津島君の子爵病は長いことだった。一杯やると発ほっ作さて的きに催す。遠く王おう政せい維いし新ん廃はい藩はん置ちけ県んの頃に溯さかのぼって、 ﹁祖じじ父いがその時好機会を逸しなかったら、僕も今頃は子爵の御前様で納まり返っていられるのになあ﹂ と口惜しがるのを常とした。生れてもいない昔のことを今更何と言っても仕方あるまいに、そこが酒の上だ。酔えば無暗に喧嘩を吹っかける奴さえあるのだから、五十年前の愚痴なら先ず〳〵好い酒癖の部類に属する。 ﹁又始まったぜ﹂ と友達も安心して聞いていられる。 ﹁危い〳〵﹂ と言ってビール壜を片付ける必要もない。 津島君の子爵病は家庭でも時々起った。それも新婚当時は白しら面ふでいて、 ﹁お琴や、考えて見ると気の毒だよ。巧く行っていればお前は子爵令嗣若夫人だったのにね﹂ と真まっ向こうから細君に同情を寄せるのだった。そうして厳父逝去後は晩酌の折に触れて、 ﹁お祖父さんがもう少し融ゆう通ずうの利きく人だったら、お前も子爵夫人になっているのになあ﹂ と当然襲しゅ爵うしゃくの形で話した。 ﹁あなたが華族さんなら、平民の私なんか迚とてもお嫁に来ていませんわ﹂ ともうその頃は若夫人も三十を越していた。 ﹁成程。それも然うだな﹂ ﹁オホヽ。感心していますのね?﹂ ﹁して見ると華族でなくて宜よかったかな﹂ と至極円満な家庭だった。 しかし長い年月には多少険悪な雲行を見ないでもない。一両年前に津島君は一ちょ寸っとした不機嫌に委せて、 ﹁あゝ、詰まらない〳〵。いつまでたっても平社員だ﹂ と歎息した。 ﹁あなたは変な人ね。お酒を召上ると屹度不平を仰有るわ。平社員でも斯うして親子七人何不足なく暮して行ければ結構じゃありませんか?﹂ と細君は十数年の同棲でもう疾とうに対等の権利を獲得しているから、思ったことは何でも口に出す。時には意見めいたことまでも言う。 ﹁公私ともに面白くなければ稀たまには不平も出ようさ﹂ ﹁それでヤケ酒を召上りますの? 先ず公の方から承わりましょう﹂ ﹁十五年勤めて未だに平社員は腑甲斐ないじゃないか? 会社は人を遇する道を知らないから癪に障る﹂ ﹁それはあなたが御無理ですわ。昇進には順番てものがございますからね。いくらあなたの腕が好くても、上の方が詰まっていれば仕方がないじゃありませんか?﹂ ﹁それが待ち遠しいと言うんだ﹂ ﹁でも、皆さんの上る時には屹度上げて戴いてるんですもの、何にも不平を仰有ることはありませんわ﹂ ﹁お前なんかに何が分るものか。公私ともに不平だ。祖父め、あの時ウンと首を縦に振っていてくれさえすれば、俺わしは少くとも子爵になっていらあ﹂ と津島君は持病を起した。 ﹁オホヽ。又お株が始まりましたのね﹂ と細君はもう耳みみ胼だ胝こが寄っている。 ﹁世が世なら今頃は貴族院で幅を利かしていらあ﹂ ﹁…………﹂ ﹁それが何うだ? 出でては平社員、入っては……入っては……﹂ と津島君は対つい句くに窮した。 ﹁入っては何でございますの?﹂ ﹁何でもない﹂ ﹁何でもないことはありますまい。入っては同族からもっと器量の好い奥さんを迎えているのにという意味でございましょう?﹂ と細君は年甲斐もなく妙なところへ気を廻した。 ﹁然うまで具体的には考えていない﹂ ﹁いけ図々しいのね﹂ ﹁気に入らないかい?﹂ ﹁公私々々って、何のことかと思えば、人を馬鹿にしているわ﹂ ﹁世が世ならと言うのさ。