ と親切な人は片岡君を捉まえて、停留場の方へ振り向けて小突いてくれた。 ﹁野郎! 覚えていろよ!﹂ と片岡君は憤ったけれど、 ﹁遠いのは苦にならないが、道の駄々っ広いのに弱る﹂ と言いながら、そのまゝ引き返し始めた。 そこは実際広いことは広い往来で、両側に街路樹が植えてあった。片岡君はそれを一本々々千鳥にかけて道幅を測るから、益広きを覚える。可かなり歩いた積りだけれど、容易に停留場へ出ない。 ﹁広いにも広いが遠いにも遠い﹂ と街路樹の柵に凭もたれて、暫ざん時じ休憩と定めた。 ﹁何うかなさいましたか?﹂ と通り合せた人が寄って来た折、片岡君は唸っていた。 ﹁出られない。何うしても出られない﹂ ﹁出られないことはないです﹂ ﹁いや、どうしても出られない﹂ と片岡君は泣き声を出したが、何処へも入っているのではない。柵に捉まって一本の樹の周まわ囲りを外から四角にグル〳〵廻っているのだった。 ﹁大分酔っていますな﹂ と通行人は片岡君を柵から引き放して、 ﹁何処へいらっしゃる?﹂ ﹁家へ帰る﹂ ﹁お家は何処です?﹂ ﹁余計なお世話だ﹂ と極めつけて、片岡君は又道幅を測り始めた。それでも本ほん性しょう違たがわず、漸ぜん次じ停留場へ近づく。 ﹁何うしても通れない﹂ と呟いて竟ついに立ち止まった時、片岡君は電信柱と睨みっこをしていた。片岡君が右へ避けると電信柱が右へ寄った。左から抜けようとすると又左へ動いた。 ﹁一体何本あるんだろう?﹂ と大地に坐って眺め入っている中に睡ねむ気けを催して横になった。直ぐ側が溝どぶだ。片岡君はもう少しのところまで漕ぎつけた。 幸いそこへ巡査が廻って来て、 ﹁もし〳〵﹂ と揺り覚してくれた。 ﹁何だ?﹂ ﹁何だじゃありません。こゝは往来ですぞ﹂ ﹁往来だ?﹂ と片岡君は欠伸をした。可なり長く寝ていたと見えた。 ﹁もう大分更けていますから、早くお家へお帰りなさい﹂ ﹁…………﹂ ﹁もう寝ちゃいけません。お宅まで送りましょう。何処ですか?﹂ と巡査は片岡君を扶け起そうとした。 ﹁赤坂だ﹂ ﹁遠方ですな。もう電車はない。何うです? 俥を呼んで来て上げますから、大おと人なしく帰って下さい﹂ ﹁帰る﹂ と片岡君はそのまゝ又寝てしまった。 元日の深しん更こうに俥屋は客待ちをしていない。巡査は俥屋を叩き起すのに手間を取った。矢張り酔っていて出渋るのをお願い申して現場へ来て見ると、片岡君は溝の中で鼾をかいていた。 ﹁旦那、これは御免蒙りますよ。溝に落ちているんじゃ少し話が違います﹂ と俥屋はプリ〳〵した。 ﹁いや、先さっ刻きは落ちていなかったんだ。まあ、揚げてやってくれ﹂ と巡査も持て余した。 ﹁厄介な野郎だな﹂ と舌打ちをして、俥屋は片岡君を引き揚げた。片岡君は嚔くしゃみをしたから死んでいるのではなかった。 ﹁俺わっしはこれで御免蒙りますよ﹂ と俥屋は逃げようとした。 ﹁まあ待ってくれ、何うにかなるまいか?﹂ ﹁迚とても駄目です。この通り溝どぶ泥どろだらけですから、俥が汚れて明日の商売に差支えます﹂ ﹁君のところに荷車があるだろう?﹂ ﹁ありますが、俺わっしも未だ荷車を引くほど落ちぶれない積りです﹂ ﹁まあ〳〵、何とかそこのところを都合つけてくれ。この通りもう腰が立たないんだから、打うっ棄ちゃって置けば凍え死んでしまう﹂ と巡査が尚お悃願したので、俥屋も到頭納得した。 間もなく荷車が来て、片岡君は扶けられながらそれへ這い上った。 ﹁実に臭いな﹂ ﹁臭いですよ。お歯黒溝ですからな﹂ と巡査と俥屋は片岡君のマントの裾で手を拭いた。 ﹁旦那、赤坂は何の辺ですえ?﹂ と俥屋が行先を確かめたら、旦那さまは懐ふと中ころから年賀の名刺を出して振り撒くほどに分別がついていた。 ﹁宜しく頼むよ﹂ と巡査が俥屋に言った。 ﹁済まない﹂ と片岡君は忽ち荷車の上に起き直った。 ﹁矢っ張り本ほん性しょう違たがわずだな﹂ と巡査は先刻からの親切を謝されたと思って嬉しがったが、片岡君は、 ﹁しかし新年宴会までは飲ませておくれ﹂ と細君のことを考えていたのだった。 ﹁へん、こんなになっても未だ飲む算段をしていなさるか?﹂ と笑って、俥屋は荷車を持ち上げた。弾みを食って片岡君は仰向けに倒れたが、そのまゝ又寝てしまった。 その頃片岡夫人は女中と交代に門かど口ぐちを出たり入ったりしていた。夕刻主人が戻らなかった時、これはもう禁酒が破れたものと察したが、十時十一時と音沙汰がなかったので不安を催した。それでも最初の中は、 ﹁清や、旦那さまは又溝へでも落ちたんだよ。あんなに溝どぶの好きな人はないからね﹂ と強いことを言って高を括くくっていた。それから十二時までには、 ﹁清や、私、気が気じゃないよ。まさかお濠じゃあるまいと思うけれども﹂ と自動車の音が聞える度毎に門へ出て見た。一時近くになった時、 ﹁真ほん実とうに人の心も知らないで……﹂ と細君はもう居ても立っても落ちつかなかった。大川じゃなかろうかとまで考えたのである。 一時半になった。世間は森閑と静まった。もう自動車も通らない。 ﹁奥さま、旦那さまが……荷車で……﹂ と突然女中が門のところから喚いた。 ﹁はっ!﹂ と細君は膝についていた両手を辷らせた。同時に、 ﹁大変ですよ﹂ と呼ぶ俥屋の声が聞えた。てっきり電車に轢かれたと思い込んで駈け出て見ると、主人公が荷車の上で動いていた。 ﹁お怪我は?﹂ と恐ろしく甲かん走ばしった。 ﹁怪我はありません。溝の中に寝ていなすったんで﹂ と俥屋は片岡君の襟首に手をかけた。 ﹁まあ宜うございましたわね﹂ と細君は扶け下そうとした。 ﹁うっかり触れませんよ。糸いと蚯みみ蚓ずがついていますぜ﹂ と俥屋は爪つま弾はじきをしたが、細君は溝へ落ちて貰ってこんなに嬉しかったことはなかった。 ︵大正十五年一月、面白倶楽部︶