華族なら何うせ華族から貰うから、お前よりも確かにもっと器量の好いのに有りついている﹂ ﹁然うでございましょうとも﹂ ﹁怒ったのかい?﹂ ﹁いゝえ。世が世ならですもの﹂ ﹁然う分ってくれゝば有難い﹂ ﹁その代り三人共始終一番で通すような子供は生れませんわ﹂ ﹁それは然うだろう。実際の話、家の子供が皆揃って成績の好いのはお前のお蔭だよ﹂ ﹁丁度三代目ですからね。あなたがお平の長芋で、奥さんも華族さんなら、低能児が五人も出来ていましたろうよ﹂ ﹁手厳しいね﹂ ﹁あなたこそ余っ程手厳しいわ﹂ ﹁何故?﹂ ﹁でも、私が平民で不器量だから、成績の好い子供が生れたと仰有らないばかりじゃありませんか?﹂ ﹁いや、然ういう意味じゃないよ。曲解しちゃ困る﹂ と津島君も無論それほどの料りょ簡うけんはなかった。 ﹁それじゃ何どういう意味でございますの?﹂ ﹁子供の教育の為めには矢っ張り中流の家庭が一番好いというのさ﹂ ﹁それなら初めから文句はないじゃありませんか?﹂ ﹁先ずない。子爵はもう諦めて、早く課長になることを考える﹂ ﹁それが地道でございますよ﹂ と細君の方が余程理性的だった。 津島君の子爵病は遺伝である。単独に責任を負うべき筋のものでない。厳げん君くんも可なり顕著な症状を示していた。 ﹁○○伯爵や△△子爵はその時県令になった連中だそうだよ。早く死んだ人は仕方がないが、大抵華族になっている。親父も一諾次第で富貴栄達思いのまゝだったのに、惜しいことさ﹂ と友達を相手に時折気焔を揚げたものだ。津島君は中学時代にそれを洩れ聞いて、未だ存命中のお祖父さんに当って見たことがある。すると老人も、 ﹁今更仕方がないが、時々惜しかったと思うよ。合点首一つしてさえいれば俺も今頃は津島子爵さ﹂ と来て、立派な患者だった。 王政維新後津島君のお祖父さんは藩公から或使命を受けて、東奔西走、席の温まる暇もなかった。その中薩長の有力者間に顔馴染が出来て、廃藩置県になった時、 ﹁津島氏、貴公は県令をやって見る気はないか? 今なら何うにでも計らう﹂ と材幹を認められた。 ﹁やっても宜いが、今直ぐは困る。丁度藩公からのお召返しで一寸戻って来なければならん﹂ ﹁藩公は後廻しにして、一つ承知して置け。廃藩になった上からは食うことを先に考えても申訳が立つ。貴公は年輩だから好いところへ振り向けてやろう﹂ ﹁いや、有難いが、然そう現金に君命を余よ所そにする次わ第けには参らん。出直して来てから、改めて頼む﹂ と律りち義ぎな津島氏は直ぐに中国筋の城下を指して発足した。 藩公お召しの御用向は何でもないことだった。 ﹁斯ういう時世になったからは今までの役目を解く。長々御苦労だったの﹂ との仰せ丈けだったから、こんなお沙汰なら書面で間に合ったものをと重役を恨むけれども、今更喧嘩にもならない。津島氏は再び妻子に暇を告げて、 ﹁今度は県令になって迎いに来るぞ﹂ と励ました。それから昼夜兼行、大急ぎで東京へ引き返して、 ﹁漸く閑散の身柄になって来た。ついては先頃の県令の口をお頼み致す﹂ と大威張りで申入れた。 ﹁津島氏、晩おそかった。何分もう一月余りもたっているから、悉すっ皆かり定きまってしまった﹂ という返答。 ﹁当方の勝手で手間を取ったのだから、贅沢は申さん。県令が満員なら、その直ぐ下役でも宜しい﹂ ﹁下役も満員だ﹂ ﹁その又下役でも結構﹂ と津島氏はダン〳〵下げて行ったが、 ﹁いや、真まことにお気の毒だが、役向は上から下までもう悉皆詰まって、邏らそ卒つが残っているばかりだ。邏卒じゃ厭だろう?﹂ とあった。 ﹁さあ。小しば時らく考えさせて貰おう﹂ ﹁邏卒も気の長いことを言っていると満員になる﹂ ﹁それでは二三日の中に返辞をする﹂ と津島氏は落がっ胆かりして引き取った。 邏卒は当時の巡査である。県知事から巡査とは余り酷い落ちようだから、津島氏も大分考えたが、背に腹は換えられない。結局、県令を振り出しに子爵まで進む筈のところを、一番下の邏卒から身を起すことに肚を極めた。日暮れて道遠し、もう四十を越していた。旧知己も閥外のものを引き立てる余地がなく身分が違えば此方も自然遠退いた。それで破格の抜擢もなく、漸く高等官の下っ端まで漕ぎつけたら、もう老朽になってしまった。思い出すと忌いま々いましい。その怨おん念ねんが息子に伝わり、孫の津島君に乗り移って、今だに晩酌の都度祟りをするのである。 ﹁寿一や、人間の一生には一度や二度必ず大問題が起って来る。その時巧く身を処せばドン〳〵出世する。やり損ねたが最後、もうナカ〳〵芽を吹かない﹂ と老人はその折シミ〴〵感想を洩らした。 ﹁真ほん正とうに然うですね﹂ と津島君は真白な髯を見詰めたことを忘れない。 ﹁一生の浮沈が定る。恐ろしいものだ。俺は大問題と小問題を取り違えてしまった。廃藩になれば、国許へ帰ることなぞは小問題だ。県令になって国に仕え家を興すのが大問題だった。考えて見ると俺は残念でならない﹂ ﹁僕も残念です。子爵は豪いものですね。学校にも子爵の子がいますが、毎日馬に乗って来ますよ﹂ ﹁子爵になると豪く見えるのさ。人間に差かわ異りはない。運だよ。あんな詰まらないことで、百何十里のところを呼び戻した重役共も重役共だが、一刻を争う時に、おいそれと言って帰って行った俺も俺さ。寿一や、前車の覆くつがえるは後車の戒いましめだ。お前にも将来必ず大問題が小問題の恰好をして来る。その時気を落ちつけて能く見分けをつけることが肝心だよ。お祖父さんのようにヘマな真似をしないで巧くやっておくれ﹂ と老人は生きた教訓を与えた。 ﹁必ず気をつけて出世します﹂ と津島君は盟ちかった。 しかし老人が苦に病んだ県令から邏卒へのガタ落ちも仔細に分析して見ると必ずしも全然的失敗でない。親としては子の出発点を少しでも容易にしてやれば、それで責任は果している。生存競争はリレーだ。一足飛びに子爵になって妻さい子しけ眷んぞ属くを決勝点まで連れ込んでしまうのは考えものである。登り詰めれば降りる外に道がない。津島氏は邏卒になった為め東京に定住して息子達を立派に教育することが出来た。長男、即ち津島君のお父さんは工学士で、或建築組の技師長を勤めた。建てた家は先頃の震災で大抵崩れてしまったが、それでも華族の長男よりは遙かに多く社会に貢献している。叔父さん達も矢張り民間だが、現に小成金が一人ある。津島君自身にしても、大学を好い成績で卒業して平社員ながらも前途を嘱しょ目くもくされている。然るに津島氏を呼び戻した旧藩の重役初め国元へ居残った連中は、その後士族の商法に手を出して、身上を失くしたものが多い。子孫は大抵昔よりも成り下っている。 さて、津島君はお祖父さんの教訓肝に銘じて、学校から社会へ出る早々、大問題の起るのを待ち始めたが、爾来十五年、未だ曽って、 ﹁津島君、君は一つ重役になって見る気はないか?﹂ と勧めてくれるものがない。然う一足飛びは無理だから、課長でも宜いいと思っているけれど、そのお鉢もナカ〳〵廻って来ない。有望がられる丈けに痺れを切らして、時々愚痴になる。その都度子爵病が頭を擡もたげる。 ﹁四十にして惑わずというから、可なり期待していたが、一向駄目なものだね﹂ と津島君は落胆した。 ﹁地位にさえ目鼻がつけば、三十五でも惑わない。要するに人生は待遇の問題だよ﹂ と同僚は更に明快な解釈を下していた。 ﹁然うさ。世が世なら初めから惑わない﹂ ﹁この頃は飲まなくても出るね﹂ ﹁それ丈け切迫しているんだよ。子供がドン〳〵大きくなる。始終追い立てられるような心持だ﹂ と津島君は大問題の到来を待ち焦れていたが、年一年と平穏無事が続いた。 その中に長男が一高へ入った。親としては無論満足だった。同僚達も、 ﹁君は上が男だから楽しみがある。僕のところは順々に呉れるんだから悲観する﹂ ﹁いや、男の子も津島君のところのようなら安心だけれど、僕の家のようじゃ女の子の方がいくら増しだか知れない﹂ と羨んでくれた。これも異存なかったが、長男が高等学校へ入るまでにはと、不惑この方密かに第二期を画していたものだから、 ﹁一体何うしてくれるのだろうな?﹂ と又急に痺れが切れ始めた。 ﹁君、この頃は滅多に不平も言えないぜ﹂ と入社以来机を並べている同僚の曽そや谷く君んが注意してくれた。 ﹁何故?﹂ ﹁馘く首びがあるってことだ﹂ ﹁それは聞かないでもないが、真ほん正とうか知ら?﹂ ﹁真正とも。確かな筋から出ている﹂ ﹁あれば何時だろう?﹂ ﹁一遍にやると目立つから、何時ってことはない。ポツリ〳〵だそうだ﹂ ﹁厭だね。散々待った上に馘首じゃ溜まらない﹂ と津島君は気味が悪くなった。 重役室の給仕が曽谷君を呼びに来たのは、それから半月ばかり後のことだった。 ﹁専務さんが一寸お出下さいと仰有います﹂ ﹁うむ? 僕かい?﹂ と曽谷君は意外の面持ちで確めた。平社員は重役室から一寸と来ると誰しも恐れを為す。狂言にもある通り、汝を呼び出す余の儀でない。香かんばしくない事に相場が定きまっている。精々上等のところで何か小面倒な調査を明日の今頃までになぞと言って仰せつけられる。然もなければお小言だ。罷り間違えば一番いけないことかも知れない。昇給は庶務課から辞令を交附される丈けで専務の手を煩わさない。曽谷君が手間を取るにつれて、親友の津島君は不安になった。三十分ばかりして帰って来た時、突然、 ﹁何うだったい?﹂ と訊いて見た。 ﹁長々お世話になりましたが……﹂ ﹁馬鹿を言うなよ﹂ ﹁いや、イヨ〳〵今度は……﹂ ﹁真正かい?﹂ ﹁冗談だよ。君、実は芽を吹いた。後から話す﹂ と曽谷君は周囲を憚はばかるように囁いた。 ﹁津島さん、専務さんが一ちょ寸っとお出下さいと仰有います﹂ と又重役室の給仕が現れた。津島君は曽谷君と顔を見合せた。 ﹁悪いことじゃないよ﹂ と曽谷君は給仕を見送りながら保証した。 例によって葉巻を銜くわえて、鬼瓦の従弟のような顔をしていた老専務は、津島君のお辞儀に対して、 ﹁さあ﹂ と椅子を指さした。 ﹁はあ﹂ と津島君は腰を下して様子を窺った。 ﹁一つ君に考えて貰いたいのだが……﹂ とまで言って、専務は噎むせ返った。ゴホン〳〵と苦しそうに咳き込む。喘ぜん息そくが持病なのに葉巻を放さない。津島君は吉か凶か未だ分らなかった。 ﹁……長崎の支店が明くが、君は九州くんだりまで行く気があるかね? 厭なら、庶務課の方へ廻って貰っても宜い。何方にしても後半期からのことだが、予あらかじめ意向を伺って置きたい﹂ ﹁はあ﹂ と首丈けは心配無用になった。 ﹁つまり支店次席と本店の課長さ。君には長いこと辛抱して貰った﹂ とその次が誂え向きだった。 ﹁いや、何う致しまして﹂ と津島君は軽くお辞儀をした。イヨ〳〵時節到来、大問題に繞めぐり合った。 ﹁家庭の都合もあるだろうから、即答には及ばない。明日まで考えて見てくれ給え﹂ と専務は気短かで、何でも明日までだ。津島君はもう少し詳しく説明して貰いたかったが、相手がそれきり黙ってしまったから取りつく島もない。 ﹁種いろ々いろと御配慮有難うございます。それでは明日、いや、明日は日曜ですから、明後日御返辞申上げます﹂ と答えて退出した。 ﹁早かったね。何うだい?﹂ と曽谷君が待っていた。 ﹁長々お世話になりましたが……﹂ ﹁人の真似をしても駄目だよ。顔の筋肉が悉すっ皆かり緩んでいる﹂ ﹁矢っ張り分るかい?﹂ と津島君は相そう好ごうを崩した。 ﹁兎に角宜かったね﹂ と二人は二十年近く待った甲斐があった。 その夕刻、津島君は、 ﹁お琴や、イヨ〳〵大問題が起ったよ﹂ と玄関で靴を脱ぎながらもう報告に及んだ。 ﹁厭でございますよ。俸給でも落して来たんじゃなくて?﹂ と細君はもう悉すっ皆かり見みく括びっている。折から俸給日で特に出迎えたのだった。 ﹁冗談じゃないよ。真正の大問題だ﹂ ﹁あなたの大問題は二三日たつと皆小問題になるから安心ですわ﹂ ﹁いや、お祖父さんで懲りているから、大だい切じを取って何でも一応大問題と見做すことにしているが、今度という今度は初めから大問題だよ﹂ と津島君は専務から申渡された通りを伝えて、二三註解を加えた。 ﹁嬉しゅうございますわ。真正に大問題ね。次席なら、今度は支店長に決っていますわ﹂ と細君もイソ〳〵した。一流会社の支店長は二流会社の重役に当る。 ﹁出世の道が開けたというものさ。支店長になっていれば重役のお鉢が廻って来ないにも限らない﹂ ﹁子爵より宜うございましょう?﹂ ﹁子爵は唯でなれているんだから矢っ張り惜しいよ﹂ ﹁いつまでも諦めの悪い人ね﹂ ﹁冗談は兎に角、長崎は遠いぜ﹂ ﹁江戸長崎といって、日本の果でございますからね﹂ ﹁東京よりも上シャ海ンハイへ近いようだから考えさせられるよ﹂ と津島君は迷っている。 ﹁せめて神戸ぐらいならばね﹂ ﹁神戸へは曽谷君が廻される﹂ ﹁まあ。矢っ張り次席ですの﹂ ﹁然うさ。近い代りに選択の余地なしだ。あの方が考える世話がなくて宜い﹂ ﹁あなた、課長からは支店長になれませんこと?﹂ と細君は今まで課長が目標だったが、もう慾張り始めた。 ﹁なれるさ。課長と支店の次席は丁度同じような格式だ﹂ ﹁それじゃ課長が宜いわ﹂ ﹁しかし支店次席も悪くない。本店で定り切った仕事をしているよりも支店の方が認められ易い。課長で終るものはあるが、支店次席でお仕舞いになるものはない﹂ ﹁それじゃ支店次席が宜いいわ﹂ ﹁しかし子供の教育ってことがある。清も一高へ入ったし、滋も再来年だろう? 長崎には高等学校がないから、皆離れ〴〵になってしまう。これからが大だい切じの時だからね﹂ ﹁何年ぐらいで帰って来られますの?﹂ ﹁支店廻りを始めたら一生さ。重役にでもなれば兎に角、まさか平社員で帰って来られまい﹂ と津島君はもう平社員を見限ったような口調だった。 ﹁女の子達は皆田舎の女学校を卒業するんでございますわね?﹂ ﹁然うさ。縁談も田舎だ﹂ ﹁あなた。矢っ張り課長の方が宜うございますわ﹂ と細君は定見がない。 ﹁まあ〳〵、今夜ゆっくり相談しよう。専務が何方か選べと言うのだから意味があるに相違ない。気を落ちつけて能く見分けろってのはこゝだよ。お祖父さんのように取り逃しちゃ大変だ﹂ ﹁お父さん、イヨ〳〵大問題ですか?﹂ とこの時長男が勉強部屋から出て来た。もう丁年に近いから、一端ぱし相談相手になる。 津島君は一晩考えて課長の方に傾いた。翌日曽谷君がやって来て、 ﹁僕が君なら些っとも迷わないよ。子供の教育の為め当然東京に踏み止まる﹂ と言って庶務課長を羨ましがった。 ﹁僕も略その方針だが、斯ういう大問題は将棋の手見たいに先の先まで考えて置く必要があるからね﹂ ﹁いや、平社員は兎に角、水平線から上は機会均等で唯寿命の問題だよ﹂ ﹁寿命の問題とは?﹂ ﹁長生さえすれば重役になれる。西さんでも神林さんでも見給え、老いて益盛んな丈けで、他に何の取柄もありゃしない﹂ ﹁それは然うだね﹂ ﹁しかしそこが矢っ張り貴いんだ。六十を越して若いものと同じに働けて而も会社の仕事を一から十まで知っているって人は他にないからね。つまり生存競争の勇者さ。お互もこれからは健康第一だよ﹂ ﹁大いに自愛して長生を心掛けるかな﹂ ﹁水準以上に出れば特別のヘマをやらない限り寿命が問題を解決してくれる。何処にいたって同じことさ﹂ ﹁君の説に従って踏み留まろう﹂ ﹁当り前さ。僕のように頭から命じられたのとは違う﹂ ﹁昨日から随分迷ったが、もう動かないぞ﹂ と津島君は決心がついた。 爾来十有余年、津島君はもう津島さんだ。君呼ばりをするものは社長以外に二三人しかいない。庶務課長から支店長を経過する面倒もなく、そのまゝジリ〳〵と根を張って、今は押しも押されず、平重役の班に列している。妙に廻り合せ好く上役が逐ちく年ねんパタリ〳〵殪たおれたので後の出世が速かった。曽谷君の理論が実現した次第だけれど、本人は死んでしまったから何にもならない。津島さん独り巧いことをした。家庭に於ても男の子が三人とも大学を卒業し、女の子も一人片付いてもう一人は目下縁談中である。出でては平なりと雖いえども重役、乗るに自動車あり、入っては細君の丸髷が小さくなった代りに家屋敷が大きくなって子孫繁昌和気靄々、子爵病も疾とうの昔に忘れてしまった。一杯やっても晏あん如じょとして、決して愚痴を零こぼさないのみならず、 ﹁諸君に処世の秘訣を伝授しようか? それは不平を言わないことである。不満足という怪物はこれを口から外へ出すと自他ともに不愉快を感ずる。然るに胸中に監禁して置くと自然の裡うちに消滅する。瓦ガ斯スのようなものさ﹂ と後輩を諭す。 ﹁何うも世間一般が神経過敏になって来たようだね。この頃の若い連中は余り真剣過ぎはしなかろうか? 我輩の見るところをもってすれば、近代人の煩悶は小問題を大問題と取り違えることにある﹂ なぞと言って納まり返っている。 津島さんが会社の倶楽部へ姿を現すと後進が彼あっ方ちこ此っ方ちから寄り群たかる。頗る人気が好い。衣食足って大悟一番しているから、片言隻句真まことに能く凡俗に通じる。尚おこの重役の訓話と社長の義太夫を聴くものは昇給が早いことになっている。 ﹁何うなったね? この間の人生問題の続きは、未だ煩悶が残っているなら、及ばずながら相談に与かろうか?﹂ と津島さんは必ず誰か捉まえる。 ﹁煩悶は到底免れませんな。この頃或本を読みましたら、煩悶は近代人の特権なりと書いてありました﹂ ﹁要するに煩悶だらけです﹂ なぞと答えても、そこは重役の前だ。俸給が少くて煩悶すると具体的に言い切るものはないから始末が好い。 ﹁不平煩悶、時を距てゝ顧れば皆一場の夢さ。後から虚心坦懐に考えると、皆取るに足らない小問題だよ。それを君達は一々大問題と思い込んでヤキモキするから苦しくなる。一生の大計に関係するような大問題は滅多に起りゃせん﹂ ﹁しかし当座は誰しも然そう思いません。私は昨日歯医者へ行きましたが、矢っ張り痛かったですよ。重役の御教訓を応用して小問題だ小問題だと思っていましたが、涙がポロ〳〵零こぼれました﹂ ﹁しかしこれから十年もたって見給え。何故あんなことが痛かったろうかと不思議になるよ﹂ ﹁十年後まで身に沁みるようじゃ敵かないません。高が歯一本ですもの﹂ ﹁その歯一本さ。歯一本と真ほん正とうに悟れば、虚きょ心しん坦たん懐かい光こう風ふう霽せい月げつ抜いて貰いながら所得税の申告も書ける。そこまで行かなければ駄目だよ﹂ と津島さんは他ひとのことだと思って、随分無理な註文をする。 ﹁理想は確かにそこでしょうが、現実は明日も行かなけりゃならないので今から苦にしています﹂ ﹁子供のようだね。何うも我々は苦痛を想像力で拡大する傾向がある。然う〳〵、我輩はこの間寝ていて不ふ図と子供の時のことを思い出したよ。散髪に行くのが苦になったことさ。その頃は未だバリカンてものがなかった。今考えて見ると、糸切り鋏でジョキ〳〵やったんだね﹂ ﹁一体いつ頃ですか?﹂ ﹁明治十四五年頃だったろう。道具が悪い上に下手と来ているからチクリ〳〵と痛いの長いのって、一種の難行苦行だったね。これから何年生きてるのか知らないが、毎月一度ずつこんな目に遇うんじゃ遣り切れないと子供心にも考えたよ﹂ ﹁僕はバリカンでも厭やでした﹂ と切れ目〳〵に必ず然るべく相槌を打つものがある。 ﹁然そうだろう。ところが昨今は何うだね? 散髪に行って綺麗になって来るのが楽しみじゃないか? 我輩は老人だから諦めているが、諸君は励みがある。散髪屋へ行った翌晩あたりはカッフェで持てるだろう? 少くとも確信があらあね﹂ と津島さんは穿うがったことを言う。皆笑わざるを得ない。 ﹁重役の処世訓は確かに御体験から来ていますな?﹂ ﹁我輩の時代にはカッフェなんかなかったよ。しかし矢場があった﹂ ﹁いや、真面目な話ですよ。私は重役の処世訓を自分の経験に照らし合せて見て、思い半ばに過ぐるものがありました﹂ なぞと申出る篤志家があれば、話は益はずむ。 ﹁これは有難い。何ういう工合だね?﹂ ﹁この会社へ入る時のことですが、人物試験を受けてから採用発表までの心配ったらありません。迚とても駄目だと思ったです。ところが入ってしまうと斯うなるのが当然のようで、何故あんなに煩悶したのか、自分ながら可お笑かしくなります。あの一週間は神社仏閣の前を通ると、必ずお辞儀をしたものです﹂ ﹁万事然うさ。要するに成る様にしか成らないんだから、成功失敗とも後から顧みると、煩悶丈け正に持ち出しになっている。それだから人事を尽して天意を俟つんだね。長い一生だもの、足掻かなくても何うにか斯うにか心掛けている通りになる。万事会社に委せて勉強するさ﹂ と大抵石の上にも三年へ落ちつくが、実は津島さんのような都合好く先輩に死んで貰えた人は珍らしい。 土曜の晩は倶楽部が賑う。娯楽を通じて相互の親睦を計るようにと申渡されているから、新しい社員はその当座勤務の一端と思って詰めかける。年寄株は碁将棋、若い連中は玉突と大体定っている。 ﹁おい〳〵、津島さんの恋愛談があるから来給え﹂ と玉突台のところへ態わざ注進に来たものがあった。部屋の一隅では津島さんが、 ﹁その娘さんと我輩が互に憎からず思い初そめたのさ﹂ と二三人を相手にもう本論に入っていた。 ﹁大だい切じのところですから、もっと詳しく願えませんかな?﹂ と進行係は惜しがった。 ﹁隣り同志だろう? まあ〳〵、その辺は曖あい昧まいにぼかして結果丈け話そう。年甲斐もないなんて碁打連中から苦情が出ると困る。此方は未だ大学へ入ったばかり、先むこ方うはもう女学校を出ているんだから、何分年齢が近過ぎる。そこらの碁打のように、待ってくれとは言い悪にくい。先方もその辺を考えたのか、間もなく余よ所そへ嫁に行ってしまった﹂ ﹁失恋ですな﹂ ﹁悲観したね。世の中が暗くなったよ。実に一生の大問題だと思った。ところが今考えて見ると、その娘は肺病だったんだね。片付いて一年とたゝない中に血を吐いて死んでしまった﹂ ﹁ブロークン・ハートじゃなかったですか?﹂ ﹁そこは分らん。しかし隣りの奥さんが我輩に娘の死亡を伝えて、涙をポロ〳〵零こぼしたところから察すると、多少そんな傾向があったのかも知れない。我輩も元来木ぼく石せきじゃない。漫そぞろに哀れを催して、或日曜に墓詣りをする積りで出掛けた﹂ ﹁小説ですな﹂ ﹁ところが雨が降って来た﹂ ﹁それから何うなさいました?﹂ ﹁やめたさ﹂ ﹁不人情ですな﹂ ﹁仕方がない。さて、我輩がこの娘さんと結婚していたら何うだったろう? それこそ大問題だ。一生不幸になっているに相違ない。不幸と思ったことが却って幸福になることもあれば、幸福と思うことが却って不幸になることもある。つまり現在のことは過去になって見ないと内容の価値が分らない。そこで余り重きを置くのは考えものだというのさ。若もし我輩の理性が弱かったら、その娘さんの結婚の為めに自暴自棄に陥って、或は自殺をしていたかも知れない。ところが健康からいうと、その娘さんは貰っても仕方のない廃物と来ている。実に危い話さ﹂ ﹁重役、近代人はそんな打算的な恋愛はしませんぜ﹂ ﹁矢っ張り死ぬかね?﹂ ﹁死なないまでも、雨が降って来たから墓詣りを見合せるなんてことはありません。それでは恋愛でなくて商取引です﹂ ﹁大分評判が悪いぞ。矢っ張り時代が違うかな。ハッハヽヽ﹂ と津島さんは若いものと能く打ち解ける。何処までも後進誘導役だ。 社長も社員の訓育を一に津島さんに委せている。新採用の社員は出勤の第一日に先ず社長から形式的の訓辞を受ける。それに続いて津島重役が約二時間に亙って広長舌を振う。これが近頃年中行事になってしまった。折しも学校卒業期に際し、帝大慶大を初め専門学校、甲種商業学校の卒業生が四十何名か採用試験に合格して、明日からイヨ〳〵社員としての勤務を始める。
新入社員諸君は午前九時階上会議室に集合せられたし
入社式順序
訓辞
小山社長
講演「小問題大問題」津島重役
(昭和二年六月、現代)